クタバレ!専業主婦

仕事と子育て以外やってます。踊ったり、歌ったり、絵を描いたり、服を作ったり、文章を書いたりして生きています。

グレーを求めず、曖昧さを捨てる

2023-05-29 17:35:00 | エッセイ

今日はもう無理だと思った。身体がだるくて動かない…それなのに午後に対面式での英語の体験レッスンを入れていた。昨日オンラインの中国語の体験レッスンを受け、その後に復習とそこから寝るまで英語の勉強をした。頭の中では常に英語と中国語が交互に流れていて、飲食店での日本人同士の会話まで外国語に聞こえる。耳も脳も心も身体も疲労している。ボイストレーナー時代に悪くしていた左耳の不調も出ていた。

 

結果的に、行った。そして、行ってよかった。もし疲れた、辛い、という理由で今日というチャンスを逃していたら、私はまた他のことにも自暴自棄な態度をとっていただろう。今日は英語オンリーのレッスンだったので体力も気力も消費した。帰ってきて冷凍してあったミートソースをうどんにぶっかけてかき込み、立ったままバナナを食べて、急いで洗い物を済ませた。

 

その後、外国人に日本語を教えるボランティア2件に問い合わせをしてブログを書いている。これが終わったら夕飯の支度をして、身体をストレッチして、夫が帰ってくるまでできる限りの勉強や今後の生活のスケジュールを立てる。

 

言葉が通じないことはとても不安だ。私がもし外国へ行って勇気を振り絞ってその国の言葉で話しかけたとして、通じなかったり冷たくされたらどう感じるだろう?悲しいし、その人の態度がすごく嫌な態度だったら、その国に対するイメージまで下がってしまうかもしれない(私がセンシティブ過ぎる所為もある)。私の住んでいる地域でもたくさんの外国人を見かける。コロナが落ち着いてからは特に増えた。ほとんどの場合が自分達の仲間と群れているだけで、周りの日本人と関わる様子はない。

 

ある英語の先生が言っていたが、彼らが自分から日本人に話かけることは滅多にないらしい。日本人が英語が苦手であること、日本人があまりオープンではないことを知っているからだそうだ。そんな中でよく外国人に道や事を尋ねられる私は、もう運命なのだと思う。私は既にもう何度も呼ばれているのだ。そこに何があるかはわからないけれど、向かっていってみようと思う。自分も外国語を勉強しながら、自分の持っている言葉を人に伝えたい。日本という国で安心して楽しく生活して欲しい。そして、私がいつか外国へ行く時は、どこかの国の誰かが私と一緒に楽しく過ごしてくれることを期待している。そこで日本の言葉や歌を教えたい。お互いの国のことや食べ物を持ち合って、色んな国の言葉と音楽で、踊ったり笑ったりしたい。

 

そしてイエスかノーをはっきりと言いたい。日本人は曖昧さを好むけれど、英語を話すならはっきりとそれを言わなければいけないと言われた。先にイエスかノーを答えてから自分の説明をすること、答えないということは「興味がない・意見がない」とみなされる。聞かれて10秒以上返事がなければ会話がそこで終わる。何でもいいから声に出すことだと言われた。私はこの日本にいて極端な考え方を直した方がいいと散々言われてきたけれど、そもそもそれが私の性格にはどうしても合わない。自分の気持ちや考えがハッキリとあるのに、そこに対してわざわざグレーさを求めるってどういうこと!?と、不思議で仕方ない。その理由はただ一つ、そうしないと日本で生活するのがとても難しいからだ。だけど私はもうそれをしたくない。イエスかノー、シンプルに。

 

これを書いている間に返信があったので、明後日早速日本語ボランティアの会場へ足を運んでみたいと思います。理由はひとつ、“気になるから”です。

 

— 海鷂鳥 —


40代からはじめられること

2023-05-25 17:50:32 | エッセイ

この記事を書き始める前に一時間弱の休憩をとった。こうして自分のことを文章化することはとても勇気のいることで、それは他者に対しての勇気ではなく自分自身に対しての緊張を意味する。あらゆる感情の層をひとつひとつ超えて、自分の中にある「核」となる自分と対話することになるからだ。それは、どんな出会いよりも、あるいは学校や職場での試験や面接よりも緊張する。

 

まず、私が春までになんとなく自分の中で掲げていた目標は、これからアクションを起こしていくために、身体を整えること、生活リズムを見直すこと、体力をつけること、一ヶ月に身近な人以外の人間に一人でいいから会って、この一年間で12人の他人と会うもしくは新しく出会うことを目標に掲げた。どうせ無理だろうと思った。いつも私を裏切るのは私自身だったし、“どうせお前は”とか、“意味がない”とか、“価値がない”、そういった父からのマイナスな言葉たちが鳴り止まない騒音となって私の脳内を占拠していて、それだけで生きることに何倍もの重力を感じている。

 

2月に夫が海外出張へ行ったのをきっかけに、私は整骨院へ通い始めた。何をするにしてもまずはこの肉体を整えることから始める必要があった。すっかり体力を失ってしまった私は、何をしていても何もしていなくても身体中が重く、痛く、あらゆる不調をぶら下げて生活しており、脳みそにも心にもウジとハエがたかっているような状態だった。

 

掘り下げると小説になってしまいそうなほど書きたいことは山ほどあるが、完結に言ってこの選択がとても良かった。けれど、想像していたのとは180度違った。施術によってまるで魔法のように健康とパワーを手に入れられるはずだと期待していたけれど、実際に必要だったのは自分の努力と継続力といった相当に面倒臭い取り組みだった。ストレッチや簡単なトレーニングを継続して行い、日常の些細な動きや姿勢を意識して変えていくことにを指導をされた。“ご自身の力で健康を取り戻していく”、そういった考えの先生であった。何の根拠もないただ重ねた年齢の分だけ膨れ上がってしまったおごりとプライドを捨てて、取り組んだ。毎日少しの時間でも、旅先でも、疲れていても、成果を感じなくても、言われた通りに見様見真似でトレーニングを重ね、自分の身体と生活を変えていった。

 

4ヶ月経った昨日、私は整骨院を一旦卒業した。実に気持ちのいい終わり方をした。今までの人生、私は人との関係を突然絶ったり、問題を起こしたり、トラブルに巻き込まれたり、そんなことばかりを繰り返してきた。全てが嫌だった。自殺することばかりを夢見た。それでも、しつこく生きてきた。人から見たら何の価値もない、評価もされない、暇でいいわねと思われそうなことでも、自分にとって今必要だと感じることだけに集中している。

 

私の身体は変わった。通い初めの頃とは、鏡を見たら明らかに違う。姿勢が整い、筋力が付き、身体の悪い癖を意識するようになった。おかげで驚くほど動けるようになったし、更なる体力向上のためにやめていた水泳も再開した。生活リズムが整い、視界も意識もクリアになった。昨日先生にお礼のメールを送り、お互いの夢や目標を応援し、また会う日までとさよならをした。私は40歳にして人との関わり方を学んだ。

 

5月中はあらゆる場所へ足を運んだ。気になるものは全て体験レッスンや見学を申し出た。昨日数えたら、目標としていた12人の人に会うという目標をこの1ヶ月で達成してしまった。一気に増えた緊張の連続で心身共に疲労したけれど、私は諦めなかった。休息も挟みつつ、休息し過ぎないことも心がけた。緩んだ時間の隙間に必ず負の思考がぬるっと入ってくる。その穴を埋めるようにしてスケジュールを立てた。

 

・中国語体験レッスン(個人の先生)

・中国語体験レッスン(都会の中国語学校)

・中国語サークルの体験と見学(地元の方々のサークル)

・ピアノ教室の体験レッスン

・英会話の体験レッスン

・オンライン英会話の体験レッスン2回

・ガムランサークルの体験と見学(明日)

 

これらに足を運びつつ、間に独学で始めたギターの練習と、それを持って公園で何度も弾き語りの練習へ出掛けた。その度に声を掛けられ、見知らぬ人の身の上話や、人生の後悔や武勇伝、生活の吐露を聞いた。皆誰しも一見幸せそうに見えるの人ばかりなのに心はどこか孤独であった。そのことが私には不思議に思えた。そして必ず美しい笑顔で互いに手を振って別れた。どこの誰かはお互い告げない、次に偶然会える確率なんてほとんどない、それでもまた会いましょう!と別れた。私は、自分を信じることを強く心に誓った。自分が持つ自分だけの何かが、私の内側に潜むのを確かに感じた。

 

どこへ通うのか、何を学ぶのか、予算はどれぐらいかけられるのか、将来的にどんな可能性があるのか、毎日必死で考えている。闇雲に中国語の勉強を独学で始め、どちらか選べず英語の勉強も並行させている。テキストを買い、Youtubeや教えて頂いた語学アプリを使って勉強する傍らで、世界の人とハガキを交換する“POST CROSSING”というサービスの利用も始めた。まずは中国の方とアメリカの方に、英語でハガキを書いて投函した。そのうち世界の別の誰かから私宛にもハガキが届くシステム。私の言葉や文字や絵が、この地球の日本以外のどこかへ飛んでいく。私もいつか、そこへ行く?毎晩、妄想する。死に方を探す暇はもうない。まずは私の代わりにハガキが国境を越えていく。

 

年に何回か必ず外国人に道や事や物を尋ねられる。大勢の人がいてもなぜか私が選ばれる。去年はフェスに通りかかった5、6人の外国人が当日券で入りたいと声を掛けてきた。その時その場所を歩いていた人の数は、肩がぶつかるほどいたのに。別の日にモールのスーパーで抹茶ラテが飲みたいと声を掛けられた。抹茶椀で飲む抹茶と、ミルクや砂糖を入れて飲む抹茶ラテとはテイストが別なので、好みを聞いて甘くてミルクの入ったものをご紹介した。

 

これまでの人生でも、なぜ私?と思うようなシュチュエーションで外国人に声を掛けられ、その度に簡単な英語と日本語を交えて説明をし、それが通じると胸がときめいた。彼らから聞く日本以外の価値観や考え方やリアクションが素敵で、何度もパワーをもらった。日本人とはちっともうまくやれないのに、外国人との付き合いはとてもシンプルで、語学という壁以外細かいことを気にせずに楽でいられる。私はそこにこれからの人生の可能性を感じている。

 

まだ残っているスケジュールはある。明日ガムランチームの見学に行くのと、別の英会話教室の体験レッスン、別のオンライン英会話の体験レッスンを予定している。6月に入ったらある程度の方向性を決めて、具体的なスケジュールや目標を立てるつもりでいる。本格始動は梅雨明けのタイミングだろうと予想している。

 

そんなにいきなりやって大丈夫か?と普通は思うだろう。だけど私はそんな考えは捨てた。私には私の考えがある。瞬発力がある時は思う存分その力を発揮すべきだと感じている。もし先を案じてエネルギーをセーブしてしまったら、幾つかのチャンスを失ってしまう。気持ちが高まっている瞬間に逃した感情は、時間と共にパワーを失い、やがてめんどくさくなったり、消滅したり、忘れたりしてしまう。「本当にやりたいことなら、時間が経ってもやる気が失せないはずだ!」とか言われそうだけど、本当にやりたいことなら尚更疲れてでもその瞬間にチャレンジすべきだと私は思うし、仮に突然全てのやる気が失せたっていいとさえ思っている。また復活する、それだけ。

 

これは私が私に対する考え。色んな人の色んな考え方や方法があるはずだし、自分が思う自分のやり方や価値観に従うべきだし、かといって相手との違いにお節介な興味の持ち方をするのはタブーだと思っている。その人の考えや姿勢が素敵なら、相手に押し付けなくても人は勝手にそれを真似たり影響されていくものである。

 

私は自分の考え方を英語の先生と共有した。中国や英語圏で生活している人たちの考え方は自分と通ずるものがある。足並みを揃えることを重んじる日本の風潮に自分が40年掛けても順応出来なかった理由がすべてわかった気がした。よく外国人に声を掛けられる理由もわかった。なぜ自分がどんどんと病んでいったのか、そのこともクリアになった。

 

私は「音」がすきだ。歌、楽器、語学、すべてに音の響きと美しさがあって、同じ音を自分の声や演奏で出せた瞬間、脳みそがはち切れそうなほどの興奮を感じる。だから、この中から“すきなこと”と“役に立つこと”の両方を始めることにした。夢や妄想で一日を終え、英語の夢にうなされて目覚める朝を繰り返している。叶わない、叶えられないかもしれない夢や目標を夫に告げる。声に出すことで、脳はその言葉に向かって自然と行動を起こしていくらしい。だから「有言無実行」でも、「いつも口で言っているだけの奴」でもいいのだ。これは確か岡本太郎の本で読んだ内容だった気がする。ひとつでも実行できれば最高だ。

 

語学や音楽はおすすめだ。もし迷ったり苦しんでいる人がいるなら試してみて欲しい。語学と音楽には終わりも正解も間違いもない。うまいへたなんて気にしなくていい。一音でも、一語でも、覚えたり、発したり、通じたり、それだけでいい。何のためとか、意味なんて考えない方がいい。それを考え始めると、どんな素晴らしいことも意味も価値も失ってしまう。何事もいつか意味や価値に変わる。何語だって何音楽だっていいと思う。馬鹿にされたり笑われたり蔑まれたりしても、そんな価値観に傷付かなくていいと思う。そうじゃない価値観を持っている人は絶対にいる。出会えなくても、いる。だからお互いに、「あたりまえ」に負けないで欲しい。

 

— 海鷂鳥 —


子なし専業主婦という生き方

2023-05-02 14:05:16 | エッセイ

10階のビルから豆腐を落としたような気分…

 

私が昨日、中国語の体験レッスンを終えた後の気持ちです。中国語は少しだけ独学で触れていたので、レッスン内容自体は独学の範囲内で内容を深めることができてよかったです。ただ、先生との相性にピンとくるものがありませんでした。ここで落ち込んでしまってはまた暗い穴に逆戻りなので、5月中は色んな体験レッスンを受けに行って最終的に何を学ぶのか決めたいと思います。

 

先生「今日はお休みですね。」

わたし「あ、先生のご家族がですか?」

先生「いえ、海鷂鳥さんが、です。」

わたし「あ、私、仕事していないので。」

先生「それは、幸せですね!じゃあ、お子さんは?」

わたし「あぁ…いないです。」

先生「じゃあこの先できますね?」

わたし「あ…この先もできないと思います。」

先生「いや、そんなことはないです、きっとできます。」

 

これは、レッスン後の中国人である先生との会話です。こういう会話を昨日以外にも20代、30代で何度も経験してきました。その度に尋問されているような…責められているような…自分の人生や存在を否定されているような…胸がギュッとなって心が小さく萎んでいく思いをします。そんな自分を相手から庇ってやることもできず、ヘラヘラと愛想笑いでその場をしのごうとする自分にも腹が立つのです。一方で、説明するのも面倒です。カロリーを使って私なりの事情や心情を説明したとしても、相手にはあまり理解されないでしょう。

 

この質問をされる時、質問をしてくる側にとっては働いているか子育てしているか、あるいはその両方をしていることだけが正解なのだと感じます。そこから外れると「あら、どうして?」と、聞かれます。初対面の人に言われることがほとんどです。そこでまず人として値踏みされている気がします。けれどこのやり取りはもう「定型文」なので、これに対するアンサーを自分自身が持ちたいです。

 

今日は少しだけ、画面の向こうの“誰か”を意識して書いてみます。

 

私は現在40歳です。既婚です。夫とペットのうさぎと暮らしています。仕事はしていません。子なし専業主婦です。高校を卒業してから結婚するまでは、色々な職業を転々としながら働いて一人暮らしをしてきました。家を出たのは21か22歳の頃だったと思います。ほぼ家出でした。

 

私は子どもの頃から精神的にも肉体的にも両親から虐待を受けてきました。それは大人になってからも続きました。父はいつも酒を飲んでいて機嫌が悪く、部屋の隅で息を潜めてじっといたとしても「なんやその目は!」という理由で怒鳴られたり殴られたりしてきました。そんな私を母が庇ってくれたことはなく、常に弟だけを大切に扱い、ストレスやうっ憤を理不尽な理由で私にぶつけてきました。母は宗教二世で、目の前の私のことは信じてはくれないのに、教祖と仏壇だけを信じている人でした。人をこんなにも傷付ける人間が、神を信じて神に祈って救われようとしている姿がバカバカしく、宗教家である母のことは今でも軽蔑しています。

 

私には興味があること、やりたいことがたくさんありました。けれど、両親はその都度根が張る前に根気よくその夢を摘んでいきました。暴力と精神的圧迫で心も体も潰れていきました。子どもの頃から不安定でしたが、14歳で遂に死にたいと思うようになりました。常に監視され、時には家に監禁されて、友人や彼氏を私の目の前で恫喝して関係を断つよう迫られました。

 

脳みそが揺れるのがわかるほどの暴力を受けて、私はますます壊れていきました。19歳でパニック障害を発症し、遂に息ができまくなりました。電車にもバスにも乗れなくなりました。両親にそのことを告げた時も父に全身を殴られ蹴られ、その時の私の様子を見た母が初めて身体を庇ってくれましたが、後日「これはこれだけど、甘やかすことはしないから。あんたが悪いことはこれからもお母さん厳しく注意していくから。」と凄まれ、私は当時の不倫相手の手助けを借りて遂に家を出ました。彼がいなければ、私が私を殺すか、親が私を殺すか、私が親を殺していました。

 

パニック障害をきっかけに、あらゆる精神疾患を併発していきました。もう既に子どもの頃から予兆があったのだと思いますが、新しい病院へ行く度に新しい病名を付けられ、色んな薬を飲まされ、副作用と依存に苦しみ、それでも両親は両親のままでした。けれど、仕事を辞めてしまったら収入を失って実家に逆戻りなので、薬漬けになってでも働きました。それが私の症状をより拗らせていきました。

 

音楽をきっかけに夫と出会ったのですが、当時夫はほぼニートで二人とも満足な収入も貯金もないままで結婚しました。それまでの恋愛も不安定なものばかりで「好きな人=一緒に地獄に落ちて欲しい人」だったのですが、夫のことは“好きな人”というよりは“一緒に生きていきたい人”でした。それを機に、私は自分の療養の為に仕事を辞めて専業主婦になりました。

 

結婚したからと言って私の症状が治るわけではありませんでした。幼い頃から鳴り響き続けた頭の中の警告音は、安全で安心な暮らしを手に入れても私を自由にはしてくれず、それまでと同じように苦しみ続けました。周りを傷付け、夫も疲労困憊していきました。家の中にモンスターがいる状態です。私はカウンセリングを受けながら、自分の心を少しでも健康な状態に戻していくことだけに専念しました。それが家族を救う道でした。働きながら…子育てしながら…私には絶対に無理でした。30年間を生き直す為には、完全に療養できる長い期間が必要だと確信していましたし、結果そこから今日まで10年かかりました。

 

今も精神科に顔を出していますが、もう今は病気じゃないねと言われています。ですが、後遺症として様々な課題や弊害は残るので、社会不安やフラッシュバックに苦しみ、不安定と安定を繰り返しながら、夫の支えもあり、なんとか人の手を借りずに普通に近い暮らしができています。安定剤を飲む機会もぐっと減ったので、遠方へ遊びに行く機会も増えました。公共交通機関にもまた乗れるようになりました。けれど相変わらず人との接点は少ないし、苦手だし、怖い…。でも、少しだけ前に踏み出したいなと思っています。まだそんな段階なんです。

 

子どもは持ちません。妊娠した経験はありますが、子どもが欲しいという感情だけは最後まで持つことは出来ませんでした。それがどういう感覚なのか、どうしたら自分もそう思えるのか10年間の中で必死に考えましたが、得られませんでした。どうしても自分が育った幼少期を思い出してしまい、自分が虐待する側になっていることしか想像しかできず、子どもという存在によって自分がどんどん追い詰められていく未来しか思い描けませんでした。私は私を生かすだけで精一杯でした。

 

共感しない人は大勢いるでしょう。「似たような環境だったけど、それでも頑張ったし努力したし、あなたのはただの甘えだ」と非難する人が多くいることもわかっています。その人たちに認められようとも思いません。こんな思いは共感できない方がいいのです。だから、私はその人たちに向けてい書いているのではなく、私自身と、悩んだり苦しんだりしているこの画面の向こうで生きる「あなた」に向けて書いています。私もそうやってどこかで生きる誰かの言葉や存在に絶望を救われてきました。

 

人の顔や体の特徴や皮膚の色が違うように、心だって人によって大きさも柔らかさもさまざまで、強いとか弱いとか、メンヘラとかって言葉で切り捨てれば簡単ですが、人に対して平気で「メンヘラ」と言える人の心の方に私は病みを感じます。「ふつう」という言葉の暴力にもげんなりします。「あの人ちょっと病んでない?」と他人事のように笑っていた人が、ストレスで心の病になって日常を失った様子も目にしましたし、追い詰められたら人は当たり前に壊れます。それが人間です。そうなったら化け物のように恐ろしいモンスターになってしまうことも身をもって体験しました。そして、それだけがその人のすべてではないことも知っています。回復もできます。でもまた、何かにつまずいたらとても弱ってしまうかもしれません。それでもぎりぎりの状態を隠して生きている人の方が多いのではないでしょうか。

 

閲覧数の少ないこの場所が、誰かの目に届いて、その人が今日死ぬことを諦めてくれれば、その先一週間はその人が生きれるかもしれない。その中でもしかしたら何か見つけられるかもしれない、そんな小さな光と希望のためだけに私は書いています。本当はもう自分の過去のことはあまり書きたくありませんでした。フラッシュバックするし、書いたところで過去はどうにもならないことはわかり切っているからです。けれど、昨日のことを今一度自分の中で整理する必要がありましたし、そのことが誰かの安心に繋がってくれたら…なんて、思いました。

 

これからも私は同じ質問をされて、同じようにヘラヘラと笑ってやり過ごすのかもしれません。けれど、私だけは私のことをわかっていてあげたいです。小さな希望ではあるけれど、「もう一度何かしたい」という自分の心の芽を摘まず、育ててあげたいのです。子育てはできなかったけれど、代わりに自分のことなら育てられます。社会の役には立てていないかもしれないけれど、自分の命を殺さずに生かしてあげるこの小さな取り組みが、誰かや何かに繋がってくれたらいいなと思っています。

 

― 海鷂鳥 ―


選ぶことは自分を知ること

2023-04-30 19:24:32 | エッセイ

久しぶりにレンタルショップへ行った。

 

コロナ渦になってからは、誰が触ったかわからない物に直接触れることはそれだけで死を連想させたし、世の中のあらゆる娯楽がスマホやパソコンがあれば事足りる時代になった。映画館に行かなくても、DVDを借りなくても映像が見れる。再生機器も必要ない。CDやコミックを所有せずミニマリストになったとしても、作品を見たり聴いたりできる。しかも、見たいときに見たいだけ見放題。

 

借りたい本や映画がすべて「貸出し中」になっていて、返却されるのを見計らってレンタルショップに通い詰める必要もないし、店内に並ぶ棚をひとつひとつ見て探す必要もない。検索欄にキーワードさえ入れれば、必要なものがすぐに見つかって、今何百人何千人がその映像を同時刻に見ていたとしても閲覧に制限はない。ついでに食べたい物も買い物もネットで注文すれば部屋まで届けてくれるし、風呂に入って髪や服を整えて外に出る必要もない。人に会わずともオンラインで話せばいいし、話さなくてもSNSを開けばそこに山ほど人の吐露や日常が溢れている。ソファやベッドの上で、街に出たような疑似体験をする。指一本の運動量で世界を見渡せる。私は不幸せになった。

 

Bjorkのライブに行ったのに、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」をちゃんと観たことがなくて、現時点ではどこにも配信されていないのでDVDを借りるためにGEOに寄った。

 

昔は一本の映画を探すのに何度も棚を行き来した。新作は幾らで、レンタル期間がどれぐらいで、旧作は5本借りた方が得だとわかるとまた選び直して、返却日を間違って延滞料金を支払う羽目になって苦い思いをしたりもした。じっくりと時間と手間をかけて五感を使って選んで開く物語には“意味”があった。今はオンデマンドを契約しても見放題にも関わらず結局一本もまともに見終えないまま、気が付いたらYouTubeでライトな動画を垂れ流し見ている。

 

まとまった金額を払えばどんな映画やドラマも見放題、音楽も聞き放題という「サブスクリプション」というサービスは大変便利ではあるけれど、個人的には“これ!”と決めた作品単体にお金を払う方が満足度が高いことに気が付いた。もしこれからの映画館が「一定の料金で毎月どんな映画も見放題!」になったとしたら、私は映画館へ行く楽しみを失ってしまう。

 

大人になって駄菓子屋で無制限に好きなお菓子をカゴいっぱいに買えたときよりも、子どもの頃にたった100円だけ握りしめてその金額の制限の中でどれだけ自分を満足させられるかを考えつつ、かつ金額を計算して取捨選択していた頃の方がずっと幸せだった。小学生高学年になり、限られた月のお小遣いでどのアーティストのどのCDを買うのか必死に考えて、2曲しか入っていないシングルCDを擦り切れるまで再生して、穴が開くほど歌詞カードを読み込んでいた頃のことを思い出す。他に欲しかった曲は音楽番組やラジオでかかる以外では手にする術がなく、プロモーションビデオ(今はミュージックビデオと呼ぶらしい)をフルで見ようと思ったら3000円払ってVHSを買わないとアーティストの映像を独占することはできなかったし、アルバム一枚を3000円で買ってしまったらその月のお小遣いは終わりだった。「それでも欲しいかどうか?」を天秤にかけながら、本当に手にしたいものが何なのかを心の中を探っていた。

 

そうして必死の思いで手に入れた「作品」は、買って終わらすだけというわけにはいかず、欲しい娯楽を欲しいだけ一定額で自分のものにできてしまう今とは違って、“すき”とか“欲しい”ということに対してものすごい時間とカロリーを使っていたように思う。最近はひどいと「お気に入りリスト」に放り込むだけで気が済んでしまって、まっいっか、で再生する気力を失ってしまう。あるいは映画を再生しながら片手でスマホも見ている…といういい加減な鑑賞の仕方もする。そうして見た映画は、ほとんど自分の中には財産として残らない。単に老化して集中力が低下しただけなのかもしれないけれど、「欲しい」と思えば今でも必死になってそれを目がけて出掛けて行くのだから、スマホであれこれ検索せずにカロリーをかけて探しに行った方が、手に入れる喜びも大きいのかもしれない。

 

店内に並ぶ棚を行き来しながら、DVDも随分数が減ったなぁ…と思った。ブルーレイってどこへいったんだろう…まだあるのかな。もっと前はVHSだったけど(時間をかけてテープを巻き戻さないと最初からは再生されないんだぞ)。売り場の半分は電子機器の販売スペースに変わっていて、パソコン・スマホ・iPadやゲーム機などが売られている。棚の数が減った分、随分探しやすくなったけれど、それでも邦画・洋画・アジア映画とコーナーが分かれていて、そこから更にジャンル別、タイトル順に並んでいるのは昔と変わりない。探す感じが懐かしい。

 

「洋画」の「ドラマ」の「た行」の棚の前に立つ。指と視線で背表紙をたどって、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見つけたとき、頭の中がピカリと光って心の中で「あった!」と小さく歓喜した。もう一枚、観そびれた邦画があったので、それも一緒にレンタルした。私は今日これを借りて、期限日までにもう一度この場所へ来て借りたDVDを返す。たったそれだけのことが私をその日まで生かす契約になる。指一本の労力では済まない手間のかかる方法で得た作品には、それなりの意味を見出さなければいけない。先日契約したAmasonプライムでは、まだ一本も映像を再生できていない。送料のついでに契約しただけなので、おそらくほとんど何も見ないまま、引き落とし前までに解約してしまう。だいたいいつものパターン。

 

そういえば、たった一冊の本を選べなかったことがある。

 

家族や身近な人たちのことばかりを考えすぎて、いや、その人たちの顔色ばかりを気にし過ぎて、それを“自分”だと思い込んで生活していた頃、しばらく一人でいなければいけない時期があった。すべての時間を自分のために費やすことは、私にとって恐怖でしかなかった。まず何をしていいかわからなかった。ただ好きなものを食べて、好きな事をして、好きなように過ごせばいいだけなのに、私から家族という存在を引いたら、その“すき”が何なのかさっぱりわからなかった。

 

そんな自分の「現状の状態」を把握するために試しに本屋へ行ってみた。ずらりと並ぶ本の中から、今自分が欲しいと思う”自分の為だけの一冊”を選んでみて?と、自分に問いかけた。「たったひとりの自分」が、私の中にどれぐらい存在しているのかを知りたかった。それぐらい簡単にできると思った。ちょっと気になる本を手に取って買ってくるだけのことだ。

 

ところが私は、何時間も本屋の売り場に立ってウロウロしたまだった…。気が付いたら「これなら生活の役に立つかしら?」という、お掃除本や料理本、誰でもわかるお葬式の本…なんかを手に取っていた。“生活のため”ではなく、“私だけのため”でなければ意味がない。その条件を考えると、自分の“すき”がさっぱりわからなくなってしまったのだ。

 

このままでは一冊も選べないまま終わってしまうので、二冊選ぶことにした。一冊は「LDK」という雑誌で、台所用品や生活用品や電化製品の比較とランキングをまとめた雑誌で、やはり“生活のための一冊”になってしまったけれど、それを選んだ上で自分の気になるものを選ぶ方がリラックスして選ぶことができた。

 

私は「書店が薦める本」のコーナーで、気になった本を手に取っては表紙を開いて一行ずつ読んだ。自分にピンとくる文章のテイストがあるので、一行読めば面白いか面白くないかがわかる。私が選んだ本は、山本文緒「恋愛中毒」という恋愛小説だった。自分に対するルールを軽減して結果的に二冊になってしまったけれど、なんとか“自分の為の本”を選ぶことができた。

 

まだ大丈夫。まだ自分を見つけられる、と思った。

 

結果、生活の為に選んだ「LDK」はササッとめくっただけで、歯磨き粉を次の買い物の参考にしただけで、真っ新に近い状態で棚の端に放置された。“自分の為”と選んだ「恋愛中毒」の方は、分厚い小説ではあったけれど一日で読み終えてしまった。ラストまであっという間に滑り落ちて行ったけれど、自分でも高い集中力を発揮した。恋愛小説なのにオカルトとサスペンスが交ざったようなひりひりするストーリーで、ねっとりとした人間の情念の怖さに共感がどばどばと溢れてしまった。

 

私は、いつの間にかまた自分をサボってしまっていることに気付いてしまった…。

 

そしてそこには必ず死の匂いが近寄ってくる。

 

“選ぶ”ことは自分を知ることだ。自分は何が好きで、どうしてそれが好きだったり気になったりするのか、どれぐらい興味があるのか、流行っているからなんとなくなのか、ピンときたからなのか、それとも最初からそれが絶対に欲しいのか。だったらなぜ“絶対”なのか、自分の中のどんな血が騒いだのか、どんなテイストが好きなのか、泣きたいのか、笑いたいのか、どこにどんな風に感動したのか、どこが自分の中にシンクロしたのか、どう共感したのか、あるいは反発したのか、自分の目や耳で得た情報の先に、言語化できなかった自分の正体があるはずだ。

 

自分に課せられた日常やすべきことに従事し過ぎて、またはそれらの所為にして、自分自身を見失うことは容易だ。一番難しいことは、他者と対峙することよりも自分自身と対峙することなのだ。誰かのための化粧より、誰かのためのファッションより、誰かのための我慢より、誰かのための苦労や笑顔よりも、自分が本当はどう感じていて、どんな感情に蓋をしていて、誰のことも一切気にせずにいられる瞬間の本当の“すき”と“ヘイト”を探すことが私の中の生きている実感なのだと思う。自分の中のグロテスクな部分に手を伸ばし、ほんものの感覚を得ることは苦しいこともである。ありのままという美しい言葉の響きとは無縁なほど孤独になる。人と違うことを求めながらも、実は人と同じでいられる安心感に甘え浸っていただけの自身の体たらくを突きつけられる。

 

「なんでもいい」「どれでもいい」は、だめだ。

 

選べなくても選ぶんだ。選べない自分を越えてちゃんと選ぶことが私と私を大切に想ってくれている人への誠意であると考える。もちろん選べない環境下にいる人だっている。山ほどいる。自分の所為じゃないことでがんじがらめに生きている人だっている。けれど、今選べるなら選ぶべきだと思う。たぶん「これがしたい」という人よりも、「なにをしていいかわからない」人の方が街には溢れていて、夕方の「いいね♡」の反対側で電信棒の影の中にひっそりと隠れてる。

 

何をしてもしっくりこなくて、何もかもだめだと悲観して、それでも平気なフリをする。大丈夫だよって言う。元気だよって言う。私もだよって言う。でも本当は違う。全然違う。あなたとわたしは全然違う。簡単に共感なんてされたくない。それでも同じでいたいから、大丈夫だって言う。共感にはいつも安心と感傷がある。

 

夢を見る。YouTubeを見る。SNSを見る。自分より輝いている人たちを見る。楽しそうな人たちを見る。整形と加工だらけの顔に「いいね♡」が集う。切り捨てられない奇異な夢を見る。フラッシュバックと混同する。今日を考えられなくなる。起き上がれなくなる。自分を切り捨てる。ちゃんとできる。ちゃんとするんだよ。選べなてくも選ぶんだ。選べるまで選ぶんだ。なんとなくじゃなくて、“絶対にこれなんだ”っていうものだけを選びたい。

 

明日、中国語の体験レッスンに行ってきます。

 

― 海鷂鳥 ―


やりたいことを取るか、将来役に立つことを選ぶか

2023-04-26 01:44:51 | エッセイ

更新が滞ったまま、とうとう40歳になりました。「嫌だ!私は30代の船を降りないぞ!」と、地団駄踏んで泣きました。床に転がってギャーギャー喚いて、まだ精神が追い付いていないだの、見た目もあと数年は30代でも通用するはずだのと時の経過に逆らおうとしましたが、4月19日0時00分にブォー!と汽笛が鳴ると、3人がかりで私は30代の船から引きずり降ろされ、

 

「アキラメロ!オマエ、40サイ!」

 

と吐き捨てられ、船は新しく30代を迎える若者たちを迎えに出向していきました。

 

「わだじどうすればいいのおぉぉおおおおおおおお!!!」

 

顔から出るすべての体液をその場に垂れ流しながら立ち上がれずにいると、すぐさま40代の船が私の目の前に着船しました。

 

「オイ!オマエ!ノレ!40サイ!」

 

その場で足を突っ張って抵抗していると、手足を拘束され頭から黒い布を被せられ無理やり40代の船へと担ぎ込まれました。

 

「ウルサイ!ダマレ!40サイ!イキロ!」

 

誘拐です…拉致です…本人の意思なく、私は40代という未開の地へと連れてこられました。納得いきません。私の心はまるでピュアであります。心のオムツはまだ取れていません。私は一生大人にはなれませんし、なりません。魂に年齢など関係ないのです。とはいえ、私は40歳になりました。おめでとう、私。ありがとう、私。ご愁傷様、私。

 

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昨日まで夫と横浜旅行に行っていました。

 

結局「コレ」というものが見つからないままで新時代を迎えてしまったわけですが、どうも私の中で共通している“すき”が中国であることは確かなのです。

 

子どもの頃に愛知県犬山市の「リトルワールド」で見た中国雑技団の方々が着ていた赤や金のきらびやかなチャイナドレス。それを見て私は、中国の女性の方は全員チャイナドレスを着て生活しているのだと思い込みました。男性はジャッキーチェンのように壁を走れて、年寄りは酔拳で道を歩いていて、真夜中にはお札を貼られたキョンシーが街を徘徊しているのだと思い、もし中国に行ってお札が剥がれた凶暴キョンシーと出くわしてしまったら、果たして自分は何秒間息を止めていられるだろうか…(息を止めている間はキョンシーには見つからない)と、練習したりしていました。

※「来来キョンシーズ」参照

 

 

日本にはまだ侍や忍者がいて、ちょんまげや日本髪を結った人たちが着物で生活していると思い込んでいる外国人と同じです。ある程度の年齢になったときに中国のテレビ中継を見て、

 

「チャイナドレス着てないやん!」

 

と、大変ショックを受けました。それでもやはりチャイナドレスの美しさへの憧れは消えることはありませんでした。私も着たい。見たい。触りたい。どこへ行けば“アレ”が手に入るのか…と考えていました。

 

最初に買ったチャイナドレスはいわゆるコスプレ用の簡易な衣装でしたが、ベルベット生地の本格的な正装用のチャイナドレスも購入しました。けれど、当時はどうしてもコスプレとして認識されることに心が折れてしまい手放してしまいました。今の時代はコスプレもファッションであり表現であり服であることに変わりはなく、装いを恥じることなど一切無いのですが、私はなるべく自分を捨てる努力をして生きてしまいましたので、今になってそんな自分を過去のゴミ捨て場からそっと持ち帰り、今更ながら装うことの喜びを大切にしております。

 

憧れたのは衣服だけではなく、言葉や文化にも興味を持ちました。1984年「西太后」、1989年「続・西太后」、1996年「スワロウテイル」、これらの映画を字幕で見たとき、中国語のリズムと発する音の色っぽさが、話しているというよりは歌っているように聴こえました。好きな曲を覚えるようにして真似して発音してみたかったのですがさっぱり聞き取れず、音を言葉で真似しても再現しようのない発音で、高校の授業で中国語を選択しました。

 

まず「謝謝(ありがとう)」の発音は、“シェイシェイ”ではなく、“シエーシェ”であることを学びました。発声は日本語とも英語ともほど遠く難しく、使ったことのない口の動きをしないと同じ「音」が出せません。それでも一生懸命取り組んだ結果、成績は良好ではありましたが、学校をサボりがちになるとあっという間に転落してしまい、少し触れたただけでその時は終わってしまいました…。

 

何がやりたいのか、何が好きなのか、いまいちよくわからないまま生きて、それでも私の中で心が躍るのは「音楽」と「中国」というふたつのキーワードでした。

 

 

今年に入りたまたまネットで知った「変面ショー」という一瞬で面が何度も変わるという中国の伝統芸能に心を奪われてしまい、その日以来連日連夜「変面ショー」の映像を見続け、夫に「その曲、気が狂いそうだわ…」と言われても、メインテーマである「Mask Chang」という中国語の曲を大音量で延々リピート再生。遂には耳コピだけで歌い始めて、自分の口から出る中国語の“音”に、アドレナリンが怒波!怒波!(ドバドバ)出てしまい、そこから中国語のレッスンの動画を見始めました。高校生の頃に学んだことも思い出しながら、単語や短い文章を真似して発声しています。音を真似ることが好きなのです。

 

ちゃんと話せるようになりたい…と、思いました。

 

けれど、先月Bjorkのライブで神戸へひとりで行ったとき、ライブ会場までの満員電車の中で聞こえてきたご婦人の言葉を思い出して迷ってしまいました。この時点では、自分が得意とする英語を習うつもりで考えていました。

 

「私、K-POPの○○も好きでしょう?彼が話してる言葉と同じ言葉を話したくて、韓国語を習いに行きたいんだけど、家族が“だったら英語を習った方がいい”って言うのよ。英語なら世界で通じるし、英語の方がためになるって。英語が話せれば韓国でも通じるけど、韓国語は他の国では通じないから、将来色んな国へ旅行に行くなら英語の方が役に立つって。でも…役に立つかどうかじゃなくて、私が話したいのは韓国語なのよねぇ…。」

 

私は誰かの助けになろうとか、役に立とうと考えると、心が潰れそうになります。私の中で自分を想うことと、相手を想うことはイコールにならず、どちらかに傾いて疲れたり傷付いてしまうのです。相手に対して称賛や見返りを求めて寂しくなったり、心で相手を責めてしまったり、そんな器の小さな自分のことも同時に責めたりして落ち込んでしまいます。誰かの役に立ちたいし、世間の役に立ちたいと思う一方で、その気持ちで行動すると逆に相手にはtoo muchで迷惑になってしまったり、勝手に疲れてしまったり、反動ですべてを壊してしまうような人間です。私は世間の人たちが一体どういう感覚で、どんな風に折り合いを付けて、疲労と幸福のバランスを保って生きているのかさっぱりわかりません。けれど、役に立つかどうかで“すき”が潰れていくのは、とても悲しいことだと感じました。

 

あのご婦人の声は、まるで私自身の自問自答の声のように聞こえました。迷いがあるのです。自分がやりたいことと、役に立つかどうかの狭間で選択肢は揺れています。どちらが正解とも言い切れない自分がいます。どこかで“意味のある選択をしなければ”という脅迫心に駆られて、選択しようとすることに疲労困憊し、決定することを一旦放棄し、何百キロも道草をくった末にノロノロと戻ってきて、やっとこさ決めるのです。亀の方が私より歩くのが速いはずです。が、時に音速で飛んでいく日もあります。地表をのそのそと歩く亀をその風圧で吹っ飛ばします。大変ややこしい人間です。

 

けれどもう心は決まっているのです。自分のことだけ考えて生きます。私はそれでいいのです。自覚のない所で自分のしたことが結果的に誰かや何かの為になれていたとしたら、私はそれを知らずに生きていくことを幸福と呼びます。

 

― 海鷂鳥 ―