
夫のいるお寺の市民座禅会に初めて参加してきました。母や妹は、何度か参加していたけれど、私は子供を誰かに見ていてもらわないといけないので、なかなかチャンスが無く、夫の修行期間もそろそろ終盤に近づいているので、母が子供を見てくれることになり三女の富美子と行くことにしました。朝5時に起きたら、まだ外は真っ暗!月がとっても綺麗でした。6時に家を出たけれど、まだ薄暗くて月を横目にi Podでチャック・マンジョーネのFeel So Goodを聴きながら…本当に朝焼けが綺麗で音楽も最高だし、それだけでももう満足の境地…いやいや、いかん


坐禅というものは自分を無にすることが目的…でも、私は坐禅をしながら、格子窓から差し込む光の位置がどんどん変わっていくのを見て、こうやって時間は流れていくのだとか、警策を持って歩いている在家の方の足が妙に綺麗だとか、妙なことに感心したりしてしまって…。“無になる”という点においては、私の音楽に取り組む姿勢と同じ。私にとっては、ピアノを弾く方がよっぽど無になれるなあとしみじみと思ってしまいました。…なんて言っても、心が無になれても、それがそのまま演奏に表れるか…それは、すぐには無理なので練習するのだと思います。合致させるために。それを座るだけでやろうとするなんて、尊敬に値する!って思ってしまいました。でも絶対、自分を無にする(=自然と一体になる)という意識は、生きていく上で、とても大切な事だと思います。その手段は色々あって、一人一人ちがうと思う。夫が桜の舞う中での坐禅、月夜の坐禅がとっても気持ち良かったと何度か言っていたのを聞きました。その気持ちよさを感じることも貴重だし、ただ座って無になるということすら出来ない、不甲斐ない自分を感じることも貴重だし…。ぜひ皆さんも体験してみてはいかが?


突然、少し前の日記にコメントしてすいません。
座禅はだいぶ前から、少しですが関心がありました。というのをMIXIの方に書いたと思いますが、ようやくやる気になり、この桜の季節、今週末に全生庵さんで体験してみることにしました。
私のような者が参加して良いのか、気がひける部分もありますが、とりあえずなんでもやってみないと!(笑)
せっかく谷中に住んでることですしね。
自分を見つめる良い機会になれば…と思ってます。