
《Photo “ポルトガルの月空”》
小学校2年生の長男が、友達のA君と一緒にB君の家に行こうと約束をした。A君は学校から家が近いので、息子よりずっと早く帰宅。待ってるねと電話をしてきた。でも、待っていられなくなったらしく10分後くらいに「先にBくんちに行ってるね」と電話してきた。でも、その後、息子が帰ってきて「B君の家への行き方が分からないから、一緒に行こうって約束したのに!」とのこと。で、息子はBくんに電話をして、誰かに近所の公園まで迎えに来てと頼んでいた。すぐに飛び出していくかと思っていたのに、なにやら電話でもめている。そっと聞き耳をたてたら、どうやら友人達は遊び始めてしまっていて、それを中断してまで、息子を迎えに来るという人はいないらしい。(そりゃそうだ)息子はしばらく、来て欲しいと頼んでいたようだったが諦めたらしく、ちょっと怖い声で「最後にAを出して」と言い「Aは僕に嘘をついたってことなんだね」と、えらく大人びた口調で言って電話を切った。そして、その場でしばらく沈黙…。私は聞かなかった振りをして「どうしたの~?」と普通に聞いたら「遊べないんだって」と半べそをかいて抱きついてきた。
あ~びっくりした

それを見ていたら、色々と思い出してしまった。
私は小学生の頃から夕日を見て泣いてしまうような子供だった。夕方、夕日が家々の屋根を照らしている光景を見ていると、何とも言えない寂しい気持ちになってしまう。たまらなくなって、泣いてしまったりする。なぜか、ここは自分の本当の居場所なんだろうかとか思って、一つ二つと灯りのともっていく家々を見ながら、あの一つにいつか、なりたいとか思ったりする。今思えば、しっかりとした親の愛情に包まれながらという状況の中で感じていることだから、真の孤独なんて、そんなものじゃないって笑われてしまう程度のことなのかも、とも思う。でも、その時の私の精一杯でそう感じていたのは確かだし、感じてしまうものは止めようがない。そんな私だから、友人にとっても重い存在だったと思う。遊びに行ける日は一週間に一度というルールがあったから、その一日は私にとって、とても大切な日だった。それこそ命がけで情熱の塊のような顔で“Aちゃん、一緒に遊ぼう!”と誘っていたと思う。そういう約束が果たされないと、それはそれは孤独な気持ちになった。大人になってからも、何かの折に、この人は私が感じるほど深くは感じない人なんだな、とか、私はすごく傷ついても、そこまで考えて言ってるんじゃない、考えられない人なんだな、とかいう人に出会う。だからって変化球で感じる相手もいるから、やはり相手も感じていると思って対処するに越したことはない訳で。本当に難しい。だから人とはなるべく関わらないって方向へ逃げるのは簡単。その逃げ場所にもなっているインターネットという仮想の世界を作ってしまった私達は、自分たちで自分たちの首をしめているんじゃないか?って不安になる。
それはさておき、今の私は騒がしい子供たちに囲まれて、孤独はむしろ贅沢とさえ思うようになってきた幸せ者だ。でも、家族を持つまでは事あるごとに孤独と向き合った。それは時には、自由に限りなく近い前向きな孤独であったし、時には抜け出せないのではないかという不安で眠れないほどの重圧であったり。
詩人は孤独 孤独だからこそ詩人。
感じすぎると生きていくのが辛い。
でも、だからこそ 人生は美しいと思える瞬間もある。
たかが小学校2年生のたわいない日常なのだけど、息子にかつての自分を見た気がしてしまって、親だからとかそんなことではなく、“あ~あ…そんな感じすぎてると、生きていくのが辛いぞ~。頑張れよ~”と、同志のような気持ちになってしまったのでした

大人になると、そうゆうことがあっても、自分の気持ちに気付かない振りをして、平気~って顔をして、そのくせすっごく引きずって・・・
子どもは、仲直りの天才だ
人と深く関わるほどに、傷ついたり、寂しい思いをすることもあるけど、分かり合えた時の喜びは大きい
ひび君とA君は、きっと大の仲良しになりますね