<何を信じたらいいかわからない>について。
わたしは講演で最後にこんなことを話します。
リンゴが一個、家の窓ぎわのテーブルに置いてあります。
朝日にあたっています。しばらくすると、太陽は雲に隠れて、リンゴはすこし色が変わりました。
夕方、外出から帰宅するとガラス窓に夕焼けがさしています。
リンゴの色も夕焼けに染まっています。
外は暗くなり窓ガラスは街のネオンと信号の景色に変わり、リンゴとわたしの姿がうっすら映っています。
わたしはカーテンを閉めて部屋の蛍光灯をつけました。
りんごの色が変わりました。
それからしばらくして、わたしはアロマキャンドルに火をつけました。キャンドルの炎のなかにぼんやりとリンゴがみえます。
しばらくしてから、キャンドルを消して床に入りました。リンゴの香りがほのかに漂ってきます。
朝、目が覚めて、リンゴをみてわたしはびっくり。
「何、このリンゴ! 」わたしはメガネをかけました。
ああ、スーパーでリンゴを買ったときは、メガネをしていなかったんだわ。ちいさなシミだらけ・・。
さて、朝日の光、夕焼け、蛍光灯の照明、キャンドルの炎~と、リンゴは姿、形を変えていきます。
どっちのリンゴがほんとうでしょうか?
カメラでリンゴを撮り続けたら、何千ものリンゴの写真があり、一枚として、そっくり同じものはないはず。ましてや、視力でリンゴの見え方が変わります。
もし、リンゴを見たこともないひとに、リンゴを説明するとしたら?
どうやってリンゴを説明しますか?
どのリンゴがほんとうかと議論する必要なんていらないでしょう。どんな姿をしたリンゴが食べたいのか、リンゴを飾ってしばらく眺めていたいのか、リンゴの絵を描きたいのか、リンゴがどのように朽ち果てていくのか実験をしたいのか・・・。
自分にとって必要なリンゴはどれですか?
何を信じたらいいかわからないも、そのときどきの状況で変わります。
みんな、ひとりひとり、見方、感じ方が違いますから、他人と違っていて当たり前です。
そのときに感じことを信じたらいいと思います。
「あの世は?」の考え方もこのようなことではないとないかと思います。