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エマー仁の趣味

旧車や史跡等?ドライブ、魚釣りについて時々気ままに適当な・・・

ゲーリー 光永氏 の記事 1.

2010年03月16日 | 旧車
約1年前、かすかな記憶の氏のことを書いたが、その記憶の基となった雑誌が出てきた。

部屋が狭く、CAR雑誌は大体処分したので、残ってたのが不思議だったが懐かしく、ぺラペラとページをめくると、その記事があった。

以下、その記事を抜粋する。


1982.6  OOOOOO誌  ヒューマンドキュメント    ○○ ○○(ライター氏名)

「ただひとつのことに人生の的をしぼり、ひたすら生きた男の熱き魂をわかってほしい_。」

81年11月17日、OPTION主催矢田部最高速テストで彼が心血をそそいだ真紅のパンテーラは307.69km/hという文字通り前人未踏の記録をたたきだした。
 が、わずかその12日後のことである。興奮の余韻がさめる間もなく、彼は愛車パンテーラとともに帰らぬ人となった。
 万感の思いを込めて、この一篇を今はなき彼、ゲーリーA・光永氏に捧げたい。  OPTION

赤豹、閃光のごとく・・・・・

△白いサバンナ

 走り抜けた男がいる。
一生懸命クルマを愛し、仕事を愛し、妻を、子を愛し、ギラリと鋭利な刃物に似た、美しくも鮮烈な光輝を放ち、ひたすらに生き急いだ男がいる_。
 ゲーリー・アラン・光永、昭和20年2月21日、米ハワイ州オワフ島生まれ。日系三世。
 パール・ハーバーを見下ろして育ったゲーリーは、小さい時から気の強い、やけに気の強いワルガキだった。両親は二人とも熊本県生まれの日系2世。したがって国籍こそアメリカながら、ゲーリーの体には純粋の日本人の血が流れていた。それもきっぷの良さと意地の強さで鳴る、肥後もっこすの血が。
 7歳の時、軍属の父に従い一家揃って来日。ゲーリーは弟と共に練馬のアメリカン・スクールに通う。日本での生活とはいいながら、日常、日本語を喋る機会や、日本人の友をつくるチャンスはあまり無かった。
 長じて、カルフォルニア大学、ハワイ大学、上智大学と転々。好学ゆえというより、どうやら権威、権力に対しても臆することなく立ち向かう性格の生んだ結果らしい。
つまり平たく言えば、教師や学校当局と衝突し、いずれも中途退学を余儀なくされたというわけだ。
アメリカン・スクール時代にも、授業中に教師が怒ると「オーケー!」と涼しい顔で外に出てってしまっというゲーリー。肥後もっこす面目約如の転々なのである。
 幼いころより、一貫して強く引かれるものがあった。クルマである。すべてに徹底せねば納得しない性格のこの男、免許を取る年齢に達するや、一途にのめり込んでゆく。青春の歓びも苦悩も、汗も涙も、すべてはただ”クルマ”の一点へと収歛された。
 ”ゲーリー・A・光永”の名が、同好の間でボチボチ知られるようになるのは7、8年前からである。当時、立川基地で盛んに行われたゼロヨン大会にゲーリーは白いサバンナを駆ってよく姿を見せた。形式12Aエンジンは、サイドポート6ミリブリッジにチューンという。今考えればそれほどハード・チューンでもなかったが、それでも当時のレベルではトップクラスにあった。
 優勝をはじめたびたび上位入賞をはたしたが、ゲーリーはそんなものでは満足しなかった。クルマでの走りを趣味とする以上、誰よりも速く、つねに無敵でなければならない_それが彼のテーゼだった。美意識ですらあった。中途半端な満足や妥協は、己の趣味に対する冒涜しいては自分自身の生きざまをも否定することになる_ゲーリーの思想ではそういうことになるのだった。
 このサバンナでの約2年間のゼロヨン・トライ時代、いわばゲーリーのクルマ人生における揺籃期に、彼はいくつもの重大な出会いをする。


今日はここまで  ^^;  抜粋とは言ったが何となくライターに悪いような気がしたので、原文をほぼそのまま移したんだけど・・・次回からは自分語に翻訳したい。 ご容赦を・・・   ^^;

他人の記事など出版物をブログに書くのは違法なのだろうか? よく分かんないけど、もしそうなら関係者、ご指摘ください。即刻削除しますので・・・・



前回の続き

△白いサバンナ  (後編)

後に終生の友、ライバルとなっていく走り屋仲間、雨宮勇美、大川光一、高橋豊造らと知り合ったのもそのひとつだ。「やけに速いサバンナがいるので自然注目するようになった。勝負は勝ったり負けたりかな。ゲーリーはもともと無口だし、それにそのころはまだ日本語もあまりうまくなかったせいか、互いにあまり口を利くことは無かった。でもゲーリーも実は相当オレを意識していたようだった。会社の自分のデスクにオレの写真を貼って、このヤロウこのヤロウとペンで突っついていた なんて話をのちに聞かされたよ。負けず嫌いのゲーリーらしいよ。おかしいじゃない、一流会社のバリバリのビジネスマンが、まるでガキみたいに・・・・。でもそれがいかにもゲーリーなんだなぁ。」
 雨宮勇美、35歳。いわずと知れた、277.45km/hというどえらい記録をうちたてた国産最速マシン雨宮RX7ターボの生みの親である。雨宮は立川ゼロヨン時代以降もずっと国産マシン一筋だ。したがって、アメリカンV8へと移っていくゲーリーとは真正面からぶつかり合うライバルではなく、文字通り良き友としての関係が続いてゆく。
 もう1人忘れてはならない男がいる。「オレの走りや人生はマサルのおかげだ。マサルゆえのゲーリーだよ。」とみずらをして言わしめた。その右腕ともいえるメカニックのマサルの存在である。
「オレは世間で言う暴走族だったよ。とにかく走るのが楽しくて仕方なかった。それと自分の手でメチャクチャ速いクルマをつくってみたかった。オレは整備屋だね。そのころゲーリーと知り合ったんだ。互いの家も近かったし、ゲーリーは半端じゃない根っからのカーキチだったし、オレたちはすっかり意気投合しちまった。それからはもう、1週間になんども顔を合わせ・・・・。ゲーリーからはずいぶん勉強させてもらった。原書を訳してもらい、本場の最高のチューン・テクニックを学んだり・・・・」
 語るマサルの口は重い。無理も無い。二人は時に同志、親友、兄弟であったのだ。マサルはこうも言う。
「ゲーリーにはついて行けなかったたよ。あんなに一本気なヤツ、オレは知らないよ。最速マシンをつくる、ゲーリーはその夢とモロにサシで向き合っていた。自分の趣味とあんなに命がけで勝負するヤツ、オレはしらないよ、オレはついていけないよ。」
 マサルの口調には、血を吐くような響きがある。一見突き放すような言葉の中に深い愛惜がある。同時にこのセリフ以上の、ゲーリーに対する賛辞はない。
 ゲーリーが最愛の伴侶と知り合い、結婚するのもこの頃のことだ。
「職場結婚だったの。あたしはクルマのことなんて全然知らなかった。ただ危険な趣味くらいの認識しかなかった。結婚すれば収まる、くらいに軽く考えてた。でもあの人が、どれほど真剣にクルマを、スピードを愛していたかは、じきにわかったわ。わたしは素晴らしいと思った。自分の夢を一心に追い続けているあの人を、男らしいと尊敬したわ・・・」

以下次回
 

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