帰ってきたドリアン長野の海外旅行記

長期休暇もない有給休暇もないリーマン・ パッカーが、短い休日と高い航空券にもめげず、海外を旅したお笑いエッセイ

海外旅行記

                   

順不同。タイランド(バンコク) カンボジア(プノンペン、シェムリアップ等) 
メキシコ (ティフアナ) 英国(ロンドン) インド(デリー、西ベンガル州等) 
米国(ニューヨーク州、ニュージャージー州、ミシガン州とロサンゼルス
フィリピン (マニラ) 台湾(台北) マレーシア(クアラルンプール等) 
ベトナム(ホーチミン) ネパール(カトマンズ) ミャンマー(ヤンゴン等) 
香港と中国(上海と北京) オーストラリア(ケアンズ

海外旅行記とご連絡2024   コラム 2024 

令和六年にドリアン長野は親子でオーストラリアのケアンズを旅行されました。 ドリアン長野の海外旅行記は15か国を旅したお話で私が整理整頓し再発表しました。外国語ですが挨拶位は学びましょう。旅行記内の内容ですが出入国の法規制を始め現状とは異なる部分が存在します。渡航されるなら最新の海外旅行案内書を読んで下さい。 現在、問い合わせは受け付けてません。
anzen.mofa.go.jp 治安が悪い街へ赴くのは危険なので辞めましょう。
 海外旅行保険の加入は必須です。 kaigairyokouhoken.com
私はドリアン長野から頼まれ平成19年に終了したgoo簡単ホームページの開設を平成15年に手伝いました。 昨今は複数のブログを利用してます。
平成29年の夏に頻繁な投稿については難しい本音を伝えた所、「無理しなくて良いから。」と返答されました。
今後は月の初日から14日迄に一度、14日から月末迄に一回は投稿する予定です。ドリアン長野が管理人をしてるホームページのみ閲覧されても構いません。

ノート版ドリアン長野 ドリアン長野フェイスブック ドリアン長野の読書三昧

海外旅行記の内容はドリアン長野が渡航した時の状況です。海外では町名が言語によって異なりますので旅行記内において日本では一般的ではない町名が存在します。予算やお薬は多めに用意して下さい。複数の時計を利用し時差に対応しましょう。準備してから旅行代理店、航空会社(又は、船会社)、ホテル等に予約と支払をしましょう。出入国に関わる法規制や価格等は過去と現在で異なるので渡航前に各自で確認下さい。 カナダ コロンビーブリタニーキ旅行記 その1
 私は平成27年十月にカナダのブリティッシュコロンビア州を旅行しました。
嫌がらせは、辞めてもらいたい。フェイスブックのタイムラインに詰問してきたストーカーがいたので大変でした。   敬具 マーキュリーマーク

中国旅行記(北京と上海) 2024

2024-06-30 | 日記
 ドリアン長野の北京旅行記
 NO21 北京の床屋 at 2003 10/17 22:32
 北京に来てから気になっていることがあった。理髪店である。町中のあちこちに理髪店があり、しかも深夜まで営業しており、しかも従業員は若い女性ばかりなのである。若い女性に深夜営業。怪しい、怪しすぎる。他の人間ならいざ知らず、この私の目はごまかせ~んっ! 社会主義国でそんなことがあるのだろうかと不審顔の貴兄に貴女、同じ社会主義国のベトナムでは理髪店と売春が結びついていることは周知の事実である。何でも表向きは普通の理髪店なのだが、希望する人にはスペシャルなサービスを施してくれるらしい。実際、ホーチミンでは北京ほどではないが理髪店がちらほらと目につく。夜、シクロに乗っている時に店内を見たら、いつも何人かの女性が椅子に座って暇を持て余していた。中国よ、お前もか。私は大いに失望した、わけでは全然ないのだが、これは是非調査せずにはおられまい。中華人民共和国の首府、北京よ、農民と労働者の叡智と努力によって共産主義国を建設するという高邁な理念の化けの皮をこの私が引っぺがしてやるわ。うわーはっはっはっ、バカめっ!(はオレだろうな、やっぱり)

 というわけで、故宮の近くに泊まっていた私は夜の11時頃にホテルを出た。う~ん、どの理髪店に行こうか? なるべくなら、きれいな従業員のいる店がいいだろう。もちろんこれはベールに包まれた中国人民の実態を調査するというフィールドワークであり、私には不純な気持ちなど毛頭、爪の先ほども、これっぽっちもないのであるが、どうせならきれいな女性の方がいいだろう、うん。しかし、調査があまり進行しすぎると危険なことになるような気がする。その時は腕に覚えのあるカラテで大声を出して逃げればいいだろう。もし女が中国拳法の名手で無理矢理、組み伏せられたらどうしよう。きれいな体で戻ってこられるかしら。不安だわ。いや、毛沢東も 「崇高な目的達成のためには敵を恐れることなく邁進せよ」 と言っていたではないか。(おい、そこのあんた! どこが崇高やねん! って、つっこんだだろう、今)
  私は決心し、心の中でインターナショナルを歌いながら目星をつけた理髪店へと勇躍乗り込んでいった。(つづく!)

NO22 続 北京の床屋 at 2003 10/24 19:39 編集
 <前回のあらすじ>
 中国ってとこは人はやたらと多いし、言葉はあんまし通じないし、列には割り込むし、日本人だとボるし、ひまわりの種はあちこちに散らかすし、おまけに女までが(以下略)
 店内は清潔で明るく、従業員は男が一人、女が三人、そして男の客が一人いた。そのうちのソファーに座っていた女が立ち上がって椅子に座るようにと促した。営業時間を聞いたら、朝の8時から深夜の1時までだそうだ。なぜ一日17時間も営業してるんだ? 人民をそんな長時間も労働させていいのか? ますます怪しい。女はまず私の首に前掛けをし、洗髪台に頭を突っ込むようにと手振りで示した。その通りにすると女はいきなりシャンプーをし始めた。片言の英語ながら、いろいろと話しかけてくる。 (普通の理髪店に見せかけてるな。パチンコ屋が店内で出玉を換金すると賭博と見なされるから外に景品所を設置するように、これは当局を欺くためのカモフラージュに違いない)
 シャンプーが終わると女は聞いてきた。 「マッサージはどう?」 (きたあーっ!) 「フェイス・マッサージもあるし、全身のもあるわよ」 「いっ、いくら?」 「100元(1元は約14円)」(高い) 私は考えこんで顔のマッサージを頼むことにした。顔だけなら安心だろう。 「それじゃあ、こっちへ」 なんと女は店内にある個室へと案内するではないか。ドアを閉め、二人っきりになる。広さは二畳ほどだ。 (やばい) 棚にはいろいろな乳液やらクリームやらが載っている。 (ますますやばい) 私はリクライニングの寝椅子に寝かされた。 (ドキドキ) 女は私の顔にクリームを塗り、マッサージを始めた。それが終わると先端が輪になった金属製の細い棒で顔を突いてきた。(ん?) あ~、気持ちええ。これは毛穴から脂を抜き取るためらしい。さすが中国式マッサージ。お肌がすべすべ。 「次は全身のマッサージしてみない?」 (きた、きた、今度こそきたあーっ!) 
「あのお~、それってどんなマッサージ?」 「は?」 「だから、どういった類いのマッサージかな、と」 「言ってる意味が分からないわ」   ここでやめたらせっかく潜入した今までの苦労(なのか?)が水の泡だ。私は不本意ながら受けて立つことにした。さあ、殺せ。女は気合いを入れると、脚から腕から背中から、仰向けからうつ伏せにしたりと汗だくになりながら長い時間をかけて体中を揉んだ。サンダル履きで一日中歩いていたので足はまっ黒。女は一瞬ひるんでいた。終わると体力を使い果たしたのだろう、フラフラと奥へ引っ込んでいった。最後に若い男がハサミとバリカンで念入りにカット。ドライヤーをかけ、スプレーで仕上げ。終わった。1時を過ぎているのに年配の客が一人、入ってきた。(なぜ1時に髪を刈りに?)
 料金はマッサージが100元、シャンプーが100元、カットが50元。それを230元まで値切った。今回、多額の調査費を投じて私が得た物は中国式ヘアカットと、北京の床屋は健全な床屋だったという事実だ。諸君、北京に来たら安心して調髪してもらえよ。その前に料金はちゃんと聞いておくように。体はきれいだったが、お金もきれいになくなった。ふっ、私の思い過ごしだったようだな。疑って悪かったぜ。だけど中国人、ぼるなよおおおおお~っ!!(魂の叫び) しかし、中国はこれで終わるほどまだまだ甘くはなかった。(というわけで上海編につづく)

 皆様への伝達事項
紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。 
北京の理髪店
 ~注目してもらいたい部分~
営業時間を聞いたら、朝の8時から深夜の1時までだそうだ。なぜ一日17時間も営業してるんだ? 人民をそんな長時間も労働させていいのか?


 床屋さんが長時間営業してるのは人権侵害と時差ボケで困ってる外国人向けか? ドリアン長野にとっては期待外れであったのかもしれません。外国で散髪してもらうより日本で済ませてから出国するか在外邦人に行ってもらいましょう。
国境紛争と観光は別だと考えたのか平成15年以前に中国旅行されました。日中友好平和条約が機能してるかどうかについて懐疑的な人は多いが結局は旅や仕事で中国へ赴く日本人はいます。為替相場ですが平成の時期は一元¥14でも令和六年三月は約¥21です。
ドリアン長野は北京に赴いた後で上海も旅しましたので今回は特別に北京旅行記並びに上海旅行記も同時に投稿します。
 なお、上海に限っては二回渡航されました。

 ドリアン長野の上海旅行記
 #23 飛んで上海 at 2003 10/31 19:02 編集

 出発前から中国だった。関空に着いたら、いきなり飛行機が2時間の延着だ。仕方なく待っていたら今度は変更(って?)ということで更に1時間待ち。中国国際航空に乗るはずだった我々はなぜか中国東方航空機に乗せられ、予定より3時間10分遅れでやっと飛び立った。機内放送ではそのことについては一切触れられることはなかった。やるな、中国。さすが豪放磊落、天衣無縫、質実剛健の中国人だ。少しぐらい遅れたからって、四の五の言うんじゃねえよ、墜落するわけじゃあるめえしよ、という態度に私は好感を持つぞ。いいぞ、中国、等とその時はまだ余裕をかましていられた。
 夜の8時に上海虹橋空港着。飛行機の中で今夜泊まるホテルを決めていたので、予約しようとうろうろしていると、「タクシー?」 と小説家の猪瀬直樹にそっくりの男が寄ってきた。
 「○○ホテルに泊まりたいんだ」と言うと猪瀬は「知ってる」と言う。ああ、いつもならそんな手口には乗らないのだが、なぜか猪瀬の後をのこのこと付いて行き、タクシーに乗った。助手席には別の男が乗り込んできた。アジアではこういう事はよくある。タクシーを私用に使うのは日常茶飯事、勝手に友人や家族を乗せたりするので私は気にも止めなかった。猪瀬の相棒が高級そうなホテルのパンフレットを差し出す。
 「○○ホテルは古くて部屋も狭い」
 案の定、タクシーはパンフレットの高級そうなホテルの前に着いた。 「この野郎~」と思ったが宿泊費を聞くと、そう高くはない。夜も遅いし、この高級そうなホテルに泊まることにした。ボーイに案内されて高級そうな部屋に入ると猪瀬たちも付いてきた。ボーイが出て行くと、猪瀬が両替しないか? と言う。レートを尋ねると銀行と同じなので1万円換金することにした。これで用は済んだと思ったが、極悪人の猪瀬はその後、信じられないことを言ったのだ。
 「ハイウエイ代の100元とタクシー代の100元を払ってくれ」
 てめ~、空港でタクシー代はホテル代込みだと言ったじゃね~か。そう言うと 「サービス込みだと言ったが、料金込みだと言った覚えはない」 とわけの分からんことをぬかしやがる。渋々100元だけは渡したが、あとの100元は絶対に払えんっ! と長い間言い争った。しかし、極悪人猪瀬は諦めない。朝まで言い争っていてもよかったのだが、私は言い争いをしにわざわざ中国までやって来たのではない。観光をしに来たんだ、観光を! 明日も早いのでいいかげんに寝たい。私は負けた。極悪人猪瀬に100元払って追い返した。くっそ~、お金も惜しいが、それ以上に極悪人猪瀬に負けたことが悔しい。気分を変えようと食事をしに外に出たが、レストランも食堂も屋台も何もない。あるのは高級そうなアパートと理髪店だけだ。(ここもかいっ!) どうやらここは上海のはずれのようだ。その夜はローソンでハンバーガーとジュースを買ってホテルに帰る。(何で上海まで来てこんなもん食べとるんやあ~~! 猪瀬~っ、てめえのせいやあ~!!)
 翌日は市街地にある東亜飯店に泊まる。このホテルは上海銀座と呼ばれる南京路に面しており、常にごった返している。夜ともなるとネオンサインがまたたき、地元の人間と観光客とおのぼりさんと物乞いでにぎわう。あ、それと忘れてならないのが繁華街には必須の売春婦とポン引きである。上海ガールもさることながらしつこいのがポン引きだ。もし、あなたが上海に来て東亜飯店に泊まり、夜になって南京路に一歩でも足を踏み出してごらんなせい、びしっとスーツに身を固めた兄ちゃんがすっと近寄り「女はどう?」と聞かれる確率はインドのデリーで観光客がお金をせびられる確率に等しい。さらに歩くと3メートルごとに声をかけられるのは間違いない。南京路を端から端まで歩くと、少なくとも20人からは声をかけられるだろう。(私はここをポン引き通りと命名) バカも~ん、それでも中国か! 全く嘆かわしいわい(by 磯野波平)。私も一人の兄ちゃんにマークされ、しつこく勧められるのでしつこく断るのだが、諦めないので「女は嫌いだ。男がいい」と言うと、「それじゃあ、カフェに行こう。案内するよ」と後ろも見ずにスタスタと歩き出した。バ~カめ、他のカモを探すんだな、と私は反対方向へ歩き始めたのだが、そういえばテレビのバラエティ番組でアグネス・チャンがこんなことを言ってたな。
 「中国で誰かが結婚するとするでしょう。相手が上海人だと親は『とんでもない! やめなさい!』って反対するんですよ。ホント、これホントの話ですよぉ」 こんな十何年前の話を思い起こさせるとはさすが中国三千年の悠久の歴史。 私が親だったら、やっぱり反対するな。(まだつづく)

#24 飛んで上海 その2

上海の裏通りを歩いていると、かつてはここいらに阿片窟や娼館が立ち並んでいたのかなと感慨深いものがある。租界時代に建てられたオールドホテルの「和平飯店」なんか往事を偲ぶよすがとなるに充分だ。ここにあるオールド・ジャズ・バーでスイング・ジャズに耳を傾けていると魔都と呼ばれ、スパイが暗躍した国際都市上海の在りし日の姿が彷彿としてくる。嗚呼、東洋のマタハリと呼ばれた男装の麗人、川島芳子と李香蘭(実は日本人、山口淑子)との倒錯した怪しいロマンス。「白蘭の歌」「支那の夜」そして「上海の女」に江湖の婦女子は紅涙をしぼるのであった、って私はいくつやね~ん! (と一人でつっこんでます)
 アミューズメント・パークの「大世界(ダスカ)」はレトロ。老朽したビルの中に小部屋がいくつもあり、京劇、奇術、映画館、ディスコ、ゲーセン、似顔絵、お化け屋敷等をやっている。野外ステージでは私が行った時は子供たちが雑技をやっていた。ここの雰囲気は日本の昭和三十年代であり、大阪の新世界界隈に似ている。そういえば、ダスカの作りはフェスティバルゲートにそっくりだ。もしかしたらダスカにコンセプトを合わせて作ったのかもしれない。レトロっていうのは古い感覚と新しい感覚との境界線にできるのだと思うが、その極めつけが街のあちらこちらにあるカフェだ。 
 上海でカフェと呼ばれる喫茶店は上海人にとってのおされな社交場となっているらしい。外装も内装も全然、垢抜けてないのがかえって新鮮だ。私の入ったカフェは席がつい立てで仕切られていて(同伴喫茶?)、ビニールのテーブルクロスの上にアクリル板が敷いてあり(う~ん、レトロっすねえ)、ろうそくが立っている。何だか懐かしい。コーヒーはネスカフェで15元。ソフトドリンクはココナッツジュースしかなくて(しかも缶入り)、20元。日本人は珍しいらしく、店の人たちが話しかけてきたので彼女たちと筆談をした。
 上海を旅した人の本を読んでいたら、上海風呂に入りたくなった。幸い、宿泊しているホテルの裏に「浴徳池」という大きな垢すり風呂がある。さっそく行ってみた。まず、バスタブにつかって、体をあたためる。それからすっぽんぽん状態で大理石の台の上に寝そべり、垢すりをしてもらうのだが、これがくすぐったい。それが終わると個室に案内される。バスタオルを腰に巻いて待っていると、男が二人現われた。一人はマッサージ担当で全身を隈無く揉んでくれる。もう一人は手足の爪を切り、やすりで磨き、角質まで削ってくれた。その間にも別の男が煙草を勧めたり、コーラを持ってきたりと至れり尽せりである。全行程の所要時間は2時間。いい気持ちで受付に行き、請求書を見せられてびっくり! アメリカン・コミックなら目玉が30センチほど飛び出てたね。 二人分で884元!(その時は友人と行ったのだ)
 明細を見ると、爪磨き代はもちろん、コーラ代やおしぼり代までしっかりとつけられていた。そうならそうと、事前に言えよっ! 
 「高い」と思わず言うと、「タカクナイヨ。ニホンジン、ミナハラッテクレルネ」(日本語)と言うのだが、日本人は納得して払ってんのか?
 「もう少し安くならんか?」とねばっていると、従業員が五、六人出てきて無言で圧力をかけてきた。暴力バーならぬ、暴力風呂かいっ、ここは。そんなことだったら、六人の男にチップを計220元もやらんかったらよかったわい。
 「女、いらない?」 帰り道で追い討ちをかけるように、またポン引きが声を掛けてきた。(しかも同じ男) 
 ということで、今回の旅で得た教訓。「インド人と中国人には勝て~~んっ!!」 はいっ、大きな声で皆さんも御一緒にっ! (泣) 

NO56 上海日記 1日目 at 2005 01/15 21:22 編集
12月19日
年下の友人K君から何年か振りに電話があった。四方山話のうちに彼が言った。
「ドリアンさん、僕今年パスポート取ったんですけど、一緒に海外旅行行きませんか」
「そりゃいいけど、年末まで10日しかないで。もうチケットは残ってへんで。あったら奇跡やわ」
「奇跡ですか。可能性としたら何パーセントくらいですか」
「まあ、消費税くらいやね」
「5パーセントですか.....。ドリアンさん、こんな話を知ってますか。本田技研の創業者の本田総一朗はですね、小さな町工場から始めてですね.....」 K君はなぜか突然熱く語り始めた。
「ですから、たとえわずかな可能性でもそこに賭けてみるのが男のロマンかと.....」
「わかった、わかった。君の言いたいことは、よ~くわかった。インターネットで調べてみるけど、あんまり期待せんといて」
と言って電話を切って、一応検索してみることにした。リーマン・パッカーは年始年末と盆休みとゴールデン・ウィークしかまとまった休みが取れへんからなあ。俺も半年くらいアジアを放浪してみたいで。バンコクはっと......。やっぱり満席やがな。インドもどっこも満席や。不況いうても年末になると日本人はどっと海外に行くからなあ。どこが不況やっちゅう話やねんな。日本人は兵役みたいに全員一週間インドに行くことを義務づけたらええと思うわ。正月ハワイに行くやつは死刑や。ロサンゼルスに行くやつは帰ってこんでええ、って俺は小言じじいか。過去になんかあったんかいな。マニラも一杯や。当たり前やな。年末のチケットいうたら二か月前から予約すんで、フツー。ラオスもミャンマーも直行便飛んでへんからなあ。一週間の休みやったら無理や。
北京も駄目、上海は、おっ、あった。あったがな、こんな時期に。やっぱり本田は偉大や(なんのこっちゃ)。早速、K君に電話する。
「奇跡は存在したで。上海行きあったで」
「えっ、本当にあったんですか」
あんなに熱く語ったはずのK君の声はものごっつう不安気だった。Why?

NO57 上海日記 2日目 at 2005 01/18 22:23 編集
12月20日
K君はほんまにびびっていた。初めての海外旅行なのはわかるが、それにしても尋常ではない。
「危険な所に行くのはやめましょうね」
「上海に危険な場所はないっちゅうねん(あったら行ってみたいわ)」
「ドリアンさんも日本に待っている人が大勢いると思いますから、くれぐれも無事に帰国しましょう」
「俺たちはイラクに行くジャーナリストとちゃうで」
「お金はいくらかかっても構わないので、命を最優先に考えて下さい」
「君は自衛隊の中隊長か。でも、ひょっとしたら無言の帰宅ってこともありえるなあ」
「ええっ!」
びびっているやつをいちびる(からかう)のは面白い。
その夜、K君からメールが入った。
「中国ってビザいりますよね。 今からでは間に合わないのでは?」
すっかり忘れてた。
慌ててインターネットで調べ、池袋にあるビザ取得代理店にパスポートを明日一番の宅配便で送ることにした。果たして間に合うのか。K君から電話。
「その代理店、大丈夫なんでしょうね、パスポート送っても」
「もしかしたら歌舞伎町の蛇頭(人身売買をするスネークヘッドという犯罪組織)に横流しされるかもね」
「ええっ!」
K君の心配は尽きないのであった。

NO58 上海日記 3日目 at 2005 01/25 23:50 編集
12月30日
「全員整列、番号!」
「1」
「2」
「これからわれわれ上海使節団は上海に向けて出発する。何か質問は?」
「チャイニーズ・マフィアには充分気をつけましょう」
「そんなものはおらん!」
「危険だと思ったらすぐ引き返す勇気を持ちましょう」
「われわれはK2に登りにいくんじゃない!」
ビザはやっと出発前日に届いた。ただ、ガイドブックを読んだら2003年9月から15日間以内の滞在ならビザは不要と書いてあったが。(1万円返せ!)
関空に到着したK君は不安で寝不足と食欲不振が続き、蒼い顔をしていた。
とにもかくにも上海に到着したが、入国検疫申告書を書くのを忘れていたわれわれは係員に呼び止められ、そこで書け、とあごで指示される。初めて接する中国人の横柄な態度にK君はびびる。入国審査を待っている時も行列の中国人同士が割り込みでケンカを始めた。K君、ますますびびる。
「レンミングァンチャン(人民広場)!」
空港前で待っているバスの女性車掌に声をかける。彼女は「満席だよ。次のにしな」と答えた。(私は中国語がわからないので、英語以外は推測です)
「次は何時?」
「10時だよ(夜の)」
「あと40分もあるやん!」
日本語で言うと、「しかたないね。乗りな」とバスの入口を指し示す。バスが動き出したので、外を見ると雪が降り積もっている。凍結した道路では追突したり、ガードレールにぶつかった車を何台も見た。人民広場で降り、地下鉄を探すがむちゃくちゃ寒い。このままではホテルにたどり着く前に凍死してしまうではないか。はんぱねー!歩いていると寒いので全速力で疾走し、コンビニを見つけると飛び込み、道を尋ねるついでに暖をとる。ようやく見つけた地下鉄(中国の地下鉄の出入口は明かりがついていないのでわかりづらい)で河南中路駅まで行き、そこから歩く。われわれが目指すのは浦江飯店だ。外灘(バンド)で、いや上海でバックパッカーが泊まるホテルといえば、ここしかない。空室があればいいが。もうすぐ日付けが変わる。

NO59 上海日記 4日目 at 2005 02/02 20:17 編集
12月31日
7時半起床。トイレの窓から外を見ると一面まっしろ。黄浦江を巡航する船の警笛が聞こえる。浦江飯店はバンドで一番古いホテルだ。チャップリンもアインシュタインもお泊まりになられたが、宿泊費は高くない。バックパッカーの御用達になっているのはドミトリーがあるからだ。ホテル自体は租界時代に建てられただけあって、アールデコで趣がある。われわれの泊まった二人部屋の前は吹き抜けになっていて、広い廊下には租界当時の調度品が展示されていた。
昨夜は12時前にチェックインした。空腹だったが、寒波の中を出ていく気にもなれず、ルームサービスでチャーハンを食べた。眠りについたのは2時過ぎだったと思うが、K君は不安でほとんど寝ていないそうである。そこまでテンパってたら、しまいにゃ死ぬで。われわれは気合いを入れて空手着に着替えた。上海で空手と太極拳の交流をしようという日中友好的な計画を立てていたのである。場合によっては異種格闘技戦も辞さぬつもりだ。カンフーでもなんでもかかってこい(どの辺が日中友好やねん)。意気込んで飛び出したのはいいが、ほんまにものごっつうハンパじゃなくひたすら寒い。いつもは物売りで足の踏み場もないほどの外白渡橋も今日は誰もいない。目指す黄浦公園はホテルから走って3分ほど。公園の入口で警備のおっちゃんに「滑るから気をつけな」と声をかけられた。
「太極拳は?」
「寒いから休みだ」
いきなり計画失敗。寒さに異常に強い中国人もさすがに今日は無理?って感じ? 口ほどにもないぜ、今日はこのくらいにしといたるわとバンドの凍結した遊歩道をこけながらジョギングして帰ったのだが、われわれ日本人の姿はよほど奇異に見えたのであろう。ホテルの従業員にじろじろと見られる。この寒波になんて物好きなってか。おれたちは見せ物じゃねえ、散りな。しっ、しっ。今度泊まりに来た時は帝国陸軍の軍服で来てやるぜ。日本鬼子と書いた鉢巻きを締めてなって、冗談っすよ。冗談。そんなにムキにならなくてもええやんか~(誰に言うとんじゃ)。

NO60 上海日記 4日目(続) at 2005 02/09 22:13 編集
部屋に戻ろうとすると、廊下の展示品を見ている二人の日本人がいたので声をかける。彼らは6階のドミトリーに泊まっているそうだ。
「僕らも昨日の夜に上海に来たんですけどね、ドミに金城武そっくりの男が泊まってるんですよ」
「えっ、金城武!」
「ほんとにそっくりですよ」
「まさか本人じゃあ.....」
「見に来ますか」
「行く行く行く!」
ここのドミは男女別になっているそうだ。部屋も清潔で窓からはほんのわずかだが黄浦江が見える。彼らの他には日本人と韓国人が一人づつ泊まっていた。韓国人が聞く。
「何でそんなかっこしてんの? パジャマ代わり?」
「公園をジョギングしてきたんだ」
「はっはっはっ。クレージー」
ほっとけ。
「あれ? さっきまでいたのにな。出かけたみたいですね」
あ”~っ、残念。タケシ、私をおいてどこに行っちゃたの。
「タケシの寝ていたベッドはどこかしら?」
「は? あそこですけど」
「タケシ~」と叫んでベッドに飛び込む。
「.............。私、別に変態じゃないからね」
「は、はあ~」
「われわれはこんなことしてる暇ないねん(お前が勝手にやってただけやろ)。早いとこ、このホテルをチェックアウトして新しいホテルに移らんと」
「どこに泊まるんですか」
「ピース・ホテル」
「あそこ、空いてるかなあ。昨日も満室だと断られて、ここのドミに来た人がいましたから」
「とにかく行ってみるわ。タケシに会ったら、よろしく言っといて」
ピース・ホテル(和平飯店)は上海銀座の南京東路を挟んで北楼と南楼がある。和平飯店といえば、バンド。バンドといえば、和平飯店だというくらい、バンドを象徴するホテルである。一生に一遍だけ泊まってみても罰は当たらんだろうと思ったが、今日も明日もあさってもやっぱり満室だった。仕方なく、その日はバンドの対岸にあるホテルに泊まる。部屋から小学校の校庭が見えるのだが、この寒さにも何のその、大勢の大人がダンスを踊っている。今日は大晦日やったなあ。それにしても寒くないんか?

NO61 上海日記 4日目(続々)at 2005 02/16 23:29 編集

 その夜、オールドバーでジャズを聴くために再び和平飯店を訪ねた。メンバーは平均年齢70歳台の老人であり、このホテルの名物である。大晦日のせいか、満席で少し待たされたが、相席でテーブルに着いた。アメリカンスタイルのカウンターやローソクのシャンデリアが租界時代を想わせる。一時間ほど演奏を楽しんだ後、和平飯店を探索することにした。もう十何年も前のことだが、桐島洋子さんの本でこんな文章を読んだことがあったのだ。
「和平飯店は40年前にはじめて上海に渡ったときにしばらく滞在したキャセイ・ホテルであり、このホテルこそ私にとって外国の原体験なのだ。幼い私が絶望的に長い廊下を魔法使いに追いかけられながら必死に走る夢を今でも私はときどき見るが、それは明らかにこのホテルの廊下であり、魔法使いの方はディズニーの白雪姫の継母である。
40年ぶりに歩く廊下は気味が悪くなるほど夢の中の景色のままだった。」 (大草原に潮騒が聴える)http://amzn.asia/0Hyeswq
その幻想的な廊下のイメージは上海、キャセイ・ホテル(和平飯店北楼)、といった妖しい響きと相俟って、まだ海外に出たことのない私の脳裏にしっかりと刻み込まれた。その長年抱いてきたイメージがついに目の当たりになろうとは。エレベーターで階ごとに降り、廊下を歩く。赤、階によっては青の絨毯が壁の淡い照明に浮かび上がり、進むにつれて租界時代にタイムスリップしていくようだ。南京条約によってイギリス軍が上海を開港し、さらには欧米列強諸国が管理する共同租界となったバンド。極東最大の都市、アジアの貿易、金融の中心地、日支間の思惑が交錯した国際都市、魔都、上海。初めて足を踏み入れた和平飯店は私にとっても想像と寸分たがわぬ光景だった。

NO62 上海日記 4日目(続々々) at 2005 02/21 23:38 編集

ホテルを出て帰ろうと南京路を歩いていると、逆方向からわさわさと人が歩いてくる。しばらくすると今度はばらばらと大勢の人が走ってきた。時計を見ると12時前。われわれも急いで彼らについていく。バンドの地下道は人民であふれている。暗いので物乞いを踏んづけてしまった。ご、ごめん。あっ、今度は物売りを踏んづけた。遊歩道に出ると、人民と外国人で立錐の余地もない。カウントダウンが始まり、新年になるとあちこちで花火が上がる。2005年の始まりは上海だったかと感慨にふけりながら歩いていると、途中で浦江飯店に宿泊していたバックパッカーたちと出会う。彼らもバンドでカウントダウンを祝い、今から同宿の9人で飲みに行くそうだ。一緒にと誘われたが、われわれは酒を飲まないので残念ながら辞退した。私はドミトリーにはほとんど泊まったことがないのだが、ドミもいいもんだな~と思う。地下鉄が止まっていたので、タクシーを捕まえようとするが、空車が走っていない。近くの交差点で客を降ろすためにタクシーが停まったので、猛ダッシュで飛びつく。血相変えながら日本人が飛び込んできたので、運転手もさぞかし驚いたことであろう。それにしても、どのタクシーも助手席と後部座席は強化プラスチックで運転席と完全に分離されている。上海も物騒になったもんだ。1時帰館。

NO.63 上海日記 5日目 at 2005 03/02 23:44 編集

8時半起床。寝ているときに寒さで何度もトイレに行ったが、エアコンの暖房がいつの間にか冷房になっていた。これが噂に聞くチャイナマジックか。K君は「風邪をひきましたあ」と情けない声を出して、げほげほいっている。次の宿泊地の豫園にタクシーで移動。上海の観光地といったらバンドと豫園しかない。豫園は明代に造園された役人の個人的な庭園で、何度も破壊されながらも修復され、今に至っているそうである。庭園の横には土産物屋や上海料理店がひしめき合い、屋台では人民が小吃(スナック)に喰らいつき、子供はわあわあと走り回り、中国のおのぼりさんがあっちこっちで記念写真を撮りまくり、ツアーの日本人観光客がぞろぞろと土産物を買い漁っているという、浅草をもっと巨大にしたような感じである。豫園内にある上海老飯店というレストランの中にあるホテルにチェックイン。上海老飯店は1875年創業の老舗で、ホテルに貼ってあった写真によると、江沢民もクリントン夫妻も食事に来たことがあるそうである。うふふ、たまにはこれくらいの、じゅるるっ、おごっそうを食べても、よだれが、いいんじゃないかい。今晩の食事が楽しみだ。

NO64 上海日記 5日目(続) at 2005 03/10 22:09 編集

日本の団体ツアーに紛れ込み、添乗員の説明にうなづきながら庭園を見てまわる。最後にはしっかりと記念撮影にも収まった。そこから歩いて老西門(ラオシーメン)に行く。ここら辺は租界時代も外国人が立ち入ることができなかった地域で猥雑な下町である。路地には古い木造アパートや商店が犇めき、軒先からは洗濯物が邪悪なオブジェの如くこれでもかというほど垂れ下がり、女性の下着もためらうことなくこれでもかというほど干してある。下着泥棒なんかは出ないのか。馬桶(マートン。簡易便器)にたまった糞尿や生ゴミを捨てにくる公衆ゴミ集積場もあって、冬だからいいものの夏場はかなり臭いそうだ。遠くに見えるバンドの近未来的なビル群とのコントラストが何だかおされである。え~っ! うっそ~! ここがあのチョーおっしゃれ~でリッチな上海なの~? ケイコ、まじで信じられな~いって感じい。などとツアーのギャルを連れてきたら言いそうだ。そんなことよりも、びびってばかりのK君がここにきて目が輝きだした。
「すごいですね。これこそ庶民の街ですね」
異常に興奮している。腹が減ったので近くの小汚い食堂で焼そばを食べる。
「スープも注文したいんですけど、中国語で何て言うんですか」
「湯(タン)だよ」
夢中で麺をすすり、スープを飲み干すK君。今まで緊張でろくに食べてなかったので無理もないか。食事を終え、外に出る。
「あれで5元(65円)って安いですねえ。スープはおまけしてくれたんですね。これこそ庶民の食事ですよね」
と、庶民を連発するK君。ちょっとうざいんですけど~。

NO65 上海日記 5日目(続々) at 2005 03/18 18:34 編集

「髪を切ってもらいましょう。記念になりますから」
と、K君はどんどん歩きだし、一軒の散髪屋に入っていった。料金を聞くが、いかんせん通じない。やっと三軒目で5元だと言われ、切ってもらっていた。もともと彼の髪は短かったのであまり変わらなかったけど。そこからさらに南に下って、文廟(ウエンミャオ)へ。ここら辺も日本の昭和初期みたいな感じである。「洗足屋」を見つけ、入ってみる。マッサージ用の寝椅子が三つあるほどの小さな店。家族でやっているようだ。中学生くらいの少女が二人出てくる。よくしゃべる彼女たちに中国語を教えてもらいながら、一時間ほど足をマッサージしてもらう。料金は15元(200円)だった。外に出ると、まだ6時なのにあたりは真っ暗。ほとんど明かりがない。来た道に戻ろうとうろうろする。公衆便所を見つけ、入ろうとすると暗闇の中から男の白い顔がぬっと現われた。初めは、いやぁっ、生首!とびっくり。近づくにつれて、なんだ、便所の料金を徴収するおっちゃんかと思っていたが、中に入ってみてもっとびっくり。おっちゃんは小便の溝に向かって大便をしていたのだった。そこは小便専用の便所で、大便できる便所は有料だからなんだろう、きっと。恐るべし! おっちゃんの横で用を足しながら、K君と「中国人はすごいな」と感心しあうのであった。

NO66 上海日記 5日目(続々々) at 2005 03/23 21:07 編集

ホテルに戻って上海料理を堪能する。ピータン、魚と椎茸のスープ、上海蟹と豆腐の混ぜ物、川エビの揚げ物、魚の醤油煮、揚州炒飯。我を忘れてがっつくほど、全て絶品である。しかも、これだけ食べても一人1300円ほど。
「さすが老舗レストラン。うまいねえ」
とK君に言っても、「はあ~」と気のない返事をするばかり。彼にとっては下町で食べた食事の方がよほどご馳走だったらしい。
10時過ぎにタクシーで淮海中路へと繰り出す。ここは上海の若者が集まる最先端のおされなストリートだ。上海在住の美人作家、衛慧(ウェイホェイ)の「上海ベイビー」には、「この地域は、ニューヨークの五番街、あるいはパリのシャンゼリゼ通りに相当する。」などと書いてある。われわれが目指すのはクラブ&ディスコの「ROJAM」である。上海にクラブやディスコは数多くあれど、ナンバーワンといえば、小室哲哉プロデュースのここである。音楽情報発信地として、アジアのミュージシャンのライブにも使われている。最近では藤井隆(フミヤじゃないよ)のライブも行なわれた。入場料80元はバカ高いが(正月料金か)、ディスコ・フロアーは既に芋の子を洗うようだ。英語のDJに乗って、轟音のようなサイバートランス&クラブミュージックが炸裂し、ライトとスモークが交錯しちゃったりして、もう大変なんである。いや、実は大変なのは私なのだが、いいから落ち着け。それにお立ち台というか、ステージがある。それを目にすると、たちまち辛抱たまらんの脳がスイッチオ~ン! 犬のように駆け上がり、踊りまくる。ああ、何て気持ちいいのかしら。生まれ変わったら、ダンサーになるわ! サンキュー、てっちゃん(注:小室)! 汗びっしょりになり、ジャケットの靴も靴下も脱ぎ捨て、〇ロインを求め狂うジャンキーのように1時間ノンストップで踊った。ホントはもっと踊っていたかったけど、K君が風邪気味なので早く切り上げることにした(大人)。そのK君はフロアーでぼ~っとしていたら、女性客に、「飲み物おごってあげるわ」と声を掛けられたそうだ。断ってよかったな。ついていってたら、有り金全て没収されてたな。
外に出ると、夜風が火照った肌に心地いい。「踊り~疲れた~ディスコの帰り~」(by BORO)のメロディーが頭に鳴り響くのであった(ふるぅっ)。ホテルに1時帰館。  

NO67 上海日記 6日目 at 2005 04/19 22:36 編集

8時起床。戦前に日本人が多く住んでいた虹口(ホンキュ)地区に移動。ホテルの目の前に魯迅公園がある。近くにある多倫路文化名人街で食べた6角(8円 平成17年当時の金額)の肉饅がとても美味だった。地下鉄で上海駅に行くと、ものすごい人。地下鉄のホームで待っていた小姐(若い女性)がどどっと降りてきた乗客に揉みくちゃにされ、くるくると回転していた。観察していると、白線の前に仁王立ちして電車のドアが開くと同時に乗り込もうとする者があちこちにいる。もちろん吐き出される乗客の圧倒的な物量に負けてあちこちでくるくる舞っておるが。なぜだ? なぜ中国人はちゃんと列を作って待ってられんのだ。しょっちゅう、服務員が「ちゃんと並べ!」とマイクで青筋立ててがなってるぞ。そういえば、ぎゅうぎゅう詰めのバスでも、降りようとする者より先に乗り込もうとするお茶目なやつらだからな。なぜ学習せん、中国人! けど、あの回転している中国人を思い出すと、悪いが笑ってしまうわあっ! ぶあっはっはっはっはあ! くっ、苦しい、笑いすぎて涙が....。

NO68 上海日記 6日目(続) at 2005 04/12 23:54 編集

今日は日曜なので宗派を問わず礼拝できるという「国際礼拝堂」に行く。着くとすぐにシンガポール出身だという信者が案内してくれた。中国語の聖餐会が終わり、今から英語の聖餐会が始まるそうだ。礼拝堂はゴシック様式でとても広い。これほどりっぱな教会がよく文革で破壊されずに残っていたもんだ。徐々に人が集まり、時間になると二階席までびっしりと埋まった。ざっと数えてみても800人はいるだろう。説教台でアコギにアンプをつないだ黒人青年がいきなり歌い始めた。
「主を讃えよう。主と共に歩もう。天国はわれらのもの」
スクリーンに歌詞が写し出され、800人が立ち上がって合唱する。壮観。ゴスペルではなく、何と言うかこれはアメリカン・ポップスである。感極まって全身をうち震わせながら歌う者もいるのだが、賛美歌が終わっても黒人青年はギターをつま弾きながら何かつぶやいている。ラップでも始めたのかと思ったが、よく聞くと彼はお祈りをしているのであった。周りを見るとさっきまで歌っていた信者は目を閉じて頭を垂れている。このように歌と祈りの境界線のない賛美歌が何曲か続き、中国人、白人、黒人の牧師による説教があり、再び賛美歌を歌い、二時間半におよぶコンサートじゃなかった、礼拝は終了した。信者が席を立っても黒人青年はギターをかき鳴らしながら、延々と歌っている。もう少しすると、第三部のコンサートじゃなかった、礼拝が始まるのだろう。近くにいた、上海の大学に留学中だという日本人女性に話を聞いてみた。
「以前より緩やかになったといっても、まだまだ中国ではキリスト教に対して規制がありますね。ほとんどのクリスチャンは日曜に各家庭でお祈りをしています。教会も少ないんですけど、こうやって皆と集って礼拝できるだけでも恵まれています。集会しただけでも処罰された時代もあったそうですから」
中国のクリスチャンに幸あれ。

NO69 上海日記 6日目(続々) at 2005 04/20 21:50 編集

夕食をとりに南京東路へ。この上海一の繁華街に行くたびに思うのだが、中国のホントに田舎から出てきた人民がこの通りに来たら、腰を抜かさんばかりに驚くだろうな。ここだけは香港の繁華街以上だ。その南京東路にある有名なイスラム料理店に行く。羊肉のしゃぶしゃぶを食べるためだが、さすが有名店だけあって待っている人が列をなしている。われわれは31番の番号札を渡された。おれたちの前に30人もいるのか.....。待っている間にも客は次から次へとやってくる。果たして今晩はここで飯にありつけるのだろうか。せめて、この番号札をあとから来た人に5元で売りつけられないだろうかなどと考える。見ていると、面白いのが案内係の小姐だ。まだ顔に幼さが残る彼女は、一人で怒濤のごとく押しよせる客の苦情攻撃に対処している。
「いつまで待たせるんだ」
「ただ今満席ですからもう少し待ってください」
「俺はさっきから待ってんだぞ」
「席があいたら知らせますから」
「いつだ!」
「番号札渡したでしょ!」
「ねーちゃん、俺にも番号札くれ。なに! 48番だと! どうなってんだ!」
「今日は予約が多いの! ごちゃごちゃ言わずに大人しく待ってなさい!」
とまあ、このように(あくまで推測だけど)客とのバトルが展開しているのだった。日本だったら、店員は「すみません」とひたすら平身低頭だろう。私も声をかけると、「はぁ~っ?!」とおもいっきり不機嫌な顔をされた。帰国してから日本のコンビニの過剰なサービスに違和感を覚え、彼女の不機嫌な顔を懐かしく思い浮かべる今日この頃。
結局、その日はあきらめて帰った。


NO71 上海日記 7日目 at 2005 05/03 23:12 編集

7時半起床。空手着に着替えてホテルを飛び出し、目の前の魯迅公園に突入。入口でおばちゃんが何か叫んでいたが聞こえないふりをしてそのまま駆け抜ける。確か入園料が2元だったような気がしたが、小さいことにこだわってたらあかんで、おばちゃん! 公園にいるいる。太極拳をしているグループがあちらこちらに。その中の10人ほどの小さなグループに混ざり、見よう見まねで動きについていく。太極拳には前屈立ちとか後屈立ちとか半騎馬立ちとか、空手の立ち方が動きの流れの中に一瞬入っていて興味深い。まだまだ寒いので、皆さん着ぶくれでダルマ状態である。こちらはTシャツに空手着だけなのできつい。1時間ほどで終了。教えていたおばさんに礼を言うと、「初めてにしては上手だったよ」とお褒めの言葉をいただく。 ホテルに戻り、バイキングの朝食(3つ星以上のホテルには朝食がついているのだ)を摂る。今晩が最後の宿泊になるのでどこに泊まろうかと思案し、もう一度バンドに行くことにする。上海最後の夜は外白渡橋のたもとに建つ「上海大厦」に泊まることにした。ここは川島芳子(清朝最後の王女。満州事変、上海事変でスパイ活動を行ったとされる。東洋のマタハリ、男装の麗人と呼ばれ、大東亜戦争終結とともに逮捕、銃殺刑に処されるが、銃殺されたのは別人で日本で生き延びたという説あり)が定宿にしていたという由緒あるホテルだ。外白渡橋を上海滞在中に何度渡ったことだろう。「あしたのジョー」の丹下ジムは確か泪橋のたもとにあったはずだ。
「ジョー、いつかはこの泪橋を笑って渡るんだ」と外白渡橋を渡りながらつぶやいてみる(ちょっとバカ)。

NO72 上海日記 7日目(続) at 2005 05/19 22:27 編集

上海の近代的な建物やおされな通りの裏には小汚い通りがセットになっている。そこには自転車に乗った人民が大挙して暴走し、アイドリング・ストップもなんのその、信号待ちでは空吹かしでぶおんぶおんいわせ、青信号に変わるとゼロヨンレースが始まり、歩道、車道所構わず屋台や物売りがひしめいているというアジアの正しい通りがある。そこで見つけた2元ショップでお土産を見繕い、露店CD屋で1枚5元の浜○あ○みや矢井○瞳や東○事変やア○リル・ラ○ーンのCDを買う。ふっと後ろを見ると、K君が買い食いしながら屋台のおっちゃんと楽しそうに話している。彼はこんな雰囲気の場所に来るとなぜか生き生きする。
そこで便意を催したので、近くの路地に入り公衆便所を探す。この狭い十字路は全体が日常雑貨を売る市場になっている。人込みをかき分け、便所にとび込み、排便する。
「よかった~。もう少しで中国でうんこたれになるとこだった」と立ち上がると、水が流れる。いやにタイミングよく流れるなと思っていたら、壁についているセンサーが作動していた。中国のトイレも進化したもんだと感心し、外に出るとK君が、「日本語がすごく上手なおねえさんがいて、もう少しでパンツを買わされそうになりましたよ。ちょっと、来てみてください」と腕を引っ張る。K君、何を考えてんだ?

NO73 上海日記 7日目(続々) at 2005 05/31 21:28 編集

K君に案内されて市場のまん中あたりまで行くと、われわれを目ざとく見つけたおねいさんが露店台に身を乗り出して日本語で叫ぶ。
「あんた、日本人ね。いいところ来た。パンツ買いなさい。カル○ン・クラ○ンのパンツだよ。あんただったらLサイズだね。1枚20元! とても安いね」
「とても安いねって、安くないよ。1枚10元にしなさい」
「なに、10元! 神様仏様。わたしもう首くくるね」
「おどかすんじゃないよ。高いからいらない」
「日本人お金もち、高くない。この毛沢東のTシャツ60元ね。小泉ヤスクニ行く、中国人怒るね」
「余計なこと言うんじゃないよ。これ友誼商店で50元で売ってたね。30元!」
「おー、あなた欲張り。上海物価タカイね。わたし暮らせない。首くくるね」
「わたしほんとの値段知ってるよ。欲張りあなたね。上海恐い、わたしもう来ないね」(言葉うつってる)
「なに言ってる、恐いのあなたよ。このライター買うか。80元でいいね」
と二人でわーわー言ってると、市場をうろうろしている靴磨きが集まってきた。
「あなたの靴磨く、オーケー?」
「こんなぼろぼろの靴磨いてもしゃーないやろ。ええって」
値切り倒したパンツとTシャツを抱え、手を振る。それでもやつらは
「磨かせて」
と五、六人があとをついてくる。ついてくんなっちゅうねん。帰りなさいって。磨きませんって。俺はブレーメンの音楽隊か。駆け足で逃げると一人がしつこく追いかけてきた。市場を出てもしばらくついてきたが、やっとあきらめて帰っていった。
「これ見て下さいよ」
とK君が片足を上げると靴に靴クリームがついている。
「あんなに熱心だったら磨かせてあげてもよかったですね」
K君がしみじみと言った。

NO74 上海日記 7日目(続々々) at 2005 06/02 23:17 編集

K君がもう一度行きたいというので、文廟に行く。入口で「案内しますよ」と日本語で声をかけられた。大学で歴史を勉強しているという彼女、劉(りゅう)さんはここでガイドのバイトをしているそうだ。受付で10元の入場料を払って中へ。
「文廟は孔子を祭っています。孔子廟ともいいますね。元は最高学府、つまり大学でした」
劉さんが説明してくれる。観光客はいなくて、ひっそりしている。いや、パリから来たというバックパッカーのパリジャンがいた。一人旅で寂しそうだったのでみんなで記念写真を撮ってあげる。う~ん、シルブプレ~(適当)。
「この部屋で科挙の受験勉強しましたですね。進士というのを知ってますか? 科挙の最高の位です。進士はさらに順位をつけるために殿試という試験を受けましたんです。ここの建物は文化大革命でほとんど破壊されました。ほとんどの建築物はのちに再建されましたんです」
中国の大学生は正真正銘のエリートなので、将来国を担うという意識が強いせいか、とてもよく勉強する。劉さんもテレビの日本語講座で日本語を勉強し、まだ一年目だそうだ。最後に聞いてみた。
「毛沢東をどう思いますか」
「中国人はみなさん毛沢東を尊敬してます。私も尊敬してますですね」
さすが建国の父。腐っても鯛か。ちょっと意外だった。

NO75 上海日記 7日目(続々々々) at 2005 06/13 22:51 編集

おととい行った洗足屋を探して下町をうろうろ。小さな町だけど、店が見つからなくてニ周も三周もする。夕暮れになるとあたりはすぐに暗くなる。
「ここら辺、歩いていると何だか懐かしい気持ちになりますね」
「そうやね。何度も歩いてるからこの町の路地に妙に詳しくなっちったな」
文廟の前の屋台を通り抜け、公衆便所がある四つ角をさらに真っすぐ進むと木造の崩れそうなアパート群がある。左折するとこれまた崩れそうな民家が続く。道端で野菜や肉を売っている路地を抜けると、雑貨屋や駄菓子屋の並ぶ通りに出る。西岸良平の漫画の半ズボンはいて洟をたらした子供が出てきそうだ。「狗肉」の貼り紙のある食堂(店員に聞くと売り切れだと言われた)を右折すると場違いなピンクの電飾で路地から浮いてるファンシーショップが一軒あって、ああ、あった。ここだよ。店に入ると生憎、家族で食事をしているところだったが、少し待ってから足をマッサージ。またもや中国語を教えてもらいながらたっぷり一時間。今日はぼられるかなと思っていたら、今日も15元だった。彼女たちが毎晩1時まで働くと聞いて、K君は「え~っ、信じられない」と目を丸くしていた。
帰りにスーパーに入ると、レジのおばちゃんが、「あんたたち日本人かい。テレビで日本のドラマをよく観るよ」と話しかけてきた。
「テレビで日本語を少し覚えたよ。『バカヤロー』とか『スイマセン』とかね」(どんなドラマだ)
そのうちに仕事を放り出し、店員が集まってきた。口々に質問し始める。一人が何かをしゃべると、それを聞いてみんながどっと笑う。あ~もう、わけ分からん。上海でもここら辺まで来ると外国人が珍しいのか。

NO76 上海日記7日目(続々々々々) at 2005 07/06 22:41 編集

火鍋レストランで羊肉を嫌というほど食べる。それでも二人で八百円ほど。ホテルに10時帰館。ついでだからとホテル内にあるお土産ショップを覗いてみることに。すると中からちょっと藤〇朋子似のにこやかな女店員が手招きをしている。
「見るだけ、いいですよ」
と中国人にはあるまじき愛想のよさである。
「ホントに見るだけよ。何にも買わないからね」
と一応念をおす。
「いいですよ。見るだけ、大丈夫ですよ」
藤田はあくまでもにこやかである。
「このプ〇ダのビジネスバッグ、四千円でどうですか。本物ですよ。安いですね」
「高いですね」
「高いですか。それでは三千円でどうですか」
「まだ高いですね」
「高いですか。いくらなら買いますか」
というやりとりがあって、結局そのバッグを二千円で買った。どう見てもニセモノには見えんが、原価はいくらなんだ。
「このネクタイどうですか。安いですよ」とまだ買わせようとするので、素早く退散する。
部屋に戻るとK君が「思い出にカラオケに行きましょう」と提案。なんで上海まで来てカラオケなんだと思ったが、あんなにビビってたのが生き生きとしてきたことだし、ディスコにつき合ってくれたことだしと彼について行く。ホテル内にカラオケがあったはずだ。一階のジャズバーに入ってみると、椅子に座っていた女の子がバネではじかれたようにこっちにやって来た。
「カラオケなんてないわよ。それより私たちとおしゃべりしたりダンスしたりしない?」
と言って、もう一人女の子を呼んできた。値段はドリンク代も含めて全部で百元だそうだ。何度もその値段を確認する。それでもアヤシイ。何回もぼられ倒されている私が(悪かったな!)思うんだから間違いあるまい。しかしその時は何とかなるだろうという気持ちと、どうなるんだろうという好奇心が一緒になって誘いを受けることにした。

NO77 上海日記 7日目(続々々々々々) at 2005 08/10 22:38 編集

その上海出身(自称)のミミという娘は、「休日に東京に遊びに行ったことがあるわ。大都会でびっくりした。日本、大好き。日本人も大好き」などと言う。そのうち、「私たちも踊りましょう」とフロアーに連れ出された。ものすご~ください音楽が流れている。アメリカの片田舎のカウボーイの格好をしたマスターがやっているダイナーでも今時こんな音楽はかけんだろう。こんなハワイアンバンドがアルバイトで地元のFM局の知り合いに頼まれて仕方なく急場でレコードに吹き込んだようなディスコ音楽では踊れんが、自分を殺して無理からに踊る。何だか悲しい。隣ではミミがにこやかに踊りながらも目に落ち着きがない。ますますアヤシイ。その隣では中年の日本人が二人のホステスとキャーキャー言いながら踊っている。ボックス席を見ると、K君がもう一人の大人しそうな女の子に中国語を教えてもらっている。どこまで真面目なんだ、K君。欲望にまみれた上海の夜。そこだけ静謐な空気が流れているように場違いだ。

NO79 上海日記 7日目(続々々々々々々) at 2005 08/18 23:00 編集

席にもどり、ちょっとするとK君が「帰りましょう」といきなり立ち上がった。中国語会話は終わったのか、K君? ボーイが請求書を持って来た。あろうことかそれには三百元と書いてある。やっぱりな、何回もぼられ倒されている私の勘が当たったぜ(悪かったな!)。内訳を聞いてみるとドリンク代が百元、それに女の子一人にチップが百元づつだそうだ。はあ~っ? 理不尽なぼりかたをするじゃないか。ぼるのは理不尽に決まってるが、第一に中国にはチップという習慣はない。第二になんで勝手にチップの額を決めるんだ。よって、そこのこわっぱ中国人、手討ちにしてくれるわっ! そこになおれっ!
K君が「何度も百元だと前もって確認したはずだ」と至極もっともな抗議をする。ボーイは「どういう意味だ?」とねめつけるようにして威嚇してきた。どういう意味だとう? キャ~ッ! もう辛抱たまらん、表に出やがれ、足腰立たんようにすまきにして揚子江にたたっこんでやるわ! われわれが押し問答をしていると、そいつは段々と弱気になってきて「払ってくれないとボスにその分のお金を立て替えなくちゃならないんだ」と言う。はっ、今度は泣き落しか。悪いのはいったい誰なんでしょね! 私は百元をテーブルに叩きつけてそこを出ようとしたがK君に呼び止められた。「ちょっと待ってください、ドリアンさん」「えっ?」

NO80 上海日記 7日目(続々々々々々々々) at 2005 09/05 22:46 編集

「この人納得してないみたいなんで話し合ってみます」
ええ~っ。K君は誠実で正直(バカがつくほど)で一本木な性格だ。おちゃらけでいいかげんに生きている私とはえらい違いである。それにしても、あんなにびびりだった彼が熱心に説得している姿を見ると感無量である。でもボーイも充分反省してるみたいだしさ、めんどくさいから帰って寝ようよ。ミミは「あんたたちのせいでこの子が二百元自腹を切らなきゃならないのよ!」と喚いている。この女も逆ギレしてるし、もう帰ろうよ。彼らはしばらく話し合っていたが、やがてK君がボーイに右手を差し出した。ボーイも渋渋だがそれに応じた。若大将シリーズの加山雄三か。
部屋に戻ると彼は言った。「中国で貧しいながらも一生懸命に働いている、あの靴磨きの人たちみたいな人たちもたくさんいるのに、騙してお金を取ろうとする人間が許せなかったんです」
どこまでも生真面目で熱いK君であった。  

NO81 上海日記 最終日 at 2005 09/24 23:27 編集

6時半起床。今日が上海最終日である。帰国便は昼過ぎだ。気合いを入れて空手着に着替え、バンドをランニングしてから黄浦公園で太極拳をしている50人ほどの一団に加わる。遠慮して隅でやっていたが、近くのおばさんが手招きするので中心に入らせてもらう。終わるとおばさんたちがわれわれの周りにどっと集まってきた。「テコンドーだよ」とか「裸足で寒いだろう」とか口々に言うさまはまるで大阪のおばちゃんみたいである。日本の空手の技を見せてよという声に応えて、型を披露するとみんなが拍手してくれる。何だかいい気分である。我々がわいわい言っていると、夫婦とおぼしき中年の男女が日本語で話しかけてきた。
「あなた、どこから来た?」「大阪です」「おー、大阪ですか。大好きですよ。友だちたくさんいますね。みんな優しい。私は美術大学で先生をしています」と名刺を渡された。それには水墨書院理事とか山水書研究院会員とか中日文化芸術交流協会とか肩書きがゴテゴテと書いてあり、名前の前には画家とあった。「あなた、上海市長に似ていますね。市長はとても若いです」と言いながら、ハサミで私の顔の切り絵を始めた。これがまたうまいんである。この人は高名な芸術家なのかも、と思っていたら、むこうでおばさんたちが懸命に手招きしている。
「ちょっと待っててください」とおばさんたちのところへ行ってみると、私を取り囲んで一斉に何か言っている。わけが分からずに何だ何だ、どうしたんだとおろおろしていたら、一人のおばさんが紙に何かを書いて見せてくれた。それには「小心」と書いてあった。

NO82 上海日記 終 at 2005 10/15 00:06 編集

「小心」とはもちろんビビりのチキン野郎のことではない。
注意しろ、ってことだ。なるほど、彼はバンドでも有名な詐欺師らしい。あまりの名演技にさすがの百戦錬磨(の負け犬)のこの私もあやうく騙されそうになったわい。その詐欺師兼大先生は今度はK君を相手に熱弁をふるっておられる。駆け寄ってみると既に遅し、K君は寄付の名目で10元パクられたあとだった。昨夜あんなに信念を貫いた彼だが、最後の最後に赤子の手をひねるように金を巻き上げられるとは、げに恐ろしき上海人民よ。次に詐欺師兼大先生は「上海友好のために100元寄付して下さい」とこの私にのたもうた。何で一気に十倍もふっかけるねん。欲張りすぎやで、あんた。
「財布持ってませ~ん。空手着ですからあ」と笑顔で言うと、「そうですか」と私の手から切り絵を引ったくり、風のように去っていった。
心配そうに見守っているおばさんたちの所に戻り、「老師、謝謝(ラオシー、シャヤ)」と礼を言う。最後に皆と記念写真を撮って別れた。
帰国してからK君は「中国で就職できないですかねえ」と口走ったり、中国語会話の本を買って勉強しだした。遠い目になっている。完全に中国病だ。それから間もなくK君は結婚した。何回も断られてやっと彼女にOKをもらったそうだ。彼にとっては最初から独身最後の旅のつもりだったらしい。新婚旅行は本当は北京に行きたかったけど、新婦の意を汲んでハワイにした。今でも彼と会えば、中国の話になる。実は私もかなり長い間、中国病にかかってしまった。至る所で人民の顔が思い浮かび、いちいち日本と中国のやりかたを比べてみては中国の肩を持ちたくなっちゃうんである。中国は奥が深い。(終)

 皆様への伝達事項
 ~注目してもらいたい部分~
夜の8時に上海虹橋空港着。飛行機の中で今夜泊まるホテルを決めていたので、予約しようとうろうろしていると、「タクシー?」 と小説家の猪瀬直樹にそっくりの男が寄ってきた。
 「○○ホテルに泊まりたいんだ」と言うと猪瀬は「知ってる」と言う。
(中略)
 「ハイウエイ代の100元とタクシー代の100元を払ってくれ」
 てめ~、空港でタクシー代はホテル代込みだと言ったじゃね~か。そう言うと 「サービス込みだと言ったが、料金込みだと言った覚えはない」 とわけの分からんことをぬかしやがる。
(中略)
どうやらここは上海のはずれのようだ。その夜はローソンでハンバーガーとジュースを買ってホテルに帰る。

(上記は飛んで上海からの抜粋で下記は上海日記からの抜粋です)

年末のチケットいうたら二か月前から予約すんで、フツー。
(中略)
カウントダウンが始まり、新年になるとあちこちで花火が上がる。2005年の始まりは上海だったかと感慨にふけりながら歩いていると、途中で浦江飯店に宿泊していたバックパッカーたちと出会う。


北京と上海を旅した後で再び上海を旅したそうです。日中間の外交問題が激化してなかった平成十年代の上海旅行記で二種類に分割されてますし長編です。 ローソンは平成8年から上海で営業してます。前者の平成15年に発表された飛んで上海に限っては渡航した時期が不明です。後者の上海日記に限っては平成16年の年末から平成17年の年始にかけての旅行記です。
 空港連絡鉄道の上海虹橋駅は、平成22年に開業したので時期的に利用出来ませんでした。現在の上海は不良タクシーやバスを利用しなくても移動出来るようです。
当時は利用出来たお店が現在も全て営業してるか否かは不明です。
 緊急で渡航する人の為に販売してる旅行商品は除外しますが旅行代理店が最初に告知した時点で催行の日を二か月以上前に設定されてない娯楽用の旅行商品を販売してるなら論外なので普通は買えません。 運良く海外旅行出来たお話だと解釈してもらいたい。
中国旅行するには日本国内での手続きが必要で法制度は流動的すぎます。ビザ等は過去と現在で異なる部分は存在します。パスポートの入手、観光ビザの申請、ホテルの予約等を入国前に実行しても、集団感染症等で渡航が不可能になる恐れはあり得ます。中共が電子渡航認証を選択しても良き運用の期待は行えません。 自由妨害をしてる訳ではありませんけど中国旅行の推奨は不可能です。
 私はKさんではありませんしドリアン長野とは一緒に海外旅行に行ってません。 カナダ コロンビーブリタニーキ旅行記その1

 紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。

【上海】浦江飯店アスターハウスホテル
上海豫園 4K
【中国】 中国鉄路 上海駅 Shanghai Station China Railway (2016.9)
【上海】黄浦公園をブラブラ
~渡航するなら日本時間の時計一個と現地時間の時計一個は必須~
 私が平成27年に行ってきたバンクーバーの時差は夏時間だったので16時間。 日本で午後11時でも旅先は午前7時。
日本時間の正午は中国の北京と上海の午前11時。 日付変更線を超えないなら置時計はアナログでも良いか?海外旅行は時差に直面します。時間に遅れるのを防ぐ為に複数の時計を利用しましょう。 
time-j.net
海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。  移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
 帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。
敬具 マーキュリーマーク

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コラム 2024

2024-06-30 | 日記
 平成15年に私はドリアン長野から頼まれホームページの開設を手伝いました。

 平成21年以前にドリアン長野は何度も海外旅行しました。
 長期間の空白が経過した後、令和六年に親子で渡航されました。
私は平成27年十月にレインクーバー旅行しましたので渡航について理解出来た部分は多かったです。 外国では楽しみつつも慎重な行動が求められますけどもSNSを悪用し旅の妨害をする悪人はいます。 今回のコラムはドリアン長野の海外旅行記についての連絡と海外旅行全般について伝達します。 お楽しみください。

 ダークグリーンは題名で利用しました。
 ミディアムパープルは抜粋で利用しました。
 ドジャーブルーは強調したい内容で利用しました。

人権侵害 海外で何も悪いことはしてないが疑われ詰問された
平成27年に私がカナダ旅行中に毎日フェイスブックを通じ詰問されたので犯罪の被害にあう恐れを高められた。「寂しいだろうから連絡したら激怒したのはおかしい。」とゴマカスか?
時間を無駄にする損害が作られるだけで得する事は無かった。
帰国後に抗議したら加害者は逆上し暴力的な書き込みをした。
ホームページの紹介を取り止めたからといって逆上するのは論外。
「渡航して無いが海外旅行記のブログをしてる。」から「渡航中に過失行為をした。」に変更したいのか? ほう助した上で「犯罪の被害にあったのは自己管理能力が欠落してる。」と罵倒したかったのか?
平成20年代以降はSNS等で情報を得た上で犯罪行為をやらかしたい人がいます。 (マトメに続く)


 もし、渡航するならばどういった行動が必要か?
戸籍謄本は郵送請求してもパスポートの入手は大変です。渡航先の選定は難しい。旅先の海外旅行案内書は必ず購入して読んで予習。政治上の観点ばかりか緯度、経度だけではなく高さも問われます。珈琲は飲まないけども赤道に近い海抜5895mのキリマンジャロは冬山。 入国審査は過去より厳格化してます。令和になってから要求する国が増加した電子渡航認証の申請や観光ビザ等は重視するべきです。 複数存在する旅に必要な商品の購入は必須です。
 外国語の学習と旅費の工面と休暇の捻出等は難しいです。
 外貨は日本国内の銀行等で両替されてはいかがでしょうか?
交通費、宿泊費、海外旅行保険の支払い等を済ませないと安心して渡航するのは無理です。

 読めない海外旅行記
 ドリアン長野の海外旅行記ですが読めない幻の作品が幾つか存在します。ドリアン長野が最初に米国からメキシコに陸路で国境越えをした旅行記は転載出来ませんでしたが後に再編集した投稿は転載が行えたので挽回しました。
 平成元年のニューヨーク旅行記内でソウルを旅したことについて述べられてました。 憶測ですが昭和63年の九月から十月に開催されたソウル五輪を観戦した旅行記なのか?ドリアン長野はソウルを旅したことは認めてますけどソウル旅行記は令和六年二月時点で執筆されてない。平成29年の夏に再会した時に執筆するか否かを尋ねたが微笑みながら否定されました。 平成16年の香港旅行記は成立してますが英国統治時代の香港旅行記は発表されていません。 ドリアン長野にとって赴きたかったが行けなかった渡航先はアフリカとシンガポールです。 夏が来れば思いだすは未完の大作です。ご夫婦の新婚旅行の詳細は執筆されてないから幻の海外旅行記です。
 渡航前の選択
ドリアン長野がニューヨークに行ったのは観光旅行だったのかホテルを探す為の旅だったのか?航空会社もしくは船会社(旅客船)、ホテル、保険会社は各企業毎に営業されているのは周知されてます。旅行代理店を利用するか否かは各自で決めてもらいたいが航空券又は、乗船料のみで旅行が出来るとは考えないで下さい。
食費も含め支払いは多岐に渡ります。交通費、各種税金、宿泊費と送迎バスの代金を一括すると同時に同調圧力がないフリープランの利用を推奨します。現地に到着した後で困らない行動は重要です。
 予約と支払を日本国内で済ませないと大変なことになります。
 幾つかの時計は必ず用意しましょう。時差ボケは辛いし帰国便は現地時間です。
時差を考慮し複数の時計を利用しましょう
私は平成27年にカナダのブリティッシュコロンビア州を旅しました。国内での移動の為、日本時間で利用した懐中時計並びに渡航先の時刻に適合させた時計を利用したので無事に帰国しました。
 腕時計は日本国内にて太平洋夏時間(日本との時差16時間)に適合させて現地で利用し帰国後は日本時間に適合させました。
 置時計は電子音を鳴らさない為に箱に乾電池をテープで張り付けホテルの部屋でiPadを利用し日付と曜日も含めて設定した後で利用して帰国日に電池を抜きました。 
 日付変更線並びに犯罪の被害等も想定し複数の時計は必須です。
経度が変わると時差が発生します。詳細は、各自でお調べ下さい。
 以下は抜粋とそれについての私の見解です。


 カンボジア旅行記より抜粋
 モーニング・コールを頼んだはいいが、部屋に入ってみると電話がない。 はて、どうすんだ?と思っていたら、翌朝、フロントの人がその時刻に部屋のドアを叩きに来たのであった。
目覚まし時計の役割は有益。

 香港旅行記より抜粋
 話のネタにと、ニセ・ブランド時計の客引きに声を掛けたら、ここに連れてこられた。(中略)
 ちなみに私は腕時計は持ってない。ケータイの時間表示で充分だし、海外に行くときは電池で動く、ちっこい目覚まし時計を持って行く。
ドリアン長野は渡航中に置時計とケータイを利用しました。
偽造時計は買わないでください。


ロサンゼルス(米国)とティフアナ(メキシコ)旅行記より抜粋
ユニオン・ステーションで21時発サンディエゴ行きのアムトラックに乗る。ロンドンで知り合ったジョイスに会うためだ。彼女は元看護婦のおばあさんで、今は離婚してロサンゼルスとサンディエゴの中間ほどにあるオーシャンサイドに独りで住んでいる。(中略)
我々はバスを乗り継ぎ、トラムに乗り、何時間もかけて国境のティフアナに到着した。
 渡航前に現地時間を調べて下さい。
 外国によっては季節で時間を一時間早める夏時間か一時間遅める標準時への切替をします。日本と太平洋標準時の時差は17時間。
ロサンゼルス、ティフアナとレインクーバーは同一の時間軸です。


 タイランド旅行記より抜粋
 部屋にあったセイコーの置き時計をカバンに入れて持って帰ったのよね。(中略)
時計が紛失していたのでクレジットカードからその代金を引き落とさせていただきますってな。それがなんで2000バーツになるんじゃい!


バンコクのホテルの時計を盗むと平成13年の相場で約¥5400は請求されるので不正は辞めて下さい。平成30年に某家電量販店で私はセイコーの置時計を¥1900で買いました。 渡航の際に利用する時計は同一ではなく別口の時計を利用しましょう。
 スマホ一つで旅して万が一の事態があれば大変です。


複数の時計の組み合わせについて。

このデジタルの目覚まし時計は小型。単三電池二本で機能します。
大きさは高さ9cm、幅10.5cm、高さ4.2mm。
何時何分、目覚し、日付、曜日、温度や湿度も確認出来ます。
腕時計は前者を日本時間、後者を渡航先に適合させましょう。
渡航先の時差が日本と比較して大きい海外旅行でも有効です。

渡航先(外国)の時を知る方法は幾つか存在します。第一は到着した現地の空港(船旅であれば港)の時計。第二は海外旅行案内書。第三はインターネット。(スマホやタブレット等) time-j.net
第四は高機能腕時計。面倒な設定や操作が必要なので取扱説明書を熟読して下さい。 渡航するなら幾つかの時計を利用すべき。

このデジタルの置き時計は単四電池一本で機能します。大きさは高さが6cm、長さ7cm、幅4cmで目覚ましは機能すれども何時何分が判明するのみです。人によったらデジタルの置き時計とアナログの腕時計を用いて渡航するのだろうか?
アナログの腕時計はちゃんと設定したら日付も曜日も分かります。

 このアナログの置き時計は単三電池一本で機能します。
 大きさは縦横8cm、奥行き5cmで目覚しは機能するが何時何分何秒が分かるのみです。
アナログの腕時計は簡素であれば時刻の判明のみです。
時差(日付)が日本と大差ない渡航のみ有効か?
令和でも腕時計と置時計は両者共にアナログで渡航するか?

このアナログの小さい目覚まし時計は単三電池一本で機能します。大きさは縦横共に約9cmで奥行き約5cm。デジタルの多機能な腕時計は時刻、日付、曜日の確認等、複数の機能が備わっています。海外の空港かホテルの時計で時刻設定をされるか?但し、アナログは簡単でもデジタルの調整は難しいです。

デジタルの置時計はニトリで購入しました。単三電池二本で機能します。大きさは縦横共に7.6cmで奥行き約4cm。
 両者共に何時何分ばかりか日付や曜日の確認が出来ます。 私はヨドバシカメラでデジタルの腕時計を¥983で購入しました。
 外国で偽造時計を買うより日本で正規品を安く買いましょう。

 渡航するなら組み合わせは自由ですが複数の時計を利用しましょう。 時計の種類は数多いので各自で熟慮の上でご決断願いたい。
 「単純な時計を二個用意して下さい。」と旅行代理店の従業員に言われ前者を日本時間、後者を渡航先の時間に適合させて渡航して正解でした。 時計一つで万が一があると大変です。
http://www.anzen.mofa.go.jp/m/mbimmigration_010.html
 時計の持ち込み個数について法規制してるネパールと日本の時差は3時間15分。スマホと腕時計の両者を利用する旅人は増加したか? 難しい調整は日本国内で済ませておくべきです。
デュアルタイム機能が利用出来る腕時計は防犯の為に海外では宿の中だけで利用するようにしましょう。 必ず誰かが見てます。


 電波時計は電波の受信が不可能な国が存在してます。 ソーラー時計を使用してる時に長袖の服を着用してると発電は不可能です。 外国によっては入国前に電子渡航認証でスマホ等が必要です。現地時間に設定した時計も必須です。 異なる電池式のアナログの時計二個とデジタルの置時計一つの利用を推奨します。

前述しましたが私が旅した時には夏時間で時差16時間のカナダのレインクーバーの午前7時は日本の午後11時。 16+7=23
 一人旅であれば自己責任です。団体旅行でも自己管理能力が欠落してるので帰国便に乗り遅れた旅行者は多くいると言われてます。
 提案をしたのみですが自由妨害は辞めましょう。

電波機能が無いソーラー腕時計は充電をして調整したならばともかくスマートウォッチは頻繁な充電が必要とされてるので推奨はほぼ不可能です。
 ドリアン長野は2009年以前の海外旅行ではセイコーの小さい置時計とケータイで済ませてましたが2024年のケアンズ旅行の際には腕時計も利用されました。

 旅費の支払先は二種類
ドリアン長野のニューヨーク旅行記からの抜粋
んでもって今回の教訓。
「ニューヨークに行く時はなるべくホテルを予約してから行こう」

 世の中には宿泊先の予約ばかりか予定を決めないで渡航したドリアン長野みたいな人はいます。 ホテルの支払いは事前に済ませましょう。 直接取引か旅行代理店か?良い企業の提案は期待されてます。観光地ばかりか支払先も競争が発生してます。オンラインでも旅行商品は買えますが私は平成27年8月に旅行代理店で、各種税金、航空券、宿泊費と送迎バスの代金を一括したカナダ旅行のフリープランを購入しました。
他方、航空会社、ホテル、保険会社等は独立して営業してるし空港連絡鉄道も存在します。渡航先で楽しむ為には出国前に予定を作成しましょう。旅費を支払ったが渡航先で困った旅行者達については同情します。 悪い店員や犯罪者は不要です。
 どこの国へ行くか?海外旅行保険は必須です。船旅ではなく航空会社を利用する人を想定した上で伝えます。旅行代理店を利用するか航空会社、ホテル、保険会社とは直接取引か?どこの航空会社を利用するか?宿泊場所(ホテル)はどこか? 入国審査が終わると空港連絡鉄道、バス、レンタカーを利用するか?

旅行代理店を利用するか旅行に関わる企業毎に支払うか否かで旅費の支払先は二種類に大別されます。旅程の想定は必須です。 オンラインショッピングでも旅行商品のフリープランは販売されています。販売会社は数多く存在しそれぞれ一長一短ですので慎重に検討した上で渡航して下さい。 正直、難しいです。

 外貨と海外旅行記内についての通貨価値について
 為替相場は変動相場制です。海外のATMは不調が多いし手数料も高値なので外貨の両替は日本でしましょう。
 日本で両替が行えない外貨は存在します。両替が行える外貨でも紙幣はともかく硬貨の交換は不可なのでチップを提案します。紹介した金額や税金は過去形なので商品価格の変更や増税はあり得ます。 貿易黒字か否か?金利が高いか低いか?国防も含めて政府の安定性が高いか否か?これらの状況が反映された上で通貨価値が決まります。過去の日本と現在の日本がどのような変化に至ったかについては皆さんでご想像してもらいたい。 海外政府の動向も関係してきますが令和になってからは円安になってます。

 海外旅行とバスの一長一短
 最初に旅行代理店で依頼した送迎バスについて伝えます。
 ー長所ー
 第一に安全運転での送迎と荷物の運搬です。車内で町の説明をしてくれたのは良かったです。
治安が悪いとされる街について質問したら「行かない方が良い。」と返答されました。 ま、君主危うきに近寄らずです。 ホテルへの早期入室も送迎バスの料金に含まれてるかもしれません。
日本から海外の空港に到着し入国審査を済ませ移動しホテルに到着した時に入室が許可されてない時間はあり得ます。
悪いホテルだと予約を勝手に取り消すので運転手さんがホテル内で色々と連絡してもらえると心強いです。
 もし、運転手からパスポートの有無について質問されたらお互いの為に黙って見せましょう。

 ー短所ー
私は関空からバンクーバー国際空港に赴きました。別の旅行者達が成田空港から渡航するので待機が求められました。 集合後に一台のフォードの大型車(エコノライン)でホテルに送ってもらいました。 空港連絡鉄道より高値で時間が長くなります。
観光案内商品(有料のオプショナルツアー)の説明は不要な提案です。予定があって渡航してる人には無駄なんです。無論、帰国便に乗り遅れない為に無謀な計画は推奨しません。
 私はホテルから空港に行くバスの時間には遅延しませんでしたが元々の時間が微妙だったので帰国便に着席したのが出発の40分前でした。真面目に送迎バスの仕事をされてる人は良いにしてもインドの不正者は問題があります。
 ドリアン長野のインド旅行記 インド編その1より抜粋
 ホテルから迎えに来たらしき人が声をかけてきた。
 「エクスキューズ・ミ-、ア-・ユー・ミスター・ナガノ?」
 「イエス! イエス! イエース!!」 
 私はヘビメタのヘッドバンキングのように激しくうなずいた。
 「すみません、ちょっとここで待っててください」
 そう言うと迎えの人はどこかへ行ってしまった。間髪を入れず、そこへ別のインド人が現われて、
 「グレート・イースタン・ホテル(今晩予約していたホテル)なら、こっちだ」と先に立って案内する。
 思わずふらふらとついていったが、途中で何か変だなと立ち止まった。
 すると、さっきの迎えの人が追いかけてきて、「ノー! ノー!」 と私を連れ戻したのだった。あぶねえっ、ちっとも油断がならねえな、インド人!!

 【インド動画】国際空港のロビーから外へ出た瞬間・・・
 ~海外のバス会社の時刻表の有無~
時刻表が存在するならともかくですが時刻表が無いバス会社もあるようで詳しく分からない場合もございます。 海外ではバスの車内が満席になってから出発するので時刻表が無いバス会社は存在するようです。しかも、路線によっては長距離移動。乗車賃の請求金額もいくらなのか分からなくなるので恐怖です。
ドリアン長野のミャンマー旅行記 ビルマの休日 その8より抜粋
早朝六時にタクシーに乗り、五時間かかって山のふもとに到着。
そこからトラックの荷台に五十人ほどのミャンマー人とすし詰めにされ、どこかにしがみついていなければ振り落とされるほどの急勾配&曲がりくねった山道を四十分かけて中腹に着いた。しかし、本当の苦行はここから始まるということを神ならぬ私は知る由もなかった。

 =海外の公共のバスについて特徴を述べます=
 ある程度は、金銭的ばかりか時間の面でも余裕を持って対応して下さい。旅行中にバスの一日乗車券が利用出来ると利点は大きい。 日本の場合は少ないが海外ではバスのストが発生する恐れを考慮して下さい。 海外旅行中にレンタカーの利用者は除外しますが公共交通機関であるバスの利用が重要になってきますね。
国の内外を問わず一つのバス停で二種類以上の路線を兼ねてる場合はございます。これも一人旅の楽しみに含まれるのだろうか?私はカナダで下車すべきバス停を間違えてドリアン長野はミャンマーで路線変更に至ったバスの乗車を間違えた。
結果的には地元の人に助けてもらい何とかなって良かったです。
ドリアン長野のミャンマー旅行記 ビルマの休日その12より抜粋
 どうやら違う路線に乗ってしまったらしい。 今晩は野宿かなと思っていると、しばらくして終点に着いたらしく、みんな降りていく。さて、どうしたもんかなと、とりあえずにぎやかそうな方向に歩いて行ってみる。そこはゲストハウスと看板が掲げられていて、一階はゲーセンになっている建物だった。

 =日本のバスの運転手さん、ありがとうございます=
 日本国内で地元の町から国際空港に到着するだけでなく国際空港から地元の町へ運行するバスの運転手さんや運営会社は良いお仕事をされてます。 渡航する時か帰宅する時かは問わずに渋滞を考慮して早めの利用を心がけましょう。 バス並びに旅客機の運行は、昼夜を問わずに運行するので勤務者は重労働です。

 海外旅行とレンタカー
 目的地に行く為にレンタカーを利用される人はいます。海外でも道路交通法は存在し法規制が厳しいばかりか事故が発生する恐れはございます。罰金等が帰国後に請求された日本人はおられます。
 海外旅行保険が全ての艱難辛苦を助けてくれるでしょうか?
 レンタカーの利用は妨害しませんが推奨も出来ません。

 空港連絡鉄道について
 乗車賃を支払った後で利用してる人を批判するのは良くない。
南海のラピートの利用者等は除外して旅行鞄が大きいので批判する人はいるがそれは批判の対象です。一部の特急に限っては旅行鞄を設置する場所が確保されてるから批判の声は少ないかもしれないけれど旅行鞄を持ってるか否かは各自の自由です。 nankai.co.jp

国の内外で変わってきますが空港連絡鉄道は車掌さんが頻繁に監視をする特急が存在するか否かで大別される。乗車料金は、事業者毎に異なる。 一般車両の内部は混みあう時間帯が存在するので特急料金を支払う意味は存在します。特急は無くても追加料金の請求はあり得ます。 利用前に各自でお調べ願いたい。

 なぜ、ドリアン長野は海外旅行に何度も行けたか?
 独身だったからでは無いでしょうか?令和六年に親子でケアンズ旅行されましたし奥さんとの新婚旅行はともかく娘さんが生まれてから十年は海外旅行してませんでした。 子供を育てるのが重労働なのは周知されてます。金銭的にも時間の面においても余裕が無くなったから海外旅行に行かなくなったようです。海外に行くと楽しめるといった部分はあるが権利と責任という概念はございます。
 多額の旅費が必要なのは言うまでもありません。何度かドリアン長野と会話したから言えますが何もない寒村より変化がある都会を好む考えは保有されてました。
私が旅したレインクーバーは寒村ではなく人口約240万人で京都府の人口約253万に匹敵する大都市です。

 治安が悪い街 
 マニラのスラムより抜粋
マニラには観光名所らしき場所はあまりないが、私にはどうしても見ておきたい所があった。東南アジア最大のスラムといわれるスモーキー・マウンテンだ。夢の島のようなゴミの集積所にバラックを建て、人が住み始めた。ゴミが自然醗酵し、煙がたなびいているのでスモーキー・マウンテンと呼ばれるようになった。スモーキー・マウンテンのあるトンド地区には無用な立ち入りは絶対に厳禁、とガイドブックには書いてある。それでもどお~しても行ってみたい。私は覚悟を決めた。

 ドリアン長野は海外旅行中に意図的に治安が悪い街に赴いた。
危険地帯への訪問や訪問する事の提案も辞めるべきです。
送迎バスの運転手が危険と主張する街に行かなくて正解でした。
 私はカナダに渡航したのみですが取捨選択は、重要です。嗜虐心を満たしたいと考えてる変態は皆様の幸福の妨害をやります。

 渡航先が決定したなら次に何をするか?平成30年以降は治安が悪い街を紹介する動画は数多いですけど目的地が紹介されてる海外旅行案内書は読むべきです。「日本国内で何をすべきか?」について学べます。赴ける街とそうではない町はございます。海外政府が求めてる入国の要件は事前の対応が必須です。

 日本のお店と海外のお店の営業時間
 ドリアン長野のベトナム旅行記からの抜粋
 よしっ、来年まで踊り続けるぜい、ベイビー、と腰を上げるとヒューが「もう帰ろう」とつまらなさそうに言う。えっ? まだ11時ですぜ、だんな。
 「ベトナムのディスコは深夜まで営業できないんだよ」
 そうか、さては私のあまりの人気を妬んでるな。仕方なく私たちは帰った。こうしてホーチミンの長く暑い夜は更けていくのであった。

ベトナムのディスコは午後11時迄。何時頃迄営業してるかは把握しましょう。
 私がカナダ旅行中に利用しようとしてたお店は祝祭日だったので従業員向けの会食をしてたから別の飲食店を利用しました。
自己責任のフリープランで良かった。バンクーバーと日本との時差は、当時16時間で朦朧としてました。
私が平成27年十月にカナダを旅行してる時に宿泊してるホテルの隣で24時間営業してるティムホートン(ドーナツ店)が営業してました。海外では店名が同じでも店舗毎に営業時間は異なります。
過去はともかく昨今は営業方針を変更した店舗もあるので利用前に御店のホームページを見て確認しましょう。

 食品と海外旅行
 ドリアン長野のほぼエッセイですがマレーシア旅行記からの抜粋
 人は非日常的な体験を求めて旅に出る。海外ならなおさらだ。
 しかし、それが食文化になると頑なに自国の食生活に固執する人がいる。たとえば、欧米人なんかがそうだ。
 彼らは外国においても朝はトーストとハムエッグ、昼はマクド(関東地方だったらマックよね。おされだわ)というスタイルを崩そうとしない。マーブンクロンのクーポン券式大食堂には欧米人の姿も見かけるけどな。大半は一、ニ度料理を食べてみて後はコーラとハンバーガーってとこだろう。
 君たち、それで満足なのか? 私はイギリスではフィッシュ・アンド・チップス、アメリカではステーキとハンバーガーを食い続けたぞ。まずかったけど、それでも我慢して食ったわい。(我慢して食うなよ)

宗教上の理由で一定の食品や飲み物を避けてる人はいる。私がカナダのレインクーバーで食べたフィッシュ&チップスやハンバーガーはおいしかったです。 他にも七面鳥のソーセージは最高でした。
 現地時間と日本との間の時差が当時は16時間なので午前7時の朝食が日本の午後11時の食事に思えたんです。

 治安の悪化と治安の改善を求める運動
 ドリアン長野の台湾旅行記からの抜粋
日曜日の昼下がり、空は透き通るような快晴だった。赤レンガの荘重な建物の前には警察官と憲兵(機動隊員)が集まって、何だか物々しい雰囲気だ。

 悲しいので台湾旅行記に限っては各自で確認して下さい。 今は可能な限り安全な選択をしたら楽しく過ごせるという考えです。
日本以外の外国では治安が悪く論外な出来事は多い。バンクーバーを旅行中に私の野球帽を盗もうとした人がいました。
もし、犯罪者が裁判官から「なぜ、彼の名前が刺繍された野球帽をあなたは盗んだのですか?」で有罪確定。
 帰国してから、在外邦人がカナダ(バンクーバー)で殺害されて深く悲しみました。



 No Pain . No Gain .
 ドリアン長野の英国旅行記(ロンドン・コーリング)からの抜粋
 そういえば、これはブリクストンじゃなくて普通の通りなんですが、歩いていると、物乞いしてるのは若者なんですね。働かなくても失業保険で何とか食べていけるので、無気力な若者が増えているような気がします。物乞いをして断られると、ある若者が「この街はどいつもこいつもファッカーばかりだぜ」と歌っていましたが、ファッカーはお前の方だ、と言いたくなりますね。

日本国内でも生活困窮者から無意味に金銭を請求されたら強要なのでお断りするしか他ありません。海外の治安が悪い街には行かなくて正解でしたがどこであっても論外な人に出会う事はあり得ます。
夏場に重労働をこなして秋に海外旅行した人もいたに違いありません。 文句ばかり言う人が文句を言われます。

 過密日程より余裕を持って行動しましょう。
ドリアン長野のネパール旅行記カラテ イン ネパールからの抜粋
一週間後に試合があるからビザを四日間延長してカラテを教えてくれと懇願されたが、私は真面目なリーマン・パッカーだ。出勤日から四日間無断欠勤したら即刻、馘首じゃないか。家賃はどうやって払うんだ。
 残念ながら断ると、それじゃあ、明日道場生とピクニックに行くから一緒に行きましょうと誘われたのだ。七時の予定が結局八時半に出発した(ネパールタイムだそうです)。

 国際的な団体に関与した後で海外の状態についても確認した人はいます。不条理な提案を否定するのは仕方ないです。 予定の作成は余裕を持たせつつ綿密にすべきです。
 ドリアン長野にしたらネパールで遠足を兼ねた空手の練習が行えたのは楽しい体験でしたが北京で夜遅くに床屋に行くのは常識的でしょうか?
 ドリアン長野の北京旅行記からの抜粋
 営業時間を聞いたら、朝の8時から深夜の1時までだそうだ。なぜ一日17時間も営業してるんだ?人民をそんな長時間も労働させていいのか? ますます怪しい。女はまず私の首に前掛けをし、洗髪台に頭を突っ込むようにと手振りで示した。その通りにすると女はいきなりシャンプーをし始めた。
(中略)1時を過ぎているのに年配の客が一人、入ってきた。
(なぜ1時に髪を刈りに?)


 海外の飲食物とお薬の用意 
ドリアン長野のインド旅行記からの抜粋
その運転手にホテルを紹介してもらい、宿泊した翌朝のこと。起きると下痢と頭痛と悪寒とおまけに脚の関節まで痛い。これは赤痢かコレラか肝炎か。(中略) 屋上のデッキチェアで昼寝をしに来た日本女性三人は「あの人(私のこと)、病気なんだって。私、薬持っていてあげよう」 と話をしていた。私はベッドで苦しみながら期待して待っていたのだが、結局来なかった(おいっ)。

ドリアン長野のカンボジア旅行記からの抜粋
そこは広場に立ち並ぶ屋台のうちの一つで、母と娘が切り盛りしていた。昼に食事した時、彼女たちが親切にしてくれたのだ。広場にはゴミ捨て場もあって、ハエを追っ払いながらメシを食うのも難儀だったがな。行ってみると、昼間は汚れた顔をしていた娘が化粧して着飾っている。夜は営業用の顔か?ともかく、フルーツを何種類かミキサーに入れてジュースにしてくれたので、飲んだ。それがいかんかったようだ。(中略) 医者からは「3日以上、下痢が続いたら危険ですよ」とあきれられたけど。薬を飲んだら、お尻は沈静化した。それだけで済んだのならよかったが、私は当時、夜間大学に通っていたのだ。何日間かは薬を飲んでいたのだが、ある日、下痢が再発し講議を休んだ。
しかし、その日は期末試験が行なわれていたのだったぁ~っ。
知らなかったんだよぉ~。大事な必修科目を落とした私は結局、大学を中退することになってしまったのだ。ううっ、カンボジア~。
オマケ
以下はgoo簡単ホームページが存在してた時の掲示板の質問とその返答です。
 From アハハハハ To durian-nagano@goo at 2003 08/23 18:01 編集 返信 爆笑
けども、病欠の場合には特別に試験を受けさせてくれるのではないのでしょうか? 
To at 2003 08/24 22:52 編集 返信
RE:爆笑
そうですね。でも、その日に試験が行われたことを知ったのは「不可」になった成績表を受け取ったあとでした(ガックシ)。

 海外旅行保険の加入は絶対必要です。一部の学生は在学中の海外留学が大学から求められます。ドリアン長野は個人的にカンボジア旅行した時に胃腸病で困り退学に至りました。インド旅行した時にも発病。 日本国内で薬を用意してから渡航しましょう。
 私は旅行代理店で旅費(航空券、宿泊費等)と保険料を支払ってからカナダ旅行した時には胃腸病では困りませんでしたが針葉樹林の花粉で困ったので薬を内服して事なきを得ました。国際的に有名な医薬品の利用も重要か?色々な問題はございましたが海外旅行は楽しめます。日本人は喋るだけが好きな人は多いから他人に頼らずに自己責任で旅行を楽しむべきです。

 国の内外を問わず、困ってる人物と困らせる人物はいる
 ドリアン長野のインド旅行記 インド編 その7からの抜粋
 プラットホームには日本人の団体客がいた。
 五才くらいの女の子が彼等に 「バクシーシ」 と手を出す。そこにいた若者たちがこう言っていた。
 「お金ないんだよ。ノー・マネー、わかる?」
「逆にこっちから『バクシーシ』って言ってみればいいんじゃないの」
 「そうか、ほら、バクシーシ」
 日本人に手を出された女の子はきょとんとしていた。
 むき~っ! 今でもこの光景を思い出すと腹が立つ。その子は好きで物乞いしてんじゃねーよ。貧しくて働きたくても働けねーから仕方なくやってんじゃねーか。
 そうやってインドまで遊びに来ている金持ちの日本人(私もだけどよ)がいたいけな子供をからかうんじゃねーよ。
 金をやるつもりがないんなら、断るか無視すればすむことだろーが、あほんだらっ! と憤慨していると一人の少年が私にお金を乞い始めた。
 歩き出してもしつこくついて来て、ひざまづいて私の靴に額をこすりつけてくる。とうとう根負けして某(なにがし)かのお金を与えた。
 するとその少年は仲間のところへ戻り、ひそひそと話をしていたかと思うと五、六人がこちらに突進してきた。
あわてて逃げ出し、何とか彼らの追跡から逃れて車両に飛び乗る。
 やれやれ。


 昨今の日本人は善悪の判断が行えない人が増えました。説明もなしに「娘が寡婦だから生活費を支払ってもらえる。」と勘違いした人がいて彼が私に不条理な行動を取った事から支払い拒否を伝達したら泣きながら逆上し「何てことを言うんだ。」と言われました。
業務上の艱難辛苦を軽んじた上で他人の善意につけこむから気分を害しました。 幼子をからかうのは良くないにしても周囲の大人は保護者だから責任があります。子供を助けるか否かは各自でご決断下さい。子供には搾取を伝えてはいけない。孤児を助けたい気持ちがあっても不正行為をされると関与する気持ちは喪失します。断る権利は認められてるので礼儀正しく拒否する必要が時にはございます。

 電子書籍と紙媒体の書籍について
 技術革新で作品を楽しむ方法は増加してます。 発売日が同日なのか前後かはあり得ます。令和の作品は紙媒体と電子書籍が同時期に発売されても平成以前の作品は両者の発売時期が異なってた事がありました。 
販売されてる作品の現状は以下の通りです。
 タイプA
 紙媒体で販売されてるばかりか電子書籍も販売されてる作品。
 タイプB
 紙媒体で販売された後に絶版に至ってから電子書籍として販売されてる作品。
 タイプC
 紙媒体のみで販売中、又は紙媒体で販売された後で絶版に至ってから電子書籍化はなされてない作品。
 タイプD
 電子書籍として販売中だが紙媒体としては販売される予定が無い作品。
作品によってはタイプDからタイプAに切り替えはあり得ます。

 外国の町の本こと海外旅行案内書は紙の書籍ばかりか電子書籍としても販売されてますが地域限定の分冊を買うか否かは各自で決断して下さい。 ドリアン長野が紹介した書物は紙で製本された旧来の本ないしは電子書籍で購入されますか? 旅行記内で紹介されたバンコク楽宮ホテルは電子書籍で好評発売中です。  ドリアン長野のタイランド旅行記からの抜粋
 楽宮を一躍有名にした、谷恒生の「バンコク楽宮ホテル」は日本では絶版になっていて、私はバンコクの紀伊国屋書店で買った。


 続編のバンコク楽宮ホテル残照は、タイプCのようです。

 皆様、海外旅行よりも高値の国内旅行に行きたいですか?
 国内旅行を否定する訳ではないし海外旅行のみ推奨してる訳ではありませんが旅行商品の見積もりや内容の精査は提案します。旅行会社の提案は自由ですが高値か否か等の是非は問われる。 海外か国内を問わず旅行商品の競争は存在する。 コロナで閉店した旅行代理店には同情しますが殿様商売みたいな旅行商品は買えない。
 旅行商品を販売する人は早めに提案すべきですし旅行者も早めに支払うべきです。私はレインクーバー旅行する約二ヶ月前に予約と支払を済ませました。金額ばかりか日程の都合も関わるので百日以上前の提案は重要です。緊急で渡航される人はいますが娯楽の旅行商品の催行日が遅いのは不条理。
ドリアン長野の上海旅行記 上海日記 1日目からの抜粋
年末まで十日しかないで。もうチケットは残ってへんで。あったら奇跡 (中略)
年末のチケットいうたら二か月前から予約すんで、フツー。


 お店は以下の四種類のどれかに該当します
 第一に国際的に有名なお店。日本でも外国でも利用出来ます。
 第二は海外のみで有名なお店。渡航した時に利用しましょう。
 第三は日本国内のみで有名なお店。渡航前に利用しましょう。
 第四は国の内外を問わずに過去に営業してたお店です。
皆様、ご理解願いたい。令和六年の時点で15年以上前のタイ旅行記です。バンコク伊勢丹は令和二年に閉店しました。跡地は別店舗が営業か? 結局、作中で紹介されたお店の移転や閉店はあり得ます。

 燃油サーチャージと旅費
ドリアン長野が支払ったか否かは不明です。旅費を支払った後でも燃料費が値上げならば追加請求されます。平成14年から燃油特別付加運賃は請求されるようになりました。
 燃料代の値上げについて困った航空会社が乗客に対して値上がりした燃油代金を請求してます。旅行商品の価格等は、各自でお調べ下さい。 観光ビザ無しでもパスポートがあれば海外旅行が行えた外国は多かったです。2020年代になって電子渡航認証を求める外国は2010年代より増加しました。旅費は増大する一方です。 ホテルや日程の変更は不可避やもしれません。 ある程度の金額が旅行代理店か航空会社からの連絡があり請求される恐れについては想定されることを提案します。 

ドリアン長野の海外旅行記の追加連絡について
一作だけでも読まれたなら納得してもらえると思いますが幾つかの観点から追加連絡は不可避でした。
第一に経年の変化や明白に間違えてた部分があったので訂正を伝える必要がございました。
第二は令和になってから電子渡航認証の導入を決めた海外政府は数多く存在します。
第三は時差についての連絡です。

 海外旅行案内書について
 海外旅行案内書はそれなりの金額です。複数の出版社が販売してますので比較するのは不可避です。 合本というか本家の書籍。
地域限定の分冊。及第点は取れてる廉価版。 どこに渡航するか?
 予算こと旅費はいくら迄なら支払えるか? 渡航する期間はどれくらいなのか? 総合的に判断して選ぶべきです。
 利点は安価ですけど購入が行えるか否かが不明な古本よりも最新かつ廉価版の海外旅行案内書の購入を提案します。
 私は平成27年に地域限定の海外旅行案内書を購入しました。
低額で必須部分を読めるか否かに拘った結果でした。
 関わっても損するだけなので書籍内でも警告されるか?
 ストーカーから毎日フェイスブックのタイムラインに詰問されて大変でした。

 感謝の気持ちと被害報告
私がカナダを旅行中に嫌がらせをしたのはドリアン長野ではないです。良きブログの運営者が当ブログを紹介されてる点について感謝します。
以下で全く異なる連絡をさせてもらいたい。 苦難は同情すれども共闘はしません。怨恨を作ったり否定される理由を増加させるのではなく良い行動を取ってもらいたい。

 平成23年に某ホームページを紹介していた所、ブログに嫌がらせの書き込みをした人がいました。 平成24年にドリアン長野と会談した時に紹介を取り止める提案をしたら黙認されました。平成27年十月に私がカナダ旅行してた時に毎日フェイスブックのタイムラインに詰問してきたストーカーがいました。 なぜ、人権侵害行為をしたのか? 防犯上問題があり大変でした。 私がカナダを旅行中に過失行為をしたら嘲笑した上でホームページの紹介の再開をさせるのが目的だったに違いありません。 帰国後に抗議しても悪い返答ばかりでした。 平成だけでなく令和になっても別の人を雇って悪い提案が行われたので困りました。
 干渉や言動不一致は辞めて頂きたい。

「あいつ、カナダ旅行する時に絶対に不正行為をやらかすに違いない。それを踏み台にして紹介を再開させたいので毎日フェイスブックのタイムラインに詰問して。」といった依頼を受けた人がいたので返答しても損をすることはあっても得することがない書き込みをされて防犯上の問題があり大変困りました。

 マトメ
 治安が悪い街へ行くのは辞めましょう。
 レンタカーの利用は妨害しませんが推奨もしません。
 無礼な日本人観光客を見ました。
 海外旅行中だからこそ合法的かつ礼儀正しく過ごすべきです。
外国にも非常識な人物がいるので楽しみながらも警戒すべきです。
 海外旅行保険の加入は必須です。
 可能な限り薬は日本で購入して持っていきましょう。
 過去よりも渡航費が増大したばかりか法制度も激変してます。
旅行記内で伝えた価格や税金は過去と違い異なる恐れはあり得るので各自で現状をご確認下さい。ストーカーから毎日フェイスブックのタイムラインに詰問されました。海外の狡猾な犯罪者に連絡する日本人はおります。 旅が楽しめる日がやってきてほしいです。

 平成の時期に紹介を取り止めたが令和になっても紹介されてるし紹介を辞めたのを理由に嫌がらせをされたので困ってます。
 共同不法行為は日本では否定されてます。海外に潜んでた暴力団員は制裁が課されました。頼んで無いのに余計な行動を取る悪人はいます。 嫌悪されてるのを認識せずに生活してるのか?




【スシローペロペロ事件】6700万円の損害賠償請求へ!支払うのは少年?親?
フィリピンから強制送還された「ルフィ」は死刑!?弁護士解説!
  • 【朝晴れエッセー】3人組の東京と大阪・5月8日 www.sankei.com/article/202305… @Sankei_newsより posted at 12:26:37

  •  ドリアン長野は令和五年から配偶者の発病で困っています。
     錯乱してる人が貴重な時間を奪う恐れから渡航されるなら慎重にして下さい。
    私は平成27年十月にカナダを旅行中にストーカーから毎日フェイスブックのタイムラインに詰問されて大変辛かったです。
    頼んで無いのに余計な行動を取る人はおります。
     「渡航して無いのに海外旅行のブログをしてる。」から「渡航中に過失行為をやらかした。」へ変更したかったのか?
     趣味でブログを楽しんでます。 過去と現状は異なります。
     渡航されるならば最新情報を得て熟慮の上で御決断下さい。令和六年になってからドリアン長野は親子でケアンズ旅行を果たしました。 海外旅行記とご連絡2024 良ければお読みください。

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    ネパール旅行記 2024

    2024-06-30 | 日記
    ドリアン長野のネパール旅行記

    カラテ イン ネパール編

    カトマンズの朝は早い。そして寒い。ここ、バサンタプルの広場でも早朝から何することもなく人々がたむろしている。
    オーストラリアから来たという少女が物乞いをする少年に仏心を出し、パンケーキを買ってやった。
    それを他のガキどもが見逃すわけはない。「僕にも、僕にも」 と彼女を取り囲む。
    困惑顔の彼女はしかし、近くにいた大人がたしなめたおかげで事なきを得た。
    ああくわばら、くわばら、桑原和○。それにしても遅い。さっきから誰も来ない。
    なぜ私がこんな所で待ちぼうけを食っているかというと、今からさかのぼること昨日のことだ。
    タメルで一泊した私はジョッチェンに投宿しようと昼前にここにたどり着いた。
    そして広場の入口にある貸し自転車屋の前の絵看板に目が釘付けになってしまったのだ。
    こっ、この一見ヘタだがよく見るとやっぱりヘタな絵は極真会館の松井館長ではないかっ。ほれっ、その証拠に極真マークもちゃんと描いてあるぞ。
    なにを隠そう、私は極真空手家オタクだ。夢はムエタイ・ボクサーとルンピニー・スタジアムで戦うことだ(嘘ぴょ~ん)。
    ちなみに子安慎悟?(あれっ?)のファンだ。ここってもしかしなくてもネパール支部じゃん。これも何かのお導き。
    天国の大山総裁、ありがとうございます、押忍っ。カラテ道場を知らないかとそこら辺の人に聞いてまわったが、誰も知らん。
    そうしている内に六十歳くらいの油すましみたいなお爺がいつの間にか出て来て、のたもうた。
    「道場なら閉鎖して去年ニューヨークに引っ越したよ」
    はあ~っ? 何でネパールの道場がニューヨークに引っ越すんじゃい、ワレ。こうなったら戦争じゃけん。止めんでつかあさい、オジキ!  
    と今ならつっこむところだが、生憎その時の私は冷静さを失っていたので心底、落胆した。せめて閉鎖した道場でも見たいと所在地を聞くと、
    このじっさま知らんとぬかしよる。何でやねん! 筋が通らへんやないけ! ワシは筋の通らんことは嫌いじゃ。タマ取ったりますけん、止めんでつかあさい、オジキ! と今ならつっこむところだが、私はあせって平常心を失っていた。しばらくすると、じっさまはまわりの人に何ごとかを尋ね、郵便局に行こうと促すのだ。
    何でやぁ~~っっ?!
    しかし、頼みの綱はこのじっさましかおらん。大人しくついて行くと、うしろからガタイのいい男が追っかけて来た。 
    「僕の弟は黒帯で指導員をしてたんだ。僕自身は結婚して忙しくなったので茶帯でやめてしまったけど」
    そうか、そうか。君がそうなのか。会いたかったぞ。我々は再会を約束し、そこで別れた。聞きたい話はたくさんあるが、まずホテルを確保しとかんとな。
    ホテルにチェックインする時もなぜかじっさまはついて来て街を案内してくれた(とはいっても広場とショッピング・センターだけだったが)。
    バサンタプルに戻り、さきほどの男と話をしていると彼の弟の黒帯空手男(クマルという名前)と奥さんがやって来た。
    奥さんは台湾人で、ネパール旅行中にクマルと知り合ったそうだ。二人はこの広場で露店商として土産物を売っているのだ。
    私とクマルはカラテについて飽くことなく、何時間も語り合った。奥さんは傍らに座っていて、うんうんと時おり会話に加わる。
     そうこうしていると、じっさまが再び現われて、「あっちで待ってるから」と言った。このたわけた子泣きじじいめ。わしが何のために世界中で何度も何度も何度も(泣)騙され続け、何回も何回も何回も(号泣)金をまきあげられたと思うてけつかんねん! てめえの悪だくみなんぞ、こちとらお見通しでい!(もっと早く気いつかんか~い)
    無視するとじっさまはいつの間にかいなくなった。あまりクマルの商売の邪魔をしては悪い。 
    「またあとでね」と腰を上げ、近くのガキんちょたちにババぬきを教えて遊んでいたら、今度は見るからに怪しそうな男に肩を叩かれ、ついてこいと声をかけられた。
    てめえ、じじいの仲間か、と警戒心を抱きながらもついていった。この男はとてもとても人相が悪い。凶悪といっても過言ではない。
    逃げ出したほうがよいのではないだろうかとビビりながらついていくと、五、六人の男女がたむろしている場所へ連れてこられた。なによっ、あんたたち、変なことしたら大声だすわよっ。すると中の一人が言った。 
    「私たちはキョクシンカラテのメンバーです。オス!」 
    なんだ~、びっくりさせんじゃないわよ~、思わずヒザがかっくんとなっちゃったじゃないの。でも良かったわ、会えて。みんなに連れられてすぐ近くにある彼らの先生(三段)のアパートまで案内してもらった。
    先生は八畳ほどの部屋に妻子と住んでいるのだが、壁という壁の至る所にカラテの賞状が飾られている。何冊もあるアルバムは稽古や試合の写真ばかりだ。
    私(ドリアン)は猛烈に感動した!この地でこんなにも極真カラテを愛している男がいたことに!! (梶原一騎調でお読みください)
    一週間後に試合があるからビザを四日間延長してカラテを教えてくれと懇願されたが、私は真面目なリーマン・パッカーだ。出勤日から四日間無断欠勤したら即刻、馘首じゃないか。
    家賃はどうやって払うんだ。残念ながら断ると、それじゃあ、明日道場生とピクニックに行くから一緒に行きましょうと誘われたのだ。
    七時の予定が結局八時半に出発した(ネパールタイムだそうです)。
    八人が幌付きのトラックの荷台に押し込められた。
    みんなの顔を見ると何だかヤクザの出入りか自衛隊の演習って感じだ。着いたダクシンカリはヒンズー教の寺院で祭りには神サマに捧げるためにヤギの首をはねるそうである。
    ピクニックといってもネパール人は弁当なんぞ持っていかん。材料を持参して現地で女性たちが料理してカレーを作る。
    トラックに積んでいたバカでかいインド製のカセットとスピーカーでダンス大会をするつもりだったらしいが、シャイなネパール人は誰も踊ろうとしないのだ。
    ここでも私が得意のダンスを披露して、皆の尊敬を一身に集めたのはいうまでもない。
    翌朝、バサンタプルを歩いていると誰かに聞いたのか、「僕もキョクシンカイです」と佃煮にできるほどのガキんちょ、いや少年たちに声をかけられた。
    そういうわけで朝からこの広場にはあっちこっちで気合いがこだまするのであった。オ~~スッ!

     カトマンズの夜
     中山可穂の「熱帯感傷紀行ーアジア・センチメンタル・ロードー」を読んでいたら、次のような文章にぶつかった。著者はインドネシアを旅していたのだが、「店内のラジオからは、マントヴァーニ楽団の『ブルー・タンゴ』が流れていた。まさかこんなところで、アメリカ製タンゴの名曲を聞けるとは思わなかった。」
    僕は、ああ、分かるなあと思った。僕もカトマンズのタメル地区にある古本屋の二階で日本語と英語のペーパーバックを眺めていたら、ラジオからビョークが聞こえてきたことがある。
     曲名は思い出せないが、ネパールでビョークという取り合わせも妙なもので、年の暮れということも相俟って、異国で独りという寂寥感が身に染みた。
    カトマンズに行こうと思い立ったのは、タメルという場所がバンコクのカオサンと同じように世界中のバックパッカーで賑わっていることを本で読んだからだ。ネパール人と異国のバックパッカーが交錯しながら食事をしたり、土産物を売ったり買ったりしている光景を思い描くと居ても立ってもいられなくなった。
    夕刻にネパール空港に到着。ロッジのようなイミグレーションを通過し、外に出てタクシーを拾う。数十分走ったが、王宮の前で突然、エンストした。運転手に聞くと、何とガス欠らしい。彼は車外に出て、通りを見つめている。どうするのかと思って見ていると、やがて通りがかったタクシー仲間を捕まえてガソリンを分けてもらっていた。タメルに着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていたが、なるほど土産物やホテルや食堂が櫛比し、賑わっている。適当な安宿にバックパックを下ろし、街に出てみた。タメルはカトマンズにおいても異質な場所だと思う。ニューヨークがアメリカにとって特異な都市であると同じ意味で。外国人と牛と地元の人間で賑わっている往来をぶらぶらと歩いていると、小さなスーパーマーケットがあった。そこが気に入って、タメル滞在中は日課のように通った。外国人に混じって食料品を買っていると、不思議と心が安らいだ。多分、一人であっても一人じゃない距離感が好きだったからだろう。食堂では、よくモモ(水牛肉の餃子)とチョウメン(焼きそば)を食べた。席に着いてから最初のお茶が出てくるまで20分、最後の食事が出るまで一時間かかった。白人の客が「ネパールタイムだ」と言うと、他の客はあきらめのような、連帯感のような笑いを洩らした。
    ひょんなことから、あるネパール人夫婦と意気投合し、彼らの知り合いの家へ招待されることになった。その家は日本大使館のすぐ側にあり、門扉から玄関まで歩いていくような、ネパールの生活水準からすれば充分すぎるほどの大豪邸だった。主人のチャンさんは台湾出身で、台湾の電化製品をネパールに輸入して成功した人だ。熱心な仏教徒でもあり、広い居間の一角にしつらえた祭壇へのお祈りは毎日かかさない。チャンさんは言う。「あなたが今日ここに来たのは、あなたが生前ネパール人だったからだ。今度ネパールに来た時はホテルに泊まらず、うちに泊まりなさい。いっそのこと、ネパール女性を紹介するから結婚してこっちに住んだらどうですか」。帰りは夫婦にタクシーでホテルの近くまで送ってもらった。食堂に入り、3人でチョウメンを食べた。縁って不思議だね。そう言って3人で笑った。ネパールに来てから三日目だった。
    知り合いから知り合いに紹介され、滞在中は数珠つなぎに知人が増えていった。誰もが親切にしてくれた。ネパール人は日本人に似ているところがある。控えめで内気で、外国人に対しては親切にせざるをえない。それに加えて男たちは眉間のあたりに矜持といったものを漂わせていた。彼らの信仰する神のせいなのか、それとも貧しさによって自らを恃みにしなくてはならないからだろうか。勇猛果敢なネパール人はグルカ兵としてイギリスの傭兵になったこともある。僕は日本のサムライと彼らを重ねあわせることもしばしばだった。
    たとえば、こういうことがあった。ジョッチェンの広場で少年たちにババ抜きを教えて遊んでいた。しばらくトランプをしていると、後ろから肩を叩かれ、知り合いの大人たちから「メシを食べに行こう」と誘われる。「すぐ戻ってくるから」と中座し、彼らとしゃべっているうちにトランプのことは忘れてしまっていた。あくる日、その広場に行くと、昨日の少年が近づいてきて、「忘れ物だよ」とトランプを差し出した。
    些細なことだが、アジアで未だこのような正直さに出会ったことはなかった。
    帰国日、最後に広場に行ってみた。顔見知りの少年を見つけ、これから帰るからと告げる。何かを言おうと思ったが、適当な言葉が浮かばない。「ダンニャワード(さようなら)」と言って歩き出したが、写真を撮っておこうと思いついた。ついでに周りの連中も記念に写しておこう。「写真を撮るよー!」とあたりに声を掛けると、20人くらいが集まった。笑顔の彼らをファインダー越しに覗いていると涙が出そうになった。
    タクシーを拾い、空港に向かう。しばらくすると今度はパンクした。
    車外に出ると、来た時と同じような満月だった。

     皆様への伝達事項
    中山可穂先生の「熱帯感傷紀行ーアジア・センチメンタル・ロードー」は平成十年四月に発売され平成16年四月にドリアン長野はネパール旅行記を発表しました。ネパールのカトマンズを旅した時は平成十年代に思えますけれど明確化するのは不可能です。
    ネパールとチベットは近接なので似通った料理が食べられるようです。 令和以降は食事の提供が迅速化したそうです。
     空手家のドリアン長野はネパールでも空手をしてきました。
    海外に赴き同じ志を持つ人に出会って嬉しかったそうです。
    音楽は国境を超えますので洋楽を聞く機会があったのを連想しました。「どこに行きたいか?」についてですがスマホやタブレット等で情報が得られる時代になりました。

     ~注目してもらいたい部分~
    私(ドリアン)は猛烈に感動した!この地でこんなにも極真カラテを愛している男がいたことに!!


     極真カラテは国境を超えるが国境越えは難しくなったようです。
     将来的には変更になるやもしれませんが現在(令和六年二月)、ネパール旅行(入国)に関して査証ばかりか電子渡航認証が必須だそうです。過去にはお気楽に旅行出来たようですが現在は全く異なるようです。 皆様、詳細は各自でお調べ下さい。
     nepaliport.immigration.gov.np

    カトマンズ・バサンタプル広場


    ネパール カトマンズ (タメル地区からダルバール広場へ)

    ~渡航先との時差が日本と大差が無くても腕時計と置時計は必須~
     私が平成27年に行ってきたバンクーバーの時差は夏時間だったので16時間。 日本の午後11時は旅先の午前7時。
     時差に対応する心構えは必須です。腕時計は外出中に必要で置時計は設定したなら室内で時刻を知らせてくれるし目覚まし音も鳴らしてくれます。 日本時間の正午はネパールの午前8時45分。time-j.net
    海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。  移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
    宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
     帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。
    敬具 マーキュリーマーク

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    ほぼエッセイのマレーシア旅行記 2024

    2024-06-30 | 日記
    ドリアン長野のほぼエッセイですがマレーシア旅行記
    #10 ドリアン
     人は非日常的な体験を求めて旅に出る。海外ならなおさらだ。しかし、それが食文化になると頑なに自国の食生活に固執する人がいる。たとえば、欧米人なんかがそうだ。彼らは外国においても朝はトーストとハムエッグ、昼はマクド(関東地方だったらマックよね。おされだわ)というスタイルを崩そうとしない。マーブンクロンのクーポン券式大食堂には欧米人の姿も見かけるけどな。大半は一、ニ度料理を食べてみて後はコーラとハンバーガーってとこだろう。君たち、それで満足なのか? 私はイギリスではフィッシュ・アンド・チップス、アメリカではステーキとハンバーガーを食い続けたぞ。まずかったけど、それでも我慢して食ったわい。(我慢して食うなよ)
    自国以外の食生活に興味を持たんから、鯨を食う日本人は野蛮だなんてぬかすんじゃい! 「美味しんぼ」の海原雄山も食はその国の文化だとゆうておろーが。私はある国に行ったら、その国の人間が食べている物を食い倒すぞ。フィリピンやベトナムでおやつがわりに食べてる、孵化寸前の鶏の卵は塩をかけて食うとうまいんだよっ! 海外番組のTVリポーター(女優)は「いや~ん、気持ちわるう~い」とか「やっだあ~、ざんこくう~」とかぬかしてんじゃねー! アラブ人街に行ったら、羊の脳みそのカレー煮込みが安く食えるぞ。ベトナムでは時間があれば、センザンコウでも犬でも食いたかったわい。イサーン地方では虫も食べる。カオサンやラーチャダムヌーン・スタジアムの前やナナ・エンターテイメント前の路上に行けば、屋台でいつでも売ってるぞ。メーンダーは黒くて一見するとゴキブリに似ているがタガメだ。羽と足を取り、歯で身をしごいて食べる。その他にはバッタのフライとかコオロギとかカイコのさなぎとか赤アリとか、全部スナック感覚だ。もちろん、私の口に合う物もあるし、合わん物もある。だが、口に入れてみなければ味は絶対にわから~ん! 食わず嫌いはいろんな事を損してると思うぞ。
    日曜日の夜の「世界ウルルン紀行」はタレントがいろんな国へ行って、一週間ホームステイするという番組だ。お世話になった家族と別れるシーンで私はいつも号泣してしまう。下條アトムのナレーションが泣かせるんだ、これがまた。ある日の番組では某男優がアフリカの某国に行った。その国では牛がとても重要な役割を担っているわけだよ。畑を耕したり、牛乳を飲んだりはもちろん、牛糞を燃料にしたり、家の壁にしたりな。それどころか、尿をシャンプーにもするし、飲んで胃に収めてから吐き出して胃腸を整えたりするのだ。その男優がそれに挑戦した。牛の泌尿器の下に容器を構え、おしっこを受ける。男優は容器になみなみとつがれたおしっこを眺めた。さあ、どうするんだ? 本当に飲むのか? 私は手に汗握って見つめたね。彼は一瞬ためらったが、ついにうぐうぐと飲み干し、そして吐いた。司会者に「どんな味でした?」と聞かれ、彼は苦いような、しょっぱいような、とにかくすごい味でした。その味が今でも口に残っています、と答えた。私は猛烈に感動したね。これが感動せずにおられよかってんだい。世の中には健康飲料だと称して己のおしっこを飲むやからがいるが、自分のでも躊躇すんのに、ましてや牛のおしっこだぜ。サムライだね。えらいもんだ。郷に入っては、リーに従えとはこのことだっ!(離婚したけど)さすがの私でもおしっこまでは飲めん。そこでドリアンだ。フリが長かったな。ドリアンを屁のにおいだとかウンコくさいとか言うやつは、牛のおしっこも飲めんくせにグタグタぬかすんじゃねー!(無茶苦茶) ドリアンは確かに強烈なにおいがする。バンコクの「ロビンソン」で買ったドリアンをリュックに隠し、日本に持って帰った。(見つかると税関で没収だからな)機内でもリュックを開けるとガスのにおいが漂うので、冷や汗もんだったさ。その密輸入したドリアンを会社の同僚が食べてみたいって言うので、親指大をアルミ箔で包み、ビニール袋に入れて会社に持って行った。ロッカー室で包みを開け、食べさせてやった。その後、会社の人が「ガスくさいぞ。ガス漏れしてるんちゃうか」と騒ぎ始めたのだ。本当のことを言うに言われず黙っていたら、誰かが電話したんだろうな。大阪ガスの車がやって来てガス漏れの点検をやり始めた。しばらく調べていたが、もちろん異常なしで帰っていった。恐るべし、ドリアン! 今でも会社の人には真実を伝えていない。でもさ、ドリアンアイスとかドリアンスナックとかドリアンキャンディーとかドリアン羊羹(がバンコクの伊勢丹で売っとるのだが、これはさすがに食したことはない)はうまいとは思わん。ドリアンの身上はにおいではなく、カスタードクリームを濃厚にしたような 、あのねっとりとした果実だ。これぞ、キング・オブ・フルーツ。ドリアンを食べるためだけに、タイに行く人の気持ちが私はよく分かるぞ。ドリアンを食べていると私は幸せになる。納豆やくさやの干物を好んで食べる日本人が、においだけで毛嫌いするのはどういうわけだ。
    マレーシアに行った時、屋台にドリアンを食べに行った。買ったその場で食べていると、「ドリアン、むっちゃ、うまいわ~」 「ほんま、最高やね~」という大阪弁が聞こえてきた。見ると、屋台のテーブルで女の子が二人、必死の形相でドリアンにむしゃぶりついていた。クアラルンプールは退屈な街だったが、その時の光景だけはよく覚えている。

    NO44 ウタダ
    at 2004 04/02 23:49 編集

    I was out stumbling in the rain staring at your lips so red.
    よろめき出ると、雨。なんて赤い、あなたの唇。

    小生、過日久しぶりにテレヴィジョンを聴こうと思い、セカンド・アルバム「アヴェンチャー」を引っ張り出した 。一曲目の「Glory」。冒頭の詩はその一節。

    語順に訳出し、体言止め。赤い唇のなまめかしと、雨の冷たさの対比が、いい。訳詞をしたのは岡田英明と、ある。岡田氏は、かつて「ミュージック・ライフ」誌上で、ピストルズの「プリティー・ヴェイカント」をWe are pretty oh so prettyと繰り返し、そこでvacantと言葉の意味が逆転するのは痛快だ、という意味のことを書いていたが、彼はそこでprettyという単語を正しく理解していたのであり、なんじゃ、そらあたり前やんけと言う人もあるやもしれんが、事実はそうでは、ない。ピストルズは正式なスタジオ・アルバムは畢竟(ひっきょう)、一枚しか捻出していないにもかかわらず、ライブやデモテープやセッション、はてはインタビューなどのCDがそぞろ出ているのであって、もちろんその都度、訳者が違う。その中に、「オレ達は素敵だ」と訳し、その後に何の脈絡もないvacantと言う単語が来ているのに戸惑い、狼狽し、苦心した挙げ句、「だけどかなり抜けてるけどね」等と言う訳詞を恣意に捏造し糊塗しているのを何度も、読んだ。これはもちろん「乃公 (だいこう)等は全くの何もない、カラッケツのカラッポ」だと歌っているのであって、まだある、同じ曲の中に「0ut to lunch」(時流に遅れた)という文言があるが、これを「さっ、昼メシに行くぞ」とあって、小生、全く弱り果てる。プロレスラーの藤原喜明がカール・ゴッチに「大工はノミを磨き、石屋はハンマーを磨く。キミがレスラーなら体を鍛え、大切にしなさい」と言われ、爾来(じらい)、それを座右の銘にし、肉体の鍛練に努めたというが、もちろん、なにがしかの報酬を受けとっているのであれば、プロというのであって翻訳者も日本語と外国語の言葉を鋭意、磨かねばならぬ。

    よくブルースやゴスペル、ジャズ、レゲエ等等という、所謂(いわゆる)、黒人音楽と称される楽曲をやっている我が朝の人が「私は黒人に生まれれば良かった。私はなぜ日本人であることか、私はなんと不幸なんだろう」と、おっしゃる人をたまさか見聞するが、小生、これを聞くと「ふざけんな大馬鹿野郎。プリンの角に頭を打って公民権運動前のアメリカ合州国南部かアフリカ西海岸の奴隷船の黒人にでも生まれ変わってきやがれ」と悪態をつきたくなるのであるが、もちろんアフリカ黒人にもインド黒人にもアメリカ黒人にもアメリカ白人にも中華人民共和国人民にも日本人にもスペイン人にもアイルランド人にもああめんどくせえア・ポステリオリに自分たちの生活、風習に基づいた文化というものがあり、宗教でいえばキリスト教とアフリカの呪術に高度低度の違いはないという考え方で、これを文化相対主義というのであるが、これが正しいのかどうかはひとまず置いといて、日本人が黒人の文化をそっくりそのままいただきって感じでサルマネしてもこのアホンダラそれが何になるの、って感じで。
     拙者が大学で英文学などというヤクザなものを専攻しておった頃。第ニ外国語という面妖なものを単位取得せねば卒業は罷(まか)り成らんとの仰せで仏語、独語、西語、支那語から取捨選択せねばならんということに相成った。英文学専攻の学生は仏語を選択するのが慣例、などと通達用紙に記載されておったのだがケッ、て感じで、結局僕は西語を選び勉学に刻苦精励することになった。理由は以前紐育はハーレムという地をぶらぶらと散策していた時、そのラテン・アメリカ人の多さとあらゆる表記に英語と西語が記されているのを目撃し驚いたからであるが、それはさておき、西語の先生は詩人のアレン・ギンズバーグに風貌がそっくりであったので僕は大いに怪しみ、この人はどこぞの人ぞ?と訝(いぶか)しがったのであるが日本人であることが判明し僕は安心立命した。何ぞ? 
    その西語の授業中、僕はコンサイス英語辞典を机上に置いておったのであるが、先生は僕の席を通りがかるおり、ひょいとその辞書を手に取り、しげしげと、と見こう見されるのである。僕は西語の辞書を放擲(ほうてき)していたことに対し、叱責されるのかと鞠躬如(きっきゅうじょ)としておったのであるが、あに図らんや先生は「これはすごいですね」と目を細め、その辞書をためつすがめつされるのである。僕は仰天した。中学生から使用している辞書なので韋編三絶なのは当然といえば当然なのであるが、僕はそんなことに関心を示される先生に感銘した。さらに先生はこうも言われたのである。「私はこのような西語の辞書を三冊持ってます」と。僕はますます感銘を受けた。感動のあまり、「そのくらい辞書を活用しなければ語学は習得できないのでありますね」という意味のことを口走ったのであるが、「いや、まだまだです」と先生はおっしゃられるのである。先生の学問に対する真摯(しんし)な態度、一求道者たらんとする先生の孤高の精神に僕は尊敬の念を覚えたのである。
    僕の寝室兼書斎には、あまたの辞書が参差(しんし)乱雑しておる。「リーダーズ英和辞典」「アメリカ俗語辞典」「アメリカ口語辞典」「アメリカ新語辞典」(これは図書館からガメてきたやつ)「最新和英口語辞典」「スピーキング英和辞典」「Give Get辞典」「The dictionary of Comtemporary SLANG」「英語図詳大辞典」「英和翻訳表現辞典」「最新英語情報辞典」「早見優ちゃんの英語にしてみたゲンダイ用語辞典」だってあるし「現代フランス語辞典」「現代スペイン語辞典」「広辞苑第三版」「新選漢和辞典」「新明解国語辞典」「イミダス」に「現代用語の基礎知識」だってある。三島由紀夫は「辞書は引くものではなく、読むもの」と言ったが、いかにも辞書は読んでもおもろい。はは。
    僕は成人式のお祝いに市から国語辞典を頂戴したのであるが、僕と同年代(当たり前だ)の阿呆の餓鬼どもはその辞書を毫(ごう)も有り難く思わず、放擲していたに違いないことは想像に難くない。その頃、文学などに入れ込んでいた僕は意味不明の文言が出てくると逐一、辞書を引いて確認していたのである。そうして使用していた辞書は一年を俟(ま)たずしてボロボロに朽ち果てたのであるが、僕の日本語の語彙は飛躍的に伸びたのである。イエイ。
    ともあれ、西語は三年間授業を受けたのだが、拙者、西語で覚えた文章は「私の父と母は西語を話すことができます」だけである。嗚呼、やんぬるかな。アディオス。

    わが君にわけは恋ふらし
    わがせの君は涙ぐましも

    自分は過ぐる夏、マレーシアに旅した。わが朝のポップスは亜細亜市場を席巻している。街をうろついて聞こえてくるのは宇多田ヒカルだ。自分はクアラルンプールの「タワー・レコード」で宇多田のテープを邦貨、六百円で購った。そしてセレンバンという街を目指し、列車に乗った。その街に目的若しくは所用があったわけではなく、車窓から街並の風景、乃至市井人の生活というものを打ち眺めてみたかったのであり、それには日帰りで逆旅(げきりょ)に帰館できるセレンバンは都合がよかったのである。車窓からは、なるほど森林を伐採して作られた都市だと実感できるほど、熱帯多雨林が生い茂り、抜けるような蒼穹に入道雲が棚引いておる。春霞棚引く山を君が越えいなば。眩しい陽光の中で宇多田の湿ったリズム・アンド・ブルースの唱法は妙に合った。聴いているうちに、自分は不覚にも涙を流していた。
       
     沢木耕太郎の「書物の漂流」というエッセイは、こういう書きだしで始まる。
    「小説を読んでいて不覚にも涙を流しそうになったことがある。確かにそれが物語の中段とか終局においてというなら別に珍しいことではない。取り立てて口にするほどのことでもないだろう。その時、私は第一章の第一節の第一行目を読んでいたのだ。第一行目の活字を眼にした時、不意に胸が熱くなってしまった。驚いた。狼狽したといった方が正解かもしれない。_私は山本周五郎の『さぶ』を読んでいたのだ。」

    シルクロードを西に向かって歩いていた沢木は日本人旅行者から一冊の文庫本を貰う。それが『さぶ』だった。彼はチャイハナでその本を読み始めるが、一ページ目が終わらないうちに、その先を読み進むことができなくなってしまう。
    「いまとなれば、その時の動揺は山本周五郎の文体の力によってもたらされたものに違いない、と考えることができる。靄のようにけぶる小雨、両国橋という名の橋、さぶという名の若者、橋を渡るという感覚。一片の雲もなく、一滴の雨も降らない中近東の砂漠にいる私には、それらのすべてがひとつの世界を現前させる激しい喚起力を秘めていた。しかもその世界は、遠ざかりつつあり再び戻ることはできないのではないかと怖れていた土地の、鮮やかな象徴として現前したのである。」

    何百日か後、戻れないのではないかと怖れていた日本に帰った彼は再び『さぶ』を手にするが、あの時の胸の熱さを経験することはなかった。
    「しかし、」と彼はいう。
    「文庫本の『さぶ』は、いまでもなお、シルクロードをゆっくりと往き来しているかもしれないのだ。そう思うと、ほんの僅(わず)かだが、胸が震える。」
    自分は宇多田をバスの中で、逆旅のベッドの上で、繰り返し聴いた。聴くたびに日本のことを想った。それはアメリカン・スクールに通う彼女(当時)が、亜細亜の片隅にいる自分に日本人であることの認識を強いたからだ。

    「マリリン・マンソンとはアメリカの闇が生み出した怪物だ」
    (マリリン・マンソン)
    ベルリンの壁崩壊以後、喧(かまびす)しくなってきた感があるが、人種、宗教、文化、言語に関係なく世界中の人々は融和して住むことができる、宇宙から地球を眺めてみれば国境線なぞなかった、僕達は地球号という一蓮托生の船に乗ってる地球人であるから争いはやめよう、ウイー・アー・ザ・ワールド、ウイー・アー・ザ・チルドレン、国境なんぞがあるから戦争、紛争が起きるのだ、反戦、平和、自由、平等、人権が人類にとっての普遍の真理であるから反権力、反国家、もう国民という言葉を使わず市民と言おう、これからは草の根運動だ、一個人が輝く時がきた、国籍を捨て、国際人になろう、等という輩(やから)がいる。妄言である。自分はかかる妄言を吐く人種を信じぬ。「イマジン」から「アナーキー・イン・ザ・U.K」、マリリン・マンソンまで、ロックの一部分は無政府主義を標榜し、国家の解体を宗(むね)としてきた。(ただし後年ジョニー・ロットンはアナーキズムなんて中産階級のマインド・ゲームだと言っていたが)国家が消滅すれば、より紛争及び戦争が勃発するということは自明の理であり、国家すなわち権力であるから他国を侵略する力を有するという民主主義やその漸進形態である共産主義の謂(いい)は笑止である。しかし、自分はイラクの空爆に賛成である。かかる非人道的な行為を看過できぬ。人権思想を持つ、アメリカやヨーロッパの民主主義国家が空爆を決議したのは当然だ。それならば、インドにはサティーという文化(culture)『人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住を初め技術、学問、芸術、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容とを含む』(広辞苑)がある。夫に死なれた未亡人は生きたまま焼かれるという文化だ。法律では禁止されたが田舎では今でも実施されている。全ての文化を等価値だとする文化相対主義者はサティーを容認できるか。そして民主主義者は人権、平等、女性差別撤廃の名においてサティーを絶対に容認できまい。この悪魔の所行を根絶するために民主主義国家はインドを空爆しなければならない。それができなければ、民主主義は恣意的な思想(イデオロギー)だと言われても仕方がない。アメリカよ、インドを空爆せよ。

     皆様への伝達事項
    今回はほぼエッセイです。
    お笑いエッセイなのでドリアンは日本のお店で購入されたかも?
    平成十年から平成16年にドリアン長野はマレーシアを短期間旅行したようです。文面で紹介された宇多田ヒカルは平成十年に歌手活動を始めました。初発表したのは平成16年です。旅行した時期を明確化するのは不可能でした。
    海外の町の説明は時に難しいです。スレンバンはセレンバンとも言われてます。
    人が何を食べるか食べないかについて第三者は強要してはいけません。 事情があり食べないようにしてる食品があるからです。
     タイランドのカオサンも含めてバナナ・パンケーキ・トレイルと言われてる東南アジアに存在する欧米の旅行者向けの宿場町について肯定するか否かは人それぞれです。
     図書館で読んで感動した書籍を後に購入された消費者はおられます。
    ドリアン長野が番組名を間違えてたTV番組のウルルン滞在記は平成七年から平成20年に放送されてました。 幾つかの動画配信サービスによって番組の視聴が行えます。詳細は各自で調べて下さい。
     先般、マレーシア政府は令和六年の元旦から入国に際し「マレーシア・デジタル・アライバル・カード(MDAC)」の登録を義務付けました。

     ~注目してもらいたい部分~
    日曜日の夜の「世界ウルルン紀行」はタレントがいろんな国へ行って、一週間ホームステイするという番組だ。
    • デジタル入国カード記入を2024年1月から義務化、雇用パス保持者は不要(マレーシア) | ビジネス短信 ―ジェトロの海外ニュース - ジェトロ www.jetro.go.jp/biznews/2023/1… posted at 22:24:14
    クアラルンプール旅行ガイド | エクスペディア
    ~渡航先との時差が日本と大差が無くても腕時計と置時計は必須~
     私が平成27年に行ってきたバンクーバーの時差は夏時間だったので16時間。日本で午後11時でも旅先は午前7時。
     時差に対応する心構えは必須です。腕時計は外出中に必要で置時計は設定したなら室内で時刻を知らせてくれるし目覚まし音も鳴らしてくれます。 日本時間の正午はマレーシアの午前11時。 time-j.net
    海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。  移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
    宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
     帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。
    敬具 マーキュリーマーク

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    台湾旅行記 2024

    2024-06-30 | 日記
    ドリアン長野の台湾旅行記 シャオエン 
    1997年5月、日本の首相官邸に当たる総統府の前を歩いていた。日曜日の昼下がり、空は透き通るような快晴だった。赤レンガの荘重な建物の前には警察官と憲兵(機動隊員)が集まって、何だか物々しい雰囲気だ。
     「ん? 何だ? 何だ?」と足を止めて眺めていると、警察官に職務質問されそうになったのであわてて立ち去る。官庁街であるただっ広い道路の交差点にも市民が集まり始めた。その中にはテレビ局の中継車がスタンバっている。向こうの道路からはデモ隊が何かをシュプレヒコールしながら近づいてきた。一体、何が?  中華人民共和国でも攻めてきたのか?前年には台湾史上初の民間による直接選挙で李登輝が選出された。台湾独立派を恐れる中華人民共和国は大規模の軍事演習を行なったり、台湾海峡にミサイルをぶち込んだりと威嚇を続けていたのだ。
     「何があったんですか?」 近くにいたテレビ局のスタッフらしき人に聞いてみる。
     「テレビ・スターが殺されたんだ」 彼は詳細を説明する英語力がなかったのか、それだけ言うと黙ってしまった。俳優が殺されたぐらいでこんな騒ぎにはならないだろう。警官隊と機動隊が見守る中、デモ隊とそれに呼応した市民が気炎を上げていた。
     その夜は「華西街観光夜市」に行った。長い商店街は地元の人や観光客でごった返し、店の人たち、特に包丁片手にヘビやスッポンの生き血を売るおじさんの口上で賑わっていた。中にはヘビの頭を噛みちぎり、尻尾をくわえて振り回すという猟奇的おじさんもいた。不思議なのは生き血や漢方薬を売る店にはテレビが置いてあって、そのどれもが日本のプロレスを映していたことだ。やっぱり、精力がつくということをプロレスに託して表現したかったんだろうか。しかし、店先に繋がれていたオランウータンはどういうことだ。
     こんなにもヘビ屋やスッポン屋があるのにはわけがある。裏通りに売春街があるからだ。そこに行ってみた。売春宿は外から覗くことができ、ピンクの灯りの下で女性が立っている。その前の道路には怪し気な男たちが列を作って座っていた。
     
     ホテルに戻り、「あっ、そうか、あれは」と気がついた。三週間前に劇画作家の梶原一騎と歌手、女優のパイピンピンの娘が誘拐され、殺害されたのだ。犯人たちはその時点でも逃亡中で、さらに凶悪な事件を繰り返していた。後に5万人もの市民が治安改善のための法律改正や政府官僚の辞任を求めてデモを行ない、内閣は総辞職に追い込まれた。そのデモだったのだ。当時は日本のみならず、世界中にそのニュースが連日のように報道されていた。私はその事件の残虐さを知り、誇張ではなく、犯人たちへの激しい怒りと殺された17歳の少女への思いで胸がつぶされそうになっていた。
     少女の小指を切断し、母親へ送りつけるという行為。食事も与えず五日間に渡って暴行を加え続け、最後には遺体を全裸で排水溝に捨てるという行為。肝臓の五か所が破裂。胸部や腹部等に夥しい量の内出血。死因はロープで首を絞められたための窒息死。
     少女が味わった地獄のような恐怖と苦痛。私には懸命に想像してみることしかできない。そして犯人たちのこと。パイピンピンと犯人たちは経済発展を遂げる以前の貧しい台湾を共に生きた、同世代の人間だった。主犯格三人のうち、二人は警官との銃撃戦中に自殺。あとの一人はなおも逃亡し、南アフリカ大使館武官官邸に立て籠ったが、ついに投降した。パイピンピンはその後、台湾の治安の改善を目指し、ボランティア活動を精力的に行なっている。犯罪のない社会作りを世界にアピールするため、長野オリンピックには聖火リレーに台湾代表として参加した。
     せめて私は自分の命が続く限り、17歳で殺された少女のことを忘れないようにしようと思う。そうすれば彼女は生きる。私たちの記憶の中に彼女は生き続ける。

    参考文献 「燕よ、空へ」 パイピンピン著 木村光一訳 / ルー出版

    燕よ、空へ―慟哭を乗り越えて 白 冰冰 https://t.co/phlNCoT4mt

     皆様への伝達事項
     ドリアン長野は平成九年五月に台湾旅行しました。治安の悪化は現在も継続してます。万人の命は平等で殺人の無い社会作りが必要で政府の対策は重要です。多くの親御さんは苦労して子育てされてる。 それを水の泡にするような犯罪者達はどの国であっても否定されます。日本、台湾そして南アフリカ共和国で注目を浴びた事件でした。 被害者の母が治安改善運動をしているのは必然です。
     昨今、悲劇が発生しており個人の力では対応出来ない問題が発生してます。スマホ等でSNSが地球上で円滑に行える影響は大きいです。
    海外の犯罪組織とつながりがある日本人が海外旅行中の日本人に詰問することを想定した上で対テロ対策の一環からも警戒してください。
     ~注目してもらいたい部分~
    パイピンピンはその後、台湾の治安の改善を目指し、ボランティア活動を精力的に行なっている。犯罪のない社会作りを世界にアピールするため、長野オリンピックには聖火リレーに台湾代表として参加した。

     皆さんも旅行中には犯罪者や犯罪のほう助をする悪人に警戒して下さい。 彼等は偽善者で情報を得た後に悪事をする。
    平成27年に私がカナダを旅行中にストーカーから毎日フェイスブックのタイムラインに詰問されました。
    詰問してきた人物は過去に悪事をやらかしたので尋問された悪人だったのでしょうか?

    紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。
    台湾旅行 台北 「総統府」

     入国カードの提出が台湾入国の際には必須とされてます。
     詳細は各自でお調べ下さい。


    犯罪組織に加入してる在外邦人が悪事をやらかしてます。
    結局は国の内外を問わず社会に損害を与えてます。
    「辞めて下さい。」と警告しても辞めなかったり悪事に対して抗議しても謝罪しないのが特徴なのでしょうか?
    日本人が海外旅行してる時に加害並びにほう助する人はおります。
    防犯上の問題は大きい。

    ~渡航先との時差が日本と大差が無くても腕時計と置時計は必須~
     私が平成27年に行ってきたバンクーバーの時差は夏時間だったので16時間。日本で午後11時でも旅先は午前7時。
    時差に対応する心構えは必須です。腕時計は外出中に必要で置時計は設定したなら室内で時刻を知らせてくれるばかりか目覚まし音を鳴らしてくれます。 日本時間の正午は台湾の午前11時。 time-j.net
    海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。  移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
    宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
     帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。   
    敬具 マーキュリーマーク

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    フィリピン旅行記 2024

    2024-06-30 | 日記
    ドリアン長野のフィリピン旅行記 #17 マニラのスラム

    夜の9時前にニノイ・アキノ空港に到着。ロビーに出ると熱気、じゃないなこれは、殺気を感じる。なんだか誰かに狙われているような気がして、少しびびる。ホテルを予約して、米軍用のジープを乗り合いバスに改造したジプニーに乗り込んだ。窓から通りを眺めていると、浜 なつ子の「アジア的生活」(講談社文庫)の文章を思い出してきた。
    「スラムは特別な地区にあるのではない。メトロ・マニラ(マニラ首都圏)のいたるところにある。例えば、あなたがニノイ・アキノ国際空港を降りてタクシーに乗り、マカティの5ツ星ホテルに泊まり(そこまで気張らなくても安ホテルでも同じなのだが)、日中は車で移動して夜は繁華街で過ごすとなると、「タイやシンガポールほどではないが、フィリピンもずいぶんと経済発展しているんだなあ」と思うだろう。ところが、一歩、メインストリートをはずれて体重を右足でも左足でもいいから、どっちかに傾けて薄暗い路地を折れてみるがいい。
     そこには、ああっ、と驚く光景が広がっている。」 
     
     とそれから浜氏はスラムの様子を描写し、
    「しかし、わたしにとってスラムは混沌という名の・楽園″であり、生命力溢れる根元的な場所である。
      (略) ある意味で、最も俗なるところが聖に通じ、最も醜いものが清らかなものに近く、最も単純なものが真実に迫るという逆説を痛感できる、哲学的な場所でもある。」
     
     と続けている。私はこの文章を読むたびに、うひゃひゃと体が弾むような感覚になるのだ。私はスラムが大好きだ。電車に乗っていて、線路沿いにあるスラムを見つけると途中の駅で降りてしまうくらいだ。そんなに好きなら一生スラムに住みついたらどうだ、と言われると困るけどな。
     マニラには観光名所らしき場所はあまりないが、私にはどうしても見ておきたい所があった。東南アジア最大のスラムといわれるスモーキー・マウンテンだ。夢の島のようなゴミの集積所にバラックを建て、人が住み始めた。ゴミが自然醗酵し、煙がたなびいているのでスモーキー・マウンテンと呼ばれるようになった。スモーキー・マウンテンのあるトンド地区には無用な立ち入りは絶対に厳禁、とガイドブックには書いてある。それでもどお~しても行ってみたい。私は覚悟を決めた。海外旅行保険に加入してないのが残念だ。アバト・サントス駅でタクシーを止め、ドライバーに聞いてみる。 「あんたは悪人か、それとも善人か?」 (マニラのタクシー・ドライバーはボる奴が多いからな) 「なぜ、そんなことを聞く? もちろん俺はグッドマンだ」 交渉して、スモーキー・マウンテンをぐるっとひと回り、300ペソで行ってくれることになった。ドライバーのソシモは気のいい人で、運転中もずっとしゃべりっぱなしだ。 「人生で大切なのはお金よりも友だち、神様、家族だと俺は思うね」 「香港に研修で行ったことがあるよ。外国に行ったのはそれっきりだ」 「トンドなんかになぜ行きたいんだ? あんた、ジャーナリストか? トンドで警官がナイフで刺されたことがあるし、タクシーだって石を投げつけられたこともあるんだぜ」等と話を聞いているうちに、車はいつしか迷路のような細い路地に入り込んだ。一見してスラムと知れる、その住民たちが車を取り囲むようにしてじろじろとこちらをねめるように歩いている。ソシモの言葉を思い出して、こちらとしては気が気ではない。やがてマニラ湾沿いの道路に出た。う~ん、と思わず私は目を見張った。なにしろトタン屋根とありあわせの木造で建てられたバラックが何キロにも渡って延々と続いているのだ。それは今まで訪れたアジアのどの国でも見たことがなかった、圧倒的な光景だった。電気は引いているが、水道はないとソシモは言う。
     スモーキー・マウンテンには以前、人が住んでいたが現在は政府によって強制撤去させられて家はない。気が遠くなるほどの広大なただのゴミの山だ。少し行くと、今にも崩れ落ちそうな五階建てくらいのアパートが密集していたので、その前の広場に車を止めてもらう。広場にいる大勢の大人たちや子供たちが何事かとこちらを注視してきた。
     ソシモに「外に出ても大丈夫か?」と聞く。 「ああ、大丈夫だ」 「ここで待っていてくれ」 あたりを窺うようにしてゆっくりと車から出て、一番近くにあったアパートの階段をのぼる。そこで私は自分の目を疑ったね。各部屋のドアはなぜか全てなくて、中がまる見え。室内には所狭しと何人もの人間が住んでいるのだが、住んでいるのは人間だけではなかった。猫や犬に数羽の鶏までもが同居しているのだ。一軒家ならともかく、アパートの一室で人が家畜と暮らしている光景は異様だ。それは、まるで家畜小屋に住人が住まわさせてもらってますって感じなのだ。もしかして、あれはペットなのか? いや、そうではあるまい。スラムの住人にそんな余裕があるはずがない。現金収入を得るため、もしくは自給自足の食料として飼って、いや、同居しているのだろう。上の階まで行きたかったが、住人の眼光が鋭くなり危険を感じたので車まで戻る。
     「一緒にアパートの上まで行ってくれないか?」とソシモに頼むと、「駄目だ。危険だよ」と言う。あとから考えてみると、危険なのは我々だけでなく、もし車を残しておけばその車だってどうなっていたか分からない。仕方なくトンドを離れ、リーサル公園で降ろしてもらった。歩いて駅まで行こうとしたら、一人のフィリピーノに時間を聞かれた。そのままついてきて、歩きながら自己紹介を始めた。年は29歳。父は日本人、母はフィリピン人。何年か前に離婚し、父は香港にいるが母は行方不明。彼には子供が二人いて、ミルクを欲しがっていると何度も言う。ふ~ん、なるほどね。案の定、「セブン・イレブン」で粉ミルクの缶を二つ買わされた。自分のためにお金をくれ、というのならともかく、小さな子供がおなかを空かしているという言葉に断ることができなかった。願わくはだな、あとでその粉ミルクを換金して、お人好しの日本人はちょろいもんだと舌を出さんように願っているぞ。
     その男は粉ミルクを受け取り、ホテルの所在地を尋ねるとお礼のつもりなのか「案内するよ」と歩き出した。おい、ちょっと待ってくれい。わしはLRT(高架鉄道)に乗って帰るからいいんだ。と言ってもそいつは先頭に立ってどんどん歩いて行く。待てっちゅうねん、お願いだ~、頼むから待ってくれ~。ここからホテルのあるエドゥーサ駅まで6キロはあるぞ。 「心配しなくても大丈夫だよ」 いや、だからそういう問題じゃなくてえ。男は黙々と歩く。薄暗い夜道をひたすら歩く。月がきれいだった。一時間歩いてホテルに着く。えっ、本当に着いたのか? 初めは着いたのが信じられんほどだった。リキというその男は妻子のためにお金が欲しいと言う。 「いくら欲しいんだ?」 「200ペソ」 ありがとう、リキ。案内してくれてよっ!私は彼に50ペソ渡した。リキは少し不服そうだが礼を言って帰っていった。また一時間かけて。
     それから私はホテルでイタリア料理を食べた。500ペソほどだった。近くにカジノがあるというので行ってみたが、カラーのないシャツを着用している人は入場できません、と断られた。帰り道でぼろぼろの服を着た6歳くらいの女の子が右手を突き出してきた。小銭を1ペソしか持ってなかったのでそれを渡すと、女の子は無言で首を振った。でも、どうすることもできんのでそのまま帰った。私は人権主義者じゃないけど、つくづく人間は不平等だとその夜は思った。

     皆様への伝達事項
     平成14年の元日から一月二日頃に旅したフィリピンのマニラ旅行記です。乗継便を利用したからかマニラに到着する迄にカンボジアとタイランドを旅したようです。ドリアン長野は冷やかしが好きなのか?
    今回の旅行記は相手の気持ちが読めないから仕事が出来ない労働者や小銭が欲しい女の子が紹介されてました。
    時間を尋ねるのを踏み台にして金を要求するのは悪質な詐欺師です。
     強要はした方ではなくされた方が判断するものです。2010年以降は減ったようですが日本でも署名の後に寄付金を求めた人はいました。
    他にも日本国内で説明も無しに生活費を求める日本人はおりまして拒否しました。強要や搾取はされたくないです。 スモーキーマウンテンは実質的に移転しパヤタス・ダンプサイトことスモーキーバレーとして存在してるそうです。 詳しくは各自でお調べ下さい。
     私は海外旅行保険に加入してからバンクーバー旅行しましたので海外旅行保険の加入は推奨します。 kaigairyokohoken.com

     ~注目してもらいたい部分~
    スモーキー・マウンテンのあるトンド地区には無用な立ち入りは絶対に厳禁、とガイドブックには書いてある。それでもどお~しても行ってみたい。私は覚悟を決めた。海外旅行保険に加入してないのが残念だ。

     海外旅行は並ではありません。海外旅行案内書ことガイドブックは渡航前に読みましょう。海外旅行保険に加入していても渡航中は危険な街に行かないようにして下さい。平成十年代はともかく平成20年代は錯乱してるストーカーから毎日フェイスブックのタイムラインに詰問されました。 犯罪のほう助です。

     乗継便は乗り換え地点で途中降機出来ます。目的地以外の空港に到着してから目的地に向かうのが本来ですけど人によっては観光したようです。
    経由便は空港内の移動は認められるが途中降機は認められません。空港内で飛行機から飛行機の移動や乗客が目的地以外の空港に到着し燃料補給等の理由で着陸している飛行機の中で待機して移動します。
    一例。 KIX(関空)からYVR(バンクーバー国際空港)そしてLAS(ハリー・リード国際空港)といった具合です。

     重視と軽視の区別がついて無い錯乱してしまった人はおりますがこれは重視の領域です。 詳細は各自で調べてもらいたい。 
     平成の時期はともかく令和になってからフィリピンに出入国する際にはeTravel.の申請が必要になりました。
    フィリピン旅行されるならば前もって電子渡航認証は済ませて下さい。 ~赴いた時期についてお知らせします~
    フィリピン旅行記を一読したのみではいつ旅したのかは不明ですが他の旅行記を参考にしたら明確化します。平成13年12月28日頃にカンボジア、平成13年晦日より平成14年の元旦はタイランド、平成14年の元旦から一月二日頃にはフィリピンのマニラを旅し帰国便に搭乗したようです。 乗継便かな?

     詳細は各自で調べてもらいたいがカオサン通りとはタイランドの首都バンコクに存在するプラナコーン区の外国人向けになっている宿屋街だそうです。

    カオサンの大晦日
    カオサン通りでのニューイヤーズ・イブは一体どうなっておるのだ、という素朴な疑問を抱いた私はその実態を解明すべく、2001年12月30日と31日にカオサンに宿をとった。

     ドリアン長野のカンボジア旅行記 カンボジア~ その1
     なんとかバンコク行きの便に乗ることができた。その日はカオサンのホテルに泊まり、次の日にマニラ経由でやっと帰国した。

    タイランド旅行記夏が来れば思い出す2024

    カンボジア旅行記 2024

     紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。


    犯罪組織に加入してる在外邦人が悪事をやらかしてます。
    結局は国の内外を問わず社会に損害を与えてます。
    「辞めて下さい。」と警告しても辞めなかったり悪事に対して抗議しても謝罪しないのが特徴なのでしょうか?
    日本人が海外旅行してる時に加害並びにほう助する人はおります。
    防犯上の問題は大きい。

    ~渡航先との時差が日本と大差が無くても腕時計と置時計は必須~
     私が平成27年に行ってきたバンクーバーの時差は夏時間だったので16時間。日本で午後11時でも旅先は午前7時。
    時差に対応する心構えは必須です。腕時計は外出中に必要で置時計は設定したなら室内で時刻を知らせてくれるし目覚まし音も鳴らしてくれます。 日本時間の正午はフィリピンの午前11時。 time-j.net
    海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。  移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
    宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
     帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。
    敬具 マーキュリーマーク

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    ニューヨーク旅行記2024

    2024-06-30 | 日記
    ドリアン長野のニューヨーク旅行記

    #33 NYタイムズ・スクエア編 at 2004 01/09 00:47 編集

    1989年12月31日午後10時。タイムズ・スクエア。気温マイナス2度。ぽつぽつと降っていた雨はついにどしゃ降りになった。歯の根が合わないほど寒い。それでも何千人といる群集は誰一人として帰ろうとはしない。私もたぶん、彼等と同じ気持ちだった。それは2000年へと続くデケイド(10年間)の幕開けを世界一の都市で祝ったという記憶を自分の中に刻みつけておきたいから。彼等は家に帰って言うだろう。「90年の始まりにはあそこにいた。みんなとハッピー・ニュー・イヤーを言ったんだ」。 私は夜の8時から待っているが、12時までは途方もなく長い時間に思えた。混雑を緩和するためにあちこちに「Police Line」と書かれた遮蔽板が置かれている。警官の目を盗んで一人の男が、さっと板の下をくぐり抜けて走り去った。近くにいた警官に誰かが叫ぶ。「Shoot him!(射殺しろ)」 周りがどっと笑う。ここでの模様は全米で生中継されるのでテレビカメラにパンされた群集はとにかく騒ぐ。叫ぶ、踊る、手を叩く、こぶしを突き上げる、街角で黒人が1ドルで売っていた紙笛を吹き鳴らす。私といえば、寒さと疲労に耐えながらひたすら待つ。
     11時59分。カウントダウンの斉唱が始まるとSONYの広告の下に取り付けられた電球の塊がゆっくりと降りてくる。下がりきったら1990年だ。ウエルカム・トゥー・ナインティーズ!  
     見知らぬ者同士がハッピー・ニュー・イヤーを言い合い、抱き合う。雨の中、群集がブロードウエイを行進する。この光景はデジャビュだ。どこだったろうと考えていたら、ウオーレン・ビーティ監督、主演、脚本の映画「レッズ」でロシア革命前夜に人々がインターナショナルを歌いながら街を行進する場面だった。今日の夜はニュージャージーに住む友人のアパートに泊めてもらうことになっている。あちこちが通行止めになっているので迂回していると道に迷ってしまった。バス・ターミナルの場所が分からないので雨宿りしながら地図を拡げて見ていると、二人連れの黒人が「どこに行きたいんだ?」と声を掛けてきた。「ポート・オーソリティー・バスターミナル」と答えると、「ついて来いよ」と手招きする。 
     新年に浮かれる人々の喧噪の中、彼等を見失わないようについて行く。20分ほど歩いた。ミッドタウン・ウエストにあるこの24時間運行の巨大なバスターミナルは常に通勤者で賑わっているが、今日の賑わいは特別だ。案内してきた男が言う。「チップをくれ」 1ドル紙幣を出し、渡そうとするが受け取らない。少なすぎたかと思い、「2ドルでは?」と言ってみる。すると、「冗談じゃないぜ。俺たちは長い道を案内してやったんだ。フェアじゃねえ。もっと出せ」とすごんできた。無視して歩き出すと、「聞こえないのか? もっと出せと言ってるだろう」と喚きながらついてくる。「警官を呼ぶぞ」と睨みつけると渋々2ドルを受け取り、やっと退散した。バス乗り場に行くと、また黒人が寄って来て、「どこに行くんだ? チケットは持ってるのか?」と親切(?)にも聞いてきた。彼はチケット売り場まで案内してくれ、言った。「ギミー・ダラー」 ああ、アメリカがチップ社会だというのは本当だ。Money talks in America.(アメリカでは金が物を言う)彼に1ドル渡す。バスを待っていると、日本人女性が二人やって来たので話しかける。二人は姉妹でお姉さんがニュージャージーに住んでいるという。妹が日本から姉に会いに来て、今日はミュージカル観劇の帰りだそうだ。「ブロードウエイのニューイヤーズの騒ぎが恐くて.....」とアメリカに来るのが初めての彼女は気の毒なくらい蒼ざめていた。
     「目的地に来たら知らせてください」と運転手に住所を告げ、座席に座る。バスが出発してからしばらくして奇妙なことに気がついた。奇妙なことといっても、私が日本人だから少しばかりそれを感じるだけのことだ。バスが停留所に着き、乗客が下車する際に、ほとんどの人が他の乗客の方を向き、「ハッピー・ニュー・イヤー」と言ってから降りていくのだ。「これもアメリカだな」私は心の中でつぶやき、自分がアメリカに来たことを初めて実感していた。 

    #34 NYバスターミナル編

    at 2004 01/15 22:22 編集

    8番街から9番街の1ブロック、40丁目から42丁目の2ブロックにまたがる巨大なバスターミナルがポート・オーソリティ・バスターミナルです。グランド・セントラル駅(映画「アルマゲドン」では隕石の破片が直撃して壊滅しました)とペンシルバニア・ステーションという二大鉄道駅にここを加えれば、ニューヨークの三大ターミナルになります。ターミナルといえばホームレスのたまり場になりやすいので御多分に漏れずこれらもそうなのですが、前者の鉄道駅はチケットのない者の待合室への入場を禁じているせいもあって比較的清潔で安全です。しかし、ポート・オーソリティは場所からして周辺に老朽したビルが多く、地元では「地獄の台所」と呼ばれており、治安もあんまり良くありません。そしてホームレスはフリーパス。必然的にこの駅はホームレスの憩いの場アーンド生活の場となっています。一歩足を踏み入れてみれば、まあ、すごいですねえ。「F×××」を連発して、何かに怒りながら歩いている人がいるかと思えば、必需品を一切合切ショッピングバッグに詰め込んで生活しているショッピングバッグ・レディと呼ばれる老婆が座りながら小便を垂れ流しています。窓口でチケットを買えば、ホームレスが「釣りをくれ」と寄って来ます。しつこいようなら無言で睨んでやりましょう。階段には寝ている人がよくいるので、歩きづらいですが踏んづけないように注意しましょう。トイレの洗面台で真っ裸になって体を洗っている人もいます。彼がホモの場合もあるので気をつけましょう。とろんとした目で座り込んでいる人はヤク中なので目を合わせてはいけません。お金をせびられます。夜になると待合室で待っているだけでお金をせびられます。昼間でもボーッと立っているだけでせびられます。ほな、どないせいっちゅうねん、とおっしゃる方もいるでしょう。コツはさっさっと早足で歩き、せびられたら無視することです。英語が分からないふりをするのもいいでしょう。カラテの型をやるのもいいかもしれません。それでもしつこいようなら、相手はどう猛といえども人間です。脅えた態度を取ってはなりません。じっと目を見つめて(これが肝要です)25セントを渡して素早く逃げましょう。それにしても日本のホームレスはおとなしいのに、何でインドやアメリカはあんなに戦闘的なんでしょう?まだまだ日本はホームレスといえども裕福だということなんでしょうか。1階のバスの待合室には「今夜泊まる場所のない人はここに来て下さい」というプレートがあり、住所が書いてあります。マンハッタンにはシェルターと呼ばれるホームレスのための宿泊施設がたくさんあります。そこではベッドがあり、簡単な食事も給されるのですが、いかんせん喧嘩や盗難(靴とかが多いようです)が多発するので敬遠する人もいます。そんな人はこの待合室で寝るのでしょう。
     私はここに来ると、いつも天王寺駅を思い出します。現在は都市開発計画で天王寺駅もその界隈もずいぶんときれいでおされになりましたが、一昔前はもっとホームレスが多く、殺伐としていました。自分でもよく分かりませんが、ニューヨークに来るたびに私はポート・オーソリティに足を向けてしまいます。何をするでもなく、ただターミナル内を歩き回るだけですが。
     もし、神さまに名前があるのなら、どんな名前なんだろう
     俺たちは神さまに向かって、その名前を呼ぶんだろうか
     神さまとその栄光を目の前にして何を尋ねる?
     もし一つだけ尋ねるとしたら?
     
     ああ、神さまは貴い
     ああ、神さまは良きもの
     もし、神さまが俺たちのうちの一人だとしたら?
     俺たちのうちの薄汚いやつだとしたら?
     家に帰るバスの中の見知らぬやつだとしたら? 
     もし、神さまに顔があるとしたら、どんな顔なんだろう
     見てみたいと思うかい?
     もし見ることが信じることと同じだとしたら?
     天国やイエスさまや聖者やぜんぶの予言者たちを
     ひとり天国へと帰ってゆく
     電話をかけてくれるのはローマかどこかの法皇だけだ
     
     聖なる転がる石のように
     ひとり天国へと帰ってゆく
     家に帰る途中みたいに
     電話をかけてくれるのはローマかどこかの法皇だけだ
    「One of us」ジョーン・オズボーン (1995年「RELISH」収録
     ドリアン長野 訳 

    #35 NY地下鉄編

    at 2004 01/23 21:36 編集

     地下鉄は楽しい。メタリックでアーバンである地下鉄は輸送手段に徹していて媚びないところがクールでもある。私は地下鉄が大好きだ。地下鉄のある都市に行けば必ず乗る。用がなくてもとにかく乗る。今までいろいろな国で乗った。香港ではなぜか下駄履きで乗った。肩を叩かれたので振り向くと、若い男が私の下半身を無言で指差している。見るとズボンのジッパーが全開していて恥ずかしい思いをした。ソウルではおじいさんに声を掛けられた。私が日本人だと分かると日本語で身の上話を始め、それが延々と続いて閉口した(今思い出したけど、何で地下鉄の便所内にコンドームの販売機があるとですか?)。ロンドンのチューブでは騒いでいるガキに注意したら、「asshole !」と言われた。ロサンゼルスの地下鉄には改札がない。無賃乗車していたら、たまたま検札に遭い、必死で英語の分からないふりをした。このように輝かしき栄光の地下鉄人生の王道を歩んできた私のことを、地下鉄の達人と呼んでくれても一向に差し支えない。そして世界中の地下鉄の中で唯一24時間運行なのがニューヨークである。いわば、地下鉄の中の地下鉄、キング・オブ・地下鉄といってよいだろう。地下鉄を制するものは世界を制す(ホントか?)。
     ニューヨークの地下鉄は何といっても殺伐としているところに趣がある。ホームには電話が何台も架設されている。これらは犯罪時の緊急用だろう。便所は犯罪防止のためにその多くが閉鎖されている。タイムズ・スクエアの駅なんかムッとアンモニアの臭いが鼻を突く場所もある。我慢できずに立ちションしている輩がいるらしい。車両は落書きされても消すことのできるニュータイプが日本から輸入され、名物だったジャクソン・ポロックのようなアクション・ペインティングは見ることができなくなったので残念だ。ニューヨークは人種のるつぼ(メルティング・ポット)ではなく、人種のサラダボウルだと言われて久しいが、ダウンタウンからアップタウン行きの地下鉄に乗ってみるとそれがよく分かる。ウォール・ストリートでは白人が多く、チャイナタウンのあるキャナル・ストリートに停まると中国系がどっと乗り込んでくる。ミッドタウンになると再び白人が多くなり、ハーレムに入ると黒人が多くなる。各人種が融合しているわけではなく、中国人街、韓国人街、イタリア人街、インド人街、ギリシャ人街等と住み分けができているのだ。そういえば夜、間違えて急行に乗ってしまい、慌てて降りた所がサウス・ブロンクスのサイプレスという駅だった。ホームには誰もいない。乗り換えるために地上に出ると、周りにあるビルというビルが焼けただれていた。あん時はビビったな。何しろ、火災保険をせしめるために放火する奴がいるらしいのだ。興味ある方は落合信彦の「アメリカの狂気と悲劇」をお読み下さい。 

     地下鉄は24時間営業とはいっても、夜の9時過ぎてから乗る人はめったにいまい。日中でも路線によってはホームに人がいなくなる駅もある。ホームには「Off Hour Waiting Area」が設けられていて、ラッシュ時以外はそこで電車を待つ。何てことはないのだが、ホームの中ほどにあって、乗客もそこに集まるから少しは安全だ。夜になると警官が乗車してくるので、乗客は彼等の乗っている車両に乗る。駅で乗客のほとんどが降りてしまい、警官もおらず2、3人だけが車両に残っている場合なんかとても緊張する。そんな時に限って、向かいに座っている男がじっとこちらを見つめているような気がする。私はおもむろにポケットからガムを取り出し、それをくちゃくちゃと噛みながら、俺は生っ粋のニューヨーカーなんだぜというポーズをとる。ついでに指の関節をポキポキと鳴らし、俺はカラテのブラックベルトだぜ、俺のパンチはピストルの弾丸より早いぜと威嚇(のつもり)をする。時おり軽くシャドーをしながら、最近ケンカしてねえなあ、体がうずいてしょうがねえぜという雰囲気を目一杯表現する。そいつが次の駅で降りてしまうと、どっと疲れる。我ながらバカみたいだ。もう何年も前のことになるけど、ある雑誌が地下鉄内で身の危険を感じた時の対処策は? というアンケートをニューヨークに住む女性にしたことがある。第一位は「鼻クソをほじって、アホのふりをする」(藤山寛美?)だった。これは効果があるかもしれん。
     犯罪が多発する地下鉄ではあるが、面白いのは何といっても乗客を観察することと、ストリートミュージシャンだ。ロック、ジャズ、ポップス、ダンス、毎日いろいろなパフォーマンスが楽しめる。黄昏どきに構内のどこからかサックスの音が聞こえてくると、ニューヨークだなあと思う。ある時、黒人女性が改札の前に座ってボンゴを叩き始めた。人が徐々に集まってくる。興が乗り、観客の黒人女性が手をひらひらさせて踊り、ヒスパニックの女が腰をくねらせて踊る。他の者はリズムを取り、手拍子をする。30分もの熱演が終わると、いっせいに拍手が起きた。駆け寄って抱きつく人もいた。そのあと電車に乗っていたら、黒人の男が乗り込んできた。小さな紙切れを口に当て、息を吹きかけて音を出している。メロディーはバットマンのテーマだ。でも、誰も「またか」というような顔をして見ようともしない。続いてコメディアンの物真似を披露したが...................し~ん。ううっ、寒い。寒すぎる。おひねりをもらおうと通路を回るが、もちろん無視されていた。思わず、「あほんだらっ! お客さまからゼニをいただこうと思うんやったら、芸を磨かんかいっ!」と桂春団次風に心の中で罵倒する私でした。
     地下鉄はどこまで行っても、何回乗り換えても同一料金だ。改札はトークンを入れ、ターンスタイルという金属のバーを押して入場する。そういえば、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク物語」というアルバムは原題が「Turnstiles」だったな。ある日、いつものように地下鉄に乗ろうと、トークン売場に1ドルを出した。窓口のおばちゃんは「15セント足りないよ」と言う。なにいっ、市の職員までがボる気かっ、さすがニューヨークだ、とわけの分からん感心をして身構えると、おばちゃんは無言で背後の壁を指差した。壁に貼ってあるポスターには「地下鉄料金、本日から値上げ。1.15ドル」と書いてあった。 

    NO36 NYホテル編

    at 2004 01/30 21:59 編集

    デトロイト空港着。国内線のニューヨーク行きの便に乗り換えるため、入国審査の列に並ぶ。長い列はそれでも徐々に何事もなく捌かれていき、やっと私の順番になった。しかし、私の入国カードを見たウーピー・ゴールドバーグ似の審査官の目がキラリと光った(ように見えた)。ウーピーは失礼にも私を無遠慮に眺め回し、質問してきた。 「旅行は一人で?」「アメリカは初めて?」「ニューヨークを選んだ理由は?」 私は「○○の買い付けに」と答えてやろうかと思ったが、むずむずする口を押さえた。冗談でもそんなこと言ったら、奥の部屋に連れていかれかねん勢いだ。あげくの果てに日本人スッチーまで呼びつけて何か尋ねている。周りの乗客は私を不審そうに見ている。あの男、テ〇リストじゃないかしら、まー恐いわね、そういえば見るからに怪しそうよ、なんて思われたに違いない。恥ずかしいじゃねえか。もう乗ってやらねえぞ、ノー○・ウエス○! あっ、航空会社は関係なかったか。そこで解放されたけど、個人ツーリストは私だけだったかららしい。ほんとに、もー、いいかげんにしなさいっ! なんてことをわーわー言うてるうちに飛行機はクイーンズにあるラ・ガーディア空港に無事到着いたしました(落語家口調)。
     空港からケアリーバスに乗り、ポート・オーソリティへ。地下鉄でペン・ステーションまで行き、歩いてホテルに向かう。予約はしてなかったが、チェルシー・ホテルに泊まろうと思っていた。チェルシーは昔から作家やアーティストが根城にしてきたホテルだ。古くはO・ヘンリー、ディラン・トマス、トーマス・ウルフ、アーサー・ミラー等、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、ジェファーソン・エアプレインも常連だった。パティ・スミスと写真家のロバート・メイプルソープも同棲していたし、シド・ヴィシャスが恋人のナンシーを刺殺して逮捕されたのもここだ。とにかく、そんなこんなでようやくたどり着いたホテルのフロントは言った。 「満室です」 があ~ん! こんな夜中からホテル探しか~い。チェルシーの向かいには YMCAがあったが、汚くて暗くて不気味なオーラを発している。こんな所に泊まったらモーホー野郎に犯されそうだ。う~ん、こんな時は繁華街に行けばなんとかなるだろう。東京だったら歌舞伎町、ニューヨークだったらタイムズ・スクエアだっ! てなわけでタクシーをとばし、安そうなホテルを片っ端から当たったがぜ~んぶ満室だ。うえ~ん、わしはトルコで猿岩石を探す室井滋かい(ふるっ!)。アジアだったらこんな苦労はせんでもいいのに。と裏通りを歩いているとびっくりした。シャッターを降ろした店先で白人女性が寝袋にくるまって一人で寝ているのだ。まあ、ここは人通りが少ないから安心かもね。ってそんな問題ちゃうやろっ! あんたもホテルが見つからんかったんかい。けど、ここはニューヨークのど真ん中やぞ。こんな所で寝てたらレイプされるぞ、ねーちゃん! (後にも先にもあんな大胆なバックパッカーを私は見たことがありまへん)
     それから2時間後、「NEWYORK INN」というきったねえ連れ込み旅館のようなホテルを見つけた。フロントのパキスタン人は「空室はあるよ」と言う。やれやれだ。でも値段を聞くと、「一晩100ドルだよ」。何でこんなホテルが100ドルもすんねん、足元見やがって。ボったくってんじゃねえぞ。 「年末料金でね。ボスの命令なんだ。さからったら首だよ。ほら、その証拠に」とパキスタンは宿泊リストを見せる。みんな確かに100ドル払っている。一応部屋を見せてもらい、一晩だけ泊まることにした。だけど、隣の部屋の奴らは騒いでいて声が筒抜けだし、床にはゴキブリも走っている。私は思わずトム・ハンクス主演の「ビッグ」という映画を思い出したね。主人公の少年はあることがきっかけで体だけ大人に成長してしまう。元の体に戻るためにニューヨークに一人で行くのだが、初めて泊まったホテルは汚くて物騒な所だ。部屋の外からは喧嘩の怒鳴り声が聞こえてくる。彼は恐くて心細くてベッドで身をよじりながら、めそめそと泣き出してしまうのだ(もちろん大人の姿のままで)。あの時に撮影で使ったホテルはここじゃねえのか、と思ったね。それでも野宿するよりはマシだけど。
     翌朝、ふん、こんなボロっちいわりにバカ高いホテルなんか二度と泊まるかよ、あたしを見くびるんじゃないよ、とばかりに憤然とチェックアウトし、ミッドタウンで宿探しをした。20軒近く当たったが、なんと一軒もなし。ぜ~んぶ断られた。仕方なく昨日のホテルに戻る。フロントにはまたパキスタン。 
     「まいっちゃったなあ。ニューヨーク中のホテルを探したけど、ぜんぶ満室だって」(ちょっとバツが悪い) 「今日は空室はあるかなあ~?」(低姿勢) 「どうかな、今調べてみるよ」とパキスタンはパソコンでチェック。思わず、「Have a heart(おねげえしますだ)」と泣きつく(情けねえ)。「もちろん僕はビッグなハートを持ってるさ」となぜかにやりと笑う。「え~っと、空いてるよ。一晩116ドル」 ぎえ~っ! 昨日より高くなっとるがな! 「今日は大晦日だからね。ボスが......」 「あー、分かった、分かった」
     結局、ニューヨーク滞在中はずっとそのホテルに泊まるはめになった。んでもって今回の教訓。「ニューヨークに行く時はなるべくホテルを予約してから行こう」(って、当たり前すぎて突っ込む気にもなれんわ!)

    大晦日のニューヨーク 平成26年11月
    2014/11/20(木)
    もう何年も前のこと。大晦日のニューヨーク。夕方空港に到着。
    タクシーでマンハッタンに行き、チェルシーホテルに泊まろうとしたが、まさかの満室。それからホテルを片っ端から当たったが、どこも満室。おいおい、話し違うがなと思うが悪いのはわしやがな。ニューヨークはアジアとは勝手が違った。繁華街なら空いてるだろうとタイムズスクエアへ。足を棒のようにして歩き回るが、この辺りも満室だと軒並み断わられる。ほとほと疲れて裏通りを歩いていたら、うら若き白人女性が寝袋にくるまって歩道に寝ていた。アジアでは珍しくないが、深夜近くの身を切るような寒さのニューヨークである。やるなあ、と思いつつ私は寝袋を持ってないので、それから一時間ほどウロウロして、やっと汚ない貧民窟のようなホテルに泊まることができた。

     皆様への伝達事項
     ~注目してもらいたい部分~
    1989年12月31日午後10時。タイムズ・スクエア。気温マイナス2度。ぽつぽつと降っていた雨はついにどしゃ降りになった。
    (中略)
    んでもって今回の教訓。「ニューヨークに行く時はなるべくホテルを予約してから行こう」(って、当たり前すぎて突っ込む気にもなれんわ!)


    ドリアン長野は平成元年の年末から平成二年の年始にニューヨーク旅行しました。宿の予約無しで旅するのは辞めましょう。 船旅は別としてフリープラン等の旅行商品を購入すると往復の航空運賃、宿泊費、各種税金等が含まれてます。 トラベルコ等を閲覧し希望の商品を選択されてはいかがでしょうか?
    北米の冬は厳寒です。日本にいる時に良き登山靴や防寒着や旅行商品を購入するだけでなく海外旅行保険の加入は済ませて安心して旅するようにしましょう。 治安が悪い街は避けるようにすべきです。
    ニューヨーク州とニュージャージー州は隣接してます。日本からの直行便が無い時期は乗継便や経由便の利用が不可避で日本から一旦ミシガン州デトロイト市に立ち寄ったそうです。入国審査は厳しいですね。
     海外か日本かを問わずに地下鉄等の公共交通機関が利用出来ると安心です。昨今、地下鉄の支払い方法は1980年代と比較して激変しました。 詳細は各自で調べてください。


    紹介した以下の動画は私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく参考の為の転載です。
    New York ニューヨーク~タイムズスクエア~

    ドリアン長野  インタビュー


    ドリアン長野は乗継便を利用してニューヨークに赴きましたが直行便は利用しませんでした。

     渡米する人はESTA(電子渡航認証)が必要になります。
     詳細は各自でお調べ下さい。

     交通費について特別に連絡します。
     ニューヨーク旅行記からの抜粋
    ロサンゼルスの地下鉄には改札がない。無賃乗車していたら、たまたま検札に遭い、必死で英語の分からないふりをした。
     
     当方はお笑いエッセイです。 しかし、不正乗車をしたら巨額の罰金刑が課されます。悪い事は言いません。過不足無く料金を支払うか交通費が不明確ならば一日乗車券を購入して安心して公共交通機関を利用するようにしましょう。 私は平成27年十月にカナダのトランスリンクの一日乗車券を何度も購入した。

    ~渡航するなら日本時間の時計一個と現地時間の時計一個は必須~
     私が平成27年に行ってきたブリティッシュコロンビア州の時差は夏時間だったので16時間。日本では午後11時でも旅先は午前7時。ドリアン長野は平成初期の冬にニューヨークを旅行したので東部標準時の時差は14時間。夏時間は13時間。 time-j.net
    日本時間の正午はニューヨークで冬時間であれば午後十時で夏時間であれば午後11時。 デジタルの置時計を利用したら日付の認識も簡単で安心です。
     
    海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。  移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
    宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
     帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。
    敬具 マーキュリーマーク




    ロサンゼルス(米国)とティフアナ(メキシコ)旅行記 2024

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    インド旅行記 2024

    2024-06-30 | 日記
    ドリアン長野のインド旅行記 NO 105 インド編 その1

    at 2006 04/30 17:24 編集

    人間は二種類に分類される、とは巷間よく言われることである。古典的なものでは猫的人間か犬的人間か、流動型か土着型か、果ては野球に熱中する人間かそうでないか、ドアーズを聴いたことのある人間かそうでないか、その伝でいけばこう言えるかもしれない。この世は二種類の人間しかいない。インドに行ったことのある人間とそうでない人間と。私がインドに行ったのは26歳の時、それが初めての海外旅行だった。――
    なんてね、オレは沢木耕太郎かってえの。このようにインドとなると人はテツガクしてしまうのである。私がインドに旅立った(そんなに大袈裟なもんじゃないけど)のは自分を変えたかったからだ。(まだ若かったんです。すいません) その頃の私は私生活で色々とあって、その打開策を旅に求めたんである。旅に出て、人間をひと回りでかくして日本に戻ってくるぞっ! そのためにはやはりインドだっ! と、かようなことを考えていました。(あの、旅行は一週間だけです。大馬鹿野郎です、私は。生きててすみません)
    なんせ、初めての海外旅行である。インドに関する本は手当たりしだいに読んでいたのだが、それが余計にインドに対する期待をいやがうえにも高まらせ、好奇心と不安が叶姉妹のように攻防戦を始める。もしかしたら生きて帰れないかもしれない。搭乗前に成田(関空は当時開港してなかった)から実家に電話したのはせめて死ぬ前に一言残しておこうという親孝行のつもりである。
    「新聞には載るなよ」
    という父親の暖かいのかなんだかよくわからない言葉を胸に抱き、機内に乗り込むと客室の壁にはおどろおどろしい曼陀羅のような絵が描かれている。すかさず脳の中の小人がラインダンスを踊り始め、細木数子先生に 「どこが面白いの、あんた!」 と 一喝された猫ひろしよりもびびる。にゃあ~。
    とにかくエア・インディアは飛び立ち、まずい機内食と太めで愛想の悪いサリー姿のスッチーにうんざりし始めた頃、ようやくカルカッタ(現コルカタ)のダムダム空港(現在はチャンドラ・ボース空港と改名)に着いた。ちなみにダムダムというのは地名である。殺傷力が高く、残酷なので使用を禁止されたダムダム弾はここの造兵廠で製造されたそうだ(ドリアンの豆知識よ、ってそんな余裕があったのか? なかった。まったくありませんでしたっ)。
    夜の7時。タラップを降りると、いきなり暑い。じっとしていても汗が吹き出てくる。しかも硝煙というか、焼けたゴムというか、ともかくそんな臭いがする。しかも空港警備員は小銃を持っている( 正直、帰ろう......かな? と少しだけ思いました) 。空港ビル内に入ると、国際空港だとは思えないほど薄暗い。空調なんぞはもちろんなく、天井に三枚羽の扇風機がゆったりとハエを追うように回ってるだけ。それにしても暑い。なんか飲みたい。
    「Drinking water」と書かれたプレートが目についたので近寄ってみると、そこには公園にあるような噴水式の蛇口(下から口に向かって噴水する、あれね)がぽつんとあった。なにもこんなもんに仰々しくプレートをつけんでも.......。いや、ここはインドだ。水道水が飲めるだけでもありがたいと思わんとな。入国審査と税関を終え、外に出ようとしたが、そこで足がピタリと止まった。なんと外にはインド人たちが押すな押すなと黒山の人だかり (インド人だからホントに黒い) で出てくる人間を待ち構えてるんである。それはなにも私が有名人なのでサインをもらおうとか、インドの地を初めて踏む日本人を熱列歓迎してやろうとかといった気持ちからでは決っしてない。やつらはタクシーやホテルの客引きである。全員が、俺はこの客引きに命を賭けてるんだ。なんてったって、家族の生活がかかってるからな。かあちゃん、待ってろよ。明日もチャパティ-を食わせてやっからな。そらっ! 金持ちの日本人が出てきやがった。今夜のカモはあいつだ。ぜってえ、逃がさねえぜ、なんて顔をしてるのだ。
    ひえ~っ! あいつらの中に出ていくんかいっ! 思わず「ドラゴン 怒りの鉄拳」でブルース・リーが暴徒と化した群集や拳銃を構えた警官隊に走り出て、飛び蹴りをかますラストシーンが浮かんだね。
    しかし、ここで回れ右をして帰国してしまっては、末代までの恥だし、航空券が無駄になる。よしっ、待ってろよ、インド人! サムライ魂をみせてやるわあ~っ! と、ここで私は、はたと気づいた。興奮してたんで忘れてたけど、旅行会社で今夜のホテルは予約してたんだ。そのホテルから車が迎えに来てるはずだ。そうだった、そうだった。それならいくら客引きが寄ってこようと恐くはない。私は余裕の表情で空港の外に出た。
    「ナマステ~、インドのみなさん、アイ・ケイム・フロム・ジャパ~ン」 がっ、! 
     
    「ジャパニ! ジャパニ!」 「タクシー! チープ! チープ!」 「ホテル? カムカム!」
    「グッドプライス!!」 「ベリーチープ!!」 ぎゃあ~! うげえ~っ!
    「#$%&♀¥!!」
    うるさいわいっ! 私はフランスに凱旋帰国したトルシエ監督なみにもみくちゃにされた。(トルシエって、確かフランスだったよな。サッカーに無知なので事実誤認があったら許せ、サッカーファン。カミソリの刃なんか送ってくんなよ) 
    ホテルから迎えに来たらしき人が声をかけてきた。
    「エクスキューズ・ミ-、ア-・ユー・ミスター・ナガノ?」
    「イエス! イエス! イエース!!」 
    私はヘビメタのヘッドバンキングのように激しくうなずいた。
    「すみません、ちょっとここで待っててください」
    そう言うと迎えの人はどこかへ行ってしまった。間髪を入れず、そこへ別のインド人が現われて、「グレート・イースタン・ホテル(今晩予約していたホテル)なら、こっちだ」 と先に立って案内する。思わずふらふらとついていったが、途中で何か変だなと立ち止まった。すると、さっきの迎えの人が追いかけてきて、「ノー! ノー!」 と私を連れ戻したのだった。あぶねえっ、ちっとも油断がならねえな、インド人!! (つづく)

    NO 106 インド編 その2

    at 2006 05/08 21:25 編集

    「グレート・イースタンホテル」の大理石のバスタブにつかりながら私は考えていた。 
    「カルカッタくんだりまでやって来て、こうやって高級ホテルの風呂にのうのうと入っている場合か。インド8億の民衆の生活を知るためには、やっぱり安くて汚いゲストハウスに泊まって貧しさを肌で感じなければ。民草の中に入っていくのだ。カースト反対! ガンジー万歳!」
    お前は民青かっ! と思わず突っ込みを入れたくなるほどの勘違い野郎だ。あえてゲストハウスに泊まる理由があるとすれば、お金を倹約したいとか、居心地がいいとか、貧乏の疑似体験をしてみたい等であって、民衆の生活なんぞ分かるはずもない。 「それはお前の自己満足じゃ~っ!」 と今の私なら当時の私に回し蹴りをかますところだ。
    そもそも、そんな気持ちになったのはカルチャー・ショックもあるだろう。空港から迎えの車に乗り込み、妖し気なオレンジ色の街灯の下を走っていく。しばらくして市街に入っていったのだが、その光景に目を瞠った。イギリス植民地風の建物もあちこちに建っているのだが、そのどれもが老朽化して今にも崩れ落ちそうになったいる。歩いている人はといえば、そのほとんどが襤褸を纏っている。日本で言えばりっぱな乞食だ。豊かで清潔な国から来た我が身にとっては、まるでタイムスリップに遭遇したみたいであった。
    とにもかくにも翌朝、私はサダル・ストリートに行こうとホテルを出た。インドの中でも最も汚いといわれるカルカッタ。そのカルカッタで最も汚いといわれるのがサダル・ストリートだ。ってことは宇宙で一番汚い場所だ。その界隈にはありとあらゆる病原菌が生息しているというのだが、そこに安宿が密集しているのだ。白人バックパッカーに道を尋ねながら歩いていると、老婆やら子供を抱いたお母さんやらが 「バクシーシ(おめぐみを)」 と右手を差し出してくるのだが、ギョッとなることもしばしば。指がニ本か三本欠けている。五本ともない人も。ハンセン氏病だ。あきらかに顔が変型している人もいた。ううっと重苦しい気分になって先を急ぐ。
    バックパッカーの間ではその名を知らぬ者はおらず、小説にまでになった 「ホテル・パラゴン」 に泊まろうと思い、リキシャーワーラー(人力車のようにうしろに人を乗せ、自転車でこいでゆく乗り物がリキシャーであり、その漕ぎ手)に場所を聞く。すると横にいた客引きの兄ちゃんに 「パラゴンは満室だ。俺の知ってるホテルに案内してやる」 と紹介されたのが 「キャピタル・ゲストハウス」(一泊60ルピー。当時のレートで1ルピー≒12円とお考えになれば大体の目安となるでしょう)だった。実は、客引きがそこは満室だと嘘をついて自分と契約をしたホテルに連れていき、キックバックを得るのはよくあることだったが、当時の私には知る由もなかった。
    生まれて始めて泊まったゲストハウス、キャピタルは冷房なし、トイレとシャワー(水)付き、ベッドのシーツは少なくとも一か月は換えた形跡なしであったが、別に不自由は感じなかった。もう1ランク下がると、トイレとシャワー(水)共同、シーツは少なくとも半年間は換えた形跡なし(南京虫付き)になる。
    宇宙で一番汚いサダルは小便横丁という表現がピッタリくる。あっちこっちがぬかるんでいて、あっちこっちにウンコが落ちている。サダルにいるのはビンボー旅行者と物売りと乞食と詐欺師と泥棒と野良犬だ。乞食とそうでない人の境界はきわめて曖昧で、排水溝で体を洗っている人もいれば、道端で寝ている人もたくさんいる。この通りにいれば、いろんな人にやたらと声をかけられる。
    「ジャパニ、○リファナいらないか? ハ○シは?」
    「マネー・チェンジしないか? レートがいいぞ、フレンド」
    「パージャーマー買わないか? 安くしとく。フレンド・プライスだ」
    「マイ・フレンド、お土産にサリーはどうだ?」
    おいっ、会ったばかりで名前も知らんのにフレンドたあ、どういう了見でえっ。そう、インドでは友だちになるのに時間は必要ないのだ。友だちができないと悩んでる君、インドに行って友だちをつくろう! 友だちに国境は関係ないのさっ。さあ、君も今すぐレッツ・ゴー・トゥー・インディア!
    「ハロー、ジャパニ。インドは初めてか? どこから来た? トーキョー? オーサカ? 俺も日本には仕事で行ったことがある。ヤマモトを知ってるか? 俺の親友だ。何、知らないのか。まあいい。ところで俺の知り合いが店をやってるんだが、寄っていかないか? お前はトモダチだから特別に安くしてやるよ。お金持ってないって? ノー・プロブレム。見るだけ。見るだけならノー・マネーだ。オーケー? こっちだ。ついてこい」 
    私もインド滞在中に何回も同じことを言われた(時たまヤマモトがタナカになったりする)。こうして大阪商人も顔負けの狡猾さでうぶな旅行者を店に引っ張り込み、適性価格の何十倍もの値段をふっかけ、最後にはケツの毛までむしり取ってしまうのだ。ああ、恐ろしやインド人。
    私の経験では、アジアでの物売りと物乞いのしつこさランキング第一位はやはりインド人だ。断っても無視しても、どこまでもどこまでもどこまでもついてくる(いやな男にナンパされる女の気分か?)。後年、タイやネパールやカンボジアに行った時、物売りや物乞いのあまりの淡白さに 「もっと気合い入れて仕事せんか~いっ!」 と思っちゃったほどだす。(つづく)


    NO 107 インド編 その3

    at 2006 05/15 22:30 編集

    インドはいうまでもなく暑い。めったやたらと暑い。気温は、少なくとも香港風邪にかかって病院のベッドでうんうんうなっている重病人の体温よりは高いのは間違いない。歩いていると熱風に包まれたようになって息が苦しいし、脳みそが沸騰してくるので難しいことは理解できなくなってくる。そんな炎天下で男はクルターとパージャーマーの上下、腰巻風のドーティーやルンギーといった服装が多いが、女はどこへ行ってもどんな時でもひたすらサリーだ。道路工事や建築現場でも男に混じってサリー姿の女が土の入ったざるを頭の上に載せて運んだり、レンガを積んだり、ツルハシで穴を掘ったりしている。労働するからちょっとTシャツとスパッツに着替えてくる、というわけにはならないのだ。インド初の地下鉄がカルカッタで一部開通したが、地下鉄工事中も機械を導入する資金がないのでサリー姿の女性を含む人夫たちが手作業で労働に従事していたそうだ。他の国からはあの調子では開通するまでに100年はかかると言われていたぐらいである。そのありがたい地下鉄に私も乗ってみることにした。
    全線1ルピー。電車内は信じられないことに冷房が入っている。冷房ぐらいは当たり前かもしれないが、ここはカルカッタである。天井で三枚羽の扇風機が回っていても私は納得しただろう。快適。喧噪と灼熱地獄の地上とは別世界だ。ホームから地上へと昇っていくエスカレーターの前では男の子の手を握ったお父さんが必死になっていた。小さい頃、初めてエスカレーターに乗ろうとした時を誰もが覚えているだろう。動くステップに一歩を踏み出すのはなかなか難しいんである。お父さんが恐る恐る足を出す。タイミングが合わなくてつんのめりそうになる。もう一度足を出そうとするが、次々とせり出してくるステップが恐くて躊躇する。その横では奥さんが 「あなた、がんばって」 という顔つきで見守っている。そのうしろでは大勢のインド人が 「落ち着けよ、あせるなんじゃないぞ。それっ、今だ」 というような面持ちで真剣にお父さんを見つめている。小さな子供ならいざしらず、大の男が必死になっているのが笑える。インド人にとっては初めての経験だもんなあ。それはインド人のしつこさに辟易していた私にとって、今思い出しても頬のあたりが 「むふふ」 とゆるんでくる唯一の光景であった。
    終点で降り、カーリーガート寺院内にあるマザー・テレサの施設 「死を待つ人の家」 に行く。ここでは各国からボランティアが来ていて熱心に働いている。私も友人の看護婦から言付かった医薬品をシスターに渡し、布に包まれた遺体をみんなで運んだりした。帰りにカルカッタのメイン・ストリート、チョーロンギー通りを歩く。ここは世界一の人口過密都市と呼ばれるカルカッタにおいてもさらに人の行き来が激しい。夜になると明かりが少ないので、気をつけてないと人とぶつかるのはもちろん、往来に寝ている乞食を踏んづけてしまうこともある。その日もスリに注意しながら歩いていたのだが、いきなり、という感じで通りのまん中に十歳くらいの少年が寝ているのを見つけた。通行人はその少年をじろじろ眺めたり、一瞥しながら通り過ぎて行く。少年には両腕がなかった。上着を着ておらず、本来なら腕の付け根がある場所に赤黒いケロイドの皮膚が少し盛り上がっていた。少年は怒りも恥ずかしさも悲しみも感じさせない無表情な眼でただ空を見ていた。彼は一日中そうやって寝ているのだろう。しばらく見ていたが、彼にパイサやルピーを投げ与える者はいなかった。日本に帰ってから知ったのだが、本当に貧しい親は子供を不具にしてしまうそうだ。そうすれば子供は物乞いとして生きていくことができる。その少年がそうなのかは分からないが、私はやり切れない気分だった。
    人間はどんな環境においても順応していける動物だと私は思う。単純に貧しいから不幸だとか、豊かだから幸福だとかを言うことはできない。先進国にも苦しんで自ら命を断つ人はもちろんたくさんいるし、途上国から先進国の人間を見て、自分にはとてもじゃないがあんな生活はできないと思うこともあるだろう。幸福感というのは主観的なものなので、インド人が皆不幸であると思い込むことは先進国の人間が皆幸福であると思うのと同じくらい愚かなことだ。確かにインドは限り無く貧しいし、不衛生で識字率も低い。障害者も多いし、今もカーストやサティー(注 1)やダウリー(注 2)という文化が存在している。悲惨だと言う人もいるだろう。しかし、同カースト内では相互扶助的に生活しているという例もあるし、サティーに至っては自ら進んで殉死する寡婦もいると聞いた。まるで藤子・F・不二雄の 「ミノタウロスの皿」(注 3) だ。それはパラダイムの見直しであり、「人権」 というタームでは火の中に身を投じる寡婦を止めることはできない。我々の文化で彼らの文化を計ることはできないし、かといって全ての文化は等価だと言うこともできない。けれど少なくとももし、今度生まれ変わるとしたらインドと日本とどちらがいいかとインド人に聞いたら、ほとんどが日本だと答えるんじゃないか(今の私だったら必ずしもそうだとは思わない。その時代のその国に生まれて後天的に形成された言葉をも含む共通の価値観はそう簡単には越えられないからだ。日本人がアメリカに生まれたい、と思うこととは違う)。私はインド滞在中、ずっとそんなことばかり考えていた、っていうか考えられずにはいられなかった。それほどまでに当時の私にとって、インドはカルチャー・ショックだった。(つづく)
    (注 1)  
    夫に先立たれた妻が夫の遺体と共に生きながら火葬される習慣。法律では禁止されたが、なくなったわけではない。
    (注 2)  
    花嫁の父から花婿に贈られる財産や持参金。ダウリーが少ないために姑に嫁が殺されたり、親の負担を案じて自殺した姉妹もいる。なお、カーストはポルトガル語、ダウリーは英語から来ており、それらを表わす言葉自体インド語には存在しない。
    (注 3) 藤子・F・不二雄「異色短編集 1」 
    未来世紀、一人の地球人がある惑星に不時着する。その星では人間が家畜であり、牛が主人である。家畜である人間の最大の栄誉は大祭の日に選ばれて食べられることであり、それは本人にとっても家族にとっても待ち望まれている。ここではパラダイムの転換が起きている。   http://amzn.asia/7W7wIlZ  

    NO 108 インド編 その4

    at 2006 05/29 22:35 編集

    インディア・エアラインでデリーにやって来た。空港から市内行きのバスに乗る。運転手と客のやり取りを聞いていたのだが、ヒンディー語だと思っていたのが三十分経過して英語だと判明。ちなみにインド英語の特徴は thをタと発音し、R をはっきりと発音する。だから thirty はターティーとなり、master はマスタルになる。
    その運転手にホテルを紹介してもらい、宿泊した翌朝のこと。起きると下痢と頭痛と悪寒とおまけに脚の関節まで痛い。これは赤痢かコレラか肝炎か。インドの地で客死したら骨はガンジス河にまいてくれ。後は頼む、って私は一人旅なので自分で何とかせんといかんのだ。食欲はないが、喉がやたらと渇くのでメイン・バザールでミックス・ジュースを飲む。路上のジュース・スタンドなのだがこれがものすご~くうまいのであっちこっちで10杯ほど飲み倒す。
    1月の北インドの朝は寒い。栄養不良のせいもあって毎年、路上生活者が凍死するほどだ。それでなくても寒気がするのでセーターを50ルピーで買う。もう値切る気力も残っとらん。それにしてもニューデリー駅前って敗戦直後の日本の焼跡地みたいだ。朝になるとみんなが路上の至る所で商売用か自炊のための火をおこし、わらわらと人や野良犬や野良牛が集まり始め、その人ごみの中をタクシーやリキシャーが縫うようにして通り抜けてゆく。道端では男たちが座り小便をしている(なぜかインドの男たちは座って用を足すのだ)。
    メイン・バザール(バハール・ガンジ)はその駅前にある、安宿や食堂や映画館や雑貨屋等が立ち並ぶ通りだ。今日の夕方にはバラナシ行きの列車に乗らなければならないので、駅のクロークに荷物を預けてからうろうろしようと思っていたのだがっ。だっ、駄目だあ~。苦しい。もう一歩も動けん。このままでは死ぐ。ホテルで休ませてもらおうと日本人に人気の「ホテル・パヤール」に行き、「2、3時間やずまぜで~」 と息も絶え絶えに頼むと心良く了承してくれた。 「だけど一泊分の料金はもらうよ。30ルピー」 と付け加えるのを忘れなかったが。 
    屋上の部屋に案内される。隣の部屋の中年の日本人はインド滞在二か月だそうで、パチパチとタイプライターを打っている。屋上のデッキチェアで昼寝をしに来た日本女性三人は「あの人(私のこと)、病気なんだって。私、薬持っていてあげよう」 と話をしていた。私はベッドで苦しみながら期待して待っていたのだが、結局来なかった(おいっ)。
    しばらく横になった後、ホテルを出て駅に行く。預けていた荷物を引き取ろうとすると、クロークのおっちゃんが、 「4時15分にならないとここはオープンしないよ」 とぬかす。冗談じゃねえ。おれの持ってるチケットは10分発なんだよ。だから開けてくれ、開けろってんだよ。開けろ~っ! 頼む、開けてちょうだい。ね、少しだけだから。開けてくださいまし。開けてくれないとリンダ困っちゃう~(ふるっ!)。開けてったら開けてぇ~。ねえったら、ねえ~ってば~。とすごんだり、すかしたり、傍らのインド人も見かねて加勢してくれるのだが、おっちゃんは 「駄目だ」 の一点張り。普段は 「いいかげん」 を絵に描いて額に入れて壁に飾って一人50パイサでお金を取って鑑賞させるほどルーズなインド人がどうしたってんだ。結局、発車時刻を逃してしまった。しかし、インドの列車は10分、20分の遅れは定刻のうちで、平気で4、5時間遅れることはざらにあるとは後で知ったこと。この時も私の乗る列車がまだ到着してなかったことは充分考えられる。とにかくプラットホームに出て、そこら辺の人に次のバラナシ行きの時間を聞いてみた。でも8時半だとか11時だとか1時とか人によって言うことが違う。窓口で聞こうにも大勢の人間が殺到していて、下痢と発熱で弱っている私にはそこへ突っ込んで行く気力はもはや残っていなかった。
    「インド、あんたの勝ちや」
    私はへなへなとその場にうずくまった。
    「何でインドなんかに来てしまったんやろ~。もし生きて日本に帰ることができたら、今度はハワイに行くぞお」
    とわけの分からんことをうわ言のようにつぶやいている私に、 「どうしたんだ?」 と一人のおっちゃんが声をかけてきた。(つづく) 

    NO 109 インド編 その5

    at 2006 06/05 21:42 編集

    事情を話すとおっちゃんは 「バラナシ行きの列車は今日はもうないから、チケットをキャンセルすればお金が戻ってくる」 と言う。おっちゃんに連れられて案内所に行って聞いてみると、「国際外国事務局」 なる所で明日払い戻しをしてくれるそうだ。やれやれ、とにかく戻ってきたお金で新しくチケットを買い直そう。おっちゃんは 「ついてこい」 と手招きをする。この時点でも私はこのおっちゃんを信用していたわけではない。だが、今にも倒れそうな状態であれこれ詮索するのも面倒だったので、大人しくついていくことにした。
    駅から五分ほど歩いた場所に旅行会社のオフィスがあり、おっちゃんはそこに入っていく。ここの社員らしい。オフィスで少し休憩してから、リキシャーでおっちゃんの紹介してくれた 「ホテル・アトランタ」 に行く。ゲストハウスではなく中級ホテルだが、一泊80ルピーと、そう高くはない。おっちゃんは従業員と少し話しをすると帰っていった。部屋に案内してくれた従業員の兄ちゃんに 「私は病気である。だから大変苦しい」 と言うと、その兄ちゃんは驚いていろいろと世話をしてくれたのだが、その世話が半端じゃなかった。毛布を持ってくるわ、食べ物を運んできて食べさせてくれるわ、医者を呼んでくれるわ、薬を飲む時間になると水まで持ってきて飲ませてくれた。彼は夜勤なので明日、自分の代わりに私の世話をする人まで頼んでくれた。うっうっうっ。インドでこんなにも人に親切にされるなんてえぇぇ~。私は彼に何度もお礼を言い、やがて眠りに落ちるデリーの夜八時なのであった。 
    翌朝は六時に起床。下痢はまだ続いていたが、熱は少し下がったようだ。八時半にバラナシ行きの列車が出ると聞いていたので、急いでチェックアウトをする。駅で窓口に割り込んでくるインド人たちと死闘を演じたあげく、やっと二等寝台車のチケットが取れた(100ルピー)。ホテルに戻り、フロントで昨夜の彼に渡してくれと、迷ったが10ルピー差し出した。せめてもの感謝のつもりだったが、あれから10年以上立つ今でもふと思う。あの10ルピーは彼の手に渡ったのだろうか? やっぱり、渡っていないような気がするな。
    駅で昨夜のおっちゃんにばったり出会った。おっちゃんは 「いいか、事務局でチケットを見せれば大丈夫だからな」 とだけ言うと、風を巻くように去って行った。うっ、かっちょいい。私にはおっちゃんの後ろ姿が高倉健に見えた。そして警戒心のせいで無愛想にしたことを激しく後悔した。親切で話しかけてくる人とそうでない人を見分けるのはとても難しい。今日でも構内をうろうろしていると、いろんな人が話しかけてきて教えてくれたのだ。それでもいい人だと思って気を許せば、騙されることもしばしばだ。結局、旅行者は騙されてぼられながら旅を続けていくしかない。絶対ぼられまいと肩ひじ張った旅は面白くないし、旅行者は基本的にその国にとって客人だから通行料だと思えば少しくらいぼられても腹は立たん(と思えるほどの大人になりたいわっ!)。
    しかし、それからがまた大変だった。事務局で聞くと、8番の窓口に行けと言われる。8番に行くと13番に行けと言われる。13番に行けば14番に行けと。ああっ、たらい回しだあ~っ。病み上がりの体でひいひい言いながらうろうろしていると、一人の男がここで聞けと13番と14番の間の小さな窓口を教えてくれた。こうしてやっとの思いで払い戻された大枚188ルピーを握りしめ、いつ出発するとも判然としないインド列車に備えて今度ばかりは乗り遅れまいと出発時刻(あくまでも予定)の三時間前からプラットッホームで待機していたのであった。青年は荒野をめざす。いざいかん、聖地バラナシへ! でもここから18時間かかるんだよな。

    二等列車に乗り込むと、中はインド世界を凝縮したような騒々しさと混沌である。立錐の余地もないほど混み合ってる車輌にニワトリやヤギを連れ込むやつがいるし、物乞いがお金をせびりに来たかと思えばおひねりをもらいに歌を歌いに来る人や笛を吹いている人もいる。ガキどもは 「バクシーシ」 と遠慮なしに手を差し出してくる。こいつら絶対、無賃乗車だな。ななめ前に座っていたおじさんが 「チャイニーズ?」 と聞いてきた。それからこのおじさんが喋ること喋ること。よく分からないインド英語で、俺はガス会社に勤めてるとか東京と大阪にペンフレンドがいたとか延々とまくし立て、そのやりとりを回りの乗客が興味深そうに見ている。何時間かして、車掌が検札にやって来た。私のチケットを見て、 「この車輌じゃありませんよ」 と言う。おじさんが降りる駅で一緒にホームに降り、ポーターにチケットを見せた。
    「ついてこい」(インドではこの言葉をよく言われるなあ)。
    そう言うとポーターは私のリュックを肩に担ぎホームを走り出した。列車がどれくらい停車しているか分からんが、乗り遅れたらバラナシはおろか日本に帰ることもままならん。私は必死に走った。こんな時でもなぜか走りながら夜空を見上げ、月がきれいだなあ、なんて思っていた。ポーターの指し示した車輌に飛び乗ると同時に列車が動き始めた。お礼にと彼に1ルピーを渡そうとしたら、受け取ろうとしない。誇り高い人だなと思ったら、 「パイサはいらない」 と言っている。よく見るとそれは1パイサ硬貨だった。あわててポケットから50パイサを三枚つかみ出し、放り投げた。はあ~っ。
    疲れ果て、三段寝台の中段にもぐり込み、泥のように寝る。下痢は依然として続いていた。いろんなことがあったような気がするが、インドに来てからまだ四日目なのであった。(つづく)  

    NO 110 インド編 その6

    at 2006 06/13 21:52 編集

    ベナレス、ベナレス、モスクワの味~って、そりゃパルナスやろがっ! (ベタですまん。しかも関西限定ギャグ)
    古くから親しまれてきたベナレスという名は英語名のBENARES(ベナリーズ)の日本語読みであり、正式名はバーラナシーだ。現地ではバナラスともいう。ああややこしい。
    早朝六時にムガール・サライ駅に到着。オートリキシャー(小型オート三輪のタクシー)を拾い、バラナシヘ。両側に花屋や食堂やゲストハウスやお香や聖水入れを売っている店等がぎっしりと並んでいる狭い路地をくねくねと下っていくと(曲り角で牛と鉢合わせて角で突かれたりするから気をつけろよって、誰に言ってんだ)、いきなり視界が開けた。聖なるガンガー(ガンジス河)は思ったより広大でダージリンティーのように濁っている。ガート(沐浴場)では老若男女が口をゆすぎ、祈り、体を浄める。神様の乗り物とされる牛も水浴びをし、時おり排泄物も流れる。バラモンは説教をし、サドゥー(ヒンズー教の修行者)は瞑想する。
    おお、高校生の時に三島由紀夫の「暁の寺」を読んで以来、憧れの地であったあのバラナシに私はいるのだ。焼けつくような太陽の下、雄大なガンガーに無数のきらめくサリーと半裸の男たち。人々のざわめきと祈り。聞こえてくる讃歌。ガンガーで沐浴せば全ての罪は浄められん。無辜となった亡骸を荼毘に付し、ガンガーに流せば輪廻からの解脱を得ん。ああ、悠久の聖なるガンガーよおっ! 
    「バクシーシ、バクシーシ、ジー」 と肩を叩かれたので振り向くと、乞食が列を作って並んでいる。
    「バクシーシ!」
    ああ、うるさいっ。声を揃えるんじゃないよ。ゆっくりと思索にふける間もないな。そうだ、ボートに乗ろう。交渉して値切り倒し、一時間50ルピーで廻ってもらうことに。ボートを漕ぎ出して川中からガートを眺める。いろいろなガートがあるが、中でも大きなガートは何かもう、ひっちゃかめっちゃかに様々なものが混じり合ってこの世のものとは思われない光景だ。
    いくら聖なる河だといっても、川底に人骨がごろごろ転がっていてたまに死体が浮いていて赤痢菌がうじゃうじゃしているような汚い河の水を飲んで下痢をするインド人だっているだろう。死んじゃう人だっているかも。いや、信仰という気合いが入った精神には病原菌も退散するのかもしれない。なんたって、遺灰をガンガーに流してもらうために地方からやって来てバラナシに住み、死ぬのを待っている人もいるんだもんなあ等と思索にふけるためにボートを漕ぎ出して思索にふけっていると、少女の乗ったボートが近づいて来た。
    「この花、神様に捧げる花。10ルピー。買え」
    「船頭さん、買わないから先に行っちゃって」 
    それにしても信仰というものはすごいなあ。椎名誠が「わしもインドで考えた」で書いているように、このように信仰篤きインド人と信じるものなど何もないんだあ~と嘯いている日本人と一体どちらが幸せなのだろうか等と思索にふけっていると、少年の乗ったボートが近づいて来た。
    「ガネーシャ、クリシュナ、カーリー、神様の人形、いろいろある。20ルピー。買え」 
    「だあ~っ、うるさいわあ~っ! 俺を一人にさせてくれ~っ!」
    ボートを下りて火葬場のマニカルニカー・ガートに行くことにした。布に包まれた遺体を組んだ薪の上に乗せ、火をつける。薪がバチッバチッと音を立てて爆ぜ、布がめらめらと燃えていき、徐々に肉体が現われてくる。時おり隠亡が棒で遺体をつつき、火の回りを早くする。人間の肉体を焼く光景を見るのは初めてなので、最初は衝撃的だったが炎天下で陽炎のような炎を眺めているうちに感覚が麻痺してくる。インドでは何が起きても不思議ではない。 「インドが異常なのか、それとも日本なのか」 思索にふけっていると、いきなり風が吹いてきた。わっ、ぺっ、ぺっ、遺灰が口の中に入っちゃったあ~。
    近くで火葬を見ていた日本人らしき女性に声をかけたら、彼女は北海道の大学生だそうだ。話をしているうちにもう一度ボートに乗ろうということになった。人のよさそうな、おじいさんの船頭に値段を聞くと、20ルピーだそうだ。くう~っ、またしてもぼられてたか~。そのボートにはおじいさんの孫だろうか、まだちっちゃな男の子や女の子が五、六人乗っていた。夕刻のガンガーは気温もいくぶん下がり、風が吹いていて気持ちがいい。ガートの喧噪も遠くに聞こえる。この辺りは六時頃になるともう真っ暗闇だ。それでも路地を歩くと聖地らしい喧噪がここかしこで聞こえてくる。自分が今ここにいることが不思議だ。日本を離れて本当に遠くまで来たんだなあ、と感慨にふけっている暇はない。今晩八時半の列車でカルカッタに帰らなければならないのだ。バラナシ滞在十二時間。ああ、せわしない。ここがリーマン・パッカーのつらいところだ。乞食や物売りの少年少女たち、明日もしっかり稼げよ。さらばバラナシ、また来る日までえ~。(つづく)
    NO 111 インド編 その7

    at 2006 06/20 22:03 編集

    バラナシで知り合った人が泊まっているホテルに荷物を置かせてもらっていたので急いで引き取りに行き、町中でリキシャーを拾う。町外れまで行き、そこからオートリキシャーを雇ったのだが、運転手が飛ばすこと飛ばすこと。急いでくれるのはありがたいのだが乗っている方は気が気ではない。人波を巧みにかわし、F1レーサーのように車を追い抜き、対向する牛の横をするりと通り抜ける。まったく、生きた心地がしなかったよ、あたしゃ(ここだけちびまるこちゃんの声で読んでね)。
    やっと駅に着いてやれやれと思っていたら、駐車しようとする寸前に横から二人乗りの自転車が突っ込んできた。私は後ろの座席であるはずのないブレーキを右足で思いっきり踏みこんだが、やっぱりぶつかった。自転車は派手に横転したが、男たちに大したケガはなかったらしく、起き上がると猛然と食って掛かってきた。それに運転手が応戦する。回りには野次馬が集まってきた。こういう場合、インド人は激しく罵り合っても手は出さない(警官が民衆を警棒でどついている光景は時々見る)。
    インド人と中国人は似ているような気がする。どちらの国も人口が多いので自分を主張しないとやっていけない。謙譲の美徳なんて言っていたらバスにも乗れないし、列車のチケットも買えないのだ。そんな生存競争が激しい国では自然と気性が荒くなるのか、しょっちゅう言い争いをしている。そうやってケンカになるとわらわらと人が集まってきて見物を始める。誰も仲裁はしない。大学の時の先生が言っていた。中国からの留学生が日本に来て不思議に思うのは、街を歩いていても電車に乗っていても日本人がとても穏やかでケンカをしないことなのだそうだ。インド人だってそう思っているのに違いない。しかし、私に言わせればケンカばっかりしているあんたたちの方がよっぽっど不思議だぞ。とにかく座席にリキシャー代を置いて、ケンカをしている二人を尻目に駅へと急ぐ。
    プラットホームには日本人の団体客がいた。五才くらいの女の子が彼等に 「バクシーシ」 と手を出す。そこにいた若者たちがこう言っていた。
    「お金ないんだよ。ノー・マネー、わかる?」 
    「逆にこっちから『バクシーシ』って言ってみればいいんじゃないの」 
    「そうか、ほら、バクシーシ」 
    日本人に手を出された女の子はきょとんとしていた。
    むき~っ! 今でもこの光景を思い出すと腹が立つ。その子は好きで物乞いしてんじゃねーよ。貧しくて働きたくても働けねーから仕方なくやってんじゃねーか。そうやってインドまで遊びに来ている金持ちの日本人(私もだけどよ)がいたいけな子供をからかうんじゃねーよ。金をやるつもりがないんなら、断るか無視すればすむことだろーが、あほんだらっ! と憤慨していると一人の少年が私にお金を乞い始めた。歩き出してもしつこくついて来て、ひざまづいて私の靴に額をこすりつけてくる。とうとう根負けして某(なにがし)かのお金を与えた。するとその少年は仲間のところへ戻り、ひそひそと話をしていたかと思うと五、六人がこちらに突進してきた。あわてて逃げ出し、何とか彼らの追跡から逃れて車両に飛び乗る。やれやれ。
    列車が駅に着き、乗客が降りると子供たちが一斉に乗り込んできた。何をするんだと見ていると、ゴミ箱や座席の下からペットボトルを拾い集めている。そして構内にある水道の蛇口からペットボトルに水を入れてキャップを閉めているのだ。誰に売りつけるんや~? と考えるとはたと思いつくことがあった。中級のホテルに泊まっていて、ミネラルウオーターを頼んだ。ボーイが持って来たボトルには明らかに水が七分目ほどしか入っていない。もちろんキャップは開けた跡がある。こいつの中身は駅の水道水やないかいっ?! 責任者、出てこいっ! (by人生幸朗師匠)
    こういう風にインドのガキどもは毎日を逞しく生きてゆくのであった。幼少のみぎりから鍛えられているんで、斯くの如く冷酷で抜け目のないインド商人に成長していくのもむべなるかな、合掌。(つづく)

    NO 112 インド編 その8
    at 2006 07/05 22:18 編集

    早朝、カルカッタのハウラー駅に着く。フーグリー河に架かる巨大な鉄橋、ハウラー橋は通勤する人で丸の内のようにごった返している。喧噪の中、澱んだ河を見ながら私は一人、物思いに沈む。
    「今日でインドともお別れだ。長かったようで短かった一週間。物売りや物乞いに辟易し、下痢や発熱に悩まされた一週間。騙されたりもしたけど、親切な人にも出会った。うるさいが、頼もしくもある子供たち。チャイ屋の売り声、灼熱の大地、道端で死んだように眠りこけている犬、漆黒の暗闇、バラナシの炎、死体、サドゥー、カーリー女神に捧げられるために首をはねられる山羊」
    様々な光景が次々に浮かんでは消える。けれどもインドよ、今日でおさらばすると思うと....、
    あ~嬉しいわいっ! とっとと日本に帰るぞ。帰って風呂に入ってうまいもん食ってゆっくり寝て下痢を直すぞ。こんな国、二度と来るもんかいっ。一刻も早く空港に行って飛行機に乗って文明国に帰るんじゃい。帰るったら、帰るんだ~い!
    帰りの飛行機で同年代の男と隣り合わせになった。どちらからともなく話しかけ、彼はパリでアパートを借りて住んでいたことやアジアのいろんな国を旅した話をしてくれた。私が海外旅行は初めてだと言うと、彼はこう言った。
    「それならあなたはこれから何度も旅に出るでしょうね。一人で旅をする快感を覚えたら、それはやみつきになりますよ。僕がそうでしたから」 
    私はそうはならないだろうと確信していた。こんな苦しい旅なんか二度とごめんだ。
    成田空港に着くと私は激しい違和感を感じた。その違和感は日常生活の中でも長い間続いた。日本はなんでこんなに清潔で、日本人はなんで異常なほど清潔好きなんだ? 日本人はなんで大したことでもないことをいちいち気にするんだ(インド人は何があっても二言目には「ノー・プロブレム」って言うじゃないか)? なんで商品には全て値段がついてる? なんでどこに行っても自動販売機があるんだ? なんでみんな、自分のことをすぐに不幸でビンボーだなんて言うんだあ? おまけにふとしたおりにインドの子供たちや大人たちの姿がちらついてきたりする。 
    「カルカッタは好きな街だよ」 
    仲良くなったホテルのボーイにこう言うと、彼は言ったっけ。
    「一週間の滞在では何も分からないよ」 
    そりゃ、そうだ。けれども分かったこともいっぱいあったぞ。旅が短いか長いかなんてのはあまり重要ではないと思う。果たして私は自分を変えることが出来たんであろうか? それは本人にはよく分からんが、インドで学んできたと胸を張って言えることなら一つある。駅のトイレに入って、紙がなくてもちっとも慌てなくなった。どんなトイレでもバッチ来いって感じ。私にはインドで習得した、この黄金の左手がある。紙で処理するなんて、なんて不潔で野蛮。ちなみに帰国してからも軟便が一か月続いた。インド、もしもう一度行くことがあれば、勝てないにしても、引き分けくらいにはしたい。ああインド、ため息の出るインドよ。
    仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。(ゴーダマ・シッタールダ)
    (終わり)

     皆様への伝達事項
     実質的な第一話で長編です。

     ~注目してもらいたい部分~
    私がインドに行ったのは26歳の時、それが初めての海外旅行だった。

     ドリアン長野は1961年生まれで26歳の時にインドを旅したなら1987年こと昭和62年から翌年に行われたインド旅行記です。
    「早朝、西ベンガル州のハウラー駅に着く。」という文面なら正しくても
    「早朝、カルカッタのハウラー駅に着く。」は間違いです。
    理由はコルカタとハウラーの両者は西ベンガル州内の街ですが対岸の街であって別個だからです。 時に説明は難しい。
    ベンガルの東部はバングラデシュとして1971年に独立しました。
     生活を困窮させる人は旅行中にSNSを通じて毎日詰問するストーカーです。 日本でもインドのように生活困窮者は増加してます。
     インド人はエスカレーターに不慣れでも階段は慣れておられたのでしょうか? 海外旅行に行く時は胃薬を用意しましょう。

    パルナスの後継店はモンパルナスとして大阪で営業されてます。
    pirosiki.com
    空港で多くの客引きから悪い営業活動がなされると困ります。
    往復の航空券の予約、宿泊費と空港からホテルの送迎バス等は離日前に予約して支払を済ませるべきです。詐欺師は何をするか分からないですけれども旅行商品のフリープラン等の購入を提案します。
     日本国内で外国語を学んでも通用するか否かは不透明です。
    外国では使用されてる言語が複数存在します。
    インドではベナレスの表現は複数存在するそうです。
    私が渡航してきたカナダのブリティッシュコロンビア州もフランス語を話す人々の間ではコロンビーブリタニーキと発言します。

    インド旅行するにしてもe-Visa等の申請が必要とされてるので詳細は各自でお調べ下さい。

    紹介した3種類の動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。



    ~渡航するなら日本時間の時計一個と現地時間の時計一個は必須~
     日本で午後11時でも旅先は午前7時。私が平成27年に行ってきたバンクーバーの時差は夏時間だったので16時間。日本時間の正午はインドの午前8時30分。日付変更線を超えないなら置時計はアナログでも良いか?海外旅行は時差に直面します。
     時間に遅れるのを防ぐ為に複数の時計を利用しましょう。
    time-j.net
    海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。
     移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
    宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
    帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。
    敬具 マーキュリーマーク

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    英国旅行記 2024

    2024-06-30 | 日記
    ドリアン長野の英国旅行記 NO42 ロンドン・コーリング

    at 2004 03/19 22:25 編集

    ある日、何気にNHKを観ていたら、普段はめったにNHKなんか観ないんですけどね。ロンドンのイースト・エンドの話をしてたんですよ。イースト・エンドは労働者の街でね、反対にウエスト・エンドは高級ブティックやレストランがある、おされな街なんですよね。ほら、ペット・ショップ・ボーイズの「ウエスト・エンド・ガールズ」って曲あったじゃないですか。あれはイースト・エンドに住む労働者階級の少年とウエスト・エンドの中産階級の少女の歌なんです。この時、あっ、イースト・エンドに行ってみたいって思ったんです。その時までヨーロッパには行ったことがなかったし、興味もなかったんですけど。それにロンドンといえば、僕にとってはパンクなんですよね。その時は1994年でした。ヒップ・ホップ、グランジ、ユーロ・ロックの時代です。カート・コヴァーンが自殺したのもその年だし。パンクなんてもう過去の遺物ですよ。でも、アメリカのパンクと言われるグランジの代表的バンドのリーダーがその年に亡くなったっていうのは、何だか象徴的ですね。ニューヨークで発祥したパンクがロンドンに渡って、十何年か後にその種子がシアトルでやっと発芽して全世界に広がったけど、一つの遺伝子が絶えた、みたいな。それでも、パンクスの一人や二人はヤンバルクイナやカブトガニみたいにひっそりと生息しているだろうと。天然記念物みたいに英国王室が保護してたりとか、そんなわけないか。それで、イースト・エンドとパンクスという学術的にも崇高な、ちょっと、ここは笑うとこじゃないですよ。まあ、淡い期待を抱いてですね、ロンドンに行ったわけです。
     ロンドンってとこは、もう京都ですね。ヨーロッパ中から来た観光客がわんさかと歩いてて。僕もフランスなまりの英語でよく道を聞かれました。ヴィクトリア駅なんかに行くと、若者だけじゃなく、中高年の一人旅や夫婦パッカーがうろうろしていました。日本のリーマンのみなさんもね、パチンコを控えたり、「村さ来」に行くのを三回から一回に減らしたりしてね、こつこつと小金を貯めて旅に出たらいいんじゃないかと思いましたね。見聞も広がって、人生楽しくなるんじゃないかと。まあ、よけいなお世話ですね。それに街中の空気がね、すごく穏やかなんですよ。大都市にありがちなギスギスした感じがない。人も穏やかな顔をしてるし。道を尋ねても誰もが親切に教えてくれるんです。おじいさんやおばあさんなんかね、僕の腕をつかんで離さんばかりに教えてくれる。だけど、ハイド・パークを歩きながら思ったんです。ロンドンには住めないなあって。僕の眼には物凄く退屈な街に映ったんです。実際に住んでみたら違うんでしょうけど。
    肝心のイースト・エンドですけど、オールドゲイト駅付近にあるとは知ってましたから、そこで降りて人に聞いたんですが、誰も知らないって言うんですよ。仕方なくうろうろと探していたら道に迷っちゃって。そのうち、まっ、いいかって気持ちになっちゃって。もう一つの目的のパンクス探訪ですけど、やっぱりいないんですね。キングズ・ロード、オックスフォード・ストリート、カーナビー・ストリート、ピカデリー・サーカス、スローン・ストリート、カムデン・ロック・マーケットと歩き回ったんですが、見つかりませんでした。それじゃあ、どうしようかなと思ってね、大英博物館を観て帰るのも何だかなあ~でしょ? それでふっと思ったのが、そうだ、ブリクストンに行ってみよう! と。ジャマイカ移民とかのコミュニティーができてて、貧しい区域なんですよ。もちろん犯罪も多いし。クラッシュの「ブリクストンの銃」には、白人が作ったレゲエの中では最高傑作だと思うんですけど、自分たちのパンクのルーツであるレゲエに対して、もし、その敬愛するジャマイカ人たちが暴動を起こしたら、我々は制圧する側に立つのかという葛藤が歌われています。泊まっていたホテルの人からも、ブリクストンに行くならカメラはしまっておきなさい、充分気をつけるのよ、なんて言われたんで何だか期待してしまって。朝一番に地下鉄に乗って行ってみたんですよ。そしたら、アパート、あっちではフラットですか、そこから出勤する白人が出てきて。あれっ? 白人も住んでるの? って思ってね。こっちはニューヨークのサウス・ブロンクスみたいなところを想像してましたから。一体、何を期待してるんでしょうね? 僕は。(つづく)
    NO43 続ロンドン・コーリング

    at 2004 03/26 23:30 編集

    とにかくブリクストンはそんなに荒廃しているとは思えなかった。少なくともアジアのいくつかの都市よりは遥かにマシです。一度だけ黒人に声を掛けられて。素振りを見ると、ああ、こいつは金をせびろうとしてるなと思ったんで無視しましたけど。そういえば、これはブリクストンじゃなくて普通の通りなんですが、歩いていると、物乞いしてるのは若者なんですね。働かなくても失業保険で何とか食べていけるので、無気力な若者が増えているような気がします。物乞いをして断られると、ある若者が「この街はどいつもこいつもファッカーばかりだぜ」と歌っていましたが、ファッカーはお前の方だ、と言いたくなりますね。
    その夜はホテルが密集しているアールズ・コートのドミトリーに泊まりました。ここらあたりは何故かオーストラリア人が多いそうなんですが、僕はドミトリーに泊まるのは初めてだったんです。他人がいる空間ではくつろげないんで、今まで泊まったことはなかったんですよ。部屋に入ると、僕のベッドにヒッピーくずれみたいなカップルが寝ている。しかもニューエイジ・ミュージックをかけながら、抱き合ってるんです。一応、「ここ、僕のベッドだけど」と言うと、薄目を開けて、「ああ、そう」なんて言う。まあ、どこのベッドに寝ようが関係ないんですけど。だけど、延々とニューエイジを聴いてるんで、頭がおかしくなりそうで外に飛び出しました。その時、夜のソーホーに行ったんですけどね、キッチュというか、フェイクというか。ブライアン・イーノが化粧していた頃の初期のロキシー・ミュージックみたいな感じなんですよね。あるいは、ジョン・フォックスが在籍していた頃のウルトラ・ヴォックスみたいな、ファーストでメンバーがビニールのジャケット着てて、ネオンが煌めいてるイカしたアルバム・ジャケットがあるんですけど、そんな雰囲気なんですよね。映画でいえば、「ロッキー・ホラー・ショー」とか、フレディー・マーキュリーのもっこりタイツとかを連想しちゃうんですね。えっ?よく分からない? 歩いてみれば分かりますよ。ゲイリー・ニューマンの幻想アンドロイドですから。もっと古い例で言えば、パリスのビッグ・タウン2061ですかねえ。ますますわけ分からんですか。えっと、あと年末だったんで、トラファルガー・スクエアのカウントダウンにも行ったんですけどね、なんだかんだ言っても、イギリスはヨーロッパの中心だと思ったのはね、僕の分かる限りでも、スペイン人、ドイツ人、スウェーデン人、イタリア人、ポーランド人、フランス人、スイス人、あとインド人と中国人と日本人がいたことですね。ええ、4時間その広場をうろついてましたから。12時になったら、そばにいる女性にキスしてもいいことになってるんですけど、無理やり迫ってビンタ張られた男もいました。いい思い出です。いいえ! 僕じゃないですよ。違いますって! 失敬だな、君は! ともかくもですねえ、一番感心したのは、ロンドン郊外を歩いていて、信号のない車道を渡ろうとした時ですよ。車がビュンビュン通ってるんですけど、車道の一歩手前まで来たとたん、左右の車が一斉にピタッと停まりましたからねえ。大阪人、少しは見習って欲しいですねえ、正味の話。
    だけど、パンクスに会いたいなんてのは今から考えると、まるで日本に来た外国人がサムライが見たいと言うのと同じ感覚ですね。ジミー・ペイジが来日公演で成田に降りたとたん、「サムライはどこだ?」って聞いたのを笑えません。次にロンドンに行く時は、羽織袴に雪駄を履いて行こうと思ってます。

     皆様への伝達事項
     ~注目してもらいたい部分~
    それにロンドンといえば、僕にとってはパンクなんですよね。その時は1994年でした。(中略)
    えっと、あと年末だったんで、トラファルガー・スクエアのカウントダウンにも行ったんですけどね、なんだかんだ言っても、イギリスはヨーロッパの中心だと思ったのはね、僕の分かる限りでも、スペイン人、ドイツ人、スウェーデン人、イタリア人、ポーランド人、フランス人、スイス人、あとインド人と中国人と日本人がいたことですね。ええ、4時間その広場をうろついてましたから。
     
     平成六年の年末から平成七年の年始は英国のロンドン旅行。
     表明は英国旅行記内ではされてませんが旅行中に知り合った人物とは後に米国で再会してからメキシコ旅行されました。

    ロサンゼルス(米国)とティフアナ(メキシコ)旅行記 2024

     年末のカウントダウンはお好きですか?死去した音楽家は多い。
    生前に残した作品も多いので今も生存してるように感じられる人は多いに違いないです。
     多くの国から人がやってくる国際的な町、ロンドン。よき町のようです。70年代と変わらないと考えてロンドンに行ったら大違いであったようです。発表されてるのは2種類のみで実際にドリアン長野が90年代のように再びロンドンに行ったかどうかは不明です。 将来的にはドリアン長野はご家族でロンドン旅行したいようです。

    uk-eta.jp もし、渡英されるならお忘れなく申請して下さい。
    実際の所、令和になってから親子でケアンズ旅行されたそうです。

    ~渡航するなら日本時間の時計一個と現地時間の時計一個は必須~
    私が平成27年に行ってきたカナダのバンクーバーの時差は夏時間だったので16時間。 日本では午後11時でも旅先は午前7時。
    日本の正午は標準時のロンドンは時差が9時間で午前3時。他方、夏時間ならば午前4時。 time-j.net 時間に遅れるのを防ぐ為にデジタルの置時計も用意したら日付の認識も簡単で安心です。 

    海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。 移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
    宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
    帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。

    紹介した複数の動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。
    ひとり旅 イギリス ロンドン 地下鉄ピカデリー線 アールズコート Earl's Court Piccadilly Line

    London Vacation Travel Guide | Expedia


     敬具 マーキュリーマーク

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    ロサンゼルス(米国)とティフアナ(メキシコ)旅行記 2024 

    2024-06-30 | 日記
    NO41 続々ロサンゼルス編 at 2004 03/04 00:14 編集

    目を覚まし、海辺に面した部屋のカーテンを引く。陽はすでに高い。白い波頭の間にサーファーたちが見え隠れする。今日も暑くなりそうだ。ロサンゼルスには四種類の人間しかいない。ハリウッドスターと観光客とメキシカンとホームレスだ。モールに入ってみると何だか気が滅入る。モールってやつは世界中どこでもそうなんだろうが、画一的で面白味に欠ける。オープンシステムになっているファーストフード・レストランは家族連れで一杯だ。誰もがハンバーガーかピザかフライドチキンを頬張っている。なんだかなあ~。ロサンゼルスに滞在して分かったことがある。その壱、食事をハンバーガーとコーラなんかで済ませる人が結構多い。それゆえ、デブはハンパじゃなくデブだ。デブの中のデブ、デビーだ。人間というよりは肉の塊、ミートだ。その弐、タトゥーをしている人が多いが、やつらはそれを見せびらかすために常にノースリーブのTシャツだ。ごくろうさんだ。ためになった。これだけアメリカを学んだら充分だ。今晩荷物をまとめて日本に帰ろう。
    「メキシコに行かない?」朝食後、ジョイスが言った。「え”?メキシコに行けるの?」「もちろん、行けるわよ。アメリカからメキシコにはフリーパス。帰るときはIDがいるけど」
    メキシコといえばテキーラにサボテンにタコスしか思い浮かばんが、なんだかムーチョなところに違いあるまい。
    「行く、行く、連れてって。これからすぐに旅立ちましょう。早く支度して、急いで急いで」「くっ、苦しい~。そんなに揺さぶらないで。てっ、手を離してちょうだい。年寄りを殺すと天国に行けないわよっ!」
    というわけで、我々はバスを乗り継ぎ、トラムに乗り、何時間もかけて国境のティフアナに到着した。国境越えするにはらせん状の歩道を歩かなければならないが、そこにはすでに幼子を抱えた母親か何人か物乞いをしていた。目の前の丘にはトタン屋根の粗末な家が斜面にも隙間なく建っている。いきなり劇的に景色が変わった。その参、アメリカとメキシコの国境は世界一残酷な国境だ。「GODを求める人たちがアメリカに行き、GOLDを求める人たちがメキシコに行った。たった一字の違いだが、それが現在の貧富の差となった」という石川 好の本で読んだ言葉を思い出した。もちろん、そんな単純なことではなく、ピルグリム・ファーザーたちも崇高な目的ばかりじゃなかったらしいけど。街を歩くと、その身なりで地元の人間と観光客がはっきりと分かる。前を歩いていたフリルの付いた服を着たアメリカ人少女と、裸足でぼろぼろの服を纏った同じ位の年嵩のメキシコ人少女が偶然にもツーショットになった。「しめた、これを撮ればピュリッツァー賞、間違いなし」とカメラを探しているうちにどこかに行ってしまった。あ”あ”、おれって!
    「人生はお金がすべてではないけれど、無いと不便。あったほうが便利だなあ」(相田みつを)
    みつを、なに当たり前のことをもっともらしく言ってんだあ! おいちゃんはなあ、ホントはこんなこと言いたくなかったんやけど、最後に言わしちくれ、「ロスに来たのは、とんだ時間のロスだったあああぁぁぁぁ~~っ..................................................................................................。」

    NO 113 ロサンゼルス編

    at 2006 09/21 21:26 編集

    のっけから何だが、私はロサンゼルスが嫌いだ。それはなにも私が九時間以上も飛行機に乗ってやっと到着した空港をボ~ッと歩いていたら二人組のイラン人にアムネスティに寄付をしてくれと孤児の写真を見せられ大勢の日本人から寄付をいただいている一人最低100ドルからだと言われ何で寄付するのに最低額があるんだと思いつつもそのくらいならいいかと寄付をして空港を出た時分に100ドルいうたら一万円以上やんけとやっと気づき自分のマヌケさに地団太を踏んだからではない。
    ロサンゼルスの空はどこまでも真っ青のブルースカイだ。まるで貧血の病人のように青い。私はそれに向かって「バカヤロー」と叫びたかったね。ウッディ・アレンはアカデミー賞受賞式に招待された時もいつものようにニューヨークの「マイケルズ・パブ」でクラリネットを吹いていたそうだ。「僕にはロサンゼルスの空は眩しすぎる」とほざいたそうだが、ウッディ、いや、ウッちゃん、私はあんたの気持ちがよく分かるぞ。ここで一句、「旅人は 悲しからずや 空の青 ロスの青にも 染まず漂ふ」
    何言ってんだ、インドやタイやカンボジアの空だって充分青いじゃねーかとぬかすヤローがいるかもしれんが、チッチッチッ、だからトーシローは困るってんだよ。ロスの空はいわば、場末の落魄した娼婦が客をとろうと必死になって厚化粧しているようなもんだ。不健康で退廃的で侘びしくて物悲しいんだよ。なーにがカリホルニアドリーミングだあっ。100ドル返せーっ、ちくしょー!
    ダウンタウンを歩いていると聞こえてくるのはスペイン語ばかり。映画館でアメリカ映画を観てもスペイン語の字幕付きだ。夜になると商店は早々と閉めてしまい、歩いているのはホームレスだけ。ハリウッドもビバリーヒルズもロデオドライブもちっとも面白くない。リトル東京で「ヤオハン」の場所を尋ねた日系の老人には、「夜は独りで歩かないほうがいい。巡査は外国人に偏見を持っているからな」と忠告された。ステーキハウスでステーキを注文したら、付け合わせのマッシュポテトが山のように出てきた。これだけでもう満腹だ。ふうふう言いながら何とか食べ終わると、ウエイターが「食後にアイスクリームはどうだい?」と聞いてくる。「冗談言うなよ、マイケル。これ以上食べたらゲロしたステーキがサンタモニカまで飛んでっちまうぜ」と私は肩をすくめる(ふっ、オレもアメリカン・ジョークがうまくなったもんだぜ)。
    ああ、ロサンゼルス! めしはまずいし、歩くのにはただっ広いし、面白い所もない。私は台湾系アメリカ人、ナンシーおばさんの経営するモーテル、「City center motel」に宿泊しながら悶々としていた。どこか面白そうな場所はないもんだろうか。うーんとお~.......。あっ、そうだ! そう言えばサウス・セントラルがあった。ニューヨークのサウス・ブロンクスと並び称される、泣く子も黙るその地区は犯罪の温床となっており、殺人事件は日常茶飯事でヘイト・クライムという人種偏見による犯罪も起きていると本で読んだことがある。何だか想像するだけでケツのあたりがムズムズしてくる。しかし、日本人がのこのこ出かけていっても身ぐるみ剥がされて射殺されるのがオチだ。ここはひとつ、奮発してタクシーをチャーターして連れてってもらおう。モーテルのロビーでいつもうだうだとたむろってるメキシコ人に頼めば大丈夫だろう。善は急げ(?)とさっそく彼らに聞いてみる。しか~し、 
    「へっ、サウス・セントラルだと? サルがケツから飛び出すぜ」「俺はまだ死にたくねえよ」「あそこは観光地じゃないぜ。ディズニーランドなら連れていってやってもいいけどな」
    けっ! メキシコ野郎はどいつもこいつもチキンばかりだぜ。とっととメキシコに帰りやがれ! (われながら知らないちゅうことはごっつう恐ろしかことですたい。皆さん、生半可な知識は身を滅ぼします、注意しましょう。嗚呼、無知の涙)
    メトロのブルーラインに乗ればサウス・セントラル地区まで行くことができるのだが、私もそこまで無謀ではない。残念だが、そこに行くのはあきらめた。口惜しや。その時、天啓のように私の脳裏に閃く地名があった。そうだ、「ワッツ」だ。ワッツは黒人暴動が起こった場所として記憶に刻み込まれていた。今度はそこに行きたいと頼んでみると、一人のメキシコ人が行ったことがあると言う。35ドルでタクシーを手配してやると言うのでOKする。何でわざわざ好き好んでそんな危険な場所に行きたがるんだと疑問に思う人もいるだろう。貧しい人々や危険な地域を見学するような非常識な行為はやめようという良識派の意見は百も承知だ。しかし、私の好奇心はどうしてもそういった方面に向けられてしまう。
    やって来たタクシー・ドライバーはエルサルバドルからアメリカに来て三年目のフィデルという青年で、英語がほとんど分からない。私のスペイン語は大学の第二外国語で習っただけで、補習を受けてやっと可を頂いたという代物だ。自慢じゃないがしゃべれる構文は「私の父と母はスペイン語が話せます」だけだ(一年生の時にスペイン語を教えてくださった平田先生、その節はご迷惑おかけしました。それから三年の時の補習の大垣先生、以下略)。
    我々の意志の疎通は私の極端に少ないスペイン語の語彙(二十単語ほど)と身ぶり手ぶりと勘によって行われた。で、そのワッツだけど、総じて美しい住宅街が続く何の変哲も無い街だった。「Dr・Martin Luther King Shopping Center」というモールを見つけたので、タクシーを降りる。ぶらぶらと歩いている黒人は誰もが穏やかに見える。近くにいた黒人警官に聞いてみると、「暴動のあった場所はこの辺りだが、貧しい黒人の居住区は知らない」のだそうだ。そういえば、暴動が起きたのは1950年か60年代のことだったぞ。あー、何やってんだ、俺は。フィデル、とっとと帰るぞ。お前もアメリカに三年も住んでんのなら、英語くらい勉強しろよな(やつあたりすんなよ)。
    夕食はチャイナタウンに食べに行った。今日は大晦日なので閉まっている店がほとんどだ。客のいない小さな食堂で飯を食べていると、警察官が二人食事をしにやって来た。 
    「......................................。」
    大晦日の夕暮れにうら寂しい食堂で警察官と無言でとる食事ほど物悲しいものはないと私は断言する。これで古いラジオから八代亜紀が聞こえてきたら完璧だ。いや、アメリカだからウィリー・ネルソンかトム・ウエイツあたりか。リトル東京では「紅白歌合戦」を衛星放送で観ながら故郷に想いを馳せながら涙する人がいるんだろうか。
    ユニオン・ステーションで21時発サンディエゴ行きのアムトラックに乗る。ロンドンで知り合ったジョイスに会うためだ。彼女は元看護婦のおばあさんで、今は離婚してロサンゼルスとサンディエゴの中間ほどにあるオーシャンサイドに独りで住んでいる。降りる駅が近づくと、車掌がやって来て教えてくれた。乗客の一人一人にそうしているみたい。駅にはジョイスが迎えに来てくれていた。彼女のアパートは駅から歩いて五分。目の前は海岸だ。歩きながらジョイスが言う、「ここで『トップ・ガン』の撮影があったのよ」。おお、さすがハリウッドが近いだけはあるじゃないか。
    その夜は二人でテレビのNYのカウントダウンの中継を観る。 
    「ファイブ、フォー、スリー、ツー、ワン! あけましておめでとうございます」 
    「ありがとう、今年のニューイヤーは寂しくなかったわ」 
    「今度は是非日本に来てください」
    袖振り合うのも他生の縁というジャパンのことわざを思い出す。それから二人は他愛ないことを女子高生のように明け方までくっちゃべり、疲れ果てていつしか倒れ込むように寝入ってしまうのだった。
    目を覚まし、海辺に面した部屋のカーテンを引く。陽はすでに高い。白い波頭の間にサーファーたちが見え隠れする。今日も暑くなりそうだ。
    ロサンゼルスには四種類の人間しかいない。ハリウッドスターと観光客とメキシカンとホームレスだ。
    ロサンゼルスに滞在して分かったこと。その壱、食事をハンバーガーとコーラなんかで済ませる人が結構多い。それゆえ、デブはハンパじゃなくデブだ。デブの中のデブ、デビーだ。人間というよりは肉の塊、ミートだ。その弐、タトゥーをしている人が多いが、やつらはそれを見せびらかすために常にノースリーブのTシャツだ。ごくろうさんだ。ためになった。これだけアメリカを学んだら充分だ。今晩荷物をまとめて日本に帰ろう。
    「メキシコに行ってみましょうか?」ブランチの後、ジョイスが言った。
    「え”?メキシコに行けるの?」
    「もちろん、行けるわよ。アメリカからメキシコにはフリーパス。帰るときはIDがいるけど」
    メキシコといえばテキーラにサボテンにタコスしか思い浮かばんが、なんだかムーチョなところに違いあるまい。
    「行く、行きましょう、連れてってください。これからすぐに旅立ちましょう。早く支度して、急いで急いで」
    「お、落ちついて。そ、そんなに揺さぶらないで!」
    というわけで、我々はバスを乗り継ぎ、トラムに乗り、何時間もかけて国境のティフアナに到着した。国境越えするにはらせん状の歩道を歩かなければならないが、そこにはすでに幼子を抱えた母親が何人か物乞いをしていた。目の前の丘にはトタン屋根の粗末な家が斜面にも隙間なく建っている。いきなり劇的に景色が変わった。
    その参、アメリカとメキシコの国境は世界一残酷な国境だ。
    「GODを求める人たちがアメリカに行き、GOLDを求める人たちがメキシコに行った。たった一字の違いでしかないが、それが現在の貧富の差となった」という石川好の本で読んだ言葉を思い出した。もちろんそんな単純なことではなく、ピルグリム・ファーザーたちも崇高な目的ばかりじゃなかったらしいけど。街を歩くと、その身なりで地元の人間と観光客がはっきりと分かる。前を歩いていたフリルの付いた服を着たアメリカ人少女と、裸足でぼろぼろの服を纏った同じ位の年嵩のメキシコ人少女が偶然にもツーショットになった。
    「しめた、これを撮ればピュリッツァー賞なんかもらえるかも」とカメラを探しているうちに彼女たちはどこかに行ってしまった。あ”あ”、おれって!
    健康的で眩しすぎる空と海。反面、移民や不法労働者を抱え、犯罪が多発する現代のバビロン。ああ、ロサンゼルス!
    「ロスに来たのは、とんだ時間のロスだったあああぁぁぁぁ~
    ~っ..................................................................................................。」(ごめんなさい)

     皆様への伝達事項 五点連絡します。
     第一に申し訳ないが平成19年の夏に体調不良だった私はドリアン長野が平成16年に初投稿した幾つかのロサンゼルス旅行記の転載は出来なかったので欠落してます。
    しかし、平成18年9月にドリアン長野が再編集しgoo簡単ホームページ上で投稿したロサンゼルス旅行記については転載が行えたので挽回はしました。
     第二ですが米政府はメキシコとの国境の間に壁を作る決断を下しました。ドリアン長野はロサンゼルスから陸路でティフアナに赴きました。
    米国のロサンゼルスが存在するカリフォルニア州とメキシコのティフアナが存在するバハ・カリフォルニア州は隣接してます。
    ちなみにバハ・カリフォルニア州は北バハ・カリフォルニア州とも言われてるのは南バハ・カリフォルニア州ことバハ・カリフォルニア・スル州が存在するので区分けが必要だからです。
     過去には陸路で両国間の国境超えは行えましたが将来的にも行えるか否かは不透明です。 国境越えは政治問題です。

     ~注目してもらいたい部分~
    ロサンゼルスに滞在して分かったこと。その壱、食事をハンバーガーとコーラなんかで済ませる人が結構多い。それゆえ、デブはハンパじゃなくデブだ。(中略)我々はバスを乗り継ぎ、トラムに乗り、何時間もかけて国境のティフアナに到着した。

     第三ですが平成29年にティファナはメキシコ全土で殺人事件数が最多でしたので旅先としての推奨は不可能です。トヨタの工場が平成16年から操業してるので渡航した日本人は多いかもしれませんが観光と仕事は別です。
     第四ですがドリアン長野にとって友達と再会が行えた事を除外したら辛い旅だったそうです。
     平成八年11月に減収減益を発表した事によって経営危機が表面化しその翌年以降に全ての海外店舗を閉店(清算と譲渡等)したヤオハン(小売店)をドリアン長野は利用したそうです。
     平成六年の年末から平成七年の年始に訪問した英国でジョイスさんと知り合った後に年末年始に米国で再会したとなると平成七年の年末から平成八年の年始もしくは、平成八年の年末から平成九年の年始にロサンゼルスとティフアナを旅したようです。 平成八年の海外旅行記か?
     この海外旅行記については時期を明確化することは不可能でした。

     第五ですが渡米する人はESTA(電子渡航認証)等の申請が必要になります。 詳細は各自でお調べ下さい。 
     国籍によってはメキシコへ渡航される人も電子渡航認証のSAE(Sistema de Autorización Electrónica )が必要になるそうです。
     
    ~渡航するなら日本時間の時計一個と現地時間の時計一個は必須~
     私が平成27年十月に行ってきたカナダのバンクーバーの時差は太平洋夏時間だったので16時間。 日本では午後11時でも旅先は午前7時。 
    ドリアン長野は90年代(1996年?)の冬にロサンゼルスとティフアナを旅行したので太平洋標準時の時差は17時間。
     デジタルの置時計も利用したら日付の認識は簡単で安心です。
     下記の腕時計の画像を見て「四時間異なる。」と考えるか「16時間異なる状態に適合させてる。」と思うかは人それぞれです。
    無論、日本時間と現地時間の区分けの為に色分けも重要になってきます。
    旅行代理店の従業員から「単純な時計を二個利用して下さい。」と言われ実行し成果があったので感謝してます。

     政府ばかりか緯度も大きく異なりますが経度は大差が無い、米国
    ・カリフォルニア州のロサンゼルス、メキシコ・バハ・カリフォルニア州のティフアナ、そしてカナダ・ブリティッシュコロンビア州のバンクーバーの三つの町は同一の時間軸である太平洋夏時間ないしは太平洋標準時(冬時間)を採用してます。
     帰国後は時計を日本時間に適合させました。 置時計は電子音を鳴らさない為に箱に電池をテープで張り付けホテルで太平洋夏時間に設定した後に利用して帰国日には電池を抜きました。
    日付変更線並びに犯罪の被害も想定し複数の時計は必須。時の切替を実施する国や地域についての詳細は各自でお調べ下さい。
    カナダ コロンビーブリタニーキ旅行記その1   time-j.net
     紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。

    「世界一忙しい国境」 行き来する人たちの不安

    メキシコ国境の壁 トランプ米大統領は公約守れるか

     交通費について特別に連絡します。
     ニューヨーク旅行記からの抜粋
    ロサンゼルスの地下鉄には改札がない。無賃乗車していたら、たまたま検札に遭い、必死で英語の分からないふりをした。

    当方はお笑いエッセイです。しかし、不正乗車をしたら巨額の罰金刑が課されます。悪い事は言いません。過不足無く料金を支払うか交通費が不明確ならば一日乗車券を購入して安心して公共交通機関を利用するようにしましょう。
    私は平成27年十月にカナダのトランスリンクの一日乗車券を何度も購入した。
     敬具 マーキュリーマーク

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    家族は永遠に 平成24年 長野家

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    長期休暇もない有給休暇もないリーマン・パッカーが、短い休日と高い航空券にもめげず海外を旅したお笑いエッセイ

     自己紹介
    尊敬する人は大山倍達とマザー・テレサとジョン・ライドンと町田康と中村うさぎです。 ピストルズを聴いて人生に目覚め、スマッシング・パンプキンズで人生の悲哀に気づいた野球嫌いのA型の魚座の極真空手を愛するインドア派。 -大阪在住の鳥取県産まれ-


     ~旅支度について~
    パスポートの入手、渡航先の選定、旅先の海外旅行案内書を購入して読んで予習、必要なら電子渡航認証等の申請や観光ビザの所得、外国語の学習、旅費と休暇の捻出、複数存在する旅に必要な商品の購入、外貨の保有、交通費、宿泊費、海外旅行保険の支払い等を
    済ませないとお気楽に海外旅行は行えません。
    敬具 マーキュリーマーク


     僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。 旅も好きだが、旅行記も好きだ。この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。何よりも文章がうまい。奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、一気に読め、感動的でさえある。朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。

    管理人マーキュリーマークからの伝言
    上記は、ドリアン長野が令和二年に投稿した内容です。
    令和六年にドリアン長野は親子でケアンズ旅行。