「マネしないでよ。」
私は一時期まねされることにムキになっていた。怒る…というよりは怖かった。自分の存在が脅(おびや)かされる気がした。その感情を今もうまく説明することはできないけれど、わかったことは、その頃の私にはなにひとつオリジナリティなんて無かったということだ。私も誰かの“マネ”をしていて、それを自分だと思い込み、その場所を誰かに取られることを恐れていた。自分自身を他人の虚像で塗りたくっていることに気持ち悪さを感じていたのかもしれない。
去年一年間で取り組んだことがある。それは小さくてもいいから毎月旅をして、年12回を達成するという目標だった。ただの遊びと言えばそれまでだけれど、ひとつの旅を終えるとあっという間に翌月がきて、すぐにまた次の旅の計画を立てなければいけない。行き先をただ闇雲に選ぶのではなく、小さくてもまだ経験していないことに挑戦をしたい。行きたい場所というよりは、呼ばれている気がする方向へ向かうことを大切にした。その先に自分が求めていることがあり、それはすなわち自分に足りないものであり、必ずアイデンティティの確立へ繋がるはずだと信じた。
この頃になると、私は自分がただの“まねっこ”であるということを認めていた。むしろ人のまねをすることが得意だったことを思い出した。いっそそれを受け入れて流れ流されたらどこまでいけるのだろう?と、そんな自分に興味が湧いた。明日からの12回分はその旅についてひとつずつ書いていこうと思う。
今日、洗濯物を干しながらイアフォンで郡上踊りの音を聞いていた。気が付いたら部屋の中でひとりだらだらと汗を流しながら「春駒」を踊っていた。その最中に夫が仕事から帰宅し、ソファで休憩する夫を櫓(やぐら)にして踊った。なんと難しいステップなのだろう…と、何度もYoutubeを見返した。まさしく“まねっこ”である。
そもそも人間はまねっこで“人”になっていくのだ。言葉だって、食事だって、絵だって、スポーツだって、郡上踊りだって。まねをしながら好き嫌いを見つけて、技術を身に付けて、その先にオリジナリティがうまれて、アイデンティティが確立されていく。マネができなければ、新しいことはできないのだ。そして、好きな人や好きな事のまねをすることはとてもとても楽しいことなのだ。
好きなアーティストのファッションをまねしたり、映画のセリフを口にしてみたり、好きなキャラクターを描いてみたり。どんどんまねをして、影響されて、影響の先へ進んでいけばいい。こんな簡単なことに気付くのに39年もかかった。でもいい。自分の愚かさを認めて受け入れることができたとき、新しい感情がうまれた。負けを認めてプライドを捨てて、拒んでいた世界へと飛び込んでいく。人にどう思われてもいい。私だって人のことは好き勝手思うし、好き勝手言っている。だけど、人のことをどうこう言うだけで何もしないでいる自分は最底辺だ。欲を言えば、“マネの先”へ行きたい。自ら作り出せる人になりたい。今更だろうと今からだろうと、これからなりに。
希望で躰(からだ)が破れそうである。
海鷂鳥
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