帰ってきたドリアン長野の海外旅行記

長期休暇もない有給休暇もないリーマン・ パッカーが、短い休日と高い航空券にもめげず、海外を旅したお笑いエッセイ

海外旅行記

      

順不同。 タイランド(バンコク) カンボジア(プノンペン、シェムリアップ等) 
メキシコ (ティフアナ) 英国(ロンドン) インド(デリー、ウェストベンガル等) 
米国(ニューヨーク、ニュージャージー、ミシガンとロサンゼルス
フィリピン (マニラ) 台湾(台北) マレーシア(クアラルンプール等) 
ベトナム(ホーチミン) ネパール(カトマンズ) ミャンマー(ヤンゴン等) 
香港と中国(上海と北京) オーストラリア(ケアンズ

海外旅行記とご連絡2024   コラム 2024

 ドリアン長野の海外旅行記は15か国を旅したお話で私が整理整頓し再発表しました。 外国語ですが挨拶位は学びましょう。 旅行記内の内容ですが出入国の法規制を始め、現状とは異なる部分が存在するので渡航されるなら最新の海外旅行案内書を読んで下さい。 治安が悪い街へ赴くのは危険なので辞めましょう。
 現在、問い合わせは受け付けてません。 海外旅行保険の加入は必須です。
 私はドリアン長野から頼まれ平成19年に終了したgoo簡単ホームページの開設を平成15年に手伝いました。 昨今は複数のブログを利用してます。
平成29年の夏に頻繁な投稿については難しい本音を伝えた所、「無理しなくて良いから。」と返答されました。 今後(令和六年七月以降)は月の初日から14日迄に一度、14日から月末迄に一回は投稿する予定です。
 ドリアン長野が管理人をしてるホームページのみ閲覧されても構いません。
令和になってからドリアン長野は親子でケアンズ旅行を果たされたそうです。

#15

2024-04-07 | 日記
2月25日(土)のつぶやき
2012-02-26 | Weblog
11:23 from gooBlog production
少し変更 平成24年2月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

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少し変更 平成24年2月
2012-02-25 | Weblog
クリックで救える命がある www.dff.jp

最近、iOS5や携帯電話で当ブログを閲覧される人も多いと思われます。冒頭でも紹介しているdffさんのリンクなんですが、ブログバーツから静止画のバナーに切り替えました。冷静になって考えてみると大差は無いのかもしれません。一応、動画による説明があるかないかの部分は大きいかもしれませんけどもね。但し、平成十年代に流行したフラッシュが最近になって少し厳しい状況です。まるで、VHSのような状況です。繰り返すようですが確実にdff.jpさんの紹介が行える選択をさせていただきました。
また、Some ImagesとLinksの文字の色も
ORANGE REDに変更しました。

以上、管理人元(ハジメ)でした。
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2月24日(金)のつぶやき
2012-02-25 | Weblog
09:04 from gooBlog production
8706位 平成24年二月 goo.gl/XRfeL

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8706位 平成24年二月
2012-02-24 | Weblog
過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2012.02.23(木) 539 PV 163 IP 8706 位 / 1686703ブログ
2012.02.22(水) 1013 PV 187 IP 5989 位 / 1686350ブログ
2012.02.21(火) 186 PV 89 IP - 位 / 1685986ブログ
2012.02.20(月) 152 PV 80 IP - 位 / 1685549ブログ
2012.02.19(日) 255 PV 82 IP - 位 / 1685212ブログ
2012.02.18(土) 252 PV 108 IP - 位 / 1684888ブログ
2012.02.17(金) 240 PV 128 IP - 位 / 1684562ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2012.02.12 ~ 2012.02.18 1594 PV 756 IP - 位 / 1684888ブログ
2012.02.05 ~ 2012.02.11 1023 PV 534 IP - 位 / 1682650ブログ
2012.01.29 ~ 2012.02.04 1634 PV 700 IP - 位 / 1680215ブログ
本編の海外旅行記でもなければ(ほとんど中身がない)ブログの運営上の連絡や(リンク先の)ツイートばかりで申し訳ありませんでしたが、ご注目していただきありがとうございました。
以上、管理人元(ハジメ)でした。
余談
平成初期は1980年代末期を兼ねています。言い換えると、1989年は平成元年です。
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2月23日(木)のつぶやき
2012-02-24 | Weblog
10:09 from gooBlog production
5989位 平成24年2月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

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5989位 平成24年2月
2012-02-23 | Weblog
過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2012.02.22(水) 1013 PV 187 IP 5989 位 / 1686350ブログ
2012.02.21(火) 186 PV 89 IP - 位 / 1685986ブログ
2012.02.20(月) 152 PV 80 IP - 位 / 1685549ブログ
2012.02.19(日) 255 PV 82 IP - 位 / 1685212ブログ
2012.02.18(土) 252 PV 108 IP - 位 / 1684888ブログ
2012.02.17(金) 240 PV 128 IP - 位 / 1684562ブログ
2012.02.16(木) 287 PV 130 IP - 位 / 1684257ブログ

本編の海外旅行記でもなければ(ほとんど中身がない)ブログの運営上の連絡や(リンク先の)ツイートばかりで申し訳ありませんでしたが、ご注目していただきありがとうございました。
以上、管理人元(ハジメ)でした。
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2月22日(水)のつぶやき
2012-02-23 | Weblog
12:03 from gooBlog production
インドについてはを追加しました 平成24年2月 goo.gl/d7V44

12:34 from gooBlog production
台湾についてはを追加しました 平成24年2月 goo.gl/vzy6t

12:39 from gooBlog production
フィリピンについてはを追加しました 平成24年2月 goo.gl/dPvnz

13:10 from gooBlog production
チャイナについてはこちらを追加しました 平成24年2月 goo.gl/FwlgC

13:35 from gooBlog production
幾つかの写真 平成24年2月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

14:17 from gooBlog production
マレーシアについてはこちらを追加しました 平成24年2月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

14:25 from gooBlog production
メキシコについてはを追加しました 平成 24年2月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

14:31 from gooBlog production
ミャンマーについてはこちらを追加しました 平成24年2月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

15:42 from Tweet Button
1クリックで1円を無料で募金できます #クリック募金 dff.jp

15:53 from gooBlog production
テンプレート変更 平成24年2月 goo.gl/Y0o6x

15:57 from ユニリーバ ツイッター募金
小さな積み重ねが、大きな力に。ユニリーバ東日本大震災ツイッター募金(無料) bit.ly/fTDNYR #unileverjapan

15:58 from Tweet Button
東日本大震災 復興支援クリック募金|フィアット グループ オートモービルズ ジャパン株式会社 fiat-auto.co.jp/clickdonation/ @FIAT_JPさんから

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テンプレート変更 平成24年2月
2012-02-22 | Weblog
 テンプレート変更。また、幾つか微細な部分で変更しました。来月末にも新たな変更がございます。仕方がありませんでした。来月のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)に皆様、ご期待下さい。以上、管理人元(ハジメ)でした。
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ミャンマーについてはこちらを追加しました 平成24年2月
2012-02-22 | Weblog

ミャンマーについてはこちら

先般、ご承知のように2010年代からミャンマーの国旗は変更されました。当ブログでは、ミャンマーの国旗についてはドリアン長野が旅行していた時期の国旗を採用しました。
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マレーシアについてはこちらを追加しました 平成24年2月
2012-02-22 | Weblog

マレーシアについてはこちら
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メキシコについてはを追加しました 平成 24年2月
2012-02-22 | Weblog

メキシコについてはこちら
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幾つかの写真 平成24年2月
2012-02-22 | Weblog


あわせてこちらもお読み下さい。

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チャイナについてはこちらを追加しました 平成24年2月
2012-02-22 | Weblog


チャイナについてはこちら
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フィリピンについてはを追加しました 平成24年2月
2012-02-22 | Weblog

フィリピンについてはこちら
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台湾についてはを追加しました 平成24年2月
2012-02-22 | Weblog


台湾についてはこちら

インドについてはを追加しました 平成24年2月
2012-02-22 | Weblog

インドについてはこちら
インド旅行記が(一応)閲覧しやすいようにしました。
実際には混在していますがご勘弁下さい。
第一期のインド旅行記(リターンズ)を今年の夏迄発表していきます。お楽しみに。
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2月17日(金)のつぶやき
2012-02-18 | Weblog
11:09 from gooBlog production
ありがとうございます。 2012年二月 goo.gl/UGkO2

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ありがとうございます。 2012年二月
2012-02-17 | Weblog
最近、多くの人に訪問(当ブログの閲覧)していただき誠に感謝します。
過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2012.02.16(木) 287 PV 130 IP - 位 / 1684257ブログ
2012.02.15(水) 225 PV 111 IP - 位 / 1683936ブログ
2012.02.14(火) 253 PV 115 IP - 位 / 1683580ブログ
2012.02.13(月) 208 PV 95 IP - 位 / 1683295ブログ
2012.02.12(日) 129 PV 69 IP - 位 / 1682968ブログ
2012.02.11(土) 135 PV 73 IP - 位 / 1682650ブログ
2012.02.10(金) 115 PV 74 IP - 位 / 1682339ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2012.02.05 ~ 2012.02.11 1023 PV 534 IP - 位 / 1682650ブログ
2012.01.29 ~ 2012.02.04 1634 PV 700 IP - 位 / 1680215ブログ
2012.01.22 ~ 2012.01.28 1535 PV 720 IP - 位 / 1677841ブログ

2月15日と2月16日の両日だけでも241人は閲覧されました。ありがとうございます。新制度にしてどうかと思いましたが悪く無いようです。 以上、管理人元(ハジメ)でした。
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管理人元(ハジメ)からの御連絡 平成24年2月中旬
2012-02-15 | Weblog
 この海外旅行記についてなんですが、ドリアン長野が実際に海外旅行をしてきた記録です。但し、かなりいい加減であるばかりかお笑いエッセイなので脚色を加えている部分も少なくありません。
実質的に海外旅行記につきもののお話の中に支払い方法が分からずに右往左往するお話もございます。
 又、90年代から平成十年代の海外旅行記なんですが一部に80年代の海外旅行記も含まれていますが当方としてはそれは、事実上90年代の旅行記と考えています。
価格等も過去の記録ですので現在の通貨価値とは全く違っていますので参考程度に留めてください。 お気楽に肩の力を抜いてお読み下さい。
 以上、管理人元(ハジメ)でした。
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2月13日(月)のつぶやき
2012-02-14 | Weblog
21:07 from gooBlog production
海外旅行記の定番はUSA旅行記 平成24年2月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

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海外旅行記の定番はUSA旅行記 平成24年2月
2012-02-13 | Weblog



USAについてはこちら
平成24年8月からUSA旅行記(リターンズ)を発表します。


 海外旅行記の定番はUSA旅行記ですね。多くの人がアメリカ旅行記を発表しています。ドリアン長野だと、どういった旅行記になってしまうか?リターンズ以外は現在でも容易に閲覧が行えますが皆様、楽しみに待っていて下さい。

オマケ 例外的にアメリカ旅行記は80年代最後の日から始まります。個人的には事実上、90年代の海外旅行記と考えています。 無論、厳密には80年代旅行記と考えてもいたし方が無いのでしょうか?
以上、管理人元(ハジメ)でした。
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2月1日(水)のつぶやき
2012-02-02 | Weblog
10:01 from Tweet Button
#27 インド編その3 (リターンズ) blog.goo.ne.jp/durian-nagano/… @duriannaganoさんから

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#27 インド編その3 (リターンズ)
2012-02-01 | Weblog
#27 インド編その3

at 2003 11/28 21:37 編集

インドはいうまでもなく暑い。めったやたらと暑い。気温は、少なくとも香港風邪にかかって病院のベッドでうんうんうなっている重病人の体温よりは高いのは間違いない。歩いていると熱風に包まれたようになって息が苦しいし、脳みそが沸騰してくるので難しいことは理解できなくなってくる。そんな炎天下で男はクルターとパージャーマーの上下、腰巻風のドーティーやルンギーといった服装が多いが、女はどこへ行ってもどんな時でもひたすらサリーだ。道路工事や建築現場でも男に混じってサリー姿の女が土の入ったざるを頭の上に載せて運んだり、レンガを積んだり、ツルハシで穴を掘ったりしている。労働するからちょっとTシャツとスパッツに着替えてくる、というわけにはならないのだ。インド初の地下鉄がカルカッタで一部開通したが、地下鉄工事中も機械を導入する資金がないのでサリー姿の女性を含む人夫たちが手作業で労働に従事していたそうだ。他の国からはあの調子では開通するまでに100年はかかると言われていたぐらいである。そのありがたい地下鉄に私も乗ってみることにした。全線1ルピー。電車内は信じられないことに冷房が入っている。冷房ぐらいは当たり前かもしれないが、ここはカルカッタである。天井で回っている三枚羽の扇風機でもおかしくなかったのに。快適。喧噪と灼熱地獄の地上とは別世界だ。その地上へと昇っていくエスカレーターの前では男の子の手を握ったお父さんが必死になっていた。小さい頃、初めてエスカレーターに乗ろうとした時を誰もが覚えているだろう。動くステップに一歩を踏み出すのはなかなか難しいんである。お父さんが恐る恐る足を出す。タイミングが合わなくてつんのめりそうになる。もう一度足を出そうとするが、次々とせり出してくるステップが恐くて躊躇する。その横では奥さんが「あなた、がんばって」という顔つきで見守っている。そのうしろでは大勢のインド人が「落ち着けよ、あせるなんじゃないぞ。それっ、今だ」というような面持ちで真剣にお父さんを見つめている。小さな子供ならいざしらず、大の男が必死になっているのが笑える。インド人にとっては初めての経験だもんなあ。それはインド人のしつこさに辟易していた私にとって、今思い出しても頬のあたりが「むふふ」とゆるんでくる唯一の光景だった。
 終点で降り、カーリーガート寺院内にあるマザー・テレサの施設「死を待つ人の家」に行く。友人から言付かった医薬品をシスターに渡し、布に包まれた遺体をみんなで運んだ。帰りにカルカッタのメイン・ストリート、チョーロンギー通りを歩く。ここは世界一の人口過密都市と呼ばれるカルカッタにおいてもさらに人の行き来が激しい。夜になると明かりが少ないので、気をつけてないと人とぶつかるのはもちろん、往来に寝ている乞食を踏んづけてしまうこともある。その日もスリに注意しながら歩いていたのだが、いきなり、という感じで通りのまん中に10歳くらいの少年が寝ているのを見つけた。通行人はその少年をじろじろ眺めたり、一瞥しながら通り過ぎて行く。少年には両腕がなかった。上着を着ておらず、本来なら腕の付け根がある場所に赤黒いケロイドの皮膚が少し盛り上がっていた。少年は怒りも恥ずかしさも悲しみも感じさせない無表情な眼でただ空を見ていた。彼は一日中そうやって寝ているのだろう。しばらく見ていたが、彼にパイサやルピーを投げ与える者はいなかった。日本に帰ってから知ったのだが、本当に貧しい親は子供を不具にしてしまうそうだ。そうすれば子供は物乞いとして生きていくことができる。その少年がそうなのかは分からないが、私はやり切れない気分だった。
 人間はどんな環境においても順応していける動物だと私は思う。単純に貧しいから不幸だとか、豊かだから幸福だとかを言うことはできない。先進国にも苦しんで自ら命を断つ人はもちろんたくさんいるし、後進国から先進国の人間を見て、自分にはとてもじゃないがあんな生活はできないと思うこともあるだろう。幸福感というのは主観的なものなので、インド人が皆不幸であると思い込むことは先進国の人間が皆幸福であると思うのと同じくらい愚かなことだ。確かにインドは限り無く貧しいし、不衛生で識字率も低い。障害者も多いし、今もカーストやサティーやダウリー(注)という文化が存在している。悲惨だと言う人もいるだろう。しかし、同カースト内では相互扶助的に生活しているという例もあるし、サティーに至っては自ら進んで殉死する寡婦もいる。まるで藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」だ。それはパラダイムの見直しであり、「人権」というタームでは火の中に身を投じる寡婦を止めることはできない。我々の文化で彼らの文化を計ることはできないし、かといって全ての文化は等価だと言うこともできない。けれど少なくとももし、今度生まれ変わるとしたらインドと日本とどちらがいいかとインド人に聞いたら、ほとんどが日本だと答えるんじゃないか(今の私だったら必ずしもそうだとは思わない。その時代のその国に生まれて後天的に形成された言葉をも含む共通の価値観はそう簡単には越えられないからだ。日本人がアメリカに生まれたい、と思うこととは違う)。私はインド滞在中、ずっとそんなことばかり考えていた、っていうか考えられずにはいられなかった。それほどまでに当時の私にとって、インドはカルチャー・ショックだった。(つづく)
注 サティー 夫に先立たれた妻が夫の遺体と共に生きながら火葬される習慣。法律では禁止されたが、なく なったわけではない。
  ダウリー 花嫁の父から花婿に贈られる財産や持参金。ダウリーが少ないために姑に嫁が殺されたり、親の負担を案じて自殺した姉妹もいる。なお、カーストはポルトガル語、ダウリーは英語から来ており、それらを表わす言葉自体インド語には存在しない。

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 内容が内容だけに幾つか存在しています。インド国内は日本国内と同様に北海道の気候と沖縄県の気候が全く違うように極寒のヒマラヤに近い北部の標高が高い山々と赤道に近接しているスリランカに近い南部とは全く気候が違います。どちらかと言うと、今回はインドでも熱い町のカルカッタの海外旅行記です。
 平成十年代のインドでは、エスカレーターに不慣れな大人がいたようです。 地下鉄が出来たのはそれだけ街の経済発展の証拠です。日本でも地下鉄の建設が行われた昭和の時代には手堀が行われていたそうです。
 自分の手で歯磨きも食事も行えなくなった10歳のとてもかわいそうな少年には再生医療が必要であるばかりか彼の両親には制裁が必要です。日本人の両親は一生懸命になって仕事をしている。無論、専業主婦の奥さんもおられます。日本国内における平成の親御さんは不景気でとても辛い思いをされています。
 幸福論については、各自でお考え下さい。経済発展が継続していてインド企業が鉄鋼の分野で世界一であったり英国の自動車会社を傘下に収めた話もあるにはあるがまだまだ苦労が継続するようです。近隣諸国との戦争が勃発する恐れの噂についても頻繁に見聞きします。日本とインドを比較して何が幸せなのかは、繰り返すようですが各自でお考え下さい。とても難しいです。 スズキ自動車もインドで苦労したから今のインド国内での成功があるんです。
これが、世界の現実かもしれません。観光客向けのお店に行ったりおいしい食事をしたり楽しいスポーツをしたりだけではなく、奉仕活動で海外に行く人もいるんです。
 来月も続きます。お楽しみに。来月のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)にご期待ください。

3月30日(金)のつぶやき
2012-03-31 | Weblog
21:32 from gooBlog production
テンプレート変更 平成24年3月 goo.gl/p6SQF

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テンプレート変更 平成24年3月
2012-03-29 | Weblog
テンプレート変更。 以上です 管理人元(ハジメ)。
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3月20日(火)のつぶやき
2012-03-21 | Weblog
22:56 from gooBlog production
リンク先2点追加 平成24年3月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…
23:05 from Tweet Button
西原理恵子『お墓参り』 amba.to/GB5411
23:08 from Tweet Button
海外旅行の最新情報 地球の歩き方 arukikata.co.jp @news_arukikataさんから
23:09 from Tweet Button
インド 基本情報 概要|地球の歩き方 arukikata.co.jp/country/asia/I… @news_arukikataさんから
23:11 from Tweet Button
1クリックで1円を無料で募金できます #クリック募金 dff.jp
23:12 from Tweet Button
インド#1 成田からデリー国際空港へ 8時間 earth1.biz/kaigai/india/i…
23:13 from Tweet Button
ニューヨークハットとの出会い(N.Y.を旅して、前編) chink-blog.jugem.jp/?eid=9ビジネスを兼ねたニューヨーク旅行記を発表されています。
23:14 from Tweet Button
ニューヨークハットとの出会い(N.Y.を旅して、後編) chink-blog.jugem.jp/?eid=10観光を兼ねたビジネス旅行記を発表されておられます。以上、管理人元(ハジメ)でした。
23:19 from Tweet Button
勃発!?ふるさと納税争奪戦! yukyu.seesaa.net/article/258880… 林考信さんに伝言。今回は特別に紹介しますが来月からはSSBSの更新のみ紹介のツイートをさせていただきます。管理人 元(ハジメ)
23:39 from gooBlog production
最近、円安と言われていますがそれでも$1は80年代では考えられない¥90を下回っていますね。 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…
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NY旅行記 (特別編) 平成24年3月
2012-03-20 | Weblog
#33 NYタイムズ・スクエア編

at 2004 01/09 00:47 編集

1989年12月31日午後10時。タイムズ・スクエア。気温マイナス2度。ぽつぽつと降っていた雨はついにどしゃ降りになった。歯の根が合わないほど寒い。それでも何千人といる群集は誰一人として帰ろうとはしない。私もたぶん、彼等と同じ気持ちだった。それは2000年へと続くデケイド(10年間)の幕開けを世界一の都市で祝ったという記憶を自分の中に刻みつけておきたいから。彼等は家に帰って言うだろう。「90年の始まりにはあそこにいた。みんなとハッピー・ニュー・イヤーを言ったんだ」。 私は夜の8時から待っているが、12時までは途方もなく長い時間に思えた。混雑を緩和するためにあちこちに「Police Line」と書かれた遮蔽板が置かれている。警官の目を盗んで一人の男が、さっと板の下をくぐり抜けて走り去った。近くにいた警官に誰かが叫ぶ。「Shoot him!(射殺しろ)」 周りがどっと笑う。ここでの模様は全米で生中継されるのでテレビカメラにパンされた群集はとにかく騒ぐ。叫ぶ、踊る、手を叩く、こぶしを突き上げる、街角で黒人が1ドルで売っていた紙笛を吹き鳴らす。私といえば、寒さと疲労に耐えながらひたすら待つ。
 11時59分。カウントダウンの斉唱が始まるとSONYの広告の下に取り付けられた電球の塊がゆっくりと降りてくる。下がりきったら1990年だ。ウエルカム・トゥー・ナインティーズ!  
 見知らぬ者同士がハッピー・ニュー・イヤーを言い合い、抱き合う。雨の中、群集がブロードウエイを行進する。この光景はデジャビュだ。どこだったろうと考えていたら、ウオーレン・ビーティ監督、主演、脚本の映画「レッズ」でロシア革命前夜に人々がインターナショナルを歌いながら街を行進する場面だった。今日の夜はニュージャージーに住む友人のアパートに泊めてもらうことになっている。あちこちが通行止めになっているので迂回していると道に迷ってしまった。バス・ターミナルの場所が分からないので雨宿りしながら地図を拡げて見ていると、二人連れの黒人が「どこに行きたいんだ?」と声を掛けてきた。「ポート・オーソリティー・バスターミナル」と答えると、「ついて来いよ」と手招きする。 
 新年に浮かれる人々の喧噪の中、彼等を見失わないようについて行く。20分ほど歩いた。ミッドタウン・ウエストにあるこの24時間運行の巨大なバスターミナルは常に通勤者で賑わっているが、今日の賑わいは特別だ。案内してきた男が言う。「チップをくれ」 1ドル紙幣を出し、渡そうとするが受け取らない。少なすぎたかと思い、「2ドルでは?」と言ってみる。すると、「冗談じゃないぜ。俺たちは長い道を案内してやったんだ。フェアじゃねえ。もっと出せ」とすごんできた。無視して歩き出すと、「聞こえないのか? もっと出せと言ってるだろう」と喚きながらついてくる。「警官を呼ぶぞ」と睨みつけると渋々2ドルを受け取り、やっと退散した。バス乗り場に行くと、また黒人が寄って来て、「どこに行くんだ? チケットは持ってるのか?」と親切(?)にも聞いてきた。彼はチケット売り場まで案内してくれ、言った。「ギミー・ダラー」 ああ、アメリカがチップ社会だというのは本当だ。Money talks in America.(アメリカでは金が物を言う)彼に1ドル渡す。バスを待っていると、日本人女性が二人やって来たので話しかける。二人は姉妹でお姉さんがニュージャージーに住んでいるという。妹が日本から姉に会いに来て、今日はミュージカル観劇の帰りだそうだ。「ブロードウエイのニューイヤーズの騒ぎが恐くて.....」とアメリカに来るのが初めての彼女は気の毒なくらい蒼ざめていた。
 「目的地に来たら知らせてください」と運転手に住所を告げ、座席に座る。バスが出発してからしばらくして奇妙なことに気がついた。奇妙なことといっても、私が日本人だから少しばかりそれを感じるだけのことだ。バスが停留所に着き、乗客が下車する際に、ほとんどの人が他の乗客の方を向き、「ハッピー・ニュー・イヤー」と言ってから降りていくのだ。「これもアメリカだな」私は心の中でつぶやき、自分がアメリカに来たことを初めて実感していた。 

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項

レッズ - goo 映画
レッズ - goo 映画

 参考までに映画レッズについて紹介しました。私は共産主義者でもなければ社会主義者でもありません。念のため。

続きは、今夏発表します。お楽しみに 以上です 管理人元(ハジメ)
皆様にご連絡
平成25年3月17日に追記をしました。理由は、「goo 映画」ですが、2013年3月31日(日)をもって主要コンテンツ(作品情報・映画館・俳優データベース)の提供を終了されるからです。将来的には下記で紹介した映画.comをクリックして確認してください。
レッズ - 映画.com
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リンク先2点追加 平成24年3月
2012-03-20 | Weblog
車中泊ドライブhiro's旅行記
国内外を問わずに旅行記を発表されておられます。



チンクさんはインターネット上で帽子を販売されておられます。

以上です。 管理人 元(ハジメ)
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3月14日(水)のつぶやき
2012-03-15 | Weblog
01:30 from gooBlog production
今月のツイートの時期 平成24年3月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

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今月のツイートの時期 平成24年3月
2012-03-14 | Weblog
今月のツイートの時期についてなんですが、諸事情により少なくとも二十日以降の月末迄に行います。
以上です。管理人元(ハジメ)。
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3月10日(土)のつぶやき
2012-03-11 | Weblog
10:04 from gooBlog production
昨日、微細な部分で変更しました 平成24年3月 goo.gl/ZPMKp

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昨日、微細な部分で変更しました 平成24年3月
2012-03-10 | Weblog
昨日、微細な部分で変更しました。一日遅れでしたが仕方がありません。これからもドリアン長野の海外旅行記を皆様、お楽しみ下さい。それでは、皆様良い週末を。 以上、管理人元(ハジメ)でした。
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3月4日(日)のつぶやき
2012-03-05 | Weblog
18:03 from gooBlog production
訪問者 8164位 平成24年三月三日 goo.gl/s1n5J

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訪問者 8164位 平成24年三月三日
2012-03-04 | Weblog
過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2012.03.03(土) 511 PV 165 IP 8164 位 / 1689791ブログ
2012.03.02(金) 700 PV 155 IP 9772 位 / 1689433ブログ
2012.03.01(木) 455 PV 146 IP - 位 / 1689035ブログ
2012.02.29(水) 270 PV 85 IP - 位 / 1688683ブログ
2012.02.28(火) 236 PV 89 IP - 位 / 1688337ブログ
2012.02.27(月) 305 PV 95 IP - 位 / 1687994ブログ
2012.02.26(日) 336 PV 133 IP - 位 / 1687675ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2012.02.26 ~ 2012.03.03 2813 PV 868 IP - 位 / 1689791ブログ
2012.02.19 ~ 2012.02.25 2700 PV 869 IP - 位 / 1687343ブログ
2012.02.12 ~ 2012.02.18 1594 PV 756 IP - 位 / 1684888ブログ
たくさんの方々に訪問していただき誠に感謝します。 以上、管理人元(ハジメ)でした。
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3月3日(土)のつぶやき
2012-03-04 | Weblog
11:24 from gooBlog production
訪問者数 9772位 平成24年3月二日 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

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訪問者数 9772位 平成24年3月二日
2012-03-03 | Weblog
過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2012.03.02(金) 700 PV 155 IP 9772 位 / 1689433ブログ
2012.03.01(木) 455 PV 146 IP - 位 / 1689035ブログ
2012.02.29(水) 270 PV 85 IP - 位 / 1688683ブログ
2012.02.28(火) 236 PV 89 IP - 位 / 1688337ブログ
2012.02.27(月) 305 PV 95 IP - 位 / 1687994ブログ
2012.02.26(日) 336 PV 133 IP - 位 / 1687675ブログ
2012.02.25(土) 321 PV 142 IP - 位 / 1687343ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2012.02.19 ~ 2012.02.25 2700 PV 869 IP - 位 / 1687343ブログ
2012.02.12 ~ 2012.02.18 1594 PV 756 IP - 位 / 1684888ブログ
2012.02.05 ~ 2012.02.11 1023 PV 534 IP - 位 / 1682650ブログ

三月一日並びに三月二日の二日間で300名を超える閲覧者がおられたばかりかランキングがトップ10000を超えて9722位を獲得するに至りました。ご存知の方も多いでしょうがgooブログはトップ10000を超えた場合には連絡されます。これからもドリアン長野の海外旅行記は継続します。皆様、ありがとうございます。以上、管理人元(ハジメ)でした。
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まとめ投稿不調 平成24年3月
2012-03-02 | Weblog
まとめ投稿が行われなかったので再び同じ様なツイートをしました。時々エラーが発生するから仕方ないです。再設定をしました。皆様、ご勘弁下さい。こちらをお読み下さい。重複した内容を皆様にお伝えすることになりましたが今回はご賛同下さい。以上、元(ハジメ)管理人でした。 別件 ブログですが今月は、調整をしました。当ブログセンター下部ないしはブックマークをクリックしてSome Images and Linksのリターンズの部分に注目してください。
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今月の変更と連絡 平成24年3月
2012-03-01 | Weblog
今月の変更と連絡。

 A.Some Images並びにLinks(リンク集)の色をorangeredからdodgerblueに変更しました。
 B.大変辛く悲しいのですが諸事情により今月、リンク先を見直すことにしました。仕方がありませんでした。甘受して下さい。この一件については今後は関与も質問もしないでください。
 C.バナーリンクのツイートの回数を今月は特別に本日と15日以降にも実施します。

 以上、管理人元(ハジメ)でした。
#28 インド編 その4 (リターンズ)
2012-03-01 | Weblog
 インディア・エアラインでデリーにやって来た。空港から市内行きのバスに乗る。運転手と客のやり取りを聞いていたのだが、ヒンディー語だと思っていたのが英語だと判明するのに30分かかった。ちなみにインド英語の特徴は th をタと発音し、R をはっきりと発音する。だから thirty はターティーとなり、master はマスタルになる。
 その運転手にホテルを紹介してもらい、宿泊した翌朝のこと。起きると下痢と頭痛と悪寒とおまけに脚の関節まで痛い。これは赤痢かコレラか肝炎か。インドの地で客死したら骨はガンジス河にまいてくれ。後は頼む、って私は一人旅なので自分で何とかせんといかんのだ。食欲はないが、喉がやたらと渇くのでメイン・バザールでミックス・ジュースを飲む。路上のジュース・スタンドなのだがこれがものすご~くうまいのであっちこっちで10杯ほど飲み倒す。
 1月の北インドの朝は寒い。栄養不良のせいもあって毎年、路上生活者が凍死するほどだ。それでなくても寒気がするのでセーターを50ルピーで買う。もう値切る気力も残っとらん。それにしてもニューデリー駅前って敗戦直後の日本の焼跡地みたいだ。朝になるとみんなが路上の至る所で商売用か自炊のための火をおこし、わらわらと人や野良犬や野良牛が集まり始め、その人ごみの中をタクシーやリキシャーが縫うようにして通り抜けてゆく。道端では男たちが座り小便をしている(なぜかインドの男たちは座って用を足すのだ)。
 メイン・バザール(バハール・ガンジ)はその駅前にある、安宿や食堂や映画館や雑貨屋等が立ち並ぶ通りだ。今日の夕方にはベナレス行きの列車に乗らなければならないので、駅のクロークに荷物を預けてからうろうろしようと思っていたのだがっ。だっ、駄目だあ~。苦しい。もう一歩も動けん。このままでは死ぐ。ホテルで休ませてもらおうと日本人に人気の「ホテル・パヤール」に行き、「2、3時間やずまぜで~」と息も絶え絶えに頼むと心良く了承してくれた。「だけど一泊分の料金はもらうよ。30ルピー」と付け加えるのを忘れなかったが。 
 屋上の部屋に案内される。隣の部屋の中年の日本人はインド滞在2か月だそうで、パチパチとタイプライターを打っている。屋上のデッキチェアで昼寝をしに来た日本女性三人は「あの人(私のこと)、病気なんだって。私、薬持っていてあげよう」と話をしていた。私はベッドで苦しみながら期待して待っていたのだが、来なかった(おいっ)。
 しばらく横になった後、ホテルを出て駅に行く。預けていた荷物を引き取ろうとすると、クロークのおっちゃんが、「4時15分にならないとここはオープンしないよ」とぬかす。冗談じゃねえ。おれの持ってるチケットは10分発なんだよ。だから開けてくれ、開けろってんだよ。開けろ~っ! 頼む、開けてちょうだい。ね、少しだけだから。開けてくださいまし。開けてくれないと困っちゃう~。開けてったら開けてぇ~。ねえったら、ねえ~ってば~。とすごんだり、すかしたり、傍らのインド人も見かねて加勢してくれるのだが、おっちゃんは「駄目だ」の一点張り。普段は「いいかげん」を絵に描いて額に入れて壁に飾って一人50パイサでお金を取って鑑賞させるほどルーズなインド人がどうしたってんだ。結局、発車時刻を逃してしまった。しかし、インドの列車は10分、20分の遅れは定刻のうちで、平気で4、5時間遅れることはざらにあるとは後で知ったこと。この時も私の乗る列車がまだ到着してなかったことは充分考えられる。とにかくプラットホームに出て、そこら辺の人に次のべナレス行きの時間を聞いてみた。でも8時半だとか11時だとか1時とか人によって言うことが違う。窓口で聞こうにも大勢の人間が殺到していて、下痢と発熱で弱っている私にはそこへ突っ込んで行く気力はもはや残っていなかった。
 「インド、あんたの勝ちや」 私はへなへなとその場にうずくまった。「何でインドなんかに来てしまったんやろ~。もし生きて日本に帰ることができたら、今度はハワイに行くぞお」とわけの分からんことをうわ言のようにつぶやいている私に、「どうしたんだ?」と一人のおっちゃんが声をかけてきた。(つづく)   

 元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
このインド旅行記は周知のように90年代ないしはそれ以前の旅行記です。
 やっぱり言葉の壁は大きいようです。ドリアン長野自身は英会話が行える人物ですがインド英語は難しく感じたようです。
また、日本国内に居住していても普段から納豆やヨーグルトを食べて胃腸を健康に保つようにするべきだと思います。アレルギー性胃炎という恐ろしい病気も存在します。
 インド北部の寒い地域で下痢で苦しんだとしたらもしかするとノロウイルスかもしれませんね。文面から考えるに公の場でノロウイルスが拡散されている恐れがあります。
ミックスジュースですがバリューローソンで1リットル¥105でおいしいミックスジュースが販売されているので私はそれを買いたいですね。
 インドは、日本と同じ様に北部と南部で気候が全く違います。インド北部と言えば極寒で有名なヒマラヤ山脈が有名です。ヒマラヤ山脈が有名だから東北と北海道を除外した日本国内の多くの町で店舗展開をしているスポーツ用品店のヒマラヤが命名されたと思います。岐阜を始め47都道府県中30以上の町で出店していたら日本国内で有名と言っても言い過ぎではないでしょう。実際には31の町でヒマラヤさんは営業されている(平成24年1月現在)。
インド南部と言えばスリランカよりの南部パンバン島が有名でとても暑い町であるのは想像に難くありません。
 インド人は公表している時刻表については守らないようですが、日本人の場合は時刻表を守ります。一方で日本人はかけ声倒れが好きというか提案だけで実行(今回は人助け)しない人も多くいます。
来月、一人の男性がドリアン長野を助けるかどうかはご期待下さい。実はすでに発表されていますけどもね。
来月のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)にご期待ください。
4月28日(土)のつぶやき
2012-04-29 | Weblog
23:46 from Twitpic
長野菜々花 twitpic.com/9es8jv

23:46 from Twitpic
長野菜々花 twitpic.com/9es8tu

23:47 from Twitpic
長野菜々花 twitpic.com/9es92v

23:48 from gooBlog production
ドリアン長野の娘 長野菜々花 前編 平成24年4月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

23:49 from gooBlog production
ドリアン長野の娘 長野菜々花 後編 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

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ドリアン長野の娘 長野菜々花 後編 平成24年四月
2012-04-28 | Weblog

ドリアン長野の娘 後編 長野菜々花 後編


岡町ワード、御堂筋線梅田駅、岡町駅構内で写真撮影してきました。
以上です。管理人元(ハジメ)。
4月26日(木)のつぶやき
2012-04-27 | Weblog
05:56 from gooBlog production
長野菜々花 第一弾 平成24年4月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

18:15 RT from web [ 1 RT ]
gooフォトチャンネルで写真を発表しようとしたらエラーが発生。しかも、二回連続。こういうのは少し困る。やり直したから複数の素晴らしい娘さんの写真が発表出来て良かったがなぜか気が晴れないような。
(980hajime0000197さんのツイート)

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ドリアン長野の娘 長野菜々花 前編 平成24年4月
2012-04-25 | Weblog



ドリアン長野の娘 長野菜々花 前編 平成24年4月

ドリアン長野の娘の写真です。
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4月23日(月)のつぶやき
2012-04-24 | Weblog
02:30 from Tweet Button
ドリアン長野家は岡町ワードに赴かれた 平成24年四月(クリックして写真を確認してください) blog.goo.ne.jp/durian-nagano/… @duriannaganoさんから twitpic.com/photos/duriann…duriannagano

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4月22日(日)のつぶやき
2012-04-23 | Weblog
01:19 from Twitpic
平成24年四月21日 岡町ワード 長野家族 twitpic.com/9cgl2b

01:25 from Twitpic
平成24年4月21日 長野菜々花 大阪 twitpic.com/9cgnyh

23:24 from gooBlog production
ドリアン長野家は岡町ワードに赴かれた 平成24年四月 blog.goo.ne.jp/durian-nagano/…

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ドリアン長野家は岡町ワードに赴かれた 平成24年四月
2012-04-22 | Weblog

写真ですが、左から
奥様、ドリアン長野、娘、余目姉妹
昨夜、ドリアン長野家は、岡町ワードで開催された余目姉妹のコンサートに参加されました。その時、元(ハジメ)は写真撮影をしてきました。無理もありませんが、独身時代と違って海外旅行よりも家族を優先する生活に変わったようです。私は生命保険に加入するように推奨しました。本当に加入しているようで良かったです。暖かい家庭を継続して築き上げるのが何よりの幸せです。
以上です。元(ハジメ)
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4月18日(水)のつぶやき
2012-04-19 | Weblog
01:06 RT from web (Re: @takanobu12345) [ 1 RT ]
@takanobu12345 子供がいる以上は扶養責任がある。但し、給食の品質に問題があればお弁当代ないしは親御さんが調理してお弁当を渡さないといけないと思います。それが、親の責任です。将来的に自分が老人になったら誰が助けて介護をするのか?
(980hajime0000197さんのツイート)

01:07 RT from web (Re: @takanobu12345) [ 1 RT ]
@takanobu12345 確認しました。どうもありがとうございました。
(980hajime0000197さんのツイート)

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4月17日(火)のつぶやき
2012-04-18 | Weblog
01:15 RT from web [ 1 RT ]
仮定であって違うとは思うが前年度に刺激が強い決断を下したかもしれない。だけど、誰も困らないし別にどうってことは無いと思う。他の人に依頼したら良いと思う。先月も含めてだが過去よりも今月の発表は多い。老婆心ながらつぶやくが来月の広告はしていないのが相変わらずだけど。(内輪ネタ)
(980hajime0000197さんのツイート)

01:15 RT from web (Re: @takanobu12345) [ 1 RT ]
@takanobu12345 どうもです。質問なんですが孝信フォトブログと人生にはバルケッタの両者をドリアン長野の海外旅行記でも紹介しますので相互リンクしませんか?
(980hajime0000197さんのツイート)

01:42 RT from web (Re: @takanobu12345) [ 1 RT ]
@takanobu12345 テキストリンクというかブックマークをしておきました。blog.goo.ne.jp/durian-nagano バナー集はこちらです。blog.goo.ne.jp/durian-nagano/… ドリアン長野の顔写真を見たら過去に会ったのを思い出されますか?
(980hajime0000197さんのツイート)

01:43 RT from web (Re: @980hajime000197) [ 1 RT ]
@980hajime000197 了解です。ぜひお願いします。バナー等はありますか?ちなみに自分の所は作ってませんので、テキストでけっこうです。
(林 孝信さんのツイート)

01:43 RT from web (Re: @980hajime000197) [ 1 RT ]
@980hajime000197 失礼ながらフォローバックをしていませんでした。フォローしましたのでよろしくお願いします。
(林 孝信さんのツイート)

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4月16日(月)のつぶやき
2012-04-17 | Weblog
14:16 RT from web [ 1 RT ]
ドリアン長野の海外旅行記ですが、link.style-100.com/html/11_07.html で相互リンクされました。皆様もご確認下さい。
(980hajime0000197さんのツイート)

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4月15日(日)のつぶやき
2012-04-16 | Weblog
18:27 from gooBlog production
本日、リンク先を追加しました 平成24年四月 goo.gl/G1LMe

18:31 from Tweet Button
西原理恵子『祈ってきました』 amba.to/HKZewT

18:32 from Tweet Button
インド 基本情報 概要|地球の歩き方 arukikata.co.jp/country/asia/I… @news_arukikataさんから

18:34 from Tweet Button
1クリックで1円を無料で募金できます #クリック募金 dff.jp

18:36 from gooBlog production
SEIKOの電波目覚まし時計 1バーツはおよそ¥2.7 誕生日にこれをもらう人もいるか? 平成24年四月 goo.gl/kY26q

18:44 RT from web [ 1 RT ]
厳密に考えれば何でもそうだが過去の思い出話を語る書籍を過去にたくさん読んだ経験があるがそういったブログを管理していると少し複雑な思いがする。まぁ半ば構造的に新作が作れないからかな?
(980hajime0000197さんのツイート)

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本日、リンク先を追加しました 平成24年四月
2012-04-15 | Weblog
本日、リンク先を追加しました 平成24年四月

相互リンク∞(インフィニティ)


何かの連絡があればコチラでも受け付けます。
以上です。 管理人元(ハジメ)

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SEIKOの電波目覚まし時計 1バーツはおよそ¥2.7 誕生日にこれをもらう人もいるか? 平成24年四月
2012-04-15 | Weblog

SEIKOの電波目覚まし時計が私の地元のお店でタイと違って安価に販売されてます。旅行に行く際に小型の時計を持ち歩かれる人も居られます。皆様、間違えてもホテルの時計を持ち帰らないようにしましょうね。理由はコチラをクリック。話は変わるが旧来型の時計は単純に時刻が分かって目覚まし機能がついているだけでしたが平成になってデジタル化され温度も湿度も分かるばかりか話題の電波時計になって性能が向上してますね。以上、管理人元(ハジメ)でした。
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4月7日(土)のつぶやき
2012-04-08 | Weblog
23:33 RT from web
本日、佳作が含まれたある雑誌を購入しました。内容は良いから推薦したいがファン同士の内輪もめが多いから、ドリアン長野にも伝えたがある決断を下すに至った。仕方がありませんでした。外敵であれば多少は考慮しましたがねぇ。
(980hajime0000197さんのツイート)

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4月2日(月)のつぶやき
2012-04-03 | Weblog
09:56 from gooBlog production
#29 インド編その5 (リターンズ) goo.gl/rZZtF

#29 インド編その5 (リターンズ)
2012-04-02 | Weblog
 2003 12/12 22:38
 事情を話すとおっちゃんは「べナレス行きの列車は今日はもうないから、チケットをキャンセルすればお金が戻ってくる」と言う。おっちゃんに連れられて案内所に行って聞いてみると「国際外国事務局」なる所で明日払い戻しをしてくれるそうだ。やれやれ、とにかく戻ってきたお金で新しくチケットを買い直そう。おっちゃんは「ついてこい」と手招きをする。この時点でも私はこのおっちゃんを信用していたわけではない。だが、今にも倒れそうな状態であれこれ詮索するのも面倒だったので、大人しくついていくことにした。
 駅から5分ほど歩いた場所に旅行会社のオフィスがあり、おっちゃんはそこに入っていく。ここの社員らしい。オフィスで少し休憩してから、リキシャーでおっちゃんの紹介してくれた「ホテル・アトランタ」に行く。ゲストハウスではなく中級ホテルだが、一泊80ルピーと、そう高くはない。おっちゃんは従業員と少し話しをすると帰っていった。部屋に案内してくれた従業員の兄ちゃんに「私は病気である。だから大変苦しい」と言うと、その兄ちゃんは驚いていろいろと世話をしてくれたのだが、その世話が半端じゃなかったんだよ。毛布を持ってくるわ、食べ物を運んできて食べさせてくれるわ、医者を呼んでくれるわ、薬を飲む時間になると水まで持ってきて飲ませてくれた。彼は夜勤なので明日、自分の代わりに私の世話をする人まで頼んでくれた。うっうっうっ。インドでこんなにも人に親切にされるなんてえぇぇ~。私は彼に何度もお礼を言い、やがて眠りに落ちるデリーの夜8時なのであった。
 翌朝は6時に起床。下痢はまだ続いていたが、熱は少し下がったようだ。8時半にべナレス行きの列車が出ると聞いていたので、急いでチェックアウトをする。駅で窓口に割り込んでくるインド人たちと死闘を演じたあげく、やっと二等寝台車のチケットが取れた(100ルピー)。ホテルに戻り、フロントで昨夜の彼に渡してくれと、迷ったが10ルピー差し出した。せめてもの感謝のつもりだったが、あれから10年以上立つ今でもふと思う。あの10ルピーは彼の手に渡ったのだろうか? やっぱり、渡っていないような気がするな。
 駅で昨夜のおっちゃんに出会った。おっちゃんは「いいか、事務局でチケットを見せれば大丈夫だからな」と言って、風を巻くように去って行った。うっ、かっちょいい。私にはおっちゃんの後ろ姿が高倉健に見えた。そして警戒心のせいで無愛想にしたことを激しく後悔した。親切で話しかけてくる人とそうでない人を見分けるのはとても難しい。今日でも構内をうろうろしていると、いろんな人が話しかけてきて教えてくれたのだ。それでもいい人だと思って気を許せば、騙されることもしばしばだ。結局、旅行者は騙されてボられながら旅を続けていくしかない。絶対ボられまいと肩ひじ張った旅は面白くないし、旅行者は基本的にその国にとって客人だから通行料だと思えば少しくらいボられても腹は立たん(と思えるほどの大人になりたいわっ!)。
 しかし、それからがまた大変だった。事務局で聞くと、8番の窓口に行けと言われる。へい、さいですかと8番に行くと13番に行けと言われる。13番に行けば14番に行けと。ああっ、たらい回しだあ~っ。病み上がりの体でひーひー言いながらうろうろしていると、一人の男がここで聞けと13番と14番の間の小さな窓口を教えてくれた。こうしてやっとの思いで払い戻された大枚188ルピーを握りしめ、いつ出発するとも判然としないインド列車に備えて出発(あくまでも予定)時刻の3時間前からプラットッホームで待機していたのであった。青年は荒野をめざす。いざいかん、聖地ベナレスへ! でもここから18時間かかるんだよな。
 二等列車に乗り込むと、その中はインド世界を凝縮したような騒々しさである。立錐の余地もないほど混み合ってる車輌にヤギを連れ込むやつがいるし、物乞いがお金をせびりに来たかと思えばおひねりをもらいに歌を歌いに来る人もいる。ガキどもは「バクシーシ」と遠慮なしに手を差し出してくる。こいつら絶対、無賃乗車だな。ななめ前に座っていたおじさんが「chinese?」と聞いてきた。それからこのおじさんが喋ること喋ること。よく分からないインド英語で、俺はガス会社に勤めてるとか東京と大阪にペンフレンドがいたとか、延々とまくし立て、それを回りの乗客が興味深そうに見ている。何時間かして、車掌が検札にやって来た。私のチケットを見て、「この車輌じゃありませんよ」と言う。おじさんが降りる駅で一緒にホームに降り、ポーターにチケットを見せた。 「ついてこい」(インドではこの言葉をよく言われるなあ) そう言うとポーターは私のリュックを肩に担ぎホームを走り出した。列車がどれくらい停車しているか分からんが、乗り遅れたらベナレスはおろか日本に帰ることもままならん。私は必死に走った。こんな時でもなぜか走りながら夜空を見上げ、月がきれいだなあ、なんて思っていた。ポーターの指し示した車輌に飛び乗ると同時に列車が動き始めた。お礼にと彼に1ルピーを渡そうとしたら、受け取ろうとしない。誇り高い人だなと思ったら、「パイサはいらない」と言っている。よく見るとそれは1パイサ硬貨だった。あわててポケットから50パイサを3枚つかみ出し、放り投げた。はあーっ。
 疲れ果て、三段寝台の中段にもぐり込み、泥のように寝る。下痢は依然として続いていた。いろんなことがあったような気がするが、インドに来てからまだ4日目なのであった。(つづく)

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 まず始めに今回のインド旅行記を読まれた方々に伝達しますが、この旅行記は90年代かそれ以前の旅行記です。2003年(平成15年)に始めて発表された時点で10年以上前と主張されてます。この旅行記はある意味、アウトレットです。時々、どこかの国の国営放送も大過去の旅行記を放映していますね。それと似たようなものだと考えてお読み下さい。
 インド国内であっても病気で苦しんでいる状態であっても地獄から天国へと行ったようなお話でしたね。親切な人がいるかと思えば全然ダメな人も混在している状況です。法治国家は素晴らしいですね。そればかりか、旅行代理店がそれなりの仕事をしているからここまで大変な個人旅行にならないのかもしれません。
 しかしながら、日本国内においても行き先が不明瞭な駅が多いのが現実です。なかもず駅(地下鉄)というか中百舌鳥駅(南海と泉北高速鉄道を兼ねた駅)がその典型例かもしれません。ご存知の方も多いでしょうが南海と泉北高速鉄道は同じ車両を利用している場合があるから紛らわしいです。平成十年代のある日、中百舌鳥駅で案内をした経験がありました。地方から大阪府に住んでいる息子さんに再会する為にやってこられた親御さんから質問されましたの案内をしました。私はこの時、彼等とは行き先が違っていたので電車の中では話をしませんでした。彼は、その時娘を連れてきていたから親子で大阪に来られていました。
 電車を乗り間違えると怖いですね。千葉県の西船橋駅のように恐ろしい駅がございます。乗り間違えると余裕で30分以上は目的地に到着するのが遅くなります。理由は、電車の本数が少ないからです。しかし、ホーム数が多くて12番ホーム迄存在しているから乗り間違えると試練です。千葉県民の間では有名なお話らしく西船橋駅については爆笑する千葉県民の男性や呆れる千葉県民の女性が居られました。
 日本国内で外国人が電車に乗っているのはよくあることで英語が喋れたら長話になることが多いですね。相手が英語を喋れない場合は片言の現地の言葉で終る場合が私の場合は多いです。喋るよりも書籍を読んでも良いかもしれませんね。 過去の時代だけあって、ペンフレンドがいたというのがインターネットによる技術革新を感じさせますね。今ではe-メール、ツイッター、フェイスブックと変化してきていますね。
 海外旅行に行く時には胃薬、常備薬、(アレルギー性胃炎の為に)抗ヒスタミン剤等を忘れずに持っていった方が無難でしょうね。国内旅行の時もそうかもしれません。日本国内でも広大な住宅街に赴くと恐ろしいですよ。建物が多くあっても助けを求めにくいですからね。
 ご存知の方も多いでしょうが果たして目的地のベナレスにドリアン長野は行けるのか?
 来月のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)にご期待ください。

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#14

2024-04-07 | 日記
8月24日(水)のつぶやき
2011-08-25 | Weblog
18:15 from goo
幾つかブックマークを加えました 2011年8月 #goo_durian-nagano http://t.co/HCKQ2lI
18:23 from Tweet Button
幾つかブックマークを加えました 2011年8月?#goo_durian-nagano http://t.co/7UIOFgL 一件追加しました。
by duriannagano on Twitter
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幾つかブックマークを加えました 2011年8月
2011-08-24 | Weblog
幾つかブックマークを加えました。下記をご覧下さい。 以上です。 
管理人元(ハジメ) 2011年8月


siam.aliciakeys.com
Alicia Keys公式ホームページ


thevines.com
The Vines公式ホームページ


jeffbuckley.com
Jeff Buckley公式ホームページ


linkinpark.com
linkinpark米国版公式ホームページ

英語名人・松本道弘 私塾鉱道館 
日本を率いる国際的なリーダーを育成されているそうです。

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8月23日(火)のつぶやき
2011-08-24 | Weblog
10:28 from web (Re: @takanobu12345)
@takanobu12345 どういたしまして。
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ブックマーク追加 平成23年8月
2011-08-22 | Weblog
ブックマークを追加しました。ツイートも増やしていく予定です。これからも皆様、よろしくお願いします。

http://ameblo.jp/saibararieko/
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8月14日(日)のつぶやき
2011-08-15 | Weblog
23:29 from goo
今月になって過去のデータが発表されていました。 #goo_durian-nagano http://t.co/vdQ5JtX
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こちらとYou Tube 平成23年8月
2011-08-14 | Weblog
 こちらとYou Tube.
 こちらは、ドリアン長野の海外旅行記で私管理人元(ハジメ)が管理しています。一方でドリアン長野のyou tubeがございます。コチラをクリックしていただければ容易に閲覧が行えます。管理人は別人です。 その別人とドリアン長野の複数の知り合いが音楽データや動画をyou tube上で発表されています。アカウントは一つでも複数の人物のデータが発表されているとお考え下さい。最近になって追加された動画や音楽データも多いですが、視聴するかしないかは各自でご決断下さい。
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8月9日(火)のつぶやき
2011-08-10 | Weblog
09:27 from goo
テンプレートを変更しました 平成23年8月 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/2d984d2e0d62176c167f9df9a6ae8559
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テンプレートを変更しました 平成23年8月
2011-08-09 | Weblog
テンプレートを変更しました 平成23年8月 基本的に黒か赤が好きとドリアン長野が発言されていたからそっち方向で変更していきたいと思います。 以上、管理人元(ハジメ)でした。
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8月5日(金)のつぶやき
2011-08-06 | Weblog
01:04 from goo
転職された林孝信さん 平成23年8月 #goo_durian-nagano http://goo.gl/wMcy1
08:30 from web
RT @MotherTeresabot: 世界を征服するために、爆弾や銃を用いることを、やめなければなりません。必要なのは愛と同情の心です。平和は、ほほえみから始まります。
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転職された林孝信さん 平成23年8月
2011-08-05 | Weblog

株式会社Juuraへ
以前、兵庫でコンサートが行われました。ドリアン長野と林孝信さんはその場で色々と話をされました。
今年、林孝信さんは転職され冒頭の職場(株式会社Juura)で勤務されることになりました。ブレーキが良い自動車整備工場業者です。 以上です。 元(ハジメ)管理人
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こちらとフェイスブック 
2011-08-02 | Weblog
 こちら(gooブログとツイッターの両者)とフェイスブックの管理者は別人です。平成十年代の一時期にはドリアン長野はこういった方面(インターネットでの操作等)は不得手でした。従って、私(元)がホームページの立ち上げを助けました。周知のように平成20年代には慣れてきた人々が増えてきました。新作はドリアン長野自身がフェイスブックのアカウントを所得して発表しています。もしも、新作に興味があればそちらを閲覧して下さい。
月に一回の割合でこちらでは1990年代から平成十年代の海外旅行記をこれからも発表していきます。一方で運営上の連絡事項があった場合、同様に発表します。
以上、管理人元(ハジメ)でした。
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#21 北京の床屋(リターンズ)
2011-08-01 | Weblog
NO21 北京の床屋

at 2003 10/17 22:32


 北京に来てから気になっていることがあった。理髪店である。町中のあちこちに理髪店があり、しかも深夜まで営業しており、しかも従業員は若い女性ばかりなのである。若い女性に深夜営業。怪しい、怪しすぎる。他の人間ならいざ知らず、この私の目はごまかせ~んっ! 社会主義国でそんなことがあるのだろうかと不審顔の貴兄に貴女、同じ社会主義国のベトナムでは理髪店と売春が結びついていることは周知の事実である。何でも表向きは普通の理髪店なのだが、希望する人にはスペシャルなサービスを施してくれるらしい。実際、ホーチミンでは北京ほどではないが理髪店がちらほらと目につく。夜、シクロに乗っている時に店内を見たら、いつも何人かの女性が椅子に座って暇を持て余していた。中国よ、お前もか。私は大いに失望した、わけでは全然ないのだが、これは是非調査せずにはおられまい。中華人民共和国の首府、北京よ、農民と労働者の叡智と努力によって共産主義国を建設するという高邁な理念の化けの皮をこの私が引っぺがしてやるわ。うわーはっはっはっ、バカめっ!(はオレだろうな、やっぱり)
 というわけで、故宮の近くに泊まっていた私は夜の11時頃にホテルを出た。う~ん、どの理髪店に行こうか? なるべくなら、きれいな従業員のいる店がいいだろう。もちろんこれはベールに包まれた中国人民の実態を調査するというフィールドワークであり、私には不純な気持ちなど毛頭、爪の先ほども、これっぽっちもないのであるが、どうせならきれいな女性の方がいいだろう、うん。しかし、調査があまり進行しすぎると危険なことになるような気がする。その時は腕に覚えのあるカラテで大声を出して逃げればいいだろう。もし女が中国拳法の名手で無理矢理、組み伏せられたらどうしよう。きれいな体で戻ってこられるかしら。不安だわ。いや、毛沢東も 「崇高な目的達成のためには敵を恐れることなく邁進せよ」 と言っていたではないか。(おい、そこのあんた! どこが崇高やねん! って、つっこんだだろう、今)
  私は決心し、心の中でインターナショナルを歌いながら目星をつけた理髪店へと勇躍乗り込んでいった。(つづく!)
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 チャイナ旅行記のリターンズです。
射撃のように海外でなければ体験が出来ない事柄は多いと思います。 まぁ、あれだバカ丸出しのフザケタ文章なのでお気楽に読んでいただければ幸いです。一応は、お笑いエッセイなので、真剣に読まないようにしてください。 ドリアン長野は平成20年迄に悔い改めています。
一方で、過去から強調しておりますが、ドリアン長野氏の空手の腕は、黒帯だけあって一級品です。
以上、元(ハジメ)でした。

9月27日(火)のつぶやき
2011-09-28 | Weblog
00:47 from goo
2011年 バナー集。 当ブログのショートナーは、goo.gl/mQqo66です。 #goo_durian-nagano http://t.co/7m5xQ5C6
23:47 from Tweet Button
西原理恵子『青山ぽん太ノ介さん』 http://t.co/9HNmdcAE
23:48 from Tweet Button
秩父神社は知知夫神社? http://t.co/CGtytOxp
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9月9日(金)のつぶやき
2011-09-10 | Weblog
09:22 from Tweet Button
フェイスブックページを開設しました。「いいね」にご協力お願いします。 http://t.co/izpnm0q
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9月2日(金)のつぶやき
2011-09-03 | Weblog
23:17 from goo
過去の海外旅行記の紹介が終わるのは平成20年代よりも2010年代になるかな? #goo_durian-nagano http://t.co/LeZyxMA
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9月1日(木)のつぶやき
2011-09-02 | Weblog
08:00 from goo
#22 続 北京の床屋(リターンズ) #goo_durian-nagano http://t.co/YpfQMOt
08:02 from Tweet Button
西原理恵子『今日の勝ち負け。』 http://t.co/VmpDgwZ
08:03 from Tweet Button
ニッサン・マーチ http://t.co/7siY4sH
08:05 from ユニリーバ ツイッター募金
今日もつぶやいて1円募金しました。「東日本大震災ツイッター募金(無料)」はこちら http://t.co/b6lxhPs
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#22 続 北京の床屋(リターンズ)
2011-09-01 | Weblog
NO22 続 北京の床屋

at 2003 10/24 19:39 編集

 <前回のあらすじ>
 中国ってとこは人はやたらと多いし、言葉はあんまし通じないし、列には割り込むし、日本人だとボるし、ひまわりの種はあちこちに散らかすし、おまけに女までが(以下略)
 店内は清潔で明るく、従業員は男が一人、女が三人、そして男の客が一人いた。そのうちのソファーに座っていた女が立ち上がって椅子に座るようにと促した。営業時間を聞いたら、朝の8時から深夜の1時までだそうだ。なぜ一日17時間も営業してるんだ? 人民をそんな長時間も労働させていいのか? ますます怪しい。女はまず私の首に前掛けをし、洗髪台に頭を突っ込むようにと手振りで示した。その通りにすると女はいきなりシャンプーをし始めた。片言の英語ながら、いろいろと話しかけてくる。 (普通の理髪店に見せかけてるな。パチンコ屋が店内で出玉を換金すると賭博と見なされるから外に景品所を設置するように、これは当局を欺くためのカモフラージュに違いない)
 シャンプーが終わると女は聞いてきた。 「マッサージはどう?」 (きたあーっ!) 「フェイス・マッサージもあるし、全身のもあるわよ」 「いっ、いくら?」 「100元(1元は約14円)」(高い) 私は考えこんで顔のマッサージを頼むことにした。顔だけなら安心だろう。 「それじゃあ、こっちへ」 なんと女は店内にある個室へと案内するではないか。ドアを閉め、二人っきりになる。広さは二畳ほどだ。 (やばい) 棚にはいろいろな乳液やらクリームやらが載っている。 (ますますやばい) 私はリクライニングの寝椅子に寝かされた。 (ドキドキ) 女は私の顔にクリームを塗り、マッサージを始めた。それが終わると先端が輪になった金属製の細い棒で顔を突いてきた。(ん?) あ~、気持ちええ。これは毛穴から脂を抜き取るためらしい。さすが中国式マッサージ。お肌がすべすべ。 「次は全身のマッサージしてみない?」 (きた、きた、今度こそきたあーっ!) 「あのお~、それってどんなマッサージ?」 「は?」 「だから、どういった類いのマッサージかな、と」 「言ってる意味が分からないわ」 
 ここでやめたらせっかく潜入した今までの苦労(なのか?)が水の泡だ。私は不本意ながら受けて立つことにした。さあ、殺せ。女は気合いを入れると、脚から腕から背中から、仰向けからうつ伏せにしたりと汗だくになりながら長い時間をかけて体中を揉んだ。サンダル履きで一日中歩いていたので足はまっ黒。女は一瞬ひるんでいた。終わると体力を使い果たしたのだろう、フラフラと奥へ引っ込んでいった。最後に若い男がハサミとバリカンで念入りにカット。ドライヤーをかけ、スプレーで仕上げ。終わった。1時を過ぎているのに年配の客が一人、入ってきた。(なぜ1時に髪を刈りに?)
 料金はマッサージが100元、シャンプーが100元、カットが50元。それを230元まで値切った。今回、多額の調査費を投じて私が得た物は中国式ヘアカットと、北京の床屋は健全な床屋だったという事実だ。諸君、北京に来たら安心して調髪してもらえよ。その前に料金はちゃんと聞いておくように。体はきれいだったが、お金もきれいになくなった。ふっ、私の思い過ごしだったようだな。疑って悪かったぜ。だけど中国人、ぼるなよおおおおお~っ!!(魂の叫び) しかし、中国はこれで終わるほどまだまだ甘くはなかった。(というわけで上海編につづく)
 
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 結論から言うと本人にとっては、期待外れであったのかもしれません。
 平成20年代のチャイナの理髪店の料金は全く知りませんが、この当時の価格だと日本と大差が無いかもしれませんね。日本国内でも安価な理髪店(美容院も含む)と高値の理髪店(同様に美容院も含む)が混在しているから何とも言い難いです。マッサージはいらないにしても、シャンプーとカットでチャイナでは150元で、1元が¥14だから、約¥2100? 最近、流行のシャンプー無しの¥1000カットの店と比べるのは論外かもしれません。それにしても繰り返すようですが金額的には大差が無いかもしれません。 日本の理髪店さんも店舗によっては、チョキチョキと髪の毛を切ってもらっている時に悲しくなる発言をしてしまう人もございますね。他の理髪店でお願いしたくなるキッカケかもしれません。
17時間労働の一件ですが、実際の所、日本国内の理髪店や美容院によっては閉店後、修行の場になっていて結局、一日の労働時間が長時間になっている理髪師や美容師もおられます。
 しかし、行列の横入りは嫌ですね。日本で行ったら、本当にケンカになってしまいます。 
 中国のお話は幾つもあるので今後も楽しみに待ってください。

 オマケ 
 先月に引き続いてチャイナ旅行記のリターンズです。
 これは、真夏の時期ではなくて過去(2010年以前の平成20年代初期のある寒い日)のお話です。ある美容院で防寒着を店内で着用させてくれなかった人物(当時、ある美容院の従業員)がいたので帰宅後、怒りのメールを彼の上司を兼ねた私の知り合いに送信しました。 それなりの返答があった後、不躾な行いをしでかした彼は後に退社した。 店の中では、冷静になって、後に運営している企業等に連絡するとそれなりの結果が得られます。 辛い艱難辛苦を乗り越えて真面目に勤務してやっと給料が得られるが、金の支払先では嫌な思いをせめて、日本国内では体験したくありません。

10月28日(金)のつぶやき
2011-10-29 | Weblog
01:05 from web (Re: @duriannagano)
@duriannagano @980hajime000197 連絡がありましたから返答をしました。もしかしたら、何らかの変更がブログで行われるかもしれません。強調しておきたいのは、こちら側でなくて向こう側が変更しない限りはウチは変更はしないといった点です。
08:46 from web
RT @MotherTeresabot: あなたの目を開いて、その目でしっかり見てください。飢えは、食べ物がないことではありません。今この世界には愛を知らないことの飢え、神のみ言葉への飢えがあります。
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10月19日(水)のつぶやき
2011-10-20 | Weblog
21:57 from web
RT @MotherTeresabot: 新しいテレビを買うはずだったお金を貧しい人たちのために役立てて欲しいと、ある家族はわたしに送ってくれました。一緒に分け合うこと、話し合うこと、笑うこと、愛すること、冗談を言い合うこと。家族のメンバーがそろっているだけで十分で。一緒 ...
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10月2日(日)のつぶやき
2011-10-03 | Weblog
02:48 from Tweet Button
#23 飛んで上海(リターンズ)?#goo_durian-nagano http://t.co/KWHd9XGs
02:49 from Tweet Button
西原理恵子『仙台サイン会』 http://t.co/mncyglqO
02:52 from Tweet Button
ちょっと使いにくけどクセになる、カランダッシュ http://t.co/2BsNFEhH
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#23 飛んで上海(リターンズ)
2011-10-01 | Weblog

#23 飛んで上海

at 2003 10/31 19:02 編集

 出発前から中国だった。関空に着いたら、いきなり飛行機が2時間の延着だ。仕方なく待っていたら今度は変更(って?)ということで更に1時間待ち。中国国際航空に乗るはずだった我々はなぜか中国東方航空機に乗せられ、予定より3時間10分遅れでやっと飛び立った。機内放送ではそのことについては一切触れられることはなかった。やるな、中国。さすが豪放磊落、天衣無縫、質実剛健の中国人だ。少しぐらい遅れたからって、四の五の言うんじゃねえよ、墜落するわけじゃあるめえしよ、という態度に私は好感を持つぞ。いいぞ、中国、等とその時はまだ余裕をかましていられた。
 夜の8時に上海虹橋空港着。飛行機の中で今夜泊まるホテルを決めていたので、予約しようとうろうろしていると、「タクシー?」 と小説家の猪瀬直樹にそっくりの男が寄ってきた。
 「○○ホテルに泊まりたいんだ」と言うと猪瀬は「知ってる」と言う。ああ、いつもならそんな手口には乗らないのだが、なぜか猪瀬の後をのこのこと付いて行き、タクシーに乗った。助手席には別の男が乗り込んできた。アジアではこういう事はよくある。タクシーを私用に使うのは日常茶飯事、勝手に友人や家族を乗せたりするので私は気にも止めなかった。猪瀬の相棒が高級そうなホテルのパンフレットを差し出す。
 「○○ホテルは古くて部屋も狭い」
 案の定、タクシーはパンフレットの高級そうなホテルの前に着いた。 「この野郎~」と思ったが宿泊費を聞くと、そう高くはない。夜も遅いし、この高級そうなホテルに泊まることにした。ボーイに案内されて高級そうな部屋に入ると猪瀬たちも付いてきた。ボーイが出て行くと、猪瀬が両替しないか? と言う。レートを尋ねると銀行と同じなので1万円換金することにした。これで用は済んだと思ったが、極悪人の猪瀬はその後、信じられないことを言ったのだ。
 「ハイウエイ代の100元とタクシー代の100元を払ってくれ」
 てめ~、空港でタクシー代はホテル代込みだと言ったじゃね~か。そう言うと 「サービス込みだと言ったが、料金込みだと言った覚えはない」 とわけの分からんことをぬかしやがる。渋々100元だけは渡したが、あとの100元は絶対に払えんっ! と長い間言い争った。しかし、極悪人猪瀬は諦めない。朝まで言い争っていてもよかったのだが、私は言い争いをしにわざわざ中国までやって来たのではない。観光をしに来たんだ、観光を! 明日も早いのでいいかげんに寝たい。私は負けた。極悪人猪瀬に100元払って追い返した。くっそ~、お金も惜しいが、それ以上に極悪人猪瀬に負けたことが悔しい。気分を変えようと食事をしに外に出たが、レストランも食堂も屋台も何もない。あるのは高級そうなアパートと理髪店だけだ。(ここもかいっ!) どうやらここは上海のはずれのようだ。その夜はローソンでハンバーガーとジュースを買ってホテルに帰る。(何で上海まで来てこんなもん食べとるんやあ~~! 猪瀬~っ、てめえのせいやあ~!!)
 翌日は市街地にある東亜飯店に泊まる。このホテルは上海銀座と呼ばれる南京路に面しており、常にごった返している。夜ともなるとネオンサインがまたたき、地元の人間と観光客とおのぼりさんと物乞いでにぎわう。あ、それと忘れてならないのが繁華街には必須の売春婦とポン引きである。上海ガールもさることながらしつこいのがポン引きだ。もし、あなたが上海に来て東亜飯店に泊まり、夜になって南京路に一歩でも足を踏み出してごらんなせい、びしっとスーツに身を固めた兄ちゃんがすっと近寄り「女はどう?」と聞かれる確率はインドのデリーで観光客がお金をせびられる確率に等しい。さらに歩くと3メートルごとに声をかけられるのは間違いない。南京路を端から端まで歩くと、少なくとも20人からは声をかけられるだろう。(私はここをポン引き通りと命名) バカも~ん、それでも中国か! 全く嘆かわしいわい(by 磯野波平)。私も一人の兄ちゃんにマークされ、しつこく勧められるのでしつこく断るのだが、諦めないので「女は嫌いだ。男がいい」と言うと、「それじゃあ、カフェに行こう。案内するよ」と後ろも見ずにスタスタと歩き出した。バ~カめ、他のカモを探すんだな、と私は反対方向へ歩き始めたのだが、そういえばテレビのバラエティ番組でアグネス・チャンがこんなことを言ってたな。
 「中国で誰かが結婚するとするでしょう。相手が上海人だと親は『とんでもない! やめなさい!』って反対するんですよ。ホント、これホントの話ですよぉ」 こんな十何年前の話を思い起こさせるとはさすが中国三千年の悠久の歴史。 私が親だったら、やっぱり反対するな。(まだつづく)

 
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 チャイナ旅行記のリターンズです。
 大手旅行会社のパッケージツアーであれば円滑に旅行が行えるであろうけども、本当に一匹狼の海外旅行なので怒りのチャイナエクスカージョン(中国小旅行)といった具合です。
 そればかりか、上海と香港の競争意識というものは日本における東京と大阪に匹敵する争いも裏側にあるとは思います。 実は、中国のあの町が悪いといったお話はよく聞くお話なのです。「某Fという町の住民は何を考えているか分からない。」と直に国内在住のチャイニーズに私は教えられました。
 今回も、ある意味、典型的な辛い思いをしてきた海外旅行のお話ですね。中国で中華料理ではなくて、ハンバーガーとジュースというのも辛かったんでしょうね。 テレビ番組の豪華絢爛な海外旅行のお話とは違い、辛く惨めな個人のお話です。

11月19日(土)のつぶやき
2011-11-20 | Weblog
05:17 from gooBlog production
藤子・F・不二雄語録bot 平成23年11月 http://t.co/0grV5HSF
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藤子・F・不二雄語録bot 平成23年11月
2011-11-19 | Weblog
 ブックマークに藤子・F・不二雄語録botを追加しました。すでに発表してはいますが、藤子・F・不二雄の作品についても述べているからです。個人的になんですが、アニメ版の平成20年代のドラえもんは昭和とは違い声優が変更され驚きました。そればかりか、実写版(某大手自動車会社のCM)のジャイアンは本当にシャレにならない人物ですしね。まさか、彼が演じるとは思いませんでした。違った意味で諦めてしまいますね。一般社会であれば「勝手にしてくれ。」といった所ですけどもね。 以上、元(ハジメ)管理人でした。
オマケ 来年の二月のリターンズで藤子・F・不二雄先生をドリアン長野が取り上げたのでブックマークしました。
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11月6日(日)のつぶやき
2011-11-07 | Weblog
16:39 from Tweet Button
西原理恵子『明日、寄席に出ます』 http://t.co/V04aYJNd
16:40 from Tweet Button
これが私の航空祭初体験。百里基地航空祭2010 http://t.co/fGgsvBHj
16:41 from web
RT @MotherTeresabot: 互いに分かち合い、かかわりあい続けること…ミサを共に、聖体拝領を共に、礼拝を共に、ゆるしの秘跡を受けること。これによって人々の苦しみを分かち合い、理解しあうことができるためです。わたしたちは何でも共にします。それがわたしたちの持つ ...
16:41 from web
RT @mas_ooyama: 「特技を磨くとは自分を磨くことだ。自分をみがくとは自信をを磨くことだ」
16:43 from Tweet Button
西原理恵子『明日、寄席に出ます』 http://t.co/V04aYJNd 実際には本日です。管理人 元(ハジメ)
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11月2日(水)のつぶやき
2011-11-03 | Weblog
09:33 from Tweet Button
西原理恵子『お誕生日ケーキ』 http://t.co/yZEBSB6z 西原理恵子先生、ハッピーバースデー。
09:35 from Tweet Button
さすがは日本一。加賀屋さんに圧倒されました http://t.co/6XV6WeVi
09:35 from Tweet Button
#24 飛んで上海 その2(リターンズ) http://t.co/kNwTM9SN
09:36 from web
RT @mas_ooyama: 「貯金した努力には実力の利息がつく。浪費した才能には挫折の債務がつく」
09:36 from web
RT @MotherTeresabot: 私は、私たちの働きをビジネスにしたくはありません。この働きのままにしておきたいのです。神は決して私たちを困らせたりなさらない、という全き信頼を、私はあなた方に持ってほしいと思っています。
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#24 飛んで上海 その2(リターンズ)
2011-11-01 | Weblog
上海の裏通りを歩いていると、かつてはここいらに阿片窟や娼館が立ち並んでいたのかなと感慨深いものがある。租界時代に建てられたオールドホテルの「和平飯店」なんか往事を偲ぶよすがとなるに充分だ。ここにあるオールド・ジャズ・バーでスイング・ジャズに耳を傾けていると魔都と呼ばれ、スパイが暗躍した国際都市上海の在りし日の姿が彷彿としてくる。嗚呼、東洋のマタハリと呼ばれた男装の麗人、川島芳子と李香蘭(実は日本人、山口淑子)との倒錯した怪しいロマンス。「白蘭の歌」「支那の夜」そして「上海の女」に江湖の婦女子は紅涙をしぼるのであった、って私はいくつやね~ん! (と一人でつっこんでます)
 アミューズメント・パークの「大世界(ダスカ)」はレトロ。老朽したビルの中に小部屋がいくつもあり、京劇、奇術、映画館、ディスコ、ゲーセン、似顔絵、お化け屋敷等をやっている。野外ステージでは私が行った時は子供たちが雑技をやっていた。ここの雰囲気は日本の昭和三十年代であり、大阪の新世界界隈に似ている。そういえば、ダスカの作りはフェスティバルゲートにそっくりだ。もしかしたらダスカにコンセプトを合わせて作ったのかもしれない。レトロっていうのは古い感覚と新しい感覚との境界線にできるのだと思うが、その極めつけが街のあちらこちらにあるカフェだ。 
 上海でカフェと呼ばれる喫茶店は上海人にとってのおされな社交場となっているらしい。外装も内装も全然、垢抜けてないのがかえって新鮮だ。私の入ったカフェは席がつい立てで仕切られていて(同伴喫茶?)、ビニールのテーブルクロスの上にアクリル板が敷いてあり(う~ん、レトロっすねえ)、ろうそくが立っている。何だか懐かしい。コーヒーはネスカフェで15元。ソフトドリンクはココナッツジュースしかなくて(しかも缶入り)、20元。日本人は珍しいらしく、店の人たちが話しかけてきたので彼女たちと筆談をした。
 上海を旅した人の本を読んでいたら、上海風呂に入りたくなった。幸い、宿泊しているホテルの裏に「浴徳池」という大きな垢すり風呂がある。さっそく行ってみた。まず、バスタブにつかって、体をあたためる。それからすっぽんぽん状態で大理石の台の上に寝そべり、垢すりをしてもらうのだが、これがくすぐったい。それが終わると個室に案内される。バスタオルを腰に巻いて待っていると、男が二人現われた。一人はマッサージ担当で全身を隈無く揉んでくれる。もう一人は手足の爪を切り、やすりで磨き、角質まで削ってくれた。その間にも別の男が煙草を勧めたり、コーラを持ってきたりと至れり尽せりである。全行程の所要時間は2時間。いい気持ちで受付に行き、請求書を見せられてびっくり! アメリカン・コミックなら目玉が30センチほど飛び出てたね。 二人分で884元!(その時は友人と行ったのだ)
 明細を見ると、爪磨き代はもちろん、コーラ代やおしぼり代までしっかりとつけられていた。そうならそうと、事前に言えよっ! 
 「高い」と思わず言うと、「タカクナイヨ。ニホンジン、ミナハラッテクレルネ」(日本語)と言うのだが、日本人は納得して払ってんのか?
 「もう少し安くならんか?」とねばっていると、従業員が五、六人出てきて無言で圧力をかけてきた。暴力バーならぬ、暴力風呂かいっ、ここは。そんなことだったら、六人の男にチップを計220元もやらんかったらよかったわい。
 「女、いらない?」 帰り道で追い討ちをかけるように、またポン引きが声を掛けてきた。(しかも同じ男) 
 ということで、今回の旅で得た教訓。「インド人と中国人には勝て~~んっ!!」 はいっ、大きな声で皆さんも御一緒にっ! (泣) 

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 先月に続いてチャイナ旅行記のリターンズです。
 この海外旅行記は、平成初期から平成10年代にかけて作成されたので、平成20年代の現在とは違ってきている部分があるのを理解した上でお読みいただければ幸いです。将来的には、この文章も古くなるであろう。
フェスティバルゲートですが平成10年代には営業していて現在は閉鎖されていますが、なんとマルハンが、2013年6月にレジャー施設を建造し開業するそうです。現在は、新規改装の為の準備期間でしょうか?
 スパイや忍者はいつでもどこにでも存在していて単純に有名になったかどうか位のようです。
 上海も含めて、日本人があまり行かない海外の店は案外、良くないお店というか悪評がすでに知れ渡っていたり何らかの情報が広まっていたのかもしれませんね。実際の所、見積もりをせず(ないしは、価格を把握しないまま)お金を支払うようなことがないようにしないといけませんね。ある程度は、普通の海外旅行記を読んだ上で海外の町を探索してもよろしいでしょう。ドリアン長野の場合、半ばぶっつけ本番であったりします。
 そういえば、インドと中国の両国は、10億人以上の人口を抱える国家としても有名ですね。
 
 軽自動車で有名な某S社も、インド進出には今でこそ成功し賞賛されていますが、過去には相当苦労したそうでインド側から追加の投資を求められても拒否をして日本のビジネスのやり方に目覚めさせた過去があったそうです。 そういうこともあってか、日本の民間企業は世界最強とも言われているそうです。実際の所、内容の是非については大別されるかもしれませんが、某T社も自動車の販売台数が世界#1になりましたね。 ご存知のように、販売台数が多くても経営面で厳しく黒字と赤字を短期間で繰り返していたそうですからその辺りでも考える人は多い。評論家によっては、「部品の仕入先を項目別で一本化したのは過失だ。」と主張しています。案外、それなりの待遇で生活をしていると言われている在外邦人が高いお金を海外で支払っているかもしれません。 在外邦人の一部は海外ではリッチでも日本では月並みです。

オマケ
追記 2014年にマルハンがフェスティバルゲートの跡地に日本初の韓流テーマパークを建設されるそうです。 平成25年7月十日

12月24日(土)のつぶやき
2011-12-25 | Weblog
00:12 from gooBlog production
ドリアン長野 Christmas For You http://t.co/Mb3vPMJh
00:14 from gooBlog production
メリークリスマス テンプレート変更 平成23年  http://t.co/LetGbxfF
00:27 from gooBlog production
少し追加 http://t.co/LetGbxfF
00:33 from gooBlog production
メリークリスマス http://t.co/Mb3vPMJh
00:43 from gooBlog production
編集されて面白い部分が欠落していた。 http://t.co/Mb3vPMJh
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ドリアン長野 Christmas For You
2011-12-24 | Weblog
ドリアン長野  クリスマス・フォー・ユー  Christmas For you

1990年代に製作されたと思います。
裏情報(笑)本当はもっと長いが編集されて本来の歌よりも削減されてしまっている。爆笑が行えなくなったから悲しいです。確実なのはフザケタ歌では印税生活は不可能だという現実。良い意味で錯乱している同人音楽の公表を継続して欲しかった。ドリアン長野と編集をした人物は晩婚であったなぁ。そういう訳でメリークリスマス。
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メリークリスマス テンプレート変更 平成23年 
2011-12-24 | Weblog
 メリークリスマス。皆様、楽しいクリスマス会に参加してきましたか? 多忙でそうはいかなかった人も多かったと思います。 テンプレート変更。 又、トップページの記事数を5種類に変更しました。やはり、一種類では少し心もとないかなと考えました。一日に二種類以上の新規投稿が行われた場合を考えると5種類にしても悪く無いかと考えました。以前のようにトップページの記事数が多いとリンク先が分かりにくいですが5種類だと悪く無いし分かりやすいと思いましたので、一種類から5種類に変更する決断を下しました。 以上 元(ハジメ)管理人でした。
 おまけ 恐らく、本日が、今年最後の新規投稿だと思います。皆様、良いお年を。
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ブックマークを幾つか追加並びに御連絡 平成23年12月
2011-12-19 | Weblog
ブックマークを幾つか追加しました。ご確認下さい。(順不同)


http://www.bobdylan.com/

http://radiohead.com/

http://www.robertjohnsonbluesfoundation.org/

http://www.katebush.com/


並びに御連絡 
この一件についてはツイートもしましたが、ツイートの方針を変更するつもりです。日にちを決めて月に一回まとめてツイートをしようかと考えています。
フェイスブック上で紹介されたアーティストの当ブログでのブックマークの追加も今年(2011年)で終了するつもりです。
平成23年12月
以上です。 元(ハジメ)管理人
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#25 インド編その1  (リターンズ)
2011-12-01 | Weblog
人間は二種類に分類される、とは巷間よく言われることである。古典的なものでは猫的人間か犬的人間か、流動型か土着型か、果ては野球に熱中する人間かそうでないか、ドアーズを聴いたことのある人間かそうでないか、その伝でいけばこう言えるかもしれない。この世は二種類の人間しかいない。インドに行ったことのある人間とそうでない人間と。私がインドに行ったのは26歳の時、それが初めての海外旅行だった。――
 なんてね、オレは沢木耕太郎かってえの。このようにインドとなると人はテツガクしてしまうのである。私がインドに旅立った(そんなに大袈裟なもんじゃないけど)のは自分を変えたかったからだ。(まだ若かったんです。すいません) その頃の私は私生活で色々とあって、その打開策を旅に求めたんである。旅に出て、人間をひと回りでかくして日本に戻ってくるぞっ! そのためにはやはりインドだっ! と、かようなことを考えていました。(あの、旅行は一週間だけです。大馬鹿野郎です、私は。生きててすみません)
 といういうわけでエア・インディアで成田を飛び立ち、私は機上の人となった。(まだかっこつけてる) 機内食とサリー姿の太めで愛想の悪いスッチーにうんざりし始めた頃、ようやくカルカッタ(現コルカタ)のダムダム空港(現在はチャンドラ・ボース空港と改名)に着いた。ちなみにダムダムというのは地名である。殺傷力が高く、残酷なので使用を禁止されたダムダム弾はここの造兵廠で製造されたそうだ。
 夜の7時。タラップを降りると、いきなり暑い。じっとしていても汗が吹き出てくる。しかも硝煙というか、焼けたゴムというか、ともかくそんな臭いがする。しかも空港警備員は小銃を持っている。(帰ろう......かな? と少しだけ思いました) 空港ビル内に入ると、国際空港だとは思えないほど薄暗い。空調なんぞはもちろんなく、天井に三枚羽の扇風機がゆったりとハエを追うように回ってるだけ。それにしてもあっちいーな。なんか飲みたい。          
 「Drinking water」と書かれたプレートが目についたので近寄ってみると、そこには公園にあるような噴水式の蛇口(下から口に向かって噴水する、あれね)がぽつんとあった。なにもこんなもんに仰々しくプレートをつけんでも.......。いや、ここはインドだ。水道水が飲めるだけでもありがたいと思わんとな。入国審査と税関を終え、外に出ようとしたが、そこで足がピタリと止まった。なんと外にはインド人たちが押すな押すなと黒山の人だかり(インド人だからホントに黒い)で出てくる人間を待ち構えてるんである。それはなにも私が有名人なのでサインをもらおうとか、インドの地を初めて踏む日本人を熱列歓迎してやろうとかといった気持ちからでは決っしてない。やつらはタクシーやホテルの客引きである。全員が、俺はこの客引きに命を賭けてるんだ。なんてったって、家族の生活がかかってるからな。かあちゃん、待ってろよ。明日もチャパティ-を食わせてやっからな。そらっ! 金持ちの日本人が出てきやがった。今夜のカモはあいつだ。ぜってえ、逃がさねえぜ、なんて顔をしてるのだ。
 ひえ~っ! あいつらの中に出ていくんかいっ! 思わず「ブルース・リー 怒りの鉄拳」でブルース・リーが暴徒と化した群集や拳銃を構えた警官隊に走り出て、飛び蹴りをかますラストシーンが浮かんだね。(おいっ! おもいっきり美化してないか?)
 しかし、ここで回れ右をして帰国してしまっては、末代までの恥だし、航空券が無駄になる。よしっ、待ってろよ、インド人! サムライ魂をみせてやるわあ~っ! と、ここで私は、はたと気づいた。興奮してたんで忘れてたけど、旅行会社で今夜のホテルは予約してたんだ。そのホテルから車が迎えに来てるはずだ。そうだった、そうだった。それならいくら客引きが寄ってこようと恐くはない。私は余裕の表情で空港の外に出た。
 「ナマステ~、インドのみなさん、アイ・ケイム・フロム・ジャパ~ン」 がっ、! 
 「ジャパニ! ジャパニ!」 「タクシー! チープ! チープ!」 「ホテル? カム! カム!」 「グッドプライス!!」 「ベリーチープ!!」 ぎゃあ~! うげえ~っ! 「#$%&♀¥!!」
 うるさいわいっ! 私はフランスに凱旋帰国したトルシエ監督なみにもみくちゃにされた。(トルシエって、確かフランスだったよな。サッカーに無知なので事実誤認があったら許せ、サッカーファン)
 ホテルから迎えに来たらしき人が声をかけてきた。 「エクスキューズ・ミ-、ア-・ユー・ミスター・ナガノ?」 「イエス! イエス! イエース!!」 私はヘビメタのヘッドバンキングのように激しくうなずいた。
 「すみません、ちょっとここで待っててください」 そう言うと迎えの人はどこかへ行ってしまった。間髪を入れず、そこへ別のインド人が現われて、「グレート・イースタン・ホテル(今晩予約していたホテル)なら、こっちだ」と先に立って案内する。思わずふらふらとついていったが、途中で何か変だなと立ち止まった。すると、さっきの迎えの人が追いかけてきて、「ノー! ノー!」と私を連れ戻したのだった。あぶねえっ、ちっとも油断がならねえな、インド人!! (つづく)

 元(はじめ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 改めて、日本はとりあえず法治国家なのかと思えてしまいますね。実際には、そうでもない時もあります。本当にインド人に私は日本からやってきたと発言したから、インド人にだまされそうになったみたいです。
 平成十年代に日本代表のサッカーチームを指揮していたトルシエ氏は、平成22年にテレビコマーシャルに出演されたから健在ぶりをアピールしていましたから、人々の記憶に新しいと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港 空港名は現在、変更されているそうです。 人によっては、旧名を発言してしまう人もいるかもしれませんね。 
 インド旅行は、基本的に暑いといったお話を耳にします。今回もそういった内容です。一方でインドでも北部や標高の高い山間部(世界で最も標高が高い地域のヒマラヤ山脈等)はとても寒いです。日本国内でも沖縄県と北海道では全く天候が違います。それと、同様ですね。
 今回の海外旅行記のインド第3の都市コルカタは、どちらかというと北インドの影響が強い地域でインド東部(西ベンガル州)の海に面している暑い町のようです。国の天候に限っては、町によって変わってくるから決め付けるのではなくて、国内の複数の町において、暑い・寒いが混在しているといった考えを持たないといけないと考える所存です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/西ベンガル州 過去に複雑な出来事があったから東部であっても西ベンガル州になったそうです。言い換えると、東側のベンガル州は現在のバングラデッシュになっています。インド東部であっても西ベンガル州で正しいと認識するのが求められています。1905年には東ベンガルは存在していた。後に戦乱の影響で現在のバングラデシュになりました。
 皆様、来年もお願いします。来年のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)にご期待ください。
 オマケ 年末に新シリーズを始めるのは、陰陽か? 始めであり、終わりであるか?

1月28日(土)のつぶやき
2012-01-29 | Weblog
10:39 from gooBlog production [ 1 RT ]
珍しくトップ一万に食い込みました 平成24年1月27日 goo.gl/WgGF0

10:41 from gooBlog production [ 1 RT ]
少し、追記 goo.gl/V7SMm

by duriannagano on Twitter
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珍しくトップ一万に食い込みました 平成24年1月27日
2012-01-28 | Weblog

2012.01.27(金) 333 PV 159 IP 9305 位 / 1677454ブログ

珍しくトップ一万に食い込みました。
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1月25日(水)のつぶやき
2012-01-26 | Weblog
02:49 from gooBlog production [ 1 RT ]
ブックマーク 二件追加 平成24年1月 goo.gl/ewsws

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ブックマーク 3件追加 平成24年1月
2012-01-25 | Weblog

椎名誠先生は、現在、二つのホームページで活躍されています。
http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/ 椎名誠旅する文学館


http://blog.excite.co.jp/koushien/ 椎名誠の麺の甲子園ブログ


当ブログ内で椎名誠先生についてはこちらで発表しています。

さくらプロダクション


今回は、特別な連絡です。 以上、元(ハジメ)管理人でした。
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1月20日(金)のつぶやき
2012-01-21 | Weblog
15:00 RT from web (Re: @duriannagano)
@duriannagano 一日早ければツイートで今月紹介していたブログがあったが来月半ば以降にツイートします。それと、企業のブログと個人のブログは別物と考えたから今年からはこんな感じでやっていきます。
(980hajime0000197さんのツイート)

15:12 RT from web
【まとめ書いた】泣いた!これは映画化してもいいレベル。・゜・(ノД`)・゜・。 →:ゲーセンで出会った不思議な子の話:不思議.net blog.livedoor.jp/worldfusigi/ar…
(不思議.netさんのツイート)

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1月8日(日)のつぶやき
2012-01-09 | Weblog
23:11 from gooBlog production
幾つか御連絡とフォトの発表 平成24年1月 http://t.co/W1ZZMNQy
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1月4日(水)のつぶやき
2012-01-05 | Weblog
00:20 from web
gooブログのテンプレートを変更しました。 http://t.co/A2kb87AD
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1月3日(火)のつぶやき
2012-01-04 | Weblog
09:44 from web
RT @johnlydon_bot: 「"ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン"の場合にしたって、ただ『王室が悪い!国民の大半が食うや食わずの生活してるのに自分達だけはあんな莫大な私有財産を持ちやがって!』と批判するのが最終目的じゃない」
09:48 from Tweet Button
故梶原一騎氏の実弟・真樹日佐夫氏が死去/リング/デイリースポーツonline http://t.co/pxno4yNC @Daily_Onlineさんから ご冥福を祈ります。元(ハジメ)管理人
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1月1日(日)のつぶやき
2012-01-02 | Weblog
17:24 from gooBlog production
#26 インド編その2 (リターンズ) http://t.co/9xx3Mcan
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#26 インド編その2 (リターンズ)
2012-01-01 | Weblog
#26 インド編その2

 「グレート・イースタンホテル」の大理石のバスタブにつかりながら私は考えていた。 
 「カルカッタくんだりまでやって来て、こうやって高級ホテルの風呂にのうのうと入っている場合か。インド8億の民衆の生活を知るためには、やっぱり安くて汚いゲストハウスに泊まって貧しさを肌で感じなければ。民草の中に入っていくのだ。カースト反対! ガンジー万歳!」
 お前は民青かっ! と思わず突っ込みを入れたくなるほどの勘違い野郎だ。あえてゲストハウスに泊まる理由があるとすれば、お金を倹約したいとか、居心地がいいとか、貧乏の疑似体験をしてみたい等であって、民衆の生活なんぞ分かるはずもない。 「それはお前の自己満足やろが~っ!」と今の私なら当時の私に回し蹴りをかますところだ。
 とにもかくにも翌朝、私はサダル・ストリートに行こうとホテルを出た。インドの中でも最も汚いといわれるカルカッタ。そのカルカッタで最も汚いといわれるのがサダル・ストリートだ。ってことは宇宙で一番汚い場所だ。その界隈にはありとあらゆる病原菌が生息しているという。そこに安宿が密集しているのだ。白人バックパッカーに道を尋ねながら歩いていると、老婆やら子供を抱いたお母さんやらが「バクシーシ(おめぐみを)」と右手を差し出してくるのだが、ギョッとなることもしばしば。指がニ本か三本欠けている。五本ともない人も。ハンセン病だ。あきらかに顔が変型している人もいた。ううっと重苦しい気分になって先を急ぐ。
 バックパッカーの間ではその名を知らぬ者はおらず、小説にまでになった「ホテル・パラゴン」に泊まろうと思い、リキシャーワーラー(人力車のようにうしろに人を乗せ、自転車でこいでゆく乗り物がリキシャーであり、それをこぐ人)に場所を聞く。すると横にいた客引きの兄ちゃんに「パラゴンは満室だ。俺の知ってるホテルに案内してやる」と紹介されたのが「キャピタル・ゲストハウス」(一泊60ルピー。当時のレートで1ルピー≒12円とお考えになれば大体の目安となるでしょう)だった。実は、客引きがそこは満室だと嘘をついて自分と契約をしたホテルに連れていき、キックバックを得るのはよくあることだったが、当時の私には知る由もなかった。
 生まれて始めて泊まったゲストハウス、キャピタルは冷房なし、トイレとシャワー(水)付き、ベッドのシーツは少なくとも一か月は換えた形跡なしであったが、別に不自由は感じなかった。もう1ランク下がると、トイレとシャワー(水)共同、シーツは少なくとも半年間は換えた形跡なし(南京虫付き)になる。
 宇宙で一番汚いサダルは小便横丁という表現がピッタリくる。あっちこっちがぬかるんでいて、あっちこっちにウンコが落ちている。サダルにいるのはビンボー旅行者と物売りと乞食と詐欺師と泥棒と野良犬だ。乞食とそうでない人の境界はきわめて曖昧で、排水溝で体を洗っている人もいれば、道端で寝ている人もたくさんいる。この通りにいれば、いろんな人にやたらと声をかけられる。
 「ジャパニ、○リファ○いらないか? ○シ○は?」 「マネー・チェンジしないか? レートがいいぞ、フレンド」「パージャーマー買わないか? 安くしとく。フレンド・プライスだ」 「マイ・フレンド、お土産にサリーはどうだ?」
 おいっ、会ったばかりで名前も知らんのにフレンドたあ、どういう了見でえっ。そう、インドでは友だちになるのに時間は必要ないのだ。友だちができないと悩んでる君、インドに行って、友だちをつくろう! 友だちに国境は関係ないのさっ。さあ、君も今すぐレッツ・ゴー・トゥー・インディア!
 「ハロー、ジャパニ。インドは初めてか? どこから来た? トーキョー? オーサカ? 俺も日本には仕事で行ったことがある。ヤマモトを知ってるか? 俺の親友だ。何、知らないのか。まあいい。ところで俺の知り合いが店をやってるんだが、寄っていかないか? お前はトモダチだから特別に安くしてやるよ。お金持ってないって? ノー・プロブレム。見るだけ。見るだけならノー・マネーだ。オーケー? こっちだ。ついてこい」 
 私もインド滞在中に何回も同じことを言われた(違うのはヤマモトがタナカになったり、ケイコになったりするだけだ)。こうして大阪商人も顔負けの狡猾さでうぶな旅行者を店に引っ張り込み、適性価格の何十倍もの値段をふっかけ、最後にはケツの毛までむしり取ってしまうのだ。ああ、恐ろしや、インド人。
 私の経験では、アジアでの物売りと物乞いのしつこさランキング第一位はやはりインド人だ。断っても無視しても、どこまでもどこまでもどこまでもついてくる(いやな男にナンパされる女の気分か?)。後年、タイやネパールやカンボジアに行った時、物売りや物乞いのあまりの淡白さに「もっと気合い入れて仕事せんか~いっ!」と思っちゃったほどだす。(つづく)

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 インドは、現在(平成23年の時点において)は10億人を越える人口を抱える国家としても有名です。 核兵器を保有しているインド。 将来的にインドは核戦争を戦うのであろうか? 
病気についても深刻な状況です。一説によると多剤性耐性結核菌がインドでは猛威を振るっているとも言われています。単純に日本と違って販売の規制が緩いと言われている抗生物質の使いすぎだけではなくて、治療の仕方に問題がある患者が多いからだそうです。日本でも治療の途中で放棄をする患者が多くいるそうです。不況の影響で、8割程直った元重病人ないしは重傷だった患者が医療費を踏み倒す為に病院から逃亡する事例は少なくないと言われています。 こういった行動は治療費の踏み倒しだけが問題ではなくて、病原菌を拡散させる行為なので辞めていただきたいのが本音です。 
 国内産業の保護につながるか否かは不明ですが、スズキ自動車がインドでの商売で成果をあげているようです。インド人が理不尽な要求をしてきた時には否定を躊躇しなかったのが成功した要因だったようです。実際の所、日本国内の工場との競争がございます。従って会社内の海外工場とはそういったやり取りが必ず発生します。昨今のような状況ですと日本の工場からだけではなくて将来的にはインド製の自動車も日本国内で一般的に販売される可能性は否定が行えません。
 今までは単純なお笑いエッセイでしたが、インド編については全く笑えないお話が幾つも平成十年代に発表されました。そして、2010年代になって再発表しています。 
確かに是非は大別されるかもしれませんがカレーライスの原材料の香辛料ばかりかアパレル商品もインド製が増加して日本で販売されるようになってきました。
こういった海外旅行記を読むことで日本の長所を再認識された人々も多いと考えます。
 平成20年代になって幾分、経済が良くなったかもしれないインドですが、恐ろしいお話については、来月のリターンズでお伝えします。

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#13

2024-04-07 | 日記
2月23日(水)のつぶやき
2011-02-24 | Weblog
01:59 from goo
相互リンクが行われました  #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/5d22210f4abe67a9e09291e543b9e0ee
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2月17日(木)のつぶやき
2011-02-18 | Weblog
13:47 from goo
AZさんのメキシカンピラフ #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/fc2425497e13893a56e9d345e74910dd
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2月16日(水)のつぶやき
2011-02-17 | Weblog
20:56 from goo
Some Imagesにカフェアンドバーアミューズメントゾーンの地図を追加 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/e3dacaa9ce3fe6a5e16b8d9f5d1a9b56
21:49 from goo
カフェアンドバーアミューズメントゾーンの外観と店内 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/2252fbd832e3553df7c658f0f796607b
22:15 from Tweet Button
カフェアンドバーアミューズメントゾーン #photoch #goo_durian-nagano http://t.co/wVc91gh
初めて、フォトチャンネルを使ってみました。 少し、緊張したが何とか成功して安堵しています。
22:16 from web
http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/2252fbd832e3553df7c658f0f796607b
をクリックしてみて確認してみてください。
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2月14日(月)のつぶやき
2011-02-15 | Weblog
17:01 from goo
CAFE&BAR AZ 大阪市浪速区日本橋5-4-22 TEL&FAX 06-6633-7013 #goo_durian-nagano http://bit.ly/gn83kh
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1月31日(月)のつぶやき
2011-02-01 | Weblog
00:34 from goo
Some Imagesの説明追加 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/d37d1db7f2786735b1949994f32149ba
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#14 カオサンの大晦日(リターンズ)
2011-02-01 | Weblog
 カオサン通りでのニューイヤーズ・イブは一体どうなっておるのだ、という素朴な疑問を抱いた私はその実態を解明すべく、2001年12月30日と31日にカオサンに宿をとった。泊まったのは通りの中ほどにある「カオサン・パレス・ホテル」だ。あるガイドブックにも書いてあるようにサービスは良くない、っていうかレセプションの人間はやる気が全くないぞ。思わずここは中国の旅社かと思っちゃったぜい。ツインしかなく、おまけにエアコンは壊れていて530バーツもした。唯一の取り柄はNHK放送が受信できるってことぐらいだろう。   
 その日はバンラ-プ市場とパトゥ-ナムをうろついた。タイ人にとって正月はタイ暦の4月だし、中国系タイ人にとっても正月は2月ぐらいだから街は普段と変わらない。しかし、だ。7時頃に行ってみるとマーブンクロンの前には特設ステージが出来て、歌謡ショーとファッション・ショーのようなものをやってるし、ワールド・トレード・センター前のラチャーダムリ通りはホコ天になっていてすごい人だかりだ。こりゃあ、何かあると踏んだ私は鼻息も荒くカオサンに戻ったね。お祭り好きの私はじっとなんかしてらんねえよ、江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ。今日は特別な日だからってんで、奮発してコンビニでケーキを買って(といっても28バーツだよ、べらんめえ)、ホテルに帰ったと思いねえ。シャワーを浴びて、WTCで買ったヤイコのテープを聴いてじっと待ったさ。格闘家が試合前に音楽を聴いて精神を昂揚させるのと同じだな。そういえば日本でも大阪城ホールでヤイコのカウントダウン・コンサートが始まってる頃だ。とにかく気力、体力ともに充分だっ! 11時になると私は鼻の穴を通常より3センチばかり拡げて、フガフガとホテルを出た。
 最近のカオサンは渋谷化状態していて、タマ大の学生や地元のバンコクっ子が大挙して遊びに来てるよーだ。これもデカプリオ主演の「ザ・ビーチ」のおかげか? とにかく尋常じゃない人だかりだ。私は表通りや裏通りをうろうろしてカウント・ダウンを待った。私の泊まっているホテルの前にはオープン・レストランがあって、テーブルが道路の半分を占領している。必然的にそこが一番、混雑率が高くなるってわけだ。地元の人間やら旅行者やらがくんずほぐれつ、盛り上がっている。
 こら~っ、ビールをかけるんじゃないっ! わしは野村監督かいっ!(野球が嫌いなので去年はどこが優勝したのかも知りません)耳のそばでラッパをプープー鳴らすなっ! 人ゴミの中で踊るな~! 喧噪の中でもみくちゃにされるうちに何が何だかわからなくなってきた。ふんがぁ~。私はタイムズ・スクエアやトラファルガー・スクエアでも年越しをしたことがあるが、てめえらみたいな脳天気なやつらは初めてだっ! 白人どもっ、たかが新年になるだけなのに何でそんなに興奮するのだあ! そのうちレストランから流れてくる「オアシス」に合わせて白人どもが大合唱を始めた。薄れてゆく意識の中で私は思った。2000年に欧米人が連帯できる音楽って、やっぱりオアシスなのね。らぶあんどぴいす.....。「VSゲストハウス」の連中はこの時間、やっぱり新年を祝って一発キメてるんだろうか.....。ヤイコのコンサートのアンコールは何だったんだろう.....。「グレース・ホテル」のアラブ人たちは盛り上がってんだろうか? あっ、イスラム教は陰暦かぁ.....。いろいろと世話になったな、タイ人。お前たちのこと好きだけどな、最後に言わせてくれ、「マイ・サイ・パクチ~.......」(注) 
 しっかりしろ、おれっ! 目を覚ませっ! これじゃあいかんと思い、ホテルに帰ろうとしたが、ベルリンの壁より分厚い人壁に阻まれ、目と鼻の先にあるのに帰るに帰れんじゃないかっ! みなさ~ん、よいこは早くおうちに帰って寝ましょう~って、結局やつらは4時まで騒いでたぞっ、バカヤロ~!!(爆死) 
  
注 「パクチー(コリアンダー)を入れないでね」
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 平成10年代の海外旅行記です。 平成20年代のプロ野球界の野村監督と言えば、本当に二名以上いますね。 イーグルスか、カープかについては、ご想像にお任せいたします。 そういえば、野村克也監督は鳥のチームを率いていた時には、強かった。2010年代にNPBの現場の監督としては復帰はしない見込みです。
 カープ出身の、後者(野村謙二郎)はこれからどうなるのであろうか?
 今回の海外旅行記で伝えられている去年とは、2000年(平成12年)であれば、いわゆるON対決(ホークスの王監督とジャイアンツの長嶋監督)でした。2001年はスワローズ対今は無き大阪近鉄バファローズの対決でした。
大阪近鉄バファローズが、最後に4回目のリーグ優勝を果たしたのは、2001年でした。
 タイランドへ遊びに行ったが結果的に、人ごみで苦しんだお話しのようです。本人自身があらかじめ覚悟をしていたがやはり、苦しんだといった内容です。
 人によっては、こういったお話しを確認されてから、どこに行くかを考慮されるかもしれませんね。 
中途半端な宿よりも、暑いタイランドであっても安心して過ごせるようなホテルの選択が必要なんでしょうね。 
 やはり、注目すべきは外国によっては習慣が違う人々を尊重し休む時期が異なっている場合があるようですね。 日本の場合は、基本的には一種類ですからね。 こういった点を考慮して海外旅行をしないといけないかもしれません。
 二月の時期に大晦日の話というのに抵抗があるかもしれませんが、ある意味、再放送のようなものですのでご勘弁ください。 昨今、再放送は多いですね。
 来月のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)にご期待ください。

タイランド旅行記についてはコチラをクリック

3月21日(月)のつぶやき
2011-03-22 | Weblog
11:46 from web
マザーテレサをフォローしました。
11:51 from web
幾つかフォローを加えました。
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幾つかフォローを加えました 平成23年春分の日
2011-03-21 | Weblog
ツイッター上で幾つかフォローを加えました。 以上、元でした。
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3月16日(水)のつぶやき
2011-03-17 | Weblog
09:59 from goo
事前承認制と返答 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/1a7edd140df29a113858938f3d605de5
09:59 from goo
ブログに限ってのお話ですからツイッター上とは無関係です。念のため #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/1a7edd140df29a113858938f3d605de5
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事前承認制と返答 平成23年3月
2011-03-16 | Weblog
このブログではコメントについては事前承認制を導入しています。今回のコメントの内容の是非は問いませんが重複した内容のコメントは今後は控えて下さい。 

以上元(ハジメ)でした。
追伸
繰り返しになるようですが、先日返答があり、ドリアン長野はインフルエンザが治癒し元気になったようです。
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3月12日(土)のつぶやき
2011-03-13 | Weblog
10:47 from goo
お悔やみ申し上げます 平成23年3月 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/bec75e4a51bd56522c0b100be32fa181
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お悔やみ申し上げます 平成23年3月
2011-03-12 | Weblog
枝野官房長官、死者1千人「大幅に超える状況」(読売新聞) - goo ニュース
多くの死亡者に言葉が見つかりません。 お悔やみ申し上げます。
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3月7日(月)のつぶやき
2011-03-08 | Weblog
23:41 from goo
少々テンプレート変更 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/bf0a307e41648e8fc56d9f2bbca2831f
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少々テンプレート変更
2011-03-07 | Weblog
少々テンプレート変更しました。テンプレート編集の方が通りが良いかもしれませんね。 後日、顔写真だけのフォトチャンネルを作成するつもりです。
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3月6日(日)のつぶやき
2011-03-07 | Weblog
19:05 from web
http://map.goo.ne.jp/blogparts/map.php?from=gooblogparts&MAP=E135.30.33.470N34.39.10.730&ZM=11&id=durian-nagano
AZさんのお店の地図はコチラです。
19:09 from web
大阪市浪速区の日本橋というか恵比寿町駅近辺の店の紹介は数多いですね。
http://map.goo.ne.jp/blogparts/map.php?MAP=E135.30.33.470N34.39.10.730&ZM=10
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3月4日(金)のつぶやき
2011-03-05 | Weblog
00:53 from goo
代休について #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/84c973e8ab30cbf19ff9b0e1b3727da8
00:57 from web
http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/939fd481386c18405a924eb90ee36ca4
00:58 from web
#15 NO15 カンボジア~ (リターンズ)を今月アップしました 元(ハジメ)
01:00 from web
#15 カンボジア~ (リターンズ)
下記もしくは、WEBの部分をクリックしてみてください。
http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/939fd481386c18405a924eb90ee36ca4
01:01 from web
#15 カンボジア~ (リターンズ)については、下記もしくは、WEBの部分をクリックしてみてください。 http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/939fd481386c18405a924eb90ee36ca4
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#15 カンボジア~ (リターンズ)
2011-03-01 | Weblog
「い、いっでぇ~っ!」 
腹痛で目が覚めた。時計を見ると、まだ朝の5時前だ。シェムリアップのホテルでついに下痢に襲われてしまった。原因は分かっている。昨日、アンコール・トムを見物したあと、ホテル近くの屋台に夕飯を食べに行った。そこは広場に立ち並ぶ屋台のうちの一つで、母と娘が切り盛りしていた。昼に食事した時、彼女たちが親切にしてくれたのだ。広場にはゴミ捨て場もあって、ハエを追っ払いながらメシを食うのも難儀だったがな。行ってみると、昼間は汚れた顔をしていた娘が化粧して着飾っている。夜は営業用の顔か? ともかく、フルーツを何種類かミキサーに入れてジュースにしてくれたので、飲んだ。それがいかんかったようだ。しかし、その時点では大したことがなかったので、早朝にホテルをチェックアウトした。「フリーダム」という名のそのホテルはホテルといっても、ゲストハウスに毛が生えた程度だ。モーニング・コールを頼んだはいいが、部屋に入ってみると電話がない。はて、どうすんだ?と思っていたら、翌朝、フロントの人がその時刻に部屋のドアを叩きに来たのであった。このホテルはプノンペンの空港で客引きのにいちゃんに勧められた。バイクの送迎付きで一泊15ドルのはずなのに、二泊で40ドルだとぬかしやがった。(もちろん30ドルにさせたけど)行きは飛行機だったが、帰りの便が満席だったので、スピード・ボート(という名の渡し船)にした。
 ボートは強盗に襲われるので危険なのだそうだが、地元の人や観光客が大勢乗っていてのんびりしたものだ。5時間かけて、プノンペンに着く。ううっ、いかん、小腸及び肛門周辺に緊急事態発令~っ。船着き場からダッシュでホテルにチェックインして、トイレに駆け込む。軟便というよりは水である。ああっ、フラフラする。3時間ほど横になったが、眠れない。今日はゆっくり静養しようと思ったが、せっかくカンボジアまで来て無為に過ごすのはもったいない。なんとか病身を起こし、ピーピーのヘロヘロ状態でホテルを出て、バイク・タクシーをつかまえた。郵便局に行ってハガキを出してから、情報省に行く。ここでパスポートと写真を提出し、書類に必要事項を記入すれば、ジャーナリスト・カードを5ドルで発行してくれるのだ。その間、わずか10分。カオサンあたりで売っているぱっちもん(ニセモンのことです)とはわけが違う。何に使うのかというと、これが大いに役に立つ。日本に帰国する際、税関職員の目につくようにパスポートにはさんでおくのだ。職員がパスポートをめくりながら言う。 「これは何ですか?」 「ジャーナリスト・カードです」 「すると、今回はお仕事で?」 「ええ、まあ、取材でね」 とかなんとか言って楽しむわけだ、これが。(うっ、書いてて涙が.....)ともかくだなっ、それだけをやり終えるとシアヌーク通りにあるコンビニ、「Tokyo store」でパンとジュースとミネラルウオーターを買い、ホテルに戻った。まだ6時前だが、今日の行動は全て終了! ベッドに倒れ込む。
 それから翌朝までベッドとトイレを20往復はした。食欲はないが、脱水症状になるのでこまめに水分を補給する。買っておいたパンにはとうとう手をつけなかった。下痢と寝不足でヨタヨタと空港までたどり着き、なんとかバンコク行きの便に乗ることができた。その日はカオサンのホテルに泊まり、次の日にマニラ経由でやっと帰国した。その間、ず~っとお尻はピーピーさ。その3日後、仕事から帰ると保健所から留守電が入っていた。
 「あなたの乗っていた帰国便の乗客の中からコレラ患者が出ました。追跡調査をしたいので連絡して下さい」ってな!
 げげ~っ! あわてて夕刊を読むと、インド帰りの男性がコレラを発病。インドで食べた乳製品が原因らしい。今年始めてのコレラ患者。という記事が載っていた。その男はラッシーを飲んで感染したに違いない。そういえば、飛行機の中で私の隣に座った男は青い顔をして機内食も食べずに(私も無理して食べたが、残してしまった。機内食を残したのはそれが始めてだ)、頻繁にトイレに行ってたぞ。うぬぬ、まさか、そやつが.......。
 あくる日、保健所に電話して、体にはなにも異常なし、と答えておいた。「お尻がピーピーですう~」などと正直に申告するといろいろと面倒だ。昔、インドから帰った時に懲りてるからな。その日に病院に行って、薬をもらってきた。医者からは「3日以上、下痢が続いたら危険ですよ」とあきれられたけど。薬を飲んだら、お尻は沈静化した。それだけで済んだのならよかったが、私は当時、夜間大学に通っていたのだ。何日間かは薬を飲んでいたのだが、ある日、下痢が再発し講議を休んだ。しかし、その日は期末試験が行なわれていたのだったぁ~っ。知らなかったんだよぉ~。大事な必修科目を落とした私は結局、大学を中退することになってしまったのだ。ううっ、カンボジア~。
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 これは、実話です。 色々とあって、追試もダメになりました。 やはり、虚言を言ってしまった懲罰もあったかもしれない。 こういった日和見が多くの日本人に迷惑をかける可能性だってありますからね。 そういえば、三月と言えば卒業シーズンですね。 二月や三月には激変を体験されてこられた人々も多いに違いありません。
幾つか存在している海外旅行記の中でよく見受けられる内容の中の一つに疾病の問題があります。 国際化社会なので風土病は無くなっているし砂嵐の影響でウイルスが飛散していると言われてもいます。 「アフリカから日本に歩いてやってきたのか、エボラウイルス?」と質問したくなるような事態が愛知県で発生しました。 要するに、2010年に愛知県で研究の為に飼育されていたニホンザルが謎の病気に集団感染して流血して死亡していたのです。 
 他にも、東南アジア方面の商品を日本へ輸入する商売人から聞いたお話ですが、台湾で下痢に襲われてから必ず胃薬を持ち歩くようにするようにしたそうです。 
 是非については、問いませんが日本の大手乳酸菌飲料メーカーがインドに進出しました。 現地(インド)のラッシーが存在は許されていても余り信用されていないからか、それなりに営業面で成果を導き出しているそうです。 まぁ日本でも一般的な商品と少し違う輸入品は、それなりに人気があるのと同様です。例えるならば外車のようなものです。 全く逆に、ラッシーは日本でも人気のある飲み物になっていますね。 

 カンボジアは、平成10年代に変わりました。 平成20年代の昨今では、カンボジア製の靴やアパレル商品は、日本国内においても一般的になってきました。それだけ、経済復興を成し遂げているようです。 来月のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)をお楽しみに。

カンボジア旅行記についてはコチラ

ドリアン長野 顔写真 平成23年昭和の日
2011-04-29 | Weblog
ドリアン長野 顔写真 平成23年昭和の日

こんな感じの人が、90年代から平成十年代の時期に海外旅行してきました。遺影では無い点は強調しておきます。(笑) 但し、事実上、新規のお話は投稿される見込みがなくなっています。
以上、管理人元(ハジメ)でした。
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4月24日(日)のつぶやき
2011-04-25 | Weblog
16:57 from web
「本日でCAFEAZはラストですTT」 http://amba.to/erWru1

この決断は仕方が無かったそうです。
17:01 from goo
本日でAZさんは終了 #goo_durian-nagano http://goo.gl/SqypQ
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4月22日(金)のつぶやき
2011-04-23 | Weblog
00:18 from goo
幾つかのご連絡 平成23年4月 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/0dd71f2ce94df27edf791f49f6050f19
00:18 from goo
幾つかのご連絡 平成23年4月 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/db5123cff61a80695e9fc8de78b3a5f2
00:18 from goo
幾つかのご連絡 平成23年4月 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/814f650ddf02c97e5a185fa467a429b9
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4月18日(月)のつぶやき
2011-04-19 | Weblog
03:42 from goo
カフェアンドバーAZさんで販売されている、ソースカツ丼ダブル 平成23年四月 #goo_durian-nagano http://goo.gl/tO4SJ
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#16 カンボジア~その2 (リターンズ)
2011-04-02 | Weblog
NO16 カンボジア~その2
アンコール・ワットやアンコール・トムにはカメラのフィルムや絵葉書や笛や扇子を売りつける少女がごまんといる。観光客を見つけると、「お兄さん、お兄さん」と雲霞の如く寄ってくるのだ。彼女たちをかきわけ、かきわけ遺跡を見ているうちに、ふと思った。プノンペン市内ではほとんどお金を使うことはなかったが、遺跡を見るためにシェムリアップに来てからは予想外に散財した。まず、プノンペンからシェムリアップ間の航空券が55ドルに、帰りのスピード・ボート代が25ドル。アンコール・ワットに一回入場するたびに20ドル必要だ。あと、バイクタクシーやホテル代も結構使ったし、出国税もいるから、その分だけ所持金から引いてみるとだな........。があ~ん! 今日のホテル代を払ったらすかんぴんやあ~っ! 困ったあ~、どうすんねん、と遺跡の中で一人、頭を抱える私であった。
 ともかくホテルに戻り、リュックをかき回してみると、ベトナム紙幣が5万ドンほど見つかった。すぐに中国人経営の両替商で両替してもらうと、9ドルになった。う~、ありがたや、これでご飯が食べられる。あとは日本円の硬貨をかき集めると2000円ほどになったが、硬貨は両替できない。日本人のツアー客をアンコール・ワットの前で待ち構えて、紙幣に両替してもらおうか等と思案しながらもう一度ホテルに戻ると、フロントで日本人らしき男が二人、話をしている。そう思うやいなや私は一目散に駆け寄り、彼らに話しかけていた。
 「すいません、日本のかたですか?」 「そうですよ」
 事情を話すと、心良く両替してくれた。のみならず、ホテル内にある中華レストランでご飯をおごってくれ、1万円も貸してくれた。いい人やあ~。聞くと、これからバンコクからネパールへ行き、帰国するのは二か月後だそうだ。あとから考えると、二か月もの間、2000円も使えない硬貨を持ち歩くのはさぞかし邪魔だったであろう。川原様、ありがとうございました。おかげで私は生きて日本に帰ることができました。
 さっそく、二日間世話になったバイクタクシーのソーウオッポにガイド料を払う。大金が入って気が大きくなっていたので奮発して20ドル渡した。とたんに彼の顔がだらしなくデヘヘ~となったので、しまった、払い過ぎたなと思った。初日にガイド料を聞いたら、「It depends on you 」(お任せします) と言われていたので少なかったら悪いと思っちゃうんだよな。敵も人の心理をよく心得てるよ。いかん、いかん。せっかくのお金を大事に使わんとな。それからは出費をできる限り押さえた。ずっと頭を洗ってなかったのでシャンプーを買いにコンビニに行った時も、5ドル(!)もしたので30分迷って結局、買うのをやめたくらいだ。(頭がかゆい)
 だけどプノンペン・ポチェントン空港の出国税が20ドルだったのは痛かったぞ。その日はバンコクで一泊し、翌朝ホテルの前でタクシーを拾う。空港まで 350バーツだというので「バーツの持ち合わせがない」と財布の中身を見せた。運ちゃんはその中にあったドル紙幣を目ざとく見つけ、空港で5ドルを両替すればいいと提案し、運賃も300バーツに負けてくれた。空港の銀行で5ドル出すと、両替は最低10ドルからだと言う。仕方なくボロボロの5ドル札をもう一枚差し出すと、古いお札は受け取れん、とぬかす。きしょーめ、ビンボー人だと思ってなめんなよ。今度は1ドル札を5枚取り出すと、それも駄目だと拒絶! ふぎーっ! どないせいっちゅうねんっ!! 結局、最初の5ドルだけ両替してもらった。(なら、最初からそうしろよな)
 ドンムアン空港の出国税は250バーツ(現在は500)。出国審査を終えるともう外国の通貨は必要ない。手持ちのお金を日本円に換金し、この時点で所持金が1000円と9ドルと5・5バーツ。  
 なんとか帰国して自宅にたどり着いた時の所持金は1133円だった。昔、「がっちり買いまショー」というテレビ番組があったが(知ってるか?)、その海外版があったとしたらわしの優勝やあ~っ!
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項

 1990年代から平成10年代の時期には、デジタルカメラが銀塩カメラを駆逐し始めたような時期でした。 何度もお伝えしているように、これらの旅行記が作られたのは、1990年代から平成10年代の時期です。平成10年代後半には、デジタルカメラは一般的になってきていて、2010年代には、カメラ店(家電量販店に切り替った)や現像や焼付けを請け負うお店(自宅内部のプリンターや自動販売機に切り替った)が激減してきましたね。
 国内であれ海外であれ旅行には幾ばくかのお金が必要だから見積もりをしないといけませんね。今回のように外国人観光客相手に政府も事実上の入場料金を徴収しています。
 シャンプーもリンスも最近の日本では、¥100ショップで販売されていますね。
 特筆すべきは、心優しき日本人。 普通、一万円という金額を見ず知らずの他人に貸したりしません。 全く、論外な要求をしていましたね。 最近では、一時期とは違いテレビであっても金満旅行から貧乏旅行で注目を集めている場合がありますね。
インターネットである程度は過去のテレビ番組についても発表される時代になってきましたね。昭和30年代から昭和50年に至って放送されたテレビ番組を知る人は少なくなっているかも?
 これは、お笑いエッセイで無ければ非難されている旅行記であろう。
 何度も書き伝えてますが、為替レート等は当時の状況であって現在の為替レートではありません。念のため。
 そういえば、地味にカンボジア製のアパレル商品や靴が一般的に販売される時代になってきましたね。
来月のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)にご期待ください。

5月2日(月)のつぶやき
2011-05-03 | Weblog
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#17 マニラのスラム (リターンズ) #goo_durian-nagano http://goo.gl/kNrCx
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4月30日(土)のつぶやき
2011-05-01 | Weblog
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ドリアン長野 顔写真 平成23年昭和の日 #goo_durian-nagano http://goo.gl/UBhAd
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#17 マニラのスラム (フィリピン旅行記 リターンズ)
2011-05-01 | Weblog

 夜の9時前にニノイ・アキノ空港に到着。ロビーに出ると熱気、じゃないなこれは、殺気を感じる。なんだか誰かに狙われているような気がして、少しびびる。ホテルを予約して、米軍用のジープを乗り合いバスに改造したジプニーに乗り込んだ。窓から通りを眺めていると、浜 なつ子の「アジア的生活」(講談社文庫)の文章を思い出してきた。
「スラムは特別な地区にあるのではない。メトロ・マニラ(マニラ首都圏)のいたるところにある。例えば、あなたがニノイ・アキノ国際空港を降りてタクシーに乗り、マカティの5ツ星ホテルに泊まり(そこまで気張らなくても安ホテルでも同じなのだが)、日中は車で移動して夜は繁華街で過ごすとなると、「タイやシンガポールほどではないが、フィリピンもずいぶんと経済発展しているんだなあ」と思うだろう。ところが、一歩、メインストリートをはずれて体重を右足でも左足でもいいから、どっちかに傾けて薄暗い路地を折れてみるがいい。
 そこには、ああっ、と驚く光景が広がっている。」 
 
 とそれから浜氏はスラムの様子を描写し、
「しかし、わたしにとってスラムは混沌という名の・楽園″であり、生命力溢れる根元的な場所である。
  (略) ある意味で、最も俗なるところが聖に通じ、最も醜いものが清らかなものに近く、最も単純なものが真実に迫るという逆説を痛感できる、哲学的な場所でもある。」
 
 と続けている。私はこの文章を読むたびに、うひゃひゃと体が弾むような感覚になるのだ。私はスラムが大好きだ。電車に乗っていて、線路沿いにあるスラムを見つけると途中の駅で降りてしまうくらいだ。そんなに好きなら一生スラムに住みついたらどうだ、と言われると困るけどな。
 マニラには観光名所らしき場所はあまりないが、私にはどうしても見ておきたい所があった。東南アジア最大のスラムといわれるスモーキー・マウンテンだ。夢の島のようなゴミの集積所にバラックを建て、人が住み始めた。ゴミが自然醗酵し、煙がたなびいているのでスモーキー・マウンテンと呼ばれるようになった。スモーキー・マウンテンのあるトンド地区には無用な立ち入りは絶対に厳禁、とガイドブックには書いてある。それでもどお~しても行ってみたい。私は覚悟を決めた。海外旅行保険に加入してないのが残念だ。アバト・サントス駅でタクシーを止め、ドライバーに聞いてみる。 「あんたは悪人か、それとも善人か?」 (マニラのタクシー・ドライバーはボる奴が多いからな) 「なぜ、そんなことを聞く? もちろん俺はグッドマンだ」 交渉して、スモーキー・マウンテンをぐるっとひと回り、300ペソで行ってくれることになった。ドライバーのソシモは気のいい人で、運転中もずっとしゃべりっぱなしだ。 「人生で大切なのはお金よりも友だち、神様、家族だと俺は思うね」 「香港に研修で行ったことがあるよ。外国に行ったのはそれっきりだ」 「トンドなんかになぜ行きたいんだ? あんた、ジャーナリストか? トンドで警官がナイフで刺されたことがあるし、タクシーだって石を投げつけられたこともあるんだぜ」等と話を聞いているうちに、車はいつしか迷路のような細い路地に入り込んだ。一見してスラムと知れる、その住民たちが車を取り囲むようにしてじろじろとこちらをねめるように歩いている。ソシモの言葉を思い出して、こちらとしては気が気ではない。やがてマニラ湾沿いの道路に出た。う~ん、と思わず私は目を見張った。なにしろトタン屋根とありあわせの木造で建てられたバラックが何キロにも渡って延々と続いているのだ。それは今まで訪れたアジアのどの国でも見たことがなかった、圧倒的な光景だった。電気は引いているが、水道はないとソシモは言う。
 スモーキー・マウンテンには以前、人が住んでいたが現在は政府によって強制撤去させられて家はない。気が遠くなるほどの広大なただのゴミの山だ。少し行くと、今にも崩れ落ちそうな五階建てくらいのアパートが密集していたので、その前の広場に車を止めてもらう。広場にいる大勢の大人たちや子供たちが何事かとこちらを注視してきた。
 ソシモに「外に出ても大丈夫か?」と聞く。 「ああ、大丈夫だ」 「ここで待っていてくれ」 あたりを窺うようにしてゆっくりと車から出て、一番近くにあったアパートの階段をのぼる。そこで私は自分の目を疑ったね。各部屋のドアはなぜか全てなくて、中がまる見え。室内には所狭しと何人もの人間が住んでいるのだが、住んでいるのは人間だけではなかった。猫や犬に数羽の鶏までもが同居しているのだ。一軒家ならともかく、アパートの一室で人が家畜と暮らしている光景は異様だ。それは、まるで家畜小屋に住人が住まわさせてもらってますって感じなのだ。もしかして、あれはペットなのか? いや、そうではあるまい。スラムの住人にそんな余裕があるはずがない。現金収入を得るため、もしくは自給自足の食料として飼って、いや、同居しているのだろう。上の階まで行きたかったが、住人の眼光が鋭くなり危険を感じたので車まで戻る。
 「一緒にアパートの上まで行ってくれないか?」とソシモに頼むと、「駄目だ。危険だよ」と言う。あとから考えてみると、危険なのは我々だけでなく、もし車を残しておけばその車だってどうなっていたか分からない。仕方なくトンドを離れ、リーサル公園で降ろしてもらった。歩いて駅まで行こうとしたら、一人のフィリピーノに時間を聞かれた。そのままついてきて、歩きながら自己紹介を始めた。年は29歳。父は日本人、母はフィリピン人。何年か前に離婚し、父は香港にいるが母は行方不明。彼には子供が二人いて、ミルクを欲しがっていると何度も言う。ふ~ん、なるほどね。案の定、「セブン・イレブン」で粉ミルクの缶を二つ買わされた。自分のためにお金をくれ、というのならともかく、小さな子供がおなかを空かしているという言葉に断ることができなかった。願わくはだな、あとでその粉ミルクを換金して、お人好しの日本人はちょろいもんだと舌を出さんように願っているぞ。
 その男は粉ミルクを受け取り、ホテルの所在地を尋ねるとお礼のつもりなのか「案内するよ」と歩き出した。おい、ちょっと待ってくれい。わしはLRT(高架鉄道)に乗って帰るからいいんだ。と言ってもそいつは先頭に立ってどんどん歩いて行く。待てっちゅうねん、お願いだ~、頼むから待ってくれ~。ここからホテルのあるエドゥーサ駅まで6キロはあるぞ。 「心配しなくても大丈夫だよ」 いや、だからそういう問題じゃなくてえ。男は黙々と歩く。薄暗い夜道をひたすら歩く。月がきれいだった。一時間歩いてホテルに着く。えっ、本当に着いたのか? 初めは着いたのが信じられんほどだった。リキというその男は妻子のためにお金が欲しいと言う。 「いくら欲しいんだ?」 「200ペソ」 ありがとう、リキ。案内してくれてよっ!私は彼に50ペソ渡した。リキは少し不服そうだが礼を言って帰っていった。また一時間かけて。
 それから私はホテルでイタリア料理を食べた。500ペソほどだった。近くにカジノがあるというので行ってみたが、カラーのないシャツを着用している人は入場できません、と断られた。帰り道でぼろぼろの服を着た6歳くらいの女の子が右手を突き出してきた。小銭を1ペソしか持ってなかったのでそれを渡すと、女の子は無言で首を振った。でも、どうすることもできんのでそのまま帰った。私は人権主義者じゃないけど、つくづく人間は不平等だとその夜は思った。
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 フィリピン旅行記のリターンズです。
 本当に海外旅行記らしい海外旅行記です。やはり、相手の気持ちが読めないから仕事にありつけない労働者のお話がいたり小銭が欲しい女の子がいたりもしましたね。 両者共にほとんど日本では詐欺の扱いになるでしょうね。 日本でも、1990年代から平成10年代にかけて署名の後に寄付金を求めてくる人がいました。 平成20年代になって減ったようには感じます。 しかし、時間を尋ねるのを踏み台にして金を求めるというのは、悪い詐欺師でしたね。 
 スモーキーマウンテンは、平成20年には撤去されているそうです。
 実際に赴くのと想像では違う部分があったと考えないといけないかもしれません。
 メーデー等が存在しているから労働者の立場は守られています。

6月29日(水)のつぶやき
2011-06-30 | Weblog
08:29 from web
しばらくは、ツイートをお休みします。
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6月4日(土)のつぶやき
2011-06-05 | Weblog
17:32 from web
先ほど、劇画王梶原一騎BOTをフォローしました。
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#18 シャオエン (台湾旅行記 リターンズ)
2011-06-01 | Weblog
 1997年5月、日本の首相官邸に当たる総統府の前を歩いていた。日曜日の昼下がり、空は透き通るような快晴だった。赤レンガの荘重な建物の前には警察官と憲兵(機動隊員)が集まって、何だか物々しい雰囲気だ。
 「ん? 何だ? 何だ?」と足を止めて眺めていると、警察官に職務質問されそうになったのであわてて立ち去る。官庁街であるただっ広い道路の交差点にも市民が集まり始めた。その中にはテレビ局の中継車がスタンバっている。向こうの道路からはデモ隊が何かをシュプレヒコールしながら近づいてきた。一体、何が? 中華人民共和国でも攻めてきたのか? 前年には台湾史上初の民間による直接選挙で李登輝が選出された。台湾独立派を恐れる中華人民共和国は大規模の軍事演習を行なったり、台湾海峡にミサイルをぶち込んだりと威嚇を続けていたのだ。
 「何があったんですか?」 近くにいたテレビ局のスタッフらしき人に聞いてみる。
 「テレビ・スターが殺されたんだ」 彼は詳細を説明する英語力がなかったのか、それだけ言うと黙ってしまった。俳優が殺されたぐらいでこんな騒ぎにはならないだろう。警官隊と機動隊が見守る中、デモ隊とそれに呼応した市民が気炎を上げていた。
 その夜は「華西街観光夜市」に行った。長い商店街は地元の人や観光客でごった返し、店の人たち、特に包丁片手にヘビやスッポンの生き血を売るおじさんの口上で賑わっていた。中にはヘビの頭を噛みちぎり、尻尾をくわえて振り回すという猟奇的おじさんもいた。不思議なのは生き血や漢方薬を売る店にはテレビが置いてあって、そのどれもが日本のプロレスを映していたことだ。やっぱり、精力がつくということをプロレスに託して表現したかったんだろうか。しかし、店先に繋がれていたオランウータンはどういうことだ。
 こんなにもヘビ屋やスッポン屋があるのにはわけがある。裏通りに売春街があるからだ。そこに行ってみた。売春宿は外から覗くことができ、ピンクの灯りの下で女性が立っている。その前の道路には怪し気な男たちが列を作って座っていた。
 
 ホテルに戻り、「あっ、そうか、あれは」と気がついた。三週間前に劇画作家の梶原一騎と歌手、女優のパイピンピンの娘が誘拐され、殺害されたのだ。犯人たちはその時点でも逃亡中で、さらに凶悪な事件を繰り返していた。後に5万人もの市民が治安改善のための法律改正や政府官僚の辞任を求めてデモを行ない、内閣は総辞職に追い込まれた。そのデモだったのだ。当時は日本のみならず、世界中にそのニュースが連日のように報道されていた。私はその事件の残虐さを知り、誇張ではなく、犯人たちへの激しい怒りと殺された17歳の少女への思いで胸がつぶされそうになっていた。
 少女の小指を切断し、母親へ送りつけるという行為。食事も与えず五日間に渡って暴行を加え続け、最後には遺体を全裸で排水溝に捨てるという行為。肝臓の五か所が破裂。胸部や腹部等に夥しい量の内出血。死因はロープで首を絞められたための窒息死。
 少女が味わった地獄のような恐怖と苦痛。私には懸命に想像してみることしかできない。そして犯人たちのこと。パイピンピンと犯人たちは経済発展を遂げる以前の貧しい台湾を共に生きた、同世代の人間だった。主犯格三人のうち、二人は警官との銃撃戦中に自殺。あとの一人はなおも逃亡し、南アフリカ大使館武官官邸に立て籠ったが、ついに投降した。パイピンピンはその後、台湾の治安の改善を目指し、ボランティア活動を精力的に行なっている。犯罪のない社会作りを世界にアピールするため、長野オリンピックには聖火リレーに台湾代表として参加した。
 せめて私は自分の命が続く限り、17歳で殺された少女のことを忘れないようにしようと思う。そうすれば彼女は生きる。私たちの記憶の中に彼女は生き続ける。
 
参考文献 「燕よ、空へ」 パイピンピン著 木村光一訳 / ルー出版
 
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 1990年代のお話であっても、平成10年代のお話ではありません。端的には、平成9年五月のお話とお考え下さい。恐らくは、ゴールデンウィーク期間中でしょう。
 長い人生では、旅先で大きな犯罪が発生したり事故が発生するのを目の当たりにある時がございます。 私も、全ての詳細は語りませんが、全く無かった訳ではありませんでした。 唯一の例外としてお伝え出来るのは1990年代初頭に目の前の車が分離帯に乗り上げて横転事故をしたのを連想し、その点だけを伝達が行える位です。
 平成22年12月に兵庫に赴いた時に台湾人観光客数名と軽く英会話をしましたがビビ○ン・スーについて話しながら私鉄に乗ったのを思い出しますね。
台湾人と日本人は良く似ていて一見しただけでは、判別し難いですね。
 今回のお話は1990年代の平成9年のお話ですが、治安の悪化は、2010年代になっても継続している。安全神話は崩壊しています。17歳で殺害されたといえば女子高生が殺害された考えても間違いではありません。しかも、虐殺でした。被害者が有名人であるとか金持ちであるとかではなくて、殺人の無い社会作りが必要なのですが、それには政府がしっかりしてもらわないといけない。万人の人命は平等です。
 多くの親御さんは苦労して子育てをしているし労働に励んでいる。それを無効化するような犯罪者達はどの国であっても否定される。 少なくとも、日本・台湾・南アフリカ共和国の国々で注目を浴びた事件であった。
 思いは大きいが、なぜか上手に伝えられません。 やはり、憤りと悲しみが大きいからでしょうね。 彼女には罪が無かったが殺害された。 彼女の母親が治安改善運動をしているのは、必然です。 
来月のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)にご期待ください。
7月29日(金)のつぶやき
2011-07-30 | Weblog
00:43 from goo
連携は見送りますが、ブックマークはしておきます。 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/9a410883bf8da2d92fe74ec17038b08b
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ドリアン長野 フェイスブックをブックマーク 平成23年7月
2011-07-29 | Weblog
ドリアン長野 フェイスブックをブックマーク 平成23年7月。 新作が発表されるかどうかは微妙ですが、フェイスブックでも何かがこれから先、発表されるかもしれません。
以上、管理人 元(ハジメ)でした。
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7月27日(水)のつぶやき
2011-07-28 | Weblog
01:53 from goo
ラージサイズバナー追加 平成23年7月 #goo_durian-nagano http://goo.gl/z2rEU
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ラージサイズバナー追加 平成23年7月
2011-07-27 | Weblog

ラージサイズバナー追加 平成23年7月
過去と言うか平成20年代は90年代と違って、大型のモニターを使用してインターネットを楽しむ人々も多いのでラージサイズバナーを作成しました。以上 管理人 元(ハジメ)でした。

追記 令和六年四月 
現在(令和六年四月)はラージサイズバナーは利用してません。

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7月23日(土)のつぶやき
2011-07-24 | Weblog
08:37 from Tweet Button
広告表示の仕様変更ならびに利用規約の一部改定について?#goo_staffblog http://t.co/fown2Ss
こちらとしては、余り状況が変わらないかもしれませんが、広告量が増加するかもしれません。以上、管理人 元(ハジメ)でした。
08:39 from web
RT @mas_ooyama: 「道端で靴を踏んだ 肩が触れたら 君たちが頭を下げればいいよ。頭を下げてケンカを売ってくる人はいないよ。もしケンカを売ってきたらのばしてしまえ。何のために空手をやっているんだ。」
08:55 from goo
当面はこのブログを継続していきます。 #goo_durian-nagano http://goo.gl/ClNky
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7月14日(木)のつぶやき
2011-07-15 | Weblog
22:24 from goo
先日、パパになったドリアン長野 平成23年7月 #goo_durian-nagano http://goo.gl/RGG9p
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先日、パパになったドリアン長野 平成23年7月
2011-07-14 | Weblog
先日、ドリアン長野はパパになったそうです。平成10年代に結婚して、なかなか生まれなかった待望の赤ちゃんを授かったそうです。 以上、元(ハジメ)でした。
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7月4日(月)のつぶやき
2011-07-05 | Weblog
12:23 from goo
幾つかブックマークとリンクを追加しました 平成23年7月四日 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/cd753e488e46f275eb356506f166880f
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まりりんまんそんライブインオーサカ(リターンズ 特別編  #19と#20を兼ねてます)
2011-07-01 | Weblog
NO19 まりりんまんそんライブインオーサカ

at 2003 09/26 23:20
まりりんまんそんのコンサートに行ってきました。大阪城ホールのアリーナです。アリーナ席なんて生まれて初めてです。まりちゃんと目があって「あとで楽屋に来いよ」なんて言われたらどうしよう(ドキドキ)。ホール前にはたくさんの屋台が出ていました。フランクフルト屋のおっちゃんが「まりりんまんそんも大好きなフランクフルトやでー」と言うので、思わず「うそやっ!」とつっこむと、「うそやないって。うそやったら、おっちゃんお金返したるわ」とぬかしよります。「何言ってんの、まりちゃんが好きなのは別のフランクフルト.....。」やだわ私ったら、おほほ。会場に近づくと、黒い衣装をまとったかなりイタい若者たちがたむろってます。まるでバンコクの娼婦みたいです。ああ~っ、勘弁してくれ~。俺が悪かった~!(いったい何があったんだ!)
 入場の際にはボディチェックがありました。ストーンズのコンサートでもなかったのに。まりちゃんのファンにはガイキチがたくさんいるからですね、きっと。アメリカでのコンサートは大変だと思います。
 二階席へと向かう客を尻目に地下に降りていきます。なんてたってアリーナですから。しかし私は自分の目を疑いました。これはただの一階席。しかも最後列。ステージからは50メートルは離れています。まりちゃんと目があうなんてことは絶対にありません。なんでやねーん、責任者出てこーい!わしは人生幸朗師匠かーい!と一人でつっこんでいるといきなり大音響です。そうでした、今宵のサポート・バンド(早い話が前座です)は「BUCK-TICK」なんだそうです。私は彼らを聴くのも見るのも初めてですが、ビジュアル系のパンク・バンド(?)という感じです。もういいんでわないかっ。もう充分でわないかっ。と思うほど存分に演奏した彼らはやっと引き上げて行きました。多分、アルコールとドラッグでへろへろになったまりちゃんの体力が続かないので時間稼ぎをしてるんだと思います。ずるいと思います。それからステージではサウンドチェックを入念にし始めました。まりちゃんはなかなか出てきません。おしっこに行って帰ってきてもまだ出てきません。世界中で何百万枚CDを売っているかしらんが、一万人の客を待たすとはいい度胸してんじゃねえか、最近天狗になってんじゃねえか、まりちゃんわ。とドス黒い心がわき上がってきた頃にやっと出てきました。開演から1時間半後のことです。(つづく)
NO20 まりりんまんそんライブインオーサカ完結編

at 2003 10/10 01:23 編集

 まりちゃんは取り憑かれたようにfuckやshitを連発する痴れ者で下品な男です。
「よく来たな、マザーファッカーども」
 イエ~イ!
(うるせー!)
「おまえたちのファッキンな中指を俺にみせてみろ」
 イエ~イ!
(ああっ、下品だ)
ステージでは猥褻な女が二人、猥褻なダンスをしています。観客のみなさんは物のけのように踊り狂っていらっしゃいます。熱狂的なコンサート風景を観て、「まるで宗教のようだ」とおっしゃる人がいますが、音楽と宗教は最も遠い所にあると思います。まりちゃんもそこら辺はよくわきまえていて、エンターテインメントに徹しています。まりちゃんの音楽はエッチな本を読んで興奮しちゃったくらいの意味合いしか持たないと思います。たまに興奮し過ぎて銃を乱射しちゃったりするバカちんもいますが。ロック・ヒーローは教祖だと言う人はディズニーランドは宗教だと言ってるようなものです。私は町田康の「CDを800万枚売ったからといって、社会を変えたということになるんでしょうか?社会を変えたいというより、社会によって自分が変えられたいと思います」という言葉を思い出しました。
 いつしかステージ上にはミッキー・マウスを似せて作った世界一邪悪なレプリカ、ミッキー・マンソンが登場しました。さすが裏ディズニーランドです(私は行ったことがないので何だかざまあみろです)。なんだかんだとアンコールもなしに10時きっかりにコンサートは終わりました。
20時20分 バックステージ
「まりりん、出番10分前だぞ」
「ああ」
「また震えているのか」
「何度経験してもステージに上がる前は緊張するんだ。俺は子供の頃から赤面症で対人恐怖症だからな」
「カリスマを演じるのも大変だな。ところで、ステージで破る聖書はどうするんだい? 」
「今回はいい。ここは日本だからな。それよりも俺の大好物のフランクフルトは用意してあるんだろうな?」
「大丈夫だ。ライブが終わったら浴びるほど食べてくれ」
「よし、いつものように円陣を組もう。メンバーとスタッフを呼んでくれ」
「わかった。みんな集まってくれ!」
「みんな、心の準備はいいだろうな。スティーブン、ミッキー・マンソンのレプリカは修理できてるな」
「もちろん、バッチリだよ。まりりん」
「昨日のフクオカのライブで少し破けちゃったからな。今回はゆっくりめに倒してみてくれ。キリストにミッキー・マウスの次はス○ーピーだな。いや何でもない、 こっちのことだ。ロザンナにケイト、いつも恥ずかしい踊りをさせてすまんな」
「なに言ってんの、まりりん。それは言わない約束でしょ」
「そうだったな。今日の打ち上げは西田辺の『酔虎伝』を10時半から予約してあるから思う存分飲んでくれ。でも12時までだぞ、次の公演に差し障るからな。ようし、  ジェローム、いつものやつをやってくれ」
「オーケー、みんな用意はいいか?それじゃあ、いくぞ!世界で最も偉大なアーテ ィストは?」
「まりりん!!」
「マイケル・ジャクソンよりもCDを売るアーティストは?」
「まりりん!!」
「ブッシュ大統領よりも影響力のあるアーティストは?」
「まりりん!!」
「僕たちはみんなまりりんが」
「大好きさ!!」
「ありがとう、みんな。俺が今日あるのは仲間の支えがあってこそだ。今夜もコンサートの成功を願って祈ろう。みんな、目を閉じてくれ。............我らの音楽を司る神よ、我々の奏でる音によって世界が融合されますように。人類のうちに争いも 餓えもなくなり、人々が穏やかに日々を過ごせますように。天国も地獄もなく、ただ今日という日のために生きていくことができますように。殺すことも死ぬこともなく、平和のうちに暮らしていけますように。想像してごらん、国境も宗教さえもなく......」
「ちょっと、まりりん。それって、ジョン・レノンの『イマジン』じゃないの」
「あっ、そうか。こりゃ一本取られたな。あっはっは」
「いやだわ、まりりんたらっ。あはは」
「まりりん、すっかり緊張がとけたようだな。これで今晩も大成功間違いなしだ。 うあっはっはっは..........」
なわけないですよね。あっ、私は会場で売ってたまりりんTシャツ(3500円)を買いました。さすがにまりりんポスターやマリリン携帯ストラップまでは買いませんでしたが。
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 特別に、前編後編を一本化しました。
今回は国内旅行記というか地元でのライブに行って来た感想文です。 情けない人のライブです。平成十年代だから楽しめたのかもしれません。今となっては、単なる変態ですからね。大衆の飽きは、早いです。 平成20年代にはアルバムが発売されていたようなのは認めるが2010年代は(2011年四月現在)アルバムが発売されていないようです。けど、アーティストが一年間以上アルバムを発売されないのはよくあるお話?
ご本人が、彼のDVDというか映像を見ている時に当時のドリアン長野宅にお邪魔したら、「本物がやってきた。」と言われました。ここが皆さんにとって一番、笑える部分かもしれませんね。もっと、エグイ奴もいますけどもね。
ちなみに、ローリングストーンズのコンサートはクラシックの音楽のように静かに聴く必要があったのは、京セラドーム大阪では楽しむのが難しいからです。
今回に限ってはツイートをするのが恥ずかしいから見送りました。
来月のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)にご期待ください。以上、元(ハジメ)でした。

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#12

2024-04-07 | 日記
ブックマークを一件追加しました
2010-07-27 | Weblog
 ブックマークを一件追加しました。 明川哲也公式ホームページをブックマークしておきました。

 ~ちょっとした裏話~

 ドリアン長野は、彼に憧れを感じていたから、ペンネームもそうしたようです。

 以上、元(ハジメ)管理人でした。
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7月22日
2010-07-22 | Weblog
 タイランドで有名な、7月22日ロータリーへ赴いた件について再来月発表します。 お待ち下さい。
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本日、オリジナルモジュールを追加しました
2010-07-11 | Weblog
顔写真の公表を恒常化しておきました。ZOOM IMAGE.

顔写真(ドリアン長野)をクリックされますと、拡大します。
両者共に平成20年代初頭に撮影しました。




上記の赤いバナーをクリックされてから真ん中の下部を閲覧して下さい。


 ~最近、思ったこと~
 オセアニアや南米等の旅行記もあれば、良いのにと思います。
 大半が、アジア系の国々の海外旅行記で後は、USAとUKとメキシコ(中米)の海外旅行記です。 以上、元(はじめ)管理人でした。 
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昨日、ロンドン(UK)旅行記追加
2010-07-02 | Weblog
 ロンドン旅行記追加。
 昨日、アジア系の国々だけの海外旅行記では無いのを強調するために、ロンドン旅行記を追加しました。 事実上、前編・後編に分かれているが、一応統合しておきました。 従って、当初はリターンズの紹介順で国旗での範疇分けを実施つもりでしたが、順不同になりました。 実際の所、USAとメキシコとUK等を除外すると、アジア系の国々ばかりです。 メキシコに限っては、ごくワズカです。 
 ドリアン長野は期待はずれとまでは言わないし、赴いて良かったようですけども、日本で考えていたのとは趣(おもむき)が違った海外旅行記であったようです。ちなみに英国は世界的にはUKやGBとも略されます。
 後、お伝えしたいことは1994年の英国(イギリス)海外旅行記です。現在は、平成20年代ということもあって、1990年代は随分以前の出来事です。平成20年代には、平成10年代のように1990年代を兼ねた時期は、(平成20年代には)存在していないといった事柄でしょうかね。 言い換えると、確実に10年以上前の出来事です。

ロンドン(UK)はこちら
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#7 テーメーその2 (リターンズ)
2010-07-01 | Weblog

 予算の都合で、いつも泊まる「グレース・ホテル」ではなく、近くにあるソイ1の「ストリート1・ロッジ」に泊まった。それでもツインで550バーツだ。私の感覚では500バーツを超えると立派な高級ホテルだ。しばし、宿泊するかどうか迷う。それでもここはレセプションの兄ちゃんの愛想がいいのでお薦めだ。ホテルに戻ってきた時、「あけましておめでとうございます」と言われた。日本人の宿泊客に教わったらしい。「地球の歩き方」に載っているので日本人が多いらしい。まっ、私もそれを読んで泊まったんだけど。
 ホテルの近くの歩道橋のたもとにゴミ捨て場があるんだけど、その隣にホームレスが座って、物乞いをしてるわけさ。もう、よく見ないとゴミだか人だか分からないって感じ。そこへアラブ人のオジさんが通りがかりに「ライス、ライス」と言いながら、紙袋を置いていった。私はちょっと感動したね。いいことをしてやる、って態度じゃなくて、ごく自然な感じだったもんね。なるほどっ、それがイスラム教のいう、喜捨ってやつだなっ!アラブ人にもいい人はいるんだなとシミジミ.....。言っとくけどな、これって偏見ちゃうぞ。グレースにいるアラブ人を見てると、みんな悪人に見えてくるんじゃ~い。(顔も暑苦しいしな) それが偏見だと言われると返す言葉もないがな。とにかく心暖まる、いい話しだ。うん、うん.....。って、今回はそういう話じゃな~いっ! 性懲りもなく、テーメーネタ第二弾だっ! 全然、心暖まらないぞ。当たり前だがな。
 テーメーに入ると、私は空いている席を探してカウンターに座った。横を見ると、黒ずくめのおばあさんが座っている(注:バンコクでは、その方面の職業婦人の方の服装は黒です)。
 う~ん、この人はまさか.....。いぶかし気に見ていると、彼女が話しかけてきた。 「あんた、どこから来たんだい?」 「日本です」 「日本人かい。それなら、ほら、あそこに座っているスズキはもう何年も前からずっと、ここに通っているよ」 
 我々のななめ後ろのソファーには、何人もの娼婦を侍らせた、スズキと呼ばれた男が座っていた。常連か。スズキ、エイズで死ぬなよ。 
 「あたしはスージーだ」 すっ、すうじい~? 「客はとらないよ。客のくれるチップで生活してるのさ」 なるほど、納得。で、失礼ながらお年を聞いてみたが、「あんた、そんなこと、こんな場所で聞くもんじゃないよ」と一蹴されてしまった。すんまそん。だが、おそらく70代であろう。スージーはテーメーの最長老であり、娼婦からはママと慕われ、頼りにされるボス的存在であった。スージー、あんたに出会えて光栄だ。私は思わず名刺を渡してしまったくらいだ。スージーは顔見知りの白人がやって来ると急いで駆け寄り、話しかけたり、ビールの注文を取ってきたりしていた。酔っぱらって大声でしゃべる客の相手もしていた。スージー、生きていくってのは大変だなぁ。やがて、女の子が隣に座り、笑いかけてきた。  
 「私、クンっていうの。アユタヤから来たの」 すかさずスージーが口を挟む。 「その娘はグッドだよ。ベリー・グッドだ」 あんたは商品の売り込みまですんのか? これ以上、長居しているとむりやり売りつけられそうだったので、そそくさと退散した。それにしても、私もいつかスズキみたいに言われてみたいもんだ。 「あの日本人、常連だよ。テーメーじゃあ、知らない者はいないね。初めて会ったのはあたしが70の頃だったね」ってな。それまでスージー、長生きしろよっ。なんだかんだ言っても結局、最後は心暖まる話になっちゃったな。(なわけねーだろっ!)

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 本当に適当にやっているような? もう少し、ホテルの特徴を知りたい所ですね。 平成20年代に、タイランドで発生している社会問題が表面化する以前のお話ですので、その辺りはご勘案下さい。 当面の間は、タイランド旅行は行えないと考えている人々は多いでしょうね。 やはり、内戦状態にあるようなものですし、在外邦人も辛い思いをされています。 
 エイズだけが怖いのではなくてエイズと一緒に感染する病気が人を死去に至らしめるとお考えください。 血液製剤等での感染は別口で同情するとしても、エイズ感染に至る迄悪事を継続した後の治療は馬鹿げた希望が一切通用しない。 世の中には、発言と行動が一致しないばかりか、責められるのを恐れて情報を意図的に隠蔽する人がいる。 不誠実かつ不謹慎ですね。 だが、血液検査はウソをつかないばかりか巧妙な言い逃れは行えない。 陽性か陰性かは、明確です。
 最後にお伝えするが、あまりにも危ない提案には、退散が正しい選択であったりもします。 厄介なのは、提案してきた人間が悪いと考えていない独善的な部分です。
 しかし、金をケチったようで実はそうでない海外旅行記のようにも感じられます。


以上、リターンズの、タイランド旅行記でした。来月に続く。

海外旅行の最新情報 地球の歩き方

海外旅行の最新情報 地球の歩き方

昨夜、AZさんに返答しました。
2010-08-25 | Weblog
昨夜、AZさんに返答しました。 広告 AZさんのお店の紹介は以下です。
住所
大阪市浪速区日本橋5丁目12-5 KS日本橋ビル6F 店名 Cafe AZ

以上、管理人ハジメでした。
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世界ウルルン滞在記リターンズをブックマークしました
2010-08-25 | Weblog
 世界ウルルン滞在記リターンズ。http://www.ururun.com/ BS-TBSにて毎週金曜22:00~22:54にて全国放送中。 1990年代半ばから平成20年(2008年)にかけて製作されたテレビ番組の再放送です。

 BSデジタル放送は全国民が平等に視聴が行えるから良いと個人的には、思います。 
 海外旅行の記録が好きな人にはたまらないTV番組でしょうね。 ただ、最近(2010年代)では、以前のようにお金をかけて製作するといったTV番組が難しくなったようです。

以上、ハジメでした。
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サンセットビーチ
2010-08-22 | Weblog
テンプレートをサンセットビーチに変更しました。
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人には、それぞれの選択がある
2010-08-20 | Weblog
 ドリアン長野海外旅行記の管理人をしている元(ハジメ)です。
 ~人には、それぞれの選択がある。~
 こちらのホームページの継続は不安定なのでもしもこちらに伝達を行わずに当ドリアン長野の海外旅行記を紹介されておられたら削除していただいても構いません。 出来ましたら、バナーの紹介は行われてもURLの観点から問題がある紹介は控えていただきたいし正常化を求めたいのが、こちらの本音です。 過去においてgoo側の決断で簡単ホームページからブログへと変更したので不可抗力の側面がある点は強調しておきます。 とりあえず、不安定ながらも当ブログは、現時点では継続しています。
 削除されるか正常化した上で紹介されるかを明確化していただきたい。
 ~紹介方法の変更をしました~
 一方で当ホームページが継続している限りは、問題の無いホームページの紹介をしていきます。 バナーを平成22年8月19日の時点で発表されておられると同時に、当ホームページにて紹介しているホームページについてはオリジナルモジュール化して紹介しました。 当ホームページの中央部分を閲覧していただければ幸いです。 又、ブックマークでの紹介については、重複している場合は、見直しました。

 以上です。 元(ハジメ)。
 参考までに、以下を紹介しました。


西原理恵子公式サイト

海外旅行の最新情報 地球の歩き方
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第三顔写真 Zoom Image
平成22年8月二十日
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#8 クロントゥーイ市場 (リターンズ)
2010-08-01 | Weblog
 私は市場やスーパーやコンビニやデパートに行くのが好きだ。行って何をするのかというと、生鮮食品や加工品や日用品を見るのである。見るだけで楽しいので、買い物はあまりしない。日本人が集まる「伊勢丹」や「フジ・スーパー」もいいが、私のお気に入りはスクンビット、ソイ5にある「フードランド」(ここにはカウンター方式のダイナーがあるが、午前2時、3時でもアラブ人や白人や黒人がメシを食っている。余計なお世話だが、体に悪いぞっ、とひとこと言いたくなる)、シーロム通りとラーマ4世通りの交差点にある「ロビンソン」、チャクラポン通りの「タングアセン・デパート」やその近くのワット・チャナソンクラムというお寺の向かいにある小さなコンビニ(店員は二人か三人の若い女性。いつもおしゃべりしている。あまりやる気なし)等だ。
 バンコク市内には多くの市場がある。中華街のサンペーンレーンやアラブ人、インド人、黒人が多いプラトゥーナーム市場、インド人街のパフラット市場(ここにあるハンバーガーショップに入り、椅子に座ったら店員がヒンズー語のメニューを持ってきた。どうせ私はインド人並みに顔が濃いわよっ!キィーッ!)


なんかが有名なのだが、私が一番好きでバンコク滞在中は必ず行くのがクロントゥーイ市場だ。
 この市場の周辺にはバンコク最大のスラムがあり、そこを通って市場に足を踏み入れると、初めて訪れた人は気分が悪くなるに違いない。なにせ、生臭さと汚物のにおいが入り混じっているし、鶏や魚の内臓が山と捨てられてるし、道はそういった汚物と泥とでぐちゃぐちゃになってるし、かつ、ゴミがあちこちに散乱しているからだ。神経質な人は行かんほうがいいだろう。ここには鶏や豚の頭や足や内臓、野菜、果物、魚、カエル、なまず、カブトガニ、虫等、いろんな物が売られているが、私がこの市場に来るのはニワトリのを見るためだ。まず、ニワトリを釜で焚いた熱湯に放り込んで殺してから、分離器にかけて羽をむしり取る。それを半裸になった男たちが次々と包丁で解体していくのだ。私にとっては興味深い光景で、何時間見ていても飽きない。熱気と悪臭が充満するそのの傍らには市場の子供だろう、5歳くらいの女の子がすやすやと寝ているのだが、人間はどんな環境にも順応するんだなあと妙に納得する。
 話は唐突に変わるが、モンゴルの遊牧民の生活をテレビで観たことがあった。ご承知のように、彼らにとって羊はなくてはならぬものである。何歳かになると、羊の解体を覚えなければならない。馬に乗ることと羊を捌くことができないとモンゴルでは生きていけないのだ。何人かの子供が羊を持った大人の周りを取り囲む。大人は神に祈りを捧げ、羊が苦しまないようにナイフで頸動脈を一気に掻き、大地に血を一滴も流さぬように捌いてゆく。子供たちは真剣な面持ちで眺めていて、私も神聖な儀式を観ているような気持ちになったな。で、思うんだが先進国では肉も魚も切り身になってスーパーで売られとるが、元の形を実際に見る機会は金輪際ない。うんこでも出した形状を観察すれば、それが今朝食べたものか前の晩に食べたもんかくらいは判別できるだろう。うんこなおもちて往生をとぐ、いわんや切り身をや。自分でも言ってることが全く分からんが、口にする動物の解体現場も観たことがないから食べ物を粗末にするんだっ! と私は言いたいのだ。反省しろっ、先進国の人間どもっ! なんてね、当のタイ人が食べ物を粗末にするんだもん。もう、ちょっと満腹になれば残す、残す。そんなもんすね、う~、脱力。
 おまけにクロントゥーイ市場の脇に流れとる川は解体処理の水を汚物と一緒にそのまま流すもんだから、はっきり言ってヘドロ。川底からはブクブクとメタンガスが発生しとるよ。飛び込んだりしちゃったら即死だね、きっと。その上にプラスチックの弁当箱やビニール袋を平気で捨てるもんだから、環境保護団体なんかが見たら卒倒しちゃうね。地球に優しくないタイ人。でも私なんかそれを見たら何だか安心しちゃうんだけど、なぜだ?
 でも、行ってみて損はしないと思うよ、クロントゥーイ市場。旅行代理店の人、ワット・ポーの寝釈迦像や水上マーケットもいいけど、ここもツアーに組み込んでみたらどうすかねえ。
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 やっぱり、インド人と同じ位に濃い顔をしていますかね? 皆様には、文章を読んでもらってから即時確認してもらいました。(笑)
 90年代から平成10年代のお気楽な時期のお話です。 従って平成20年代のようにインフルエンザウイルスが猛威を振るった時期ではありませんしタイランド国内での騒乱が深刻化発生した時期でもありません。 こちらを参考にしてください。 やはり、暴力とは無縁の法治国家を形成し平和な社会の維持継続は重要です。 従って、選挙が重要であって理不尽な占拠は不必要なのです。
 ご存知の方々も多いでしょうが何らかの海外旅行のツアーに参加しても現地(海外)に到着してから全てをキャンセルして行きたい町へ行く人もおられるそうです。 
 海外旅行記を参考にされるのは自由ですが海外での行動は日本以上に責任が問われる可能性があるのでお気をつけて下さい。 端的にお伝えすると日本では合法であっても海外では違法な行いがございます。
ちなみに海外旅行につきものといえば、時差や外貨です。外貨はともかくとしても時差が存在しているから海外の現地時間で深夜においても食事をしている人々が多いのかもしれませんね。 

 これからも、ドリアン長野の海外旅行記をお楽しみ下さい。


以上、リターンズの、タイランド旅行記でした。来月に続く。

#9 スワニー(リターンズ)
2010-09-01 | Weblog

 君はスワニーを知っているか? もちろん、知っておろう。チャイナタウンにある、なぜか日本人パッカーに人気があって140バーツで泊れるが麻薬及び娼婦関係等のトラブルが多いので日本大使館の悩みの種の楽宮ホテルの一階にある日本料理が食べられる安食堂の北京飯店のことだ。なぜスワニーというかというと、切り盛りしているのがスワニーという女主人だからなのだ。そうだったらそうなのだ。なぜ日本料理なのに北京飯店なのかは、永遠の謎だ。
 私はチャイナタウンに行くたびに楽宮ホテルを探すのだが、なぜかいまだに見つけたことがない。公園を中心にして、7月22日ロータリーが6本の道となって放射線状に伸びているのだが、歩いているとこれも安宿である台北旅社にいつも行き着いてしまうのだ。もう一つの伝説のジュライ・ホテルは私がチャイナタウンに足を踏み入れた頃は閉鎖していたと思う。楽宮を一躍有名にした、谷恒生の「バンコク楽宮ホテル」は日本では絶版になっていて、私はバンコクの紀伊国屋書店で買った。文庫本が314バーツもしたので、買う時に迷ったぞ。バンコクの物価を考えると3日は食えるもんな。北京飯店のことはいろいろな本に書かれていて、私はスワニーさんに会って、カツ丼や焼そばを食ってみたい! と長らく熱望していたのだ。なにもバンコクまで行ってカツ丼食うこたあねえだろうとは思うが、それはほれ、気は心ってやつよ。(意味不明)
 ロータリー付近に行くといつも方向感覚が無くなって、記憶が途切れたような気がするのは、毎晩立っている娼婦の怨念か、ビンボー旅行者の呻吟する霊のせいに違いない。これは腰をすえてかからねばならない。というわけで、ファランポーン駅前のクルンカセム・シークルン・ホテル(京華大旅社)に泊まることにした。
 このホテルは名前は厳めしいが、一泊500バーツの中級ホテルだ。部屋は清潔で、何よりも駅まで3分で行けるのが嬉しい。駅はチケットがなくてもホームには自由に出入りできるので、夜になると長い長いホームを虫の鳴き声を聞きながらうろついたり、かまぼこ型の高い天井を見上げながらベンチに寝転んだりするのは気分がいい。
 ホテルの裏の通りには「旅社」とだけ書かれた看板が掛かっている、怪しい館がいくつかある。二階へ続く木造の階段の入口にはおねいさんがたむろしていて、前を通ると獲物を狙う猛獣のような眼でじろじろ見られたり、時には声をかけられたりするというナイスな環境だ。ラーマ4世通りを左に折れると、そこはもう、暑いバンコクの中でもさらに暑苦しいチャイナタウンだ。
 フカヒレスープやツバメの巣が安いので、私はここに来るたび、ここぞとばかりにガツガツと意地汚くむさぼり喰う。ヤワラー通りにあるホワイト・オーキッド・ホテルの前にはうなぎの寝床のようなラーメン屋があるのだが、ここの麺がうまい! クイッティオ(米麺)やバーミー(小麦粉麺)はコシがあるし、ルークチン(魚のつみれ)はコクがある。いつ行っても人でいっぱいだ。私なんか朝から3杯も喰っちゃったもんね。えっと、何の話だったっけ? そうだ、スワニーだ。その日の夕方、私は地図をぐっと睨み、ロータリーの右から2本目の通りに入って行った。少し歩くと、あれはまさしく北京飯店だ。やっと見つけたぞ。食堂に入ると客はおらず、女の人が一人でメシを喰っていた。空腹ではなかったので、お粥を注文した。食べながら聞いてみる。 「あの、スワニーさんは?.....」 「はい、わたしです」 
 そうか、あなたがあのスワニーか。私は本を読んで想像を膨らませていたので、やせこけて、引っ詰め髪でこめかみに梅干しを絆創膏で張り付けたようなおばちゃんだと思っていたのだ。(今どき、そんなおばちゃん、いるかーっ。しかもバンコクに)
 スワニーはにこやかで、美人といっても決して過言ではないような(微妙な言い方やな)人だった。私は街で、テレビに出ている有名人に出会うことよりも嬉しかった。たとえば、V6の森田剛に会うことよりも、嬉しい.....と思う。
 彼女は「あさりの味噌汁飲む?」と聞いてきた。必ず客にあさりの味噌汁か冬瓜のスープを薦めるようだ。これも本で読んだ通りだぜ。お粥も味噌汁もとてもうまかった。最後に食べた焼そばはちょっと塩辛かったけどな。(食べ過ぎやっ!)
 メニューに書いてある「豚丼」というのは、カツ丼のことだろーか? 今度来た時に試してみよう。自分が少食なのが悔やまれる。(一日、何回喰えば気が済むんだ、お前はっ!)
 メシを喰ってる時に入ってきた中年の男に、スワニーはお金を渡していたが、あれが旦那さんか? まさか悪い男に騙されてるんじゃないだろーな(とすっかり身内気分)。スワニー、バンコクに来た時はまた寄るよ。私は長い間たまっていたウンコを排泄したような清々しい気分で食堂を出た。
 その夜、ファランポーン駅前でソムタム売りのねーちゃんに声をかけられた。彼女たちはイサーン地方出身で、天秤棒を担ぎながらイサーン料理を売っているのだ。客はゴザに座って、彼女たちが石臼で作ったソムタム(パパイヤやトマト等を加えた辛いサラダ)を食しながら故郷に想いを馳せるのである。そうだな、日本でいえば京成上野線の日暮里駅界隈の安キャバレーで東北出身のおっちゃんが同じ東北出身のホステスにうだうだと愚痴をたれるようなもんだな。
 ソムタムを喰い終わると、おねいさんはもっと食べない? と言って、別の料理をもう一品作ってくれた。それも食べた。さすがに満腹だ。しかし、彼女はそれで許してはくれなかった。豚の絵が書かれた黄緑色のソーセージを取り出して、「これで作った料理はおいしいわよ」と私に迫るのである。こうなったら、イサーン料理を喰い尽くしてやろうじゃないかっ。私は苦しさに涙をこらえつつ、異国の星空を見上げながら食べた。ぜいぜい、もう勘弁しておくんなせえ。幸運にも料理はそれで終わりだった。
 「うえっぷ、もう帰りますう。おいくらですかあ~」 「一品50バーツだから、全部で150バーツね」 なにお~、ひゃくごじゅうばあつだとぉ~、げっぷ。私は久々にボラれたよ。最初に値段を聞いてなかった私も悪いんだけどな。気をつけろよ、夜のファランポーン駅前でおねいさんに声をかけられて、鼻の下を伸ばしているとボッタくられるぞ、この私のようになっ!(いばってんじゃねーっ!)
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 個人的に、平成10年代には幾つかの出来事で驚いたがその中でも特筆すべきは、7月22日ロータリーですね。 やはり、日本では一般的には「7月22日にロータリーに赴いた。」と考えられるかもしれません。正式名称が7月22日ロータリーだそうです。 俗称は、ジュライロータリーと言われているそうです。 タイランド国内で第一次世界大戦の参戦を記念して命名されたそうです。
 強調しておきますが、タイランド国内には、「7月22日ロータリー。」が実在しているとお考えください。私は、平成10年代末期にこの点について、多少言及しましたね。(興味のある方はコチラをクリック)
 実際の所、幾つかのホームページ上で7月22日ロータリーが紹介されているので各自でお調べください。 ただ、時代の流れで少し色々な面で変わってきているそうです。
 最近の日本は、安くておいしい飲食店が増えてきましたね。 景品表示法が存在しているから、価格面で安心して食事がとれるようになっています。 法治国家万歳。 そういえば、日本国内であっても時価の御寿司屋が存在しているな・・・
 谷恒生先生は、2003年(平成15年)に亡くなられています。 昭和50年代と1980年代を兼ねた時期に、バンコク楽宮ホテル(1981年)を出版されました。
 北海道帯広市近辺では、豚丼が有名です。 実際に私は、スワニーさんに会って豚丼を注文していないので不明なのですが、もしかすると、スワニーさんは北海道料理を調理されるかもしれません。
参考にしていただければ幸いです。 
十勝地方で有名な豚丼に興味があれば、こちらをクリック
http://www.butadon.com/

 私、元(はじめ)は平成10年代に北海道に赴いた時に実際に食したから、お伝えできますが、おいしかったです。
 他にも色々とグルメリポート(?)というか、暴飲暴食のお話が平成10年代に発表されました。
 目的を持って、どこかに赴くのも幾つか存在する海外旅行の楽しみでもあるし、海外の町と地元(日本国内)を比較するのも幾つか存在する海外旅行の楽しみでもある。 これらの件は、読まれた方々がそれなりに解釈してください。
 

 それでは、皆様、来月のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)をお待ち下さい。


タイランド旅行記についてはコチラをクリック

#10 ドリアン(リターンズ)
2010-10-01 | Weblog
 人は非日常的な体験を求めて旅に出る。海外ならなおさらだ。しかし、それが食文化になると頑なに自国の食生活に固執する人がいる。たとえば、欧米人なんかがそうだ。彼らは外国においても朝はトーストとハムエッグ、昼はマクド(関東地方だったらマックよね。おされだわ)というスタイルを崩そうとしない。マーブンクロンのクーポン券式大食堂には欧米人の姿も見かけるけどな。大半は一、ニ度料理を食べてみて後はコーラとハンバーガーってとこだろう。君たち、それで満足なのか? 私はイギリスではフィッシュ・アンド・チップス、アメリカではステーキとハンバーガーを食い続けたぞ。まずかったけど、それでも我慢して食ったわい。(我慢して食うなよ)
 自国以外の食生活に興味を持たんから、鯨を食う日本人は野蛮だなんてぬかすんじゃい! 「美味しんぼ」の海原雄山も食はその国の文化だとゆうておろーが。私はある国に行ったら、その国の人間が食べている物を食い倒すぞ。フィリピンやベトナムでおやつがわりに食べてる、孵化寸前の鶏の卵は塩をかけて食うとうまいんだよっ! 海外番組のTVリポーター(女優)は「いや~ん、気持ちわるう~い」とか「やっだあ~、ざんこくう~」とかぬかしてんじゃねー! アラブ人街に行ったら、羊の脳みそのカレー煮込みが安く食えるぞ。ベトナムでは時間があれば、センザンコウでも犬でも食いたかったわい。イサーン地方では虫も食べる。カオサンやラーチャダムヌーン・スタジアムの前やナナ・エンターテイメント前の路上に行けば、屋台でいつでも売ってるぞ。メーンダーは黒くて一見するとゴキブリに似ているがタガメだ。羽と足を取り、歯で身をしごいて食べる。その他にはバッタのフライとかコオロギとかカイコのさなぎとか赤アリとか、全部スナック感覚だ。もちろん、私の口に合う物もあるし、合わん物もある。だが、口に入れてみなければ味は絶対にわから~ん! 食わず嫌いはいろんな事を損してると思うぞ。
 日曜日の夜の「世界ウルルン紀行」はタレントがいろんな国へ行って、一週間ホームステイするという番組だ。お世話になった家族と別れるシーンで私はいつも号泣してしまう。下條アトムのナレーションが泣かせるんだ、これがまた。ある日の番組では某男優がアフリカの某国に行った。その国では牛がとても重要な役割を担っているわけだよ。畑を耕したり、牛乳を飲んだりはもちろん、牛糞を燃料にしたり、家の壁にしたりな。それどころか、尿をシャンプーにもするし、飲んで胃に収めてから吐き出して胃腸を整えたりするのだ。その男優がそれに挑戦した。牛の泌尿器の下に容器を構え、おしっこを受ける。男優は容器になみなみとつがれたおしっこを眺めた。さあ、どうするんだ? 本当に飲むのか? 私は手に汗握って見つめたね。彼は一瞬ためらったが、ついにうぐうぐと飲み干し、そして吐いた。司会者に「どんな味でした?」と聞かれ、彼は苦いような、しょっぱいような、とにかくすごい味でした。その味が今でも口に残っています、と答えた。私は猛烈に感動したね。これが感動せずにおられよかってんだい。世の中には健康飲料だと称して己のおしっこを飲むやからがいるが、自分のでも躊躇すんのに、ましてや牛のおしっこだぜ。サムライだね。えらいもんだ。郷に入っては、リーに従えとはこのことだっ!(離婚したけど)さすがの私でもおしっこまでは飲めん。そこでドリアンだ。フリが長かったな。ドリアンを屁のにおいだとかウンコくさいとか言うやつは、牛のおしっこも飲めんくせにグタグタぬかすんじゃねー!(無茶苦茶)
 ドリアンは確かに強烈なにおいがする。バンコクの「ロビンソン」で買ったドリアンをリュックに隠し、日本に持って帰った。(見つかると税関で没収だからな)機内でもリュックを開けるとガスのにおいが漂うので、冷や汗もんだったさ。その密輸入したドリアンを会社の同僚が食べてみたいって言うので、親指大をアルミ箔で包み、ビニール袋に入れて会社に持って行った。ロッカー室で包みを開け、食べさせてやった。その後、会社の人が「ガスくさいぞ。ガス漏れしてるんちゃうか」と騒ぎ始めたのだ。本当のことを言うに言われず黙っていたら、誰かが電話したんだろうな。大阪ガスの車がやって来てガス漏れの点検をやり始めた。しばらく調べていたが、もちろん異常なしで帰っていった。恐るべし、ドリアン! 今でも会社の人には真実を伝えていない。でもさ、ドリアンアイスとかドリアンスナックとかドリアンキャンディーとかドリアン羊羹(がバンコクの伊勢丹で売っとるのだが、これはさすがに食したことはない)はうまいとは思わん。ドリアンの身上はにおいではなく、カスタードクリームを濃厚にしたような 、あのねっとりとした果実だ。これぞ、キング・オブ・フルーツ。ドリアンを食べるためだけに、タイに行く人の気持ちが私はよく分かるぞ。ドリアンを食べていると私は幸せになる。納豆やくさやの干物を好んで食べる日本人が、においだけで毛嫌いするのはどういうわけだ。
 マレーシアに行った時、屋台にドリアンを食べに行った。買ったその場で食べていると、「ドリアン、むっちゃ、うまいわ~」 「ほんま、最高やね~」という大阪弁が聞こえてきた。見ると、屋台のテーブルで女の子が二人、必死の形相でドリアンにむしゃぶりついていた。クアラルンプールは退屈な街だったが、その時の光景だけはよく覚えている。

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 これは、どこというよりも複数の国々を旅行してきた思い出と食文化を混在させたお笑いエッセイの領域になるかもしれませんね。
 鯨の一件に限っては、すでに公表されている事柄もございますので、あえて割愛させていただきたます。 かなり、奇抜な情報が一部の識者によって発表されていますが、著作者の立場を尊重しますからあえて関与をいたしません。 言い換えると、有名なお話でもありますしね。 

 BSデジタル放送等で全国的に有名な世界ウルルン滞在記リターンズに限っては、周知の事実でしょうが新作は1990年代から2010年以前の平成20年代初期迄(畳語では非ず)しか製作されていませんが、再放送が行われています。(少数ながら特別番組が2010年代に製作されました)
今となっては、地上波で放映されていなくても、BSデジタル放送で幾つものテレビ番組が全国的に視聴しやすくなりましたね。
 そういえば、1990年代から平成10年代の期間だけ製作された映像作品も存在していますね。 竹〇力版のミナ○の帝○等です。 
 牛は、色々ありますね。 牛肉がおいしいだけではなく鶏や豚と比較して水を大量に用いる必要があるといったお話しもございますね。 個人的な見解ですが、長野県民は昆虫食が一般的らしいですが鶏が昆虫を食べたら良いと考えています。 ドリアン長野は、兵庫の隣の鳥取県出身です。 そういえば、ある島根県の主張で鳥取県の左隣といった主張があったが、個人的には「島根県は、兵庫の隣の隣。」と考えた方が近畿では理解されやすいと思います。
 ドリアンに限っては、少なくとも平成10年代以降、果物店やタイ料理店やタイランド食品専門店等で普通に販売されている果物だと思います。 無論、過去にインターネットショッピング等でご購入された人々も多いでしょうね。
 私の場合、「臭いから外で食べろ。」と家族に言われ本当にそうしました。
味はおいしかったです。 ガス会社はやってきませんでしたけどもね。

 一応、今月も新規投稿が行えました。 とりあえず、がんばっていきます。
 以上、ハジメでした。
 オマケ 
 以前(2010年以前の平成20年代)だが本当にガス漏れがほぼ隣接しているアパートで発生していた。 お風呂掃除をしている時に、地味におかしな匂いがしたのと少し息苦しさを感じた。 結局の所、ガス会社の従業員さん達がそれなりの工事をしていただいたから、何とかなった。 実際の所、ドリアンとガス漏れは区別しやすいが両者を知らないと難しいかもしれない。
 我が家の隣のアパートは、時々、洗濯機が壊れて漏水を発生させたりと問題が時々発生する。
 

特別に再度紹介する記事 2010年11月八日
2010-11-08 | Weblog
特別に再度紹介したい記事がございます。 昨今、日中間はあまりよろしい状況ではありません。平成10年代に本日紹介する記事を読まれた読者も多いでしょうが、
コチラをクリックしていただければ、幸いです。
 あえて下記の短文を除外し現時点において今回の伝達事項や感想文は、発表せず皆様の心中のご判断を持って置き換えさせていただきます。
 
 管理人ハジメ個人の考えですが、中国製の商品が日本から販売されなくなるかもしれませんが、日本の領海内の悪事ですのでそれなりの対処が必要です。
 早急に改善していただきたいが中国人は行おうとしないようです。
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#11 バンコクの魅力 (リターンズ)
2010-11-01 | Weblog
 「なぜタイがそんなに好きなのか?」 とよく尋ねられる。そのたびに考えるのだが、自分でもよく分からん。タイに移住している日本人にインタビューするというテレビ番組を観たことがあるが、そのインタビュアーが元モー娘の中澤ねえさんだった。中澤ねえさんが 「なぜタイが好きなんですか?」 と私も何度ともなく聞かれた質問をある日本人にぶつけた。その人は「ここでは戦わなくてもいいですから」と答えていた。う~ん、そうかもしれんな。何かにしゃかりきになってるタイ人なんて見たことがないぞ、私は。タイ人に限らず東南アジア人というのは(日本人から見て)物事を深刻に受けとめる能力が欠けている人が多い。バーツが大暴落しようが、エイズが蔓延しようが社会全体が重苦しくなったりはしない。
 私はスコールの時に、傘を持つ習慣のないタイ人と一つの軒下で雨宿りしたり、中華街でトラックから荷物の積みおろしをしている半裸の労働者を眺めたり、屋台引きのフルーツ屋からスイカかパイナップルを10バーツで買って歩きながら食べたり、夜、通りを歩いていてふいに後ろを見ると象がいるのに気づき、象使いから20バーツで買ったエサをやったり、朝、セントラル・デパートの一階にある「スタバ」でホット・チョコレートを飲みながら通りを眺めたり、たまには豪華にインドラ・リージェントホテルでバイキングの朝食をとったり、ディスコの帰り、深夜2時にロビンソンで飲み物を買ったりするのが好きだが、中でも一番好きなのがドンムアン空港からバスで市内に向かう時間だ。これだけのためにもバンコクへ行く価値があると私は思う。市内までの交通手段としては空港の前に鉄道駅があるし、エアポート・バスやもちろんタクシーでも行ける。以前、タクシーに乗ったらドライバーがホテルの所在地を知らなかったので、50メートルも走らないうちに降りた。すぐ別のタクシーに乗ると、そのホテルまで遠いから1150バーツだとぬかしやがった。高いと文句を言うと、今度は500だと言う。怒ってタクシーを止めさせて降りた。相場はだいたい、250から300バーツだ。3台目でやっと目的地までたどり着くことができた。私は一度お金の節約のために市バスに乗ってみて大いに気に入り、それからは必ずこれに乗ることにしている。
 空港を出て、大通りの前のバス亭で24時間運行のファランポーン駅行きの29番バスを待つ。なかなか来ねえなと少しやきもきするのも趣がある。やっと来たバスに乗り込むと、すでに車内は学生や労働者や主婦といった風体の人で一杯で、旅行者は私一人だ。安い航空券で日本を発てば、バンコクには深夜に到着する。深夜なのになぜいろんな階層の人がバスに乗っているのか、日本からやって来た旅行者には不思議でしかたがない。どんなに混んでいても女性車掌は新しく乗り込んできた人を見逃さない。運賃を徴収し(普通バスは深夜料金で5バーツ。エアコン・バスなら16バーツ)、ブリキ製の筒をパカパカいわせ、ロール状のチケットに切り込みを入れ、ちぎって渡してくれる。なんで車掌は太った人が多いんだ? バスがかなり揺れるから重心が安定するためにそういった女性を優先的に採用するのか? 等と考えているうちにバスは停留所を五つ、六つ通過し、ようやく座れるようになる。車内は窓を開けていても、むっとするほど暑い。汗がにじみ出るのを感じながら車内灯をじっと見つめていると、ボーッとなってくる。アセチレン灯のようなそれが縁日を思い起こさせ、幼い頃の記憶があれやこれやと浮かんでくるのだ?信号でバスが停まる。車窓から古びたアパートやコンビニが見え、ソイからひょいっと人が出てくる。何でもない光景だが、ひどく懐かしい。ああ、またこの街に戻ってきた、と心の中でつぶやく。スカイトレインの駅が見えてくるとバスはやがてパヤタイ通りを南下する。アジア・ホテルの前を通るともうすぐだ。ラーマ一世通りを左折すれば左に終点のファランポーン駅が現われる。運河の側の停留所に降りると、私にとってもうここは外国だという意識はない。故郷に帰ってきた、そんな感じだ。
 到着第一日目はカオサンに泊まるのもずっと変わらない。ここはタイらしくないと敬遠する人もいるようだが、私は商店街で生まれ育ったせいか、いろんな人たちがうろうろしているのは好きだ。遅くまでやっている屋台でカオ・トム(おかゆ)を食べ、コンビニで雑誌や飲み物を買う。バンコクに来た時の儀式のようなものだ。これも私の楽しみのひとつである。
 ある国や地域が好きになるということは言うまでもなく、その人自身が何に反応するかという内面の問題だ。私のように瑣事に喜びを感じる人間は 「なぜタイが好きなのか?」 という質問には 「行ってみれば分かるよ」 としか答えられない。

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 この海外旅行記は、例のごとく1990年代から平成10年代にかけてのお話しだと言う点については、ご理解ください。 
 タイランドも、諸外国と同様に国境紛争は抱えています。 北部のカレン族(その中のパダウン族は首が長い女性達で有名)の難民や南部のマレー系の独立運動等深刻な社会問題は、存在しています。 バンコクに限っては、のんびり出来るようです。 
 バスとタクシーの料金に格差があるのは日本もタイランドも同様のようです。 但し、日本の場合法律が存在しているから不正請求は無いかもしれません。 遠回りはさせられるかもしれない。 
 また、通貨価値は暴落した場合輸出競争力が強まるから完全否定はし難いと思われます。 実際にタイランドからたくさんの食料品を日本は輸入しています。
無論、どこの会社が日本へ輸出するかの競争は少なからず存在していますから、国境紛争だけではなくて経営上の戦いも存在しています。
 平成20年代になって発生し激化している、タイランド国内の騒乱は2010年代に終結するか否かは誰にも分かりません。
 実際に机上の空論を支持するよりも、実行に移すのも肝要と感じさせる海外旅行記ですね。 可能であれば、タイランドに旅行されても構いませんが前述したばかりか半ば周知の事実ですが将来的に再度タイランド国内で混乱が発生しないとは言い切れないので自己責任でご決断ください。 今のところ、私自身の勝手な考えですが推奨は難しいです。 冒頭で述べたように、1990年代から平成10年代にかけてのタイランド旅行記なんです。 その時期は、最近と比較して、まだ平和でした。
 来月の、ドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)もお楽しみに。

タイランド旅行記についてはコチラをクリック

メリークリスマス 2010年
2010-12-25 | Weblog
 メリークリスマス2010
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#12 大都会バンコク (リターンズ)
2010-12-01 | Weblog
 友人をバンコクに連れていくと、必ずこう言う。 「バンコクがこんなに都会だとは知らなかった。」
(次にくる言葉は「タイ人がこんなにオシャレだとは思わなかった」だ)
 そんな時、私は内心思うのである。どうだっ、驚いたかっ。なめんじゃねーぞって、なにも私がムキになることはないんだけどさ。スカイトレインから景色を眺めていると、マンハッタンのセントラル・パークかと思っちゃうような場所もあるし、この前なんか世界一高いホテル、バイヨーク・スカイの展望台から夜景を見たら、さすがの私もびっくりしちゃったよ。
 「おおっ、すごい。私はこんな大都会をあっちに行ったり、こっちに来たり、うろうろしてたのか」
 バンコクの人口はスラムの住人や地方からの労働者を合わせると、1千万人を超えるといわれる。日本人は不法滞在者を入れると3万人が住んでいるそうだ。ある意味ではバンコクは東京やシンガポール(行ったことないけど)以上の大都市であり、欧米型の都市とはあきらかに違う。
 第一に、あの厳しい気候だ。ニューヨークや最近の日本の夏もかなり暑いが、タイの季節は雨期と乾期しかない。バンコクに限って言えば、ほとんど毎日が暑い。関西人がアホなのは小さい頃からお好み焼きやうどんやたこ焼きといった小麦粉食品を大量摂取しているので、全身のみならず、脳も炭水化物化しているからだという説があるが、東南アジア人がボーッとしているのも毎日暑いからである。昼過ぎになるとあちこちの店先では店員がだら~っと犬のように眠りこけている。シエスタなどというかわいいもんではないな、あれは。スコールになると、降水量が多いのか、水はけが悪いのか、街中が水浸しになる。そんな時、ここは東南アジアにできた都市であるということを実感するのである。
 第二に、なんといってもあのタイ人だ。バンコクにも、もちろん悪人はうじゃうじゃいる。コンビニで売られている「クライム・ニュース」という雑誌には殺人事件の被害者の惨殺死体がばんばん載っていて、これが微笑みの国の人間のやることか~っと思うのだが、大抵のタイ人というのは人がいいというのか、細かいことは気にしないというのか、早い話がぬけている人が多い。ファランポーン駅構内にコンビニがあるのだが、そこに野良犬が入り込み、奥で涼んでいた。警備員がやって来て、追い出すのかなと思っていたら、しゃがみこんで犬の頭をなでてやっていた。(日本では想像しにくい光景じゃありませんか、皆さん)
 発展途上国や中進国の警官は国民から賄賂を要求するのが公然となっているが(タイでも、もちろんそれは日常茶飯事だ)、バンコクで軽犯罪を犯した三人の大学生が罰金を持っていなかったので、その代わりに警官が彼らに腕立て伏せをやらせたという様子が新聞記事になったことがあった。(そういうことが記事になって、話題になるということ自体が中進国らしいね)
 先進国で同様な処置をしたら前近代的だとか、人権問題だとか姦しいだろう。私は西欧民主主義から観た、前近代的といわれることが間違っているとかは思わないけどね。
 先日、関空に行くためにタクシーに乗っていたら、運転手の奥さんと娘さん(名門タマサート大学を次席で卒業した才媛。日本人としては始めての快挙らしい)はバンコクに住んでいるという話になった。若い頃、建築作業員として海外を転々としていたが、タイが気に入り、住みついてしまったらしい。日本にはお金を稼ぐために単身帰国して、1日も休まずに働いているそうだ。
 「来年には仕事をやめて、タイに戻るつもりです。日本は嫌です。やっぱり私にはタイの水が合ってるんでしょうなあ。でもたった一つだけ、タイには悪い所があるんですよ。実は私、ドンムアン空港の近くに家を持っとたんですが、空港を拡張するっていうんで土地ごと没収されてしまったんですわ。弁護士を雇って国と争ったんですが、一銭の補償もなしです。あの時は参りました。それだけです、嫌な所は。タイ人はいい人間なんですけどね」
 今はバンコク市内にアパートを三軒持っているそうだ。タイ人はぬけている奴らばかりだが、国はぬけていなかったらしい。それよりも、そんな目に会ってもタイが好きだという彼の気持ちが私にはよ~く分かって、ちょっぴり感動しちゃったぞ。
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 一応、関東が世界で最も多くの人が住む一帯らしいです。
 治安はやはり良くないでしょうね。 案外、バンコクだけではなくて南部の紛争を取り上げているかもしれません。
 やはり、カントリーリスクは存在していますね。 成田空港の時と同じような出来事がタイランドでも発生していたようです。 

 来年の、ドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)もお楽しみに。


タイランド旅行記についてはコチラをクリック

1月27日(木)のつぶやき
2011-01-28 | Weblog
22:04 from goo
コメントは嬉しいが、内容は問います #goo_durian-nagano http://bit.ly/fGI2PZ
by duriannagano on Twitter
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コメントは嬉しいのですが 平成23年1月
2011-01-27 | Weblog
 コメントは嬉しいのですが見当違いの内容が書き込まれたから、発表は控えておきます。 ドリアン長野は、あーいった内容(不良社員の愚痴)を余り好みません。 以前は、良い感想文がメールされてきたそうです。 それとここのところ毎日新規投稿していますが恐らくはよほどの大きな変化が無い限りは以前のように月に一回以上の回数にしておきます。

 以上、元(ハジメ)管理人でした。
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1月26日(水)のつぶやき
2011-01-27 | Weblog
22:58 from goo
二者の変更 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/71aef4e4929aeaf9019d68ef63ec7b76
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1月25日(火)のつぶやき
2011-01-26 | Weblog
23:41 from goo
万が一 #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/9420b0fe5f5eb0eb975eb2fab8da73b8
by duriannagano on Twitter
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万が一 平成23年1月
2011-01-25 | Weblog
 万が一の事態について表明しておきます。 ドリアン長野には、元気になったら返答を下さいと連絡しましたので元気になったら返答があるかとは思います。
世間一般では、故人の意思を引き継ぐホームページが幾つも存在し管理人の決断でホームページが継続するかどうかといった具合です。 
 当面は、このまま継続していきます。
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1月24日(月)のつぶやき
2011-01-25 | Weblog
18:10 from goo
ドリアン長野インフルエンザ、ナウ。 #goo_durian-nagano http://bit.ly/hhxacc
18:20 from goo
今後について #goo_durian-nagano http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/e/14ef6bbfd6640c351b8aa2d58da5978a
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ドリアン長野からの連絡 平成23年1月24日
2011-01-24 | Weblog
 インフルエンザでダウン。ツイッターについては今後も時間的余裕がなく、書き込みできない

上記の連絡がありました。2010年代始めてのこの場での書き込みのようなものです。こちらでの更新が行われると、ツイッター上でも確認が行えるといった具合です。

 以上、元(ハジメ)管理人でした。
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ドリアン長野インフルエンザナウ
2011-01-24 | Weblog
 ドリアン長野インフルエンザナウ。本当に急病になったようです。メールで連絡がありました。皆様、体調不良にはお気をつけ下さい。
以上、管理人元でした。
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1月23日(日)のつぶやき
2011-01-24 | Weblog
23:51 from web
フォローしました。
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1月22日(土)のつぶやき
2011-01-23 | Weblog
16:03 from web
テスト
16:09 from goo
大丈夫かな? #goo_durian-nagano http://bit.ly/etVPlg
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これでどうにかなったかな? 平成23年1月22日
2011-01-22 | Weblog
これでどうにかなったかな? 平成23年1月22日から、一応、ツイッターが行えるようにしました。 これからは、連動していきます。
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今、ツイッターの手続きをしています 平成23年1月
2011-01-22 | Weblog
今、ツイッターの手続きをしています。 少し、面倒ですがやってみます。
これからは、ブログだけではなくて、ツイッターでドリアン長野の海外旅行記が読めるかもしれません。
以上、管理人ハジメでした。
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注目されている梶原一騎
2011-01-16 | Weblog
 最近、梶原一騎が注目されているので当ブログも注目されていました。
2011.01.14(金) 50 PV 37 IP - 位 / 1521134ブログ
2011.01.13(木) 45 PV 35 IP - 位 / 1520791ブログ
2011.01.12(水) 81 PV 48 IP - 位 / 1520292ブログ
2011.01.11(火) 139 PV 49 IP - 位 / 1519892ブログ
2011.01.10(月) 44 PV 40 IP - 位 / 1519498ブログ
今年の6月に少し衝撃的な海外旅行記のリターンズを公表します。実際には、平成10年代に公表している内容なので周知されているとは思います。
 強調しておきますが、やはり平和であるばかりか治安は良い状態を保持し継続しないといけません。
 又、当ブログは1990年代から平成10年代(*1)にかけてドリアン長野が実体験した海外旅行記のブログです。平成20年代の海外旅行記は残念ながら新規投稿が行えない状態です。 代わりに、感想文を追加し代筆しているような状態です。
 以上 元(ハジメ)でした。

 *1 西暦1998年から2007年の期間が平成10年代です。 2000年以降の平成10年代は、8年間。1990年代末期と平成10年代を兼ねた(平成10年代初頭)時期は、二年間。 色々とありましたね。
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#13ネパール(リターンズ)
2011-01-01 | Weblog
 カトマンズの朝は早い。そして寒い。ここ、バサンタプルの広場でも早朝から何することもなく人々がたむろしている。オーストラリアから来たという女の子が物乞いをする少年に仏心を出し、パンケーキを買ってやった。それを他のガキどもが見逃すわけはない。「僕にも、僕にも」と彼女を取り囲む。困惑顔の彼女はしかし、近くにいた大人がたしなめたおかげで事なきを得た。ああくわばら、くわばら、桑原和男(吉本のギャグどぇす)。寒いのでギャグも寒い。それにしても遅い。さっきから誰も来ない。なぜ私がこんな所で待ちぼうけを食っているかというと、今からさかのぼること昨日のことだ。
タメルで一泊した私はジョッチェンに投宿しようと昼前にここにたどり着いた。そして広場の入口にある貸し自転車屋の前の絵看板に目が釘付けになってしまったのだ。こっ、この一見ヘタだがよく見るとやっぱりヘタな絵は極真会館の松井館長ではないかっ。ほれっ、その証拠に極真マークもちゃんと描いてあるぞ。なにを隠そう、私は極真空手家だ。夢はムエタイ・ボクサーとルンピニー・スタジアムで戦うことだ。ちなみに子安慎悟?(あれっ?)のファンだ。ここってもしかしなくてもネパール支部じゃん。これも何かのお導き、天国の大山総裁、ありがとうございます、押忍っ。カラテ道場を知らないかとそこら辺の人に聞いてまわったが、誰も知らん。そうしている内に60歳くらいのお爺が出て来て言った。 「道場なら閉鎖して去年ニューヨークに引っ越したよ」
 何でネパールの道場がニューヨークに引っ越すんじゃい! と今ならつっこむところだが、生憎その時の私は冷静さを失っていたので心底、落胆した。せめて閉鎖した道場でも見たいと所在地を聞くと、このじっさま知らんとぬかしよる。何でやねん! 筋が通らへんやないけ! と今ならつっこむところだが、私はあせって平常心を失っていた。しばらくすると、じっさまはまわりの人に何ごとかを尋ね、郵便局に行こうと促すのだ。何でやぁ~~っっ?! しかし、頼みの綱はこのじっさましかおらん。大人しくついて行くと、うしろからガタイのいい男が追っかけて来た。 「僕の弟は黒帯で指導員をしてたんだ。僕自身は結婚して忙しくなったので茶帯でやめてしまったけど」 そうか、そうか。君がそうなのか。会いたかったぞ。我々は再会を約束し、そこで別れた。聞きたい話はたくさんあるが、まずホテルを確保しとかんとな。ホテルにチェックインする時もなぜかじっさまはついて来て街を案内してくれた(とはいっても広場とショッピング・センターだけだがな)。バサンタプルに戻り、さきほどの男と話をしていると彼の弟の黒帯空手男(クマルという名前)と奥さんがやって来た。奥さんは台湾人で、ネパール旅行中にクマルと知り合ったそうだ。二人はこの広場で露店商として土産物を売っているのだ。私とクマルはカラテについて飽くことなく、何時間も語り合った。奥さんは傍らに座っていて時おり会話に加わった。クマルの影響でカラテに詳しくなっているらしい。
 じっさまが再び現われて、「あっちで待ってるから」 と言った。このたわけた子泣きじじいめ。わしが何のために世界中で何度も何度も何度も(泣)騙され続け、何回も何回も何回も(号泣)金をまきあげられたと思うてけつかんねん! てめえの悪だくみなんぞ、こちとらお見通しでい!(我ながら気づくのが遅いっちゅうねん) 無視するとじっさまはいつの間にかいなくなった。あまりクマルの商売の邪魔をしては悪い。 「またあとでね」 と腰を上げ、近くのガキんちょたちにババぬきを教えて遊んでいたら、今度は見るからに怪しそうな男に肩を叩かれ、ついてこいと声をかけられた。てめえ、じじいの仲間か、と警戒心を抱きながらもついていった。それにしても人相悪いぞ、この男。私は5、6人の男女がたむろしている場所へつれてこられた。なによっ、あんたたち、変なことしたら大声だすわよっ。 
 「私たちはキョクシンカラテのメンバーです。オス!」 なんだ~、びっくりさせんじゃないわよ~。でも良かったわ、会えて。みんなに、すぐ近くにある彼らの先生(三段)のアパートまで案内してもらった。先生は8畳ほどの部屋に妻子と住んでいるのだが、壁の到る所にカラテの賞状が飾られている。何冊もあるアルバムは稽古や試合の写真ばかりだ。私(長野)は猛烈に感動した! この地でこんなにも極真カラテを愛している男がいたことに!! (梶原一騎調でお読みください)
 一週間後に試合があるからビザを4日間延長してカラテを教えてくれと懇願されたが、私は真面目なリーマン・パッカーだ。帰国して職を失ったら家賃が払えん。残念ながら断ると、それじゃあ、明日道場生とピクニックに行くから一緒に行きましょうと誘われたのだ。
 7時の予定が結局8時半に出発した(ネパールタイムだそうです)。8人が幌付きのトラックの荷台に乗って。みんなの顔を見ると何だかヤクザの出入りか自衛隊の演習って感じぃ~。着いたダクシンカリはヒンズー教の寺院で神サマに捧げるためにヤギの首をはねるそうだが本当にはねていた。ピクニックといってもネパール人は弁当なんぞ持っていかん。材料を持参して現地で料理する(もちろんカレーっす)。トラックに積んでいたバカでかいインド製のカセットでダンス大会をするつもりだったらしいが、シャイなネパール人は誰も踊ろうとしないのだ。ここでも私が得意のダンスを披露して、皆の尊敬を一身に集めたのはいうまでもない。
  翌朝、バサンタプルを歩いていると誰かに聞いたのか、「僕もキョクシンカイです」と佃煮にできるほどのガキんちょ、いや少年たちに声をかけられた。そういうわけで朝からこの広場にはあっちこっちで気合いがこだまするのであった。オッ~~ス!
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 明けまして、おめでとうございます。
 ドリアン長野は、本当に空手家です。 ネパールでも価値観を分かち合ってきたそうです。 何かの共通点があると人は仲良くなりやすいですね。
 ただ、ネパールと言えば、政変がありました。 平成10年代は、王政でしたが平成20年からはそうではなくなりました。 我々は、内政干渉は行えないであろう。 実際にネパールに詳しい日本人に話を聞きましたが、そういった返答でした。 
 これは、実体験のお話しだが確か90年代のある日だったと思うが宅配ピザを発注した所、ご近所のお子様達がピザを一枚くれと叫び始めたのを連想する。
2000年以降の平成10年代のある日以降、日本の治安が悪化しているからなのか、したからなのか、私を理解したからか、彼等が大人になったからなのかは全く分からないが、馬鹿げた質問をされることは無くなったから良かった。 最近の日本人は、罪悪感が欠落した悪人が増加してきて社会問題になっているが元々は馬鹿げた発言をする人間に問題がある。
 何らかの国際的な団体に自分自身が所属していて、諸外国に赴き同じ志を持つ人々に出会うと嬉しい気持ちになると思います。 確かに色々と生活習慣等で違う点は多いが共通点が存在すると話しが合うんでしょうね。 皆様は、どうですか? 来月のドリアン長野の海外旅行記(リターンズ)をお楽しみにお待ちください。

ネパール旅行記についてはコチラ

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#11

2024-04-07 | 日記
皆様にお知らせがございます
2007-10-05 | Weblog
2007 05/01 21:26

「ドリアン日記」(仮題)はマンガエッセイです。マンガの完成が予定より遅れたので、11月刊行が2月になりました。

ー以前、上記のように発表しました。ー 

 <『ドリアン日記』発売取り止めの御連絡>
 
 大変、残念ながら、来年二月に発売を予定していた『ドリアン日記』でございますが諸事情により発売を取り止める事に成りました。皆様、ご了承下さい。
くり返しになるようですが、ドリアン日記は、発売されなくなりました。

又、リンク先の方々に御連絡ですが出来ましたら以下のURLに変更をお願いします。

http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano

御意見・御感想は、以下のメールアドレスでも受付します。

durian-nagano@mail.goo.ne.jp

追記 令和元年6月

経年もあって平成十年代と令和の時期は大違いの部分はございます。

某出版社にお金を支払い原稿も提供したらしいが、出版社の倒産の影響で発売が行えなくなりました。

URLは以下に訂正してください。

https://blog.goo.ne.jp/durian-nagano

gooメールの無料版は2015年こと平成27年に終了したので過去(平成19年)に伝えたメールアドレスは利用が行えなくなりました。 以上です。

訂正
2008-05-12 | Weblog
付け足し (元管理人)
2008-01-31 23:50:14
 夫婦で行かれた、新婚旅行は、海外旅行でした。
その辺は、現時点では発表の予定がございませんが、それが行われると、本当の最後のドリアン長野海外旅行記に成り得ると思います。

×
それが行われると、本当の最後のドリアン長野海外旅行記に成り得ると思います。


それが行われると、本当に『最初で最後のドリアン長野 夫婦での海外旅行記』に成り得ると思います。


 しかし、ジラス訳では無いがこの発表は、多忙なようで難しいみたいです。
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元管理人からの御連絡
2008-05-04 | Weblog
1.コメントですが書き込みを行えないようにしました。

2.御夫婦共に海外に行かれた新婚旅行の発表をされる事には前向きなのですが多忙なのでしばらくは難しいそうです。

3.以上です。

 元管理人

ちょっとした動き
2008-12-15 | Weblog
 概略だけにしておきます。
 
 1.以前発行を考えていた出版社とは、別の出版社から「ドリアン長野の海外旅行記」が発売される予定があるそうです。

 2.ご夫婦での新婚旅行を兼ねた海外旅行で赴かれた場所は、香港です。 末日聖徒イエス・キリスト教会の香港神殿に赴かれたそうです。

 3.以上です。

 オマケ
 実は、来年度での閉鎖を考慮しておりましたが、とりあえず継続することになりました。

当面、似たような状況が継続します
2009-02-02 | Weblog
 今のところ特に新しい事柄はございません。

一応、お知らせ
2009-04-15 | Weblog
 画像データや動画データを発表したいなと考えていましたが、ドリアン長野氏が肝心のデジカメを紛失したらしく出来なくなりました。 当面、似たような状況が継続します。
以上、元管理人でした。
 
おまけ
本当は幾つか画像データがあったんだけど、無い状態です。 あ~ぁ その内に見つかるかもしれないが・・・

今年、ドリアン長野は、ゴールデンウィーク期間中に・・・
2009-06-02 | Weblog
今年、ドリアン長野は、ゴールデンウィーク期間中にはどこも行かなかったそうです。


ドリアン長野  すり足で君のハートをGET YOU
2009-08-26 | Weblog



本当に、木製バットを折っています。
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ドリアン長野  インタビュー
2009-08-26 | Weblog



実に、素晴らしいインタビューですね。
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ドリアン長野 君と出逢えた奇跡
2009-08-26 | Weblog



おめでとうございます。
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こちらに、ご注目下さい。
2009-08-26 | Weblog
http://www.youtube.com/user/DorianNaganoこちらをクリックしてみてください。

皆さん、先月とは状況が変わったので、本日、幾つか新規投稿を行います。

ドリアン長野は元気にしています
2009-10-21 | Weblog

近況は、こんな、感じです。

いつこのブログを退会するか分からないので、バックアップをして下さい
2009-12-12 | Weblog
 いつ、このブログを退会するか分からないので、バックアップをして下さい。
もしも、今閲覧されている、あなたがドリアン長野の海外旅行記をこれからも読まれたいと考えておられるならばバックアップ(自発的な記録)をしてください。
又、リンク先の方々も、リンクを外してもらって構いません。 この点については、この場で発表させていただきます。実質的に、平成10年代でこのホームページの更新は終わりました。
http://www.youtube.com/user/DorianNaganoこちらをクリックしてみてください。恐らくは、こちらで何らかの発表をしていく予定です。
-元管理人ー

リターンズについて
2010-01-21 | Weblog
 平成10年代に発表していた海外旅行記を元管理人の感想文を加えた上で2010年代に発表していく予定です。
 すでに発表されている内容ばかりですので仮に続きを知りたいと考えられたらバックナンバーを閲覧されても一向に構いません。
  
 以上 元管理人からの連絡でした。
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#1 オリエンタル・ホテル (リターンズ)
2010-01-13 | Weblog
NO1 オリエンタル・ホテル

 オリエンタル・ホテルに泊まった。あの世界一という栄誉を冠せられるオリエンタルである。私がカオサンでよく泊まっていたサイアム・オリエンタルじゃないぞ。シャングリラもペニンシュラもリージェントも頭が高い! ひかえおろ~う! 正真正銘、一番安い部屋でも310米ドルもするビンボー人には絶対泊れん、あのオリエンタルじゃい! ハァ、ハァ、ハァ。(肩で息をする音)同行の友人(アジア旅行は初めて)が宿泊代を出してくれるというのだから私に異存はない。これは泊まらないわけにはいくまい。いや、泊まりたい。是非泊まらせてくれ、お願いだ。オリエンタルにはスイカジュースを飲みに行ったことがあるが、まずくて冷えてないわりに200バーツもしたぞ。どうなってんだ? ちなみに私がバンコクで一番好きなホテルは知る人はよく知ってる、あのグレース・ホテルだ。この前、昼過ぎにチェックインしようとしたら満室だからと断られた。フロントのおばちゃんに近くにもっと安いホテルがあるからそこへ行けといわれたが、ここがいいと駄々をこねたらパスポートを預かっとく、6時頃もう一度来いやと言われ、やっと泊まることができた。その際、押し合いへし合いするフロントに割り込もうとしたアラブ人にフロントのおねいさんが 「みんな順番守ってんだからちゃんと並んで待ってなさい!」 とものすごい剣幕で怒鳴っていた。幼稚園児のようなアラブ人もアラブ人だが、客にそこまでいうか、ふつう。とにかくこのホテルはあやしい。アラブ人のおっさんがタイの少年二人をつれて部屋に入っていくのを見たことがあるし、隣の部屋から苦しそうなあえぎ声が聞こえてきたこともある。(何してんだ?)ロビーには売春婦とアラブ人が、てめえらここのソファーで夜をあかしてんだろ、と思うほどいつでもたむろしている。一階の卓球台では黒人がいつも卓球やってるし。(まっ、健全)ここにはディスコが二つあるが、一階のディスコは中近東風の音楽でみんな踊りまくっている。いっぺんだけ行ってみたことがあるが、ついていけん。あのリズムでどうやって踊ればいいんじゃ~い。それに比べて地下にあるディスコはまともだ。(まともか?)毎晩(たぶん)、売春婦をつれて朝の二時まで踊り狂うアラブ人。熱い、熱すぎるぞ。マーブンクロンで黒のアメリカンスーツ(笑)を買った時なんざあ、ホテルの近くのアラブ人街をうろつき、見せつけてやった。我ながらアホやぁ~っ、ワシって。その時、黒人の二人連れが近づいてきて 「おれたちアフリカの○○○○出身(国の名前は忘れた)なんだけど今度、日本で働きたいんだ」 と言うのだ。あわてて「こっ、これから友だちに会いに行かなきゃならないし、明日は朝一番の便で日本に帰らなくちゃならなくて時間がなくて」 とかいって逃げてきた。そんなことはどうでもいいのだが、オリエンタルにチェックインした時は私もようやくゲスト.ハウスからここまで登りつめたのだと感慨深いものがあった。(人の金だけど)                
 さすがオリエンタル、部屋もさることながらホスピタリティつうのか、一人一人の客の顔と名前を覚えてくれて至れり尽せりのサービスである。そんでもって立食形式のレセプションパーティーに招待されたのだが、そこにいた女子大生の二人連れ! 聞くと、バンコク滞在中の4日間はず~っとオリエンタルに泊まるとぬかすではないかっ! タイは初めてだからオリエンタルだと安心だと思ったからだとぉっ! ワシでさえ一泊なのに。(人の金で)学生やったら、安宿に泊まらんかいっ! とぶっちしたんだけど(内心ね)、気をとり直してその夜はオカマショーの「マンボ」に行くことになった。ショーがはねたあと、せっかくオリエンタルに宿泊してるんだからと出演者をホテルの部屋に招待することにした。そのむねを小太りのマネージャーに伝えると、 「オリエンタルはドレスコードが厳しいから入れてもらえないかもしれませんよ」 というではないか。出演者のカマー(オカマのことね)も 「あら~ん、あんな高級ホテル、大丈夫なの? あなた保証する?」 などという。どうにかなるだろっと九人のカマーを三台のタクシーに押し込み、ホテルに向かった。結果はホテル・マネージャーに頼みこんで、部屋は駄目だがガーデンならいいということになった。ホテルが氷やグラスを用意してくれてわれわれは宴会を始めたのだが、いや~さすが世界一のホテルといわれるだけのことはある。さすが鷹揚やね。チャオプラヤー川の夜風に吹かれながらの宴会は最高でしたっす! とここまではよかったんだけど、実は大きな声じゃあいえないけどさ、部屋にあったセイコーの置き時計をカバンに入れて持って帰ったのよね。チェックアウトの時になんにも言われなかったから、しめしめって感じで。ところが一か月後にホテルから請求書がきた。時計が紛失していたのでクレジットカードからその代金を引き落とさせていただきますってな。それがなんで2000バーツになるんじゃい! 何の変哲もないただのちっこい時計やないかい! 世界一にしてはせこくないか! もしかしたらボッてるんちゃうんかい、オリエンタル! ふざけんじゃね~! って悪いのはオレか。よい子のみんなはお持ち帰りはスリッパか歯磨きセットまでにしときましょうね。(泣)
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 ブランドがセイコーかどうかはともかくとしても1000円(税別価格)も支払えばクォーツ式置時計位は日本では余裕で買える。 タイランドはともかくとしても諸外国では旅行者がホテルの備品の持ち帰りを窃盗と捉えられ(違法行為)厳しく追求する場合(外国)があるので本当に寝泊りする場所位に考えておくのが無難です。
 昭和と違い平成になってから六本木やアメ村では本当に外国人労働者が増加しているようです。

追記 平成22年6月25日時計と国旗のイメージを追加しました。

以上、リターンズのタイランド旅行記でした。

追記
元(ハジメ)です。¥1058でセイコーの時計を平成26年12月18日に買ってきました。最近タイランドの通貨1バーツは日本円に換算しておよそ¥3.5です。2000バーツ(日本円に換算しておよそ¥7000)よりも¥1058の方が圧倒的に安価です。皆様も時計が欲しければ普通に時計を店で買うようにしましょう。絶対にその方が安いです。





さらなる追記
元(ハジメ)です。上記で紹介した時計ですが、初期不良(電池を入れるとアラームが鳴って鳴りやまない)だったので返品し、平成27年五月にセイコーの小さい時計(¥1008 税込み価格)を買い直しました。





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ちょっとレイアウト変更それと・・・
2010-01-13 | Weblog
 謹賀新年。 皆様あけましておめでとうございます。

 レイアウトですが変更しました。

 過去に発表した旅行記を元管理人が少し感想文を加えて月一回程再度発表していくつもりです。
 
 お楽しみ下さい。 元管理人 

このお話ですが・・・
2010-02-23 | Weblog
民主・石井氏「鳥取、島根は日本のチベット」(読売新聞) - goo ニュース

 後日、ドリアン長野に聞いてみます。
但し、返答があるかどうかは分かりません。 少なくとも、どこかの国のように中央政府と交戦状態に陥っていない。
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笑顔のドリアン長野
2010-02-06 | Weblog

笑顔のドリアン長野
別件 ブックマークを一件追加しました。
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#2 テーメー・カフェ(リターンズ)
2010-02-01 | Weblog
NO2 テーメー・カフェ
 2001年の1月、ソイ・カウボーイに行こうと友人とスクンビットを歩いていたら、怪しいネオンサインに縁取られた看板が目に入った。その看板に書かれていた文字を読んで私は思わず息を飲んだのであった。「テーメー・コーヒーハウス」 思えばこれがテーメーに集う怪しくもしたたかな人々と私とのハートウオーミングな交流の始まりであった(嘘)。ここがテーメーかぁ~。私がその名を知ったのはクーロン黒沢氏の「バンコク電脳地獄マーケット」という本だ。その名も世界最強の援交カフェ。ジャングルの奥地でアンコールワットを発見した時のフランス人探検家の心境もかくやであったであろう。地下へと降りる私の心拍数は200ぐらいになっていた。この扉の向こうにはいかなる世界が待っているのか。めくるめく、快楽のバビロンか、はたまた魑魅魍魎の棲むブラックホールか。神様、私をお助けください。お母さん、先立つ不孝をお許しくださいっ。ええいっ、ままよっ、ぱぱよっ。 ............店内は薄暗く、楕円形のカウンターを取り巻くようにボックス席があり異様とも思える男女がゴキブリのように密集している。私の頭の中にはワイドショーでお馴染みの「24時間潜入ルポ、私は見た! バンコクの黒い援交カフェの実態!!」という言葉が浮かんだ。店内の人たちの刺すような視線が痛い。これって場違いってことじゃあ......。バカヤロー、ふざけんな~、べらんめ~、こちとら江戸っ子で~い(嘘)。矢でも原爆でも持ってきやがれってんだい。.....という言葉とは裏腹に店内を一周した私たちは異様な雰囲気に恐れをなし、そそくさとテーメーをあとにしたのであった。しかし、気になる。ここで引き下がってはジャーナリストとしての使命は果たせん。(誰がっ?!)私たちは再び潜入を試みた。暗い店内を今度はゆっくりと観察するように歩く。女はタイ人かアラブ人、男は白人と日本人らしき人がちらほら.....。ピーター・バラカン似の男と目が合い、その男が話しかけてきた。「僕はアメリカ人だけど、韓国で働いてて、休暇になるとここに遊びに来るんだ。ところで、彼女のカメラ危ないよ」と友人を指差す。彼女は首からカメラをぶら下げていたのだった。「この前、店内で写真を写したヤツが袋だたきになったからね」なっ、なんだあ~? 刺すような視線はそのせいか。そういやあ、その昔、西成暴動の写真を撮ってたらいつのまにか100人くらいの労働者に囲まれ、殺されるかと思ったもんなぁ~、と往事を偲びつつ(偲ぶなよ)、再びテーメーをあとにしたのだった。
半年後、私は別の友人とテーメーにいた。人生はどこで何が起きるか分からんもんである。っていうか、常夜灯に群がる蛾のように怪しい人間は怪しい場所を好むもんである。あいかわらず満員電車なみのゴキブリの群れだ。カウンターに座ると、ぬらりひょんのようにどこからともなくウエイターが現われたので、50バーツで飲み物を注文する。一旦、注文すれば朝までねばってもノー・プロブレム。援交相手に何時間くっちゃべっててもOKだ。これってマニアにはめちゃくちゃおいしいんじゃないのかしら、オホホ(私にはよく分からんが)。
その時、友人(34歳。離婚2か月目)がすくっと立ち上がってこう言ったのである。「私、客がつくかどうか試してみるわ」。 (続く)

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 どうしようもない内容になっています。 たとえ話も世界遺産とバビロンでおかしなお店との対比をした話。
90年代の暴動は、本当に洒落にならなくて一部の物好きしか行ってなかったんです。 周知の事実ですが、今は無きブルーウェーブ(90年代半ばは強かった)はともかくとしてバファローズもタイガースも90年代は弱かったからそっちのナイターの方が面白いと皮肉られていた時代でした。 本当に洒落になっていません。 今でも恐ろしい状態です。
 もっと洒落にならなかったのが最後の彼女。 続編を読んでもハタメからは分からないであろうし詳細はお伝え出来ないが大損害をドリアン長野氏に与えた。

 田舎からやってきたからか好奇心が旺盛なのかについては分かりませんが珍道中は続きます。
ドリアン長野は都会で否定的に扱われているお店でも躊躇無く赴く。
 追記 平成22年 6月 25日 
 平成20年代であっても、ブルーウェーブインは球団としては存在しなくなったが、ホテルは現在でも日本国内で6箇所で営業していて有名ですね。

以上、リターンズの、タイランド旅行記でした。

予定であって行えなくなるかもしれませんが・・・
2010-03-25 | Weblog
 元(はじめ)管理人です。
 もしかしたらですが来月ドリアン長野による新作を皆様にお披露目が出来るかもしれません。 パリンヤーの映画感想文を発表する手はずをしました。 無論、行えないかもしれません。
平成10年代末期(2006年・平成18年)に(邦題)DVD版ビューティフルボーイ(パリンヤーの映画)が日本で発売されているから、2010年以前にこの場で発表していてもおかしくはありませんでした。 提案だけで放置するかもしれません。

 実際の所、ビューティフルボーイが日本で発売されていたのをご本人(ドリアン長野)が知らなかったようです。
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テンプレート
2010-03-16 | Weblog
 テンプレートを変えました。

ドリアン長野の海外旅行記
長期休暇もない有給休暇もないリーマン・ パッカーが、短い休日と高い航空券にもめげず、海外を旅したお笑いエッセイ
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#3続テーメー・カフェ(リターンズ)
2010-03-01 | Weblog
NO3 続テーメー・カフェ
<前回までのあらすじ>
 天使の街、バンコク。ここに世界最強のコーヒー・ショップがあると聞いた「私」は現地に赴いた。そこであやうく生命の危機にさらされたが、すんでの所で窮地を脱する。臥薪嘗胆で知力、体力を充電した「私」は再びバンコクへ飛ぶ。果たして「テーメー」の黒い野望を阻止し、打ち砕くことができるのであろうか。雌雄を争う戦いが今まさに始まろうとしていた......。
「私、客がつくかどうか試してみるわ」こう言うと彼女はボックス席に移った。一人になると隣のおばちゃんが話しかけてきた。ふくよか、というよりも太った近所のおばちゃんという感じだ。名前を教えられたが覚えてないので風貌を思い出し、麻原彰子とする。「イサーンからバンコクに出てきて家族6人、アパートのせっまい部屋に住んでるんだよ。ビンボーは嫌だね。仕事は楽じゃないし。あたしも43だからね、もうおばあさんだよ」と彰子さんは切々と訴えるのである。そうか、肉体労働はきついだろう、っていう前に出動要請があるのか? おばちゃん。ボックス席の友人を見ると、すでに白人となにやら話しこんでいる。ここは入れ食い状態なのか? 何を話してるのか気になるぞ。こっちはこっちで入れ代わり立ち代わりタイ人が話しかけてくる。彰子さんが言うには、みんなイサーン出身の仲間なんだそうだ。(調子にのってマーブンクロンで作った名刺をばらまいたが、大丈夫か? )その中の一人は「私はいろんな人と話すのが好きだし、英語も勉強できるからテーメーに来てるの」と遠い目をして言った。(そっ、そうなのか? よく知らんがそれは違うと思うぞ。ひょっとしてエイ○に脳が犯されているのか?)そのうち、友人がもどってきた。「あの人、イギリス人なんだって。なんだかインテリっぽくてさ、この国の教育問題とかを熱く語ってきてん」 何い~っ、教育問題だとぉ~。そんな話ならタマサート大学でも行って、学生とでもしやがれっ。偽善者め。ここは黒いテーメーやぞっ。テーメーにインテリなんぞ、時間厳守のタイ人やお金に淡白なインド人やプレイボーイのラオス人と同じくらいおらんのじゃー!(偏見か? しかし頼むからワシの思い入れを壊さんでくれ~い。テーメーはいつまでも黒いテーメーであって欲しいんじゃ~い)
 「あんた、どこのホテルに泊まってんだい?」いきなり彰子さんが聞いてきた。「あの....グレースですけど.....」 「部屋でマッサージしてあげるよ。ルームナンバーは?」 「いっ、いや、今日は友だちも一緒だし、あっ、そうだ、明日もう一度来るから、その時に.....」 「それじゃあ、待ってるよ」 すまん、おばちゃん。我々は明日の昼過ぎの便で帰国してしまうのだ。いくら待ってても来ないぞ。私は心の中でおばちゃんに手を合わせた。今度バンコクに来た時はテーメーに寄らせてもらうぞ。マッサージは受けないけどな。おばちゃんをよく見ると、慈母のごとく見えんでもない。その長い人生にはつらい出来事もたくさんあっただろう。我々は二人がかりでおばちゃんの肩を揉んでやった。誰かテーメーに行ったら、彰子おばちゃんの肩でもマッサージしてやってくれ。喜ぶぞ。マッサージを受けたら、もっと喜ぶと思うけどな。

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 平成10年代の海外旅行記なので、その部分は勘案していただきたい。 要するに、例の知り合いが平成10年代のある時期は、離婚して二ヶ月だったのです。 彼女は公共施設に行ってしまったかも? 色々とあって、我々(ドリアン長野と私)は、少なくとも平成20年代になってからは彼女と再会していない。 
 半ば、周知の事実ですが、ドリアン長野は今回の海外旅行記とは別人物と平成10年代末期に結婚されました。
 43歳といえば、確かに孫がいてもおかしくない年齢ですね。 実際に、学生結婚や卒業後一年しない内に結婚し子供を授かる親御さんもおられます。 22歳で親が結婚している場合、お子様もその道を選択する場合もございます。
死刑囚に良く似たマッサージを求めてきたオバちゃんに普通(?)のマッサージをオバちゃんに行って良かったんでしょうね。 正直な本音ですが、不必要なマッサージはごめんです。 手を合わせたの部分ですが、不誠実な行動と考えられるかもしれませんがいたし方が無い。
 おかしな喫茶店が海外にあって行ってきたといったタイランド旅行記でした。
追記 平成22年6月25日 国旗のイメージを追加しました。
それと、タブーワーズギリギリの表現が使用されていると思うのは、私だけ?

以上、リターンズの、タイランド旅行記でした。

#4 カトゥーイ (リターンズ)
2010-04-02 | Weblog
 私はカトゥーイが好きである。とはいっても女よりも男に性的興味があるという意味ではない。中島らもが額に「犬」と入れ墨を彫ったり、鼻に安全ピンをぶらさげたパンクスは「俺、もう後戻りできんもんね。もうどうなっちゃってもいいもんね」というある種の社会性を放棄した意志を表明している、という意味のことを書いていた。カトゥーイも性転換なんかしちゃったら後戻りできんのである。いや性転換なんかしなくてもカマーとして生きていくにはいくらカマーに寛大なタイ社会でもそれなりの気苦労や不便さがなくはないとはいえないこともないかもしれんような気がしないでもない。私はその、人生は私が主役だもんね、欲望には結局勝てないんだもんね、みたいな気持ちが好きなんである。オカマ・ボクサーのパリンヤーも結構、強かったのに性転換手術をして引退してしまった。私はパリちゃんのファンだったのに。日本に来て試合をした時、試合終了後にパリちゃんが対戦相手にチュー(死語?)をした。それを見て私はファンになったのだ。パリちゃんの勇姿をテレビや「格闘技通信」で見られなくなったのは悲しい。そういえば、友人のカトゥーイのレックは元ムエタイ・ボクサーだった。シャープな顔だちの美人だが、時々眉間にしわを寄せて男になる。ボクサーからカトゥーイへの転身ってのはあんまり多くないと思う。たとえてみれば、力士がオカマになったようなもんか?(やっぱり違うか)レックも対戦相手に胸をときめかせたりしたんだろうか。でも、「マンボ」のコミック・ショーのカマー(外見はまるっきり男)は「僕の彼女は日本人の女の子なの」って言ってたなあ。「男と女、どっち好き?」って聞いたら、「どっちも」としゃらっと答えた。きさま、バイセクシャルだったんか~い。というわけで人間の嗜好なんてえのはよく分かりません。
街を歩いていてきれいな女の人に出会ったとする。その時、私の感情に芽生えるのは「うらやましい」である。ああ、私もあんなきれいな顔になりたいな~、なんて思うのである。(いっとくけど私はゲイではない)男にちやほやされて手玉にとってみたいと思う。(ゲイじゃないぞ)ゲイソン・プラザの近くにあるドラッグストアの「ブーツ」でイミディーンを買ったら(ちなみにイミディーンっていうのは肌の老化をおさえる薬だ。だからといってゲイとはちがうぞ)、白衣が似合う男の店員がとてもかわいかった。彼にもらった住所録をいまだに愛用しているくらいだ。(しつこいけどちがうぞ)バンコクに行くたびにその店を訪れるがいつも彼はいないので寂しい。(だからちがうって)レックにもらったミス・コン(カマ・コン?)の時の彼の写真も私の宝物だ。ああ、もう2時だわ。ダブで洗顔して早く寝なくっちゃ。睡眠不足はお肌の大敵だものね。
 パリンヤーのドキュメンタリーがハリウッド映画になるそうだ。タイ人がハリウッド映画の主役に抜擢されるのは初めてらしい。私はもちろん観に行くぞ。パリちゃんの勇姿が映画で観られるなんて今から楽しみだわ????
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 ビューティフル・ボーイ(2003) - goo 映画ビューティフル・ボーイ(2003) - goo 映画と、マーキュリーマン(公式ホームページはコチラをクリック)にパリンヤーさんは出演されている。具体的にはハリウッド映画ではなくて、タイランド映画に出演されている。すでに皆様が理解されているでしょうが、前者のビューティフルボーイの日本向けDVDは平成10年代に販売されています。 ドリアン長野は平成10年代に把握していませんでした。 映画の感想文も今の所、執筆が行えない状態です。 但し、感想文が出来上がると新規投稿される見込みです。 その感想文ですが、掛け声倒れになるかもしれません。 ドリアン長野は、パリンヤーさんが出演されたDVDを購入されなかった模様です。 先日、メールで事実上の返答がありました。 パリンヤーさんは、現在タイランドでムエタイのコーチをされているそうです。
 なお、後者のマーキュリーマンに限っては、タイランドで制作されたのが2006年(平成18年)で、平成20年6月に日本国内で映画上映された模様です。  
 格闘技通信ですが、すでに廃刊された模様です。 前年度(2009年度)は発売されていました。 一応、業務を縮小されて活動を継続されておられるようです。 

 ドリアン長野は、すでに(平成10年代のある日)神殿結婚をされました。 繰り返すようですが、ドリアン長野は、妻帯者です。

 今回の感想は端的かもしれませんが、目標があって何かを成し遂げるのは良いとしてもそれが悪の道か否かが問われます。人は、常に一番正しい選択をしないといけないのです。

 最後になりましたが、(半ば周知の事実ですが)紹介したgoo映画の画像をクリックしていただけると幸いです。
追記 平成22年6月25日 国旗のイメージを追加しました。
パリンヤーさんの映画感想文を広く一般からも募集します。コメントしていただければ幸いです。
 感想文の追加項目 
 改めて読み直すと中途半端ではなくて、方針が明確な人を好む人もおられるようです。 

以上、リターンズの、タイランド旅行記でした。

皆様にご連絡
平成25年3月17日に追記をしました。理由は、「goo 映画」ですが、2013年3月31日(日)をもって主要コンテンツ(作品情報・映画館・俳優データベース)の提供を終了されるからです。将来的には下記で紹介した映画.comをクリックして確認してください。
ビューティフル・ボーイ - 映画.com
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中島らもOFFICIAL HOME PAGEをブックマークしました
2010-04-02 | Weblog
 元(はじめ)管理人です。
 中島らもOFFICIAL HOME PAGEをブックマークしました。 やはり、平成20年代になって活動が激減しました。  平成10年代には、死去した2004年迄に制作された遺作や新刊(文庫本等)も幾つか発売されていました。無論、現在(2010年)も幾つかの作品が継続販売されています。
 2010年以降も、中島らも氏の作品は忘れられることは無いでしょう。 死去してもなお、人々に影響を与え続けていると思います。 
 中島らもの作品は今でも、生きています。
 このブログ内で中島らも氏を取り上げた投稿を閲覧されたい方はこちらをクリックしてください。

 個人的にですが、みず谷なおき氏と中島らも氏の両者が平成10年代に亡くなって残念だと思います。 両者共に、凄い作品を執筆されました。

コメントの規制緩和
2010-05-11 | Weblog
 皆様、ゴールデンウィークはいかがお過ごしでしたか? 
少し変化を加えます。 リターンズに限っては、事前承認制ですがコメントが行えるようにしました。題名が、コメントの規制緩和なんで、こういった表現になってしまいますね。

 但し、このブログの性質上余りにも難しい内容の場合はコメントの紹介だけで終わる可能性もございます。
 返答を始め管理はドリアン長野が行う事は一切無く元(ハジメ)管理人が行ってますのでその点においてもご了承下さい。
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昨日、テンプレートを変更しました
2010-05-02 | Weblog
 東南アジアを連想させるテンプレートにしました。
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#5 ホーチミン市のディスコ(リターンズ)
2010-05-01 | Weblog

「今晩、ディスコに行かないか?」 
バイク・タクシーのヒューはメコン・クルーズのボートの中で聞いてきた。今日はニューイヤーズ・イブだし、社会主義国のディスコってのも気になるしな。古 めかしい建物の二階にあるディスコにヒューと行くと、彼の奥さん(ディスコで知り合ったそうだ)が二人の日本人女性を連れてきていた。彼女達と自己紹介を し、初めはおそるおそるっていう感じで踊っていたのだが、そのうち脳内にエンドルフィンとドーパミンが放出されたのだろう、体内メーターがレッド・ゾーン に入った。こうなると止めることなど不可能、私は我を忘れて踊りまくった。私の踊りは太極拳にブレイク・ダンスをミックスしたオリジナルだ。踊り始めると 周りには人がいなくなるという危険なダンスだ。ふっ、お嬢さん、気をつけなせえ。俺に惚れるなよ。この時も無我夢中でキープ・オン・ダンシング、気がつけ ばみんな、私の周りを遠巻きに見物している。もっ、もしかしてこれって奇異の.....、いや違うね!(なぜかきっぱり) 羨望の眼に決まっとる。(とむりやり納得)
 見て見て、もっと見て~。快感だわ。そのうち、輪の中から一人のベトナム少女が踊りながら出て来た。そうなの、私と一対一で日越ダンス対決をするつもり なのね。わかったわ。受けてたってあげる。私たちは我を忘れて踊った。離れては近づき、近づいては離れ、相手の差し出す一挙手一投足に呼応し、互いのリズ ムを感じ取りながら。歓声が上がり、拍手が起こる。誰かがタオルを差し出した。汗を拭いて観衆に投げ返すと、我先にと奪い合う。オーホッホッホッ。私はス ターよ。今宵のディスコ・キングなのよ~。 
ひと休みして外のソファーに座っていると、通りがかった人が「かっこよかったよ」と言って握手を求めてくる。ふっふっふっ。ホーチミンのディスコは最高だ ぜい! よしっ、来年まで踊り続けるぜい、ベイビー、と腰を上げるとヒューが「もう帰ろう」とつまらなさそうに言う。えっ? まだ11時ですぜ、だんな。   
 「ベトナムのディスコは深夜まで営業できないんだよ」 
そうか、さては私のあまりの人気を妬んでるな。仕方なく私たちは帰った。こうしてホーチミンの長く暑い夜は更けていくのであった。
そんでもってこの前、スクンビットにあるディスコ、「ナルシサス」に行った。行ってみて驚いたぜ。最先端のハウスやトランスはいいんだけどさ、みんな下半 身だけ揺らしながら踊っているのだ。何だ何だ、その金魚踊りは? やる気あんのかっ。踊りっちゅうのは、なんちゅうかこうもっと情熱的に踊るもんちゃうんかいっ! こんなんやったらグレース・ホテルのエスニック・ダンスのほうが100倍ましやっちゅうねん。かくなるうえはわしが乗り込んで踊りの基本を教えたるわっ、 とフロアに出て行こうとすると連れの女に必死に止められた。(なんでやねん) 
 私は日本ではクラブに行かないので分からんが、ハウスはああやって金魚踊りをするのが主流なのか? 誰か教えてくれ~。こうなれば次に狙うのはゲイエリアで有名なシーロム通りのソイ4じゃい。金魚野郎ども、首を洗って待っとけ!
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 海外では赴いても良いが日本国内では行きたくない場所があったりするんですね。 今回のその場合は、ディスコ。 世の中の人々の中にはホーチミン市のディスコの方が理解しやすかったかもしれない。 少なくとも彼(ホーチミン)は死去している。 従って、本当に区分けするためにホーチミンシティーと言われているようです。 
彼の怪しいダンスというよりかは、空手の様子はすでにブックマークしているのでそちらをご覧下さい。バット折りは本物です。
社会主義国家らしく、エネルギー不足による停電の問題があるからかもしれないが深夜営業をしないディスコというのも日本の1970年代のようですね。 周知の事実ですが現在、(平成22年)日本の場合ディスコ(クラブ)ばかりか多くの小売店が深夜営業している時代です。
ドリアン長野の気分が高揚していても私は一秒以内になえさせる自信があります。
例えばVeryという名のクラブ(ディスコ)って有名ですよね。 なぜならば、Discovery。 ね、一秒以内になえるでしょ?
平成10年代に作成されたお笑い海外旅行記なので半分は妄想だと考慮してからこれからもお読み下さい。 現在は、状況が違うかもしれません。
一番の疑問は、題名をサイゴンのディスコにしなかった理由だが・・・今となっては過去の名称になっているからかもしれない。
ナルシサスに限っては、タイランドのディスコ(クラブ)です。 従って、8割ベトナム2割タイランドのディスコ(クラブ)の海外旅行記だと捉えていただきたい。

 来月に続く。 周知というよりも羞恥な事実だが、来月も平成10年代の海外のディスコネタです。 
平成22年6月25日 国旗のイメージを追加しました。
 
リターンズのベトナムならびにタイランドの旅行記でした。

二カ国追加
2010-06-29 | Weblog
 二カ国追加。 ネパールとカンボジアの海外旅行記を追加しました。
 
 ネパールは、極真空手の会員と空手を現地で稽古てきて、楽しかったようです。
 
 カンボジアについては、すでに公表されていますが、ドリアン長野が某K大学生時代に赴いたそうですが、下痢によって病欠の為の追試さえも受けられない症状にしてしまうような、悪い病状に陥ったそうです。

ネパールについてはコチラ


カンボジアについてはコチラ
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香港旅行記について
2010-06-28 | Weblog
 香港旅行記については、確かに中国国内の(日本から鑑みて)海外旅行記になるが、別格扱いするといった意味です。
参考までにコチラをクリックしてみてください。
皆様、1990年代から平成10年代の海外旅行記なので混在している点をご理解下さい。 区分けは、不可能であると、当方では考えております。

 以上、元(はじめ)管理人でした。


香港についてはコチラ

以下は、バナーです。




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事情により、10月以降は新規投稿が難しくなりそうです
2010-06-27 | Weblog
 事情により、2010年10月以降は新規投稿が難しくなりそうです。
もしも、このドリアン長野海外旅行記を楽しみたい人が居られましたら、各自でバックアップを行ってください。
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国別
2010-06-25 | Weblog
 これからは国別で海外旅行記を閲覧が行えるようにしていきます。将来的に行う香港の旅行記だけは例外です。gooブログ上では文字リンクが一般的ですがそれよりも画像で分けて明確化していきます。下記のバナーをクリックされた後に中央部分の下部にご注目してください。 以上 元(はじめ)管理人でした。

http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano

別件
幾つかの部分で追記を行っています。 各自でご確認していただければ幸いです。
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バンコク伊勢丹 83日後に営業再開
2010-06-18 | Weblog
バンコク伊勢丹、24日に営業再開 83日ぶり(朝日新聞) - goo ニュース
 ご連絡
 当ブログ上では、1990年代から平成10年代の海外旅行記を発表しております。 昨今の混乱とは、ほぼ無関係の内容になっています。その辺りをご勘案の上お読みいただけると幸いです。 
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今月一日に地球の歩き方をブックマークしておきました on 2010年6月12日
2010-06-12 | Weblog
 今月一日に地球の歩き方をブックマークしておきました。 平成20年代は電子書籍が一般化しそうですがこういった書籍は必要になってくるでしょうね。 但し、日本の消費税が増税されると海外旅行者数が激減する恐れもございますね。

 以下は、紹介文です。有名な海外旅行のガイドブック地球の歩き方公式ホームページ。 大半の海外旅行希望者が旅行前に頼りにして情報を得ていると言われています。
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#6 バンコクのディスコ (リターンズ)
2010-06-01 | Weblog

 パッポン通りにある、チョー有名なディスコ「○シファー」に行った。ええ、踊りましたとも。全てを忘れて踊り狂いました。気が付いたら、2時間ぶっ続けで踊っていた。時々、白人や黒人や日本人観光客がダンスを教えてくれと進み出てきたけど、スタミナもリズム感もないから話にならないね。黒人に踊りを誉められたことが私の唯一の自慢だ。次の日は二人のタイ人大学生を引き連れて踊りに行ったが、彼らは恥ずかしがって観ているだけだ。2時間も退屈だっただろ う。誘って悪かったのぉ。ホテルに帰るのが朝の3時。寝るのは4時だ。毎日フラフラになってるのに踊り始めると身体がシャッキとするのって、これって異常 じゃないかぁ~? でもダンシング・ハイってお金がかからないから、まっいいか。そうだろっ、「VSゲストハウス」のみんな!(注)
 3日目はカトゥーイのレックとトミーを誘ったが、入口で店員が「会員じゃないと入れませんよ」とぬかしよった。嘘にきまっとろーが。オカマが入店したら 風紀が乱れるってかい。特にレック(小さい、という意味です)は名前のわりにはガタイがいいから、見た目ですぐにオカマってわかるけどな、乱れてんのはてめえの顔のほうじゃい! オカマを差別するんじゃねーっ。でも2人とも怒ったり、落胆した素振りはなかった。きっとこんな事には慣れっこになってるのね。(シクシク)
 シーロム通り、ソイ4の「TAPAS」に行ってみたのだが、閑散としている。ギャラリーが少ないと、踊ってても張り合いがない。私は自分の踊りを誰かに 賞賛してもらいたい。(我ながら、オレってやつは....)トミーが言った。 「私の知り合いがお店をやってるから、そこに行きましょう」 
 そして連れていかれたのがソイ2にある「YOUR PLACE」だった。ここはフロアから3階の吹き抜けの通路まで人でビッシリ、上から見ると、踊ってるというより、死体に群がる蛆虫がうごめいているとしか見えん。なによりもここは90パーセント以上が男、もしくは男たちのカップルで占められ、スキンへッズに皮のパンツにリストバンドという典型的なそれ系白人どもが便所でディープ・キスをしているという、ハード・ゲイからタイ人のソフト・ゲイ(?)までが集う、天下無敵のゲイ・ディスコだ~~っ! お立ち台の連中、所せましとフロアから通路まで踊り狂うゲイども、私の真後ろで椅子にのぼって半裸で肉体を誇示しているやつ、どいつもこいつも恍惚の表情をしている。はっきり言って私はうれしいぞ。踊りは熱狂的じゃないとな。みんな、明日の憂いは忘れて今夜は踊りあかそうぜいっ! エイズなんかに負けるなー!
 .......... 気が付くとまたもや2時になっていた。誰もが自分の踊りに熱中していて私には注目してくれなかったのが残念だったがな。いつの間にかレックとトミーがいなくなってしまった。外に出ると、ディスコの向かいにガラス張りのコーヒーショップがある。そこから10人くらいのモーホー野郎が横一列に座ってディスコから出てくる男を欲望に満ちた目で物色しているという香ばしい風景だ。ソイの入口で2人を探していると、左ななめ45度に熱い視線を感じた。見ると、パンク・ヘアーを金髪に染めたジャニーズ系の男の子が私を見つめ、ウインクまでしてきた。(もっ、もしかして.....)その男は近づいてきて言った。 「何してるの?」 「友だちを待ってるんだけど.....」(レックとトミー、どこ行ったんだ、早く戻ってきてくれ~!) 「あなた、ゲイ?」 「違う、違い ます! 私はゲイではありませんっ!」 そいつは一呼吸おいた後、こう言った。 「あなたのこと好きよ」 どひぇ~~っ!! 初対面の男に、しかも会ってから1分以内にそんなことを言われたのは生まれて始めてじゃいっ! 「もし友だちが見つからなかったら、そこのバーガー・キングにいるから今晩つきあって」 つっ、つきあうって一体なにをなにしてどうしてどういう意味で.....。(もはやパニック状態)
 私は友だちを探すふりしてタクシーを拾って逃げた。(バンコクでは何だかいろんな事から逃げてるなぁ)でも、でも今でもあの男の子のことを考えるたびに 残念な気持ちがするのは、なぜぇ~っ?!
注 「VSゲストハウス」はカオサンにある、ヤク中が集まる安宿として有名。宿泊客の8割以上はヤクが目当てだといっても過言ではなかろう。頻繁に警察の手入れがある。
元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項
 ドリアン長野は、現在、既婚者です。 バーガーキングは関東では営業しているが近畿では営業していない。 クリスピークリームのように近畿でも営業をしたら良いのに。 クリスピークリームは、2010年五月現在は大阪・心斎橋店 一店舗のみ営業中です。
HIVは、未だに難病です。 合併症を伴って発祥したら、どうしようもありません。
 やはり、海外ではウワサ通りに本当に悪い場所があるようです。 ドリアン長野は、虚栄心を満たしたいからディスコに行ってきたのもあるが、やはり、その危ない何かを確認したい気持ちもあったんでしょうね。 
 実際の所、皆さんあまり危ない場所に行かないのをお勧めします。 彼が極真空手の有段者だから何とか乗り切れたかもしれませんしね。影響を与えることは出来ても責任は取れません。 また、決して広告している訳では無い点は強調しておきます。
 こういった点を強調するには事情がございます。チャイナでは2010年以降、日本人の死刑執行が行われるようになりました。 まだ、お気楽な平成10年代もしくは、それ以前のお話であるのを考慮した上でドリアン長野の海外旅行記をお読みいただければ幸いです。

http://www.burgerkingjapan.co.jp
バーガーキング

http://krispykreme.jp/index.html
クリスピークリーム

ドリアン長野の海外旅行記のバナーは冒頭において発表しています。
 皆様、来月のドリアン長野の海外旅行記にご期待下さい。
追記 国旗のイメージを追加しました。 
平成22年6月25日

以上、リターンズの、タイランド旅行記でした。

追記 平成24年3月二日
 バーガーキングですが昨夏(平成23年夏)より関東ばかりか大阪市並びに京都市でも営業されています。
http://www.burgerkingjapan.co.jp/stores/index.html

バーガーキングは北海道でも来月(平成24年4月)から営業されるそうです。
 今(平成24年3月)となっては、クリスピークリームは幾つかの店舗が近畿で営業されています。
http://krispykreme.jp/store/index.cgi

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#10

2024-04-07 | 日記
まさか、一日で700名を超える人々が閲覧していたとは…
2007-09-19 | Weblog
御意見・御感想をE-mailで送信されたい方はこちらまで

durian_nagano_more@yahoo.co.jp

元々は下記のホームページで海外旅行記を発表していました。

http://members.goo.ne.jp/home/durian-nagano

そして、
http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano

に移転しました。 リンクされている方々はURLの変更をお願いします。
2007年九月19日

実際には、先日(9/15)、774名もの人々が閲覧されておられました。 その前日が、576名でした。
やはり、冷たい心よりも、暖かい心に基づく海外旅行記に心を打たれた人々が多かったのかなぁ?
お笑いの部分もございますがね。
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移転完了
2007-09-14 | Weblog
From 元管理人 To at 2007 09/14 01:54

http://blog.goo.ne.jp/durian-nagano/
皆様に伝達事項がございます。
ドリアン長野の海外旅行記は上記のURLに移転しました。
内容は、同じですが様式は変わりました。
又、恐らくは新規の旅行記は追加されない見込みです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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メインで発表していたコメント
2007-09-14 | Weblog
ドリアン長野ホームページ
長期休暇もない
有給休暇もない
リーマン・ パッカーが、
短い休日と高い航空券
にもめげず、海外を旅したお笑いエッセイ
御意見・御感想をE-mailで送信
されたい方はこちらまで
durian_nagano_more@yahoo.co.jp
一応、月一回更新していくつもりです。
2007年1月7日
色々と変更しました。2007年五月17日


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2006 07/06 23:53から2007 09/04 01:09にかけて掲示板で発表された記事
2007-09-14 | Weblog
From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 09/04 01:09 編集 返信

御連絡

皆様へ
ぼちぼちと移転作業は進んでいます。
部屋が汚いダラズに連絡
私はがんばっていますよ。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 08/18 23:25 編集 返信

ダラスはアメリカの都市

確認したら即メール下さい。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 07/31 19:53 編集 返信

続きなんだけど…

 多忙だと思われますが、時間もあって無いような状態ですので、早急に一度、お時間を下さい。
 幾つかの道が用意されています。どうしましょうか? 一応、ある程度の選択肢を伝えたので、方向性については考えておいて下さい。継続するにしても様式等が変わるということです。
 決してこれは、ジョークでもなければ、嘘でもありません。
 結論をお伝えすると、変更の決断が迫られているということです。
 

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 07/31 19:48 編集 返信

超重要<大問題発生>~とりあえず、連絡を下さい~


goo事務局からのお知らせ
goo 簡単ホームページサービス終了のお知らせ[2007/07/31]
日頃より「goo 簡単ホームページ」サービスをご利用いただき誠にありがとうございます。
2000年12月よりご提供させていただいた「goo 簡単ホームページ」サービスの提供を、
この度2007年9月30日をもちまして終了させていただくこととなりました。
goo簡単ホームページをご利用のお客様におかれましては、突然のお知らせとなります
ことをお詫び申し上げるとともに、長年ご愛顧いただきましたこと心より御礼申し上げます。
なお、サービス終了に向けては、以下のスケジュールで進めさせていただきます。
■スケジュール
------------------------------------------------------------------------
◎7月23日(月):
 「goo 簡単ホームページ」新規登録受付終了済
◎7月31日(火):
 「goo 簡単ホームページ」から「OCN Cafe」への「日記」データ移行ツール 提供開始
◎9月30日(日)
 「goo 簡単ホームページ」サービス終了
■サービス終了後の日記、ホームページの利用について
------------------------------------------------------------------------
◎400種類を超える豊富なデザイン、大容量(最大1TB)の写真や動画、豊富な絵文字など
 初めての方にも分かりやすい無料の「goo ブログ」をご利用ください。
 現在「gooブログ」では新規でご登録いただいた方へお得なキャンペーンを実施中です。
◎「goo 簡単ホームページ」の「日記」データを「OCN Cafe」に移行し、「OCN Cafe」
 でホームページ作成を続行することができます。以下の移行手順をご参照ください。
■OCN Cafeへの日記移行ツールについて
------------------------------------------------------------------------
「goo 簡単ホームページ」の「日記」データを「OCN Cafe」に移行し、 「OCN Cafe」
 でホームページ作成を続行することができます。
 移行手順は以下の通りです。
 (1)OCN Cafe新規登録を行います(※既にご登録済みの方は(2)へお進みください)。
 (2)日記データ移行受付画面にアクセスします(※簡単ホームページログインが必要です)。
 (3)OCN Cafe IDとOCN Cafeパスワードを入力し、[確認]ボタンをクリックします。
 (4)[移行する]ボタンをクリックします。
 以上で移行の受付完了となります。受付から最大48時間以内に日記データの移行を行います。
 ■日記移行ツールご利用の注意点
------------------------------------------------------------------------
 OCN Cafeへの日記移行ツールの際は、以下の点にご注意ください。
 ※アップロードした画像、および日記以外のデータは移行されません。
 ※日記の本文中に書かれたHTMLタグは無効化されます。
 ※絵文字は移行することができません。
 ※1つのgoo IDから1つのOCN Cafe IDにのみ日記データを移行できます。
 ※移行先に日記のデータが一つでも存在する場合は移行を受け付けることが
  できません。
 ※移行が完了した後に、goo簡単ホームページへ書かれた日記はOCN Cafeへ
  移行することはできません(移行操作は1回までとなります)。
 ■OCN Cafeサービス概要
------------------------------------------------------------------------
 OCN CafeはOCNが提供する無料のコミュニティサービスです。趣味や興味が合う人同士が、
 サークルを通じて交流したり日記を公開することができます。「goo 簡単ホームページ」
 の日記を移行できますので、この機会にぜひご登録ください!
  ▼OCN Cafe新規登録はこちら
   https://cafe.ocn.ne.jp/tool/regist.cgi
  ▼OCN Cafe詳細はこちら
   http://cafe.ocn.ne.jp/
------------------------------------------------------------------------
 【※ご注意】
 9月30日以降、ユーザーの皆様のホームページの閲覧・編集は一切行うことができません
 ので予めご了承ください。皆様のデータは各自保存いただくか、OCN Cafeへの日記移行
 ツールをご利用ください。
------------------------------------------------------------------------
 「goo 簡単ホームページ」をご愛用いただきました皆様には大変ご迷惑をおかけいたします。
 何卒、ご理解賜りますようお願いいたします。
  これまで長い間ご愛顧賜り、誠にありがとうございました。
 スタッフ一同、心より感謝いたします。
 今後とも、gooでは皆様に安全で快適にご利用いただけるサービスを提供して参りますので、
 引き続きご愛顧いただきますよう、よろしくお願いいたします。
 ■お問い合せ
-

To at 2007 07/07 10:17 編集 返信

追加情報

Travelコーナーに一件追加しました。皆様、お楽しみ下さい。
今回は、借金のお話です。
又、下部に次のページが読みにくいかもしれませんが存在しています。 過去に発表した内容はそちらをクリックしてください。
*補足
<某TV番組の説明>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%8A%E8%B2%B7%E3%81%84%E3%81%BE%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 06/30 16:13 編集 返信

古本屋の紹介

http://homepage3.nifty.com/bananacrepe/index.htm

From 元管理人 To at 2007 06/04 00:28 編集 返信

カンボジア製

 半分どうでもいいかもしれないけども、カンボジア製の商品を幾つか私は、所有しています。
単パンというか半ズボンのような海パンに、裏地付きのジーンズとチノパンツです。
 それだけ、経済復興が進んでいるようです。 違った観点では、原油の使い過ぎかもしれないけど…
題名とは違う内容だけど、Travelコーナーで一件追加しただけで、たくさんの閲覧者がおられましたね。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 06/03 00:50 編集 返信

報告と日本の現状

 Travelコーナーにおいて、月例の一件追加をしました。
皆様、お楽しみ下さい。
 日本でも似たような御商売をされておられますが、カンボジアであって日本の現状とは全く赴きが異なってきますので、その点は皆様ご勘案ください。
要は、果物のミキサー商売は東南アジアではダメでも日本では問題が無いということです。
私も以前、ジューサーバーにて販売されているジュースを購入しました。 とてもおいしく、一切問題ありませんでした。
http://www.juicerbar.com/
 皆様、彼が社会人になって勉学に目覚め休日に十時間勉強して難関の某KS大学に合格した後に、カンボジアで下痢になって中退されたお話の感想文は、BBSで書き込みください。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 05/27 21:10 編集 返信

LinksとLog

LinksとLogの両者を一部変更。
前者は、AZさんのホームページ。
後者は、色変更。
来月になったら、Travelコーナーに追記予定。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 05/07 22:31 編集 返信

メインの部分を少し変更

 色々と考える所があり、変更。 どこかの球団のような感じだったからなぁ。
水色だったら大丈夫。 思っていたよりかは、読みやすいし…

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 05/06 00:36 編集 返信

2007ゴールデンウィーク最後の更新?

 Linksの部分で少々、調整。 多少ですけどもね。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 05/02 23:05 編集 返信

2007年ゴールデンウィークの更新情報


a.本人自身がDiaryコーナーにて、原稿を出版社に渡す過程で遅延が発生した悪影響から今年の発売予定から来年二月に著書の販売がずれ込む事を発表。
b.Travelコーナーにて追加発表。
c.Linksコーナーにて追加。
 皆様、よい黄金週間をお過ごし下さい。

From 元管理人 To at 2007 04/17 19:05 編集 返信

追加

 Travelコーナーに一件追加。
本編でも伝達しましたが日時等について過去の詳細な記録がありませんので適当に日付けの部分は選択しました。 皆様、ご了承下さい。
~個人的に驚いた事~
7月22日ロータリーというのは、タイランドでは有名だそうです。 そうなんです、タイにある、ロータリーの名称が『7月22日ロータリー』との事です。  詳細は、こちら。
http://www.e-guide-books.com/bkk/syuyouspot/kankou1.htm

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 04/11 00:50 編集 返信

白にしようとしたが黒に変更

題名通り。
テキスト(本分)を白にしたら、CDコーナーが読みにくいので、黒に変更しました。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 03/27 15:31 編集 返信

リンク先追加

西原理恵子公式サイト鳥 頭 の 城を追加しました。
皆様、閲覧してみてください。

From はじめかんりにん To durian-nagano@goo at 2007 03/26 20:58 編集 返信

感動

適当にインターネットを閲覧していたら、素晴らしいホームページに遭遇。
以下は、そのアドレス。
http://www.mormon.org/welcome/06929403-500.html
地味にバナー広告を出している、みたい。

From とりあえず To at 2007 03/23 14:40 編集 返信

ある動物

http://www.youtube.com/watch?v=ym5HXo1meQU


From エヘヘヘヘ~ To durian-nagano@goo at 2007 03/17 00:12 編集 返信

ミラクル

 元管理人です。
 なんか、昨晩、ちょっとこうおかしな事が続いていたりしました。 
メールサーバーに問題が発生したりとかぁ、飲食店で異物混入とかぁ、水が拭かれていないお皿で餃子が出てきたとかぁ、だけど、本当に強烈なのは、あなたの結婚がほぼ決まった事と、ファクトリーミュージックさんも結婚が決まった事かな?
 脱力しています。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 03/11 16:16 編集 返信

思い出すよなぁ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070311-00000024-nks-ent

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 03/02 21:36 編集 返信

Linksに一件追加

 題名通りです。
ひょっとしたら、本日のこの更新が、今月の最初で最後の更新かもしれません。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 02/04 16:23 編集 返信

トラベルコーナーに追加

いつも通りの追加です。
そういえば、今回の追加で思ったのは(個人的な読書感想文)、京都大学って超インテリだけど、ダメか?
明るくてもインテリがいてるけどもなぁ。
私は過去に責任をとってもらった人から「狡猾」と非難された経験がございます。これも、難しい問題ですね。 まぁ誇りに思うべきなんでしょうけどもね。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2007 01/28 15:01 編集 返信

リンクの追加

リンクを追加しておきました。
皆様、御確認下さい。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2006 12/21 00:45 編集 返信

追加

Travelコーナーに一件追加しました。
恐らくは、本年最後の追加だと思われます。
皆様、良いお年をお過ごし下さい。

From 元管理人 To at 2006 11/21 23:42 編集 返信

追加

Travelコーナーに一件追加しました。
Linksコーナーに一件追加しました。
ー皆様にお知らせー
Travelコーナーなんですが、過去の内容(お笑いエッセイ)ですので、記憶を頼りにした記録なので、あまり正確な記録ではありません。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2006 11/11 12:50 編集 返信

画像編集ソフト

 画像編集ソフトですが、どうしましょう?
とりあえず、返答下さい。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2006 10/14 15:04 編集 返信

総裁のニューバナー

http://www.mas-oyama.com/img/banner_godhand_8831.gif
http://www.mas-oyama.com/img/banner_godhand_350115.jpg
上記の二点ですが、どうしましょうか?

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2006 09/22 22:24 編集 返信

いきなり

 かっ飛ばしていますね。 $100やられたのには笑いました。
 「日本国内で寄付してきました。 私は急いでいるので失礼します。」位の返答して、先を急いだ方が良いなぁと私は今考えています。
 とりあえず、Diary復帰おめでとうございます。
まぁ、確かにしばらくは更新がなかった状態でしたね。
これからも、がんばってください。
超不定期更新ですので皆様、気楽にこのホームページを閲覧してください。

From かおる To durian-nagano@goo at 2006 09/18 23:34 編集 返信

RE:祝10000 人

Slimyお元気ですか?わたしは元気ですが、あなたの家に行けないでいます。今pattiの本を読んでいます。彼女を紹介してくれたことに感謝してる。bad news or good news教えてください。また逢える日まで さようなら。

From 元管理人 To at 2006 09/06 21:35 編集 返信

色々と~(4点程連絡)

 1.
 先週土曜日(9/2)に、メニューの背景色を赤からカーマイン色に変更しました。
 2.
 Linksで紹介しているサイトの説明文をわずかですが増加させました。
実際には、「バナーが採用された上での相互リンク」と書き記したのみです。
 3.
 これからしばらくは、Diaryコーナーでの海外旅行記の発表はありません。
代わりに過去に発表した海外旅行記をTravelコーナーで発表予定です。 当ホームページは、個人的な旅行記であり過去の事ですので有名なTV番組「水曜どうでしょう」のような正確な記録ではありません。 基本が「お笑いエッセイ」ですので、その部分については御理解下さい。
 これからもホームページの継続はしますが、「一応、目標として10000人を超える閲覧者が来たら良いなぁ~。」といった感じで始めました。 そして、その目標は到達されました。 皆様、これからもよろしくお願いします。
4.オマケ
 NO 110 インド編 その6で発表されていた「パルナス」については、このホームページを閲覧してください。
おいしいお店でした。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~toyoura/parnus/
 実は、以前に、パルナスから独立して今でも忠実にその味を守っているお店である「モンパルナス(尼崎市)」に私は来店し商品を購入し、食した事がございます。おいしかったです。
又、今年の9月8日(金)~13日(水)の6日間、近鉄百貨店阿倍野本店にてウィークリー・ベーカリーのコーナーでピロシキ、パンの販売を行われるそうです。
http://www.pirosiki.com/

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2006 07/06 23:53 編集 返信

一応

先程、色並びに、リンクの文字の色を変更しました。
とりあえず、返答下さい。
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2005 11/26 20:23から2006 05/29 23:20にかけて掲示板で発表された記事
2007-09-14 | Weblog
 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 連絡が掲示板ということもありますね。ライブについての感想といっても演奏についての感想か参加したことについての感想かは人それぞれです。
 2006年は平成18年ということもあって海外旅行記の新作が発表されていました。ビルマ旅行記は16話に至るので長編の領域ですね。
以前「訪問者が一万人を超えたら良いな。」とドリアン長野は発言してました。そして、簡単ホームページ時代に本当にその目標が達成されました。ドリアン長野は嬉しかったようです。

 色々な事情を鑑みてそれなりの決断を下す事もありました。仕方がなかったです。平成24年にドリアン長野と直接会って決めました。否定しなかった以上は黙認です。

From 管理人 To durian-nagano@goo at 2006 05/29 23:20 編集 返信

まぁちょこっと

変わりましたよね~
次のお話が楽しみです。
常備薬を持って海外に行かないとやはり大変ですね。国内旅行でもそうですけどもね。
相互リンクの申請はそろそろ行います。
 私に慈悲の心が完全に欠落しているだけではなくてそれを踏まえてエグイ行動をとってしまうことを躊躇しないと思われていた事もあり、先日、上の人から是正を求められ悲しい思いをしている副管理人をしている元(発音は、ハジメ)管理人でした。 
実際の所、ここもかなり注目されているけどもね。

From 管理人 To durian-nagano@goo at 2006 05/18 23:37 編集 返信

本当に復学する事が出来なくなったようですね。

関大2部 苦学生の“希望”120年で幕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060518-00000023-san-soci
 確か、あれは、1990年代でしたね。 苦労して、勉強して、お金をためて社会人になってから入学し背広を来て大学に行ったら教授に間違われたのは・・・

From 管理人 To durian-nagano@goo at 2006 05/17 02:39 編集 返信

一応、連絡

 先日、関東のあの偉大な先生に会ってきて、とりあえず、ここのサイトを推薦しておきました。その内に、相互リンクされるかも? 一応、インターネットの担当者がおられるので、質問くらいはなんとかなるみたいです。
 念のために発表しておきますが、私は今迄の所、日本を出国したことがありません。 
誤解の無いようにさらに説明を付加しておきますが、ドリアン長野氏は外国に赴き、そこでの体験をこの場で発表しています。 私は、その手助けをしているだけです。 従って、私の体験談をこの場で発表しているわけではありません。
 管理人マーキュリーマークによる追記 平成28年3月21日
 平成10年代と平成20年代は大きく状況が違ってきてます。百歩譲って某サイトについては問題が無いようなのですが複数の方が連絡する恐れがあるとのこと。我々は趣味でホームページを楽しんでますからそういった問題が発生する恐れを低減させておきたいのでウチの紹介を取りやめてもらって構いません。ウチは平成24年に取りやめました。こういった状況について私は全く予想が行えませんでした。
 平成27年10月に私はカナダのブリティッシュコロンビア州を旅行してきましたので日本からの出国をしました。もしも、カナダ旅行記を読まれたい方はこちらをクリックしてください。


From 管理人 To at 2006 05/09 03:23 編集 返信

あのよぉ~

ある意味、最強の夜回り先生とも言われている水谷先生のホームページをリンクする気ない?

To at 2006 04/26 22:57 編集 返信

祝10000 人

2003年から始めたHPへの訪問者数が今日で一万人をカウントしました。「ドリアン日記」を御愛読くださった皆様の一人一人に篤く御礼申し上げます。励ましや御感想をメールしてくださった読者の皆様、本当にありがとうございました。これからも御愛顧御願奉候。
恐惶謹言頓首

From 管理人 To durian-nagano@goo at 2006 04/14 01:23 編集 返信

そろそろ

閲覧者数10000人を超える見込みですね。
細かい部分ですが、色々と変更しておきました。

From エイプリルフール To durian-nagano@goo at 2006 04/01 22:39 編集 返信

エイプリルフール

ドリアン長野さんですが、旅先のユーゴスラビアで死去しました。
慎んで御悔やみ申し上げます。
以上、エイプリルフールでした。
ちゃんちゃん。

From 管理人 To durian-nagano@goo at 2006 01/19 23:42 編集 返信

三時間で閉店

 笑えるというか、良い意味で相変わらず上手に実体験を発表されておられますねぇ。
模倣は、模倣であって本家では無いということですね。
 スローフードが昨今、見直されていますが、やはり現地の土着料理を楽しむのが旅行の王道かもしれませんね。
 大○館の不手際を忘れる位の、浄化された旅行だったのかもしませんね。 また、続けて下さい。
 三時間で潰れるは良い表現でしたね。

From 管理人 To durian-nagano@goo at 2006 01/17 09:13 編集 返信

 本日は、1.17

 黙祷
 あの震災の時は、大変でしたね。
これ以上は控えておきます。
 話しは変わってぇ~
 そろそろとりあえずの第一目標である、10000人超えが9000人を超えた事もあり現実味を帯びて来ましたね。

From ほとんど傍観者 To durian-nagano@goo at 2006 01/10 23:14 編集 返信

えらいことだったんですね

 とりあえず、ビルマに行けたようで良かったですね。
私も、かつて北海道に行く時にKIX(関空)に赴きました。 その時に似たような体験をしました。 私の場合は、南海難波(ナンバ)駅迄タクシーでしたけどもね。難波からは、ラピートに乗車しました。
 次からは、もう少し余裕を持って海外旅行の計画をされてもよろしいかもしれませんね。
 まぁ、今回に限っては、外的要因のようですけどもね。
 そういえば、以前、USAからカンボジア製のジーンズと綿パンを購入したなぁ。 
 返答下さい。

From かんりにん To durian-nagano@goo at 2006 01/01 15:31 編集 返信

2006年 元旦

あけましておめでとうございます

To at 2005 12/17 11:55 編集 返信

RE:THANXXXXXXXXXX!!!!!!

KINGさん、カキコありがとうございます!やっぱり地元ではすごい人気ですね。是非またそちらに行きたいです。トリップしたかったらいつでも動物園前へ!(BGM「MAROON5」)

From 68 To durian-nagano@goo at 2005 12/16 19:23 編集 返信

THANXXXXXXXXXX!!!!!!

ドリアン氏、大阪ライブ参戦ありがとうございました!!
大阪は怖いです。カオスです。カオスdeath!!!
動物公園駅・is・アンチクロックワイズ。
ドリアン氏の差し入れもカオスでした。嘘です。ありがとうございます。
またこちらにも来て下さい!!
みんな待ってます!
68

From 管理者 To durian-nagano@goo at 2005 11/26 20:23 編集 返信

一応、これがメールアドレスです

kyokushin@mas-oyama.com
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2005 06/13 00:11から2005 11/26 20:16にかけて掲示板で発表された記事
2007-09-14 | Weblog
From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2005 11/26 20:16 編集 返信

ちょこちょこと変更

 バナーですが、黒い背景に黒のバナーは 少し目立たないかなぁと思い、大山総裁の顔写真にしておきました。 一応リンクをし終えた旨についての(*1行う必要がある)大山総裁のホームページへの連絡は、そちらで行っていただけませんか? 
 よろしくお願いします。
追記 *プロフィールコーナーの大山総裁の顔写真も近日中に変更しておきます。
又、紹介文面も最適化しておきました。
大山総裁ホームページへの連絡メールの送信を終えたら私にも一応、メールで連絡をお願いします。 むろん、何らかの問題があれば連絡をその際に送信して下さい。
*1背景は、以下の文章です。
http://www.mas-oyama.com/link.html
「当サイトにリンクを張られる際には、以下のバナーをご使用ください。
ただしその際にはサイト名称を「大山倍達公式サイト-God Hand」と表記してください。
尚、リンクを張られた際には、ご一報いただければ幸いです」
http://www.mas-oyama.com/img/bunner1.jpg
http://www.mas-oyama.com/logo01.jpg

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 11/21 01:11 編集 返信

あのぉ

 マス大山総裁の、ホームページが今度の金曜日にリニューアルオープンする予定なんですが、紹介文はどうします?
ほったらかしでも良いけども

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 11/18 23:51 編集 返信

今すぐ

そっちに行こうかと考えたけども、辞めておきますね。
所で明日の阿部野のダンパは、行くの?
それと、幾つかの御連絡はメールで済ませました。
それでは、又。

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2005 10/21 18:55 編集 返信

sorry

 申し訳ありません。
 実は、私は翌晩は茨木市の教会のダンスパーティーに行く予定がございます。
それと、実は明日の土曜日は、横堤(大阪市鶴見区 長堀鶴見緑地線)の石けん工場のアウトレット販売がありそこで石けんが市価に比べて半額で購入出来るのでまとめ買いをする予定なので午前中はそれ(石けんの購入)で忙しいです。
その日の食事は、アウトレットブロッサムのインド料理店ですませる予定です。
正午過ぎは、J.crew(アパレルで有名なレナウン)のアウトレットに行きます。
それが終わると、冒頭で述べた通りの用事です。
ただ、茨木市から帰宅した後だと話は別です。  午後10時を回るかもしれません。
 今、心斎橋で書き込みをしているので、今からそちら(あなたの自宅)に行こうかなぁ?

From ドリ( Mail ) To durian-nagano@goo at 2005 10/21 18:34 編集 返信

まさか

おれはそんなことで怒ったりしないよ(怒るのは別の件で。それは君もよくわかってるだろう)。
症状はoutlook expressを起動すると「起動中にエラーが起こりました。ファイルの終わりです」というメッセージがでます。初期設定が壊れたみたい。明日の21時以降なら在宅してるけど。成功報酬は2千でどう?

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 10/21 01:24 編集 返信

あ、だけど

 修理が出来ないからという理由で、ボコボコに殴られたりといった暴力事件の被害者に私はならないですよね?
どの辺りで故障しているというか不具合が発生しているかが現時点では不明ですからね。

From 元管理人 To at 2005 10/21 01:16 編集 返信

RE:元管理者へ

>outlook expressが起動しなくなったけど、きみ直せる?
>報酬は相談に応ず
とりあえず、そちらに自宅訪問してからでないと修理出来ませんし症状を確認してみないことには返答が出来ません。
一応、方法は存在しているし、それを行えば、プリンターも再度使用が可能だと思います。 ただ、少し荒療治ですけどもね。

From ドリアン( Mail ) To at 2005 10/21 01:11 編集 返信

元管理者へ

outlook expressが起動しなくなったけど、きみ直せる?
報酬は相談に応ず

To at 2005 10/17 23:56 編集 返信

再度、変更

 以前の植物でも問題は無いと思うけども、レンガに変更しておきました。
連絡お願いします。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 10/06 02:57 編集 返信

一応いろいろと変更しておきました

例えば、マス大山総裁の写真大アップを容易に閲覧出来るようにしておきました。
後、背景も植物に変更しておきました。
もしも、問題があれば、再度変更しておきます。ありがとうございます。押忍! 
追伸
前者は、良いが後者は悪いとか?

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 10/06 01:20 編集 返信

私の両親からの伝言

 「長野さんから喜ばれる事をしなさい。」と命令されたので、このHPを継続します。
さて、AZさんの告知ですが、もう少し分かりやすくというか、TOP開けたらすぐに分かるようにしておきましょうか?
24時間以内に返答が無かったらこのままです。

From AZ( HP ) To durian-nagano@goo at 2005 09/27 10:44 編集 返信

お久しぶりです~♪

告知させてくださいませ( ̄∀ ̄)ノ
A&A企画主催のROCK イベント!!!
【LIKE A ROLLING STONE】vol.3
今回も最強のROCK'N ROLL引っ提げてやりまっせぇ!!!
2005/10/09(日)三連休のど真ん中!!!
まずは1BAND目
こいつらのROCK魂は半端じゃねぇ!
関西ROCKシーンには欠かせない
【パレット】
そして…
2BAND目は…
エロこそ究極の愛!!
FUNK ROCKの常識をひっくり返すか?!
【関川塾】
3BAND目は
ビジュアルROCKここに見参!!!
COOLなビジュアルに秘めたHEARTはとにかく熱い!!!
【Antithesis ♭5th】
そして最後は
へなちょこへべれけヨッパライダーVocal AZの暴走を
Memberがどこまで許すか?!
BLUES ROCK魂ここにあり!!
【AZ in Jerseys】
さらに!!!
各出演者達のステージングに華と彩を着けてくれるのは
絵画界の貴公子
ペイントパフォーマー
【引野 裕詞】
open 17:00 start 17:30
チケット料金前売1500円!当日2000円!
場所:中津Vi-code 
 http://www.vi-code.com/
しっかり元以上のパワー取って帰ってくれぃ♪
*管理人様…貴重なスペースありがとうございました~♪

To at 2005 06/14 19:43 編集 返信

ことば

訪問ありがとうございました。ちょっとした言葉で生きる力を与えられたりってことよくありますよね(私はよくあります)。「言葉」で私の好きな詩を思い出しました。
「ことば」 谷川俊太郎
問われて答えたのではなかった
そのことばは涙のように
私からこぼれた
辞書から択んだのではなかった
そのことばは
笑いのように
私からはじけた
知らせるためではなかった
呼ぶためではなかった
歌うためでもなかった
ほんとうにこの私だったろうか
それをあなたに云ったのは
あの秋の道で
思いがけなくただ一度
もうとりかえすすべもなく
はい。上海に行ったのは私自身です。

From Mayuko To durian-nagano@goo at 2005 06/14 09:26 編集 返信

初めまして♪

昨日はHPに遊びに来ていただいてありがとうございました!基本的に友達や家族にしか公開していなかったので、ドリアン長野さんに来ていただいてお言葉をいただき嬉しかったです。
色々なコトバや経験を通じて、人に伝えたいことってありますよね。また遊びに来ます。
追伸。ドリアン長野さんが上海に行かれたのですか?

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 06/13 00:11 編集 返信

そうそう

先週土曜日は、ごくろうさまでした

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 06/13 00:11 編集 返信

だから、大阪に来たの?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050612-00000013-mai-soci
鳥取県って、放射能の町なんですね。
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2004 04/28 14:53から2005 06/01 00:08にかけて掲示板で書かれた記事
2007-09-14 | Weblog

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 06/01 00:08 編集 返信

連絡したとおりです

これからは、御自身でがんばってください。
以前伝え忘れた事を親切心で伝えようとしましたが、やめざるをえません。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 06/01 00:05 編集 返信

連絡したとおりです

これからは、以前伝え忘れた事を親切心で伝えようとしましたが、やめざるをえません。
がんばってください。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 05/18 23:44 編集 返信

あの一件だけど

早い事連絡ください。
まぁ、一応は今月とは言ったが、ほとんど三分の二を過ぎているし・・・

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 05/13 02:27 編集 返信

そういやぁ

 あなたの○○って、ウェズリー・スナイプスをアジア系にしたような感じですよね。

From 元管理人 To at 2005 04/28 23:47 編集 返信

あなたの地元は熱かったみたいですね

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050428-00000188-kyodo-soci
それと、熱い内容の書き込みに感謝です。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 04/21 01:19 編集 返信

一度、みんなで

ジンギスカンを食べませんか?
おいしいですけども。
ルート(押さえている)と、やり方は知っている。
どうする?

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 04/18 00:08 編集 返信

最近、発生した日中間の問題について

一言お願いします。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 04/16 01:02 編集 返信

ショック

http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/sports/20050415/20050415a5710.html

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 04/13 02:27 編集 返信

実際の所

 香港の人々に限って言うと、キリスト教の環境が非常に恵まれているようですね。 返還された現在もです。
中国のキリスト教徒が、繁栄する事を願いますね。
但し、しばらく、時間がかかるかもしれない。 仮に日本でも極端な話し、かつては違法だったものが現在では合法になっても、勘違いする人がいるのと同じですしね。 法曹上、規制緩和されても人々の心の規制緩和には時間がかかると私は考えます。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 04/13 02:20 編集 返信

あのよぉ

 私の知り合いで、シングルマザーやっている人がいて、あなたの事を話したら会いたいみたい。
 会ってみない?
 今度、空手教室でその人の事を話しさせてくださいね。
 紹介するから会うだけ、会って下さい。お願いします。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 04/01 01:36 編集 返信

あ~悪いけども

やっぱり、助けるのは、やめておくわ。
エイプリルフールでした。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2005 03/18 01:11 編集 返信

一応、再度説明するけども

 このホームページを運営するのに必要なフリーメールに送信される、メールがサーバーの許容量を超えている恐れがあるので、そちらに訪問させていただきたいが、この説明でも分からないだろうなぁ。
 別件
 未婚の母の道を選択した人があなたの自宅の近くで美容師として勤務しているので紹介したいのだが、どうする?そのお母さんは、小さい息子さんを育てるために一生懸命にがんばっているお母さんです。 ぜひ紹介したいです。 お願いします。
 沖縄県はダメだったし、F県もイマイチ不調だったみたいだし、どうする? もしも、必要ならばここの掲示板で返答をお願いします。
 あの時、私は、ミキサーを洗わないといけなかったんだけどなぁ~
(以下略)

From 元管理者 To at 2005 03/09 01:11 編集 返信

感想文

そりゃまぁあなたが、独身だからか?
本は、読んでいませんけどもね。
それと、LOGが結構、多くなっているのは、やはり悲しみとその試練を乗り越えた感動にうえている人々が多いからでしょうね。
こういった事を続けると、10000人倶楽部に加入出来る日も近いでしょうね。

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2005 02/27 19:56 編集 返信

ちょっとした連絡

 説明するのが、少々難しいのだが、インターネットの技術的な問題で直接会って話がしたい。 一応、この問題は軽視しつづけると大変な事になる。メールサーバーが、パンクしかねない内容なので、そちらに訪問したい。
これは、以前、私が説明不足の為に発生した問題の内容なので、私の責任であり伝える必要性を感じています。 無論、あなたには選ぶ権利があります。 肯定するか否定するか、あなたで決めて下さい。
あなたの、e-mailアドレスが今、分からないので、あなたの御自宅で会える日をe-mailで連絡してください。
肯定・否定に関わらず、早急にe-mailで連絡してください。
お願いします。

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2005 01/30 22:34 編集 返信

すいません

お手間をとらせ、ストレスがたまっていたんです。
すいません。

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2004 09/14 02:02 編集 返信

お~い

 今回の日記って、書評だから、Bookコーナーだと思うけど・・・
ところで、早いこと、スミレさんに、返答してあげてください。
別件
返本しておきました。

To sumire_1120@goo at 2004 09/12 01:54 編集 返信

「塩狩峠」

「塩狩峠」最近読んで大きな影響を受けました。椎名林檎さんも15歳の時に読んで以来、今でも彼女のテーマになっているそうです。

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2004 09/04 15:58 編集 返信

一応、こういった情報が・・・

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040904-00000014-ykf-ent
事実上の最終作かもしれません。

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2004 08/25 10:00 編集 返信

今日は、悲しい日ですね

恐らくは、昨晩は行っただろうけども、本日は来られないでしょうね。
連絡を受けた時には、まさか・・・といった感じでした。
実は、教会員からそういった情報を受けていたが、悲しく残念です。
出来たら、返答、御願いします。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2004 07/27 16:37 編集 返信

ひょっとして

今月、日記は無し? 
何か、書いた方が良いと思うけども・・・
何でも良いから書いたらどうですか?
もしかして、iMacの故障?

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2004 07/11 22:48 編集 返信

与野党逆転か?

今日は、凄い選挙戦になってますね。

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2004 07/01 22:29 編集 返信

第三バナー追加

本日、第三バナー追加しました。 感想をどうぞ。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2004 06/13 21:18 編集 返信

メール

 にっしゃんから聞きましたが、メールが機能していないようですね。
暫定的というか、一時的に下記のメールを使われてわ、いかがでしょうか?
http://community.goo.ne.jp/freemail/
パスポートIDの部分に
durian-nagano
と記入した後に、例のパスワードを入れてみてください。
機能するはずです。 とりあえず、この掲示板でも良いから返答下さい。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2004 06/11 00:55 編集 返信

注目の記事

http://news.goo.ne.jp/news/fuji/geino/20040610/20040610-f-42.html
下記の部分に注目
マス大山先生のDVDが発売されるんですね。

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2004 06/07 17:16 編集 返信

まぁ、こんなものかな

つーわけです。後は、にっしゃんの方がバナー出来たら、連絡入って即なんとかしましょう。(将来の話し)

To at 2004 06/07 16:57 編集 返信

ちょっとした訂正

最近、ガラの悪い勘違いしたヤク○みたいなやつにからまれ、イライラしていたが、やはり、「冷たい人間よりも温かい人間になろう。」
センターのタグを用いて、メインの部分の説明文を中央に集まるようにしておきました。 
これで読みやすくなり、見栄えもよくなります。
まだほんの少し訂正を加えます。 AZさんのlinkの部分とかね。

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2004 06/07 16:43 編集 返信

まぁまぁ

 そうじゃなくて、インターネットのスキルアップをしてください。
・・・という親心です。
厳しさが優しさです。
しかし、まぁ、AZさんの方は近日中に、ちゃんとやっておきましょう。 ついでに他の行動もとっておきましょう。
人に頼るよりも、自分で何かが出来るようになった方が良いに決まっています。 私は基礎を築いたからこれからは、貴方が、あなたのHPをきちんと管理してください。 
 人をおちょくって楽しんでいる訳ではありません。
私も苦労して、色々な事を勉強しました。 そういった辛い試練(コンピューターの勉強)を乗り越えて初めて色々な事がインターネット上で行えるようになりました。その点は誤解しないでください。
このメッセージは大人であったら理解してください。目の前でも言えますよ。 辛い思いをしながら、色々と勉強してきた事を・・・ こっちが真剣にやっていても電動歯ブラシをウイーンってやっているのが、どれだけ理不尽に感じたとか・・・
まぁ、言っても愚痴にしか聞こえないし恥ずかしいから言わないし、聞かないけどもね・・・

From 元管理人 To durian-nagano@goo at 2004 04/30 01:29 編集 返信

ワールドイズマイン

ワールドイズマインの入手についてですが、結論をまとめると、
ヤフオクでは入手出来るようです。
但し、全巻セットという条件付きのようです。

To at 2004 04/28 18:36 編集 返信

RE:あの例の作品が・・・

お願いします。

From 元管理人( HP ) To durian-nagano@goo at 2004 04/28 14:53 編集 返信

あの例の作品が・・・

例の1がOVAに成ってDVD版で販売されているのをご存じでしたか?
マンガでは、書ききれなかった部分を特別にアニメで補っているそうです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006F1VB/ref=pd_sims_dp__5/250-2374486-0729800
http://www.jmdb.ne.jp/2002/ov135710.htm
要は、実写版だけではなくて、マンガの雰囲気が楽しめる、OVAでも発売されている訳です。 
 OVAとはオリジナルビジュアルアニメーションの略称です。 元々は、videoでしたがね。
それと、例のワールドイズマインですが、なかなか不可能かもしれませんが探しておきましょうか?

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#9

2024-04-07 | 日記
2004 01/15 23:21から2004 04/25 22:23にかけて掲示板で書かれた記事
2007-09-14 | Weblog

To radiohead1175@goo at 2004 04/25 22:23 編集 返信

ジョンはいずこに

PILの1stと2ndはレゲエの影響が大ですね。それを白人音楽に解釈しているのは流石。特に「アナリサ」とか「ポップ・トーンズ」とか。レコードのメタルボックスは今や錆びだらけになってしまいました。PILは2回か3回、来日していると思いますが、全て観に行きました。ピストルズ再結成のときも行ったけど、観客の熱狂のほうが凄かったです(オール・スタンディングで全員がポゴダンス)。アフリカ・バンバータやレフト・フィールドとかとコラボもしていたけど、ジョンは今どうしているんだろう(遠い目)。

To at 2004 04/25 21:48 編集 返信

Avalonさん、お久しぶりです!

あ、ありがとうございます(涙)。出版記念パーティーでは私の四川料理でおもてなししましょう。しかわじゃないの、しせんと読むんだよ、西田く~ん!あっ、いえ、こっちの話です。連休は香港に行くので、生きていたらまたHP上でお会いしましょう。

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2004 04/24 23:50 編集 返信

それと、思い出した

「大山倍達オフィシャルサイト」
のリンクの一件なんですが、説明文はどうしましょうか?
メール下さい。

From 元管理者 To at 2004 04/24 21:57 編集 返信

てゆーか

Avalonさん
明日のドリアン長野の自宅で行われる、食事会で大暴れしたらいいんじゃないのでしょうか?
明日は、どれだけ発狂しようかなぁ
ドリアン長野へ連絡
今頃、空手教室が終わり帰宅しているか、食事をしていると思う。
食事で思い出したのが、私は、本日、おやつにバングラデッシュ料理店で、チキンチョウメン(アサダNO産の帳面とは関係ありません、笑い)を食べました。 こちらでは材料の関係上、スパゲティで代用されているがカレーパスタと考えたら良い線いくかな? 本当はちょっと違うけども、それは食べてからのお楽しみ。
具体的には、一旦、数種類のお野菜と鶏肉をカレー粉で炒めてパスタと絡めたパスタ料理かな? 良い刺激になったあれと似たような料理を機会があれば調理しよう。
 それと、例のマス大山氏のバナーですが、あれが最善の選択です。 これ以外は無理です。
話しはかわるが、一説によると、「やはりインド・パキスタンは、やはり核戦争が避けられないかも?」と考えられている。
とりあえず、ご連絡下さい。

From Avalon To durian-nagano@goo at 2004 04/24 05:28 編集 返信

お久しぶりです!

ども!
初めて書き込みします
憶えてくれてますか?Avalonです
ここんとこ、、なんだかストレスだらけの生活だったのですが
ドリアンさんのDIARY、、、
やはり、とっても、いいです。
なんか、気持ちが別の空間に飛んでいけるようで、
そして、ジワ~~っと、気持ちの奥に滲みてくるものがあり、、
日記でありますがエッセイでもあって、、
是非書き続けて近い将来、出版記念パーティー開いてくださいそして、美味しいものたくさん用意して
招待してください。アレ?!(^^)

To radiohead1175@goo at 2004 04/21 00:35 編集 返信

radioheadさま

未知の音楽を知ることが出来、感謝!!です。これからもレヴューをチェックさせていただきます。私もレディオヘッド、レッチリ、ニューオーダー、オアシス(実は一番好きなのが「BE HERE NOW」なんです。「Magic Pie」を聴くと音楽のマジックを感じます)、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、ストロークス、ホワイト・ストライプス等等、大好きです。スマパンは自分で編集したMDをそれこそ毎日聴いてましたが、聴くたびに感動してうるうるしてました(われながら無気味)。パンク~オルタナにおいて激しさと哀しみをギリギリにまで同居させているバンドは、私の知る限り、スマパンだけです。おっしゃる通り、ソングライティングも素晴らしいですね。「武装解除」なんか、中絶に対する男の悲しみを歌ったものだと思うんですが、ビリーの歌声と相俟って、せつなくなります。

To radiohead1175@goo at 2004 04/19 21:27 編集 返信

初めまして

初めて書き込みします。お勧めのCDを読んで、ジョー・ストラマー&ザ・メスカレロス、シガー・ロス、ライアーズ、マーズ・ウ゛ォルタを購入しました。どれも素晴らしかったです。またお勧めがあれば教えて下さい。
ハロルド作石「BECK」に出てくる架空のバンド、「ダイイング・ブリード」のマット・リードのモデルはビリー・コーガンですね。スマパンは私が世界一好きなバンドです。

From 元管理者 To at 2004 03/03 19:08 編集 返信

伝言

AZさんへ
貧血予防には鉄分です。 
鉄板焼き。
フランス産の硬水。 日本の水道水に比べて10倍以上のカルシウムが含まれているばかりか、マグネシウムも豊富に含まれている硬水が日本でも販売されています。
http://www.lodgecastiron-shop.com/
上記のURLを見られたら理解されるとは思われますが、鉄板で調理した料理を食べるようになると、貧血とはさようならです。
From AZ( Mail ) To durian-nagano@goo at 2004 03/03 14:01 編集 返信

元気ですかぁぁぁぁぁ?!

あたしは…只今負け犬状態です(苦笑)
3月1日…全身で堪能しました。
世界レベル…
リハ後から緊張とプレッシャーで吐きまくってました(苦笑)
しかも、本番中緊張のあまり貧血起こして倒れちまいました(_ _;)
すぐ立ち上がって歌ったけど、も…ボロボロ…
世界中で活躍し続けるミュージシャンの放つオーラというのは、スゴイです。
はい…本気ですっごい重圧を感じました…
AZ WORLDの日記にも書いたけど、もっとVOCALとしての自信とずうずうしさが欲しいと痛感中…( ̄∀ ̄;)
WABIさんに「AZちゃんはこの先、1000人2000人以上の人の前で歌うようになる」なぁんて言ってもらったけど、まだまだ…自分の精神力の弱さに涙止まりませんでしたわ(_ _;)
歌うことやステージに立つことが怖いと初めて感じました。
でも、落ち込んでばかりもいられないんだなぁ…歌は辞められないもん♪
それに、
…負け犬は、あと勝ちつづけるしか道は残ってないんだもんねぇぇぇぇ(/T▽T)/
頑張るぅぅぅ!!!
13日は、一皮剥けたAZを見にきて下さい!!!
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Vocal/5257/

From zen-aki-ren@goo To durian-nagano@goo at 2004 02/26 21:11 編集 返信

全連会活動報告書

全美連会長さん、こんばんは☆中ピ連、「私は知る」の過去形が使えることとなりました。長い名前の略なんですね・・・。先程足跡で、噺家さんの言葉に、「じゅげむじゅげむ・・・」というのがありましたが、あの名前の全連は、全寿連ですね。オーバーエイティ御用達な感じですね。私としましては、うそ、中条きよしさんの、中華ピラフで、納得していたい気持ちです。
>PS「人にやさしく」の歌詞の「叫ばなければやり切れない思いを ああ 大切に捨てないで」
>を聴くたびにこみあげるもの(嘔吐じゃないです)があります。うふふ。
おっ、大丈夫ですか?お背中叩きましょうかって、だからそうじゃないですね。おほほ。
・・・「捨てないで」と、いう部分だけですが、テレサテンさんが唄っていた、「♪あー捨てないでー」という歌を思い出しました・・・題名がまた浮かびませんが・・火曜サスペンスかなんかの歌で、今、全て思い出しました。カラオケで歌う歌がまたひとつ、増えました。全亜連管理人より

To zen-aki-ren@goo at 2004 02/26 19:30 編集 返信

引き続き全美連会員募集中

こんばんわ。中ピ連というのは中華ピラフ(いわゆるチャーハン)連盟のことで、西洋のピラフとアジアのチャーハンとの歴史的考察を研究する連盟で、本部は上海にありますというのは嘘です。最近は中年ピアノ愛好家連盟というのもあるそうですが、1970年代に結成された戦闘的なフェミニズム団体で「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」のことです。
PS「人にやさしく」の歌詞の「叫ばなければやり切れない思いを ああ 大切に捨てないで」を聴くたびにこみあげるもの(嘔吐じゃないです)があります。うふふ。

From zen-aki-ren@goo To durian-nagano@goo at 2004 02/24 21:09 編集 返信

中ピ連ですか???

拝啓、全美連会長(以下省略^^)=長野様
中ピ連ってなんですか?
伝言ゲームで聞いてみたい、答えです。(???)
「青空」・・・題名を、脳内インプットです。(・・)ゝ
>ヒロトが言っていた、「楽しいってことはね、『ラクをする』ということとは違うんだよ。『楽しい』と『ラク』は絶対に相容れないものなんだ。漢字がいっしょだから、みんなカンチガイしちゃうみたいだけどね。『楽しい』ことと『ラク』なことは、まるで違うんだ」。という言葉が私の中で印象に残ってます。
・・・きっと、ことあるごとに、思い出しそうです・・・。
なるほど・・・
確かに、道なき道を、足元を確かめ確かめ歩いた方が、夢中になるし、『楽しい』ことですよね・・。端からみれば、もっと『ラク』できる方法が、沢山あるのに・・・。
心のふくろうが鳴いた。そんな夜です。全亜連管理人より

To zen-aki-ren@goo at 2004 02/23 23:05 編集 返信

全美連会員募集中


昔、中ピ連という団体があったそうですが、それとは全然関係ない全美連会長兼総裁兼会計兼苦情処理係兼拭き掃除の長野です。名誉会長はいろいろ考えましたけど、ミッキー・ロークあたりがいいんじゃないかと思っている今日この頃です。全亜連さんの言われたのは「青空」ですね。「生まれた所や皮膚や目の色でいったいこの僕の何がわかるというのだろう」と歌ってますよね。
ヒロトが言っていた、「楽しいってことはね、『ラクをする』ということとは違うんだよ。『楽しい』と『ラク』は絶対に相容れないものなんだ。漢字がいっしょだから、みんなカンチガイしちゃうみたいだけどね。『楽しい』ことと『ラク』なことは、まるで違うんだ」。という言葉が私の中で印象に残ってます。

From zen-aki-ren@goo To durian-nagano@goo at 2004 02/22 13:40 編集 返信

ミキミキボーイズ&ガールズ(主催☆全美連)???

全美連会長様、こんにちは!(^0^)/
今井美樹さんは、全美連婦人部長・・・が、よいかもしれません。
で、やっぱり最後は<<普通の私に戻りたい全美連解散コンサート>>???
で、〆ですねきっと・・・(^▽^*)))
そのコンサートも、15年ぐらいし続けたりして・・・(笑)))
ブルーハーツの歌で、♪運転手さんそのバスに・・・
という歌詞のある歌、好きです。(題名が分からなくてすみません・・)
うがいをよくして、のどの調子を整えている全亜連管理人より

To at 2004 02/20 23:13 編集 返信

陣中見舞い申し上げます

筋肉の発達に骨が追いつかなかったとですか。AZさん、やっぱりあなたは格闘家だああああああっ!ちなみに私は組手であばら骨を折ったことがありますが、牛乳飲んで直しました(小松菜もいいですよ)。骨を折ったことのない奴には骨を折った痛みはわかんねえっ!(あたりまえだあ!)

To zen-aki-ren@goo at 2004 02/20 23:04 編集 返信

全亜連会長様

レスありがとうございました。全美連がむばります!名誉会長はやっぱり今井美樹、ちょっと古いけどキャンディーズのミキちゃん?それとも中谷美紀?いや、三木道三?三木のり平?ミッキー吉野がいいかも。スポンサーは眼鏡のミキか子供服のミキかミキプルーンがいいなあ。男なのに女名で苦しんでいる全国のかおるさんやひろみさん、今こそ立ち上がろう!遺影~!ちなみに私のカラオケの定番はブルーハーツです。今度、全亜連と全美連で合同カラオケしましょう。それでは股、失礼しました。

From zen-aki-ren@goo To durian-nagano@goo at 2004 02/20 22:25 編集 返信

☆美樹さん、いらっしゃいませ!☆

>あたしの本名は美樹です(ちなみに男)。
>全亜連に触発されて全美連でもつくろうかしら、男ばかりで。
>いねえ!いねーよ、そんな奴はよお!失礼しましたっ!
先程、足跡を辿って、ホームページ、覗いてきました!(^^)
♪♪書き込み有難う御座います♪♪♪
男ばかりの全美連、ぜひ作って下さいよぉ☆ミ
会員、代表、会計、全部自分というのも、なかなかですよきっと(^▽^)
・・・全亜連は、亜細亜(アジア)関連の連盟だと思われることが多いいですが、全美連だと、中国でアメリカのことを美国と書くらしいので、中国の方が、アメリカの情報を求めて、来てしまいがちになるかもしれません・・(^^)
その時は、全連つながりで、おにぎりつくりとか、何か自治会的なことのお手伝いしたいです。その後カラオケがあったら、舟歌も、歌っちゃいたいと思います。
美樹さんはプライドですかね(^^)
美樹さんの連盟者発見の際は、どうぞ、教えてくださいね!
ちなみに、全亜連名誉男性秘密(当管理人が八代さん向井さんに続き、ご本人に許可なく心の中で決めている)会員は、亜紀雄さんという、研究者の、立派な方です。(・・*)あきおさ~ん、心よりお待ちしています・・・
ではでは!お越しいただき、嬉しかったです♪
みつからなくても、いつでも、お待ちしています(^0^)/
♪全亜連管理人より♪

From AZ( HP ) To durian-nagano@goo at 2004 02/20 18:50 編集 返信

ども~♪

元管理者さま>報告ありがとうございました( ̄∀ ̄*)
長野しゃぁぁぁぁん!>肋骨のヒビ…痛い…(涙)
 お医者さん曰く「筋肉の発達に骨がついていけなかった」んだそうだ。(T▽T)
 でも、昨日のLIVEでは、誰も気付かなかったので、ホッ…

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2004 02/20 14:41 編集 返信

驚きました

 今回は、驚きました。2004 2/19 94人もの方々がこのHPを見られたのには驚きました。
 やはり、CDとDiaryを一緒に発表したのが利いたのでしょうね。
 例の、Diaryに書かれている内容を、Travelコーナーへの移転を円滑に進めたいので、連絡下さい。御願いします。

To zen-aki-ren@goo at 2004 02/19 23:11 編集 返信

美樹どえ~す

あたしの本名は美樹です(ちなみに男)。全亜連に触発されて全美連でもつくろうかしら、男ばかりで。いねえ!いねーよ、そんな奴はよお!失礼しましたっ!

To at 2004 02/18 21:57 編集 返信

RE:祝☆リニューアル

ライブがんばれ~! 極真魂(?)でファイトいっぱあ~つ!!

From AZ( Mail ) To durian-nagano@goo at 2004 02/18 16:12 編集 返信

祝☆リニューアル

ちょっと来ないうちにリニューアルされてる!!
お疲れ様でございました(^-^*)
バナーの件もありがとうございます♪
ふと気づけば…LIVE!!明日ですよ明日!!!<(_ _;)>(/>_黙祷
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/hanshin_awaji_earthquake/

To at 2004 01/15 23:21 編集 返信

RE:告知ですぅぅぅ

ここは告知のためにどんどん使って下さい。明日は先約のために行けませんが、メンバーのみなさまにこれからのご活躍を願ってます&そのためには私も労をいといません、とお伝え下さいませ。


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2003 09/16 19:59から2004 01/15 12:43にかけて掲示板で書かれた記事
2007-09-14 | Weblog

From AZ( Mail ) To durian-nagano@goo at 2004 01/15 12:43 編集 返信

告知ですぅぅぅ

【TROPICAL STORMY LIVE・2004】始まりますo(≧∀≦)o
第一弾!!
2月19日(木)
アメリカ村 THE NEST SALOON
open/18:00 start/19:00
チケット代 
前売り券:¥1500+¥1000(ドリンク・フード代)
当日券 :¥1800+¥1000(ドリンク・フード代)
お問合せ:THE NEST SALOON  
  大阪市中央区西心斎橋2-11-5 高谷ビルB1
TEL&FAX 06-6211-8675
New Guitarist加入で、さらにパワーアップした【40NOT以上。】LIVEです!!
平日なのですが、会社・学校帰りの方も!!!
あ、その日大阪にいるわぁ…なぁんて方も!!!!
みんなで元気になりましょ~(≧∀≦)/
チケットはメールでも受け付けます♪
ドリアン様>貴重なスペースありがとうございます。
不適切なら削除してください…・(T_T)
ところで、16日に花岡さん達と40NOT以上。で【新年会】やりまっす♪
場所は、大正区の【うるま御殿】ていうとこです。
参加できたら参加して下さい♪

From 元管理者 To at 2004 01/10 01:20 編集 返信

リンクの仕方

ご存じですか? なんだったら、遠隔操作をしてしまいます。
ここを見て、予習しておいてください。
http://01.members.goo.ne.jp/~member/hobby/travel.cgi?cmd=view&id=akiesnoopy@goo

From AZ To durian-nagano@goo at 2004 01/08 14:49 編集 返信

お知らせです!

【40NOT以上。】のホームページが引越しました( ̄∀ ̄*)
新アドレスは
http://www.occn.zaq.ne.jp/40not/
です( ̄∀ ̄)/
これからもヨロシクお願いします(_ _*)ペコリ…
長野マネージャー…( ̄∀ ̄*)

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2004 01/08 00:41 編集 返信

画像並びにご連絡

画像を軽量化するソフトを見つけたので、とりあえず、自分で試してみて上手くいったらこのホームページに活用します。
正直に言って、リニューアルというか、改装を行うつもりですが、長時間かかりそうです。 色々と難しいですからね。
とりあえず、連絡ください

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2004 01/02 14:11 編集 返信

謹賀新年

あけましておめでとうございます
今回の書き込みも凄惨な内容でしたね。
まぁ、ウォシュレットもあるのでペーパーが無くても慌てない人もいるかもしれませんが・・・
ほんまに、正月からこんなんでええんか? ダラズやなぁ、ほんまに・・・フー
 ちょっと疲れているので、寝ようか、カルフールで買い物に行くか悩んでいます。http://www.carrefour.co.jp/
それと、http://www.misokichi.com/の一件なんですが、又、後ほど、ということで・・・
それと、例のリンクの一件ですが、 バナー張る一件も含めて、メールでも良いので、ご連絡下さい。

To at 2003 12/30 16:01 編集 返信

RE:ども~( ̄∀ ̄*)

ま、まかせとけえぇぇぇ~。タイタニックに乗ったつもりで(沈没?)。がむばります。風邪早く直してくださいね。

From AZ( HP ) To durian-nagano@goo at 2003 12/29 21:35 編集 返信

ども~( ̄∀ ̄*)

今年はいろいろありがとうでした♪
来年は、マネージャー長野さん!!として、よろしくお願いしまぁぁぁす♪

From AZ( HP ) To durian-nagano@goo at 2003 12/17 17:39 編集 返信

こんにちはです♪


告知させて下さい(≧∀≦)
12月19日(金)
40NOT以上。3曲入りCD
発売決定!!
収録曲
「ふたり~40NOT以上。謁歇゛~」
「Black Blood」
「Take It Easy」
¥500-
LIVE会場・インターネットで販売♪
みなさんヨロシクお願いしま~す( ̄∀ ̄*)
購入方法:E-MAILにて受け付けます♪
お支払い:商品到着時に¥500+消費税¥25をお支払い下さい。
 *商品と交換になります(^-^) 
管理人様>貴重なスペースありがとうございました
 不適切なら削除して下さい

To at 2003 12/12 20:33 編集 返信

RE:切り番

おめでとう!

From 元管理者 To durian-nagano@goo at 2003 12/12 14:17 編集 返信

切り番

1700キッカリ

From アーぁ To durian-nagano@goo at 2003 11/28 11:35 編集 返信

元管理者

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031128-00000033-nks-ent
ドリアン長野さんもライブではこういった状況ですかね?

From AZ( HP ) To durian-nagano@goo at 2003 11/26 15:16 編集 返信

おわぁっ!!Σ( ̄□ ̄;)

ドキュメンタリー映画を作っている知人がAZさんのポスターを見て、「この人、MTVで観たことがある」と言ってました。
>それって…人違い…だよ…(_ _;)
だって、MTVにあたしのVIDEOが流出するわけないもん(涙)
でも、MTVに出てる人に見えるって事は!!!
ますます気が抜けない…ってことだね(○_○;)
12/2、いろんな意味で、あたしも楽しみです♪
その前に11/30だ…あわわ

To at 2003 11/28 21:39 編集 返信

RE:上海!

おお、ついに上海デビューですか!時間があったら「和平飯店」のジャズバーに行ってみてください。かつての魔都、オールド上海にタイムスリップしたかのようです。
カラテへの参加お待ちしています。場所が分からないとか、質問等ありましたら、durian-nagano@k.vodafone.ne.jpまでメール下さい。

From AZ( Mail ) To durian-nagano@goo at 2003 11/14 18:17 編集 返信

上海!

12/20に上海入りします♪
しかも21日は歌唄ってきちゃいます♪
初めて上海!しかも初上海LIVE!
いまから心臓バクバク…
ドリアンさん>生徒として、精神統一しにお邪魔しますね♪
 *道場破りじゃないから!!!(苦笑)

To kadottukokunn@goo at 2003 11/10 23:18 編集 返信

RE:どもども

今日も訪問させていただきました。15歳なのに恐るべし!って感じです。(R・E・Mの「エポニマス」を聴きながら)

From kadottukokunn@goo ( HP ) To durian-nagano@goo at 2003 11/09 17:24 編集 返信

どもども

どもどもたくけろといいます!
我がホームページに来てくださって
ありがとうございます!
また来てくださいね!
お待ちしてまーす

To at 2003 11/07 22:15 編集 返信

RE:シャンハイとホンコン

は~い

From 一応元管理者 To at 2003 11/05 18:56 編集 返信

シャンハイとホンコン

 実は、この二大都市は、日本の東京と大阪と同じような状態で、色々な意味で競り合っていることで有名なのです。
 日記を見て思ったこと
 知り合いに、中国貿易(中国製の寝具を日本国内で販売している輸入業者)で生計をたてている人がいるけども、あまり紹介したくない内容だなぁ、これは・・・
 スキルアップ
 ぼちぼち、実力を上げていけば良いんです。 そうすれば、なんとかなります。 始めは誰でも初心者です。 お互い頑張りましょう。 ただ、人によっては乗り越えるのが困難な試練もあるようです。 何処かの暴走意見空手家のようにね (笑い)
モー手前はすでに管理者を辞めています。

To starekano@goo at 2003 11/04 22:10 編集 返信

RE:はじめまして。はるひです。

私もな~んにも分かりません。全部管理人に任せてます。私がPCで出来るのはインターネットとワープロと時計と計算機だけです。だから君ももっと自信を持ちたまえ、わーはっはっはぁ.....はぁ~(タメイキ)って、おれはチャーリー・ブラウンか!(オアシスの「ヒーザン・ケミストリー」を聴きながら)

From starekano@goo To durian-nagano@goo at 2003 11/04 09:32 編集 返信

はじめまして。はるひです。

ログをたどってきました。
まだHPを作り始めたばかりで、全く何もわからないでいます。
どうぞ仲良くしてくださいね。(^^)

To at 2003 10/26 00:27 編集 返信

風邪に効くマンガ

風邪にはお気をつけて。私はこの何年も風邪をひいたことがありません(普段からビタミンを摂るようにしてるからかな)。たまには風邪をひいてゆっくりと休みたいと思うこともありますが、これはぜいたくですね。私の父が手塚治虫を好きだったので、小さいときから手塚マンガを読んで育ちました。「火の鳥」は何回も読み返しましたが、特に「鳳凰編」が好きです。手塚の正当的な後継者だと個人的に思っている漫画家が浦沢直樹です。「MONSTER」と「20世紀少年」は漫画界における金字塔ですね。最近はまっているのが、地下沢中也の「パパと踊ろう」。このギャグは癒されます。風邪をひいた時に読むと熱が下がります(と思います)。

From AZ( Mail ) To durian-nagano@goo at 2003 10/25 10:26 編集 返信

こんにちは♪

みんなに風邪に気を付けてねって言ってたのに…
あたしが風邪にひいちまったぁぁぁ(>_<;)
でも…今日も仕事なので、卵酒(やっぱり酒)呑んでおとなしく寝ておきますわ…そして夜に備えるわ♪(微妙に怪しい響き…)
でも…吟醸酒に卵入れるのって…かなり勇気がいるのよね…
話はかわりますが、最近『手塚治虫』作品にハマってるあたし♪
お薦めは『火の鳥』奥が深い!!!
なかなか考えさせられる作品ですね。
…もしかしてこの熱は、風邪じゃなくて知恵熱?!Σ( ̄□ ̄;)
12月2日のLIVE、楽しみにしておきま~す♪
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Drum/7287/

To at 2003 10/05 22:26 編集 返信

はじめまして

登録させていただきました。

To at 2003 09/19 18:44 編集 返信

RE:阪神・・・

たしか漫画家のいしいひさいちがヤクルトファンでしたっけ?
思い出すなあ、国鉄スワローズのかねやんの雄姿を(ふるっ!)。私の野球の知識は「巨人の星」と「男ドアホウ甲子園」です。スタルヒンとか藤村とか土井垣とか知ってる?うあああああ。

From AZ( HP ) To durian-nagano@goo at 2003 09/16 19:59 編集 返信

阪神・・・

阪神優勝は、メデタイかもしれないけど、犯罪行為はイカンだろ!
って感じ。
今日の道頓堀は、ゴミだらけだったよ…
ボランティアの人達とか商店街の人達がゴミ拾いしてた…
うちの友達は「あいつら阪神ファンちゃうわ!!」って大激怒してたよ。(^-^;)
あたしは、感謝されちゃったよ…「ヤクルトが負けてくれたおかげで、18年ぶりの優勝できたよ!」だって…(_ _;)フクザツ…

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2003年三月から九月にかけての掲示板
2007-09-14 | Weblog

To at 2003 09/10 22:48 編集 返信

iro

音楽onngaku
なんでやねん

To yuuya-0224@goo at 2003 09/02 01:03 編集 返信

RE:はじめまして^^

同じ壁紙同士(笑)のよしみでこれからも仲良くして下さいね。隣の部屋の鈴木さんの勧めで「HUNTER×HUNTER」(by冨樫義博)を今日読みましたが、はまりました。明日は第五巻を買いに行きます。(ニュー・オーダーの「SUBSTANCE」を聴きながら)

From yuuya-0224@goo To durian-nagano@goo at 2003 08/31 09:49 編集 返信

はじめまして^^

はじめまして、裕也と申します。
キレイなHPですねえ~。
僕のHPもぜひきてください。
今後よろしくお願いします。
では失礼します

To at 2003 08/24 22:52 編集 返信

RE:爆笑

そうですね。でも、その日に試験が行われたことを知ったのは「不可」になった成績表を受け取ったあとでした(ガックシ)。

From アハハハハ To durian-nagano@goo at 2003 08/23 18:01 編集 返信

爆笑

けども、病欠の場合には特別に試験を受けさせてくれるのではないのでしょうか? 

From え? To durian-nagano@goo at 2003 08/07 00:59 編集 返信

どうなってるの?

http://home.comcast.net/~bernhard36/honda-ad.html
しかし、あれだよな、女の子は酒タバコやめてほしいよなぁ
世の中には、喘息の人もいるしなぁ 

To at 2003 08/06 23:17 編集 返信

ゆっくり休養してください

「40NOT以上」すごい人気ですね。今度のライブは是非私も観てみたいです!甚平に雪駄もロックバンドとしては逆に新鮮でナウい(死語)かも。先日行ったパティ・スミスのコンサートでは曲の途中に彼女が鉢巻きをしめたのですが、それには阪神タイガースと書かれていました。ああっ、カリスマがあああ~っ、(野球嫌い)野球ファンの皆様すいません(レッチリの「BY THE WAY」を聴きながら)

From AZ( HP ) To durian-nagano@goo at 2003 08/06 12:22 編集 返信

こんにちは

3日のEXPOLIVEも、成功でした♪
今日、LIVEレポがUPされてた。
今回は、不評だったAZのステージ衣装がもれなく見れます…(苦笑)

From ちぃちぃ To durian-nagano@goo at 2003 08/02 16:16 編集 返信

はじめまして

こんにちは~。AZ WORLDの管理人です。
今大阪に夫婦で来てます!
明日は40NOT以上。のLIVEなので、来てしまいました!
大阪はすごく暑いです。
旦那とインターネットカフェでレス中です…
挨拶が遅れてしまいました(苦笑)
これからもよろしくお願いします(_ _)

To at 2003 08/02 02:12 編集 返信

RE:嬉しい出来事

すごい!よかったですね。AZさんのステージ・アクトはものすごくパワフルだそうですから興味ある人は是非、観にいって下さい。当日券もあるそうです。(暑苦しい夜に、パティ・スミスの「GONE AGAIN」を聴きながら)

From AZ( Mail ) To durian-nagano@goo at 2003 07/31 19:01 編集 返信

嬉しい出来事

うちのPC版のBBS1に、山形県の音楽サイトの方からの書き込みがありました♪
何故?!(?_?)って感じだったんだけど、なんとなんと!りょうさんという方が、AZ WORLDのページをCMしてくれてたのです♪
もぉ!自分の知らないところで、知らない誰かがCMしてくれてるなんてめっちゃ嬉しいことだよね、ほんとに♪
(/≧▽≦)/うきぃ~っ♪
いろんなとこで音楽の輪が広がると嬉しいな♪
今週末はいよいよEXPO中央ステージで18:00からLIVEだぁ♪当日は、花火も上がるってことで、今から楽しみ(^-^)



From AZ( Mail ) To durian-nagano@goo at 2003 07/29 10:01 編集 返信

はじめまして

訪問&書き込みありがとうございました(^-^)
リンク、O.K.ですよ( ̄▽ ̄)
これからも仲良くして下さい♪

To at 2003 07/26 01:22 編集 返信

RE:大変

起こるんですよね。私自身、いつもびっくりです。

From よく読んでね To durian-nagano@goo at 2003 07/23 23:19 編集 返信

大変

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030723-00000716-jij-int
こういった事が起こるんですね

To at 2003 06/21 00:30 編集 返信

NO1 オリエンタルホテル その1

オリエンタル・ホテル
 オリエンタル・ホテルに泊まった。あの世界一という栄誉を冠せられるオリエンタルである。私がカオサンでよく泊まっていたサイアム・オリエンタルじゃないぞ。シャングリラもペニンシュラもリージェントも頭が高い! ひかえおろ~う! 正真正銘、一番安い部屋でも310米ドルもするビンボー人には絶対泊れん、あのオリエンタルじゃい! ハァ、ハァ、ハァ。(肩で息をする音)同行の友人(アジア旅行は初めて)が宿泊代を出してくれるというのだから私に異存はない。これは泊まらないわけにはいくまい。いや、泊まりたい。是非泊まらせてくれ、お願いだ。オリエンタルにはスイカジュースを飲みに行ったことがあるが、まずくて冷えてないわりに200バーツもしたぞ。どうなってんだ? ちなみに私がバンコクで一番好きなホテルは知る人はよく知ってる、あのグレース・ホテルだ。この前、昼過ぎにチェックインしようとしたら満室だからと断られた。フロントのおばちゃんに近くにもっと安いホテルがあるからそこへ行けといわれたが、ここがいいと駄々をこねたらパスポートを預かっとく、6時頃もう一度来いやと言われ、やっと泊まることができた。その際、押し合いへし合いするフロントに割り込もうとしたアラブ人にフロントのおねいさんが 「みんな順番守ってんだからちゃんと並んで待ってなさい!」 とものすごい剣幕で怒鳴っていた。幼稚園児のようなアラブ人もアラブ人だが、客にそこまでいうか、ふつう。とにかくこのホテルはあやしい。アラブ人のおっさんがタイの少年二人をつれて部屋に入っていくのを見たことがあるし、隣の部屋から苦しそうなあえぎ声が聞こえてきたこともある。(何してんだ?)ロビーには売春婦とアラブ人が、てめえらここのソファーで夜をあかしてんだろ、と思うほどいつでもたむろしている。一階の卓球台では黒人がいつも卓球やってるし。(まっ、健全)ここにはディスコが二つあるが、一階のディスコは中近東風の音楽でみんな踊りまくっている。いっぺんだけ行ってみたことがあるが、ついていけん。あのリズムでどうやって踊ればいいんじゃ~い。それに比べて地下にあるディスコはまともだ。(まともか?)毎晩(たぶん)、売春婦をつれて朝の二時まで踊り狂うアラブ人。熱い、熱すぎるぞ。

To at 2003 05/27 23:26 編集 返信

オリエンタルホテル その2

マーブンクロンで黒のアメリカンスーツ(笑)を買った時なんざあ、ホテルの近くのアラブ人街をうろつき、見せつけてやった。我ながらアホやぁ~っ、ワシって。その時、黒人の二人連れが近づいてきて 「おれたちアフリカの○○○○出身(国の名前は忘れた)なんだけど今度、日本で働きたいんだ」 と言うのだ。あわてて「こっ、これから友だちに会いに行かなきゃならないし、明日は朝一番の便で日本に帰らなくちゃならなくて時間がなくて」 とかいって逃げてきた。そんなことはどうでもいいのだが、オリエンタルにチェックインした時は私もようやくゲスト.ハウスからここまで登りつめたのだと感慨深いものがあった。(人の金だけど)                
 さすがオリエンタル、部屋もさることながらホスピタリティつうのか、一人一人の客の顔と名前を覚えてくれて至れり尽せりのサービスである。そんでもって立食形式のレセプションパーティーに招待されたのだが、そこにいた女子大生の二人連れ! 聞くと、バンコク滞在中の4日間はず~っとオリエンタルに泊まるとぬかすではないかっ! タイは初めてだからオリエンタルだと安心だと思ったからだとぉっ! ワシでさえ一泊なのに。(人の金だけど)学生やったら、安宿に泊まらんかいっ! とぶっちしたんだけど(内心ね)、気をとり直してその夜はオカマショーの「マンボ」に行くことになった。ショーがはねたあと、せっかくオリエンタルに宿泊してるんだからと出演者をホテルの部屋に招待することにした。そのむねを小太りのマネージャーに伝えると、 「オリエンタルはドレスコードが厳しいから入れてもらえないかもしれませんよ」 というではないか。出演者のカマー(オカマのことね)も 「あら~ん、あんな高級ホテル、大丈夫なの? あなた保証する?」 などという。どうにかなるだろっと九人のカマーを三台のタクシーに押し込み、ホテルに向かった。結果はホテル・マネージャーに頼みこんで、部屋は駄目だがガーデンならいいということになった。ホテルが氷やグラスを用意してくれてわれわれは宴会を始めたのだが、いや~さすが世界一のホテルといわれるだけのことはある。さすが鷹揚やね。チャオプラヤー川の夜風に吹かれながらの宴会は最高でしたっす! とここまではよかったんだけど、実は大きな声じゃあいえないけどさ、部屋にあったセイコーの置き時計をカバンに入れて持って帰ったのよね。チェックアウトの時になんにも言われなかったから、しめしめって感じで。ところが一か月後にホテルから請求書がきた。時計が紛失していたのでクレジットカードからその代金を引き落とさせていただきますってな。それがなんで2000バーツになるんじゃい! 何の変哲もないただのちっこい時計やないかい! 世界一にしてはせこくないか! もしかしたらボッてるんちゃうんかい、オリエンタル! ふざけんじゃね~! って悪いのはオレか。よい子のみんなはお持ち帰りはスリッパか歯磨きセットまでにしときましょうね。(泣)

From To at 2003 03/28 23:30 編集 返信

新規入会おめでとうございます!!

ここからいろんなことを情報発信してください。
何かわからないことがあればQ&Aをご覧ください。
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CDとBOOKについて
2007-09-06 | Weblog
元々は、簡単ホームページ時代に発表していたものを転載したものです。
当時の雰囲気を、皆様お楽しみ下さい。
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BOOK
2007-09-06 | Weblog

記事番号 2  編集
書籍名 アイロニー?  カテゴリー 評論・エッセイ   
著者名 Oka-Chang(オカチャン)  発行年(西暦) 2005 
出版者 文春文庫  値段 500-600円 
投稿日時 2005/11/16 21:43 本のサイズ 選択してください
感想
感動度 実用度 娯楽度 ファッション度 難易度
☆☆☆☆ ☆ ☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆ ☆☆ 「きみ~、カラテで大切なのはパワー、スピード、リズムだよ。特にリズム感のない人間は上達しないよ。宮本武蔵の『五輪の書』にも拍子にそむくなと書いてあるよ」(by 大山倍達)
いえ、いきなりこんなことを書いたのはOka-Chang(面倒だから以下オカ)の「アイロニー?」を読んだからだ。つまり彼女の文体にはリズムがある、独特のオカ文体。スピードも、もちろんパワーも。彼女が格闘技を学んだらすごいだろう。あと柔軟性ね。なにせ大のプロレス好きでターザン山本に対しては「いちファンであり続けるか、結婚するかのどちらか」と本人に宣言するほど。代官山が嫌いで錦糸町や上野や大久保が好き。ここらへん、あたしと一致。
「いや~、いきなりすんごい新人が出てきましたねえ」(谷川貞治調。ここんとこオカのパクリ)。あたしはプロレス知らないので、大阪の全世界ウエイト制大会でロシアのセルゲイ・オシポフが変則上段回し蹴りでのちの全日本王者、田中健太郎に一本勝したようなデビューだ。そのオシポフ、いやオカのプロフィール、ジャンキーライターの石丸元章(前科もち)と結婚後、モデルとして活躍。向島で芸者。離婚後、文筆活動に専念。もう誰か止めてください(ただしやさしく。断じて怒鳴るな)。byオカ

記事番号 1  編集
書籍名 春の雪  カテゴリー 日本文学      
著者名 三島由紀夫  発行年(西暦) 1970 
出版者 新潮社  値段 選択してください 
投稿日時 2005/11/12 21:58 本のサイズ 選択してください
感想
感動度 実用度 娯楽度 ファッション度 難易度
私がこの本を読んだのは高校生三年生の時。きっかけはUK五大パンクバンドのひとつ、ストラングラーズのベーシストが「気が狂ったように読んだ。日本語で読んだらもっと深いところまで感動しただろう。三島を産んだ日本文学には心底敬服する」と言っていたからだ。そのベーシストは極真会館総本部で黒帯を取るために来日したが、組手であばらを折られて入院するという経験を持つ。現在は世界空手道連盟士道館(マイケル・ジャクソンも顧門)でイギリス支部長をしている。
三島の遺作である「豊穣の海」の第一部(彼は四部作目の「天人五衰」を脱稿したその日に切腹した)。日露戦争の堤灯行列の思い出を描写した冒頭だけで、初めて読んだ時の感覚ー17歳の私にセピア色をした過去と未来とが開けていくような感覚ーを今でも覚える。私はひどい劣等生だったが、これを読んで以来、歴史や思想に急激に関心を持つようになった。日本文学で一冊を選べと問われれば、私は躊躇なくこの本を挙げる。





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CD
2007-09-06 | Weblog

エンパイア・キャッスル(オン・ザ・シルバーストライプ) インディーズ 投稿日:2005/11/13 13:55
編集
アーティスト名 スクランブル・ハーウ゛ェスト どんな時に聞きたい? 選択してください
ここは良かった!
ここはいまいち・・
このCDの価値は? 選択してください~選択してください
ジャケット 歌詞 メロディー プロモーションビデオ 総合評価
☆☆☆☆ ☆☆☆☆ ☆☆☆☆ ☆☆☆☆ ☆☆☆☆
コメント 「プラシーボ」+「T・レックス」+「イギー・ポップ」=「スクランブル」?
埼玉発、ガレージ・ディスコ・ロックバンド。下北沢の「屋根裏」で初めてライブを観た。それは70年代のロンドンパンクとグラムロックを想起させた。「スクランブル」には演劇性と狂気と華やかさがある。その日のライブには何組かのパンクバンドが出演していたが、確かに凡百のパンクバンドにはないものが「スクランブル」にはある。それはボーカルのKINGの幻想的な詩であり、パンクに多大な影響を受けながらポップでコマーシャルな楽曲である。このデビューCDを私は既に50回は聴いている。全国の「タワーレコード」で発売中。ライブはすさまじい。まるで「ダムドのボーカリストが入ったMC5」といえば分かる人には分かる?

メテオラ その他音楽 投稿日:2004/06/07 22:20
編集
アーティスト名 リンキン・パーク どんな時に聞きたい? やる気を出したい時
ここは良かった!
ここはいまいち・・
このCDの価値は? 3000円~5000円
ジャケット 歌詞 メロディー プロモーションビデオ 総合評価
☆☆☆☆☆ 評価を控える ☆☆☆☆☆ 評価を控える ☆☆☆☆☆
コメント 極真会館の松井館長が「カラテはかっこ良くなければならない」と言ったことがある。これは単に見栄えがいいということばかりでなく、相手を倒すための合理的(ということは実戦的な)な動きをすれば自然とかっこ良い動きになるということだろう。実際にリズム感の良い者は上達も早い(かっこ良さとリズム感も密接な関係がある)。日本刀は人を殺傷するための道具だが、装飾という無駄を排しているために美術品としても美しい。リンキン・パークを聴いて、音楽ってこんなにもかっこ良かったんだと本当に何年振りかに思った。リンキン・パークはかっこ良い。特に「EASIER TO RUN」や「BREAKING THE HABIT」なんかは全身にさぶいぼができ、座り小便してしまうくらいかっこ良い。「メテオラ」はミクスチャー・ロックの後ろ回し蹴りだ(何のこっちゃ)。

ロリータ18号ライブ その他音楽 投稿日:2004/03/19 22:51
編集
アーティスト名 ロリータ18号 どんな時に聞きたい? やる気を出したい時
ここは良かった! マサヨのMC
ここはいまいち・・
このCDの価値は? その他~評価を控える
ジャケット 歌詞 メロディー プロモーションビデオ 総合評価
☆☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ 評価を控える ☆☆☆
コメント 正義を振りかざしたり、愛を大声で語っちゃうバンドってのは苦手っすね。オイ・パンクとかポジティウ゛・パンクとかハードコアって何だかうさん臭いっすよ。ロリータ18号はね、初期の頃から「姉さん裸走り」とか「髭忍者」とか「カラテの先生」とかね、おまえ、なめとんか~って感じで。実際なめてんですけど。みょ~に力が抜けててね。お茶の間パンク、いいっすよね。なんといっても、石坂マサヨの独特の声はさ、演劇がパンクにしかピッタリしないと思うのよね。このCDには入ってないんだけどさ、「ノンハモ」を聴くたびに目頭が熱くなるんだよね。ああ~、パンクを聴き続けてきて本当によかったわ。幸福ってこういうことをいうのねん。

ジャンゴロジー ジャズ 投稿日:2004/02/24 00:02
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アーティスト名 ジャンゴ・ラインハルト どんな時に聞きたい? なんとなくバックミュージックに
ここは良かった! 特に一曲目、「マイナー・スイング」のジャンゴのギターが聞こえてきた瞬間
ここはいまいち・・
このCDの価値は? その他~評価を控える
ジャケット 歌詞 メロディー プロモーションビデオ 総合評価
評価を控える 評価を控える ☆☆☆ 評価を控える ☆☆☆☆
コメント 私の知る限り、花村萬月が二つの作品の中でジャンゴを取り上げている。「ジャンゴのギターとステファン・グラッペリのバイオリンがスピーディに絡む。哀愁を帯びた、わかりやすい音だ。『オレは、こいつ、ハード・ロックだと思うな。ハイ・ウェイにはぴったりだ』ハード・ロックはともかく、タツミの言わんとしていることはなんとなく理解できる。ラインといいリズムといい、黒人のジャズとはまったく別物だ。たしかに高速道路に似合っている」(ゴッド・ブレイス物語)。「『演奏はオン・ビートで、チャンキー・リズム。そのスイング・ビートは黒人の横ゆれするビートとはちがって、ポルカのようなヨーロッパ伝承音楽を連想させる。フレーズは分散和音や装飾を多用する。フォー・ビートでテーマをインプロバイズしていくというジャズの定義には収まるが、アメリカのジャズギタリストとはまったく別物である。使用していたギターは大型のアコースティック。ピックを用い、ブリッジの近くで力強く弾いた。音色は硬いが、潤いがあり、ロマンチックだった』」(ジャンゴ)。
私はこのアルバムを何回も聴いた。何故かはわからないけど、麻薬のような音だと思う。

コンプリート・レコーディングス ブ ラックミュージック 投稿日:2004/01/28 00:46
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アーティスト名 ローバート・ジョンソン どんな時に聞きたい? 一人の時
ここは良かった! ジャケ写真。これを一回転載するごとに300万とられるんだって!
ここはいまいち・・
このCDの価値は? 選択してください~選択してください
ジャケット 歌詞 メロディー プロモーションビデオ 総合評価
☆☆☆☆ ☆☆☆☆ ☆☆☆☆ 評価を控える ☆☆☆☆
コメント キース・リチャーズもエリック・クラプトンも敬愛してやまない伝説のボトルネック・ギタリスト。元憂歌団の花岡献治バンドがプレイした「WALKIN′BLUES」を聴いた時はブルーズがパンクに聴こえた。まるでロックのルーツをさかのぼるようだった。ローバートはクロスロードでブルーズのために悪魔に魂を売ったという伝説を持つ。詳しくはハロルド作石の「BECK」を読んでけろ。

SIX その他音楽 投稿日:2004/01/27 00:49
編集
アーティスト名 マンサン どんな時に聞きたい? 暇なとき
ここは良かった! 「CANCER」という曲の冒頭に「僕のモルモン書」とあるところ
ここはいまいち・・ 新品を買ったのに、「ディスクピア」で中古で売られてたあ!
このCDの価値は? その他~評価を控える
ジャケット 歌詞 メロディー プロモーションビデオ 総合評価
評価を控える 評価を控える ☆☆☆☆ 評価を控える ☆☆☆☆
コメント Tレックスや初期のデビッド・ボウイのフレイバーも聴こえる楽曲の中にメロディアスなボーカルがからむ98年の名作。ロックは新時代を告げた!ロック・スノッブな友だちに「俺、最近マンサン聴いてんだぜ」と吹きまくろう。ああ、もう2004年か!気がつけば君も「ネガティウ゛」を口ずさんでるだろう。間違いない。
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オマケとお知らせ
2007-09-04 | Weblog
2007年もよろしくお願いします

at 2006 12/29 23:34 編集

「ドリアン日記」(仮)が新風舎から文庫本で2007年11月に出版予定です。四コマ漫画付きで850円!
合掌

at 2007 03/21 19:45 編集

20日に西原理恵子さんの元夫である鴨志田穣氏が逝去されました。享年42歳。
この日はジョン・レノンとオノ・ヨーコの結婚記念日でもありました。 
氏のエッセイの熱心な愛読者でした。
謹んで御冥福をお祈りいたします。   
経過

at 2007 04/19 22:43 編集

やっと「ドリアン日記」(仮題)のマンガが完成しました。書く作業より辛かった(汗)。
経過

at 2007 05/01 21:26 編集

「ドリアン日記」(仮題)はマンガエッセイです。マンガの完成が予定より遅れたので、11月刊行が2月になりました。
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事実上の最終回
2007-09-04 | Weblog
NO 112 インド編 その8
at 2006 07/05 22:18 編集

早朝、カルカッタのハウラー駅に着く。フーグリー河に架かる巨大な鉄橋、ハウラー橋は通勤する人で丸の内のようにごった返している。喧噪の中、澱んだ河を見ながら私は一人、物思いに沈む。
「今日でインドともお別れだ。長かったようで短かった一週間。物売りや物乞いに辟易し、下痢や発熱に悩まされた一週間。騙されたりもしたけど、親切な人にも出会った。うるさいが、頼もしくもある子供たち。チャイ屋の売り声、灼熱の大地、道端で死んだように眠りこけている犬、漆黒の暗闇、バラナシの炎、死体、サドゥー、カーリー女神に捧げられるために首をはねられる山羊」
様々な光景が次々に浮かんでは消える。けれどもインドよ、今日でおさらばすると思うと....、
あ~嬉しいわいっ! とっとと日本に帰るぞ。帰って風呂に入ってうまいもん食ってゆっくり寝て下痢を直すぞ。こんな国、二度と来るもんかいっ。一刻も早く空港に行って飛行機に乗って文明国に帰るんじゃい。帰るったら、帰るんだ~い!
帰りの飛行機で同年代の男と隣り合わせになった。どちらからともなく話しかけ、彼はパリでアパートを借りて住んでいたことやアジアのいろんな国を旅した話をしてくれた。私が海外旅行は初めてだと言うと、彼はこう言った。
「それならあなたはこれから何度も旅に出るでしょうね。一人で旅をする快感を覚えたら、それはやみつきになりますよ。僕がそうでしたから」 
私はそうはならないだろうと確信していた。こんな苦しい旅なんか二度とごめんだ。
成田空港に着くと私は激しい違和感を感じた。その違和感は日常生活の中でも長い間続いた。日本はなんでこんなに清潔で、日本人はなんで異常なほど清潔好きなんだ? 日本人はなんで大したことでもないことをいちいち気にするんだ(インド人は何があっても二言目には「ノー・プロブレム」って言うじゃないか)? なんで商品には全て値段がついてる? なんでどこに行っても自動販売機があるんだ? なんでみんな、自分のことをすぐに不幸でビンボーだなんて言うんだあ? おまけにふとしたおりにインドの子供たちや大人たちの姿がちらついてきたりする。 
「カルカッタは好きな街だよ」 
仲良くなったホテルのボーイにこう言うと、彼は言ったっけ。
「一週間の滞在では何も分からないよ」 
そりゃ、そうだ。けれども分かったこともいっぱいあったぞ。旅が短いか長いかなんてのはあまり重要ではないと思う。果たして私は自分を変えることが出来たんであろうか? それは本人にはよく分からんが、インドで学んできたと胸を張って言えることなら一つある。駅のトイレに入って、紙がなくてもちっとも慌てなくなった。どんなトイレでもバッチ来いって感じ。私にはインドで習得した、この黄金の左手がある。紙で処理するなんて、なんて不潔で野蛮。ちなみに帰国してからも軟便が一か月続いた。インド、もしもう一度行くことがあれば、勝てないにしても、引き分けくらいにはしたい。ああインド、ため息の出るインドよ。
仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。(ゴーダマ・シッタールダ)
(終わり)

NO 113 ロサンゼルス編

at 2006 09/21 21:26 編集

のっけから何だが、私はロサンゼルスが嫌いだ。それはなにも私が九時間以上も飛行機に乗ってやっと到着した空港をボ~ッと歩いていたら二人組のイラン人にアムネスティに寄付をしてくれと孤児の写真を見せられ大勢の日本人から寄付をいただいている一人最低100ドルからだと言われ何で寄付するのに最低額があるんだと思いつつもそのくらいならいいかと寄付をして空港を出た時分に100ドルいうたら一万円以上やんけとやっと気づき自分のマヌケさに地団太を踏んだからではない。
ロサンゼルスの空はどこまでも真っ青のブルースカイだ。まるで貧血の病人のように青い。私はそれに向かって「バカヤロー」と叫びたかったね。ウッディ・アレンはアカデミー賞受賞式に招待された時もいつものようにニューヨークの「マイケルズ・パブ」でクラリネットを吹いていたそうだ。「僕にはロサンゼルスの空は眩しすぎる」とほざいたそうだが、ウッディ、いや、ウッちゃん、私はあんたの気持ちがよく分かるぞ。ここで一句、「旅人は 悲しからずや 空の青 ロスの青にも 染まず漂ふ」
何言ってんだ、インドやタイやカンボジアの空だって充分青いじゃねーかとぬかすヤローがいるかもしれんが、チッチッチッ、だからトーシローは困るってんだよ。ロスの空はいわば、場末の落魄した娼婦が客をとろうと必死になって厚化粧しているようなもんだ。不健康で退廃的で侘びしくて物悲しいんだよ。なーにがカリホルニアドリーミングだあっ。100ドル返せーっ、ちくしょー!
ダウンタウンを歩いていると聞こえてくるのはスペイン語ばかり。映画館でアメリカ映画を観てもスペイン語の字幕付きだ。夜になると商店は早々と閉めてしまい、歩いているのはホームレスだけ。ハリウッドもビバリーヒルズもロデオドライブもちっとも面白くない。リトル東京で「ヤオハン」の場所を尋ねた日系の老人には、「夜は独りで歩かないほうがいい。巡査は外国人に偏見を持っているからな」と忠告された。ステーキハウスでステーキを注文したら、付け合わせのマッシュポテトが山のように出てきた。これだけでもう満腹だ。ふうふう言いながら何とか食べ終わると、ウエイターが「食後にアイスクリームはどうだい?」と聞いてくる。「冗談言うなよ、マイケル。これ以上食べたらゲロしたステーキがサンタモニカまで飛んでっちまうぜ」と私は肩をすくめる(ふっ、オレもアメリカン・ジョークがうまくなったもんだぜ)。
ああ、ロサンゼルス! めしはまずいし、歩くのにはただっ広いし、面白い所もない。私は台湾系アメリカ人、ナンシーおばさんの経営するモーテル、「City center motel」に宿泊しながら悶々としていた。どこか面白そうな場所はないもんだろうか。うーんとお~.......。あっ、そうだ! そう言えばサウス・セントラルがあった。ニューヨークのサウス・ブロンクスと並び称される、泣く子も黙るその地区は犯罪の温床となっており、殺人事件は日常茶飯事でヘイト・クライムという人種偏見による犯罪も起きていると本で読んだことがある。何だか想像するだけでケツのあたりがムズムズしてくる。しかし、日本人がのこのこ出かけていっても身ぐるみ剥がされて射殺されるのがオチだ。ここはひとつ、奮発してタクシーをチャーターして連れてってもらおう。モーテルのロビーでいつもうだうだとたむろってるメキシコ人に頼めば大丈夫だろう。善は急げ(?)とさっそく彼らに聞いてみる。しか~し、 
「へっ、サウス・セントラルだと? サルがケツから飛び出すぜ」「俺はまだ死にたくねえよ」「あそこは観光地じゃないぜ。ディズニーランドなら連れていってやってもいいけどな」
けっ! メキシコ野郎はどいつもこいつもチキンばかりだぜ。とっととメキシコに帰りやがれ! (われながら知らないちゅうことはごっつう恐ろしかことですたい。皆さん、生半可な知識は身を滅ぼします、注意しましょう。嗚呼、無知の涙)
メトロのブルーラインに乗ればサウス・セントラル地区まで行くことができるのだが、私もそこまで無謀ではない。残念だが、そこに行くのはあきらめた。口惜しや。その時、天啓のように私の脳裏に閃く地名があった。そうだ、「ワッツ」だ。ワッツは黒人暴動が起こった場所として記憶に刻み込まれていた。今度はそこに行きたいと頼んでみると、一人のメキシコ人が行ったことがあると言う。35ドルでタクシーを手配してやると言うのでOKする。何でわざわざ好き好んでそんな危険な場所に行きたがるんだと疑問に思う人もいるだろう。貧しい人々や危険な地域を見学するような非常識な行為はやめようという良識派の意見は百も承知だ。しかし、私の好奇心はどうしてもそういった方面に向けられてしまう。
やって来たタクシー・ドライバーはエルサルバドルからアメリカに来て三年目のフィデルという青年で、英語がほとんど分からない。私のスペイン語は大学の第二外国語で習っただけで、補習を受けてやっと可を頂いたという代物だ。自慢じゃないがしゃべれる構文は「私の父と母はスペイン語が話せます」だけだ(一年生の時にスペイン語を教えてくださった平田先生、その節はご迷惑おかけしました。それから三年の時の補習の大垣先生、以下略)。
我々の意志の疎通は私の極端に少ないスペイン語の語彙(二十単語ほど)と身ぶり手ぶりと勘によって行われた。で、そのワッツだけど、総じて美しい住宅街が続く何の変哲も無い街だった。「Dr・Martin Luther King Shopping Center」というモールを見つけたので、タクシーを降りる。ぶらぶらと歩いている黒人は誰もが穏やかに見える。近くにいた黒人警官に聞いてみると、「暴動のあった場所はこの辺りだが、貧しい黒人の居住区は知らない」のだそうだ。そういえば、暴動が起きたのは1950年か60年代のことだったぞ。あー、何やってんだ、俺は。フィデル、とっとと帰るぞ。お前もアメリカに三年も住んでんのなら、英語くらい勉強しろよな(やつあたりすんなよ)。
夕食はチャイナタウンに食べに行った。今日は大晦日なので閉まっている店がほとんどだ。客のいない小さな食堂で飯を食べていると、警察官が二人食事をしにやって来た。 
「......................................。」
大晦日の夕暮れにうら寂しい食堂で警察官と無言でとる食事ほど物悲しいものはないと私は断言する。これで古いラジオから八代亜紀が聞こえてきたら完璧だ。いや、アメリカだからウィリー・ネルソンかトム・ウエイツあたりか。リトル東京では「紅白歌合戦」を衛星放送で観ながら故郷に想いを馳せながら涙する人がいるんだろうか。
ユニオン・ステーションで21時発サンディエゴ行きのアムトラックに乗る。ロンドンで知り合ったジョイスに会うためだ。彼女は元看護婦のおばあさんで、今は離婚してロサンゼルスとサンディエゴの中間ほどにあるオーシャンサイドに独りで住んでいる。降りる駅が近づくと、車掌がやって来て教えてくれた。乗客の一人一人にそうしているみたい。駅にはジョイスが迎えに来てくれていた。彼女のアパートは駅から歩いて五分。目の前は海岸だ。歩きながらジョイスが言う、「ここで『トップ・ガン』の撮影があったのよ」。おお、さすがハリウッドが近いだけはあるじゃないか。
その夜は二人でテレビのNYのカウントダウンの中継を観る。 
「ファイブ、フォー、スリー、ツー、ワン! あけましておめでとうございます」 
「ありがとう、今年のニューイヤーは寂しくなかったわ」 
「今度は是非日本に来てください」
袖振り合うのも他生の縁というジャパンのことわざを思い出す。それから二人は他愛ないことを女子高生のように明け方までくっちゃべり、疲れ果てていつしか倒れ込むように寝入ってしまうのだった。
目を覚まし、海辺に面した部屋のカーテンを引く。陽はすでに高い。白い波頭の間にサーファーたちが見え隠れする。今日も暑くなりそうだ。
ロサンゼルスには四種類の人間しかいない。ハリウッドスターと観光客とメキシカンとホームレスだ。
ロサンゼルスに滞在して分かったこと。その壱、食事をハンバーガーとコーラなんかで済ませる人が結構多い。それゆえ、デブはハンパじゃなくデブだ。デブの中のデブ、デビーだ。人間というよりは肉の塊、ミートだ。その弐、タトゥーをしている人が多いが、やつらはそれを見せびらかすために常にノースリーブのTシャツだ。ごくろうさんだ。ためになった。これだけアメリカを学んだら充分だ。今晩荷物をまとめて日本に帰ろう。
「メキシコに行ってみましょうか?」ブランチの後、ジョイスが言った。
「え”?メキシコに行けるの?」
「もちろん、行けるわよ。アメリカからメキシコにはフリーパス。帰るときはIDがいるけど」
メキシコといえばテキーラにサボテンにタコスしか思い浮かばんが、なんだかムーチョなところに違いあるまい。
「行く、行きましょう、連れてってください。これからすぐに旅立ちましょう。早く支度して、急いで急いで」
「お、落ちついて。そ、そんなに揺さぶらないで!」
というわけで、我々はバスを乗り継ぎ、トラムに乗り、何時間もかけて国境のティフアナに到着した。国境越えするにはらせん状の歩道を歩かなければならないが、そこにはすでに幼子を抱えた母親が何人か物乞いをしていた。目の前の丘にはトタン屋根の粗末な家が斜面にも隙間なく建っている。いきなり劇的に景色が変わった。
その参、アメリカとメキシコの国境は世界一残酷な国境だ。
「GODを求める人たちがアメリカに行き、GOLDを求める人たちがメキシコに行った。たった一字の違いでしかないが、それが現在の貧富の差となった」という石川好の本で読んだ言葉を思い出した。もちろんそんな単純なことではなく、ピルグリム・ファーザーたちも崇高な目的ばかりじゃなかったらしいけど。街を歩くと、その身なりで地元の人間と観光客がはっきりと分かる。前を歩いていたフリルの付いた服を着たアメリカ人少女と、裸足でぼろぼろの服を纏った同じ位の年嵩のメキシコ人少女が偶然にもツーショットになった。
「しめた、これを撮ればピュリッツァー賞なんかもらえるかも」とカメラを探しているうちに彼女たちはどこかに行ってしまった。あ”あ”、おれって!
健康的で眩しすぎる空と海。反面、移民や不法労働者を抱え、犯罪が多発する現代のバビロン。ああ、ロサンゼルス!
「ロスに来たのは、とんだ時間のロスだったあああぁぁぁぁ~
~っ..................................................................................................。」(ごめんなさい)

元(ハジメ)管理人の感想文と皆様への伝達事項

ここまでが平成十年代のドリアン長野の海外旅行記です。 平成25年6月14日から新作が始まりました。こちらをクリック。
以上、管理人元(ハジメ)でした。

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#8

2024-04-07 | 日記
2006年六月に発表した海外旅行記
2007-09-04 | Weblog

NO 111 インド編 その7

at 2006 06/20 22:03 編集

バラナシで知り合った人が泊まっているホテルに荷物を置かせてもらっていたので急いで引き取りに行き、町中でリキシャーを拾う。町外れまで行き、そこからオートリキシャーを雇ったのだが、運転手が飛ばすこと飛ばすこと。急いでくれるのはありがたいのだが乗っている方は気が気ではない。人波を巧みにかわし、F1レーサーのように車を追い抜き、対向する牛の横をするりと通り抜ける。まったく、生きた心地がしなかったよ、あたしゃ(ここだけちびまるこちゃんの声で読んでね)。
やっと駅に着いてやれやれと思っていたら、駐車しようとする寸前に横から二人乗りの自転車が突っ込んできた。私は後ろの座席であるはずのないブレーキを右足で思いっきり踏みこんだが、やっぱりぶつかった。自転車は派手に横転したが、男たちに大したケガはなかったらしく、起き上がると猛然と食って掛かってきた。それに運転手が応戦する。回りには野次馬が集まってきた。こういう場合、インド人は激しく罵り合っても手は出さない(警官が民衆を警棒でどついている光景は時々見る)。
インド人と中国人は似ているような気がする。どちらの国も人口が多いので自分を主張しないとやっていけない。謙譲の美徳なんて言っていたらバスにも乗れないし、列車のチケットも買えないのだ。そんな生存競争が激しい国では自然と気性が荒くなるのか、しょっちゅう言い争いをしている。そうやってケンカになるとわらわらと人が集まってきて見物を始める。誰も仲裁はしない。大学の時の先生が言っていた。中国からの留学生が日本に来て不思議に思うのは、街を歩いていても電車に乗っていても日本人がとても穏やかでケンカをしないことなのだそうだ。インド人だってそう思っているのに違いない。しかし、私に言わせればケンカばっかりしているあんたたちの方がよっぽっど不思議だぞ。とにかく座席にリキシャー代を置いて、ケンカをしている二人を尻目に駅へと急ぐ。
プラットホームには日本人の団体客がいた。五才くらいの女の子が彼等に 「バクシーシ」 と手を出す。そこにいた若者たちがこう言っていた。
「お金ないんだよ。ノー・マネー、わかる?」 
「逆にこっちから『バクシーシ』って言ってみればいいんじゃないの」 
「そうか、ほら、バクシーシ」 
日本人に手を出された女の子はきょとんとしていた。
むき~っ! 今でもこの光景を思い出すと腹が立つ。その子は好きで物乞いしてんじゃねーよ。貧しくて働きたくても働けねーから仕方なくやってんじゃねーか。そうやってインドまで遊びに来ている金持ちの日本人(私もだけどよ)がいたいけな子供をからかうんじゃねーよ。金をやるつもりがないんなら、断るか無視すればすむことだろーが、あほんだらっ! と憤慨していると一人の少年が私にお金を乞い始めた。歩き出してもしつこくついて来て、ひざまづいて私の靴に額をこすりつけてくる。とうとう根負けして某(なにがし)かのお金を与えた。するとその少年は仲間のところへ戻り、ひそひそと話をしていたかと思うと五、六人がこちらに突進してきた。あわてて逃げ出し、何とか彼らの追跡から逃れて車両に飛び乗る。やれやれ。
列車が駅に着き、乗客が降りると子供たちが一斉に乗り込んできた。何をするんだと見ていると、ゴミ箱や座席の下からペットボトルを拾い集めている。そして構内にある水道の蛇口からペットボトルに水を入れてキャップを閉めているのだ。誰に売りつけるんや~? と考えるとはたと思いつくことがあった。中級のホテルに泊まっていて、ミネラルウオーターを頼んだ。ボーイが持って来たボトルには明らかに水が七分目ほどしか入っていない。もちろんキャップは開けた跡がある。こいつの中身は駅の水道水やないかいっ?! 責任者、出てこいっ! (by人生幸朗師匠)
こういう風にインドのガキどもは毎日を逞しく生きてゆくのであった。幼少のみぎりから鍛えられているんで、斯くの如く冷酷で抜け目のないインド商人に成長していくのもむべなるかな、合掌。(つづく)
    
NO 110 インド編 その6

at 2006 06/13 21:52 編集

ベナレス、ベナレス、モスクワの味~って、そりゃパルナスやろがっ! (ベタですまん。しかも関西限定ギャグ)
古くから親しまれてきたベナレスという名は英語名のBENARES(ベナリーズ)の日本語読みであり、正式名はバーラナシーだ。現地ではバナラスともいう。ああややこしい。
早朝六時にムガール・サライ駅に到着。オートリキシャー(小型オート三輪のタクシー)を拾い、バラナシヘ。両側に花屋や食堂やゲストハウスやお香や聖水入れを売っている店等がぎっしりと並んでいる狭い路地をくねくねと下っていくと(曲り角で牛と鉢合わせて角で突かれたりするから気をつけろよって、誰に言ってんだ)、いきなり視界が開けた。聖なるガンガー(ガンジス河)は思ったより広大でダージリンティーのように濁っている。ガート(沐浴場)では老若男女が口をゆすぎ、祈り、体を浄める。神様の乗り物とされる牛も水浴びをし、時おり排泄物も流れる。バラモンは説教をし、サドゥー(ヒンズー教の修行者)は瞑想する。
おお、高校生の時に三島由紀夫の「暁の寺」を読んで以来、憧れの地であったあのバラナシに私はいるのだ。焼けつくような太陽の下、雄大なガンガーに無数のきらめくサリーと半裸の男たち。人々のざわめきと祈り。聞こえてくる讃歌。ガンガーで沐浴せば全ての罪は浄められん。無辜となった亡骸を荼毘に付し、ガンガーに流せば輪廻からの解脱を得ん。ああ、悠久の聖なるガンガーよおっ! 
「バクシーシ、バクシーシ、ジー」 と肩を叩かれたので振り向くと、乞食が列を作って並んでいる。
「バクシーシ!」
ああ、うるさいっ。声を揃えるんじゃないよ。ゆっくりと思索にふける間もないな。そうだ、ボートに乗ろう。交渉して値切り倒し、一時間50ルピーで廻ってもらうことに。ボートを漕ぎ出して川中からガートを眺める。いろいろなガートがあるが、中でも大きなガートは何かもう、ひっちゃかめっちゃかに様々なものが混じり合ってこの世のものとは思われない光景だ。
いくら聖なる河だといっても、川底に人骨がごろごろ転がっていてたまに死体が浮いていて赤痢菌がうじゃうじゃしているような汚い河の水を飲んで下痢をするインド人だっているだろう。死んじゃう人だっているかも。いや、信仰という気合いが入った精神には病原菌も退散するのかもしれない。なんたって、遺灰をガンガーに流してもらうために地方からやって来てバラナシに住み、死ぬのを待っている人もいるんだもんなあ等と思索にふけるためにボートを漕ぎ出して思索にふけっていると、少女の乗ったボートが近づいて来た。
「この花、神様に捧げる花。10ルピー。買え」
「船頭さん、買わないから先に行っちゃって」 
それにしても信仰というものはすごいなあ。椎名誠が「わしもインドで考えた」で書いているように、このように信仰篤きインド人と信じるものなど何もないんだあ~と嘯いている日本人と一体どちらが幸せなのだろうか等と思索にふけっていると、少年の乗ったボートが近づいて来た。
「ガネーシャ、クリシュナ、カーリー、神様の人形、いろいろある。20ルピー。買え」 
「だあ~っ、うるさいわあ~っ! 俺を一人にさせてくれ~っ!」
ボートを下りて火葬場のマニカルニカー・ガートに行くことにした。布に包まれた遺体を組んだ薪の上に乗せ、火をつける。薪がバチッバチッと音を立てて爆ぜ、布がめらめらと燃えていき、徐々に肉体が現われてくる。時おり隠亡が棒で遺体をつつき、火の回りを早くする。人間の肉体を焼く光景を見るのは初めてなので、最初は衝撃的だったが炎天下で陽炎のような炎を眺めているうちに感覚が麻痺してくる。インドでは何が起きても不思議ではない。 「インドが異常なのか、それとも日本なのか」 思索にふけっていると、いきなり風が吹いてきた。わっ、ぺっ、ぺっ、遺灰が口の中に入っちゃったあ~。
近くで火葬を見ていた日本人らしき女性に声をかけたら、彼女は北海道の大学生だそうだ。話をしているうちにもう一度ボートに乗ろうということになった。人のよさそうな、おじいさんの船頭に値段を聞くと、20ルピーだそうだ。くう~っ、またしてもぼられてたか~。そのボートにはおじいさんの孫だろうか、まだちっちゃな男の子や女の子が五、六人乗っていた。夕刻のガンガーは気温もいくぶん下がり、風が吹いていて気持ちがいい。ガートの喧噪も遠くに聞こえる。この辺りは六時頃になるともう真っ暗闇だ。それでも路地を歩くと聖地らしい喧噪がここかしこで聞こえてくる。自分が今ここにいることが不思議だ。日本を離れて本当に遠くまで来たんだなあ、と感慨にふけっている暇はない。今晩八時半の列車でカルカッタに帰らなければならないのだ。バラナシ滞在十二時間。ああ、せわしない。ここがリーマン・パッカーのつらいところだ。乞食や物売りの少年少女たち、明日もしっかり稼げよ。さらばバラナシ、また来る日までえ~。(つづく)
NO 109 インド編 その5

at 2006 06/05 21:42 編集

事情を話すとおっちゃんは 「バラナシ行きの列車は今日はもうないから、チケットをキャンセルすればお金が戻ってくる」 と言う。おっちゃんに連れられて案内所に行って聞いてみると、「国際外国事務局」 なる所で明日払い戻しをしてくれるそうだ。やれやれ、とにかく戻ってきたお金で新しくチケットを買い直そう。おっちゃんは 「ついてこい」 と手招きをする。この時点でも私はこのおっちゃんを信用していたわけではない。だが、今にも倒れそうな状態であれこれ詮索するのも面倒だったので、大人しくついていくことにした。
駅から五分ほど歩いた場所に旅行会社のオフィスがあり、おっちゃんはそこに入っていく。ここの社員らしい。オフィスで少し休憩してから、リキシャーでおっちゃんの紹介してくれた 「ホテル・アトランタ」 に行く。ゲストハウスではなく中級ホテルだが、一泊80ルピーと、そう高くはない。おっちゃんは従業員と少し話しをすると帰っていった。部屋に案内してくれた従業員の兄ちゃんに 「私は病気である。だから大変苦しい」 と言うと、その兄ちゃんは驚いていろいろと世話をしてくれたのだが、その世話が半端じゃなかった。毛布を持ってくるわ、食べ物を運んできて食べさせてくれるわ、医者を呼んでくれるわ、薬を飲む時間になると水まで持ってきて飲ませてくれた。彼は夜勤なので明日、自分の代わりに私の世話をする人まで頼んでくれた。うっうっうっ。インドでこんなにも人に親切にされるなんてえぇぇ~。私は彼に何度もお礼を言い、やがて眠りに落ちるデリーの夜八時なのであった。 
翌朝は六時に起床。下痢はまだ続いていたが、熱は少し下がったようだ。八時半にバラナシ行きの列車が出ると聞いていたので、急いでチェックアウトをする。駅で窓口に割り込んでくるインド人たちと死闘を演じたあげく、やっと二等寝台車のチケットが取れた(100ルピー)。ホテルに戻り、フロントで昨夜の彼に渡してくれと、迷ったが10ルピー差し出した。せめてもの感謝のつもりだったが、あれから10年以上立つ今でもふと思う。あの10ルピーは彼の手に渡ったのだろうか? やっぱり、渡っていないような気がするな。
駅で昨夜のおっちゃんにばったり出会った。おっちゃんは 「いいか、事務局でチケットを見せれば大丈夫だからな」 とだけ言うと、風を巻くように去って行った。うっ、かっちょいい。私にはおっちゃんの後ろ姿が高倉健に見えた。そして警戒心のせいで無愛想にしたことを激しく後悔した。親切で話しかけてくる人とそうでない人を見分けるのはとても難しい。今日でも構内をうろうろしていると、いろんな人が話しかけてきて教えてくれたのだ。それでもいい人だと思って気を許せば、騙されることもしばしばだ。結局、旅行者は騙されてぼられながら旅を続けていくしかない。絶対ぼられまいと肩ひじ張った旅は面白くないし、旅行者は基本的にその国にとって客人だから通行料だと思えば少しくらいぼられても腹は立たん(と思えるほどの大人になりたいわっ!)。
しかし、それからがまた大変だった。事務局で聞くと、8番の窓口に行けと言われる。8番に行くと13番に行けと言われる。13番に行けば14番に行けと。ああっ、たらい回しだあ~っ。病み上がりの体でひいひい言いながらうろうろしていると、一人の男がここで聞けと13番と14番の間の小さな窓口を教えてくれた。こうしてやっとの思いで払い戻された大枚188ルピーを握りしめ、いつ出発するとも判然としないインド列車に備えて今度ばかりは乗り遅れまいと出発時刻(あくまでも予定)の三時間前からプラットッホームで待機していたのであった。青年は荒野をめざす。いざいかん、聖地バラナシへ! でもここから18時間かかるんだよな。

二等列車に乗り込むと、中はインド世界を凝縮したような騒々しさと混沌である。立錐の余地もないほど混み合ってる車輌にニワトリやヤギを連れ込むやつがいるし、物乞いがお金をせびりに来たかと思えばおひねりをもらいに歌を歌いに来る人や笛を吹いている人もいる。ガキどもは 「バクシーシ」 と遠慮なしに手を差し出してくる。こいつら絶対、無賃乗車だな。ななめ前に座っていたおじさんが 「チャイニーズ?」 と聞いてきた。それからこのおじさんが喋ること喋ること。よく分からないインド英語で、俺はガス会社に勤めてるとか東京と大阪にペンフレンドがいたとか延々とまくし立て、そのやりとりを回りの乗客が興味深そうに見ている。何時間かして、車掌が検札にやって来た。私のチケットを見て、 「この車輌じゃありませんよ」 と言う。おじさんが降りる駅で一緒にホームに降り、ポーターにチケットを見せた。
「ついてこい」(インドではこの言葉をよく言われるなあ)。
そう言うとポーターは私のリュックを肩に担ぎホームを走り出した。列車がどれくらい停車しているか分からんが、乗り遅れたらバラナシはおろか日本に帰ることもままならん。私は必死に走った。こんな時でもなぜか走りながら夜空を見上げ、月がきれいだなあ、なんて思っていた。ポーターの指し示した車輌に飛び乗ると同時に列車が動き始めた。お礼にと彼に1ルピーを渡そうとしたら、受け取ろうとしない。誇り高い人だなと思ったら、 「パイサはいらない」 と言っている。よく見るとそれは1パイサ硬貨だった。あわててポケットから50パイサを三枚つかみ出し、放り投げた。はあ~っ。
疲れ果て、三段寝台の中段にもぐり込み、泥のように寝る。下痢は依然として続いていた。いろんなことがあったような気がするが、インドに来てからまだ四日目なのであった。(つづく)
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2006年五月に発表した海外旅行記
2007-09-04 | Weblog

NO 108 インド編 その4

at 2006 05/29 22:35 編集

インディア・エアラインでデリーにやって来た。空港から市内行きのバスに乗る。運転手と客のやり取りを聞いていたのだが、ヒンディー語だと思っていたのが三十分経過して英語だと判明。ちなみにインド英語の特徴は th をタと発音し、R をはっきりと発音する。だから thirty はターティーとなり、master はマスタルになる。
その運転手にホテルを紹介してもらい、宿泊した翌朝のこと。起きると下痢と頭痛と悪寒とおまけに脚の関節まで痛い。これは赤痢かコレラか肝炎か。インドの地で客死したら骨はガンジス河にまいてくれ。後は頼む、って私は一人旅なので自分で何とかせんといかんのだ。食欲はないが、喉がやたらと渇くのでメイン・バザールでミックス・ジュースを飲む。路上のジュース・スタンドなのだがこれがものすご~くうまいのであっちこっちで10杯ほど飲み倒す。
1月の北インドの朝は寒い。栄養不良のせいもあって毎年、路上生活者が凍死するほどだ。それでなくても寒気がするのでセーターを50ルピーで買う。もう値切る気力も残っとらん。それにしてもニューデリー駅前って敗戦直後の日本の焼跡地みたいだ。朝になるとみんなが路上の至る所で商売用か自炊のための火をおこし、わらわらと人や野良犬や野良牛が集まり始め、その人ごみの中をタクシーやリキシャーが縫うようにして通り抜けてゆく。道端では男たちが座り小便をしている(なぜかインドの男たちは座って用を足すのだ)。
メイン・バザール(バハール・ガンジ)はその駅前にある、安宿や食堂や映画館や雑貨屋等が立ち並ぶ通りだ。今日の夕方にはバラナシ行きの列車に乗らなければならないので、駅のクロークに荷物を預けてからうろうろしようと思っていたのだがっ。だっ、駄目だあ~。苦しい。もう一歩も動けん。このままでは死ぐ。ホテルで休ませてもらおうと日本人に人気の「ホテル・パヤール」に行き、「2、3時間やずまぜで~」 と息も絶え絶えに頼むと心良く了承してくれた。 「だけど一泊分の料金はもらうよ。30ルピー」 と付け加えるのを忘れなかったが。 
屋上の部屋に案内される。隣の部屋の中年の日本人はインド滞在二か月だそうで、パチパチとタイプライターを打っている。屋上のデッキチェアで昼寝をしに来た日本女性三人は「あの人(私のこと)、病気なんだって。私、薬持っていてあげよう」 と話をしていた。私はベッドで苦しみながら期待して待っていたのだが、結局来なかった(おいっ)。
しばらく横になった後、ホテルを出て駅に行く。預けていた荷物を引き取ろうとすると、クロークのおっちゃんが、 「4時15分にならないとここはオープンしないよ」 とぬかす。冗談じゃねえ。おれの持ってるチケットは10分発なんだよ。だから開けてくれ、開けろってんだよ。開けろ~っ! 頼む、開けてちょうだい。ね、少しだけだから。開けてくださいまし。開けてくれないとリンダ困っちゃう~(ふるっ!)。開けてったら開けてぇ~。ねえったら、ねえ~ってば~。とすごんだり、すかしたり、傍らのインド人も見かねて加勢してくれるのだが、おっちゃんは 「駄目だ」 の一点張り。普段は 「いいかげん」 を絵に描いて額に入れて壁に飾って一人50パイサでお金を取って鑑賞させるほどルーズなインド人がどうしたってんだ。結局、発車時刻を逃してしまった。しかし、インドの列車は10分、20分の遅れは定刻のうちで、平気で4、5時間遅れることはざらにあるとは後で知ったこと。この時も私の乗る列車がまだ到着してなかったことは充分考えられる。とにかくプラットホームに出て、そこら辺の人に次のバラナシ行きの時間を聞いてみた。でも8時半だとか11時だとか1時とか人によって言うことが違う。窓口で聞こうにも大勢の人間が殺到していて、下痢と発熱で弱っている私にはそこへ突っ込んで行く気力はもはや残っていなかった。
「インド、あんたの勝ちや」
私はへなへなとその場にうずくまった。
「何でインドなんかに来てしまったんやろ~。もし生きて日本に帰ることができたら、今度はハワイに行くぞお」
とわけの分からんことをうわ言のようにつぶやいている私に、 「どうしたんだ?」 と一人のおっちゃんが声をかけてきた。(つづく)   
NO 107 インド編 その3

at 2006 05/15 22:30 編集

インドはいうまでもなく暑い。めったやたらと暑い。気温は、少なくとも香港風邪にかかって病院のベッドでうんうんうなっている重病人の体温よりは高いのは間違いない。歩いていると熱風に包まれたようになって息が苦しいし、脳みそが沸騰してくるので難しいことは理解できなくなってくる。そんな炎天下で男はクルターとパージャーマーの上下、腰巻風のドーティーやルンギーといった服装が多いが、女はどこへ行ってもどんな時でもひたすらサリーだ。道路工事や建築現場でも男に混じってサリー姿の女が土の入ったざるを頭の上に載せて運んだり、レンガを積んだり、ツルハシで穴を掘ったりしている。労働するからちょっとTシャツとスパッツに着替えてくる、というわけにはならないのだ。インド初の地下鉄がカルカッタで一部開通したが、地下鉄工事中も機械を導入する資金がないのでサリー姿の女性を含む人夫たちが手作業で労働に従事していたそうだ。他の国からはあの調子では開通するまでに100年はかかると言われていたぐらいである。そのありがたい地下鉄に私も乗ってみることにした。
全線1ルピー。電車内は信じられないことに冷房が入っている。冷房ぐらいは当たり前かもしれないが、ここはカルカッタである。天井で三枚羽の扇風機が回っていても私は納得した
だろう。快適。喧噪と灼熱地獄の地上とは別世界だ。ホームから地上へと昇っていくエスカレーターの前では男の子の手を握ったお父さんが必死になっていた。小さい頃、初めてエスカレーターに乗ろうとした時を誰もが覚えているだろう。動くステップに一歩を踏み出すのはなかなか難しいんである。お父さんが恐る恐る足を出す。タイミングが合わなくてつんのめりそうになる。もう一度足を出そうとするが、次々とせり出してくるステップが恐くて躊躇する。その横では奥さんが 「あなた、がんばって」 という顔つきで見守っている。そのうしろでは大勢のインド人が 「落ち着けよ、あせるなんじゃないぞ。それっ、今だ」 というような面持ちで真剣にお父さんを見つめている。小さな子供ならいざしらず、大の男が必死になっているのが笑える。インド人にとっては初めての経験だもんなあ。それはインド人のしつこさに辟易していた私にとって、今思い出しても頬のあたりが 「むふふ」 とゆるんでくる唯一の光景であった。
終点で降り、カーリーガート寺院内にあるマザー・テレサの施設 「死を待つ人の家」 に行く。ここでは各国からボランティアが来ていて熱心に働いている。私も友人の看護婦から言付かった医薬品をシスターに渡し、布に包まれた遺体をみんなで運んだりした。帰りにカルカッタのメイン・ストリート、チョーロンギー通りを歩く。ここは世界一の人口過密都市と呼ばれるカルカッタにおいてもさらに人の行き来が激しい。夜になると明かりが少ないので、気をつけてないと人とぶつかるのはもちろん、往来に寝ている乞食を踏んづけてしまうこともある。その日もスリに注意しながら歩いていたのだが、いきなり、という感じで通りのまん中に十歳くらいの少年が寝ているのを見つけた。通行人はその少年をじろじろ眺めたり、一瞥しながら通り過ぎて行く。少年には両腕がなかった。上着を着ておらず、本来なら腕の付け根がある場所に赤黒いケロイドの皮膚が少し盛り上がっていた。少年は怒りも恥ずかしさも悲しみも感じさせない無表情な眼でただ空を見ていた。彼は一日中そうやって寝ているのだろう。しばらく見ていたが、彼にパイサやルピーを投げ与える者はいなかった。日本に帰ってから知ったのだが、本当に貧しい親は子供を不具にしてしまうそうだ。そうすれば子供は物乞いとして生きていくことができる。その少年がそうなのかは分からないが、私はやり切れない気分だった。
人間はどんな環境においても順応していける動物だと私は思う。単純に貧しいから不幸だとか、豊かだから幸福だとかを言うことはできない。先進国にも苦しんで自ら命を断つ人はもちろんたくさんいるし、途上国から先進国の人間を見て、自分にはとてもじゃないがあんな生活はできないと思うこともあるだろう。幸福感というのは主観的なものなので、インド人が皆不幸であると思い込むことは先進国の人間が皆幸福であると思うのと同じくらい愚かなことだ。確かにインドは限り無く貧しいし、不衛生で識字率も低い。障害者も多いし、今もカーストやサティー(注 1)やダウリー(注 2)という文化が存在している。悲惨だと言う人もいるだろう。しかし、同カースト内では相互扶助的に生活しているという例もあるし、サティーに至っては自ら進んで殉死する寡婦もいると聞いた。まるで藤子・F・不二雄の 「ミノタウロスの皿」(注 3) だ。それはパラダイムの見直しであり、「人権」 というタームでは火の中に身を投じる寡婦を止めることはできない。我々の文化で彼らの文化を計ることはできないし、かといって全ての文化は等価だと言うこともできない。けれど少なくとももし、今度生まれ変わるとしたらインドと日本とどちらがいいかとインド人に聞いたら、ほとんどが日本だと答えるんじゃないか(今の私だったら必ずしもそうだとは思わない。その時代のその国に生まれて後天的に形成された言葉をも含む共通の価値観はそう簡単には越えられないからだ。日本人がアメリカに生まれたい、と思うこととは違う)。私はインド滞在中、ずっとそんなことばかり考えていた、っていうか考えられずにはいられなかった。それほどまでに当時の私にとって、インドはカルチャー・ショックだった。(つづく)
(注 1)  
夫に先立たれた妻が夫の遺体と共に生きながら火葬される習慣。法律では禁止されたが、なくなったわけではない。
(注 2)  
花嫁の父から花婿に贈られる財産や持参金。ダウリーが少ないために姑に嫁が殺されたり、親の負担を案じて自殺した姉妹もいる。なお、カーストはポルトガル語、ダウリーは英語から来ており、それらを表わす言葉自体インド語には存在しない。
(注 3) 藤子・F・不二雄「異色短編集 1」 
未来世紀、一人の地球人がある惑星に不時着する。その星では人間が家畜であり、牛が主人である。家畜である人間の最大の栄誉は大祭の日に選ばれて食べられることであり、それは本人にとっても家族にとっても待ち望まれている。ここではパラダイムの転換が起きている。
NO 106 インド編 その2

at 2006 05/08 21:25 編集

「グレート・イースタンホテル」の大理石のバスタブにつかりながら私は考えていた。 
「カルカッタくんだりまでやって来て、こうやって高級ホテルの風呂にのうのうと入っている場合か。インド8億の民衆の生活を知るためには、やっぱり安くて汚いゲストハウスに泊まって貧しさを肌で感じなければ。民草の中に入っていくのだ。カースト反対! ガンジー万歳!」
お前は民青かっ! と思わず突っ込みを入れたくなるほどの勘違い野郎だ。あえてゲストハウスに泊まる理由があるとすれば、お金を倹約したいとか、居心地がいいとか、貧乏の疑似体験をしてみたい等であって、民衆の生活なんぞ分かるはずもない。 「それはお前の自己満足じゃ~っ!」 と今の私なら当時の私に回し蹴りをかますところだ。
そもそも、そんな気持ちになったのはカルチャー・ショックもあるだろう。空港から迎えの車に乗り込み、妖し気なオレンジ色の街灯の下を走っていく。しばらくして市街に入っていったのだが、その光景に目を瞠った。イギリス植民地風の建物もあちこちに建っているのだが、そのどれもが老朽化して今にも崩れ落ちそうになったいる。歩いている人はといえば、そのほとんどが襤褸を纏っている。日本で言えばりっぱな乞食だ。豊かで清潔な国から来た我が身にとっては、まるでタイムスリップに遭遇したみたいであった。
とにもかくにも翌朝、私はサダル・ストリートに行こうとホテルを出た。インドの中でも最も汚いといわれるカルカッタ。そのカルカッタで最も汚いといわれるのがサダル・ストリートだ。ってことは宇宙で一番汚い場所だ。その界隈にはありとあらゆる病原菌が生息しているというのだが、そこに安宿が密集しているのだ。白人バックパッカーに道を尋ねながら歩いていると、老婆やら子供を抱いたお母さんやらが 「バクシーシ(おめぐみを)」 と右手を差し出してくるのだが、ギョッとなることもしばしば。指がニ本か三本欠けている。五本ともない人も。ハンセン氏病だ。あきらかに顔が変型している人もいた。ううっと重苦しい気分になって先を急ぐ。
バックパッカーの間ではその名を知らぬ者はおらず、小説にまでになった 「ホテル・パラゴン」 に泊まろうと思い、リキシャーワーラー(人力車のようにうしろに人を乗せ、自転車でこいでゆく乗り物がリキシャーであり、その漕ぎ手)に場所を聞く。すると横にいた客引きの兄ちゃんに 「パラゴンは満室だ。俺の知ってるホテルに案内してやる」 と紹介されたのが 「キャピタル・ゲストハウス」(一泊60ルピー。当時のレートで1ルピー≒12円とお考えになれば大体の目安となるでしょう)だった。実は、客引きがそこは満室だと嘘をついて自分と契約をしたホテルに連れていき、キックバックを得るのはよくあることだったが、当時の私には知る由もなかった。
生まれて始めて泊まったゲストハウス、キャピタルは冷房なし、トイレとシャワー(水)付き、ベッドのシーツは少なくとも一か月は換えた形跡なしであったが、別に不自由は感じなかった。もう1ランク下がると、トイレとシャワー(水)共同、シーツは少なくとも半年間は換えた形跡なし(南京虫付き)になる。
宇宙で一番汚いサダルは小便横丁という表現がピッタリくる。あっちこっちがぬかるんでいて、あっちこっちにウンコが落ちている。サダルにいるのはビンボー旅行者と物売りと乞食と詐欺師と泥棒と野良犬だ。乞食とそうでない人の境界はきわめて曖昧で、排水溝で体を洗っている人もいれば、道端で寝ている人もたくさんいる。この通りにいれば、いろんな人にやたらと声をかけられる。
「ジャパニ、マリファナいらないか? ハシシは?」
「マネー・チェンジしないか? レートがいいぞ、フレンド」
「パージャーマー買わないか? 安くしとく。フレンド・プライスだ」
「マイ・フレンド、お土産にサリーはどうだ?」
おいっ、会ったばかりで名前も知らんのにフレンドたあ、どういう了見でえっ。そう、インドでは友だちになるのに時間は必要ないのだ。友だちができないと悩んでる君、インドに行って友だちをつくろう! 友だちに国境は関係ないのさっ。さあ、君も今すぐレッツ・ゴー・トゥー・インディア!
「ハロー、ジャパニ。インドは初めてか? どこから来た? トーキョー? オーサカ? 俺も日本には仕事で行ったことがある。ヤマモトを知ってるか? 俺の親友だ。何、知らないのか。まあいい。ところで俺の知り合いが店をやってるんだが、寄っていかないか? お前はトモダチだから特別に安くしてやるよ。お金持ってないって? ノー・プロブレム。見るだけ。見るだけならノー・マネーだ。オーケー? こっちだ。ついてこい」 
私もインド滞在中に何回も同じことを言われた(時たまヤマモトがタナカになったりする)。こうして大阪商人も顔負けの狡猾さでうぶな旅行者を店に引っ張り込み、適性価格の何十倍もの値段をふっかけ、最後にはケツの毛までむしり取ってしまうのだ。ああ、恐ろしやインド人。
私の経験では、アジアでの物売りと物乞いのしつこさランキング第一位はやはりインド人だ。断っても無視しても、どこまでもどこまでもどこまでもついてくる(いやな男にナンパされる女の気分か?)。後年、タイやネパールやカンボジアに行った時、物売りや物乞いのあまりの淡白さに 「もっと気合い入れて仕事せんか~いっ!」 と思っちゃったほどだす。(つづく)
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2006年四月に発表した海外旅行記
2007-09-04 | Weblog

NO 105 インド編 その1

at 2006 04/30 17:24 編集

人間は二種類に分類される、とは巷間よく言われることである。古典的なものでは猫的人間か犬的人間か、流動型か土着型か、果ては野球に熱中する人間かそうでないか、ドアーズを聴いたことのある人間かそうでないか、その伝でいけばこう言えるかもしれない。この世は二種類の人間しかいない。インドに行ったことのある人間とそうでない人間と。私がインドに行ったのは26歳の時、それが初めての海外旅行だった。――
なんてね、オレは沢木耕太郎かってえの。このようにインドとなると人はテツガクしてしまうのである。私がインドに旅立った(そんなに大袈裟なもんじゃないけど)のは自分を変えたかったからだ。(まだ若かったんです。すいません) その頃の私は私生活で色々とあって、その打開策を旅に求めたんである。旅に出て、人間をひと回りでかくして日本に戻ってくるぞっ! そのためにはやはりインドだっ! と、かようなことを考えていました。(あの、旅行は一週間だけです。大馬鹿野郎です、私は。生きててすみません)
なんせ、初めての海外旅行である。インドに関する本は手当たりしだいに読んでいたのだが、それが余計にインドに対する期待をいやがうえにも高まらせ、好奇心と不安が叶姉妹のように攻防戦を始める。もしかしたら生きて帰れないかもしれない。搭乗前に成田(関空は当時開港してなかった)から実家に電話したのはせめて死ぬ前に一言残しておこうという親孝行のつもりである。
「新聞には載るなよ」
という父親の暖かいのかなんだかよくわからない言葉を胸に抱き、機内に乗り込むと客室の壁にはおどろおどろしい曼陀羅のような絵が描かれている。すかさず脳の中の小人がラインダンスを踊り始め、細木数子先生に 「どこが面白いの、あんた!」 と 一喝された猫ひろしよりもびびる。にゃあ~。
とにかくエア・インディアは飛び立ち、まずい機内食と太めで愛想の悪いサリー姿のスッチーにうんざりし始めた頃、ようやくカルカッタ(現コルカタ)のダムダム空港(現在はチャンドラ・ボース空港と改名)に着いた。ちなみにダムダムというのは地名である。殺傷力が高く、残酷なので使用を禁止されたダムダム弾はここの造兵廠で製造されたそうだ(ドリアンの豆知識よ、ってそんな余裕があったのか? なかった。まったくありませんでしたっ)。
夜の7時。タラップを降りると、いきなり暑い。じっとしていても汗が吹き出てくる。しかも硝煙というか、焼けたゴムというか、ともかくそんな臭いがする。しかも空港警備員は小銃を持っている( 正直、帰ろう......かな? と少しだけ思いました) 。空港ビル内に入ると、国際空港だとは思えないほど薄暗い。空調なんぞはもちろんなく、天井に三枚羽の扇風機がゆったりとハエを追うように回ってるだけ。それにしても暑い。なんか飲みたい。
「Drinking water」と書かれたプレートが目についたので近寄ってみると、そこには公園にあるような噴水式の蛇口(下から口に向かって噴水する、あれね)がぽつんとあった。なにもこんなもんに仰々しくプレートをつけんでも.......。いや、ここはインドだ。水道水が飲めるだけでもありがたいと思わんとな。入国審査と税関を終え、外に出ようとしたが、そこで足がピタリと止まった。なんと外にはインド人たちが押すな押すなと黒山の人だかり (インド人だからホントに黒い) で出てくる人間を待ち構えてるんである。それはなにも私が有名人なのでサインをもらおうとか、インドの地を初めて踏む日本人を熱列歓迎してやろうとかといった気持ちからでは決っしてない。やつらはタクシーやホテルの客引きである。全員が、俺はこの客引きに命を賭けてるんだ。なんてったって、家族の生活がかかってるからな。かあちゃん、待ってろよ。明日もチャパティ-を食わせてやっからな。そらっ! 金持ちの日本人が出てきやがった。今夜のカモはあいつだ。ぜってえ、逃がさねえぜ、なんて顔をしてるのだ。
ひえ~っ! あいつらの中に出ていくんかいっ! 思わず「ドラゴン 怒りの鉄拳」でブルース・リーが暴徒と化した群集や拳銃を構えた警官隊に走り出て、飛び蹴りをかますラストシーンが浮かんだね。
しかし、ここで回れ右をして帰国してしまっては、末代までの恥だし、航空券が無駄になる。よしっ、待ってろよ、インド人! サムライ魂をみせてやるわあ~っ! と、ここで私は、はたと気づいた。興奮してたんで忘れてたけど、旅行会社で今夜のホテルは予約してたんだ。そのホテルから車が迎えに来てるはずだ。そうだった、そうだった。それならいくら客引きが寄ってこようと恐くはない。私は余裕の表情で空港の外に出た。
「ナマステ~、インドのみなさん、アイ・ケイム・フロム・ジャパ~ン」 がっ、! 
 
「ジャパニ! ジャパニ!」 「タクシー! チープ! チープ!」 「ホテル? カムカム!」
「グッドプライス!!」 「ベリーチープ!!」 ぎゃあ~! うげえ~っ!
「#$%&♀¥!!」
うるさいわいっ! 私はフランスに凱旋帰国したトルシエ監督なみにもみくちゃにされた。(トルシエって、確かフランスだったよな。サッカーに無知なので事実誤認があったら許せ、サッカーファン。カミソリの刃なんか送ってくんなよ)
ホテルから迎えに来たらしき人が声をかけてきた。
「エクスキューズ・ミ-、ア-・ユー・ミスター・ナガノ?」
「イエス! イエス! イエース!!」 
私はヘビメタのヘッドバンキングのように激しくうなずいた。
「すみません、ちょっとここで待っててください」
そう言うと迎えの人はどこかへ行ってしまった。間髪を入れず、そこへ別のインド人が現われて、「グレート・イースタン・ホテル(今晩予約していたホテル)なら、こっちだ」 と先に立って案内する。思わずふらふらとついていったが、途中で何か変だなと立ち止まった。すると、さっきの迎えの人が追いかけてきて、「ノー! ノー!」 と私を連れ戻したのだった。あぶねえっ、ちっとも油断がならねえな、インド人!! (つづく)  
NO 104 カラテ イン ネパール編(ネパール編 加筆訂正)

at 2006 04/07 22:18 編集

カトマンズの朝は早い。そして寒い。ここ、バサンタプルの広場でも早朝から何することもなく人々がたむろしている。オーストラリアから来たという少女が物乞いをする少年に仏心を出し、パンケーキを買ってやった。それを他のガキどもが見逃すわけはない。「僕にも、僕にも」 と彼女を取り囲む。困惑顔の彼女はしかし、近くにいた大人がたしなめたおかげで事なきを得た。ああくわばら、くわばら、桑原和男。それにしても遅い。さっきから誰も来ない。なぜ私がこんな所で待ちぼうけを食っているかというと、今からさかのぼること昨日のことだ。
タメルで一泊した私はジョッチェンに投宿しようと昼前にここにたどり着いた。そして広場の入口にある貸し自転車屋の前の絵看板に目が釘付けになってしまったのだ。こっ、この一見ヘタだがよく見るとやっぱりヘタな絵は極真会館の松井館長ではないかっ。ほれっ、その証拠に極真マークもちゃんと描いてあるぞ。なにを隠そう、私は極真空手家オタクだ。夢はムエタイ・ボクサーとルンピニー・スタジアムで戦うことだ(嘘ぴょ~ん)。ちなみに子安慎悟?(あれっ?)のファンだ。ここってもしかしなくてもネパール支部じゃん。これも何かのお導き。天国の大山総裁、ありがとうございます、押忍っ。カラテ道場を知らないかとそこら辺の人に聞いてまわったが、誰も知らん。そうしている内に六十歳くらいの油すましみたいなお爺がいつの間にか出て来て、のたもうた。
 「道場なら閉鎖して去年ニューヨークに引っ越したよ」
はあ~っ? 何でネパールの道場がニューヨークに引っ越すんじゃい、ワレ。こうなったら戦争じゃけん。止めんでつかあさい、オジキ!  と今ならつっこむところだが、生憎その時の私は冷静さを失っていたので心底、落胆した。せめて閉鎖した道場でも見たいと所在地を聞くと、このじっさま知らんとぬかしよる。何でやねん! 筋が通らへんやないけ! ワシは筋の通らんことは嫌いじゃ。タマ取ったりますけん、止めんでつかあさい、オジキ! と今ならつっこむところだが、私はあせって平常心を失っていた。しばらくすると、じっさまはまわりの人に何ごとかを尋ね、郵便局に行こうと促すのだ。
何でやぁ~~っっ?!
しかし、頼みの綱はこのじっさましかおらん。大人しくついて行くと、うしろからガタイのいい男が追っかけて来た。 
「僕の弟は黒帯で指導員をしてたんだ。僕自身は結婚して忙しくなったので茶帯でやめてしまったけど」
 
そうか、そうか。君がそうなのか。会いたかったぞ。我々は再会を約束し、そこで別れた。聞きたい話はたくさんあるが、まずホテルを確保しとかんとな。ホテルにチェックインする時もなぜかじっさまはついて来て街を案内してくれた(とはいっても広場とショッピング・センターだけだったが)。バサンタプルに戻り、さきほどの男と話をしていると彼の弟の黒帯空手男(クマルという名前)と奥さんがやって来た。奥さんは台湾人で、ネパール旅行中にクマルと知り合ったそうだ。二人はこの広場で露店商として土産物を売っているのだ。私とクマルはカラテについて飽くことなく、何時間も語り合った。奥さんは傍らに座っていて、うんうんと時おり会話に加わる。
そうこうしていると、 じっさまが再び現われて、「あっちで待ってるから」 と言った。このたわけた子泣きじじいめ。わしが何のために世界中で何度も何度も何度も(泣)騙され続け、何回も何回も何回も(号泣)金をまきあげられたと思うてけつかんねん! てめえの悪だくみなんぞ、こちとらお見通しでい!(もっと早く気いつかんか~い)
無視するとじっさまはいつの間にかいなくなった。あまりクマルの商売の邪魔をしては悪い。 「またあとでね」 と腰を上げ、近くのガキんちょたちにババぬきを教えて遊んでいたら、今度は見るからに怪しそうな男に肩を叩かれ、ついてこいと声をかけられた。てめえ、じじいの仲間か、と警戒心を抱きながらもついていった。この男はとてもとても人相が悪い。凶悪といっても過言ではない。逃げ出したほうがよいのではないだろうかとビビりながらついていくと、五、六人の男女がたむろしている場所へ連れてこられた。なによっ、あんたたち、変なことしたら大声だすわよっ。すると中の一人が言った。 
 「私たちはキョクシンカラテのメンバーです。オス!」 
なんだ~、びっくりさせんじゃないわよ~、思わずヒザがかっくんとなっちゃったじゃないの。でも良かったわ、会えて。みんなに連れられてすぐ近くにある彼らの先生(三段)のアパートまで案内してもらった。先生は八畳ほどの部屋に妻子と住んでいるのだが、壁という壁の至る所にカラテの賞状が飾られている。何冊もあるアルバムは稽古や試合の写真ばかりだ。私(ドリアン)は猛烈に感動した! この地でこんなにも極真カラテを愛している男がいたことに!! (梶原一騎調でお読みください)
一週間後に試合があるからビザを四日間延長してカラテを教えてくれと懇願されたが、私は真面目なリーマン・パッカーだ。出勤日から四日間無断欠勤したら即刻、馘首じゃないか。家賃はどうやって払うんだ。残念ながら断ると、それじゃあ、明日道場生とピクニックに行くから一緒に行きましょうと誘われたのだ。
七時の予定が結局八時半に出発した(ネパールタイムだそうです)。八人が幌付きのトラックの荷台に押し込められた。みんなの顔を見ると何だかヤクザの出入りか自衛隊の演習って感じだ。着いたダクシンカリはヒンズー教の寺院で祭りには神サマに捧げるためにヤギの首をはねるそうである。ピクニックといってもネパール人は弁当なんぞ持っていかん。材料を持参して現地で女性たちが料理してカレーを作る。トラックに積んでいたバカでかいインド製のカセットとスピーカーでダンス大会をするつもりだったらしいが、シャイなネパール人は誰も踊ろうとしないのだ。ここでも私が得意のダンスを披露して、皆の尊敬を一身に集めたのはいうまでもない。
翌朝、バサンタプルを歩いていると誰かに聞いたのか、「僕もキョクシンカイです」と佃煮にできるほどのガキんちょ、いや少年たちに声をかけられた。そういうわけで朝からこの広場にはあっちこっちで気合いがこだまするのであった。オ~~スッ!

NO103 ビルマの休日 その16

at 2006 04/07 22:17 編集

バスはやがて山の中腹に着いた。待ち合わせていた食堂で朝食(もちろんカレー)を食べていると、タクシードライバーのソーパーさんが現われた。
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」
私は山頂のホテルに泊まれなかったこと、ひょんな巡り合わせからリゾートホテルに泊まった顛末を話した。
「それは面白い経験でしたね」
「ソーパーさんはゴールデンロックまで登ったことがありますか?」
「一回だけね。もう二度と登りたいとは思いません」
ソーパーさんは本当にうんざりとした顔をした。
「さて、そろそろ行きましょうか」
タクシーがチョウチョウさんのホテルの近くに差し掛かった時、一台のバイクとすれ違った。チョウチョウさんだった。はっとしてバックミラーを見るとあっちも気づいたらしく、Uターンしているところだった。
「ちょっ、ちょっと止めて下さい」
「どうしましたか」
「あの人がさっき話したホテルのマネージャーです」
チョウチョウさんが追いついてきた。急いで窓を開ける。
「今から帰るところですか。これからゴム工場を見学していきませんか」
「ソーパーさん、少し時間ありますか」
私がそう言うとソーパーさんはビルマ語でチョウチョウさんに何か話しかけた。おそらく、「残念だけど、今日中にヤンゴンに戻らないといけないので無理だね」とでも言ったのだろう。
「そうですか、仕方ありませんね。またミャンマーに来た時にはホテルに泊まりに来てください」
チョウチョウさんはまた同じことを言った。
朝五時。あたりはまだ暗い。通りに小さな火が揺らいでいる。屋台の準備のために早朝からカンテキに火を熾している老夫婦。ここにも生活がある。そんなことがなぜか胸を突く。もう少しで夜が明ける。ヤンゴン市内にまた喧噪が戻ってくる。MDプレイヤーのスイッチを入れる。
「ヘッドフォンを耳に充(あ)てる
アイルランドの少女が歌う
夕暮れには切な過ぎる
涙を誘い出しているの?」
「レディオヘッド」のアルバムにも引用された椎名林檎の「茜さす 帰路照らされど...」の一節。私は旅先で聴くとその切なさと激しさに涙ぐみそうになる。通りをこのまま歩いていくと川に突き当たる。インド洋に繋がるヤンゴン川へと。今日はイギリス植民地からの独立記念日だ。
「今の二人には確かなものなど何も無い
偶(たま)には怖がらず明日を迎えてみたいのに」
旅をする気持ちに少し似ているかもしれない、と思う。もうすぐ夜が明ける。(終わり)
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2006年三月に発表した海外旅行記
2007-09-04 | Weblog

NO102 ビルマの休日 その15

at 2006 03/14 23:30 編集

「よかったらゴム工場も見ていきませんか?」
「見ていきたいんですけど、タクシードライバーと待ち合わせをしているのでもう行かないといけません」
「そうですか。もし帰りに時間があったら寄ってください。山へはホテルの前からバスが出てますから、それに乗っていけばいいです」 
チョウチョウさんは一緒にバスを待っていてくれた。
「もう一度日本に行きたいです。今度は仕事ではなくて、友だちに会いに行きたいです」
チョウチョウさんは十年間海外で働いていたことによって、今の軍事政権下では再び出国するのは難しいらしい。というか、私には政権が変わらない限り不可能なことのように思えた。
「あっ、バスが来ました」 
チョウチョウさんは手を上げてそのバスを止めた。バスといっても大型トラックを改造したものだ。車内は人が鈴なりになっているので、窓わくに足をかけて屋根にあがる。そこには既に学生や茶店の商売道具を抱えた少年たちが十人ほど座っている。
「ミャンマーにまた来たときはここに泊まりに来てください」
「はい。ありがとうございました。お元気で!」
バスが走り出すと、朝の澄んだ空気が顔に当たって気持ちがいい。眼下には森が、彼方には山並が見える。こいつは香港やロンドンで乗ったダブルデッカーより比べもんにならんくらい爽快だ。俺は密林の王だ! なんていう勇壮な気分になってくるのは毎朝満員電車に揺られるジャパニーズ・リーマンの悲しき性だ。母さん、岸和田のだんじり祭りで毎年死者が出る理由が少しわかった気がしました。(続く)
NO101 ビルマの休日 その14

at 2006 03/09 23:39 編集

朝食もそこそこに二人は慌ただしくチェックアウトしていった。これからゴールデンロックに登頂しに行くそうだ。健闘を祈る。新たな伝説を作って欲しい。
「どうですか、昨日はよく眠れましたか」とチョウチョウさん。
「はい、ぐっすりと。ところでホテルのパンフレットに書いてありましたけど、ここには養護施設もあるそうですね」
「はい。小学生から高校生まで七百人くらいが住んでいます。費用はいろいろな国からの寄付と、ホテルでミャンマーのダンスを見せることがありますから、そのお金で賄われています」
「そこは見学できますか」
「もちろんできますよ。案内しましょう」
ホテルの裏にある小さな丘を越えると、そこには様々な施設があった。男女別の寄宿舎はもちろん、規模は小さいけど図書館や運動場や娯楽室や医療室や調理場など。大きなかまどのある調理場では子供たちが朝食を作っていたし、明日がイギリスからの独立記念日だということで遊戯場のような所で小学生がダンスを練習していた。
「この教室は日本政府と民間団体からの寄付で2001年に建てられました。寄付金が一番多いのは日本です」
チョウチョウさんがひときわ大きな教室を指差す。外壁にはその事が日本語とビルマ語と英語で書かれたプレートが掲げてあった。こっちとしても鼻が高い。ホテルに置いてあるパンフレットにはこう書かれている。
「この施設には弧児や養育を受けることの困難な家庭や地域から来たビルマ族、シャン族、パオ族、ナーガ族、カヤー族、パダウン族、カレン族の子供たちが住んでいます。宗教も仏教徒やクリスチャンと様々で、お互いに理解することや尊重することを教えるようにしています。子供たちの大半は施設を出ると援助を受けて、より高度な教育を受けます。中には施設に戻ってきて教育や運営に携わったり、自分たちの故郷の村に帰って子供たちに教育の準備をさせる卒業生もいます」。(続く)  
NO100 ビルマの休日 その13

at 2006 03/01 22:34 編集

ロビー兼ダイニングには壁がなく、様々な木々が生い茂っているのが夜目にもわかる。テレビでしか見たことないような二十人は座れるような細長いテーブルに一人で食事をするが、チョウチョウさんやボーイが何かと世話をしてくれ恐縮するほどだ。ロビーにいるのは年輩の男女の白人グループと若い日本人のカップル。談笑している白人のグループの話し声に聞き耳を立てると、英語に似ているが英語ではない。不思議に思って翌朝彼らの一人に聞いてみるとオランダ人だった。チョウチョウさんが説明してくれたところによると、この広大な敷地にはゴムの木、黒胡椒、ザボン、マンゴー、パパイヤ、ココナッツが栽培されていて、ゴムの製造工場まであるそうだ。彼の友人であるオーナーが知人をもてなすために最初に小さなバンガローを建て、それが好評で次々と増設していくうちに今では二十三室になったそうである。案内された部屋は充分に広く、民芸品の家具で統一されていてこれがリゾートホテルだ、文句あっか! という感じで恐れ入って昼間の疲れもあり、ベッドに入ると三十秒で前後不覚になる。
翌朝はいつものように五時に起き、敷地内を散歩する。暗闇の中でちらちらと光るものがあるので近づいてみると、ゴムの木から樹液を採取している人の懐中電灯だった。朝食をとるためにダイニングに行くと、昨夜の日本人カップルがいた。彼らも道に迷ってこのホテルに連れてこられたそうである。二人とも見た目はフツーなのだが、大学生の頃から年期の入ったバックパッカーらしい。話を聞いてみると、バラナシの超有名な「クミコハウス」に長期滞在している牢名主のような日本人のこと、ラオスで大晦日にバスに乗っていると運転手が急に休憩だと言って、毛布を取り出してきて本格的に寝てしまい、新年をそのバスの中で迎えてしまったこと、通りすがりのトラックの荷台に乗せてもらったが、なぜかおがくずが敷き詰められていて、トラックが止まったらその中から生きた鶏が何羽も出てきてびっくりしたこと、ロンドンで罰金を取られてしまい、所持金が無くなってしまったのでロンドン橋が上がったり下がったりするのを一日中、二人で眺めていたこと(北野武監督の映画のワンシーンのようないい風景だなあ)。私は涙が出るほど笑わせてもらった。(続く)  
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2006年二月に発表した海外旅行記
2007-09-04 | Weblog

NO99 ビルマの休日 その12

at 2006 02/17 23:42 編集

トラックは山道から平地に入っていった。あれ? 来たときはこんな道はなかったはずだけど。この平地に入る前にトラックはいきなり停止し、別のトラックが横付けしてきた。みんながわれもわれもとそちらに乗り換えるので、わけがわからないままに私も移ったのだ。見ると半分くらいの人数を元のトラックに残したまま出発した。どうやら違う路線に乗ってしまったらしい。今晩は野宿かなと思っていると、しばらくして終点に着いたらしく、みんな降りていく。さて、どうしたもんかなと、とりあえずにぎやかそうな方向に歩いて行ってみる。そこはゲストハウスと看板が掲げられていて、一階はゲーセンになっている建物だった。入口に立っている若者に聞いてみると、なんだかんだと他の若者が集まってきて協議を始め、近くのホテルにバイクで送ってくれることになった。ここに泊めてくれればいいと思うのだが、ライセンスがないので外国人は泊めることができないらしい。バイクのうしろに乗って漆黒の闇の中を走る。街灯も民家もないから、とにかくもう鼻をつままれてもわからないほど真っ暗。
十分ほど走って連れてこられたのは門から建物まで百メートルはある広大な敷地に建てられたリゾートのようなホテルであった。連れてくんのはいいけどよ、この格好見て判断してくれよな。どう考えても金持ちの旅行者には見えんだろう。恐る恐る値段を聞くと、一番安い部屋が15ドルだそうだ。
「こんばんわ。日本人ですか」と日本語で声をかけてきたのは、五十歳くらいで一見日本人かと思うような人だった。
「私はこのホテルのマネージャーをしています。チョウチョウといいます」
チョウチョウさんは東京の寿司屋や喫茶店や居酒屋などで十年間働き、その時に貯めたお金で友だちと十年前にこのホテルを建てたそうだ。
「その友だちはホテルの経営をやめてお坊さんになりました。面白い人でしょう?」
う~ん、何だかこのホテルは当たりみたいだなあ。(続く)  
NO98 ビルマの休日 その11

at 2006 02/13 23:07 編集

中腹に着くと参拝者を満載したトラックが次々とやってくる。かつぎ屋や運び屋は大忙しだ。こけつまろびつ駆けつけては交渉してどんどん山に登っていく。小柄な少年がかごの中に五人分の荷物を詰め込み、その上にばかでかいスーツケースを括りつけて黙々と登っていった光景を見たときにゃあ、彼の後ろ姿に男を感じたね。町工場のシャチョーさんが見たら「えらい! あんな年端もいかない子供が文句も言わんと....。それにひきかえ最近の日本の若いやつらときたらっ」と思わず事務所のスチールディスクを叩き、感涙にむせびそうだ。定員五十人の荷台に十人の日本人ツアー客を乗せたトラックが到着。五倍の運賃を払ったな。すかさず運び屋が群がる。おばさんが「わたし、自分で歩くよ」と肩をそびやかして腕を振る。日本人のおばさん独特のしぐさだ。とはいっても結局全員がかつぎ屋に運ばれていった。
とまあ、こっちもいつまでも見とれているわけにはいかないので、最終便に乗り込む。定員になるのを待って、ようやくトラックは日没の中を走り出した。夜になるとTシャツだけでは肌寒いほどだ。荷台には茶店の茶器を積んだ大きなバケツを抱え込んでいるおねいさんや売り物の駄菓子やら干物を持って帰る少年といった仕事帰りの人たち、私のとなりには僧侶が二人座っている。相変わらず身動きもできない。時おり話し声が聞こえてくるが、もちろん一言もわからない。見上げると満天の星と下弦の月。トラックは月明かりの下で険しい山道を疾走してゆく。いつ横転してもおかしくないほどだが、彼らと一緒に揺られていると不思議と恐くはなかった。実はミャンマーに来て一番よかったと思える瞬間がこの時だった。私はきっと十年後もこの時のことをまばゆいほどの星と月とともに懐かしく思い出すに違いない。(続く)
NO97 ビルマの休日 その10

at 2006 02/06 23:48 編集

思えば苦しい道のりであった。山頂付近では息が異常に苦しくなり、高山病かと疑ったり(なわけねーだろ)、いつ着くかともしれぬゴールにくじけそうになった時はアントニオ猪木の「恐れず一歩を踏み出せ。そこが道になる。お前の後ろに道はなく、お前の前に道がある。天上天下唯我独尊」という言葉を思い出して頑張った(ウソ。しかもテキトー)。しかし、朝の来ない夜はない。借金取りの来ない消費者金融はない。永遠に続くかと思われた苦行もいつしか終わりを告げ、はっと思ったらそこは山頂だったのだ。私は無寄港(茶店)単独登頂、しかも杖(茶店で売っていた)なしという偉業を成し遂げたのだ。この偉業はミャンマーの歴史には燦然と輝かないかもしれないが、私の歴史には燦然と輝くであろう。万歳、 自分。誉めたたえよ、自分(by 三代目魚武濱田成夫)。
境内には何百人という登頂者がまぐろのように息も絶え絶えに横たわっていた。まさに野戦病院さながらである。気持ちはわかるぞ、同志よ。そして本尊のゴールデンロックはその黄金色を輝かせ、傾斜のついた崖っぷちに絶妙なバランスで屹立していた。地震か台風でもあったら、転げ落ちそうだ。参拝者が金箔を買って、その岩にぺたぺたと貼付けている。日本だったら危険だからといって立ち入り禁止だろーな。崖の下を覗くと、神聖な場所のはずなのに菓子の包み紙とかがいっぱい散乱していて、ちっとも地球に優しくないミャンマー人なのだった。十分も見ていると、苦労して見にきた金箔岩なのにもう飽きてきた。今晩は早めに寝て日の出を拝もうと思い、外国人が予約なしで泊まれる唯一のホテル(これがろくな設備はないくせに宿泊費だけはバカ高いんだよな)に行ったら満室だとゆわれた。仕方ないので中腹まで下山することにした。あとはトラックでふもとまで行けば安宿があるはずだ。(続く)
NO96 ビルマの休日 その9

at 2006 02/02 23:03 編集

トラックを降りないうちに、すさまじい攻勢だ。運び屋は私のバックパックを勝手につかんでかごに入れようとするし、茶店のおばさんは私の袖をつかんで離さない。
「ひと休みしてコーラ飲んでいきなさい」
「ひと休みって、これから登るところ.....」
「コーラ!」
「またねー」
彼らを振り切って、山道を駆け登る。下を見ると、熟れ寿司のように一緒に荷台でみちみちになっていたミャンマー人たちはまだ到着地点でうろうろしている。
「ふっ、やる気のないやつらだぜ。日本人のど根性を見せてやるわっ!」と張り切って登り始めたのだが、鬼のように勾配がきつい。一時間あれば山頂に着くらしいのだが、そんなことのできるやつは誰なんだ。植村直己か、野口健かっ。要所要所にかつぎ屋さんがいて、「乗らないか」と声をかけてくる。彼らは四人一組で台座に人を乗せて五百円くらいで山頂まで運ぶのだが、こんな過酷な仕事がまたとあろうか。その仕事に敬意は表するものの、自らの脚で登頂してこそ御利益もあろうというもの。ああ、ありがたや、ありがたや。声をかけられるたびに「ノープロブレム!」と言い放ち、全力ダッシュを繰り返す。三回続けたらマジで心臓が止まるかと思った。アホや。混じりっけなしのアホや。あちらこちらに茶店があるのだが、一旦休憩したらそこに根付いてしまいそうで恐い。脱水症状でふらふらと登っていくと、遥か彼方に陽光にきらめくゴールデンロックが見えた。それを目にしたら逆に気分が萎え萎え。無理や、あんなところまでたどり着くのはずぇったい無理やああああ。責任者出てこ~い!(こればっかし)。
かつぎ屋に乗った日本人や白人が次々と私を追いこしていく。おまえらなあ、金さえあれば何でもできるという先進国の驕りといったもの、かつ人間の努力と尊厳というものをいったいどのように考えて.......、ああ、それにしても私はなぜミャンマーくんだりまで来て、こんな辛い思いをしてまで山に登っているのだろうかという根源的なしかし決して考えてはいけない疑念が浮かんできたのだが、酸欠なのでそれ以上は脳が拒否。あのミャンマー人のAとB、今度出会ったらグーで殴っちゃるう~(逆恨み)。(続く)

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#7

2024-04-07 | 日記
2006年6月に発表した海外旅行記
2007-09-04 | Weblog

NO95 ビルマの休日 その8

at 2006 01/30 23:14 編集


「あの人、とても悪い人ですね。マフィアですね。気をつけてください。あなたにちょっと話あります。今晩六時にあなたのホテル行きますから待っていてください」
と言ってAは去っていった。自称大学生の男(ミャンマー人B。名前は秘す、っていうか忘れた)はすかさず、「あの男、知ってますよ。ここら辺では誰も知らない人はいません。最近まで刑務所に入っていました」と言う。
(お前ら、二人ともあやしいんじゃ~っ)
Bと別れてから、MTT(ミャンマー国営旅行社)に行って聞いてみる。
「チャイティヨーパゴダなら往復のタクシーをチャーターして、100ドルですよ」
思わず値切るのも忘れて予約した。
Aは六時きっかりにホテルに現われた。悪人なのに時間には正確だ。
「あの人、外国人を騙してお金とりますね。騙すところ見たことあります。とても悪い人ですね。ところで、昨日の話どうしますか。150ドルって言いましたけど、友だちに相談したら130にしてくれるそうです。日本人は友だちですから特別ですね」
Bも全く同じことを言っていた。この国には騙しのテクニック講座があって、同じレッスンを同じ教科書で学んでいるに違いない。
「ふ~ん、もし旅行会社に頼んだら、いくらになるの?」
「そうですねえ、日本のお金で二万円にはなると思います」
私はもちろん、その話を断った。その前にもう一万円を両替してもらった。
チャイティヨーパゴダというのは別名、ゴールデンロックといって、金箔を張りつけた巨大な岩が山頂の崖の端に落ちそうで落ちないという微妙なバランスで鎮座しているというミャンマー人が一生に一度はお詣りに行くパゴダである。行くつもりはなかったのに、何だか行くはめになってしまったのはこれも仏様の導きか。早朝六時にタクシーに乗り、五時間かかって山のふもとに到着。そこからトラックの荷台に五十人ほどのミャンマー人とすし詰めにされ、どこかにしがみついていなければ振り落とされるほどの急勾配&曲がりくねった山道を四十分かけて中腹に着いた。しかし、本当の苦行はここから始まるということを神ならぬ私は知る由もなかった。(続く)
NO94 ビルマの休日 その7

at 2006 01/26 23:13 編集

ミャンマー人は温厚で親切で素朴な人が多いと思う。道を尋ねた人が英語がわからなくても、わかる人をどこかから連れてきてくれるし、何かを買ってお釣りをごまかされたということもなかった。それでも人を騙してあぶく銭を稼ごうとするよからぬやつはどこの国にもいる。ミャンマーに着いた初日の夜に街を歩いていると日本語で声をかけられた。
「こんばんわー、日本人ですか? どこ行きますか?」
歩いていて日本語で声をかけてくるのはお金を騙しとろうというやつに決まっている。話に応じると、日本が大好きだ、日本に知り合いがいる等と言い出す。そして私は学生だとか教師をしていると言って、観光案内をしてあげると持ちかけ、最後に法外な報酬を要求するという古典的な手口である。他の国なら無視するのだが、ミャンマーということで少しだけ気を許した。
「僕は日本に恋人がいますね。日本、大好きです。明日はお正月ですから、たくさんの人がチャイティヨーパゴダにお参り行きますですね。僕の知り合いが車持ってますから案内しますよ。150ドルでどうですか」
その時はそいつの知り合いが日本円をドルに両替できるというので、一万円を換金してもらった。ミャンマーでは日本円を両替するのは難しいんである。
翌日、歩いていると別の男に声をかけられた。
「あなた、ビルマ人に似てますね。日本人ですか。ビルマ人かと思った」
今度は英語である。
「私は大学生です。どこに行きますか? 私の友だちが車を持っていますから、チャイティヨーパゴダに行きませんか。特別に150ドルで行ってくれますよ」
とてもわかりやすい。マニュアルそのままである。さすがに軍事政権では情報が制限されているので、手口も画一化している。こんなんで旅ずれした個人旅行者を騙すことができるんだろうか。
その男と歩いていると、昨日の男(ミャンマー人A 。名前は秘す、っていうか忘れた)と出会った。世界は狭い。
「ちょっと、ちょっと」
Aは私を脇道に呼んで聞いた。
「あの人、誰ですか」
なんだか自分が二股かけたプレイガールのような気がしてきた。(続く)
NO93 ビルマの休日 その6

at 2006 01/21 22:52 編集

列車に乗っていたら隣に七歳くらいの女の子が座った
顔にタナカを塗りたくって
口紅を引いて
マニキュアをして
とっておきのワンピース
お母さんに連れられて
今日はお正月だから
にこっと笑うと齒が欠けていた
ああ、ビルマの子供
アジアの子供たちよ
バゴーのパゴダで
五歳くらいの女の子が
お金をくれと手を出す
お金はやれないよと首を振ると
実に悲しそうな顔をした
せめて 
さようならと手を振ると
顔をくしゃくしゃにして笑った
齒の欠けた口を開けて
クアラルンプールの空港で見た
白人の家族連れ
その子供たちは
貧しさというものを
死ぬまで知らないですむだろう
こんな光景は
こんな光景は何度も見たはずなのに
この炎天下に
汗と一緒に涙までにじむのはなぜだ
子供たちは
たじろぐほどの真剣な面持ちで
俺から金を巻き上げようとする
私は学校に行きたいんだ
弟においしい物を食べさせてやりたいんだ
父さんと母さんに楽をさせてやりたいんだ
俺はいつもお前たちに負けてばかり
最初から勝ち目のない闘いだ
ああ、ビルマの子供
アジアの子供たちよ
俺もアジアの子供だ
いつかはこのアジアの黄色い土に還る
そのときには
神様に頼んでやる
天国でアジアの子供たちと
一緒に住ませてくださいって
毎日話してくれないか
父さんと母さんは
お前たちを愛してくれたのか
貧しくても幸せな日々だったのか
隣でお前たちが
齒の欠けた口を開けて
笑ってくれれば
そう思えば
死ぬことなんて怖くない
そんな気がするんだ
ああ、ビルマの子供
アジアの子供たちよ
観光地では物売りの女の子が同じ絵はがきを二ドルで売っていた。やっぱりまたボラれてた。(続く)
NO92 ビルマの休日 その5

at 2006 01/20 23:44 編集


対面式の座席の後部には縄が張ってあり、その内側には制服を着た人相の悪い輩が四、五人座っている。一人は車掌であとは警察と軍の関係者らしい。乗客の安寧を保つためだそうだ。列車はゆっくりと走っていく。物売りや行商のおばちゃんたちもどこどこ乗ってくる。水売り少年の水はコップ一杯が五円だった。停車駅に近づくたびに、線路の上で寝ている大人や遊んでいる子供たちを見かける。アジアの人たちっていうのは野良犬みたいだ。好きな時に好きな所に寝っころがって、気に入った場所にはどんどん入っていく。そういえば、バンコクでは線路の上に市場があった。列車が通過する時間になると商売道具をどかしていく。マニラでは列車が運行してない時間を利用して手作りのトロッコを走らせ、お金をとっている人たちがいた。もちろん違法だが、こういうのを見ると、いいよなあと思うのは野良犬の生活に少し憧れているからだろう。
ヤンゴン中央駅に戻り、スーレーパゴダの周りを歩いていると、子供たちがこちらにバタバタと駆けつけてきた。年長の十二歳くらいの女の子が持っていた絵はがきを突きつけ、
「ミャンマーの絵はがき買ってよ。言っとくけど、これは複写じゃないからね。他の店では絶対売ってないよ。二十枚セットで一万チャット! お買得だよ。わたしより安いところなんかどこにもないからね!」
と、まくしたてる。アジアの国のどこにでもいる子供の物売りだ。彼らの英語は生活のためだから、たとえブロークンであってもリズムがあってスピードもある。平均的な日本人の英語学習者が一生かかっても彼らのようには喋れないだろう。それはそれで日本人は幸福だなと思うけど。
「一万は高いよ」
「高くないってば! しかたないわね、それじゃあ大負けに負けて八千!」
「それでも高いよ」
女の子は、はぁ~っとため息をつく。
「あのね、一体いくらなら買うの?」
「う~ん、五千だな」
びっくりしたように目をむいて、
「冗談じゃないわ。わかった、ラスト・プライスを言うから絶対、文句言わないでよ!」
「言うよ」
「六千!」
「きみ、英語うまいね」
「あたりまえでしょ、何年も勉強してきたんだから。今でも週に二回学校で英語の授業があるけど、わたし一番なんだからね。いいわ、特別に五千でいい」
女の子は右手を差し出した。商談成立だ。五千チャット(五百円)渡すと、
「あなた、かわいいね」と言われた。きみにかわいいと言われてもな~。(続く)
NO91 ビルマの休日 その4

at 2006 01/17 22:51 編集

夜はすることがないので十時には寝るから、毎朝五時に目が覚める。バンコクで二時までディスコで踊り狂って夜更かしするのとはえらい違いである。早朝の散歩がこれまた気持ちがいい。独立記念塔がある近くの公園に行くともう善男善女が太極拳やらダンスの練習をしているので、私もカラテの型をやる。六時半になればもう充分に明るい。そこからヤンゴン川に向かって歩いていくとイギリス植民地時代に建てられた、創業百年以上の老舗アンド高級ホテルのストランド・ホテルがある。一番高い部屋で一泊十万円、安い部屋でも五万円もするというクレージーなホテルだ。せっかくだからトイレを借りに入ってみると、何だか調度品やら骨董品やらがごちゃごちゃと置いてある。おしっこしたついでにレセプションで両替してみるとレートがものすごく悪い。私の泊まっている安宿の方がはるかにいい。(勝った!)と内心優越感を覚える。ここらあたりは税関やイギリス大使館や今は使われていないデパートや貨物列車が運行していたであろうレールが残っていたりしていて、植民地時代の残滓が色濃く漂っている。朝から対岸行きのフェリーに乗る人や降りてきた人でごった返している。川を眺めながら食べた露店のモヒンガー(魚のダシで作った麺)はストランド・ホテルで食べる豪華なディナーよりおいしかったと思う。これは別に負け惜しみではない(こともないこともない)。
市街にはバッタもんの外食店もある。「マック・バーガー」とか「ミスター・Jドーナッツ」とか「フライド・チキン・トーキョー」とか。カレーより高いけど結構はやっている。ファーストフードは嫌いだが、ためしにフライドチキン・ディナーセットを購入。味に関しての感想は控えたい。ただ日本だったら三時間でつぶれるだろう。
三時間で市内を一周する環状線に乗ってみた。外国人は乗車券を購入する窓口が違っていたり、パスポートの提示を求められたりとややこしく、おまけに料金はミャンマー人は二十円だが外国人は1ドルである。発車時間ギリギリだったので、ホームを走って最後尾の車両に飛び乗った。乗客から不思議そうにじろじろ見られた。(続く)
NO90 ビルマの休日 その3

at 2006 01/12 23:29 編集

歩いているとひっきりなしに、「ハロー、チェンジマネー?」と声がかかる。通貨のチャットと同じくらい米ドルが流通しており、しかも外国人旅行者はホテル代や鉄道料金等は米ドルしか使えない。しかし注意しなければならないのは、ミャンマーでは古びたドル紙幣は受けとってくれないことだ。少しでもよれよれのドルを渡すと、「交換してくれ」と言われる。帰りに空港で出国税の十ドルを出したときにも職員に「新しい紙幣と交換してくれ」と言われ、たまがった。もし新しい紙幣を持ってなかったらどうすんだ? 「日本人、古いドル紙幣のためにミャンマーから出国できず」なんて新聞に書かれたらずいぶんとおまぬけではないか。
市内を犬のようにうろつく。どこの国に行っても中国人街とインド人街が一番にぎやかでぐちゃぐちゃで暑苦しい。サイケなヒンズー寺院の前にはなぜか何匹も野良犬がうろついていた。腹が減ったので食堂に入ってチェッター・ヒン(チキンカレー)を注文。西原理恵子が「アジアではビルマ料理が一番おいしかった」と言っていたが、ガイドブックには「非常に油っこくて旅行者は必ずお腹をこわす」と書いてある。どっちなんだ。出てきたカレーはインドカレー以上にさらっとしているが、表面は古い油を浮かしたようだ。油の中にチキンが泳いでいるといった方がいい。食べてみて驚いた。うまい。うまいじゃないか。香辛料はそんなに入っているようには思えないのに、複雑で奥深い味だ。油っぽさは感じない。チキンは噛み締めるとしっかりとしたうま味が出てくる。私はミャンマーでカレーを食いまくった。ビーフカレー、フィッシュカレー、茄子カレー、鹿肉カレー。一番うまかったのはやっぱりチキンカレー。ビルマ語で覚えたのは「チェッター・ヒン」と「タミン」(ライス)と「エインター」(トイレ)だけだ。「ありがとう」も「こんにちわ」も「おいしい」も未だに何て言うのか知らない。(続く)
NO89 ビルマの休日 その2

at 2006 01/11 23:23 編集

ミャンマーは軍事政権だ。入国審査に手間どるんじゃないだろうか。大使館のやつらが年末のやっつけ仕事で作成した(偏見)ビザに不備があり、係員にちょっとこちらまでと別室に連れていかれ袖の下を渡せば今回は特別に入国させてやると言われるがそれを拒否したらお前は不審人物だから持ち物を改めるとバックパックを調べられて持っていたスーチーさんの著作を見つけられてお前は反体制派かと軍の上層部に連絡されおまけにパスパートにはさんでいたカンボジアでたわむれに取ったメディアパスまで見つけられてお前はジャーナリストだなとあらぬ嫌疑をかけられ監禁され三日三晩不眠不休で取り調べを受けたあげく罰金三百ドルを徴収された上にもう二度とミャンマーには入国いたしませんと誓約書を書かされてやっと釈放されたということは全くなくあっけなく入国できた。
タクシーで市内に向かう。乾いた日射しと土埃が車窓から入ってくる。ロンジーをはいた人々が歩いている。何てのびのびとゆったりと歩いているんだろう。服装も質素だが清潔だ。貧しいかもしれないが、誰もが満たされているような顔つきだ。この印象は滞在中、一度も変わることがなかった。
ヤンゴンでの第一泊は京都でいえば京都タワーのような、街歩きのときの目印になるスーレーパゴダの目の前のゲストハウスに泊まることにした。パゴダというのは黄金の仏塔でミャンマー人の篤き信仰の対象となっている。早朝から夜遅くまでひっきりなしに参拝者が訪れ、瞑想したりお祈りしたりしている。市内でもいくつかパゴダがあるが、中でもスーレーパゴダはここを中心に市街が設計されたというありがたいパゴダである。日中はもちろんきんきらきんに輝いているが、夜になればなったでライトアップされ、何か所かある入口はまるでキャバレーの呼び込みのようである。(続く)
NO88 ビルマの休日 その1

at 2006 01/09 01:15 編集

ミャンマーのビザの申請書に記入していたら、「complexion」という項目があった。肌の色、である。う~ん、whiteというほど俺の顔は白くないしな。yellowには侮蔑的な意味があるし.....。自分の顔を鏡に写してしげしげと見てみた。darkというほど松崎しげるじゃないし。「遠い夜明け」というアパルトヘイトを描いた映画で「君たちはなぜ自分たちのことをblackと呼ぶのかね。むしろbrownじゃないか」と聞く白人に対し、主人公のビーコが「あなたたち白人はなぜ自分のことをwhiteというんですか? むしろpinkだ」とやり返す場面を思い出した。アメリカだったらこんな質問には慣れているんだろうなと思いつつ、三十分考えて無難なところでwhiteと記入した。
そのビザがなかなか来ない。さすがにやきもきして、出発三日前に大使館に電話した。
「明日送ります」
ミャンマー人の職員はこう言った。まだ送ってなかったんかい。翌日になってもまだ来ない。また電話した。
「まで来てませんがっ!」
「もう出ましたから」
そば屋の出前かい、と思ったがぎりぎりには来るだろうと高を括っていた。しかし、出発当日になっても敵は沈黙したままである。その日の早朝に郵便局におもむき、「速達便は来てませんか」と聞く。
「来てませんねえ」と郵便局員。フライトは11時半だ。もう間に合わない......。がっくりと肩を落し家路につく。これは大使館のやつらの怠慢に違いない。チケット代を弁償させてやる。九時になるのを待って電話した(何回電話さすねん)。
「ビザ来てませんがっ!」
「送りましたけど。ゆうパックで」
「えっ?」
「料金が不足していたので着払いで送りました」
「あっ、そ、そうですか。どもどもども」
郵便局に確認すると確かに来ていると言う。フライトまで二時間しかない。俺はあわてて部屋を飛び出し、自転車に胯がった。10メートル走るとチェーンがはずれた。あわわ、何でこんな時に。直そうとするがあせってうまくいかない。自転車を打ち捨て、走る。バックパックをかついで走るのはつらい。すぐ息切れがする。この時ほど自分が高橋尚子だったらと願ったことはない。大通りにタクシーが停まっていた。バスを待っている暇はない。
「ハァ,ハァ、ハァ、関空までフルスピードでお願いします。そ,その前に郵便局に寄ってください」
年輩の運転手さんは猛スピードで高速道路を飛ばし、俺が乗る予定だった空港バスを追い抜いた。これでもとを取った(取ってないだろ)。タクシー代は一万円を越えてしまった。ミャンマー人の半年分の収入だ。(続く)
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NO87 カンボジア再び その5
2007-09-04 | Weblog
NO87 カンボジア再び その5

at 2006 01/07 01:21 編集

たとえば、プサートゥールトンポン。通称「ロシアンマーケット」と呼ばれるこの骨董市場。一歩足を踏み入れると陽の射さない暗い市場に所狭しと骨董品の店が並ぶ。中は入り組んでいて迷路のようだ。大半は偽物なのだが、無数の金銀製品、民芸品、陶磁器等が無言の案内人のように招き入れる。奥へ進んで行くほど外世界の喧噪は消え、どこをどう歩いているのかも分からなくなる。店先にいる老婆たち。何百年も前からそこに居るかのように泰然と僕を見据える。僕は人が営み、延々と続く生活に想いを馳せ、慄然となる。
たとえば、アンコールトムで遭った子供たち。少年は勝手にガイドを始め、少女はフィルムやガイドブックを売りつけようとする。どこの遺跡に行っても子供たちは狙撃兵のように次から次へと姿を現わす。十二、三歳くらいの少年がとても流暢な英語で説明を始めた。プノンペンは英語熱が盛んで英語塾が乱立しているのだが、それにしても彼の語学力は驚異的だ。生きるために、家族に食べさせるために必死で学んだのだろう。ガイド料として二ドルを渡すと、「ありがとう」と受け取り、消えるようにどこかへ行ってしまった。
そして元高校の校舎を転用したトゥールスレン博物館。かつてポルポト政権下に約二万人が収容され、生還できたのはわずかに六人だけだという。反革命分子と見なされた人々は家族とともに捕われ拷問を加えられた後、処刑されていった。文革と同様、多くは罪なき人たちであり、子供や老人、女性も数多く含まれていた。ポルポトの残虐行為を伝える博物館として一般公開されている。独房にはマットのないベッドが置かれ、タイル張りの床には血痕が今でも染みとなって残っている。あとは排泄用の小さな箱があるだけで、犠牲者は手足を鎖で繋がれ殺されていった。別の校舎、C棟の一階と二階には窓のない部屋に煉瓦を無造作に積み上げられて作った一畳ほどの独房がある。水も食事も与えられずに閉じ込められた彼らは何を思い、死んでいったのか。死の恐怖や苦痛とどのように闘ったのか。もし彼らが僕だったら? 彼らはあの時代にカンボジアに生まれ、僕は日本に生まれた。ただそれだけのことだった。僕と女性の係員の他は見学者は誰もいない。あたりは気味が悪いほど静まりかえっている。B棟にはおびただしい数の顔写真が壁一面に貼付けてあった。処刑前に収容者を撮影していたのだ。何のために死にゆく者たちの記録を残していたのかポルポトが死んだ今となっては謎のままだ。どれも恐怖に引きつったという顔ではなく、全てを諦めたような、諦観したような表情だった。
案内の女性は大学生かと思っていたが、高校生だそうだ。
「大学には行くつもりですか」と聞くと、「いいえ」とだけ言って悲しそうに顔を伏せたが、最後に「カンボジアは暗黒の時代を経て、復興に向かって進んでいます。未来は明るいでしょう」と答えてくれた。
大晦日の前日にぶらぶらと歩いていると、学校に突き当たった。校庭には制服を着た何百人という子供たちが集まっている。小学生から高校生まで同じ校舎で授業を受けているらしい。少しすると彼らの下校時間にぶつかった。バイクで帰宅する高校生やシクロに乗って帰る小学生たち。屋台で買い食いする子供たち。その熱気を捉えようと夢中でカメラのシャッターを押した。
「裏(うち)に向かい外に向かって逢著せば便(すなわ)ち殺せ
仏に逢うては仏を殺し
祖に逢うては祖を殺し
羅漢に逢うては羅漢を殺し
父母に逢うては父母を殺し
親眷に逢うては親眷を殺して
始めて解脱を得ん
物と拘(かか)わらず透脱自在なり」
(臨済宗 示衆の章)
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「オアシス来日公演」
2007-09-04 | Weblog
「オアシス来日公演」

at 2005 11/20 00:14 編集

オアシスの日本公演のチケットが七千円。悪いがオアシスごときにそんな大金は払えん。確かにオアシスは偉大なバンドだ。友人がいつか「こんな時代によくこんなバンドが出て来たな」と言っていたが、それは正解だ、多分。オアシスを知らない人のために一応説明しておくと、ビートルズとセックスピストルズを足して2で割ったようなバンドだ(そんなもんなんか)。CDはよく聴いた。特に「モーニング・グローリー」とか「ビイ・ヒア・ナウ」とか「スタンディング・オン・ザ・ショルダー・オブ・ジャイアンツ」とか「ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース」とか。でもあたしが七千円出してもいいというのは例えば、ボランブギのT・レックスとか(死んでるし)ニルヴァーナとか(死んでるって)ドアーズとかだ(だからっ!)
だから当日ダフ屋からチケットを買うことにした。言っとくが初犯だ。大阪城公園駅前でにいちゃんが「チケットあります」の紙切れを掲げていたので声をかける。
「いくら?」
「いくらで買いますか?」
(そうきたか)
「三千円しかないんだけど」
これは本当だ。さっき森ノ宮の「印度屋」でシシカバブカレー大盛り(924円)を食ってきたから金はない。
「う~ん三千円じゃねえ」
あたしは財布からもうワンコイン見つけた。
「三千五百円でどう?」(オアシスに四千円以上出す気はないぜ。っていうかそれ以上ないぜ)
「じゃあ、それでいいです」
ふっ、勝った。帰りにモスバーガーでチーズバーガーを買おうかと思っていたが、それは我慢する。なんてたって「オアシス」だからねえ~?
スキップして会場へ。
「缶やビンの持ち込みはできません」と貼り紙がしてあったのでウーロン茶のペットボトルを持っていたあたしは入場口で係員に、「あの、それ....」と言われ、「飲みます!」と喉に流し込んだ。係員が「いっ、いえ、飲まなくてもいいですから。キャップだけ回収します」と慌てて言った。キャップがなかったら持ち込み上等ってのはどういう了見か未だにわかんねえ。
キャパが一万人近くある会場に来るといつも思う。こんなにもオアシスファンっているのか。そりゃ、当たり前だが一人シコシコ部屋で聴いている身としては実感として不思議だ。七千円×一万人として、七千万円。一晩のライブでマンション二戸分の金が動くわけか。ヤンキースの松井が四年間で年棒62億だそうだが、オアシスとどちらが稼いでいるんだろう(あたしって人間が小さい。さすが三千五百円でチケット買ったやつだ)。
そんなことを考えているといつの間にかオアシスが出て来て演奏を初めていた。二曲目で早くも「ライラ」だ。リアムは後ろ手にして歌うんだな。あれがマンガ「BECK」でコユキが真似したスタイルってわけね。リアムが時おり「ニホン、サイコー」とおべんちゃらを言っては曲は淡々と進む。アンコールの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」に至っては会場全体が熱唱し、次のラスト曲「マイ・ジェネレーション」でみんなは一体になった。ああよかった、よかったあ。ああ~青春ってやつは~♪ でもステージの後ろのシャビーな電飾のせいで何だかラスベガスのディナーショーに来ているような気になるんですけど。でも、「シャンペン・スーパーノヴァ」を聴いた時には正直言うと感動してさぶいぼができた。ただしあたしの大のお気に入りの「マジック・パイ」も「ロール・イット・オーヴァー」も演らんかったので三千五百円でエンヤのニューCD買ったほうが良かったかなと考えるあたしはやっぱりせこいのかも。
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ライアンの娘
2007-09-04 | Weblog
ライアンの娘

at 2005 11/14 23:21 編集

さきほど、デビッド・リーン監督の「ライアンの娘」を観終わった。アイルランドの海辺の寒村が舞台だ。ローズの人を愛する苦しさ、切なさが心にぐさぐさ突き刺さって泣けた。ローズ役のサラ・マイルズが愛らしくて、不倫をしてしまっても、しかたがねーな好きになったらよおと月9と野球とプロレスを観ない私は共感する。ローズがリンチになっているところに神父が割って入り、ぐだぐだ言うおっさんを思わず殴ってしまうシーンも泣けた。この神父はローズを小さい時からかわいがっていて、ラストの肩に手をやる右手、日本語変か?のシーンなんかここでもまたほろりときた。ただ、リーンは(ダチか)風景を撮るのはさすがにうまいと思うんだが海辺の場面なんか東北の漁村みたいだったってこれは褒め言葉なんだけど音楽がコミカルなのでアイルランドだから手元でU2かけながら観るともっと感動するかも。イギリスとアイルランドの確執を知るならこの映画が基本かって、まあ、観ても何もわからんが取りあえず「NANA」を観てうるうるしたパンクスにはお勧め(保証はせん。三時間以上もあるし)。

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#6

2024-04-07 | 日記
2005年六月に発表した海外旅行記
2007-09-04 | Weblog

NO76 上海日記 7日目(続々々々)

at 2005 06/13 22:51 編集

おととい行った洗足屋を探して下町をうろうろ。小さな町だけど、店が見つからなくてニ周も三周もする。夕暮れになるとあたりはすぐに暗くなる。
「ここら辺、歩いていると何だか懐かしい気持ちになりますね」
「そうやね。何度も歩いてるからこの町の路地に妙に詳しくなっちったな」
文廟の前の屋台を通り抜け、公衆便所がある四つ角をさらに真っすぐ進むと木造の崩れそうなアパート群がある。左折するとこれまた崩れそうな民家が続く。道端で野菜や肉を売っている路地を抜けると、雑貨屋や駄菓子屋の並ぶ通りに出る。西岸良平の漫画の半ズボンはいて洟をたらした子供が出てきそうだ。「狗肉」の貼り紙のある食堂(店員に聞くと売り切れだと言われた)を右折すると場違いなピンクの電飾で路地から浮いてるファンシーショップが一軒あって、ああ、あった。ここだよ。店に入ると生憎、家族で食事をしているところだったが、少し待ってから足をマッサージ。またもや中国語を教えてもらいながらたっぷり一時間。今日はぼられるかなと思っていたら、今日も15元だった。彼女たちが毎晩1時まで働くと聞いて、K君は
「え~っ、信じられない」と目を丸くしていた。
帰りにスーパーに入ると、レジのおばちゃんが、「あんたたち日本人かい。テレビで日本のドラマをよく観るよ」と話しかけてきた。
「テレビで日本語を少し覚えたよ。『バカヤロー』とか『スイマセン』とかね」(どんなドラマだ)
そのうちに仕事を放り出し、店員が集まってきた。口々に質問し始める。一人が何かをしゃべると、それを聞いてみんながどっと笑う。あ~もう、わけ分からん。上海でもここら辺まで来ると外国人が珍しいのか。

NO74 上海日記 7日目(続々々)

at 2005 06/02 23:17 編集

K君がもう一度行きたいというので、文廟に行く。入口で「案内しますよ」と日本語で声をかけられた。大学で歴史を勉強しているという彼女、劉(りゅう)さんはここでガイドのバイトをしているそうだ。受付で10元の入場料を払って中へ。
「文廟は孔子を祭っています。孔子廟ともいいますね。元は最高学府、つまり大学でした」
劉さんが説明してくれる。観光客はいなくて、ひっそりしている。いや、パリから来たというバックパッカーのパリジャンがいた。一人旅で寂しそうだったのでみんなで記念写真を撮ってあげる。う~ん、シルブプレ~(適当)。
「この部屋で科挙の受験勉強しましたですね。進士というのを知ってますか? 科挙の最高の位です。進士はさらに順位をつけるために殿試という試験を受けましたんです。ここの建物は文化大革命でほとんど破壊されました。ほとんどの建築物はのちに再建されましたんです」
中国の大学生は正真正銘のエリートなので、将来国を担うという意識が強いせいか、とてもよく勉強する。劉さんもテレビの日本語講座で日本語を勉強し、まだ一年目だそうだ。最後に聞いてみた。
「毛沢東をどう思いますか」
「中国人はみなさん毛沢東を尊敬してます。私も尊敬してますですね」
さすが建国の父。腐っても鯛か。ちょっと意外だった。
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2005年5月に発表した海外旅行記
2007-09-04 | Weblog
NO73 上海日記 7日目(続々)

at 2005 05/31 21:28 編集

K君に案内されて市場のまん中あたりまで行くと、われわれを目ざとく見つけたおねいさんが露店台に身を乗り出して日本語で叫ぶ。
「あんた、日本人ね。いいところ来た。パンツ買いなさい。カル○ン・クラ○ンのパンツだよ。あんただったらLサイズだね。1枚20元! とても安いね」
「とても安いねって、安くないよ。1枚10元にしなさい」
「なに、10元! 神様仏様。わたしもう首くくるね」
「おどかすんじゃないよ。高いからいらない」
「日本人お金もち、高くない。この毛沢東のTシャツ60元ね。小泉ヤスクニ行く、中国人怒るね」
「余計なこと言うんじゃないよ。これ友誼商店で50元で売ってたね。30元!」
「おー、あなた欲張り。上海物価タカイね。わたし暮らせない。首くくるね」
「わたしほんとの値段知ってるよ。欲張りあなたね。上海恐い、わたしもう来ないね」(言葉うつってる)
「なに言ってる、恐いのあなたよ。このライター買うか。80元でいいね」
と二人でわーわー言ってると、市場をうろうろしている靴磨きが集まってきた。
「あなたの靴磨く、オーケー?」
「こんなぼろぼろの靴磨いてもしゃーないやろ。ええって」
値切り倒したパンツとTシャツを抱え、手を振る。それでもやつらは
「磨かせて」
と五、六人があとをついてくる。ついてくんなっちゅうねん。帰りなさいって。磨きませんって。俺はブレーメンの音楽隊か。駆け足で逃げると一人がしつこく追いかけてきた。市場を出てもしばらくついてきたが、やっとあきらめて帰っていった。
「これ見て下さいよ」
とK君が片足を上げると靴に靴クリームがついている。
「あんなに熱心だったら磨かせてあげてもよかったですね」
K君がしみじみと言った。
NO72 上海日記 7日目(続)

at 2005 05/19 22:27 編集

上海の近代的な建物やおされな通りの裏には小汚い通りがセットになっている。そこには自転車に乗った人民が大挙して暴走し、アイドリング・ストップもなんのその、信号待ちでは空吹かしでぶおんぶおんいわせ、青信号に変わるとゼロヨンレースが始まり、歩道、車道所構わず屋台や物売りがひしめいているというアジアの正しい通りがある。そこで見つけた2元ショップでお土産を見繕い、露店CD屋で1枚5元の浜○あ○みや矢井○瞳や東○事変やア○リル・ラ○ーンのCDを買う。ふっと後ろを見ると、K君が買い食いしながら屋台のおっちゃんと楽しそうに話している。彼はこんな雰囲気の場所に来るとなぜか生き生きする。
そこで便意を催したので、近くの路地に入り公衆便所を探す。この狭い十字路は全体が日常雑貨を売る市場になっている。人込みをかき分け、便所にとび込み、排便する。
「よかった~。もう少しで中国でうんこたれになるとこだった」
と立ち上がると、水が流れる。いやにタイミングよく流れるなと思っていたら、壁についているセンサーが作動していた。中国のトイレも進化したもんだと感心し、外に出るとK君が、
「日本語がすごく上手なおねえさんがいて、もう少しでパンツを買わされそうになりましたよ。ちょっと、来てみてください」
と腕を引っ張る。K君、何を考えてんだ?
NO71 上海日記 7日目

at 2005 05/03 23:12 編集

7時半起床。空手着に着替えてホテルを飛び出し、目の前の魯迅公園に突入。入口でおばちゃんが何か叫んでいたが聞こえないふりをしてそのまま駆け抜ける。確か入園料が2元だったような気がしたが、小さいことにこだわってたらあかんで、おばちゃん! 公園にいるいる。太極拳をしているグループがあちらこちらに。その中の10人ほどの小さなグループに混ざり、見よう見まねで動きについていく。太極拳には前屈立ちとか後屈立ちとか半騎馬立ちとか、空手の立ち方が動きの流れの中に一瞬入っていて興味深い。まだまだ寒いので、皆さん着ぶくれでダルマ状態である。こちらはTシャツに空手着だけなのできつい。1時間ほどで終了。教えていたおばさんに礼を言うと、「初めてにしては上手だったよ」とお褒めの言葉をいただく。
ホテルに戻り、バイキングの朝食(3つ星以上のホテルには朝食がついているのだ)を摂る。今晩が最後の宿泊になるのでどこに泊まろうかと思案し、もう一度バンドに行くことにする。上海最後の夜は外白渡橋のたもとに建つ「上海大厦」に泊まることにした。ここは川島芳子(清朝最後の王女。満州事変、上海事変でスパイ活動を行ったとされる。東洋のマタハリ、男装の麗人と呼ばれ、大東亜戦争終結とともに逮捕、銃殺刑に処されるが、銃殺されたのは別人で日本で生き延びたという説あり)が定宿にしていたという由緒あるホテルだ。外白渡橋を上海滞在中に何度渡ったことだろう。「あしたのジョー」の丹下ジムは確か泪橋のたもとにあったはずだ。
「ジョー、いつかはこの泪橋を笑って渡るんだ」と外白渡橋を渡りながらつぶやいてみる(ちょっとバカ)。
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NO70 反日デモと民主主義
2007-09-04 | Weblog
NO70 反日デモと民主主義

at 2005 04/27 22:31 編集

中国各地で反日デモが出来しているが、事件をテレビや新聞で目にするたびに私は文革を思い出しては「中国は民主主義社会である」との意を強くする。矢吹晋氏の「文化大革命」(講談社現代新書)には「スターリンの粛清が秘密警察を用いた国家テロであったのに対して、文革は大衆独裁という大衆によるテロであった事実に注目する必要があろう。ここでは中国共産党の誇る大衆運動は大衆操作に堕落し、ついには大衆テロに堕落したのであった」とあるが、これは民主主義というイデオロギー以外の何物でもないではないか。文革、学生の民主化要求デモ、そして反日デモに至るまで民主主義は連綿と継承されてきた。ちょっと待たんかい、なんで民主主義社会で民主化要求デモがあんねん。それに天安門事件はどないやっちゅうねん。人民がぎょうさん殺されとるやろ。人権はどないなっとんねん。と言う人もいるに違いない。それはまだ中国が未熟な民主主義だからだ。共産主義に至る第一段階の社会主義みたいなものである。だとすれば、民主主義後進国である中国が日本やアメリカのような民主主義先進国を目指せばいいのか。もし仮にある国家が民主主義を採択し、どんどん人権思想を発揚し徹底していけば、それはファシズムにならざるをえない。何となれば、民主主義はファシズムだからである!
「ヒトラーは(略)『民主主義の大洪水』をひき起こしたのである。これを人々はナチズム(あるいはファシズム)と呼ぶ。しかし、その正体はなにかと言えば、フランス革命以来一貫してかわらぬ、あの『抑制のないデモクラシー』にほかならないのである。(「民主主義とは何なのか」 長谷川三千代 文春新書)
カンボジアでのポルポトの大虐殺は文革がなかったら起こりえなかったかもしれない。少なくとも文革に影響されたことは確かである。民主主義・人権思想の持つ、差別を撤廃し全てを均一化するという情熱はポルポトの蛮行につながっている。虐殺があったから民主主義を再検討しようということにはならない。逆に民主主義・人権思想を徹底しようということになるはずだ。中国がチベット人に対して行っているのは紛う方も無く人権侵害である。しかし人権というものは恣意的な概念であり、制度に過ぎない。フランス革命の人権宣言には「国民議会は、至高の存在の面前でかつその庇護の下に、つぎのような人および市民の権利を承認し、かつ宣言する」とある。ここに「至高の存在」とあるように、人権宣言は宗教的な儀式であった。神(もしくは神のような存在)から承認された権利(!)であり、人間に賦与されているものではないのである。人権を人類普遍の真理だとするのはまやかしであり、そうと思い込むのは錯誤でしかない。チベット人への人権侵害をやめろ、と人は言う。これは現代の人権思想への儀式を求める鬨の声なのか。全てを人権へと収束しようとする儀式への。人権を持ち出せばチベット人は救われることはない。何度でも言う、人権というのはイデオロギーだからだ。
過去、イギリスは清にヤクザ同然のやり方で戦争をしかけ、多額の賠償金、治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認と上海、広東等を開港させ香港を租借地にしたが、それに対して中国が賠償を求めたとか反英デモを行ったという話は寡聞にして知らない。これは日本への差別ではないのか。今回の反日デモは別の意味で民主主義のあり方を問うべき事件であると私は思う。
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上海日記 6日目
2007-09-04 | Weblog
NO69 上海日記 6日目(続々)

at 2005 04/20 21:50 編集

夕食をとりに南京東路へ。この上海一の繁華街に行くたびに思うのだが、中国のホントに田舎から出てきた人民がこの通りに来たら、腰を抜かさんばかりに驚くだろうな。ここだけは香港の繁華街以上だ。その南京東路にある有名なイスラム料理店に行く。羊肉のしゃぶしゃぶを食べるためだが、さすが有名店だけあって待っている人が列をなしている。われわれは31番の番号札を渡された。おれたちの前に30人もいるのか.....。待っている間にも客は次から次へとやってくる。果たして今晩はここで飯にありつけるのだろうか。せめて、この番号札をあとから来た人に5元で売りつけられないだろうかなどと考える。見ていると、面白いのが案内係の小姐だ。まだ顔に幼さが残る彼女は、一人で怒濤のごとく押しよせる客の苦情攻撃に対処している。
「いつまで待たせるんだ」
「ただ今満席ですからもう少し待ってください」
「俺はさっきから待ってんだぞ」
「席があいたら知らせますから」
「いつだ!」
「番号札渡したでしょ!」
「ねーちゃん、俺にも番号札くれ。なに! 48番だと! どうなってんだ!」
「今日は予約が多いの! ごちゃごちゃ言わずに大人しく待ってなさい!」
とまあ、このように(あくまで推測だけど)客とのバトルが展開しているのだった。日本だったら、店員は「すみません」とひたすら平身低頭だろう。私も声をかけると、「はぁ~っ?!」とおもいっきり不機嫌な顔をされた。帰国してから日本のコンビニの過剰なサービスに違和感を覚え、彼女の不機嫌な顔を懐かしく思い浮かべる今日この頃。
結局、その日はあきらめて帰った。
NO68 上海日記 6日目(続)

at 2005 04/12 23:54 編集


今日は日曜なので宗派を問わず礼拝できるという「国際礼拝堂」に行く。着くとすぐにシンガポール出身だという信者が案内してくれた。中国語の聖餐会が終わり、今から英語の聖餐会が始まるそうだ。礼拝堂はゴシック様式でとても広い。これほどりっぱな教会がよく文革で破壊されずに残っていたもんだ。徐々に人が集まり、時間になると二階席までびっしりと埋まった。ざっと数えてみても800人はいるだろう。説教台でアコギにアンプをつないだ黒人青年がいきなり歌い始めた。
「主を讃えよう。主と共に歩もう。天国はわれらのもの」
スクリーンに歌詞が写し出され、800人が立ち上がって合唱する。壮観。ゴスペルではなく、何と言うかこれはアメリカン・ポップスである。感極まって全身をうち震わせながら歌う者もいるのだが、賛美歌が終わっても黒人青年はギターをつま弾きながら何かつぶやいている。ラップでも始めたのかと思ったが、よく聞くと彼はお祈りをしているのであった。周りを見るとさっきまで歌っていた信者は目を閉じて頭を垂れている。このように歌と祈りの境界線のない賛美歌が何曲か続き、中国人、白人、黒人の牧師による説教があり、再び賛美歌を歌い、二時間半におよぶコンサートじゃなかった、礼拝は終了した。信者が席を立っても黒人青年はギターをかき鳴らしながら、延々と歌っている。もう少しすると、第三部のコンサートじゃなかった、礼拝が始まるのだろう。近くにいた、上海の大学に留学中だという日本人女性に話を聞いてみた。
「以前より緩やかになったといっても、まだまだ中国ではキリスト教に対して規制がありますね。ほとんどのクリスチャンは日曜に各家庭でお祈りをしています。教会も少ないんですけど、こうやって皆と集って礼拝できるだけでも恵まれています。集会しただけでも処罰された時代もあったそうですから」
中国のクリスチャンに幸あれ。
NO67 上海日記 6日目

at 2005 04/19 22:36 編集

8時起床。戦前に日本人が多く住んでいた虹口(ホンキュ)地区に移動。ホテルの目の前に魯迅公園がある。近くにある多倫路文化名人街で食べた6角(8円)の肉饅がとても美味だった。地下鉄で上海駅に行くと、ものすごい人。地下鉄のホームで待っていた小姐(若い女性)がどどっと降りてきた乗客に揉みくちゃにされ、くるくると回転していた。観察していると、白線の前に仁王立ちして電車のドアが開くと同時に乗り込もうとする者があちこちにいる。もちろん吐き出される乗客の圧倒的な物量に負けてあちこちでくるくる舞っておるが。なぜだ? なぜ中国人はちゃんと列を作って待ってられんのだ。しょっちゅう、服務員が「ちゃんと並べ!」とマイクで青筋立ててがなってるぞ。そういえば、ぎゅうぎゅう詰めのバスでも、降りようとする者より先に乗り込もうとするお茶目なやつらだからな。なぜ学習せん、中国人! けど、あの回転している中国人を思い出すと、悪いが笑ってしまうわあっ! ぶあっはっはっはっはあ! くっ、苦しい、笑いすぎて涙が....。
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「夕凪の街 桜の国」こうの史代(双葉社)
2007-09-04 | Weblog
「夕凪の街 桜の国」こうの史代(双葉社)

at 2005 03/05 23:54 編集

マンガを読んで泣いたのは何年ぶりのことだろう。音楽や映画、一冊の本。人生に影響を与えたり、魂に深い感銘を受ける奇跡的な出会いが我々にはある。私はこのマンガに出会えたことを心の底から幸せに思う。これは広島に生まれた、広島を愛する著者が綴った被爆者の物語である。帯には「朝日新聞紙上で2週間にわたって絶賛」とあったので、左翼市民イデオロギーの反戦マンガかと危惧したが、杞憂だった。絵はどちらかといえば稚拙で、ストーリーも格別ドラスティックなものでもない。だが、だが例えば、「桜の国」のヒロインの父と母との出会い、淡い恋愛、そして結婚までのせつなさ(私はこの部分を一晩で何回も読み返した)。まるでここでは原爆というテーマは隅に追いやられているかのようだ。これは「はだしのゲン」には見られなかった視点だと言ってもいいかもしれない。このマンガを一人でも多くの人に読んでもらいたい。何も感じなかったとしても、それは個人の感受性の問題だから、それはそれでもちろん構わない。だが、ある人にとっては生きる上で大切なことを見逃してしまうかもしれない、とも思う。このマンガには凡百の反戦イデオロギーにはない、いや、そういった概念さえが卑小に思えるほどの力が秘められている。
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上海日記 5日目
2007-09-04 | Weblog
NO66 上海日記 5日目(続々々)

at 2005 03/23 21:07 編集

ホテルに戻って上海料理を堪能する。ピータン、魚と椎茸のスープ、上海蟹と豆腐の混ぜ物、川エビの揚げ物、魚の醤油煮、揚州炒飯。我を忘れてがっつくほど、全て絶品である。しかも、これだけ食べても一人1300円ほど。
「さすが老舗レストラン。うまいねえ」
とK君に言っても、「はあ~」と気のない返事をするばかり。彼にとっては下町で食べた食事の方がよほどご馳走だったらしい。
10時過ぎにタクシーで淮海中路へと繰り出す。ここは上海の若者が集まる最先端のおされなストリートだ。上海在住の美人作家、衛慧(ウェイホェイ)の「上海ベイビー」には、「この地域は、ニューヨークの五番街、あるいはパリのシャンゼリゼ通りに相当する。」などと書いてある。われわれが目指すのはクラブ&ディスコの「ROJAM」である。上海にクラブやディスコは数多くあれど、ナンバーワンといえば、小室哲哉プロデュースのここである。音楽情報発信地として、アジアのミュージシャンのライブにも使われている。最近では藤井隆(フミヤじゃないよ)のライブも行なわれた。入場料80元はバカ高いが(正月料金か)、ディスコ・フロアーは既に芋の子を洗うようだ。英語のDJに乗って、轟音のようなサイバートランス&クラブミュージックが炸裂し、ライトとスモークが交錯しちゃったりして、もう大変なんである。いや、実は大変なのは私なのだが、いいから落ち着け。それにお立ち台というか、ステージがある。それを目にすると、たちまち辛抱たまらんの脳がスイッチオ~ン! 犬のように駆け上がり、踊りまくる。ああ、何て気持ちいいのかしら。生まれ変わったら、ダンサーになるわ! サンキュー、てっちゃん(注:小室)! 汗びっしょりになり、ジャケットの靴も靴下も脱ぎ捨て、ヘロインを求め狂うジャンキーのように1時間ノンストップで踊った。ホントはもっと踊っていたかったけど、K君が風邪気味なので早く切り上げることにした(大人)。そのK君はフロアーでぼ~っとしていたら、女性客に、「飲み物おごってあげるわ」と声を掛けられたそうだ。断ってよかったな。ついていってたら、有り金全て没収されてたな。
外に出ると、夜風が火照った肌に心地いい。「踊り~疲れた~ディスコの帰り~」(by BORO)のメロディーが頭に鳴り響くのであった(ふるぅっ)。ホテルに1時帰館。
NO65 上海日記 5日目(続々)

at 2005 03/18 18:34 編集

「髪を切ってもらいましょう。記念になりますから」
と、K君はどんどん歩きだし、一軒の散髪屋に入っていった。料金を聞くが、いかんせん通じない。やっと三軒目で5元だと言われ、切ってもらっていた。もともと彼の髪は短かったのであまり変わらなかったけど。そこからさらに南に下って、文廟(ウエンミャオ)へ。ここら辺も日本の昭和初期みたいな感じである。「洗足屋」を見つけ、入ってみる。マッサージ用の寝椅子が三つあるほどの小さな店。家族でやっているようだ。中学生くらいの少女が二人出てくる。よくしゃべる彼女たちに中国語を教えてもらいながら、一時間ほど足をマッサージしてもらう。料金は15元(200円)だった。外に出ると、まだ6時なのにあたりは真っ暗。ほとんど明かりがない。来た道に戻ろうとうろうろする。公衆便所を見つけ、入ろうとすると暗闇の中から男の白い顔がぬっと現われた。初めは、いやぁっ、生首!とびっくり。近づくにつれて、なんだ、便所の料金を徴収するおっちゃんかと思っていたが、中に入ってみてもっとびっくり。おっちゃんは小便の溝に向かって大便をしていたのだった。そこは小便専用の便所で、大便できる便所は有料だからなんだろう、きっと。恐るべし! おっちゃんの横で用を足しながら、K君と「中国人はすごいな」と感心しあうのであった。
NO64 上海日記 5日目(続)

at 2005 03/10 22:09 編集

日本の団体ツアーに紛れ込み、添乗員の説明にうなづきながら庭園を見てまわる。最後にはしっかりと記念撮影にも収まった。そこから歩いて老西門(ラオシーメン)に行く。ここら辺は租界時代も外国人が立ち入ることができなかった地域で猥雑な下町である。路地には古い木造アパートや商店が犇めき、軒先からは洗濯物が邪悪なオブジェの如くこれでもかというほど垂れ下がり、女性の下着もためらうことなくこれでもかというほど干してある。下着泥棒なんかは出ないのか。馬桶(マートン。簡易便器)にたまった糞尿や生ゴミを捨てにくる公衆ゴミ集積場もあって、冬だからいいものの夏場はかなり臭いそうだ。遠くに見えるバンドの近未来的なビル群とのコントラストが何だかおされである。え~っ! うっそ~! ここがあのチョーおっしゃれ~でリッチな上海なの~? ケイコ、まじで信じられな~いって感じい。などとツアーのギャルを連れてきたら言いそうだ。そんなことよりも、びびってばかりのK君がここにきて目が輝きだした。
「すごいですね。これこそ庶民の街ですね」
異常に興奮している。腹が減ったので近くの小汚い食堂で焼そばを食べる。
「スープも注文したいんですけど、中国語で何て言うんですか」
「湯(タン)だよ」
夢中で麺をすすり、スープを飲み干すK君。今まで緊張でろくに食べてなかったので無理もないか。食事を終え、外に出る。
「あれで5元(65円)って安いですねえ。スープはおまけしてくれたんですね。これこそ庶民の食事ですよね」
と、庶民を連発するK君。ちょっとうざいんですけど~。
NO63 上海日記 5日目

at 2005 03/02 23:44 編集


8時半起床。寝ているときに寒さで何度もトイレに行ったが、エアコンの暖房がいつの間にか冷房になっていた。これが噂に聞くチャイナマジックか。K君は「風邪をひきましたあ」と情けない声を出して、げほげほいっている。次の宿泊地の豫園にタクシーで移動。上海の観光地といったらバンドと豫園しかない。豫園は明代に造園された役人の個人的な庭園で、何度も破壊されながらも修復され、今に至っているそうである。庭園の横には土産物屋や上海料理店がひしめき合い、屋台では人民が小吃(スナック)に喰らいつき、子供はわあわあと走り回り、中国のおのぼりさんがあっちこっちで記念写真を撮りまくり、ツアーの日本人観光客がぞろぞろと土産物を買い漁っているという、浅草をもっと巨大にしたような感じである。豫園内にある上海老飯店というレストランの中にあるホテルにチェックイン。上海老飯店は1875年創業の老舗で、ホテルに貼ってあった写真によると、江沢民もクリントン夫妻も食事に来たことがあるそうである。うふふ、たまにはこれくらいの、じゅるるっ、おごっそうを食べても、よだれが、いいんじゃないかい。今晩の食事が楽しみだ。

NO85 カンボジア再び その3 と NO86 カンボジア再び その4
2007-09-04 | Weblog
NO85 カンボジア再び その3

at 2005 11/02 23:09 編集

プノンペン滞在の最後の日。午後にはバンコク行きの便に乗らなければならない。もうこの国には再び来ることはないかもしれない。そう思った僕はこの街に最後の別れをしようと、「キャピトルゲストハウス」へと足を向けた。市内を南北に貫くメインストリート、モニボン通りは多くのホテル、旅行会社、レストラン等が立ち並び、ひっきりなしに流れる車とバイクの喧噪にあふれている。文化芸術省を右手に見て左折すると、バックパッカー御用達の「キャピトル」がある。シャワーとトイレ共同で三ドルで泊まることができる。一階には吹き抜けの食堂があり、日本人や欧米人旅行者のたまり場となっている。
「ハロー、キリングフィールドに行ってみないか。往復五ドルでどうだ?」
バイクタクシーのにいちゃんが声をかけてくる。
「友人を待ってるんだ」
うっとしくなった僕はそう言って彼を追い払い、外のテーブル席に腰をおろした。この周辺は日没になると強盗が多発し、治安が悪い。それにもかかわらず、ここには様々な人間が集まってくる。旅の情報を求め、たむろする者。それを目当てに客引きをするバイクタクシー。アジアを放浪したあげく、「キャピトル」の狭く汚い独房のような一室でずるずると何か月も沈没する者もいた。そういった連中は一様に目つき悪かった。社会に適応できず、日本を飛び出しアジア的寛容さに安住し、各地を放浪する。旅が五、六年と続くと(実際には十年以上旅を続けている者もいる)、それはもはや旅とは言えなくなる。非日常が日常となり、感覚が麻痺し、ついには摩滅してしまう。そうなれば日本に帰ろうと思っても帰れなくなる。いや、帰りたいといった気持ちさえ起こらなくなるといった方が正しい。別に帰らなくても本人の意志であれば他人が口を挟むことではないし、それはそれで僕なんかは尊敬の念さえ起きるのだが、この「キャピトル」にたむるする連中は重い沈殿物の如く怠惰で人生の貴重な時間を無為に食いつぶしているように思えた。(続く)
NO86 カンボジア再び その4

at 2005 11/11 23:21 編集

頭上に大きな盆をのせ、そこにピーナッツの袋を山ほど置いた物売りの少女が入ってきた。テーブルの間をまわりながら声をかけてゆく。一人の白人が立ち上がって1ドルを少女に渡した。少女はピーナッツの袋を渡そうとするが、彼は「いいよ、そのお金は取っておきなさい」と言うように頭を振る。僕は通りをぼんやりと眺める。バイク、屋台、物売り、往来で遊ぶ子供たち、賭けトランプに興じる男たち、それを店の前に出した椅子に座って日がな一日、眺めている老人。こんな光景はアジアのどの街でも見た。カルカッタでもホーチミンでもバンコクでも上海でも。喧噪と倦怠。無気力と熱気。全く暑い。インドネシアの強烈な陽と熱風を受けて座っていると、アジアの大地に溶けていくような、怠惰な世界に埋もれていくような、そんな自虐的な感覚に引きずり込まれるような昼下がりの。リヤカーを引く人夫。午睡する褐色の肌。暑い。行き来する褐色のカンボジア。渦巻き、交差する人、人、人。眼を閉じると旅の断片的な思い出が浮かんでは消える。
たとえば、プノンペン市内は街灯が極端に少ないので、午後六時にもなるとバイクや車のオレンジ色のテールランプが通りに浮かび上がる。それは息を飲むような幻想的な美しさであり、僕は黄昏が闇に変わってしまうまで飽かず眺めていた。
たとえば、半日、市内の観光案内をしてくれたバイクタクシーのダリー。イスラム教徒の彼はラマダーン中だった。年に一度、一か月のラマダーン期間は日の出から日没まで飲食はおろか、唾を飲み込むことも禁じられている。ダリーは日中の暑さの中でひっきりなしに唾を吐きながら市内を案内してくれた。二人で小高い丘にあるワットプノンに登り、そこから市内を一望した。ダリーは言う。
「UNTAC(カンボジア暫定統治機構)ができた頃はすごかった。アメリカからヨーロッパからアジアからいろいろな人間がやって来た。通りはそういう人たちでいっぱいだったよ」。僕は国内外の政治的な思惑に翻弄されたこの国の悲劇を思いつつ、通りをあふれる彼らの姿が目に見えるようだった。(続く)
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NO83 カンボジア再び その1 とNO84 カンボジア再び その2
2007-09-04 | Weblog
NO83 カンボジア再び その1

at 2005 10/21 00:09 編集

Conquer your passion and you conquer the whole world.
己の欲望を征服できれば全世界を征服できる。(ヒンドゥーの諺)
暑さで眼が覚めた。天井の扇風機が視界に入る。ここはどこだ? と覚醒していない頭で一瞬、考える。少しづつ脳が現実を把握し始める。シアヌーク通りはプノンペンしないでも最先端の通りだ。独立記念塔を中心に伸びるこの通りにはカフェ・バー、ハンバーガーショップ、ディスコ、日本料理店、スーパーマーケット、ベトナム航空の事務所等が点在する。二日前に国内線でシェムリアップまで飛び、アンコールワットやアンコールトムを見てまわった。そんなに散財したつもりはなかったのに、所持金がほとんどないことに遺跡の中で気がついた。
財布には日本の硬貨が二、三千円あったが、紙幣でないとリエルに両替もできない。僕は一日や二日なら飲まず食わずに野宿なら辛抱できるのだが、昨夜のホテル代や現地で雇ったバイクタクシーのソーウォッポに払うガイド料もない。ツアーで来ている日本人観光客に両替を頼もうかと思ったが、それもためらわれた。バックパッカーは堅気のツーリストを恃んではいけないという矜持みたいなものがあった。と言えば聞こえはいいが、要するに観光客の立場に自身を置き換えてみれば、人品卑しきバックパッカーが近寄ってくれば、これはと身構えるのが当然だろう。結局、同じゲストハウスに投宿していた二人組の日本人旅行者を見かけ、地獄に仏とばかりに両替を持ちかけた。武士は相身互いですからと快く両替してもらったばかりでなく、夕食までご馳走になってしまった。四十代と思しき二人組の年長の人は 「私もバングラデシュでお金がなくなったことがありましてね。気持ちはよくわかりますよ」と言われた時には、自分だったら見ず知らずの他人にこんなにもできるのだろうかと反省しきりであった。(続く)
NO84 カンボジア再び その2

at 2005 10/24 23:05 編集

彼らに礼を言って別れたあと、近くの広場に蝟集している屋台へ出かけた。昼間その屋台の一つで食事をした。母娘でやっているらしい。清潔とはいい難いが、ハエを追い払いながら食べたその小松菜と豚肉の炒め物に大根のスープはしみじみとうまかった。
「チュガン」(おいしい)と言うと、母親がにこっと笑う。外国人は珍しいのだろう、しきりに水を持ってきてくれたり、懸命にハエをうちわで追ってくれたり、おかわりはいらないかと何度も訊いてきた。その屋台に行ってみると、その時の娘が昼間とは見間違うほど化粧をし、着飾っている。勧められるままにフルーツと生ジュースを飲み、片言のクメール語で話した。近くの屋台からも人が集まってきて話がはずんだ。が、それがいけなかった。話題も尽きてしまったので、切りのいい時間に腰を上げる。何十メートルか歩くと、もう辺りは漆黒の闇だ。光の無い闇がこんなにも恐ろしいものだとは久しく思ってもみなかった。後ろを振り返ると屋台の一角が亡霊のように闇の中に浮かび上がっていた。僕は逃げるようにゲストハウスに帰った。
未明に腹痛が来た。痛みは間欠的に激しさを増してくる。そのまま、まんじりともしないで耐え、夜が明けるのを待ってゲストハウスを引き払う。地元民と白人バックパッカーでひしめくスピード・ボートに乗り込み、五時間半かけてプノンペンに戻った。船着き場からバイクタクシーでこのシアヌーク通りにある「レックス・イン」にチェックインした。部屋に入るとベッドに倒れ込む。こんなひどい下痢はインド以来だ。
「なんでこんな国に来てしまったんだろう」
天井を見つめながら自問してみる。すると突然、記憶の彼方に押しやっていたジョン・ダンの詩が天啓のように脳裏をかすめ、それは次第に実体となって現われた。
「奇なる眼を持ち生まれしならば
視えざる物も見にいくべし
一万の昼と夜を越え
時が君を白髪に変えるまで」
ベッドの上で苦笑する。僕は視えざる物を見ることを欲して、こうしてここまでやって来たのではなかったのか。体は重い。食欲は無い。近くにあるスーパー、「TOKYO INTERNATIONAL」でパンとジュースとミネラルウォーターを買ってはいたが、固形物はのどを通らない。それでも気力を振り絞り、ベッドから起き上がった。限られたわずかな滞在時間である。カンボジアまで来て一日中寝ているわけにはいかない。ふらつく足でホテルを出ると、通りは血液が沸騰しそうなほど暑かった。独立記念塔からノロドム通りを三キロほど北上するとワット・プノンという寺に突き当たる。この寺は十四世紀末にペン夫人が建立し、それがプノンペンという名前の由来となった。手前の道を右折すると、トレンサップ川沿いに中央郵便局がある。ここで日本の友人に手紙を出すために切手を買う。隣の窓口では葉書の束を持った中年の日本人女性が、まさに必死という感じのクメール語で職員としきりに何かを交渉している。ちらっと盗み見ると、日本語で書かれた年賀状だった。声を掛けようと思ったが、言葉を飲み込んだ。彼女がどのくらいの年月をプノンペンで過ごしているかはもちろん知らないが、僕には彼女が何かと闘っているように思えたからだ。僕がいくら何かを見ようと血眼になっていたとしても、物見遊山の旅行者に過ぎない。僕はただ通り過ぎて行くだけなのだ。(続く)
「OASIS」の「ROLL IT OVER」を聴きながら
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NO82 上海日記 終
2007-09-04 | Weblog
NO82 上海日記 終

at 2005 10/15 00:06 編集

「小心」とはもちろんビビりのチキン野郎のことではない。注意しろ、ってことだ。なるほど、彼はバンドでも有名な詐欺師らしい。あまりの名演技にさすがの百戦錬磨(の負け犬)のこの私もあやうく騙されそうになったわい。その詐欺師兼大先生は今度はK君を相手に熱弁をふるっておられる。駆け寄ってみると既に遅し、K君は寄付の名目で10元パクられたあとだった。昨夜あんなに信念を貫いた彼だが、最後の最後に赤子の手をひねるように金を巻き上げられるとは、げに恐ろしき上海人民よ。次に詐欺師兼大先生は「上海友好のために100元寄付して下さい」とこの私にのたもうた。何で一気に十倍もふっかけるねん。欲張りすぎやで、あんた。
「財布持ってませ~ん。空手着ですからあ」と笑顔で言うと、「そうですか」と私の手から切り絵を引ったくり、風のように去っていった。
心配そうに見守っているおばさんたちの所に戻り、「老師、謝謝(ラオシー、シャヤ)」と礼を言う。最後に皆と記念写真を撮って別れた。
帰国してからK君は「中国で就職できないですかねえ」と口走ったり、中国語会話の本を買って勉強しだした。遠い目になっている。完全に中国病だ。それから間もなくK君は結婚した。何回も断られてやっと彼女にOKをもらったそうだ。彼にとっては最初から独身最後の旅のつもりだったらしい。新婚旅行は本当は北京に行きたかったけど、新婦の意を汲んでハワイにした。今でも彼と会えば、中国の話になる。実は私もかなり長い間、中国病にかかってしまった。至る所で人民の顔が思い浮かび、いちいち日本と中国のやりかたを比べてみては中国の肩を持ちたくなっちゃうんである。中国は奥が深い。(終)
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NO81 上海日記 最終日
2007-09-04 | Weblog

NO81 上海日記 最終日

at 2005 09/24 23:27 編集

6時半起床。今日が上海最終日である。帰国便は昼過ぎだ。気合いを入れて空手着に着替え、バンドをランニングしてから黄浦公園で太極拳をしている50人ほどの一団に加わる。遠慮して隅でやっていたが、近くのおばさんが手招きするので中心に入らせてもらう。終わるとおばさんたちがわれわれの周りにどっと集まってきた。「テコンドーだよ」とか「裸足で寒いだろう」とか口々に言うさまはまるで大阪のおばちゃんみたいである。日本の空手の技を見せてよという声に応えて、型を披露するとみんなが拍手してくれる。何だかいい気分である。われわれがわいわい言っていると、夫婦とおぼしき中年の男女が日本語で話しかけてきた。
「あなた、どこから来た?」「大阪です」「おー、大阪ですか。大好きですよ。友だちたくさんいますね。みんな優しい。私は美術大学で先生をしています」と名刺を渡された。それには水墨書院理事とか山水書研究院会員とか中日文化芸術交流協会とか肩書きがゴテゴテと書いてあり、名前の前には画家とあった。「あなた、上海市長に似ていますね。市長はとても若いです」と言いながら、ハサミで私の顔の切り絵を始めた。これがまたうまいんである。この人は高名な芸術家なのかも、と思っていたら、むこうでおばさんたちが懸命に手招きしている。
「ちょっと待っててください」とおばさんたちのところへ行ってみると、私を取り囲んで一斉に何か言っている。わけが分からずに何だ何だ、どうしたんだとおろおろしていたら、一人のおばさんが紙に何かを書いて見せてくれた。それには「小心」と書いてあった。
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上海日記7日目
2007-09-04 | Weblog
NO77 上海日記7日目(続々々々々)

at 2005 07/06 22:41 編集

火鍋レストランで羊肉を嫌というほど食べる。それでも二人で八百円ほど。ホテルに10時帰館。ついでだからとホテル内にあるお土産ショップを覗いてみることに。すると中からちょっと藤田朋子似のにこやかな女店員が手招きをしている。
「見るだけ、いいですよ」
と中国人にはあるまじき愛想のよさである。
「ホントに見るだけよ。何にも買わないからね」
と一応念をおす。
「いいですよ。見るだけ、大丈夫ですよ」
藤田はあくまでもにこやかである。
「このプラダのビジネスバッグ、四千円でどうですか。本物ですよ。安いですね」
「高いですね」
「高いですか。それでは三千円でどうですか」
「まだ高いですね」
「高いですか。いくらなら買いますか」
というやりとりがあって、結局そのバッグを二千円で買った。どう見てもニセモノには見えんが、原価はいくらなんだ。
「このネクタイどうですか。安いですよ」とまだ買わせようとするので、素早く退散する。
部屋に戻るとK君が「思い出にカラオケに行きましょう」と提案。なんで上海まで来てカラオケなんだと思ったが、あんなにビビってたのが生き生きとしてきたことだし、ディスコにつき合ってくれたことだしと彼について行く。ホテル内にカラオケがあったはずだ。一階のジャズバーに入ってみると、椅子に座っていた女の子がバネではじかれたようにこっちにやって来た。
「カラオケなんてないわよ。それより私たちとおしゃべりしたりダンスしたりしない?」
と言って、もう一人女の子を呼んできた。値段はドリンク代も含めて全部で百元だそうだ。何度もその値段を確認する。それでもアヤシイ。何回もぼられ倒されている私が(悪かったな!)思うんだから間違いあるまい。しかしその時は何とかなるだろうという気持ちと、どうなるんだろうという好奇心が一緒になって誘いを受けることにした。

NO78 上海日記 7日目(続々々々々々)

at 2005 08/10 22:38 編集

その上海出身(自称)のミミという娘は、「休日に東京に遊びに行ったことがあるわ。大都会でびっくりした。日本、大好き。日本人も大好き」などと言う。そのうち、「私たちも踊りましょう」とフロアーに連れ出された。ものすご~ください音楽が流れている。アメリカの片田舎のカウボーイの格好をしたマスターがやっているダイナーでも今時こんな音楽はかけんだろう。こんなハワイアンバンドがアルバイトで地元のFM局の知り合いに頼まれて仕方なく急場でレコードに吹き込んだようなディスコ音楽では踊れんが、自分を殺して無理からに踊る。何だか悲しい。隣ではミミがにこやかに踊りながらも目に落ち着きがない。ますますアヤシイ。その隣では中年の日本人が二人のホステスとキャーキャー言いながら踊っている。ボックス席を見ると、K君がもう一人の大人しそうな女の子に中国語を教えてもらっている。どこまで真面目なんだ、K君。欲望にまみれた上海の夜。そこだけ静謐な空気が流れているように場違いだ。
NO79 上海日記 7日目(続々々々々々々)

at 2005 08/18 23:00 編集

席にもどり、ちょっとするとK君が「帰りましょう」といきなり立ち上がった。中国語会話は終わったのか、K君? ボーイが請求書を持って来た。あろうことかそれには三百元と書いてある。やっぱりな、何回もぼられ倒されている私の勘が当たったぜ(悪かったな!)。内訳を聞いてみるとドリンク代が百元、それに女の子一人にチップが百元づつだそうだ。はあ~っ? 理不尽なぼりかたをするじゃないか。ぼるのは理不尽に決まってるが、第一に中国にはチップという習慣はない。第二になんで勝手にチップの額を決めるんだ。よって、そこのこわっぱ中国人、手討ちにしてくれるわっ! そこになおれっ!
K君が「何度も百元だと前もって確認したはずだ」と至極もっともな抗議をする。ボーイは「どういう意味だ?」とねめつけるようにして威嚇してきた。どういう意味だとう? キャ~ッ! もう辛抱たまらん、表に出やがれ、足腰立たんようにすまきにして揚子江にたたっこんでやるわ! われわれが押し問答をしていると、そいつは段々と弱気になってきて「払ってくれないとボスにその分のお金を立て替えなくちゃならないんだ」と言う。はっ、今度は泣き落しか。悪いのはいったい誰なんでしょね! 私は百元をテーブルに叩きつけてそこを出ようとしたがK君に呼び止められた。「ちょっと待ってください、ドリアンさん」「えっ?」
NO80 上海日記 7日目(続々々々々々々々)

at 2005 09/05 22:46 編集

「この人納得してないみたいなんで話し合ってみます」
ええ~っ。K君は誠実で正直(バカがつくほど)で一本木な性格だ。おちゃらけでいいかげんに生きている私とはえらい違いである。それにしても、あんなにびびりだった彼が熱心に説得している姿を見ると感無量である。でもボーイも充分反省してるみたいだしさ、めんどくさいから帰って寝ようよ。ミミは「あんたたちのせいでこの子が二百元自腹を切らなきゃならないのよ!」と喚いている。この女も逆ギレしてるし、もう帰ろうよ。彼らはしばらく話し合っていたが、やがてK君がボーイに右手を差し出した。ボーイも渋渋だがそれに応じた。若大将シリーズの加山雄三か。
部屋に戻ると彼は言った。「中国で貧しいながらも一生懸命に働いている、あの靴磨きの人たちみたいな人たちもたくさんいるのに、騙してお金を取ろうとする人間が許せなかったんです」
どこまでも生真面目で熱いK君であった。


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NO75 「美味しんぼ」と人道主義
2007-09-04 | Weblog
NO75 「美味しんぼ」と人道主義

at 2005 06/09 18:54 編集

「美味しんぼ」(作・雁屋哲 画・花咲アキラ)91巻の第6話(“焼き”の深さ)は東西新聞の文化部に配属された記者の話である。彼はインドネシア・スマトラ沖地震に対しての民間の義捐金が少ないことに義憤し、紙面で被災者救済を直接訴えることができる政治部か社会部に転属させてくれとごねる。山岡士郎は文化の重要性を説くためにこう言う。
「ある日本人が、いまだに第二次大戦中のことで、日本を非難し続ける中国人に尋ねたことがある。どうして日本よりもっと長い間アジアを植民地にしていたイギリスを非難しないのかと。彼は答えた。イギリスはアジアを植民地にして収奪したが文化を与えてくれた、だが、日本は奪うだけで文化を何も与えてくれなかった、その違いだと。」
それほど文化というものは重要なものだと山岡は言うのだ。恐ろしい論理である。イギリスの上流階級に広まった喫茶のために清から大量の茶等を輸入し、その輸入超過を是正するために阿片を売りつけていたが、それを拒否した清に戦争をしかけたのがアヘン戦争だ。これはまごう方無い侵略戦争である。その後のアロー戦争も同様だ。これにより支那への支配が始まったのだが、しかしこんなことはイギリスが文化を与えたことによって免責されるのである。喫茶という貴族階級の文化を維持するためには何人もの清の人間が廃人になろうが仕方ないとでも言うのだろうか。原爆投下による大量虐殺もアメリカ文化を与えられたことによって相殺されるということになる。それならば日本による朝鮮支配もインフラや教育という文化を与えたことによって不問に付されるはずである。しかし雁屋氏は「美味しんぼ」や「日本人と天皇」(いそっぷ社)といった著作の中で滔々と日本を一方的に断罪し、他のアジア諸国を単純な被害国として描くのみである。
「美味しんぼ」76巻の「中華と中国」は支那そばという店名に憤慨する支那人の話である。支那というのは蔑称であるから中国と呼べ、というのが彼らの主張だ。実は支那というのは蔑称でも何でもなく、むしろ支那という名称を廃止せよと強要していることが日本に対する差別であるということが評論家の呉智英や支那文学者の高島俊男といった識者によって明らかにされている。この名称問題は靖国神社参拝や歴史教科書問題につながっている。以下は小泉局長と山岡の会話である。
小泉 「事は簡単だ、支那という言葉がどんなにいい言葉であろうと、蔑称ではなかろうと、相手がいやだと言うことは、やめればいい」
山岡 「おっしゃる通りです、相手がいやだと言うことはしない。これは人間同士の間でも、国と国との間でも、同じことじゃないのかな」
中国の日本に対するバッシングは国内問題から目をそらせ、人民を極端な国粋主義(ショービニスム)に転化させる政治的意図であるというのは周知の事実だ。日本は中国のサリーおばさん(Aunt Sally;年増女の木像の口にくわえさせたパイプに棒を投げて落とす遊戯。転じて不当な攻撃の的)なのだ。それであるから、中国は日本がどんなに賠償金を支払っても謝罪してもどこまでも許しはせず、口実を作って責め立てるのは明白である。中国が東シナ海という呼称がいやだからと言えば、それを改称するのか。歴史教科書は捏造であるから不快だと言えば、中国の都合のいいように書き変えるのか。チベット人の虐殺を明るみにするなと言われれば、唯々諾々と従うのか。北朝鮮が日本が拉致問題についていつまでも拘泥するのは不快だと言えば、追求するのをやめるのか。雁屋氏のアジア史に対する見解は単純で楽天的であるが、歴史観と人道主義が結びつくほど恐ろしいものはない。

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#5

2024-04-07 | 日記
NO50 万祝(まいわい)
2007-08-30 | Weblog

NO50 万祝(まいわい)

at 2004 09/14 18:41 編集

望月峯太郎原作のマンガ「万祝」の主人公、大和鮒子は父と二人暮し。格闘技好きで、異種格闘技部の主将をぶっ倒してしまうほど滅法強い(その動きから察するに、フルコンタクト空手と中国拳法を学んだようだ)。
「あたし強くなりたいの。誰よりも」。鮒子が強くなりたいのには理由がある。強くたくましく生きてね、というのが臨終の母の言葉だからだ。鮒子は5歳の時に動物実験のニュースを聞き、胃潰瘍になって病院に運ばれたほど心優しく繊細な子だった。母はそれを心配したのだろう。
今は亡き祖父の兆次郎は腕の立つ一本釣りの漁師だった。その祖父がどうやら、偶然に宝島にたどり着いたことがあるらしい。中米にあるその島にはなんと100兆円もの財宝が眠っているという。鮒子は16歳の誕生日の前日に祖父の手紙を見つける。それを長いが引用する。
「16歳になった愛する孫娘.....鮒子へ。もしワシが港町で幼少時代を過ごさなかったら、また青年になって魚師にならなかったらワシの人生はまったく別ものになったかもしれん。どんな人生がより幸福だったのかとワシの歳になってから運命の検証などしても意味などないだろうがの。だがワシはこれだけはわかる。おそらく今のお前の年頃に海に出ていなければ大人になる前の.....あの年齢のあの時代のまるで神でも宿ったようなめくるめく日々には遭遇できなかったに違いない。.....鮒子よ、ワシが今、憂うのはお前がそんな日々を経験せずに育ち、ただ尻や胸が大きくなり、赤飯を食べ、眉毛の形やスカートの丈に一喜一憂し、空虚さを飾りで隠した不幸な異性を見抜けないまま.....また、世の中の壮大なまでの美しさや醜さに気づかぬまま、ただ成長の必然的な結果として大人になってしまうことじゃ。お前の年頃には漁師だったワシは漁師の習わしにのっとった儀式を行うことで、周りに大人として海の男として認めてもらった。今、16歳になった...未熟で...かわいい孫娘よ、できればこの手紙と一緒に残した地図を手に船出してほしい。おそらくお前はこのまま時を過ごしても不自由なく人生を送れるだろう(特に女の子だから)。それはそれで多分、幸せなことなのだ。しかしワシはお前にも荘厳な洗礼を受けたと思えるような経験や、神が宿ったような日々だと実感できるような時間を通過してほしいんじゃ。それはいろんなことに向かい、苦しくなったり、寂しくなったり、泣いたり、時には闘わなければならないことに遭遇するかもしれん。しかしそのことによって、お前を取り巻くこの世界を芸術的に見ることができたり、人...いや、すべての生き物の営みに敬意をはらうことができたり、本物の懸想(けそう)の気持ちとはどういうものかを知ることができるはずじゃ。お前にめくるめくような.....取りも直さず.....黄金に輝く日々をー。 吉日 大和兆次郎」
私たちは毎日を人をけなしたり、恨んだり、羨んだり、自分の境遇に不平を言ったり、ただ退屈な日常をたゆたうように生きている。そんな人生が死ぬまで続くとしたら、その人の人生は不幸であるのに間違いはない。だけど、そんなものに人生が支配されるほど、人の気持ちがちっぽけな筈がない。この祖父が経験したようなことに遭遇するのは万人に一人かもしれないが、それをただ単に運が良かっただけだと決めつける人を、私は不幸だと思う。そしてこのじいさんを私は無性に尊敬する。じいさんは目の眩むような大金より価値のあるものがこの世にはあると言っているのだ。
物語は鮒子たちの船が宝島のあるパナマ海域に向かって航海を始めたばかり。これはもう一つの「ONE PIECE」。今後の展開が楽しみだ。
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NO49 アジア・コーヒー(中島らもへの誄) 2004 08/06 20:43
2007-08-30 | Weblog

NO49 アジア・コーヒー(中島らもへの誄)

at 2004 08/06 20:43 編集

中島らもが死んだ。アルコール中毒による肝硬変でもなく、ドラッグのオーバードースでもなく、鬱病による自殺でもなく、脳挫傷で死んだ。その何週間か前には町田康との対談及びライブがアメリカ村で行われた。はからずともそれが最後のライブとなってしまった。平日だということで私は行っていない。今さら言っても詮無いことだが、悔やんでも悔やみきれぬ。
中島の死を知った夜、彼の最新文庫「とらちゃん的日常」を買った。彼の死を悼もうとしたわけではなく、たまたま書店で見つけた。
猫が無性に飼いたくなった中島は黒門市場のペットショップで、とらちゃんを三千円で買った、とある。とらちゃんは白黒のトラ猫である。私も去年、黒門市場の同じペットショップで白黒のトラ猫を買った。子猫が三匹ケージの中にいて、白猫が五千円、トラ猫が一万円だった。私がかわいいなあ、と眺めていると隣にいた友人が銀行からお金をおろして買ってくれたのだ。
おれはとらちゃんを撫でてやったり抱いてやったりするが、あんまりな猫可愛がりはしない。なぜなら猫というのは孤高で神聖な生き物だと思うからだ。おれは猫を飼うに値しない人間だ。来し方の悪業を考えるとそう思う。猫を飼うことでおれは一種のみそぎをしているのではないか。おれは一度自分の悪業をおさらいしてみたことがある。何と、殺人とレイプ以外はすべてやっていた。盗み、傷害、カツアゲ、麻薬、詐欺 etc.。これら降り積もった黒い雪を、猫の高貴さが洗い清めてくれるような、そんな気がするのだ。 (「とらちゃん的日常」より)
文庫本に写真が載っているが、メス猫であることも含めてとらちゃんはうちの猫とそっくりだ。
2004年5月30日の日付けの文庫本あと書きで、とらちゃんは今も元気だ、と中島は書いている。その二か月後に彼は亡くなった。とらちゃんは今でも帰らぬ主人を待っているのだろうか。いや、猫のことだから主人のことなど疾うに忘れてしまっているに違いない。中島はそれを良しとするだろう。遺灰は散灰してくれというのが故人の遺言だそうだ。
中島らもは万人の認めるところだが、天才的な作家だった。大阪出身でアメリカで活躍しているコメディアンの大槻タマヨが「天才というのは横山やすしさんと中島らもさん」と言っていたが、まさに万人に分かりやすいという意味での天才だった。天才という言い方が凡庸に過ぎるというのであれば、作家らしい作家であったというべきか。
長篇ももちろん素晴らしいのだが、むしろ私は彼のエッセイや短編に心惹かれてきた。例えば「エキゾティカ」というアジアを舞台にした短編小説集。その中に「ペットとイット」というレディ・ボーイとムエタイ・ボクサーを主人公にした一編がある。コミカルだが嫌みがない。清流のような爽やかさがある。音楽でいうと、モリッシーのようだ。ストーリーは他愛もないといえば、恐らくそうだ。しかし、私は20ページほどのこの短編を読み返すたびに思う。これが作家というものなんだと。
自宅の近くの玉造に、かつての中島らも事務所があった。鬱病の中島はここのビルから飛び下り自殺をしようとして、間一髪わかぎえふに助けられた。前を通るたびにそのことを思い出した。中島の死の当日、わかぎは香港にいたそうだ。今回ばかりは助けることができなかった。死を知らされたわかぎの心中を想うと心が痛む。
その事務所の交差点を南にくだった日之出通り商店街を抜けると、中島のエッセイにも書かれている「アジア・コーヒー」があった。この喫茶店はテレビや雑誌でも取り上げられて有名になったのだが、最初に紹介したのは中島ではなかったかと思う。
「アジア・コーヒー」は喫茶店というよりは、東南アジアにある路傍の茶店という感じだった。店は息子と母親がやっているのだが、あばらの浮き出た不良息子のおっちゃんは、「朝はようから夜おそうまで、ず~っと仕事や。わし、体もたへんで」といつもこぼしていたが、おっちゃんは日がな煙草を吸ってテレビを観ているだけだった。おっちゃんは店の土間に布団を敷いて寝泊まりしていた。
喫茶店なのに売り物は日本中でここだけしかないという、ネーポンという甘ったるい柑橘系のジュースだけ。たぶん、ネーブルとポン柑からのネーミングだろう。友人が記念に持って帰りたいと言うと、おっちゃんは「神戸にある製造元が震災でつぶれてもうてな。在庫がもうないねん。持ち帰りは駄目や」。でも帰り際に、おっちゃんのお母さんが小声で「これ、持って帰り」とこっそりネーポンを渡してくれた。メニューにはコーヒーやぜんざいやインドカレーがあったが、「コーヒーは?」「ない」「ぜんざいは?」「今、やってないねん」「何もないねんな。そしたら、このインドカレーは?」「インドカレーは予約制やねん。あさって来て。仕込みしとくさかい」とおっちゃん。われわれは期待してその日を待った。そして出てきたのは柄のついた家庭用の小鍋。嫌な予感がした。食べてみるとそれはまぎれもなく、にんじんやじゃがいものごろごろ入ったハウスバーモントカレーだった。
その「アジア・コーヒー」も今はない。その近くにも中島と親交のあったプロレスラーのミスター・ヒトがやっていたお好み焼き屋があったが、いつの間にかなくなっていた(ミスター・ヒトは熊と闘ったという伝説のプロレスラーだ)。
もう十何年も前のこと。扇町であった中島らものバンドのライブ。ボ~ッとしている中島に、「中島~、生きてるか~?」と野次。もうこの野次を聞くこともない。永遠に。

ドリアン長野インタビュー(自主的です)
2007-09-03 | Weblog
NO51 ドリアン長野 インタビュー

at 2004 10/01 18:46 編集

ー前回のライナー・ノーツで音楽に対する意識が変化したと書かれておられましたが
「漫画家の夏目房之介氏、漱石のお孫さんですね。今は漫画評論としての活躍が多いんですが、彼が著作の中で漫画の描線そのものが思想を語っていると言っているんです。それを読んではっとしました。音楽も音そのものが思想を語っているんだなと気づいたんです。考えてみれば当たり前のことなんですが。そうでなければ、ブライアン・イーノやスティーヴ・ライヒのアンビエントやミニマル・ミュージックと喫茶店でかかっているAORやMORと、どこがどう違うんだって話になりますからね」
ーそうですね
「私がパンクやオルターナティヴのようなざらついた音に惹かれるのは、歌詞がどうこうだからといったわけではありませんから。先日、夏の夕暮れに自転車を漕ぎながらオアシスの『シャンペン・スーパーノヴァ』を聴いていたら胸が熱くなって涙ぐんでしまいました。『マンガの居場所』(NTT出版)という本の中で宮本大人氏が、現在の量的にも質的にも拡大し細分化したマンガの中で、そのど真ん中は『ジャンプ』で連載中の『ONE PIECE』であると断言しています。その理由は『ジャンプ』で一番面白くて一番人気があるマンガだからである、と。私は白状しますが、電車の中で『ONE PIECE』を読んでいて涙と鼻水が止まらなくなって困ったことがあります(笑)。私にとって、オアシスは『ONE PIECE』です。オアシスは90年代ロックの奇跡だといわれましたが、それは彼らがビートルズ、ピストルズ、ストーン・ローゼズといった正当的な、正当的というのはなにぶん音楽のことですから私自身の感覚ですが、そういった遺産を継承しているからです。逆にいえば、その時代がオルターナティヴ、グランジ、ハウス、クラブ、アシッド、レイヴといった負の音に席巻されていたからだともいえます。御存じのように『ジャンプ』も友情・努力・勝利というコンセプトを営業方針として打ち出していますからね」
ーそういった思い入れのある音楽が他にあ
れば教えていただきたいんですが
「ディック・リーの『エイジア・メイジア』の中の『Lover′s tears』を聴くと、いつも懐かしくて切ないような気持ちになります。原曲はマレーシア出身の歌手が歌い、それを香港出身のサンディー・ラムが北京語で歌っています。ディック・リーはシンガポール生まれで『マッド・チャイナマン』が大ヒットしました。訳すと気違い支那人となって、二重の禁止用語になりますが(苦笑)。私がこの歌に郷愁を感じるのはアジアに深い思い入れがあるからです。この曲を聴くとバンコクの深夜のオレンジ色の街灯とか、クアラルンプールの中国系雑貨屋とか、マニラの路地で見た月とか、とにかく様々な光景が鮮やかに蘇ってきます。繰り返し聴き続けているといえば、スマッシング・パンプキンズの『メロンコリーそして終わりのない悲しみ』ですね。私はこれをCDが擦り切れてしまうんじゃないかと思うくらい聴きました。今でも聴いています。それでも聴くたびに多くの示唆を与えられます。私はロックを祈るような気持ちで聴いてきました。このアルバムはそのことを思い出させてくれます」
ードリアンさんにとって、ロックでなければならないという必然性はどういったものですか?
「ロバート・ジョンソンがブルーズのためにクロスロードで悪魔に魂を売り渡したという伝説がありますね。ロックにはそういった伝説が生まれやすいと思うんです。それはロックが弱さ、醜さといった人間のダークサイドを容認し、肯定してきたからだと思います。モリッシーは一貫して自分の弱さを歌にしてきましたが、そのことで救われた人たちがどれほど多くいたことでしょうか。モリッシーで思い出しましたが、昔スミスがUKのヒット・チャート1位になったと聞いて、CDを買いに行ったんです。聴いてみると何だかスカスカした音で頼りない。当時パンクばかり聴いていた私には理解できなかったんです。それから何年か立って、『THE WORLD WON′T LISTEN』というベストCDを買ったんです。今まで何回も聴いたはずなのに一曲目の『パニック』のイントロが鳴り出した瞬間、脳内にエンドルフィンが放出されたような気がしました。それからはどの曲を聴いても至福の時間です。ドラッグをやっている恍惚感ていうのはこんな感じかもしれないとさえ思いました。村上春樹がフィッツジェラルドの『夜はやさし』を読んだ時にたいして感動も覚えなかったけれど、何か月か後に名状しがたい何かに突き動かされ、本棚からその本を引っ張り出し夢中で読んだ。それからはフィッツジェラルドが彼の唯一の師となったそうです。そんな話を思い出しました。話がそれましたが(笑)。ブルーズが加速していってロックになった。それがどんどん加速してパンクになった。『ロックは死んだ』とかつてのパンクロッカーたちが言ったのは行き着くところまで行き着いてしまって、袋小路に入ってしまったからです。自分の原点を否定しなければならなかった彼らは悲惨です。呉智英氏の名言、『徹底的な自己否定は徹底的な自己肯定である。それはあたかも徹底した防火が実現すれば失業するのに、防火に力を尽くす消防士のようなものである』という言葉そのままです。ロックという大衆音楽が歌謡曲や民謡と違うのは、その性急さにあるんじゃないでしょうか。従来のブルーズでは心の隙間を埋められない人たちがロックを作ったとも言えます」
ーハロルド作石氏の「BECK」にとても印象的なシーンがあるんですよ。ある日本のスーパーバンドが、ニューヨークの「CBGB」をモデルにしたライブハウスに行って、「汚いし、臭いし、ショぼい。俺は勝手な幻想を抱いていたんだな」とがっかりするんです。でもBECKの連中は「ここでパティ・スミスが、ラモーンズが演ってたんだ」と感激する。この違いは何だろうって考えると、それは音楽の奇跡を信じられる人とそうじゃない人の違いなんじゃないかなと思ったんですが
「自分自身のことを言うと、私は音楽の持つ奇跡というものを信じています。奇跡というものが本当にあるのかと問われれば、私は『ある』と断言できます。もちろんそれは音楽が発せられた瞬間にそれを受け止める力がないといけませんが。先月パティ・スミスのライブに行きました。『南十字星の下で』を聴いている時に、まるで光の中に包まれているような感じがしました。今までいろいろなライブを観てきましたが、そんな体験は初めてです。その時思ったのは、パティ・スミスもそれをこうやって聴いているわれわれもいつかは肉体が滅びてしまう。しかし、ともに音楽を共有しているこの瞬間が永遠なのではないか、ということです。そして、瞬間こそが永遠なのだから精一杯生きるんだよ、と音楽が語っているような気がしました」
ーそれが奇跡ということかもしれませんね
「パティ・スミスがライブの途中で観客の一人からチケットを見せてもらい、その高さに驚いていました。そしたら彼女が『日本に来るにはとてもお金がかかるの。みんなには大きな負担でしょうね。ごめんなさい、心から謝るわ。でも、次のコンサートに一万人集まったら、チケットをもっと安くする。約束するわ』って言うんです。もちろんストーンズやオアシスじゃあるまいし、彼女のコンサートに一万人来ることはありえません。でも、彼女の言葉を思い出すと涙が出そうになります。感傷的に聞こえるかもしれませんが、そんな時にロックを聴いていて本当に良かったと思うんですよ」
NO52 ドリアン長野インタビュー(続き)

at 2004 10/07 21:05 編集

ー黒人音楽であるブルーズと白人音楽であるパンクの関わりについて説明していただけますか
「どっかへ走ってゆく汽車の
75セントぶんの切符をくださいね
どっかへ走ってゆく汽車の
75セントぶんの切符をくださいってんだ
どこへいくかなんて
知っちゃあいねえ
ただもうこっちから
はなれてくんだ
私はブルーズと聞くとアメリカの黒人詩人、ラングストン・ヒューズの「75セントのブルース」をいつも思い出します。これは後年のパンク・ミュージシャンの心情と全く一致すると思うんですね。
今のここではない、別のどこか。それはハードロックよりも、もっと激しい憧憬というか、いらだちというか。パンクは性急さを得ていった代償にどんどんブルーズの黒っぽさを捨てていきましたが、代わりにレゲエという黒人音楽を取り入れていったんです。
一本の樹のなかにも流れている血がある
樹のなかでは
血は立ったまま眠っている
私は高校生の時にセックス・ピストルズを聴きました。それから人生が変わったといっても過言ではありません。これは寺山修司の詩ですが、その頃の私の気持ちそのままです。ロックもジャズも黒人音楽に白人音楽が介入して進化してきた。今は進化という言葉が適切かどうかは置いときますが、初めて白人のリズムと言葉が一致したのがパンクであったと思います。そうなれば聴き手は否応なく自己と対峙せざるをえないんです。それまではある人にとってはビートルズであったかもしれない。自分にとってはそれがセックス・ピストルズだったんです」
ーパンク・リバイバルとかいって何年かごとに揺り返しがありますよね。グランジもオルターナティヴもピストルズがいなかったら存在しなかったというような言われ方をします。たとえば、椎名林檎を聴くと巻き舌の唱法や雰囲気からピストルズに多大な影響を受けたことが分かります
「今、考えてみるとピストルズっていうのはアメリカン・コミックかポップ・アートの一種であったような気がします。彼等のファッションも新鮮だったんですけど、仕掛人のマネージャーにデザイナー、専属のカメラマンまでついていて一つの作品を作り上げたっていう気がします。プロデューサーは普通だったらチンピラパンクバンドなんて相手にもしないクリス・トーマスですし。ジャケット・デザインも非常にポップです。まるでキャンベルのスープ缶ですよね。だからこそロックという大衆音楽の長所を総動員して武器にすることができた。その結果、多くの若者が熱狂したんです。ただひたすらカッコよかったですね。今だに『ゴッド・セイブ・ザ・クイーン』の3分20秒のビデオ・クリップを観ると非常に興奮します」
ーでも、ピストルズ以後のパンクはなぜあんなにつまらなくなっちゃたんでしょう?
「パンクはメタファーですからね。『ぶっ殺せ」とかの勇ましいかけ声で最初は大衆を騙せても、段々とカラクリは分かってきますから。それにノイズ・ミュージック、インダストリアル・ミュージック、ポジティブ・パンク、オルターナティヴという雑駁な楽曲のほとんどがアヴァンギャルドのためのアヴァンギャルドでしかなかったように思います。それならジョン・ケージとかラ・モンテ・ヤングとかカールハインツ・シュトックハウゼンとか阿部薫の方がはるかにパンクなわけです。そういえば、坂本龍一が言ってました。『アヴァンギャルドな曲を一曲作るよりもいいポップ・ミュージックを一曲作る方がはるかに難しい』と」
ードリアンさんはよく「音のマジック」とおっしゃいますが、それを詳しく教えてください
「えっと、そうですね、手塚治虫のマンガにこういうのがあります。地球が核汚染されたので、何人かの人たちがロケットで脱出し、ある惑星に移り住む。何百年かして、その子孫が戻ってくるんです。彼等にとっては地球は先祖の故郷なわけです。タイムカプセルにテープ・レコーダーが保存されていて聴いてみると、ビートルズの『レット・イット・ビー』が流れてくる。それで子どもが父親に聞くんです。『お父さん、この気持ちのいい音は何なの?』たとえば味覚というのは人間に普遍的な感覚だと思います。くさやとか納豆とか、イヌイットは生肉を醗酵させて食べるし、例外はありますけどそれは単に習慣的な問題に過ぎないと思います。その辺は『美味しんぼ』を読んでもらえば分かると思いますが。(笑)それは食が生命に直結してるからでしょう。音楽の場合、『レット・イット・ビー』を聴いて不快になる人ってのは想像しにくい。でもピストルズを聴いて不快になる人はたくさんいるわけです。好悪が個人によってものすごく幅がありますよね。ある人はある楽曲に何かを感じるし、ある人は感じない。そこが面白いと思うんです。ブルーズも黒人霊歌も『七人の侍』のラスト・シーンの田植え歌もリラクセーションから生まれた。それから、それだけでは説明できない別の意味を持つ音が出て来た。たとえばですね、最近で言えば、オアシスの『マジック・パイ』という曲を聴くとひたすら自分が開かれていく感じがします。この開かれていくっていう感覚がマジックだという認識を自分はしています。J-POPという一連のムード・ミュージックに自分はマジックを感じない。それは開かれるという感覚を覚えないからです」
ーその開かれていくという感覚はどこに向かうんでしょうか?
「初めてピストルズを聴いた時、自分自身と世界が一対一で対峙してるように思いました。それは錯角かもしれない。でも自分はそこからじゃないと始められなかったんです。ジョン・ライドンが『ロックは死んだ』と言っても、当然ながらロックは存在し続けた。ある種の楽曲を聴くと高揚感を覚える。その高揚感というのは名状し難い、ロックでなければ為し得ない高揚感です。その瞬間ですね。自分がロックによって選ばれたと感じるのは。だから結局、開かれていくのは自分自身なんです。外にではなく、聴き手本人に向かうんです」
ー意識が外に向かうか内に向かうかの違いだというわけですね。それでは音楽が国境を越えて、ついにはベルリンの壁をも打ち壊した、という人もいますが、それについては?
「そういった妄想、いや幻想を抱きたくなる人の気持ちも分からないではありませんが。それについては芥川賞作家でパンク歌手の町田康の言葉を上げておきます。彼は『社会を変革したい欲望は?』という質問にこう答えています。『社会を変えたいというより、社会によって自分が変えられたいと思います。社会の中に生きているわけですから、社会の中で自分がズタズタになっていかなきゃしょうがないんじゃないでしょうか。また一人の人間の思惑によって社会が変わるなんてことはありません。例えばCDを800万枚売ったからといって、社会を変えたということになるでしょうか?変えるというより、響きあう方が大事なんじゃないでしょうか』。」
ードリアンさんといえば、いつも旅をしているというイメージがあるんですが
「いい車が買いたいとか、いい家が欲しいとかの欲望が無いんです。適当な休日があっても何かの理由で旅に出られなかったら、非常に損した気持ちになりますね。主に経済的な理由ですが。(笑)常に変わっていきたいという願望が強いんでしょうね。旅というのは他の文化と擦れあう、手っ取り早い方法ですから。釈迦が『真理を疑え。真理を疑ってる自分自身をも疑え』と言ってます。諸芸と同じく固定は死ですから。常に自分を戒めています。初めて海外に出たのはインドでした。その頃、主婦業からカムバックしたパティ・スミスの『ピープル・ハブ・ザ・パワー』という曲がヒットしていて、その曲はマザー・テレサの事を歌ってるんですね。それがきっかけでカルカッタに行ったんですが、10年以上も立つのに、今でもその時の記憶が何かの拍子に蘇ることがあります」
ー死を考える事は?
「いつも考えてます。『将来の展望は?』とか聞かれると困ってしまいます。一日をどうやって有効に使おうかと腐心ばかりしてますから。死を考えると一日がとても愛おしくなりますね。これを言っても、きれいごとだとか、偽善的だとか全然思わないので言いますが、自分がこの世に、今のこの時に生まれて来た意味をよく考えるんです。そうすれば、自分は他人のために生きたいと思うんです。短い生の中で自分とかかわり合った人が少しでもいい方向に行ってくれれば、とても嬉しい。自分のためにだけ生きる人生はつまらないし、辛いと思います。自分がいつもピストルズの事を言うのは、ジョニー・ロットンのメッセージがとてもシンプルだったからです。それは『人は誰でも自分の思い通りの人生を生きられる』。この事と人のために生きようとする意志は少しも矛盾しないと思います」
ーそれでは最後に、ドリアンさんが目標とする人物は?
「浅田次郎「壬生義士伝」の吉村貫一郎ですね」

上海日記 1日目・2日目・3日目
2007-09-04 | Weblog

NO58 上海日記 3日目

at 2005 01/25 23:50 編集

12月30日
「全員整列、番号!」
「1」
「2」
「これからわれわれ上海使節団は上海に向けて出発する。何か質問は?」
「チャイニーズ・マフィアには充分気をつけましょう」
「そんなものはおらん!」
「危険だと思ったらすぐ引き返す勇気を持ちましょう」
「われわれはK2に登りにいくんじゃない!」
ビザはやっと出発前日に届いた。ただ、ガイドブックを読んだら2003年9月から15日間以内の滞在ならビザは不要と書いてあったが。(1万円返せ!)
関空に到着したK君は不安で寝不足と食欲不振が続き、蒼い顔をしていた。
とにもかくにも上海に到着したが、入国検疫申告書を書くのを忘れていたわれわれは係員に呼び止められ、そこで書け、とあごで指示される。初めて接する中国人の横柄な態度にK君はびびる。入国審査を待っている時も行列の中国人同士が割り込みでケンカを始めた。K君、ますますびびる。
「レンミングァンチャン(人民広場)!」
空港前で待っているバスの女性車掌に声をかける。彼女は「満席だよ。次のにしな」と答えた。(私は中国語がわからないので、英語以外は推測です)
「次は何時?」
「10時だよ(夜の)」
「あと40分もあるやん!」
日本語で言うと、「しかたないね。乗りな」とバスの入口を指し示す。バスが動き出したので、外を見ると雪が降り積もっている。凍結した道路では追突したり、ガードレールにぶつかった車を何台も見た。人民広場で降り、地下鉄を探すがむちゃくちゃ寒い。このままではホテルにたどり着く前に凍死してしまうではないか。はんぱねー!歩いていると寒いので全速力で疾走し、コンビニを見つけると飛び込み、道を尋ねるついでに暖をとる。ようやく見つけた地下鉄(中国の地下鉄の出入口は明かりがついていないのでわかりづらい)で河南中路駅まで行き、そこから歩く。われわれが目指すのは浦江飯店だ。外灘(バンド)で、いや上海でバックパッカーが泊まるホテルといえば、ここしかない。空室があればいいが。もうすぐ日付けが変わる。
NO57 上海日記 2日目

at 2005 01/18 22:23 編集


12月20日
K君はほんまにびびっていた。初めての海外旅行なのはわかるが、それにしても尋常ではない。
「危険な所に行くのはやめましょうね」
「上海に危険な場所はないっちゅうねん(あったら行ってみたいわ)」
「ドリアンさんも日本に待っている人が大勢いると思いますから、くれぐれも無事に帰国しましょう」
「俺たちはイラクに行くジャーナリストとちゃうで」
「お金はいくらかかっても構わないので、命を最優先に考えて下さい」
「君は自衛隊の中隊長か。でも、ひょっとしたら無言の帰宅ってこともありえるなあ」
「ええっ!」
びびっているやつをいちびる(からかう)のは面白い。
その夜、K君からメールが入った。
「中国ってビザいりますよね。 今からでは間に合わないのでは?」
すっかり忘れてた。
慌ててインターネットで調べ、池袋にあるビザ取得代理店にパスポートを明日一番の宅配便で送ることにした。果たして間に合うのか。K君から電話。
「その代理店、大丈夫なんでしょうね、パスポート送っても」
「もしかしたら歌舞伎町の蛇頭に横流しされるかもね」
「ええっ!」
K君の心配は尽きないのであった。
NO56 上海日記 1日目

at 2005 01/15 21:22 編集

12月19日
年下の友人K君から何年か振りに電話があった。四方山話のうちに彼が言った。
「ドリアンさん、僕今年パスポート取ったんですけど、一緒に海外旅行行きませんか」
「そりゃいいけど、年末まで10日しかないで。もうチケットは残ってへんで。あったら奇跡やわ」
「奇跡ですか。可能性としたら何パーセントくらいですか」
「まあ、消費税くらいやね」
「5パーセントですか.....。ドリアンさん、こんな話を知ってますか。本田技研の創業者の本田総一朗はですね、小さな町工場から始めてですね.....」
K君はなぜか突然熱く語り始めた。
「ですから、たとえわずかな可能性でもそこに賭けてみるのが男のロマンかと.....」
「わかった、わかった。君の言いたいことは、よ~くわかった。インターネットで調べてみるけど、あんまり期待せんといて」
と言って電話を切って、一応検索してみることにした。リーマン・パッカーは年始年末と盆休みとゴールデン・ウィークしかまとまった休みが取れへんからなあ。俺も半年くらいアジアを放浪してみたいで。バンコクはっと......。やっぱり満席やがな。インドもどっこも満席や。不況いうても年末になると日本人はどっと海外に行くからなあ。どこが不況やっちゅう話やねんな。日本人は兵役みたいに全員一週間インドに行くことを義務づけたらええと思うわ。正月ハワイに行くやつは死刑や。ロサンゼルスに行くやつは帰ってこんでええ、って俺は小言じじいか。過去になんかあったんかいな。マニラも一杯や。当たり前やな。年末のチケットいうたら二か月前から予約すんで、フツー。ラオスもミャンマーも直行便飛んでへんからなあ。一週間の休みやったら無理や。北京も駄目、上海は、おっ、あった。あったがな、こんな時期に。やっぱり本田は偉大や(なんのこっちゃ)。早速、K君に電話する。
「奇跡は存在したで。上海行きあったで」
「えっ、本当にあったんですか」
あんなに熱く語ったはずのK君の声はものごっつう不安気だった。Why?
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香港の散歩(芸能人ではありません)
2007-09-03 | Weblog
NO53 香港の散歩

at 2004 12/01 23:38 編集

海外で何が一番楽しいかというと、言うまでもなく散歩である。私の場合はガイドブック片手にうろうろするので純然たる散歩とはいえないが、それでも右手に路地があれば入り込まねば気がすまないし、左手に面妖な物売りがいれば声をかけるのにやぶさかではなし、前方に小汚い食堂があれば満腹でない限り入ってみるのである。ただし、歩くのは速い。ほとんど徒競走だ。限られた短い滞在時間に少しでも多くのことを見ようとするから気があせって小走りになる。夜は旅行日記を書くので、くたくたになって宿に帰ってきても書き終わるまで眠られない。その日の詳細をいちいち書いていると一時間くらいかかってしまう。う~、早く寝たいと眠い目をこすりながら日記をつけていると研修旅行でもしているような気分になる。最近では外出するたびに日記用のノートを持ち歩き、飯を喰ったり、お茶してる間にちょこちょこと書くようにしている。観光客然とした出で立ちでいると危ないので、スーパーのビニール袋にカメラとガイドブックと日記帳を突っ込んで俺はジモティーだよという顔して歩く。そのせいか、盗難に遭ったことは一度もない。
香港は狭い土地なので三日もうろうろすれば概要は分かってくる。とにかく、どこに行っても人がいっぱいだ。旺角なんて渋谷のセンター街の何倍もの人だかりだ。頭がくらくらしてくる。人込みに疲れると、チョンキンマンション近くの九龍公園に行った。フィリピーノの憩いの場所になっていて、彼女たちに混じってベンチに座り、スーパー「ウエルカム」で買ったおやつを食べながらぼ~っとする。夜になると「シティスーパー」という大型スーパーに行く。ここには世界各国の食料品がずら~っと陳列され、在香港邦人の姿もよく見かける。私が香港を一番インターナショナルな街だと実感する場所である。そんな香港の街歩きで私のお気に入りの場所が二か所あった。(つづく)

NO54 続 香港の散歩

at 2004 12/11 00:09 編集

まずは中環(セントラル)に行ってみる。地下鉄から地上に出てみると、おおっ、そこはロンドンのシティかと見まがうほどにエリートビジネスマン&ウーマンが闊歩する香港経済の中心地であり、おされな地区である。高層オフィスビルがばんばんと林立し、バスに乗り合わせたおのぼりさんの中国人が、うおおお~っと一斉に喚声をあげるほどだ。正直なやつらめ。かわいいじゃないか、中国人。ただ背後にはすぐ山が迫っているので、坂を昇っていくとすぐにオールドチャイナが顔を出し、高層ビル群が書き割りみたく思える。散歩の途中に下校帰りの小学生に出くわしたが、みんな将来は香港大学を卒業して香港経済の要職に就きそうな上品で賢そうな顔をしていらっしゃられる。そんな山の手から地下鉄で西へ一つ目に上環(ションワン)がある。かつては商業の中心地だったのだが、今はさびれ、ださいといえばださい。中環とは比ぶべくも無い。下校途中の小学生も庶民的というよりは頭が悪そうだ。思い出せないほど遥か昔、大阪が天下の台所として殷賑を極めていたのも束の間、あれよあれよと江戸にその中心を奪われ現在にまで至っているのを彷佛させる街だ。ほっとけ!
上環駅からハンコ屋が密集する文華里を抜けると、蛇料理を出すレストランがある。昔は蛇問屋が多かったそうだ。少し歩くと骨董品街のハリウッド・ロードやキャット・ストリートがあり、ここからは坂道が多くなる。その一角にある香港最古の廟である文武廟に入ってみる。ここには緑の衣をまとった文の神様と赤の衣をまとった武の神様が祭ってあり、原色のド派手な神様だ。それでも熱心に祈っている参拝者を見ているとこっちも敬虔な気持ちになってくる。そこからハリウッド・ロードを北西へ道なりに歩いていくと仏具屋や棺桶屋がある。店の前には参詣した際に燃やす紙で作った車や紙幣なんかがずらっとぶら下がっていて壮観だ。道がクイーンズ・ロードと交差したあたりから乾物屋が多くなり、下町の中の下町、まるで下町を煮染めて佃煮にしたような雰囲気になってくる。たまにあるコンビニやマクドナルドがミスマッチだ。歩いているうちに段々と異臭がしてくるが、これは梅芳街という数十メートルの横丁に塩漬け魚を売る店があるからだ。店の前には干し魚が所狭しと吊り下げられ、それを猫車でせわしなく運搬している。このタンパク質が発酵した臭いというのは、お好きな人にはたまらん臭いだ。発酵学、醸造学者の小泉武夫先生によれば、チーズというごく一部の例外を除けば、地球上でカビを使う食文化圏はアジア地域に限られているそうだ。日本ではこの手の臭いが駆逐されているのは残念至極だ。そこから大通りに出ると乾物屋問屋街になる。ブリキで作ったようなレトロな緑色のトラムに乗り、二階席に陣取ってこの通りを眺めるのも乙なもんですな。店のおやじがドリアンの段ボールをたたんでたり、八百屋の前で猫があくびをしたりするのを見ていると、意識がとろとろとしてきて、中国を清といってた時代に思いがはせ、アヘン戦争だの東学党の乱だのといった言葉が浮かんできたりしますな。さて、散歩は九龍へと戻りやしょう。(つづく)
NO55 続々 香港の散歩

at 2005 01/12 23:19 編集


油麻地(ヤウマテイ)駅から上海街を南下していくと一気にディープな中華街になってきます。右に左に仏具屋や雑貨屋や線香屋なんかがあって、正真正銘、由緒正しきチャイナタウンという感じです。こんな所を歩いていると心底、落ち着きます。もう少し行くと天后廟に突き当たります。廟は赤を基調としていて、守り神はいかにも中国という感じの妖しい人形たちです。若い女性も多く、線香をあげて熱心におがんでいます。その入口にある公園では、おじさんたちが佃煮のように密集して、昼寝をしたり将棋をしたり簡素なビリヤード台で玉突きをしたりして、おじさんたちの憩いの場になっています。この光景を見ていると、大阪は西成にある三角公園、別名トライアングル・パーク(嘘)を思い出します。ホームレスの憩いの場所である三角公園には街頭テレビがあり、みんな金曜ロードショーなんかを観ています。年末なんか総合格闘技の「プライド」を観てたりして、どこかの通のおっちゃんが、桜庭の師匠の高田がどうたらこうたらと講釈をたれてたりしてますが、チャンネルは誰が決めてるんだろうといつも気になります。そこからまっすぐ行くと廟街(テンプル・ストリート)になります。夜になると男人街と呼ばれる場所ですね。私はナイト・マーケットよりも昼間のだらだらっとした感じが好きです。しばらく歩くと佐敦道(ジョーダン・ロード)にぶつかりますから、右折してうろうろしていると、公園やらサッカー場やら公設市場がある場所に出ます。官涌街という通りを下っていくと場末のポルノ映画館があります。侘びしさが素敵な通りです。このうらぶれた感じがたまりません。ここで散歩は終わりです。地下鉄で帰ることにしましょう。スターフェリーで香港島に渡ってみようと船着き場に行くと、これがまたものすごい人だかり。香港の映画スターの手形がはめ込まれたプロムナードには何千人という人民と観光客が密集しています。みんな夜景を観にきたんだなと思っていましたが、そのうち「音と光のショーへようこそ」というナレーションが聞こえてきたかと思うと、対岸の香港島の高層ビル群からイルミネーションが乱舞し、レーザー光線が飛び交い、ステレオサウンドで音楽が鳴り響き、屋上からは花火がどっかんどっかんと上がり、ほぇ~っと見とれているうちに20分ほどでショーは終了しました。はぁーっ、ええもん見せてもらいましたわ。そういえば、空港に着いたときにパンフレットを配ってましたが、それには5月1日から9日は特別に花火の打ち上げをやりますと書いてありました。ああ、この期間中に香港に来れてよかった。これでいつ死んでもいいわと思いました。マジで。

上海日記 4日目
2007-09-04 | Weblog
NO62 上海日記 4日目(続々々)

at 2005 02/21 23:38 編集

ホテルを出て帰ろうと南京路を歩いていると、逆方向からわさわさと人が歩いてくる。しばらくすると今度はばらばらと大勢の人が走ってきた。時計を見ると12時前。われわれも急いで彼らについていく。バンドの地下道は人民であふれている。暗いので物乞いを踏んづけてしまった。ご、ごめん。あっ、今度は物売りを踏んづけた。遊歩道に出ると、人民と外国人で立錐の余地もない。カウントダウンが始まり、新年になるとあちこちで花火が上がる。2005年の始まりは上海だったかと感慨にふけりながら歩いていると、途中で浦江飯店に宿泊していたバックパッカーたちと出会う。彼らもバンドでカウントダウンを祝い、今から同宿の9人で飲みに行くそうだ。一緒にと誘われたが、われわれは酒を飲まないので残念ながら辞退した。私はドミトリーにはほとんど泊まったことがないのだが、ドミもいいもんだな~と思う。地下鉄が止まっていたので、タクシーを捕まえようとするが、空車が走っていない。近くの交差点で客を降ろすためにタクシーが停まったので、猛ダッシュで飛びつく。血相変えながら日本人が飛び込んできたので、運転手もさぞかし驚いたことであろう。それにしても、どのタクシーも助手席と後部座席は強化プラスチックで運転席と完全に分離されている。上海も物騒になったもんだ。1時帰館。
NO61 上海日記 4日目(続々)

at 2005 02/16 23:29 編集

その夜、オールドバーでジャズを聴くために再び和平飯店を訪ねた。メンバーは平均年齢70歳台の老人であり、このホテルの名物である。大晦日のせいか、満席で少し待たされたが、相席でテーブルに着いた。アメリカンスタイルのカウンターやローソクのシャンデリアが租界時代を想わせる。一時間ほど演奏を楽しんだ後、和平飯店を探索することにした。もう十何年も前のことだが、桐島洋子さんの本でこんな文章を読んだことがあったのだ。
「和平飯店は40年前にはじめて上海に渡ったときにしばらく滞在したキャセイ・ホテルであり、このホテルこそ私にとって外国の原体験なのだ。幼い私が絶望的に長い廊下を魔法使いに追いかけられながら必死に走る夢を今でも私はときどき見るが、それは明らかにこのホテルの廊下であり、魔法使いの方はディズニーの白雪姫の継母である。40年ぶりに歩く廊下は気味が悪くなるほど夢の中の景色のままだった。」 (大草原に潮騒が聴える)
その幻想的な廊下のイメージは上海、キャセイ・ホテル(和平飯店北楼)、といった妖しい響きと相俟って、まだ海外に出たことのない私の脳裏にしっかりと刻み込まれた。その長年抱いてきたイメージがついに目の当たりになろうとは。エレベーターで階ごとに降り、廊下を歩く。赤、階によっては青の絨毯が壁の淡い照明に浮かび上がり、進むにつれて租界時代にタイムスリップしていくようだ。南京条約によってイギリス軍が上海を開港し、さらには欧米列強諸国が管理する共同租界となったバンド。極東最大の都市、アジアの貿易、金融の中心地、日支間の思惑が交錯した国際都市、魔都、上海。初めて足を踏み入れた和平飯店は私にとっても想像と寸分たがわぬ光景だった。
NO60 上海日記 4日目(続)

at 2005 02/09 22:13 編集

部屋に戻ろうとすると、廊下の展示品を見ている二人の日本人がいたので声をかける。彼らは6階のドミトリーに泊まっているそうだ。
「僕らも昨日の夜に上海に来たんですけどね、ドミに金城武そっくりの男が泊まってるんですよ」
「えっ、金城武!」
「ほんとにそっくりですよ」
「まさか本人じゃあ.....」
「見に来ますか」
「行く行く行く!」
ここのドミは男女別になっているそうだ。部屋も清潔で窓からはほんのわずかだが黄浦江が見える。彼らの他には日本人と韓国人が一人づつ泊まっていた。韓国人が聞く。
「何でそんなかっこしてんの? パジャマ代わり?」
「公園をジョギングしてきたんだ」
「はっはっはっ。クレージー」
ほっとけ。
「あれ? さっきまでいたのにな。出かけたみたいですね」
あ”~っ、残念。タケシ、私をおいてどこに行っちゃたの。
「タケシの寝ていたベッドはどこかしら?」
「は? あそこですけど」
「タケシ~」と叫んでベッドに飛び込む。
「.............。私、別に変態じゃないからね」
「は、はあ~」
「われわれはこんなことしてる暇ないねん(お前が勝手にやってただけやろ)。早いとこ、このホテルをチェックアウトして新しいホテルに移らんと」
「どこに泊まるんですか」
「ピース・ホテル」
「あそこ、空いてるかなあ。昨日も満室だと断られて、ここのドミに来た人がいましたから」
「とにかく行ってみるわ。タケシに会ったら、よろしく言っといて」
ピース・ホテル(和平飯店)は上海銀座の南京東路を挟んで北楼と南楼がある。和平飯店といえば、バンド。バンドといえば、和平飯店だというくらい、バンドを象徴するホテルである。一生に一遍だけ泊まってみても罰は当たらんだろうと思ったが、今日も明日もあさってもやっぱり満室だった。仕方なく、その日はバンドの対岸にあるホテルに泊まる。部屋から小学校の校庭が見えるのだが、この寒さにも何のその、大勢の大人がダンスを踊っている。今日は大晦日やったなあ。それにしても寒くないんか?
NO59 上海日記 4日目

at 2005 02/02 20:17 編集

12月31日
7時半起床。トイレの窓から外を見ると一面まっしろ。黄浦江を巡航する船の警笛が聞こえる。浦江飯店はバンドで一番古いホテルだ。チャップリンもアインシュタインもお泊まりになられたが、宿泊費は高くない。バックパッカーの御用達になっているのはドミトリーがあるからだ。ホテル自体は租界時代に建てられただけあって、アールデコで趣がある。われわれの泊まった二人部屋の前は吹き抜けになっていて、広い廊下には租界当時の調度品が展示されていた。
昨夜は12時前にチェックインした。空腹だったが、寒波の中を出ていく気にもなれず、ルームサービスでチャーハンを食べた。眠りについたのは2時過ぎだったと思うが、K君は不安でほとんど寝ていないそうである。そこまでテンパってたら、しまいにゃ死ぬで。われわれは気合いを入れて空手着に着替えた。上海で空手と太極拳の交流をしようという日中友好的な計画を立てていたのである。場合によっては異種格闘技戦も辞さぬつもりだ。カンフーでもなんでもかかってこい(どの辺が日中友好やねん)。意気込んで飛び出したのはいいが、ほんまにものごっつうハンパじゃなくひたすら寒い。いつもは物売りで足の踏み場もないほどの外白渡橋も今日は誰もいない。目指す黄浦公園はホテルから走って3分ほど。公園の入口で警備のおっちゃんに「滑るから気をつけな」と声をかけられた。
「太極拳は?」
「寒いから休みだ」
いきなり計画失敗。寒さに異常に強い中国人もさすがに今日は無理?って感じ? 口ほどにもないぜ、今日はこのくらいにしといたるわとバンドの凍結した遊歩道をこけながらジョギングして帰ったのだが、われわれ日本人の姿はよほど奇異に見えたのであろう。ホテルの従業員にじろじろと見られる。この寒波になんて物好きなってか。おれたちは見せ物じゃねえ、散りな。しっ、しっ。今度泊まりに来た時は帝国陸軍の軍服で来てやるぜ。日本鬼子と書いた鉢巻きを締めてなって、冗談っすよ。冗談。そんなにムキにならなくてもええやんか~(誰に言うとんじゃ)。

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#4

2024-04-07 | 日記

NO48 チョンキンの夜は更けて
2007-08-30 | Weblog

at 2004 06/25 22:25 編集

「300だ」
「高いな。他の商品はないのか」
「いくらなら買う?」
「いや、他の商品はないかって聞いてるんだ」
男がファイルされたルーズリーフをせわし気にめくる。6畳くらいの部屋には壁に向かって作業机が並んでいて、時計の部品が無造作に散らばっている。それを少年が熱心に組み立てている。
ここはチョンキンから100メートルほど離れたミラドール・マンション一階にある工房だ。ミラドールもチョンキン同様、安宿の集合ビルだが、新しい分だけ設備が整っているらしい。話のネタにと、ニセ・ブランド時計の客引きに声を掛けたら、ここに連れてこられた。さきほど連れてこられた二人の中年の白人女性たちも隣の席でルーズリーフの写真を見せられている。
「男物はロレックスだけだ。ブルガリもあるが、これは女物だけだ」
ロレックスは言っちゃあ悪いが、成り金オヤジの趣味だ。まるっきりイケてない。ちなみに私は腕時計は持ってない。ケータイの時間表示で充分だし、海外に行くときは電池で動く、ちっこい目覚まし時計を持って行く。
「この時計イケてねー」「もっと安くしろー」と散々ごねる私にとうとうキレたのか、「あんたの欲しい時計なら外で売っている」と通りに追い出された。仕方ないから、露店で売ってる一個30HKDの時計を買ったね。それにしても、あんなに簡単に客を手放すってことは一日に何人もの客が食いついてくるってことか? それに時計が一個売れれば、客引きと実際に売りつける男にそれぞれ、いくら入ってくるのだ? ああ、知りたい。
チョンキン内にあるインディアン・フード・ショップで頼まれていたカレーの材料を買ったんだけど、久々に頭にきたね。買い物の品を抱えてレジに持っていき、精算した時に持ち合わせが少ないことに気づいた。「両替えしてくるから」と店を出て、近くの両替店で両替して戻ってきた。「えーっと、いくらだっけ?」と店のオヤジに聞くと、「199(HKD)だ」と言うので払って出てきた。近くの通りにある「スタバ」でぼーっとしていると、はっとした。待てよ、199いうたら、めちゃめちゃ高くないか? あわててレシートを確かめてみると、99HKDになっとるやんけ。あーっ! やられたーっ! 100ぼられたやんけーっ!けど、 わっかっとる、悪いのはこのおれやあっ。おれがあほやったんやあー。騙されたんが悪いんや。今からその店にねじりこみに行ってもレシートに書いてあるさかい、どもならんわ。しかし、腹立つからその店の名を書いておこう。チョンキン二階にある「マハラジャ・プロビジョン・ストア」だ。オヤジのインド人は大きいことはできなさそうな、小ずるくて小心者の貧相で女には絶対もてそうもない顔やったでー(小学生か)。
ここで気を取り直して、チョンキンにあるお勧めのレストランを書いておこう。D座には「アフリカン・サービス・センター」という一室がある。理髪をしたり、アフリカ料理を食べさせたりするらしいが、入ったことはない。なんせ、外観は他の安宿と変わりなく、秘密クラブのような雰囲気だ。今度、安宿に泊まってるアフリカ人に連れてってもらうことにして、私のお勧めは三階にある「エベレスト・クラブ」。ここのシェフは一流ホテルで修行していたそうで、ビーフカレーも自慢のノビリティアン・ビリヤーニもとても上品な味だ。内装もゆったりと落ち着いていて、チョンキンにいることを忘れてしまうほどだ。チョンキンには何軒かインド・レストランが入っているが、味と値段の安さを比べてみるとここが断トツだと思う。ネパール人マネージャー、メゲンドラ君が言うには、「日本人もよく来てくれる。香港に住んでいる日本人でここを知らない人はいない」んだそうだ。彼は日本に行ったとき写真を撮りまくり、400枚もの現像を頼んでカメラ屋のおやじをびっくりさせたというほどの大の親日家だ。だけどメゲンドラ君、日本のことを夢中で話す君の話を聞いてたら、もうちょっとで帰りの空港行きのバスに乗り遅れるとこやったで。それに10%割引きのメンバーズカードをくれたんはありがとうやけど、今度いつ使えるか分からんで。ひょっとしたら、使われへんかもしれへんでー。
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2004年五月に発表した海外旅行記
2007-08-30 | Weblog
NO47 チョンキンよいとこ一度はおいで

at 2004 05/21 23:09 編集

チョンキンでの最初の宿はA座7階にある「ウエルカム・ゲストハウス」に泊まることにした。ガイドブックで紹介されているせいか、日本人宿泊客が多い宿だ。受付には誰もおらず、「御用の方は電話して下さい」という貼り紙がある。電話すると、20歳台の女性が出て来た。
「ごめんなさい、忙しくてね。なんせ私ひとりだけだから」
ここは既に満室で、15階の「オーシャン・ゲストハウス」を紹介された。彼女、インドネシア出身のシティは二つのゲストハウスを持ち、原石の販売もしているそうだ。もらった名刺にはルビー、サファイア、ガーネットといった宝石の他に痩身茶の名もあった。若いのになかなかのやり手だ。部屋は三畳ほどで狭いが、チョンキンでは平均的な広さだろう。シティの掃除が行き届いており、清潔。窓からネーザン・ロードが見えるのがいい。エアコン、ホットシャワー、TV付きで130HKD(1HKD≒16円。2004年現在)。可もなし不可もなし。ここには二泊した。チェックアウトした時のシティはぐったりと疲れていた。人を雇ったほうがいいと思う。
次はB座9階の「ハッピー・ゲストハウス」に行く。ここはTVドラマ「深夜特急 香港編」の撮影に使われたらしいので、話のネタに泊まってみようかと思ったのだが、ベルを鳴らしても誰も出て来ない。そのうち、隣のゲストハウスから「そこは満室だよ」とインド人が出て来た。その言葉は客引きが使う常套句だ。インドで散々聞いたわい。その男、グルング(28歳)にうちに泊まりなと誘われる。一泊180HKDだと言っていたが、部屋に案内されたら、「広い部屋を空けたから200ね」とぬかす。「きさまあ~、どこの出身じゃ~い」「カルカッタ」「やっぱり」
「オレは狭くても安い部屋がいいんだけど」「いや、ここしか空いてないから」
せこい奴め、きさまがそういう気なら、俺にも考えがあるわっ! 他に行くのが面倒なので泊まってやる。
だけど、「俺はトラベルライターだ。このホテルのことを雑誌に書いてもいいか」とはったりをかましたら、手の平を返したように「トイレットペパーが無くなったら、言ってくれ」だの「飲料水は外にあるから自由に飲んでもいいよ」だの「エアコンのスイッチはここだよ」だの、さっきと態度がちゃうやんけ。キャッシュな奴め。
「グランド・ゲストハウス」、部屋は広いが、独房のような感じ。ひと休みしてから部屋を出たら、グルングが満面の笑顔で「満室になったよ!」。満室? なぜだあ~?
あくる日の昼前にチェックアウトしようとしたら、玄関にグルングが毛布を敷いて爆睡していた。宿泊客が起こすのはかわいそうだと思ったんだろう、右の手の平に鍵が置いてあったので、私も左の手の平に鍵を置いて出て行く。
さて、香港最後の夜。日本人バックパッカーはA、B、C座に宿泊が集中すると聞いた。分からんでもない。D、E座になるとその怪しさのディープ度に拍車がかかるような雰囲気がある。で、D座に泊まってみることにした。エレベーターに書かれているゲストハウスの名前を見ながら、どこにしようかなと思案していたのだが、名前の書いてあるプレートが新しそうなので9階の「ニュー・チャイナ・ゲストハウス」に泊まることにした。それが大当たりだったね。2002年にオープンしたばかりで、チョンキンとは思えない美しさ。エアコン、ホットシャワー、電話、TV付き(これがなんとリモコンTVだよ。驚いたね)でシングル120HKD~150HKDはお買い得だよ、奥さん! おまけに玄関の入口に宿泊客共有の冷蔵庫があり、長期滞在者のために無料の洗濯機まであるっていうんだから、至れり尽くせりだ。オーナーのピーターさんはE座8階にも「ニュー・ヤンヤン・ゲストハウス」を持っているそうなので、そこも見せてもらったが奇麗だった。宿泊客はアフリカ人がほとんど。ピーターさんも従業員のガーナ出身のアームストロング君(22歳)もフレンドリーでカインドリーだ。名刺を置いてきたから私の名前を言えば、きっとサービスしてくれる(ことを望む)。これで香港の宿泊は問題なしさ。近くにシェラトンやぺニンシュラもあるので、チョンキンに疲れたらロビーのソファーに座って気分をリフレッシュすれば大丈夫。さあ、ジョイン・トゥー・ザ・チョンキン・ワールド!(つづく)
NO46 チョンキン・マンション

at 2004 05/13 18:32 編集

チョンキン・マンションという名の安宿が香港にあるということは知っていた。が、まだ泊まったことはない。香港には返還前にツアーで行ったことがあるだけだ。漫画家でバックパッカーの小田空さんは、
重慶大厦とは、通称を「チョンキン・マンション」。アジアを旅する際にホンコンに基地を置く世界の貧乏旅行者で、その名を知らぬ者はいない、旅人のとまり木。心の故郷(ふるさと)。食わせ物の迷宮。
香港銀座の一等地、右に左に高級ホテルをしたがえながら、ひときわ異彩と異臭を放つ、今にも朽ち果てそうなヨレヨレの汚いビル。
                     (小田空著「目のうろこ」より)
と書いている。どうだ、どうだ、行ってみたいと思わんかね? (オレだけか~い)少なくとも私にはTDLよりも魅力的な場所に思えるぞ(行ったことないけど)。というわけで、死ぬまでに一度でいいからチョンキンに泊まりたいという熱い(のか?)想いを抱いて五月の連休を利用して四泊五日のチョンキンひとりツアーに出かけることにした。なじみのパキスタン・カレー屋のマスターにチョンキンに行くと言うと、「わたし、チョンキンよく知ってるよ。香港にいる時、よくカレーの材料買いに行ったね。もう十年以上も前になるかな。そうだ、ドリアンさん、チョンキンに泊まるなら、パパダ(せんべいのようなもの)5キロとホール・カルダモンとグリーンペッパー・ピクルス買ってきてくれへん? あっ、それから荷物になって悪いけど、ブラック・ラベルとシーバスもお願い」
俺は行商人か~いっ、と心の中で突っ込みつつ、香港へ。
地下鉄尖沙咀(チムシャツォイ)駅のE2番出口を出ると、ネーザン・ロードをはさんで、でかい雑居ビルが現われた。ああ~、あれがチョンキンなのね、と感慨にふける隙もなく、パキスタン人とおぼしきにーちゃんに「ニセモノ時計アルヨ」と声をかけられる。それからこの界隈をうろつくたびに声をかけられることになるのだが、やつらは百発百中、私を日本人と見抜いてしまうのだ。店で買い物をしたら、店員に広東語でしゃべりかけられるのはよくあることだったのに。なぜだ? 「職人芸」、もしくは「匠の技」という言葉を思い出す。
入口にはターバンを巻いたシーク教徒、パキスタン人、アラブ人、アフリカ人という見るからにキツイ人たちがたむろしていらっしゃいます。一階には何軒か両替所があるのですが、入口付近の三軒のブースにはいつも若い女性が座っています。むさいチョンキンにあって、泥沼の蓮、はきだめの鶴、という風情ですね。いや、レートの悪さをごまかすための香港人のこすい作戦かもしれません。チョンキンでは両替の手数料を取らないので、わざわざ遠くからやって来る人もいるみたいです。二階にある「Pacific Exchange Co.」という両替商がレートがいいようです。奥に入ってみると、コンビニ、鞄屋、服屋、土産物屋、インド食料品屋、散髪屋、食堂等がひしめきあってます。「チョンキン・マンションには一階と二階合わせて200軒以上の店があります」と書かれたプレートが天井付近に掲げられていますが、暇な人は確かめてみよう!
チョンキンは金城武、フェイ・ウォン、トニー・レオン出演の映画、「恋する惑星」(英語題名「Chung King Express」)のロケにも使われています。この映画は1994年の作品なんですが、雰囲気はその頃と今も変わってないですね。ただ、一昔前はチョンキンと今は無き九龍城が香港の暗黒地帯の双璧だなんて言われてたんですが、最近のチョンキンは警官が巡回したり、防犯カメラを設置したり、夜中の12時になるとシャッターを降ろしたりと、安全面に関しては格段に進歩していますからね、チョンキンに泊まりたいけど、なんだか恐いと思ってらっしゃるそこのあなた、心配いりませんからねえ~。
17階建てのチョンキンにはA~E座が独立した棟として入っており、100以上もの安宿があるそうです。入って左にはA、B、C座が、右にはD、E座のエレベーターがあります。各座に偶数階行きと奇数階行きがあり、全部で10基のエレベーターが稼働しているのですが、宿泊客や住人、お米や食料品やガスボンベを荷車で配達する人、掃除のおばちゃんでいつも長い行列が出来ています。遅く帰って来たときなんか、行列を見ただけでうんざりします。でも、大丈夫! そんなときに限って、インド人のにーちゃんと香港人のおばちゃんが列に割り込んだ、どーしたと言い争いをしているという心が和む光景に出くわしますからあぁっ!
そんでもって、エレベーターの定員が7人なんですけどね、ガタイのいいシーク教徒のおじさんや小錦なみに体格のいいアフリカ人のおばさんなんかが乗ってくると、すかさず親のかたきみたいにブザーが鳴りまくるんですよ。仕方ないから、最後に乗ってきた人がうらめしそうに降りていくんですが、中には片足立ちになって、両手でバランスを取りながらブザーをやり過ごすという、「伊東家の食卓」で使えそうな裏ワザを駆使する人もいらっしゃいます。(つづく)
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2004年四月に発表した海外旅行記
2007-08-30 | Weblog
NO45 カトマンズの夜

at 2004 04/27 23:23 編集

中山可穂の「熱帯感傷紀行ーアジア・センチメンタル・ロードー」を読んでいたら、次のような文章にぶつかった。著者はインドネシアを旅していたのだが、
「店内のラジオからは、マントヴァーニ楽団の『ブルー・タンゴ』が流れていた。まさかこんなところで、アメリカ製タンゴの名曲を聞けるとは思わなかった。」
僕は、ああ、分かるなあと思った。僕もカトマンズのタメル地区にある古本屋の二階で日本語と英語のペーパーバックを眺めていたら、ラジオからビョークが聞こえてきたことがある。曲名は思い出せないが、ネパールでビョークという取り合わせも妙なもので、年の暮れということも相俟って、異国で独りという寂寥感が身に染みた。
カトマンズに行こうと思い立ったのは、タメルという場所がバンコクのカオサンと同じように世界中のバックパッカーで賑わっていることを本で読んだからだ。ネパール人と異国のバックパッカーが交錯しながら食事をしたり、土産物を売ったり買ったりしている光景を思い描くと居ても立ってもいられなくなった。
夕刻にネパール空港に到着。ロッジのようなイミグレーションを通過し、外に出てタクシーを拾う。数十分走ったが、王宮の前で突然、エンストした。運転手に聞くと、何とガス欠らしい。彼は車外に出て、通りを見つめている。どうするのかと思って見ていると、やがて通りがかったタクシー仲間を捕まえてガソリンを分けてもらっていた。タメルに着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていたが、なるほど土産物やホテルや食堂が櫛比し、賑わっている。適当な安宿にバックパックを下ろし、街に出てみた。タメルはカトマンズにおいても異質な場所だと思う。ニューヨークがアメリカにとって特異な都市であると同じ意味で。外国人と牛と地元の人間で賑わっている往来をぶらぶらと歩いていると、小さなスーパーマーケットがあった。そこが気に入って、タメル滞在中は日課のように通った。外国人に混じって食料品を買っていると、不思議と心が安らいだ。多分、一人であっても一人じゃない距離感が好きだったからだろう。食堂では、よくモモ(水牛肉の餃子)とチョウメン(焼きそば)を食べた。席に着いてから最初のお茶が出てくるまで20分、最後の食事が出るまで一時間かかった。白人の客が「ネパールタイムだ」と言うと、他の客はあきらめのような、連帯感のような笑いを洩らした。
ひょんなことから、あるネパール人夫婦と意気投合し、彼らの知り合いの家へ招待されることになった。その家は日本大使館のすぐ側にあり、門扉から玄関まで歩いていくような、ネパールの生活水準からすれば充分すぎるほどの大豪邸だった。主人のチャンさんは台湾出身で、台湾の電化製品をネパールに輸入して成功した人だ。熱心な仏教徒でもあり、広い居間の一角にしつらえた祭壇へのお祈りは毎日かかさない。チャンさんは言う。「あなたが今日ここに来たのは、あなたが生前ネパール人だったからだ。今度ネパールに来た時はホテルに泊まらず、うちに泊まりなさい。いっそのこと、ネパール女性を紹介するから結婚してこっちに住んだらどうですか」。帰りは夫婦にタクシーでホテルの近くまで送ってもらった。食堂に入り、3人でチョウメンを食べた。縁って不思議だね。そう言って3人で笑った。ネパールに来てから三日目だった。
知り合いから知り合いに紹介され、滞在中は数珠つなぎに知人が増えていった。誰もが親切にしてくれた。ネパール人は日本人に似ているところがある。控えめで内気で、外国人に対しては親切にせざるをえない。それに加えて男たちは眉間のあたりに矜持といったものを漂わせていた。彼らの信仰する神のせいなのか、それとも貧しさによって自らを恃みにしなくてはならないからだろうか。勇猛果敢なネパール人はグルカ兵としてイギリスの傭兵になったこともある。僕は日本のサムライと彼らを重ねあわせることもしばしばだった。                 
たとえば、こういうことがあった。ジョッチェンの広場で少年たちにババ抜きを教えて遊んでいた。しばらくトランプをしていると、後ろから肩を叩かれ、知り合いの大人たちから「メシを食べに行こう」と誘われる。「すぐ戻ってくるから」と中座し、彼らとしゃべっているうちにトランプのことは忘れてしまっていた。あくる日、その広場に行くと、昨日の少年が近づいてきて、「忘れ物だよ」とトランプを差し出した。些細なことだが、アジアで未だこのような正直さに出会ったことはなかった。
帰国日、最後に広場に行ってみた。顔見知りの少年を見つけ、これから帰るからと告げる。何かを言おうと思ったが、適当な言葉が浮かばない。「ダンニャワード(さようなら)」と言って歩き出したが、写真を撮っておこうと思いついた。ついでに周りの連中も記念に写しておこう。「写真を撮るよー!」とあたりに声を掛けると、20人くらいが集まった。笑顔の彼らをファインダー越しに覗いていると涙が出そうになった。
タクシーを拾い、空港に向かう。しばらくすると今度はパンクした。車外に出ると、来た時と同じような満月だった。                                                                                                                                                                                                                             
NO44 ウタダ

at 2004 04/02 23:49 編集

I was out stumbling in the rain staring at your lips so red.
よろめき出ると、雨。なんて赤い、あなたの唇。
   
小生、過日久しぶりにテレヴィジョンを聴こうと思い、セカンド・アルバム「アヴェンチャー」を引っ張り出した 。一曲目の「Glory」。冒頭の詩はその一節。
語順に訳出し、体言止め。赤い唇のなまめかしと、雨の冷たさの対比が、いい。訳詞をしたのは岡田英明と、ある。岡田氏は、かつて「ミュージック・ライフ」誌上で、ピストルズの「プリティー・ヴェイカント」をWe are pretty oh so pretty
と繰り返し、そこでvacantと言葉の意味が逆転するのは痛快だ、という意味のことを書いていたが、彼はそこでprettyという単語を正しく理解していたのであり、なんじゃ、そらあたり前やんけと言う人もあるやもしれんが、事実はそうでは、ない。ピストルズは正式なスタジオ・アルバムは畢竟(ひっきょう)、一枚しか捻出していないにもかかわらず、ライブやデモテープやセッション、はてはインタビューなどのCDがそぞろ出ているのであって、もちろんその都度、訳者が違う。その中に、「オレ達は素敵だ」と訳し、その後に何の脈絡もないvacantと言う単語が来ているのに戸惑い、狼狽し、苦心した挙げ句、「だけどかなり抜けてるけどね」等と言う訳詞を恣意に捏造し糊塗しているのを何度も、読んだ。これはもちろん「乃公 (だいこう)等は全くの何もない、カラッケツのカラッポ」だと歌っているのであって、まだある、同じ曲の中に「0ut to lunch」(時流に遅れた)という文言があるが、これを「さっ、昼メシに行くぞ」とあって、小生、全く弱り果てる。プロレスラーの藤原喜明がカール・ゴッチに「大工はノミを磨き、石屋はハンマーを磨く。キミがレスラーなら体を鍛え、大切にしなさい」と言われ、爾来(じらい)、それを座右の銘にし、肉体の鍛練に努めたというが、もちろん、なにがしかの報酬を受けとっているのであれば、プロというのであって翻訳者も日本語と外国語の言葉を鋭意、磨かねばならぬ。
                                     
よくブルースやゴスペル、ジャズ、レゲエ等等という、所謂(いわゆる)、黒人音楽と称される楽曲をやっている我が朝の人が「私は黒人に生まれれば良かった。私はなぜ日本人であることか、私はなんと不幸なんだろう」と、おっしゃる人をたまさか見聞するが、小生、これを聞くと「ふざけんな大馬鹿野郎。プリンの角に頭を打って公民権運動前のアメリカ合州国南部かアフリカ西海岸の奴隷船の黒人にでも生まれ変わってきやがれ」と悪態をつきたくなるのであるが、もちろんアフリカ黒人にもインド黒人にもアメリカ黒人にもアメリカ白人にも中華人民共和国人民にも日本人にもスペイン人にもアイルランド人にもああめんどくせえア・ポステリオリに自分たちの生活、風習に基づいた文化というものがあり、宗教でいえばキリスト教とアフリカの呪術に高度低度の違いはないという考え方で、これを文化相対主義というのであるが、これが正しいのかどうかはひとまず置いといて、日本人が黒人の文化をそっくりそのままいただきって感じでサルマネしてもこのアホンダラそれが何になるの、って感じで。
 拙者が大学で英文学などというヤクザなものを専攻しておった頃。第ニ外国語という面妖なものを単位取得せねば卒業は罷(まか)り成らんとの仰せで仏語、独語、西語、支那語から取捨選択せねばならんということに相成った。英文学専攻の学生は仏語を選択するのが慣例、などと通達用紙に記載されておったのだがケッ、て感じで、結局僕は西語を選び勉学に刻苦精励することになった。理由は以前紐育はハーレムという地をぶらぶらと散策していた時、そのラテン・アメリカ人の多さとあらゆる表記に英語と西語が記されているのを目撃し驚いたからであるが、それはさておき、西語の先生は詩人のアレン・ギンズバーグに風貌がそっくりであったので僕は大いに怪しみ、この人はどこぞの人ぞ?と訝(いぶか)しがったのであるが日本人であることが判明し僕は安心立命した。何ぞ? 
その西語の授業中、僕はコンサイス英語辞典を机上に置いておったのであるが、先生は僕の席を通りがかるおり、ひょいとその辞書を手に取り、しげしげと、と見こう見されるのである。僕は西語の辞書を放擲(ほうてき)していたことに対し、叱責されるのかと鞠躬如(きっきゅうじょ)としておったのであるが、あに図らんや先生は「これはすごいですね」と目を細め、その辞書をためつすがめつされるのである。僕は仰天した。中学生から使用している辞書なので韋編三絶なのは当然といえば当然なのであるが、僕はそんなことに関心を示される先生に感銘した。さらに先生はこうも言われたのである。「私はこのような西語の辞書を三冊持ってます」と。僕はますます感銘を受けた。感動のあまり、「そのくらい辞書を活用しなければ語学は習得できないのでありますね」という意味のことを口走ったのであるが、「いや、まだまだです」と先生はおっしゃられるのである。先生の学問に対する真摯(しんし)な態度、一求道者たらんとする先生の孤高の精神に僕は尊敬の念を覚えたのである。
僕の寝室兼書斎には、あまたの辞書が参差(しんし)乱雑しておる。「リーダーズ英和辞典」「アメリカ俗語辞典」「アメリカ口語辞典」「アメリカ新語辞典」(これは図書館からガメてきたやつ)「最新和英口語辞典」「スピーキング英和辞典」「Give Get辞典」「The dictionary of Comtemporary SLANG」「英語図詳大辞典」「英和翻訳表現辞典」「最新英語情報辞典」「早見優ちゃんの英語にしてみたゲンダイ用語辞典」だってあるし「現代フランス語辞典」「現代スペイン語辞典」「広辞苑第三版」「新選漢和辞典」「新明解国語辞典」「イミダス」に「現代用語の基礎知識」だってある。三島由紀夫は「辞書は引くものではなく、読むもの」と言ったが、いかにも辞書は読んでもおもろい。はは。
僕は成人式のお祝いに市から国語辞典を頂戴したのであるが、僕と同年代(当たり前だ)の阿呆の餓鬼どもはその辞書を毫(ごう)も有り難く思わず、放擲していたに違いないことは想像に難くない。その頃、文学などに入れ込んでいた僕は意味不明の文言が出てくると逐一、辞書を引いて確認していたのである。そうして使用していた辞書は一年を俟(ま)たずしてボロボロに朽ち果てたのであるが、僕の日本語の語彙は飛躍的に伸びたのである。イエイ。
ともあれ、西語は三年間授業を受けたのだが、拙者、西語で覚えた文章は「私の父と母は西語を話すことができます」だけである。嗚呼、やんぬるかな。アディオス。
 
わが君にわけは恋ふらし
わがせの君は涙ぐましも

自分は過ぐる夏、マレーシアに旅した。わが朝のポップスは亜細亜市場を席巻している。街をうろついて聞こえてくるのは宇多田ヒカルだ。自分はクアラルンプールの「タワー・レコード」で宇多田のテープを邦貨、六百円で購った。そしてセレンバンという街を目指し、列車に乗った。その街に目的若しくは所用があったわけではなく、車窓から街並の風景、乃至市井人の生活というものを打ち眺めてみたかったのであり、それには日帰りで逆旅(げきりょ)に帰館できるセレンバンは都合がよかったのである。車窓からは、なるほど森林を伐採して作られた都市だと実感できるほど、熱帯多雨林が生い茂り、抜けるような蒼穹に入道雲が棚引いておる。春霞棚引く山を君が越えいなば。眩しい陽光の中で宇多田の湿ったリズム・アンド・ブルースの唱法は妙に合った。聴いているうちに、自分は不覚にも涙を流していた。    

 沢木耕太郎の「書物の漂流」というエッセイは、こういう書きだしで始まる。
「小説を読んでいて不覚にも涙を流しそうになったことがある。確かにそれが物語の中段とか終局においてというなら別に珍しいことではない。取り立てて口にするほどのことでもないだろう。その時、私は第一章の第一節の第一行目を読んでいたのだ。第一行目の活字を眼にした時、不意に胸が熱くなってしまった。驚いた。狼狽したといった方が正解かもしれない。_私は山本周五郎の『さぶ』を読んでいたのだ。」

シルクロードを西に向かって歩いていた沢木は日本人旅行者から一冊の文庫本を貰う。それが『さぶ』だった。彼はチャイハナでその本を読み始めるが、一ページ目が終わらないうちに、その先を読み進むことができなくなってしまう。
「いまとなれば、その時の動揺は山本周五郎の文体の力によってもたらされたものに違いない、と考えることができる。靄のようにけぶる小雨、両国橋という名の橋、さぶという名の若者、橋を渡るという感覚。一片の雲もなく、一滴の雨も降らない中近東の砂漠にいる私には、それらのすべてがひとつの世界を現前させる激しい喚起力を秘めていた。しかもその世界は、遠ざかりつつあり再び戻ることはできないのではないかと怖れていた土地の、鮮やかな象徴として現前したのである。」

何百日か後、戻れないのではないかと怖れていた日本に帰った彼は再び『さぶ』を手にするが、あの時の胸の熱さを経験することはなかった。
「しかし、」と彼はいう。
「文庫本の『さぶ』は、いまでもなお、シルクロードをゆっくりと往き来しているかもしれないのだ。そう思うと、ほんの僅(わず)かだが、胸が震える。」
自分は宇多田をバスの中で、逆旅のベッドの上で、繰り返し聴いた。聴くたびに日本のことを想った。それはアメリカン・スクールに通う彼女(当時)が、亜細亜の片隅にいる自分に日本人であることの認識を強いたからだ。

「マリリン・マンソンとはアメリカの闇が生み出した怪物だ」
(マリリン・マンソン)
ベルリンの壁崩壊以後、喧(かまびす)しくなってきた感があるが、人種、宗教、文化、言語に関係なく世界中の人々は融和して住むことができる、宇宙から地球を眺めてみれば国境線なぞなかった、僕達は地球号という一蓮托生の船に乗ってる地球人であるから争いはやめよう、ウイー・アー・ザ・ワールド、ウイー・アー・ザ・チルドレン、国境なんぞがあるから戦争、紛争が起きるのだ、反戦、平和、自由、平等、人権が人類にとっての普遍の真理であるから反権力、反国家、もう国民という言葉を使わず市民と言おう、これからは草の根運動だ、一個人が輝く時がきた、国籍を捨て、国際人になろう、等という輩(やから)がいる。妄言である。自分はかかる妄言を吐く人種を信じぬ。「イマジン」から「アナーキー・イン・ザ・U.K」、マリリン・マンソンまで、ロックの一部分は無政府主義を標榜し、国家の解体を宗(むね)としてきた。(ただし後年ジョニー・ロットンはアナーキズムなんて中産階級のマインド・ゲームだと言っていたが)国家が消滅すれば、より紛争及び戦争が勃発するということは自明の理であり、国家すなわち権力であるから他国を侵略する力を有するという民主主義やその漸進形態である共産主義の謂(いい)は笑止である。しかし、自分はイラクの空爆に賛成である。かかる非人道的な行為を看過できぬ。人権思想を持つ、アメリカやヨーロッパの民主主義国家が空爆を決議したのは当然だ。それならば、インドにはサティーという文化(culture)『人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住を初め技術、学問、芸術、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容とを含む』(広辞苑)がある。夫に死なれた未亡人は生きたまま焼かれるという文化だ。法律では禁止されたが田舎では今でも実施されている。全ての文化を等価値だとする文化相対主義者はサティーを容認できるか。そして民主主義者は人権、平等、女性差別撤廃の名においてサティーを絶対に容認できまい。この悪魔の所行を根絶するために民主主義国家はインドを空爆しなければならない。それができなければ、民主主義は恣意的な思想(イデオロギー)だと言われても仕方がない。アメリカよ、インドを空爆せよ。
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ロンドンコーリング
2007-08-30 | Weblog
NO42 ロンドン・コーリング

at 2004 03/19 22:25 編集

ある日、何気にNHKを観ていたら、普段はめったにNHKなんか観ないんですけどね。ロンドンのイースト・エンドの話をしてたんですよ。イースト・エンドは労働者の街でね、反対にウエスト・エンドは高級ブティックやレストランがある、おされな街なんですよね。ほら、ペット・ショップ・ボーイズの「ウエスト・エンド・ガールズ」って曲あったじゃないですか。あれはイースト・エンドに住む労働者階級の少年とウエスト・エンドの中産階級の少女の歌なんです。この時、あっ、イースト・エンドに行ってみたいって思ったんです。その時までヨーロッパには行ったことがなかったし、興味もなかったんですけど。それにロンドンといえば、僕にとってはパンクなんですよね。その時は1994年でした。ヒップ・ホップ、グランジ、ユーロ・ロックの時代です。カート・コヴァーンが自殺したのもその年だし。パンクなんてもう過去の遺物ですよ。でも、アメリカのパンクと言われるグランジの代表的バンドのリーダーがその年に亡くなったっていうのは、何だか象徴的ですね。ニューヨークで発祥したパンクがロンドンに渡って、十何年か後にその種子がシアトルでやっと発芽して全世界に広がったけど、一つの遺伝子が絶えた、みたいな。それでも、パンクスの一人や二人はヤンバルクイナやカブトガニみたいにひっそりと生息しているだろうと。天然記念物みたいに英国王室が保護してたりとか、そんなわけないか。それで、イースト・エンドとパンクスという学術的にも崇高な、ちょっと、ここは笑うとこじゃないですよ。まあ、淡い期待を抱いてですね、ロンドンに行ったわけです。
ロンドンってとこは、もう京都ですね。ヨーロッパ中から来た観光客がわんさかと歩いてて。僕もフランスなまりの英語でよく道を聞かれました。ヴィクトリア駅なんかに行くと、若者だけじゃなく、中高年の一人旅や夫婦パッカーがうろうろしていました。日本のリーマンのみなさんもね、パチンコを控えたり、「村さ来」に行くのを三回から一回に減らしたりしてね、こつこつと小金を貯めて旅に出たらいいんじゃないかと思いましたね。見聞も広がって、人生楽しくなるんじゃないかと。まあ、よけいなお世話ですね。それに街中の空気がね、すごく穏やかなんですよ。大都市にありがちなギスギスした感じがない。人も穏やかな顔をしてるし。道を尋ねても誰もが親切に教えてくれるんです。おじいさんやおばあさんなんかね、僕の腕をつかんで離さんばかりに教えてくれる。だけど、ハイド・パークを歩きながら思ったんです。ロンドンには住めないなあって。僕の眼には物凄く退屈な街に映ったんです。実際に住んでみたら違うんでしょうけど。
肝心のイースト・エンドですけど、オールドゲイト駅付近にあるとは知ってましたから、そこで降りて人に聞いたんですが、誰も知らないって言うんですよ。仕方なくうろうろと探していたら道に迷っちゃって。そのうち、まっ、いいかって気持ちになっちゃって。もう一つの目的のパンクス探訪ですけど、やっぱりいないんですね。キングズ・ロード、オックスフォード・ストリート、カーナビー・ストリート、ピカデリー・サーカス、スローン・ストリート、カムデン・ロック・マーケットと歩き回ったんですが、見つかりませんでした。それじゃあ、どうしようかなと思ってね、大英博物館を観て帰るのも何だかなあ~でしょ? それでふっと思ったのが、そうだ、ブリクストンに行ってみよう! と。ジャマイカ移民とかのコミュニティーができてて、貧しい区域なんですよ。もちろん犯罪も多いし。クラッシュの「ブリクストンの銃」には、白人が作ったレゲエの中では最高傑作だと思うんですけど、自分たちのパンクのルーツであるレゲエに対して、もし、その敬愛するジャマイカ人たちが暴動を起こしたら、我々は制圧する側に立つのかという葛藤が歌われています。泊まっていたホテルの人からも、ブリクストンに行くならカメラはしまっておきなさい、充分気をつけるのよ、なんて言われたんで何だか期待してしまって。朝一番に地下鉄に乗って行ってみたんですよ。そしたら、アパート、あっちではフラットですか、そこから出勤する白人が出てきて。あれっ? 白人も住んでるの? って思ってね。こっちはニューヨークのサウス・ブロンクスみたいなところを想像してましたから。一体、何を期待してるんでしょうね? 僕は。(つづく)
NO43 続ロンドン・コーリング

at 2004 03/26 23:30 編集

とにかくブリクストンはそんなに荒廃しているとは思えなかった。少なくともアジアのいくつかの都市よりは遥かにマシです。一度だけ黒人に声を掛けられて。素振りを見ると、ああ、こいつは金をせびろうとしてるなと思ったんで無視しましたけど。そういえば、これはブリクストンじゃなくて普通の通りなんですが、歩いていると、物乞いしてるのは若者なんですね。働かなくても失業保険で何とか食べていけるので、無気力な若者が増えているような気がします。物乞いをして断られると、ある若者が「この街はどいつもこいつもファッカーばかりだぜ」と歌っていましたが、ファッカーはお前の方だ、と言いたくなりますね。
その夜はホテルが密集しているアールズ・コートのドミトリーに泊まりました。ここらあたりは何故かオーストラリア人が多いそうなんですが、僕はドミトリーに泊まるのは初めてだったんです。他人がいる空間ではくつろげないんで、今まで泊まったことはなかったんですよ。部屋に入ると、僕のベッドにヒッピーくずれみたいなカップルが寝ている。しかもニューエイジ・ミュージックをかけながら、抱き合ってるんです。一応、「ここ、僕のベッドだけど」と言うと、薄目を開けて、「ああ、そう」なんて言う。まあ、どこのベッドに寝ようが関係ないんですけど。だけど、延々とニューエイジを聴いてるんで、頭がおかしくなりそうで外に飛び出しました。その時、夜のソーホーに行ったんですけどね、キッチュというか、フェイクというか。ブライアン・イーノが化粧していた頃の初期のロキシー・ミュージックみたいな感じなんですよね。あるいは、ジョン・フォックスが在籍していた頃のウルトラ・ヴォックスみたいな、ファーストでメンバーがビニールのジャケット着てて、ネオンが煌めいてるイカしたアルバム・ジャケットがあるんですけど、そんな雰囲気なんですよね。映画でいえば、「ロッキー・ホラー・ショー」とか、フレディー・マーキュリーのもっこりタイツとかを連想しちゃうんですね。えっ?よく分からない? 歩いてみれば分かりますよ。ゲイリー・ニューマンの幻想アンドロイドですから。もっと古い例で言えば、パリスのビッグ・タウン2061ですかねえ。ますますわけ分からんですか。えっと、あと年末だったんで、トラファルガー・スクエアのカウントダウンにも行ったんですけどね、なんだかんだ言っても、イギリスはヨーロッパの中心だと思ったのはね、僕の分かる限りでも、スペイン人、ドイツ人、スウェーデン人、イタリア人、ポーランド人、フランス人、スイス人、あとインド人と中国人と日本人がいたことですね。ええ、4時間その広場をうろついてましたから。12時になったら、そばにいる女性にキスしてもいいことになってるんですけど、無理やり迫ってビンタ張られた男もいました。いい思い出です。いいえ! 僕じゃないですよ。違いますって! 失敬だな、君は! ともかくもですねえ、一番感心したのは、ロンドン郊外を歩いていて、信号のない車道を渡ろうとした時ですよ。車がビュンビュン通ってるんですけど、車道の一歩手前まで来たとたん、左右の車が一斉にピタッと停まりましたからねえ。大阪人、少しは見習って欲しいですねえ、正味の話。
だけど、パンクスに会いたいなんてのは今から考えると、まるで日本に来た外国人がサムライが見たいと言うのと同じ感覚ですね。ジミー・ペイジが来日公演で成田に降りたとたん、「サムライはどこだ?」って聞いたのを笑えません。次にロンドンに行く時は、羽織袴に雪駄を履いて行こうと思ってます。
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NO41 続々ロサンゼルス編
2007-08-30 | Weblog

at 2004 03/04 00:14 編集

目を覚まし、海辺に面した部屋のカーテンを引く。陽はすでに高い。白い波頭の間にサーファーたちが見え隠れする。今日も暑くなりそうだ。ロサンゼルスには四種類の人間しかいない。ハリウッドスターと観光客とメキシカンとホームレスだ。モールに入ってみると何だか気が滅入る。モールってやつは世界中どこでもそうなんだろうが、画一的で面白味に欠ける。オープンシステムになっているファーストフード・レストランは家族連れで一杯だ。誰もがハンバーガーかピザかフライドチキンを頬張っている。なんだかなあ~。ロサンゼルスに滞在して分かったことがある。その壱、食事をハンバーガーとコーラなんかで済ませる人が結構多い。それゆえ、デブはハンパじゃなくデブだ。デブの中のデブ、デビーだ。人間というよりは肉の塊、ミートだ。その弐、タトゥーをしている人が多いが、やつらはそれを見せびらかすために常にノースリーブのTシャツだ。ごくろうさんだ。ためになった。これだけアメリカを学んだら充分だ。今晩荷物をまとめて日本に帰ろう。
「メキシコに行かない?」朝食後、ジョイスが言った。「え”?メキシコに行けるの?」「もちろん、行けるわよ。アメリカからメキシコにはフリーパス。帰るときはIDがいるけど」
メキシコといえばテキーラにサボテンにタコスしか思い浮かばんが、なんだかムーチョなところに違いあるまい。
「行く、行く、連れてって。これからすぐに旅立ちましょう。早く支度して、急いで急いで」「くっ、苦しい~。そんなに揺さぶらないで。てっ、手を離してちょうだい。年寄りを殺すと天国に行けないわよっ!」
というわけで、我々はバスを乗り継ぎ、トラムに乗り、何時間もかけて国境のチフアナに到着した。国境越えするにはらせん状の歩道を歩かなければならないが、そこにはすでに幼子を抱えた母親が何人か物乞いをしていた。目の前の丘にはトタン屋根の粗末な家が斜面にも隙間なく建っている。いきなり劇的に景色が変わった。その参、アメリカとメキシコの国境は世界一残酷な国境だ。「GODを求める人たちがアメリカに行き、GOLDを求める人たちがメキシコに行った。たった一字の違いだが、それが現在の貧富の差となった」という石川 好の本で読んだ言葉を思い出した。もちろん、そんな単純なことではなく、ピルグリム・ファーザーたちも崇高な目的ばかりじゃなかったらしいけど。街を歩くと、その身なりで地元の人間と観光客がはっきりと分かる。前を歩いていたフリルの付いた服を着たアメリカ人少女と、裸足でぼろぼろの服を纏った同じ位の年嵩のメキシコ人少女が偶然にもツーショットになった。「しめた、これを撮ればピュリッツァー賞、間違いなし」とカメラを探しているうちにどこかに行ってしまった。あ”あ”、おれって!
「人生はお金がすべてではないけれど、無いと不便。あったほうが便利だなあ」(相田みつを)
みつを、なに当たり前のことをもっともらしく言ってんだあ! おいちゃんはなあ、ホントはこんなこと言いたくなかったんやけど、最後に言わしちくれ、「ロスに来たのは、とんだ時間のロスだったあああぁぁぁぁ~~っ..................................................................................................。」

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2004年一月に発表した海外旅行記
2007-08-29 | Weblog
NO36 NYホテル編

at 2004 01/30 21:59 編集

デトロイト空港着。国内線のニューヨーク行きの便に乗り換えるため、入国審査の列に並ぶ。長い列はそれでも徐々に何事もなく捌かれていき、やっと私の順番になった。しかし、私の入国カードを見たウーピー・ゴールドバーグ似の審査官の目がキラリと光った(ように見えた)。ウーピーは失礼にも私を無遠慮に眺め回し、質問してきた。 「旅行は一人で?」「アメリカは初めて?」「ニューヨークを選んだ理由は?」 私は「○○の買い付けに」と答えてやろうかと思ったが、むずむずする口を押さえた。冗談でもそんなこと言ったら、奥の部屋に連れていかれかねん勢いだ。あげくの果てに日本人スッチーまで呼びつけて何か尋ねている。周りの乗客は私を不審そうに見ている。あの男、テロリストじゃないかしら、まー恐いわね、そういえば見るからに怪しそうよ、なんて思われたに違いない。恥ずかしいじゃねえか。もう乗ってやらねえぞ、ノー○・ウエ○○! あっ、航空会社は関係なかったか。そこで解放されたけど、個人ツーリストは私だけだったかららしい。ほんとに、もー、いいかげんにしなさいっ! なんてことをわーわー言うてるうちに飛行機はクイーンズにあるラ・ガーディア空港に無事到着いたしました(落語家口調)。
 空港からケアリーバスに乗り、ポート・オーソリティへ。地下鉄でペン・ステーションまで行き、歩いてホテルに向かう。予約はしてなかったが、チェルシー・ホテルに泊まろうと思っていた。チェルシーは昔から作家やアーティストが根城にしてきたホテルだ。古くはO・ヘンリー、ディラン・トマス、トーマス・ウルフ、アーサー・ミラー等、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、ジェファーソン・エアプレインも常連だった。パティ・スミスと写真家のロバート・メイプルソープも同棲していたし、シド・ヴィシャスが恋人のナンシーを刺殺して逮捕されたのもここだ。とにかく、そんなこんなでようやくたどり着いたホテルのフロントは言った。 「満室です」 があ~ん! こんな夜中からホテル探しか~い。チェルシーの向かいには YMCA があったが、汚くて暗くて不気味なオーラを発している。こんな所に泊まったらモーホー野郎に犯されそうだ。う~ん、こんな時は繁華街に行けばなんとかなるだろう。東京だったら歌舞伎町、ニューヨークだったらタイムズ・スクエアだっ! てなわけでタクシーをとばし、安そうなホテルを片っ端から当たったがぜ~んぶ満室だ。うえ~ん、わしはトルコで猿岩石を探す室井滋かい(ふるっ!)。アジアだったらこんな苦労はせんでもいいのに。と裏通りを歩いているとびっくりした。シャッターを降ろした店先で白人女性が寝袋にくるまって一人で寝ているのだ。まあ、ここは人通りが少ないから安心かもね。ってそんな問題ちゃうやろっ! あんたもホテルが見つからんかったんかい。けど、ここはニューヨークのど真ん中やぞ。こんな所で寝てたらレイプされるぞ、ねーちゃん! (後にも先にもあんな大胆なバックパッカーを私は見たことがありまへん)
 それから2時間後、「NEWYORK INN」というきったねえ連れ込み旅館のようなホテルを見つけた。フロントのパキスタン人は「空室はあるよ」と言う。やれやれだ。でも値段を聞くと、「一晩100ドルだよ」。何でこんなホテルが100ドルもすんねん、足元見やがって。ボったくってんじゃねえぞ。 「年末料金でね。ボスの命令なんだ。さからったら首だよ。ほら、その証拠に」とパキスタンは宿泊リストを見せる。みんな確かに100ドル払っている。一応部屋を見せてもらい、一晩だけ泊まることにした。だけど、隣の部屋の奴らは騒いでいて声が筒抜けだし、床にはゴキブリも走っている。私は思わずトム・ハンクス主演の「ビッグ」という映画を思い出したね。主人公の少年はあることがきっかけで体だけ大人に成長してしまう。元の体に戻るためにニューヨークに一人で行くのだが、初めて泊まったホテルは汚くて物騒な所だ。部屋の外からは喧嘩の怒鳴り声が聞こえてくる。彼は恐くて心細くてベッドで身をよじりながら、めそめそと泣き出してしまうのだ(もちろん大人の姿のままで)。あの時に撮影で使ったホテルはここじゃねえのか、と思ったね。それでも野宿するよりはマシだけど。
 翌朝、ふん、こんなボロっちいわりにバカ高いホテルなんか二度と泊まるかよ、あたしを見くびるんじゃないよ、とばかりに憤然とチェックアウトし、ミッドタウンで宿探しをした。20軒近く当たったが、なんと一軒もなし。ぜ~んぶ断られた。仕方なく昨日のホテルに戻る。フロントにはまたパキスタン。 
 「まいっちゃったなあ。ニューヨーク中のホテルを探したけど、ぜんぶ満室だって」(ちょっとバツが悪い) 「今日は空室はあるかなあ~?」(低姿勢) 「どうかな、今調べてみるよ」とパキスタンはパソコンでチェック。思わず、「Have a heart(おねげえしますだ)」と泣きつく(情けねえ)。「もちろん僕はビッグなハートを持ってるさ」となぜかにやりと笑う。「え~っと、空いてるよ。一晩116ドル」 ぎえ~っ! 昨日より高くなっとるがな! 「今日は大晦日だからね。ボスが......」 「あー、分かった、分かった」
 結局、ニューヨーク滞在中はずっとそのホテルに泊まるはめになった。んでもって今回の教訓。「ニューヨークに行く時はなるべくホテルを予約してから行こう」(って、当たり前すぎて突っ込む気にもなれんわ!)     
NO35 NY地下鉄編

at 2004 01/23 21:36 編集

 地下鉄は楽しい。メタリックでアーバンである地下鉄は輸送手段に徹していて媚びないところがクールでもある。私は地下鉄が大好きだ。地下鉄のある都市に行けば必ず乗る。用がなくてもとにかく乗る。今までいろいろな国で乗った。香港ではなぜか下駄履きで乗った。肩を叩かれたので振り向くと、若い男が私の下半身を無言で指差している。見るとズボンのジッパーが全開していて恥ずかしい思いをした。ソウルではおじいさんに声を掛けられた。私が日本人だと分かると日本語で身の上話を始め、それが延々と続いて閉口した(今思い出したけど、何で地下鉄の便所内にコンドームの販売機があるとですか?)。ロンドンのチューブでは騒いでいるガキに注意したら、「asshole !」と言われた。ロサンゼルスの地下鉄には改札がない。無賃乗車していたら、たまたま検札に遭い、必死で英語の分からないふりをした。このように輝かしき栄光の地下鉄人生の王道を歩んできた私のことを、地下鉄の達人と呼んでくれても一向に差し支えない。そして世界中の地下鉄の中で唯一24時間運行なのがニューヨークである。いわば、地下鉄の中の地下鉄、キング・オブ・地下鉄といってよいだろう。地下鉄を制するものは世界を制す(ホントか?)。
 ニューヨークの地下鉄は何といっても殺伐としているところに趣がある。ホームには電話が何台も架設されている。これらは犯罪時の緊急用だろう。便所は犯罪防止のためにその多くが閉鎖されている。タイムズ・スクエアの駅なんかムッとアンモニアの臭いが鼻を突く場所もある。我慢できずに立ちションしている輩がいるらしい。車両は落書きされても消すことのできるニュータイプが日本から輸入され、名物だったジャクソン・ポロックのようなアクション・ペインティングは見ることができなくなったので残念だ。ニューヨークは人種のるつぼ(メルティング・ポット)ではなく、人種のサラダボウルだと言われて久しいが、ダウンタウンからアップタウン行きの地下鉄に乗ってみるとそれがよく分かる。ウォール・ストリートでは白人が多く、チャイナタウンのあるキャナル・ストリートに停まると中国系がどっと乗り込んでくる。ミッドタウンになると再び白人が多くなり、ハーレムに入ると黒人が多くなる。各人種が融合しているわけではなく、中国人街、韓国人街、イタリア人街、インド人街、ギリシャ人街等と住み分けができているのだ。そういえば夜、間違えて急行に乗ってしまい、慌てて降りた所がサウス・ブロンクスのサイプレスという駅だった。ホームには誰もいない。乗り換えるために地上に出ると、周りにあるビルというビルが焼けただれていた。あん時はビビったな。何しろ、火災保険をせしめるために放火する奴がいるらしいのだ。興味ある方は落合信彦の「アメリカの狂気と悲劇」をお読み下さい。 
 地下鉄は24時間営業とはいっても、夜の9時過ぎてから乗る人はめったにいまい。日中でも路線によってはホームに人がいなくなる駅もある。ホームには「Off Hour Waiting Area」が設けられていて、ラッシュ時以外はそこで電車を待つ。何てことはないのだが、ホームの中ほどにあって、乗客もそこに集まるから少しは安全だ。夜になると警官が乗車してくるので、乗客は彼等の乗っている車両に乗る。駅で乗客のほとんどが降りてしまい、警官もおらず2、3人だけが車両に残っている場合なんかとても緊張する。そんな時に限って、向かいに座っている男がじっとこちらを見つめているような気がする。私はおもむろにポケットからガムを取り出し、それをくちゃくちゃと噛みながら、俺は生っ粋のニューヨーカーなんだぜというポーズをとる。ついでに指の関節をポキポキと鳴らし、俺はカラテのブラックベルトだぜ、俺のパンチはピストルの弾丸より早いぜと威嚇(のつもり)をする。時おり軽くシャドーをしながら、最近ケンカしてねえなあ、体がうずいてしょうがねえぜという雰囲気を目一杯表現する。そいつが次の駅で降りてしまうと、どっと疲れる。我ながらバカみたいだ。もう何年も前のことになるけど、ある雑誌が地下鉄内で身の危険を感じた時の対処策は? というアンケートをニューヨークに住む女性にしたことがある。第一位は「鼻クソをほじって、アホのふりをする」(藤山寛美?)だった。これは効果があるかもしれん。
 犯罪が多発する地下鉄ではあるが、面白いのは何といっても乗客を観察することと、ストリートミュージシャンだ。ロック、ジャズ、ポップス、ダンス、毎日いろいろなパフォーマンスが楽しめる。黄昏どきに構内のどこからかサックスの音が聞こえてくると、ニューヨークだなあと思う。ある時、黒人女性が改札の前に座ってボンゴを叩き始めた。人が徐々に集まってくる。興が乗り、観客の黒人女性が手をひらひらさせて踊り、ヒスパニックの女が腰をくねらせて踊る。他の者はリズムを取り、手拍子をする。30分もの熱演が終わると、いっせいに拍手が起きた。駆け寄って抱きつく人もいた。そのあと電車に乗っていたら、黒人の男が乗り込んできた。小さな紙切れを口に当て、息を吹きかけて音を出している。メロディーはバットマンのテーマだ。でも、誰も「またか」というような顔をして見ようともしない。続いてコメディアンの物真似を披露したが...................し~ん。ううっ、寒い。寒すぎる。おひねりをもらおうと通路を回るが、もちろん無視されていた。思わず、「あほんだらっ! お客さまからゼニをいただこうと思うんやったら、芸を磨かんかいっ!」と桂春団次風に心の中で罵倒する私でした。
 地下鉄はどこまで行っても、何回乗り換えても同一料金だ。改札はトークンを入れ、ターンスタイルという金属のバーを押して入場する。そういえば、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク物語」というアルバムは原題が「Turnstiles」だったな。ある日、いつものように地下鉄に乗ろうと、トークン売場に1ドルを出した。窓口のおばちゃんは「15セント足りないよ」と言う。なにいっ、市の職員までがボる気かっ、さすがニューヨークだ、とわけの分からん感心をして身構えると、おばちゃんは無言で背後の壁を指差した。壁に貼ってあるポスターには「地下鉄料金、本日から値上げ。1.15ドル」と書いてあった。   
NO34 NYバスターミナル編

at 2004 01/15 22:22 編集

8番街から9番街の1ブロック、40丁目から42丁目の2ブロックにまたがる巨大なバスターミナルがポート・オーソリティ・バスターミナルです。グランド・セントラル駅(映画「ハルマゲドン」では隕石の破片が直撃して壊滅しました)とペンシルバニア・ステーションという二大鉄道駅にここを加えれば、ニューヨークの三大ターミナルになります。ターミナルといえばホームレスのたまり場になりやすいので御多分に漏れずこれらもそうなのですが、前者の鉄道駅はチケットのない者の待合室への入場を禁じているせいもあって比較的清潔で安全です。しかし、ポート・オーソリティは場所からして周辺に老朽したビルが多く、地元では「地獄の台所」と呼ばれており、治安もあんまり良くありません。そしてホームレスはフリーパス。必然的にこの駅はホームレスの憩いの場アーンド生活の場となっています。一歩足を踏み入れてみれば、まあ、すごいですねえ。「F×××」を連発して、何かに怒りながら歩いている人がいるかと思えば、必需品を一切合切ショッピングバッグに詰め込んで生活しているショッピングバッグ・レディと呼ばれる老婆が座りながら小便を垂れ流しています。窓口でチケットを買えば、ホームレスが「釣りをくれ」と寄って来ます。しつこいようなら無言で睨んでやりましょう。階段には寝ている人がよくいるので、歩きづらいですが踏んづけないように注意しましょう。トイレの洗面台で真っ裸になって体を洗っている人もいます。彼がホモの場合もあるので気をつけましょう。とろんとした目で座り込んでいる人はヤク中なので目を合わせてはいけません。お金をせびられます。夜になると待合室で待っているだけでお金をせびられます。昼間でもボーッと立っているだけでせびられます。ほな、どないせいっちゅうねん、とおっしゃる方もいるでしょう。コツはさっさっと早足で歩き、せびられたら無視することです。英語が分からないふりをするのもいいでしょう。カラテの型をやるのもいいかもしれません。それでもしつこいようなら、相手はどう猛といえども人間です。脅えた態度を取ってはなりません。じっと目を見つめて(これが肝要です)25セントを渡して素早く逃げましょう。それにしても日本のホームレスはおとなしいのに、何でインドやアメリカはあんなに戦闘的なんでしょう?まだまだ日本はホームレスといえども裕福だということなんでしょうか。1階のバスの待合室には「今夜泊まる場所のない人はここに来て下さい」というプレートがあり、住所が書いてあります。マンハッタンにはシェルターと呼ばれるホームレスのための宿泊施設がたくさんあります。そこではベッドがあり、簡単な食事も給されるのですが、いかんせん喧嘩や盗難(靴とかが多いようです)が多発するので敬遠する人もいます。そんな人はこの待合室で寝るのでしょう。
 私はここに来ると、いつも天王寺駅を思い出します。現在は都市開発計画で天王寺駅もその界隈もずいぶ
んときれいでおされになりましたが、一昔前はもっとホームレスが多く、殺伐としていました。自分でもよく分かりませんが、ニューヨークに来るたびに私はポート・オーソリティに足を向けてしまいます。何をするでもなく、ただターミナル内を歩き回るだけですが。
 もし、神さまに名前があるのなら、どんな名前なんだろう
 俺たちは神さまに向かって、その名前を呼ぶんだろうか
 神さまとその栄光を目の前にして何を尋ねる?
 もし一つだけ尋ねるとしたら?
 
 ああ、神さまは貴い
 ああ、神さまは良きもの
 もし、神さまが俺たちのうちの一人だとしたら?
 俺たちのうちの薄汚いやつだとしたら?
 家に帰るバスの中の見知らぬやつだとしたら? 
 もし、神さまに顔があるとしたら、どんな顔なんだろう
 見てみたいと思うかい?
 もし見ることが信じることと同じだとしたら?
 天国やイエスさまや聖者やぜんぶの予言者たちを
 ひとり天国へと帰ってゆく
 電話をかけてくれるのはローマかどこかの法皇だけだ
 
 聖なる転がる石のように
 ひとり天国へと帰ってゆく
 家に帰る途中みたいに
 電話をかけてくれるのはローマかどこかの法皇だけだ
 「One of us」ジョーン・オズボーン (1995年「RELISH」収録 ドリアン長野 訳) 
NO33 NYタイムズ・スクエア編

at 2004 01/09 00:47 編集

1989年12月31日午後10時。タイムズ・スクエア。気温マイナス2度。ぽつぽつと降っていた雨はついにどしゃ降りになった。歯の根が合わないほど寒い。それでも何千人といる群集は誰一人として帰ろうとはしない。私もたぶん、彼等と同じ気持ちだった。それは2000年へと続くデケイド(10年間)の幕開けを世界一の都市で祝ったという記憶を自分の中に刻みつけておきたいから。彼等は家に帰って言うだろう。「90年の始まりにはあそこにいた。みんなとハッピー・ニュー・イヤーを言ったんだ」。 私は夜の8時から待っているが、12時までは途方もなく長い時間に思えた。混雑を緩和するためにあちこちに「Police Line」と書かれた遮蔽板が置かれている。警官の目を盗んで一人の男が、さっと板の下をくぐり抜けて走り去った。近くにいた警官に誰かが叫ぶ。「Shoot him!(射殺しろ)」 周りがどっと笑う。ここでの模様は全米で生中継されるのでテレビカメラにパンされた群集はとにかく騒ぐ。叫ぶ、踊る、手を叩く、こぶしを突き上げる、街角で黒人が1ドルで売っていた紙笛を吹き鳴らす。私といえば、寒さと疲労に耐えながらひたすら待つ。
 11時59分。カウントダウンの斉唱が始まるとSONYの広告の下に取り付けられた電球の塊がゆっくりと降りてくる。下がりきったら1990年だ。ウエルカム・トゥー・ナインティーズ!  
 見知らぬ者同士がハッピー・ニュー・イヤーを言い合い、抱き合う。雨の中、群集がブロードウエイを行進する。この光景はデジャビュだ。どこだったろうと考えていたら、ウオーレン・ビーティ監督、主演、脚本の映画「レッズ」でロシア革命前夜に人々がインターナショナルを歌いながら街を行進する場面だった。今日の夜はニュージャージーに住む友人のアパートに泊めてもらうことになっている。あちこちが通行止めになっているので迂回していると道に迷ってしまった。バス・ターミナルの場所が分からないので雨宿りしながら地図を拡げて見ていると、二人連れの黒人が「どこに行きたいんだ?」と声を掛けてきた。「ポート・オーソリティー・バスターミナル」と答えると、「ついて来いよ」と手招きする。 
 新年に浮かれる人々の喧噪の中、彼等を見失わないようについて行く。20分ほど歩いた。ミッドタウン・ウエストにあるこの24時間運行の巨大なバスターミナルは常に通勤者で賑わっているが、今日の賑わいは特別だ。案内してきた男が言う。「チップをくれ」 1ドル紙幣を出し、渡そうとするが受け取らない。少なすぎたかと思い、「2ドルでは?」と言ってみる。すると、「冗談じゃないぜ。俺たちは長い道を案内してやったんだ。フェアじゃねえ。もっと出せ」とすごんできた。無視して歩き出すと、「聞こえないのか? もっと出せと言ってるだろう」と喚きながらついてくる。「警官を呼ぶぞ」と睨みつけると渋々2ドルを受け取り、やっと退散した。バス乗り場に行くと、また黒人が寄って来て、「どこに行くんだ? チケットは持ってるのか?」と親切(?)にも聞いてきた。彼はチケット売り場まで案内してくれ、言った。「ギミー・ダラー」 ああ、アメリカがチップ社会だというのは本当だ。Money talks in America.(アメリカでは金が物を言う)彼に1ドル渡す。バスを待っていると、日本人女性が二人やって来たので話しかける。二人は姉妹でお姉さんがニュージャージーに住んでいるという。妹が日本から姉に会いに来て、今日はミュージカル観劇の帰りだそうだ。「ブロードウエイのニューイヤーズの騒ぎが恐くて.....」とアメリカに来るのが初めての彼女は気の毒なくらい蒼ざめていた。
 「目的地に来たら知らせてください」と運転手に住所を告げ、座席に座る。バスが出発してからしばらくして奇妙なことに気がついた。奇妙なことといっても、私が日本人だから少しばかりそれを感じるだけのことだ。バスが停留所に着き、乗客が下車する際に、ほとんどの人が他の乗客の方を向き、「ハッピー・ニュー・イヤー」と言ってから降りていくのだ。「これもアメリカだな」私は心の中でつぶやき、自分がアメリカに来たことを初めて実感していた。 
NO32 インド編その8

at 2004 01/01 23:07 編集

早朝、カルカッタのハウラー駅に着く。フーグリー河に架かる巨大な鉄橋、ハウラー橋は通勤する人で丸の内のようにごった返している。喧噪の中、澱んだ河を見ながら私は一人、物思いに沈む。 「今日でインドともお別れだ。長かったようで短かった一週間。物売りや物乞いに辟易し、下痢や発熱に悩まされた一週間。騙されたりもしたけど、親切な人にも出会った。うるさいが、頼もしくもある子供たち。チャイ屋の売り声、灼熱の大地、道端で死んだように眠りこけている犬、漆黒の暗闇、ベナレスの炎、死体、サドゥー、カーリー女神に捧げられるために首をはねられる山羊」 様々な光景が次々に浮かんでは消える。けれどもインドよ、今日でおさらばすると思うと........、あ~嬉しいわいっ! とっとと日本に帰るぞ。帰って風呂に入ってうまいもん食ってゆっくり寝て下痢を直すぞ。こんな国、二度と来るもんかいっ。一刻も早く空港に行って飛行機に乗って文明国に帰るんじゃい。帰るったら、帰るんだ~い!
 帰りの飛行機で同年代の男と隣り合わせになった。どちらからともなく話しかけ、彼はパリでアパートを借りて住んでいたことやアジアのいろんな国を旅した話をしてくれた。私が海外旅行は初めてだと言うと、彼はこう言った。 「それならあなたはこれから何度も旅に出るでしょうね。一人で旅をする快感を覚えたら、それはやみつきになりますよ。僕がそうでしたから」 私はそうはならないだろうと確信していた。こんな苦しい旅なんか二度とごめんだ。
 成田空港に着くと私は激しい違和感を感じた。その違和感は日常生活の中でも長い間続いた。日本はなんでこんなに清潔で日本人はなんで異常なほど清潔好きなんだ? 日本人はなんで大したことでもないことをいちいち気にするんだ?(インド人は何があっても二言目には「ノー・プロブレム」って言うじゃないか) なんで商品には全て値段がついてる? なんでどこに行っても自動販売機があるんだ? なんでみんな、自分のことをすぐに不幸でビンボーだなんて言うんだあ? おまけにふと、インドの子供たちや大人たちの姿がちらついてきたりする。 
 「カルカッタは好きな街だよ」 仲良くなったホテルのボーイにこう言うと、彼は言ったっけ。「一週間の滞在では何も分からないよ」 そりゃ、そうだ。けれども分かったこともいっぱいあったぞ。旅が短いか長いかなんてのはあまり重要ではないと思う。果たして私は自分を変えることが出来たんであろうか? それは本人にはよく分からんが、インドで学んできたと胸を張って言えることなら、一つある。駅のトイレに入って、紙がなくてもちっとも慌てなくなった。どんなトイレでもバッチ来いって感じ。私にはインドで習得した、この黄金の左手がある。紙で処理するなんて、なんて不潔で野蛮ざましょ。あら、あたしも気づかないうちにインドかぶれかしら。オ~ッホッホッ。ちなみに帰国してから軟便が三か月続いたざます。(インド編終わり)

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#3

2024-04-07 | 日記
2003年12月に発表した海外旅行記
2007-08-29 | Weblog

NO31 インド編その7

at 2003 12/25 22:04 編集

ベナレスで知り合った人が泊まっているホテルに荷物を置かせてもらっていたので、急いで引き取りに行く。町中でリキシャーに乗り、町外れまで行き、そこからオートリキシャーを雇ったのだが、運転手が飛ばすこと、飛ばすこと。急いでくれるのはありがたいのだが乗っている方は気が気ではない。人波を巧みにかわし、F1レーサーのように車を追い抜き、対向する牛の横をするりと通り抜ける。まったく、生きた心地がしなかったよ、あたしゃ(ここだけちびまるこちゃんの声で読んでね)。
 やっと駅に着いてやれやれと思っていたら、駐車しようとする寸前に横から二人乗りの自転車が突っ込んできた。私は後ろの座席であるはずのないブレーキを思いっきり踏んだが、やっぱりぶつかった。自転車は派手に横転したが、男たちに大したケガはなかったらしく、起き上がると猛然と食って掛かってきた。それに運転手が応戦する。回りには野次馬が集まってきた。こういう場合、インド人は激しく罵り合っても手は出さない
(警官が民衆を警棒でどついている光景は時々見る)。インド人と中国人は似ているような気がする。どちらの国も人口が多いので自分を主張しないとやっていけない。謙譲の美徳なんて言っていたらバスにも乗れないし、列車のチケットも買えないのだ。そんな生存競争が激しい国では自然と気性が荒くなるのか、しょっちゅう言い争いをしている。そうやってケンカになるとわらわらと人が集まってきて見物を始める。誰も仲裁はしない。大学の時の先生が言っていた。中国からの留学生が日本に来て不思議に思うのは、街を歩いていても電車に乗っていても日本人がとても穏やかでケンカをしないことなのだそうだ。インド人だってそう思っているのに違いない。しかし、私に言わせればケンカばっかりしているあんたたちの方がよっぽっど不思議だぞ。とにかく座席にリキシャー代を置いて、ケンカをしている二人を尻目に駅へと急ぐ。
 プラットホームには日本人の団体客がいた。五才くらいの女の子が彼等に「バクシーシ」と手を出す。そこにいた若者たちがこう言っていた。「お金ないんだよ。ノー・マネー。わかる?」 「逆にこっちから『バクシーシ』って言ってみればいいんじゃないの」 「そうか、ほら、バクシーシ」 日本人に手を出された女の子はきょとんとしていた。むき~っ! 今でもこの光景を思い出すと腹が立つ。その子は好きで物乞いしてんじゃねーよ。貧しくて働きたくても働けねーから仕方なくやってんじゃねーか。そうやってインドまで遊びに来ている金持ちの日本人(私もだけどよ)がいたいけな子供をからかうんじゃねーよ。金をやるつもりがないんなら、断るか無視すればすむことだろーが、あほんだらっ! と憤慨していると一人の少年が私にお金を乞い始めた。歩き出してもしつこくついて来て、私の靴に額をこすりつけてくる。とうとう根負けして某かのお金を与えた。するとその少年は仲間のところへ戻り、ひそひそと話をしていたかと思うと五、六人がこちらに突進してきた。あわてて逃げ出す。そういえば列車が駅に着き、乗客が降りると子供たちが一斉に乗り込んできた。何をするんだと見ていると、ゴミ箱や座席の下からペットボトルを拾い集めている。そして構内にある水道の蛇口からペットボトルに水を入れてキャップを閉めているのだ。誰に売りつけるんや~? と考えるとはたと思いつくことがあった。中級のホテルに泊まっていて、ミネラルウオーターを頼んだ。ボーイが持って来たボトルには明らかに水が7分目ほどしか入っていない。もちろんキャップは開けた跡がある。こいつの中身は駅の水道水やないかいっ?! 責任者、出てこいっ!(by 人生幸朗師匠)
 こういう風にインドのガキどもは毎日を逞しく生きてゆくのであった。幼少のみぎりから鍛えられているんで、斯くの如く冷酷で抜け目のないインド商人に成長していくのもむべなるかな。合掌。(つづく)
    
NO30 インド編その6

at 2003 12/19 00:32 編集

ベナレス、ベナレス、モスクワの味~って、そりゃパルナスやろがっ! (ベタですまん。しかも関西限定ギャグ)
 ベナレスは英語名のBENARES(ベナリーズ)の日本語読みであり、正式名はバーラナシーだ。現地ではバナラスともいう。ああややこしい。早朝6時にムガール・サライ駅に到着。オートリキシャー(小型オート三輪のタクシー)を拾い、ベナレスヘ。両側に花屋や食堂やゲストハウスやお香や聖水入れを売っている店等がぎっしりと並んでいる狭い路地を下っていくと(曲り角で牛と鉢合わせて角で突かれたりするから気をつけろよって、誰に言ってんだ)、いきなり視界が開けた。聖なるガンガー(ガンジス河)は思ったより広大でダージリンティーのように濁っている。ガート(沐浴場)では老若男女が口をゆすぎ、祈り、体を浄める。神様の乗り物とされる牛も水浴びをし、時おり排泄物も流れる。バラモンは説教をし、サドゥー(ヒンズー教の修行者)は瞑想する。おお、三島由紀夫の「暁の寺」で読んだ、あのベナレスに私はいるのだ。焼けつくような太陽の下、雄大なガンガーに無数のきらめくサリーと半裸の男たち。人々のざわめきと祈り。聞こえてくる讃歌。ガンガーで沐浴せば全ての罪は浄められん。無辜となった亡骸を荼毘に付し、ガンガーに流せば輪廻からの解脱を得ん。ああ、悠久の聖なるガンガーよおっ! 「バクシーシ、バクシーシ、ジー」と肩を叩かれたので振り向くと、乞食が列を作って並んでいる。「バクシーシ!」 ああ、うるさいっ。声を揃えるんじゃないよ。ゆっくりと思索にふける間もないな。そうだ、ボートに乗ろう。交渉して値切り倒し、1時間50ルピーで回ってもらうことに。ボートを漕ぎ出して川中からガートを眺める。いろいろなガートがあるが、中でも大きなガートは何かもう、ひっちゃかめっちゃかに様々なものが混じり合ってこの世のものとは思われない光景だ。
 いくら聖なる河だといっても、川底に人骨がごろごろ転がっていてたまに死体が浮いていて赤痢菌がうじゃうじゃしているような汚い河の水を飲んで下痢をするインド人だっているだろう。死んじゃう人だっているかも。いや、信仰という気合いが入った精神には病原菌も退散するのかもしれない。なんたって、遺灰をガンガーに流してもらうために地方からやって来てベナレスに住み、死ぬのを待っている人もいるんだもんなあ等と思索にふけるためにボートを漕ぎ出して思索にふけっていると、少女の乗ったボートが近づいて来た。
 「この花、神様に捧げる花。10ルピー。買え」 「船頭さん、買わないから先に行っちゃって」 それにしても信仰というものはすごいなあ。椎名誠が「わしもインドで考えた」で書いているように、このように信仰篤きインド人と信じるものなど何もないんだあ~と嘯いている日本人と一体どちらが幸せなのだろうか等と思索にふけっていると、少年の乗ったボートが近づいて来た。
 「ガネーシャ、クリシュナ、カーリー、神様の人形、いろいろある。20ルピー。買え」 「だあ~っ、うるさいわあ~っ! 俺を一人にさせてくれ~っ!」
 ボートを下りて火葬場のマニカルニカー・ガートに行くことにした。布に包まれた遺体を組んだ薪の上に乗せ、火をつける。薪がバチッバチッと音を立てて爆ぜ、布がめらめらと燃えていき、徐々に肉体が現われてくる。時おり隠亡が棒で遺体をつつき、火の回りを早くする。人間の肉体を焼く光景を見るのは初めてなので、最初は衝撃的だったが炎天下で陽炎のような炎を眺めているうちに感覚が麻痺してくる。インドでは何が起きても不思議ではない。 「インドが異常なのか、それとも日本なのか」 思索にふけっていると、いきなり風が吹いてきた。わっ、ぺっ、ぺっ、遺灰が口の中に入っちゃったあ~。
 近くで火葬を見ていた日本人らしき女性に声をかけたら、彼女は北海道の大学生だそうだ。話をしているうちにもう一度ボートに乗ろうということになった。人のよさそうな、おじいさんの船頭に値段を聞くと、20ルピーだそうだ。くう~っ、またしてもボられてたか~。そのボートにはおじいさんの孫だろうか、まだちっちゃな男の子や女の子が5、6人乗っていた。夕刻のガンガーは気温もいくぶん下がり、風が吹いていて気持ちがいい。ガートの喧噪も遠くに聞こえる。この辺りは6時になるともう真っ暗闇だ。それでも路地を歩くと聖地らしい喧噪がここかしこで聞こえてくる。自分が今ここにいることが不思議だ。日本を離れて本当に遠くまで来たんだなあ。と、感慨にふけっている暇はない。今晩8時半の列車でカルカッタに帰らなければならないのだ。ベナレス滞在12時間。ああ、せわしない。乞食や物売りの少年少女たち、明日もしっかり稼げよ。さらばベナレス、また来る日までえ~。(つづく)
NO29 インド編その5

at 2003 12/12 22:38 編集

 事情を話すとおっちゃんは「べナレス行きの列車は今日はもうないから、チケットをキャンセルすればお金が戻ってくる」と言う。おっちゃんに連れられて案内所に行って聞いてみると「国際外国事務局」なる所で明日払い戻しをしてくれるそうだ。やれやれ、とにかく戻ってきたお金で新しくチケットを買い直そう。おっちゃんは「ついてこい」と手招きをする。この時点でも私はこのおっちゃんを信用していたわけではない。だが、今にも倒れそうな状態であれこれ詮索するのも面倒だったので、大人しくついていくことにした。
 駅から5分ほど歩いた場所に旅行会社のオフィスがあり、おっちゃんはそこに入っていく。ここの社員らしい。オフィスで少し休憩してから、リキシャーでおっちゃんの紹介してくれた「ホテル・アトランタ」に行く。ゲストハウスではなく中級ホテルだが、一泊80ルピーと、そう高くはない。おっちゃんは従業員と少し話しをすると帰っていった。部屋に案内してくれた従業員の兄ちゃんに「私は病気である。だから大変苦しい」と言うと、その兄ちゃんは驚いていろいろと世話をしてくれたのだが、その世話が半端じゃなかったんだよ。毛布を持ってくるわ、食べ物を運んできて食べさせてくれるわ、医者を呼んでくれるわ、薬を飲む時間になると水まで持ってきて飲ませてくれた。彼は夜勤なので明日、自分の代わりに私の世話をする人まで頼んでくれた。うっうっうっ。インドでこんなにも人に親切にされるなんてえぇぇ~。私は彼に何度もお礼を言い、やがて眠りに落ちるデリーの夜8時なのであった。
 翌朝は6時に起床。下痢はまだ続いていたが、熱は少し下がったようだ。8時半にべナレス行きの列車が出ると聞いていたので、急いでチェックアウトをする。駅で窓口に割り込んでくるインド人たちと死闘を演じたあげく、やっと二等寝台車のチケットが取れた(100ルピー)。ホテルに戻り、フロントで昨夜の彼に渡してくれと、迷ったが10ルピー差し出した。せめてもの感謝のつもりだったが、あれから10年以上立つ今でもふと思う。あの10ルピーは彼の手に渡ったのだろうか? やっぱり、渡っていないような気がするな。
 駅で昨夜のおっちゃんに出会った。おっちゃんは「いいか、事務局でチケットを見せれば大丈夫だからな」と言って、風を巻くように去って行った。うっ、かっちょいい。私にはおっちゃんの後ろ姿が高倉健に見えた。そして警戒心のせいで無愛想にしたことを激しく後悔した。親切で話しかけてくる人とそうでない人を見分けるのはとても難しい。今日でも構内をうろうろしていると、いろんな人が話しかけてきて教えてくれたのだ。それでもいい人だと思って気を許せば、騙されることもしばしばだ。結局、旅行者は騙されてボられながら旅を続けていくしかない。絶対ボられまいと肩ひじ張った旅は面白くないし、旅行者は基本的にその国にとって客人だから通行料だと思えば少しくらいボられても腹は立たん(と思えるほどの大人になりたいわっ!)。
 しかし、それからがまた大変だった。事務局で聞くと、8番の窓口に行けと言われる。へい、さいですかと8番に行くと13番に行けと言われる。13番に行けば14番に行けと。ああっ、たらい回しだあ~っ。病み上がりの体でひーひー言いながらうろうろしていると、一人の男がここで聞けと13番と14番の間の小さな窓口を教えてくれた。こうしてやっとの思いで払い戻された大枚188ルピーを握りしめ、いつ出発するとも判然としないインド列車に備えて出発(あくまでも予定)時刻の3時間前からプラットッホームで待機していたのであった。青年は荒野をめざす。いざいかん、聖地ベナレスへ! でもここから18時間かかるんだよな。
 二等列車に乗り込むと、その中はインド世界を凝縮したような騒々しさである。立錐の余地もないほど混み合ってる車輌にヤギを連れ込むやつがいるし、物乞いがお金をせびりに来たかと思えばおひねりをもらいに歌を歌いに来る人もいる。ガキどもは「バクシーシ」と遠慮なしに手を差し出してくる。こいつら絶対、無賃乗車だな。ななめ前に座っていたおじさんが「chinese?」と聞いてきた。それからこのおじさんが喋ること喋ること。よく分からないインド英語で、俺はガス会社に勤めてるとか東京と大阪にペンフレンドがいたとか、延々とまくし立て、それを回りの乗客が興味深そうに見ている。何時間かして、車掌が検札にやって来た。私のチケットを見て、「この車輌じゃありませんよ」と言う。おじさんが降りる駅で一緒にホームに降り、ポーターにチケットを見せた。 「ついてこい」(インドではこの言葉をよく言われるなあ) そう言うとポーターは私のリュックを肩に担ぎホームを走り出した。列車がどれくらい停車しているか分からんが、乗り遅れたらベナレスはおろか日本に帰ることもままならん。私は必死に走った。こんな時でもなぜか走りながら夜空を見上げ、月がきれいだなあ、なんて思っていた。ポ?ターの指し示した車輌に飛び乗ると同時に列車が動き始めた。お礼にと彼に1ルピーを渡そうとしたら、受け取ろうとしない。誇り高い人だなと思ったら、「パイサはいらない」と言っている。よく見るとそれは1パイサ硬貨だった。あわててポケットから50パイサを3枚つかみ出し、放り投げた。はあーっ。
 疲れ果て、三段寝台の中段にもぐり込み、泥のように寝る。下痢は依然として続いていた。いろんなことがあったような気がするが、インドに来てからまだ4日目なのであった。(つづく)
 
NO28 インド編その4

at 2003 12/05 23:50 編集

 インディア・エアラインでデリーにやって来た。空港から市内行きのバスに乗る。運転手と客のやり取りを聞いていたのだが、ヒンディー語だと思っていたのが英語だと判明するのに30分かかった。ちなみにインド英語の特徴は th をタと発音し、R をはっきりと発音する。だから thirty はターティーとなり、master はマスタルになる。
 その運転手にホテルを紹介してもらい、宿泊した翌朝のこと。起きると下痢と頭痛と悪寒とおまけに脚の関節まで痛い。これは赤痢かコレラか肝炎か。インドの地で客死したら骨はガンジス河にまいてくれ。後は頼む、って私は一人旅なので自分で何とかせんといかんのだ。食欲はないが、喉がやたらと渇くのでメイン・バザールでミックス・ジュースを飲む。路上のジュース・スタンドなのだがこれがものすご~くうまいのであっちこっちで10杯ほど飲み倒す。
 1月の北インドの朝は寒い。栄養不良のせいもあって毎年、路上生活者が凍死するほどだ。それでなくても寒気がするのでセーターを50ルピーで買う。もう値切る気力も残っとらん。それにしてもニューデリー駅前って敗戦直後の日本の焼跡地みたいだ。朝になるとみんなが路上の至る所で商売用か自炊のための火をおこし、わらわらと人や野良犬や野良牛が集まり始め、その人ごみの中をタクシーやリキシャーが縫うようにして通り抜けてゆく。道端では男たちが座り小便をしている(なぜかインドの男たちは座って用を足すのだ)。
 メイン・バザール(バハール・ガンジ)はその駅前にある、安宿や食堂や映画館や雑貨屋等が立ち並ぶ通りだ。今日の夕方にはベナレス行きの列車に乗らなければならないので、駅のクロークに荷物を預けてからうろうろしようと思っていたのだがっ。だっ、駄目だあ~。苦しい。もう一歩も動けん。このままでは死ぐ。ホテルで休ませてもらおうと日本人に人気の「ホテル・パヤール」に行き、「2、3時間やずまぜで~」と息も絶え絶えに頼むと心良く了承してくれた。「だけど一泊分の料金はもらうよ。30ルピー」と付け加えるのを忘れなかったが。 
 屋上の部屋に案内される。隣の部屋の中年の日本人はインド滞在2か月だそうで、パチパチとタイプライターを打っている。屋上のデッキチェアで昼寝をしに来た日本女性三人は「あの人(私のこと)、病気なんだって。私、薬持っていてあげよう」と話をしていた。私はベッドで苦しみながら期待して待っていたのだが、来なかった(おいっ)。
 しばらく横になった後、ホテルを出て駅に行く。預けていた荷物を引き取ろうとすると、クロークのおっちゃんが、「4時15分にならないとここはオープンしないよ」とぬかす。冗談じゃねえ。おれの持ってるチケットは10分発なんだよ。だから開けてくれ、開けろってんだよ。開けろ~っ! 頼む、開けてちょうだい。ね、少しだけだから。開けてくださいまし。開けてくれないと困っちゃう~。開けてったら開けてぇ~。ねえったら、ねえ~ってば~。とすごんだり、すかしたり、傍らのインド人も見かねて加勢してくれるのだが、おっちゃんは「駄目だ」の一点張り。普段は「いいかげん」を絵に描いて額に入れて壁に飾って一人50パイサでお金を取って鑑賞させるほどルーズなインド人がどうしたってんだ。結局、発車時刻を逃してしまった。しかし、インドの列車は10分、20分の遅れは定刻のうちで、平気で4、5時間遅れることはざらにあるとは後で知ったこと。この時も私の乗る列車がまだ到着してなかったことは充分考えられる。とにかくプラットホームに出て、そこら辺の人に次のべナレス行きの時間を聞いてみた。でも8時半だとか11時だとか1時とか人によって言うことが違う。窓口で聞こうにも大勢の人間が殺到していて、下痢と発熱で弱っている私にはそこへ突っ込んで行く気力はもはや残っていなかった。
 「インド、あんたの勝ちや」 私はへなへなとその場にうずくまった。「何でインドなんかに来てしまったんやろ~。もし生きて日本に帰ることができたら、今度はハワイに行くぞお」とわけの分からんことをうわ言のようにつぶやいている私に、「どうしたんだ?」と一人のおっちゃんが声をかけてきた。(つづく)   



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2003年11月に発表した海外旅行記
2007-08-29 | Weblog

NO27 インド編その3

at 2003 11/28 21:37 編集

インドはいうまでもなく暑い。めったやたらと暑い。気温は、少なくとも香港風邪にかかって病院のベッドでうんうんうなっている重病人の体温よりは高いのは間違いない。歩いていると熱風に包まれたようになって息が苦しいし、脳みそが沸騰してくるので難しいことは理解できなくなってくる。そんな炎天下で男はクルターとパージャーマーの上下、腰巻風のドーティーやルンギーといった服装が多いが、女はどこへ行ってもどんな時でもひたすらサリーだ。道路工事や建築現場でも男に混じってサリー姿の女が土の入ったざるを頭の上に載せて運んだり、レンガを積んだり、ツルハシで穴を掘ったりしている。労働するからちょっとTシャツとスパッツに着替えてくる、というわけにはならないのだ。インド初の地下鉄がカルカッタで一部開通したが、地下鉄工事中も機械を導入する資金がないのでサリー姿の女性を含む人夫たちが手作業で労働に従事していたそうだ。他の国からはあの調子では開通するまでに100年はかかると言われていたぐらいである。そのありがたい地下鉄に私も乗ってみることにした。全線1ルピー。電車内は信じられないことに冷房が入っている。冷房ぐらいは当たり前かもしれないが、ここはカルカッタである。天井で回っている三枚羽の扇風機でもおかしくなかったのに。快適。喧噪と灼熱地獄の地上とは別世界だ。その地上へと昇っていくエスカレーターの前では男の子の手を握ったお父さんが必死になっていた。小さい頃、初めてエスカレーターに乗ろうとした時を誰もが覚えているだろう。動くステップに一歩を踏み出すのはなかなか難しいんである。お父さんが恐る恐る足を出す。タイミングが合わなくてつんのめりそうになる。もう一度足を出そうとするが、次々とせり出してくるステップが恐くて躊躇する。その横では奥さんが「あなた、がんばって」という顔つきで見守っている。そのうしろでは大勢のインド人が「落ち着けよ、あせるなんじゃないぞ。それっ、今だ」というような面持ちで真剣にお父さんを見つめている。小さな子供ならいざしらず、大の男が必死になっているのが笑える。インド人にとっては初めての経験だもんなあ。それはインド人のしつこさに辟易していた私にとって、今思い出しても頬のあたりが「むふふ」とゆるんでくる唯一の光景だった。
 終点で降り、カーリーガート寺院内にあるマザー・テレサの施設「死を待つ人の家」に行く。友人から言付かった医薬品をシスターに渡し、布に包まれた遺体をみんなで運んだ。帰りにカルカッタのメイン・ストリート、チョーロンギー通りを歩く。ここは世界一の人口過密都市と呼ばれるカルカッタにおいてもさらに人の行き来が激しい。夜になると明かりが少ないので、気をつけてないと人とぶつかるのはもちろん、往来に寝ている乞食を踏んづけてしまうこともある。その日もスリに注意しながら歩いていたのだが、いきなり、という感じで通りのまん中に10歳くらいの少年が寝ているのを見つけた。通行人はその少年をじろじろ眺めたり、一瞥しながら通り過ぎて行く。少年には両腕がなかった。上着を着ておらず、本来なら腕の付け根がある場所に赤黒いケロイドの皮膚が少し盛り上がっていた。少年は怒りも恥ずかしさも悲しみも感じさせない無表情な眼でただ空を見ていた。彼は一日中そうやって寝ているのだろう。しばらく見ていたが、彼にパイサやルピーを投げ与える者はいなかった。日本に帰ってから知ったのだが、本当に貧しい親は子供を不具にしてしまうそうだ。そうすれば子供は物乞いとして生きていくことができる。その少年がそうなのかは分からないが、私はやり切れない気分だった。
 人間はどんな環境においても順応していける動物だと私は思う。単純に貧しいから不幸だとか、豊かだから幸福だとかを言うことはできない。先進国にも苦しんで自ら命を断つ人はもちろんたくさんいるし、後進国から先進国の人間を見て、自分にはとてもじゃないがあんな生活はできないと思うこともあるだろう。幸福感というのは主観的なものなので、インド人が皆不幸であると思い込むことは先進国の人間が皆幸福であると思うのと同じくらい愚かなことだ。確かにインドは限り無く貧しいし、不衛生で識字率も低い。障害者も多いし、今もカーストやサティーやダウリー(注)という文化が存在している。悲惨だと言う人もいるだろう。しかし、同カースト内では相互扶助的に生活しているという例もあるし、サティーに至っては自ら進んで殉死する寡婦もいる。まるで藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」だ。それはパラダイムの見直しであり、「人権」というタームでは火の中に身を投じる寡婦を止めることはできない。我々の文化で彼らの文化を計ることはできないし、かといって全ての文化は等価だと言うこともできない。けれど少なくとももし、今度生まれ変わるとしたらインドと日本とどちらがいいかとインド人に聞いたら、ほとんどが日本だと答えるんじゃないか(今の私だったら必ずしもそうだとは思わない。その時代のその国に生まれて後天的に形成された言葉をも含む共通の価値観はそう簡単には越えられないからだ。日本人がアメリカに生まれたい、と思うこととは違う)。私はインド滞在中、ずっとそんなことばかり考えていた、っていうか考えられずにはいられなかった。それほどまでに当時の私にとって、インドはカルチャー・ショックだった。(つづく)
注 サティー 夫に先立たれた妻が夫の遺体と共に生きながら火葬される習慣。法律では禁止されたが、なく なったわけではない。
  ダウリー 花嫁の父から花婿に贈られる財産や持参金。ダウリーが少ないために姑に嫁が殺されたり、親の負担を案じて自殺した姉妹もいる。なお、カーストはポルトガル語、ダウリーは英語から来ており、それらを表わす言葉自体インド語には存在しない。
 
NO26 インド編その2

at 2003 11/21 23:16 編集

 「グレート・イースタンホテル」の大理石のバスタブにつかりながら私は考えていた。 
 「カルカッタくんだりまでやって来て、こうやって高級ホテルの風呂にのうのうと入っている場合か。インド8億の民衆の生活を知るためには、やっぱり安くて汚いゲストハウスに泊まって貧しさを肌で感じなければ。民草の中に入っていくのだ。カースト反対! ガンジー万歳!」
 お前は民青かっ! と思わず突っ込みを入れたくなるほどの勘違い野郎だ。あえてゲストハウスに泊まる理由があるとすれば、お金を倹約したいとか、居心地がいいとか、貧乏の疑似体験をしてみたい等であって、民衆の生活なんぞ分かるはずもない。 「それはお前の自己満足やろが~っ!」と今の私なら当時の私に回し蹴りをかますところだ。
 とにもかくにも翌朝、私はサダル・ストリートに行こうとホテルを出た。インドの中でも最も汚いといわれるカルカッタ。そのカルカッタで最も汚いといわれるのがサダル・ストリートだ。ってことは宇宙で一番汚い場所だ。その界隈にはありとあらゆる病原菌が生息しているという。そこに安宿が密集しているのだ。白人バックパッカーに道を尋ねながら歩いていると、老婆やら子供を抱いたお母さんやらが「バクシーシ(おめぐみを)」と右手を差し出してくるのだが、ギョッとなることもしばしば。指がニ本か三本欠けている。五本ともない人も。ハンセン氏病だ。あきらかに顔が変型している人もいた。ううっと重苦しい気分になって先を急ぐ。
 バックパッカーの間ではその名を知らぬ者はおらず、小説にまでになった「ホテル・パラゴン」に泊まろうと思い、リキシャーワーラー(人力車のようにうしろに人を乗せ、自転車でこいでゆく乗り物がリキシャーであり、それをこぐ人)に場所を聞く。すると横にいた客引きの兄ちゃんに「パラゴンは満室だ。俺の知ってるホテルに案内してやる」と紹介されたのが「キャピタル・ゲストハウス」(一泊60ルピー。当時のレートで1ルピー≒12円とお考えになれば大体の目安となるでしょう)だった。実は、客引きがそこは満室だと嘘をついて自分と契約をしたホテルに連れていき、キックバックを得るのはよくあることだったが、当時の私には知る由もなかった。
 生まれて始めて泊まったゲストハウス、キャピタルは冷房なし、トイレとシャワー(水)付き、ベッドのシーツは少なくとも一か月は換えた形跡なしであったが、別に不自由は感じなかった。もう1ランク下がると、トイレとシャワー(水)共同、シーツは少なくとも半年間は換えた形跡なし(南京虫付き)になる。
 宇宙で一番汚いサダルは小便横丁という表現がピッタリくる。あっちこっちがぬかるんでいて、あっちこっちにウンコが落ちている。サダルにいるのはビンボー旅行者と物売りと乞食と詐欺師と泥棒と野良犬だ。乞食とそうでない人の境界はきわめて曖昧で、排水溝で体を洗っている人もいれば、道端で寝ている人もたくさんいる。この通りにいれば、いろんな人にやたらと声をかけられる。
 「ジャパニ、マリファナいらないか? ハシシは?」 「マネー・チェンジしないか? レートがいいぞ、フレンド」「パージャーマー買わないか? 安くしとく。フレンド・プライスだ」 「マイ・フレンド、お土産にサリーはどうだ?」
 おいっ、会ったばかりで名前も知らんのにフレンドたあ、どういう了見でえっ。そう、インドでは友だちになるのに時間は必要ないのだ。友だちができないと悩んでる君、インドに行って、友だちをつくろう! 友だちに国境は関係ないのさっ。さあ、君も今すぐレッツ・ゴー・トゥー・インディア!
 「ハロー、ジャパニ。インドは初めてか? どこから来た? トーキョー? オーサカ? 俺も日本には仕事で行ったことがある。ヤマモトを知ってるか? 俺の親友だ。何、知らないのか。まあいい。ところで俺の知り合いが店をやってるんだが、寄っていかないか? お前はトモダチだから特別に安くしてやるよ。お金持ってないって? ノー・プロブレム。見るだけ。見るだけならノー・マネーだ。オーケー? こっちだ。ついてこい」 
 私もインド滞在中に何回も同じことを言われた(違うのはヤマモトがタナカになったり、ケイコになったりするだけだ)。こうして大阪商人も顔負けの狡猾さでうぶな旅行者を店に引っ張り込み、適性価格の何十倍もの値段をふっかけ、最後にはケツの毛までむしり取ってしまうのだ。ああ、恐ろしや、インド人。
 私の経験では、アジアでの物売りと物乞いのしつこさランキング第一位はやはりインド人だ。断っても無視しても、どこまでもどこまでもどこまでもついてくる(いやな男にナンパされる女の気分か?)。後年、タイやネパールやカンボジアに行った時、物売りや物乞いのあまりの淡白さに「もっと気合い入れて仕事せんか~いっ!」と思っちゃったほどだす。(つづく)
NO25 インド編その1

at 2003 11/14 23:44 編集

人間は二種類に分類される、とは巷間よく言われることである。古典的なものでは猫的人間か犬的人間か、流動型か土着型か、果ては野球に熱中する人間かそうでないか、ドアーズを聴いたことのある人間かそうでないか、その伝でいけばこう言えるかもしれない。この世は二種類の人間しかいない。インドに行ったことのある人間とそうでない人間と。私がインドに行ったのは26歳の時、それが初めての海外旅行だった。――
 なんてね、オレは沢木耕太郎かってえの。このようにインドとなると人はテツガクしてしまうのである。私がインドに旅立った(そんなに大袈裟なもんじゃないけど)のは自分を変えたかったからだ。(まだ若かったんです。すいません) その頃の私は私生活で色々とあって、その打開策を旅に求めたんである。旅に出て、人間をひと回りでかくして日本に戻ってくるぞっ! そのためにはやはりインドだっ! と、かようなことを考えていました。(あの、旅行は一週間だけです。大馬鹿野郎です、私は。生きててすみません)
 といういうわけでエア・インディアで成田を飛び立ち、私は機上の人となった。(まだかっこつけてる) 機内食とサリー姿の太めで愛想の悪いスッチーにうんざりし始めた頃、ようやくカルカッタ(現コルカタ)のダムダム空港(現在はチャンドラ・ボース空港と改名)に着いた。ちなみにダムダムというのは地名である。殺傷力が高く、残酷なので使用を禁止されたダムダム弾はここの造兵廠で製造されたそうだ。
 夜の7時。タラップを降りると、いきなり暑い。じっとしていても汗が吹き出てくる。しかも硝煙というか、焼けたゴムというか、ともかくそんな臭いがする。しかも空港警備員は小銃を持っている。(帰ろう......かな? と少しだけ思いました) 空港ビル内に入ると、国際空港だとは思えないほど薄暗い。空調なんぞはもちろんなく、天井に三枚羽の扇風機がゆったりとハエを追うように回ってるだけ。それにしてもあっちいーな。なんか飲みたい。          
 「Drinking water」と書かれたプレートが目についたので近寄ってみると、そこには公園にあるような噴水式の蛇口(下から口に向かって噴水する、あれね)がぽつんとあった。なにもこんなもんに仰々しくプレートをつけんでも.......。いや、ここはインドだ。水道水が飲めるだけでもありがたいと思わんとな。入国審査と税関を終え、外に出ようとしたが、そこで足がピタリと止まった。なんと外にはインド人たちが押すな押すなと黒山の人だかり(インド人だからホントに黒い)で出てくる人間を待ち構えてるんである。それはなにも私が有名人なのでサインをもらおうとか、インドの地を初めて踏む日本人を熱列歓迎してやろうとかといった気持ちからでは決っしてない。やつらはタクシーやホテルの客引きである。全員が、俺はこの客引きに命を賭けてるんだ。なんてったって、家族の生活がかかってるからな。かあちゃん、待ってろよ。明日もチャパティ-を食わせてやっからな。そらっ! 金持ちの日本人が出てきやがった。今夜のカモはあいつだ。ぜってえ、逃がさねえぜ、なんて顔をしてるのだ。
 ひえ~っ! あいつらの中に出ていくんかいっ! 思わず「ブルース・リー 怒りの鉄拳」でブルース・リーが暴徒と化した群集や拳銃を構えた警官隊に走り出て、飛び蹴りをかますラストシーンが浮かんだね。(おいっ! おもいっきり美化してないか?)
 しかし、ここで回れ右をして帰国してしまっては、末代までの恥だし、航空券が無駄になる。よしっ、待ってろよ、インド人! サムライ魂をみせてやるわあ~っ! と、ここで私は、はたと気づいた。興奮してたんで忘れてたけど、旅行会社で今夜のホテルは予約してたんだ。そのホテルから車が迎えに来てるはずだ。そうだった、そうだった。それならいくら客引きが寄ってこようと恐くはない。私は余裕の表情で空港の外に出た。
 「ナマステ~、インドのみなさん、アイ・ケイム・フロム・ジャパ~ン」 がっ、! 
 「ジャパニ! ジャパニ!」 「タクシー! チープ! チープ!」 「ホテル? カム! カム!」 「グッドプライス!!」 「ベリーチープ!!」 ぎゃあ~! うげえ~っ! 「#$%&♀¥!!」
 うるさいわいっ! 私はフランスに凱旋帰国したトルシエ監督なみにもみくちゃにされた。(トルシエって、確かフランスだったよな。サッカーに無知なので事実誤認があったら許せ、サッカーファン)
 ホテルから迎えに来たらしき人が声をかけてきた。 「エクスキューズ・ミ-、ア-・ユー・ミスター・ナガノ?」 「イエス! イエス! イエース!!」 私はヘビメタのヘッドバンキングのように激しくうなずいた。
 「すみません、ちょっとここで待っててください」 そう言うと迎えの人はどこかへ行ってしまった。間髪を入れず、そこへ別のインド人が現われて、「グレート・イースタン・ホテル(今晩予約していたホテル)なら、こっちだ」と先に立って案内する。思わずふらふらとついていったが、途中で何か変だなと立ち止まった。すると、さっきの迎えの人が追いかけてきて、「ノー! ノー!」と私を連れ戻したのだった。あぶねえっ、ちっとも油断がならねえな、インド人!! (つづく)  
NO24 飛んで上海 その2

at 2003 11/07 22:12 編集

上海の裏通りを歩いていると、かつてはここいらに阿片窟や娼館が立ち並んでいたのかなと感慨深いものがある。租界時代に建てられたオールドホテルの「和平飯店」なんか往事を偲ぶよすがとなるに充分だ。ここにあるオールド・ジャズ・バーでスイング・ジャズに耳を傾けていると魔都と呼ばれ、スパイが暗躍した国際都市上海の在りし日の姿が彷彿としてくる。嗚呼、東洋のマタハリと呼ばれた男装の麗人、川島芳子と李香蘭(実は日本人、山口淑子)との倒錯した怪しいロマンス。「白蘭の歌」「支那の夜」そして「上海の女」に江湖の婦女子は紅涙をしぼるのであった、って私はいくつやね~ん! (と一人でつっこんでます)
 アミューズメント・パークの「大世界(ダスカ)」はレトロ。老朽したビルの中に小部屋がいくつもあり、京劇、奇術、映画館、ディスコ、ゲーセン、似顔絵、お化け屋敷等をやっている。野外ステージでは私が行った時は子供たちが雑技をやっていた。ここの雰囲気は日本の昭和三十年代であり、大阪の新世界界隈に似ている。そういえば、ダスカの作りはフェスティバルゲートにそっくりだ。もしかしたらダスカにコンセプトを合わせて作ったのかもしれない。レトロっていうのは古い感覚と新しい感覚との境界線にできるのだと思うが、その極めつけが街のあちらこちらにあるカフェだ。 
 上海でカフェと呼ばれる喫茶店は上海人にとってのおされな社交場となっているらしい。外装も内装も全然、垢抜けてないのがかえって新鮮だ。私の入ったカフェは席がつい立てで仕切られていて(同伴喫茶?)、ビニールのテーブルクロスの上にアクリル板が敷いてあり(う~ん、レトロっすねえ)、ろうそくが立っている。何だか懐かしい。コーヒーはネスカフェで15元。ソフトドリンクはココナッツジュースしかなくて(しかも缶入り)、20元。日本人は珍しいらしく、店の人たちが話しかけてきたので彼女たちと筆談をした。
 上海を旅した人の本を読んでいたら、上海風呂に入りたくなった。幸い、宿泊しているホテルの裏に「浴徳池」という大きな垢すり風呂がある。さっそく行ってみた。まず、バスタブにつかって、体をあたためる。それからすっぽんぽん状態で大理石の台の上に寝そべり、垢すりをしてもらうのだが、これがくすぐったい。それが終わると個室に案内される。バスタオルを腰に巻いて待っていると、男が二人現われた。一人はマッサージ担当で全身を隈無く揉んでくれる。もう一人は手足の爪を切り、やすりで磨き、角質まで削ってくれた。その間にも別の男が煙草を勧めたり、コーラを持ってきたりと至れり尽せりである。全行程の所要時間は2時間。いい気持ちで受付に行き、請求書を見せられてびっくり! アメリカン・コミックなら目玉が30センチほど飛び出てたね。 二人分で884元!(その時は友人と行ったのだ)
 明細を見ると、爪磨き代はもちろん、コーラ代やおしぼり代までしっかりとつけられていた。そうならそうと、事前に言えよっ! 
 「高い」と思わず言うと、「タカクナイヨ。ニホンジン、ミナハラッテクレルネ」(日本語)と言うのだが、日本人は納得して払ってんのか?
 「もう少し安くならんか?」とねばっていると、従業員が五、六人出てきて無言で圧力をかけてきた。暴力バーならぬ、暴力風呂かいっ、ここは。そんなことだったら、六人の男にチップを計220元もやらんかったらよかったわい。
 「女、いらない?」 帰り道で追い討ちをかけるように、またポン引きが声を掛けてきた。(しかも同じ男) 
 ということで、今回の旅で得た教訓。「インド人と中国人には勝て~~んっ!!」 はいっ、大きな声で皆さんも御一緒にっ! (泣) 



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#2

2024-04-07 | 日記
2003年十月に発表した海外旅行記
2007-08-29 | Weblog

NO23 飛んで上海

at 2003 10/31 19:02 編集


 出発前から中国だった。関空に着いたら、いきなり飛行機が2時間の延着だ。仕方なく待っていたら今度は変更(って?)ということで更に1時間待ち。中国国際航空に乗るはずだった我々はなぜか中国東方航空機に乗せられ、予定より3時間10分遅れでやっと飛び立った。機内放送ではそのことについては一切触れられることはなかった。やるな、中国。さすが豪放磊落、天衣無縫、質実剛健の中国人だ。少しぐらい遅れたからって、四の五の言うんじゃねえよ、墜落するわけじゃあるめえしよ、という態度に私は好感を持つぞ。いいぞ、中国、等とその時はまだ余裕をかましていられた。
 夜の8時に上海虹橋空港着。飛行機の中で今夜泊まるホテルを決めていたので、予約しようとうろうろしていると、「タクシー?」 と小説家の猪瀬直樹にそっくりの男が寄ってきた。
 「○○ホテルに泊まりたいんだ」と言うと猪瀬は「知ってる」と言う。ああ、いつもならそんな手口には乗らないのだが、なぜか猪瀬の後をのこのこと付いて行き、タクシーに乗った。助手席には別の男が乗り込んできた。アジアではこういう事はよくある。タクシーを私用に使うのは日常茶飯事、勝手に友人や家族を乗せたりするので私は気にも止めなかった。猪瀬の相棒が高級そうなホテルのパンフレットを差し出す。
 「○○ホテルは古くて部屋も狭い」
 案の定、タクシーはパンフレットの高級そうなホテルの前に着いた。 「この野郎~」と思ったが宿泊費を聞くと、そう高くはない。夜も遅いし、この高級そうなホテルに泊まることにした。ボーイに案内されて高級そうな部屋に入ると猪瀬たちも付いてきた。ボーイが出て行くと、猪瀬が両替しないか? と言う。レートを尋ねると銀行と同じなので1万円換金することにした。これで用は済んだと思ったが、極悪人の猪瀬はその後、信じられないことを言ったのだ。
 「ハイウエイ代の100元とタクシー代の100元を払ってくれ」
 てめ~、空港でタクシー代はホテル代込みだと言ったじゃね~か。そう言うと 「サービス込みだと言ったが、料金込みだと言った覚えはない」 とわけの分からんことをぬかしやがる。渋々100元だけは渡したが、あとの100元は絶対に払えんっ! と長い間言い争った。しかし、極悪人猪瀬は諦めない。朝まで言い争っていてもよかったのだが、私は言い争いをしにわざわざ中国までやって来たのではない。観光をしに来たんだ、観光を! 明日も早いのでいいかげんに寝たい。私は負けた。極悪人猪瀬に100元払って追い返した。くっそ~、お金も惜しいが、それ以上に極悪人猪瀬に負けたことが悔しい。気分を変えようと食事をしに外に出たが、レストランも食堂も屋台も何もない。あるのは高級そうなアパートと理髪店だけだ。(ここもかいっ!) どうやらここは上海のはずれのようだ。その夜はローソンでハンバーガーとジュースを買ってホテルに帰る。(何で上海まで来てこんなもん食べとるんやあ~~! 猪瀬~っ、てめえのせいやあ~!!)
 翌日は市街地にある東亜飯店に泊まる。このホテルは上海銀座と呼ばれる南京路に面しており、常にごった返している。夜ともなるとネオンサインがまたたき、地元の人間と観光客とおのぼりさんと物乞いでにぎわう。あ、それと忘れてならないのが繁華街には必須の売春婦とポン引きである。上海ガールもさることながらしつこいのがポン引きだ。もし、あなたが上海に来て東亜飯店に泊まり、夜になって南京路に一歩でも足を踏み出してごらんなせい、びしっとスーツに身を固めた兄ちゃんがすっと近寄り「女はどう?」と聞かれる確率はインドのデリーで観光客がお金をせびられる確率に等しい。さらに歩くと3メートルごとに声をかけられるのは間違いない。南京路を端から端まで歩くと、少なくとも20人からは声をかけられるだろう。(私はここをポン引き通りと命名) バカも~ん、それでも中国か! 全く嘆かわしいわい(by 磯野波平)。私も一人の兄ちゃんにマークされ、しつこく勧められるのでしつこく断るのだが、諦めないので「女は嫌いだ。男がいい」と言うと、「それじゃあ、カフェに行こう。案内するよ」と後ろも見ずにスタスタと歩き出した。バ~カめ、他のカモを探すんだな、と私は反対方向へ歩き始めたのだが、そういえばテレビのバラエティ番組でアグネス・チャンがこんなことを言ってたな。
 「中国で誰かが結婚するとするでしょう。相手が上海人だと親は『とんでもない! やめなさい!』って反対するんですよ。ホント、これホントの話ですよぉ」 こんな十何年前の話を思い起こさせるとはさすが中国三千年の悠久の歴史。 私が親だったら、やっぱり反対するな。(まだつづく)
NO22 続 北京の床屋

at 2003 10/24 19:39 編集

 <前回のあらすじ>
 中国ってとこは人はやたらと多いし、言葉はあんまし通じないし、列には割り込むし、日本人だとボるし、ひまわりの種はあちこちに散らかすし、おまけに女までが(以下略)
 店内は清潔で明るく、従業員は男が一人、女が三人、そして男の客が一人いた。そのうちのソファーに座っていた女が立ち上がって椅子に座るようにと促した。営業時間を聞いたら、朝の8時から深夜の1時までだそうだ。なぜ一日17時間も営業してるんだ? 人民をそんな長時間も労働させていいのか? ますます怪しい。女はまず私の首に前掛けをし、洗髪台に頭を突っ込むようにと手振りで示した。その通りにすると女はいきなりシャンプーをし始めた。片言の英語ながら、いろいろと話しかけてくる。 (普通の理髪店に見せかけてるな。パチンコ屋が店内で出玉を換金すると賭博と見なされるから外に景品所を設置するように、これは当局を欺くためのカモフラージュに違いない)
 シャンプーが終わると女は聞いてきた。 「マッサージはどう?」 (きたあーっ!) 「フェイス・マッサージもあるし、全身のもあるわよ」 「いっ、いくら?」 「100元(1元は約14円)」(高い) 私は考えこんで顔のマッサージを頼むことにした。顔だけなら安心だろう。 「それじゃあ、こっちへ」 なんと女は店内にある個室へと案内するではないか。ドアを閉め、二人っきりになる。広さは二畳ほどだ。 (やばい) 棚にはいろいろな乳液やらクリームやらが載っている。 (ますますやばい) 私はリクライニングの寝椅子に寝かされた。 (ドキドキ) 女は私の顔にクリームを塗り、マッサージを始めた。それが終わると先端が輪になった金属製の細い棒で顔を突いてきた。(ん?) あ~、気持ちええ。これは毛穴から脂を抜き取るためらしい。さすが中国式マッサージ。お肌がすべすべ。 「次は全身のマッサージしてみない?」 (きた、きた、今度こそきたあーっ!) 「あのお~、それってどんなマッサージ?」 「は?」 「だから、どういった類いのマッサージかな、と」 「言ってる意味が分からないわ」 
 ここでやめたらせっかく潜入した今までの苦労(なのか?)が水の泡だ。私は不本意ながら受けて立つことにした。さあ、殺せ。女は気合いを入れると、脚から腕から背中から、仰向けからうつ伏せにしたりと汗だくになりながら長い時間をかけて体中を揉んだ。サンダル履きで一日中歩いていたので足はまっ黒。女は一瞬ひるんでいた。終わると体力を使い果たしたのだろう、フラフラと奥へ引っ込んでいった。最後に若い男がハサミとバリカンで念入りにカット。ドライヤーをかけ、スプレーで仕上げ。終わった。1時を過ぎているのに年配の客が一人、入ってきた。(なぜ1時に髪を刈りに?)
 料金はマッサージが100元、シャンプーが100元、カットが50元。それを230元まで値切った。今回、多額の調査費を投じて私が得た物は中国式ヘアカットと、北京の床屋は健全な床屋だったという事実だ。諸君、北京に来たら安心して調髪してもらえよ。その前に料金はちゃんと聞いておくように。体はきれいだったが、お金もきれいになくなった。ふっ、私の思い過ごしだったようだな。疑って悪かったぜ。だけど中国人、ぼるなよおおおおお~っ!!(魂の叫び) しかし、中国はこれで終わるほどまだまだ甘くはなかった。(というわけで上海編につづく)
NO21 北京の床屋

at 2003 10/17 22:32 編集


 北京に来てから気になっていることがあった。理髪店である。町中のあちこちに理髪店があり、しかも深夜まで営業しており、しかも従業員は若い女性ばかりなのである。若い女性に深夜営業。怪しい、怪しすぎる。他の人間ならいざ知らず、この私の目はごまかせ~んっ! 社会主義国でそんなことがあるのだろうかと不審顔の貴兄に貴女、同じ社会主義国のベトナムでは理髪店と売春が結びついていることは周知の事実である。何でも表向きは普通の理髪店なのだが、希望する人にはスペシャルなサービスを施してくれるらしい。実際、ホーチミンでは北京ほどではないが理髪店がちらほらと目につく。夜、シクロに乗っている時に店内を見たら、いつも何人かの女性が椅子に座って暇を持て余していた。中国よ、お前もか。私は大いに失望した、わけでは全然ないのだが、これは是非調査せずにはおられまい。中華人民共和国の首府、北京よ、農民と労働者の叡智と努力によって共産主義国を建設するという高邁な理念の化けの皮をこの私が引っぺがしてやるわ。うわーはっはっはっ、バカめっ!(はオレだろうな、やっぱり)
 というわけで、故宮の近くに泊まっていた私は夜の11時頃にホテルを出た。う~ん、どの理髪店に行こうか? なるべくなら、きれいな従業員のいる店がいいだろう。もちろんこれはベールに包まれた中国人民の実態を調査するというフィールドワークであり、私には不純な気持ちなど毛頭、爪の先ほども、これっぽっちもないのであるが、どうせならきれいな女性の方がいいだろう、うん。しかし、調査があまり進行しすぎると危険なことになるような気がする。その時は腕に覚えのあるカラテで大声を出して逃げればいいだろう。もし女が中国拳法の名手で無理矢理、組み伏せられたらどうしよう。きれいな体で戻ってこられるかしら。不安だわ。いや、毛沢東も 「崇高な目的達成のためには敵を恐れることなく邁進せよ」 と言っていたではないか。(おい、そこのあんた! どこが崇高やねん! って、つっこんだだろう、今)
  私は決心し、心の中でインターナショナルを歌いながら目星をつけた理髪店へと勇躍乗り込んでいった。(つづく!)
NO20 まりりんまんそんライブインオーサカ完結編

at 2003 10/10 01:23 編集

 まりちゃんは取り憑かれたようにfuckやshitを連発する痴れ者で下品な男です。
「よく来たな、マザーファッカーども」
 イエ~イ!
(うるせー!)
「おまえたちのファッキンな中指を俺にみせてみろ」
 イエ~イ!
(ああっ、下品だ)
ステージでは猥褻な女が二人、猥褻なダンスをしています。観客のみなさんは物のけのように踊り狂っていらっしゃいます。熱狂的なコンサート風景を観て、「まるで宗教のようだ」とおっしゃる人がいますが、音楽と宗教は最も遠い所にあると思います。まりちゃんもそこら辺はよくわきまえていて、エンターテインメントに徹しています。まりちゃんの音楽はエッチな本を読んで興奮しちゃったくらいの意味合いしか持たないと思います。たまに興奮し過ぎて銃を乱射しちゃったりするバカちんもいますが。ロック・ヒーローは教祖だと言う人はディズニーランドは宗教だと言ってるようなものです。私は町田康の「CDを800万枚売ったからといって、社会を変えたということになるんでしょうか?社会を変えたいというより、社会によって自分が変えられたいと思います」という言葉を思い出しました。
 いつしかステージ上にはミッキー・マウスを似せて作った世界一邪悪なレプリカ、ミッキー・マンソンが登場しました。さすが裏ディズニーランドです(私は行ったことがないので何だかざまあみろです)。なんだかんだとアンコールもなしに10時きっかりにコンサートは終わりました。
20時20分 バックステージ
「まりりん、出番10分前だぞ」
「ああ」
「また震えているのか」
「何度経験してもステージに上がる前は緊張するんだ。俺は子供の頃から赤面症で対人恐怖症だからな」
「カリスマを演じるのも大変だな。ところで、ステージで破る聖書はどうするんだい? 」
「今回はいい。ここは日本だからな。それよりも俺の大好物のフランクフルトは用意してあるんだろうな?」
「大丈夫だ。ライブが終わったら浴びるほど食べてくれ」
「よし、いつものように円陣を組もう。メンバーとスタッフを呼んでくれ」
「わかった。みんな集まってくれ!」
「みんな、心の準備はいいだろうな。スティーブン、ミッキー・マンソンのレプリカは修理できてるな」
「もちろん、バッチリだよ。まりりん」
「昨日のフクオカのライブで少し破けちゃったからな。今回はゆっくりめに倒してみてくれ。キリストにミッキー・マウスの次はス○ーピーだな。いや何でもない、 こっちのことだ。ロザンナにケイト、いつも恥ずかしい踊りをさせてすまんな」
「なに言ってんの、まりりん。それは言わない約束でしょ」
「そうだったな。今日の打ち上げは西田辺の『酔虎伝』を10時半から予約してあるから思う存分飲んでくれ。でも12時までだぞ、次の公演に差し障るからな。ようし、  ジェローム、いつものやつをやってくれ」
「オーケー、みんな用意はいいか?それじゃあ、いくぞ!世界で最も偉大なアーテ ィストは?」
「まりりん!!」
「マイケル・ジャクソンよりもCDを売るアーティストは?」
「まりりん!!」
「ブッシュ大統領よりも影響力のあるアーティストは?」
「まりりん!!」
「僕たちはみんなまりりんが」
「大好きさ!!」
「ありがとう、みんな。俺が今日あるのは仲間の支えがあってこそだ。今夜もコンサートの成功を願って祈ろう。みんな、目を閉じてくれ。............我らの音楽を司る神よ、我々の奏でる音によって世界が融合されますように。人類のうちに争いも 餓えもなくなり、人々が穏やかに日々を過ごせますように。天国も地獄もなく、ただ今日という日のために生きていくことができますように。殺すことも死ぬこともなく、平和のうちに暮らしていけますように。想像してごらん、国境も宗教さえもなく......」
「ちょっと、まりりん。それって、ジョン・レノンの『イマジン』じゃないの」
「あっ、そうか。こりゃ一本取られたな。あっはっは」
「いやだわ、まりりんたらっ。あはは」
「まりりん、すっかり緊張がとけたようだな。これで今晩も大成功間違いなしだ。 うあっはっはっは..........」
なわけないですよね。あっ、私は会場で売ってたまりりんTシャツ(3500円)を買いました。さすがにまりりんポスターやマリリン携帯ストラップまでは買いませんでしたが。



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NO19 まりりんまんそんライブインオーサカ
2007-08-29 | Weblog
at 2003 09/26 23:20
まりりんまんそんのコンサートに行ってきました。大阪城ホールのアリーナです。アリーナ席なんて生まれて初めてです。まりちゃんと目があって「あとで楽屋に来いよ」なんて言われたらどうしよう(ドキドキ)。ホール前にはたくさんの屋台が出ていました。フランクフルト屋のおっちゃんが「まりりんまんそんも大好きなフランクフルトやでー」と言うので、思わず「うそやっ!」とつっこむと、「うそやないって。うそやったら、おっちゃんお金返したるわ」とぬかしよります。「何言ってんの、まりちゃんが好きなのは別のフランクフルト.....。」やだわ私ったら、おほほ。会場に近づくと、黒い衣装をまとったかなりイタい若者たちがたむろってます。まるでバンコクの娼婦みたいです。ああ~っ、勘弁してくれ~。俺が悪かった~!(いったい何があったんだ!)
 入場の際にはボディチェックがありました。ストーンズのコンサートでもなかったのに。まりちゃんのファンにはガイキチがたくさんいるからですね、きっと。アメリカでのコンサートは大変だと思います。
 二階席へと向かう客を尻目に地下に降りていきます。なんてたってアリーナですから。しかし私は自分の目を疑いました。これはただの一階席。しかも最後列。ステージからは50メートルは離れています。まりちゃんと目があうなんてことは絶対にありません。なんでやねーん、責任者出てこーい!わしは人生幸朗師匠かーい!と一人でつっこんでいるといきなり大音響です。そうでした、今宵のサポート・バンド(早い話が前座です)は「BUCK-TICK」なんだそうです。私は彼らを聴くのも見るのも初めてですが、ビジュアル系のパンク・バンド(?)という感じです。もういいんでわないかっ。もう充分でわないかっ。と思うほど存分に演奏した彼らはやっと引き上げて行きました。多分、アルコールとドラッグでへろへろになったまりちゃんの体力が続かないので時間稼ぎをしてるんだと思います。ずるいと思います。それからステージではサウンドチェックを入念にし始めました。まりちゃんはなかなか出てきません。おしっこに行って帰ってきてもまだ出てきません。世界中で何百万枚CDを売っているかしらんが、一万人の客を待たすとはいい度胸してんじゃねえか、最近天狗になってんじゃねえか、まりちゃんわ。とドス黒い心がわき上がってきた頃にやっと出てきました。開演から1時間半後のことです。(つづく)
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NO18 シャオエン
2007-08-29 | Weblog

 1997年5月、日本の首相官邸に当たる総統府の前を歩いていた。日曜日の昼下がり、空は透き通るような快晴だった。赤レンガの荘重な建物の前には警察官と憲兵(機動隊員)が集まって、何だか物々しい雰囲気だ。
 「ん? 何だ? 何だ?」と足を止めて眺めていると、警察官に職務質問されそうになったのであわてて立ち去る。官庁街であるただっ広い道路の交差点にも市民が集まり始めた。その中にはテレビ局の中継車がスタンバっている。向こうの道路からはデモ隊が何かをシュプレヒコールしながら近づいてきた。一体、何が? 中華人民共和国でも攻めてきたのか? 前年には台湾史上初の民間による直接選挙で李登輝が選出された。台湾独立派を恐れる中華人民共和国は大規模の軍事演習を行なったり、台湾海峡にミサイルをぶち込んだりと威嚇を続けていたのだ。
 「何があったんですか?」 近くにいたテレビ局のスタッフらしき人に聞いてみる。
 「テレビ・スターが殺されたんだ」 彼は詳細を説明する英語力がなかったのか、それだけ言うと黙ってしまった。俳優が殺されたぐらいでこんな騒ぎにはならないだろう。警官隊と機動隊が見守る中、デモ隊とそれに呼応した市民が気炎を上げていた。
 その夜は「華西街観光夜市」に行った。長い商店街は地元の人や観光客でごった返し、店の人たち、特に包丁片手にヘビやスッポンの生き血を売るおじさんの口上で賑わっていた。中にはヘビの頭を噛みちぎり、尻尾をくわえて振り回すという猟奇的おじさんもいた。不思議なのは生き血や漢方薬を売る店にはテレビが置いてあって、そのどれもが日本のプロレスを映していたことだ。やっぱり、精力がつくということをプロレスに託して表現したかったんだろうか。しかし、店先に繋がれていたオランウータンはどういうことだ。
 こんなにもヘビ屋やスッポン屋があるのにはわけがある。裏通りに売春街があるからだ。そこに行ってみた。売春宿は外から覗くことができ、ピンクの灯りの下で女性が立っている。その前の道路には怪し気な男たちが列を作って座っていた。
 
 ホテルに戻り、「あっ、そうか、あれは」と気がついた。三週間前に劇画作家の梶原一騎と歌手、女優のパイピンピンの娘が誘拐され、殺害されたのだ。犯人たちはその時点でも逃亡中で、さらに凶悪な事件を繰り返していた。後に5万人もの市民が治安改善のための法律改正や政府官僚の辞任を求めてデモを行ない、内閣は総辞職に追い込まれた。そのデモだったのだ。当時は日本のみならず、世界中にそのニュースが連日のように報道されていた。私はその事件の残虐さを知り、誇張ではなく、犯人たちへの激しい怒りと殺された17歳の少女への思いで胸がつぶされそうになっていた。
 少女の小指を切断し、母親へ送りつけるという行為。食事も与えず五日間に渡って暴行を加え続け、最後には遺体を全裸で排水溝に捨てるという行為。肝臓の五か所が破裂。胸部や腹部等に夥しい量の内出血。死因はロープで首を絞められたための窒息死。
 少女が味わった地獄のような恐怖と苦痛。私には懸命に想像してみることしかできない。そして犯人たちのこと。パイピンピンと犯人たちは経済発展を遂げる以前の貧しい台湾を共に生きた、同世代の人間だった。主犯格三人のうち、二人は警官との銃撃戦中に自殺。あとの一人はなおも逃亡し、南アフリカ大使館武官官邸に立て籠ったが、ついに投降した。パイピンピンはその後、台湾の治安の改善を目指し、ボランティア活動を精力的に行なっている。犯罪のない社会作りを世界にアピールするため、長野オリンピックには聖火リレーに台湾代表として参加した。
 せめて私は自分の命が続く限り、17歳で殺された少女のことを忘れないようにしようと思う。そうすれば彼女は生きる。私たちの記憶の中に彼女は生き続ける。
 
参考文献 「燕よ、空へ」 パイピンピン著 木村光一訳 / ルー出版
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NO17 マニラのスラム
2007-08-28 | Weblog
 夜の9時前にニノイ・アキノ空港に到着。ロビーに出ると熱気、じゃないなこれは、殺気を感じる。なんだか誰かに狙われているような気がして、少しびびる。ホテルを予約して、米軍用のジープを乗り合いバスに改造したジプニーに乗り込んだ。窓から通りを眺めていると、浜 なつ子の「アジア的生活」(講談社文庫)の文章を思い出してきた。
「スラムは特別な地区にあるのではない。メトロ・マニラ(マニラ首都圏)のいたるところにある。例えば、あなたがニノイ・アキノ国際空港を降りてタクシーに乗り、マカティの5ツ星ホテルに泊まり(そこまで気張らなくても安ホテルでも同じなのだが)、日中は車で移動して夜は繁華街で過ごすとなると、「タイやシンガポールほどではないが、フィリピンもずいぶんと経済発展しているんだなあ」と思うだろう。ところが、一歩、メインストリートをはずれて体重を右足でも左足でもいいから、どっちかに傾けて薄暗い路地を折れてみるがいい。
 そこには、ああっ、と驚く光景が広がっている。」 
 
 とそれから浜氏はスラムの様子を描写し、
「しかし、わたしにとってスラムは混沌という名の〝楽園″であり、生命力溢れる根元的な場所である。
  (略) ある意味で、最も俗なるところが聖に通じ、最も醜いものが清らかなものに近く、最も単純なものが真実に迫るという逆説を痛感できる、哲学的な場所でもある。」
 
 と続けている。私はこの文章を読むたびに、うひゃひゃと体が弾むような感覚になるのだ。私はスラムが大好きだ。電車に乗っていて、線路沿いにあるスラムを見つけると途中の駅で降りてしまうくらいだ。そんなに好きなら一生スラムに住みついたらどうだ、と言われると困るけどな。
 マニラには観光名所らしき場所はあまりないが、私にはどうしても見ておきたい所があった。東南アジア最大のスラムといわれるスモーキー・マウンテンだ。夢の島のようなゴミの集積所にバラックを建て、人が住み始めた。ゴミが自然醗酵し、煙がたなびいているのでスモーキー・マウンテンと呼ばれるようになった。スモーキー・マウンテンのあるトンド地区には無用な立ち入りは絶対に厳禁、とガイドブックには書いてある。それでもどお~しても行ってみたい。私は覚悟を決めた。海外旅行保険に加入してないのが残念だ。アバト・サントス駅でタクシーを止め、ドライバーに聞いてみる。 「あんたは悪人か、それとも善人か?」 (マニラのタクシー・ドライバーはボる奴が多いからな) 「なぜ、そんなことを聞く? もちろん俺はグッドマンだ」 交渉して、スモーキー・マウンテンをぐるっとひと回り、300ペソで行ってくれることになった。ドライバーのソシモは気のいい人で、運転中もずっとしゃべりっぱなしだ。 「人生で大切なのはお金よりも友だち、神様、家族だと俺は思うね」 「香港に研修で行ったことがあるよ。外国に行ったのはそれっきりだ」 「トンドなんかになぜ行きたいんだ? あんた、ジ?ーナリストか? トンドで警官がナイフで刺されたことがあるし、タクシーだって石を投げつけられたこともあるんだぜ」等と話を聞いているうちに、車はいつしか迷路のような細い路地に入り込んだ。一見してスラムと知れる、その住民たちが車を取り囲むようにしてじろじろとこちらをねめるように歩いている。ソシモの言葉を思い出して、こちらとしては気が気ではない。やがてマニラ湾沿いの道路に出た。う~ん、と思わず私は目を見張った。なにしろトタン屋根とありあわせの木造で建てられたバラックが何キロにも渡って延々と続いているのだ。それは今まで訪れたアジアのどの国でも見たことがなかった、圧倒的な光景だった。電気は引いているが、水道はないとソシモは言う。
 スモーキー・マウンテンには以前、人が住んでいたが現在は政府によって強制撤去させられて家はない。気が遠くなるほどの広大なただのゴミの山だ。少し行くと、今にも崩れ落ちそうな五階建てくらいのアパートが密集していたので、その前の広場に車を止めてもらう。広場にいる大勢の大人たちや子供たちが何事かとこちらを注視してきた。
 ソシモに「外に出ても大丈夫か?」と聞く。 「ああ、大丈夫だ」 「ここで待っていてくれ」 あたりを窺うようにしてゆっくりと車から出て、一番近くにあったアパートの階段をのぼる。そこで私は自分の目を疑ったね。各部屋のドアはなぜか全てなくて、中がまる見え。室内には所狭しと何人もの人間が住んでいるのだが、住んでいるのは人間だけではなかった。猫や犬に数羽の鶏までもが同居しているのだ。一軒家ならともかく、アパートの一室で人が家畜と暮らしている光景は異様だ。それは、まるで家畜小屋に住人が住まわさせてもらってますって感じなのだ。もしかして、あれはペットなのか? いや、そうではあるまい。スラムの住人にそんな余裕があるはずがない。現金収入を得るため、もしくは自給自足の食料として飼って、いや、同居しているのだろう。上の階まで行きたかったが、住人の眼光が鋭くなり危険を感じたので車まで戻る。
 「一緒にアパートの上まで行ってくれないか?」とソシモに頼むと、「駄目だ。危険だよ」と言う。あとから考えてみると、危険なのは我々だけでなく、もし車を残しておけばその車だってどうなっていたか分からない。仕方なくトンドを離れ、リーサル公園で降ろしてもらった。歩いて駅まで行こうとしたら、一人のフィリピーノに時間を聞かれた。そのままついてきて、歩きながら自己紹介を始めた。年は29歳。父は日本人、母はフィリピン人。何年か前に離婚し、父は香港にいるが母は行方不明。彼には子供が二人いて、ミルクを欲しがっていると何度も言う。ふ~ん、なるほどね。案の定、「セブン・イレブン」で粉ミルクの缶を二つ買わされた。自分のためにお金をくれ、というのならともかく、小さな子供がおなかを空かしているという言葉に断ることができなかった。願わくはだな、あとでその粉ミルクを換金して、お人好しの日本人はちょろいもんだと舌を出さんように願っているぞ。
 その男は粉ミルクを受け取り、ホテルの所在地を尋ねるとお礼のつもりなのか「案内するよ」と歩き出した。おい、ちょっと待ってくれい。わしはLRT(高架鉄道)に乗って帰るからいいんだ。と言ってもそいつは先頭に立ってどんどん歩いて行く。待てっちゅうねん、お願いだ~、頼むから待ってくれ~。ここからホテルのあるエドゥーサ駅まで6キロはあるぞ。 「心配しなくても大丈夫だよ」 いや、だからそういう問題じゃなくてえ。男は黙々と歩く。薄暗い夜道をひたすら歩く。月がきれいだった。一時間歩いてホテルに着く。えっ、本当に着いたのか? 初めは着いたのが信じられんほどだった。リキというその男は妻子のためにお金が欲しいと言う。 「いくら欲しいんだ?」 「200ペソ」 ありがとう、リキ。案内してくれてよっ!私は彼に50ペソ渡した。リキは少し不服そうだが礼を言って帰っていった。また一時間かけて。
 それから私はホテルでイタリア料理を食べた。500ペソほどだった。近くにカジノがあるというので行ってみたが、カラーのないシャツを着用している人は入場できません、と断られた。帰り道でぼろぼろの服を着た6歳くらいの女の子が右手を突き出してきた。小銭を1ペソしか持ってなかったのでそれを渡すと、女の子は無言で首を振った。でも、どうすることもできんのでそのまま帰った。私は人権主義者じゃないけど、つくづく人間は不平等だとその夜は思った。
* 当時のレートで1ペソは約4円
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NO16 カンボジア~その2
2007-08-28 | Weblog
NO16 カンボジア~その2
アンコール・ワットやアンコール・トムにはカメラのフィルムや絵葉書や笛や扇子を売りつける少女がごまんといる。観光客を見つけると、「お兄さん、お兄さん」と雲霞の如く寄ってくるのだ。彼女たちをかきわけ、かきわけ遺跡を見ているうちに、ふと思った。プノンペン市内ではほとんどお金を使うことはなかったが、遺跡を見るためにシェムリアップに来てからは予想外に散財した。まず、プノンペンからシェムリアップ間の航空券が55ドルに、帰りのスピード・ボート代が25ドル。アンコール・ワットに一回入場するたびに20ドル必要だ。あと、バイクタクシーやホテル代も結構使ったし、出国税もいるから、その分だけ所持金から引いてみるとだな........。があ~ん! 今日のホテル代を払ったらすかんぴんやあ~っ! 困ったあ~、どうすんねん、と遺跡の中で一人、頭を抱える私であった。
 ともかくホテルに戻り、リュックをかき回してみると、ベトナム紙幣が5万ドンほど見つかった。すぐに中国人経営の両替商で両替してもらうと、9ドルになった。う~、ありがたや、これでご飯が食べられる。あとは日本円の硬貨をかき集めると2000円ほどになったが、硬貨は両替できない。日本人のツアー客をアンコール・ワットの前で待ち構えて、紙幣に両替してもらおうか等と思案しながらもう一度ホテルに戻ると、フロントで日本人らしき男が二人、話をしている。そう思うやいなや私は一目散に駆け寄り、彼らに話しかけていた。
 「すいません、日本のかたですか?」 「そうですよ」
 事情を話すと、心良く両替してくれた。のみならず、ホテル内にある中華レストランでご飯をおごってくれ、1万円も貸してくれた。いい人やあ~。聞くと、これからバンコクからネパールへ行き、帰国するのは二か月後だそうだ。あとから考えると、二か月もの間、2000円も使えない硬貨を持ち歩くのはさぞかし邪魔だったであろう。川原様、ありがとうございました。おかげで私は生きて日本に帰ることができました。
 さっそく、二日間世話になったバイクタクシーのソーウオッポにガイド料を払う。大金が入って気が大きくなっていたので奮発して20ドル渡した。とたんに彼の顔がだらしなくデヘヘ~となったので、しまった、払い過ぎたなと思った。初日にガイド料を聞いたら、「It depends on you 」(お任せします) と言われていたので少なかったら悪いと思っちゃうんだよな。敵も人の心理をよく心得てるよ。いかん、いかん。せっかくのお金を大事に使わんとな。それからは出費をできる限り押さえた。ずっと頭を洗ってなかったのでシャンプーを買いにコンビニに行った時も、5ドル(!)もしたので30分迷って結局、買うのをやめたくらいだ。(頭がかゆい)
 だけどプノンペン・ポチェントン空港の出国税が20ドルだったのは痛かったぞ。その日はバンコクで一泊し、翌朝ホテルの前でタクシーを拾う。空港まで350バーツだというので「バーツの持ち合わせがない」と財布の中身を見せた。運ちゃんはその中にあったドル紙幣を目ざとく見つけ、空港で5ドルを両替すればいいと提案し、運賃も300バーツに負けてくれた。空港の銀行で5ドル出すと、両替は最低10ドルからだと言う。仕方なくボロボロの5ドル札をもう一枚差し出すと、古いお札は受け取れん、とぬかす。きしょーめ、ビンボー人だと思ってなめんなよ。今度は1ドル札を5枚取り出すと、それも駄目だと拒絶! ふぎーっ! どないせいっちゅうねんっ!! 結局、最初の5ドルだけ両替してもらった。(なら、最初からそうしろよな)
 ドンムアン空港の出国税は250バーツ(現在は500)。出国審査を終えるともう外国の通貨は必要ない。手持ちのお金を日本円に換金し、この時点で所持金が1000円と9ドルと5・5バーツ。  
 なんとか帰国して自宅にたどり着いた時の所持金は1133円だった。昔、「がっちり買いまショー」というテレビ番組があったが(知ってるか?)、その海外版があったとしたらわしの優勝やあ~っ!

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#1

2024-04-07 | 日記
 最近になってこのブログを閲覧された方に連絡。

2003年に私はドリアン長野に頼まれホームページの開設を手伝いました。 私はこちらのブログを担当しています。
ドリアン長野は2009年以前に何度も渡航したばかりか2010年代に福知山でマラソンを二回完走されました。
カレーが好きなドリアン長野が管理するブログのみ閲覧されても構いません。
令和になってからはドリアン長野が管理してるホームページが存在してるのでそれらのみ楽しんでもらっても構いません。

ドリアン長野フェイスブック  ノート版ドリアン長野  ドリアン長野の読書三昧

NO1 オリエンタル・ホテル
2007-08-23 | Weblog
 オリエンタル・ホテルに泊まった。あの世界一という栄誉を冠せられるオリエンタルである。私がカオサンでよく泊まっていたサイアム・オリエンタルじゃないぞ。シャングリラもペニンシュラもリージェントも頭が高い! ひかえおろ~う! 正真正銘、一番安い部屋でも310米ドルもするビンボー人には絶対泊れん、あのオリエンタルじゃい! ハァ、ハァ、ハァ。(肩で息をする音)同行の友人(アジア旅行は初めて)が宿泊代を出してくれるというのだから私に異存はない。これは泊まらないわけにはいくまい。いや、泊まりたい。是非泊まらせてくれ、お願いだ。オリエンタルにはスイカジュースを飲みに行ったことがあるが、まずくて冷えてないわりに200バーツもしたぞ。どうなってんだ? ちなみに私がバンコクで一番好きなホテルは知る人はよく知ってる、あのグレース・ホテルだ。この前、昼過ぎにチェックインしようとしたら満室だからと断られた。フロントのおばちゃんに近くにもっと安いホテルがあるからそこへ行けといわれたが、ここがいいと駄々をこねたらパスポートを預かっとく、6時頃もう一度来いやと言われ、やっと泊まることができた。その際、押し合いへし合いするフロントに割り込もうとしたアラブ人にフロントのおねいさんが 「みんな順番守ってんだからちゃんと並んで待ってなさい!」 とものすごい剣幕で怒鳴っていた。幼稚園児のようなアラブ人もアラブ人だが、客にそこまでいうか、ふつう。とにかくこのホテルはあやしい。アラブ人のおっさんがタイの少年二人をつれて部屋に入っていくのを見たことがあるし、隣の部屋から苦しそうなあえぎ声が聞こえてきたこともある。(何してんだ?)ロビーには売春婦とアラブ人が、てめえらここのソファーで夜をあかしてんだろ、と思うほどいつでもたむろしている。一階の卓球台では黒人がいつも卓球やってるし。(まっ、健全)ここにはディスコが二つあるが、一階のディスコは中近東風の音楽でみんな踊りまくっている。いっぺんだけ行ってみたことがあるが、ついていけん。あのリズムでどうやって踊ればいいんじゃ~い。それに比べて地下にあるディスコはまともだ。(まともか?)毎晩(たぶん)、売春婦をつれて朝の二時まで踊り狂うアラブ人。熱い、熱すぎるぞ。マーブンクロンで黒のアメリカンスーツ(笑)を買った時なんざあ、ホテルの近くのアラブ人街をうろつき、見せつけてやった。我ながらアホやぁ~っ、ワシって。その時、黒人の二人連れが近づいてきて 「おれたちアフリカの○○○○出身(国の名前は忘れた)なんだけど今度、日本で働きたいんだ」 と言うのだ。あわてて「こっ、これから友だちに会いに行かなきゃならないし、明日は朝一番の便で日本に帰らなくちゃならなくて時間がなくて」 とかいって逃げてきた。そんなことはどうでもいいのだが、オリエンタルにチェックインした時は私もようやくゲスト.ハウスからここまで登りつめたのだと感慨深いものがあった。(人の金だけど)                
 さすがオリエンタル、部屋もさることながらホスピタリティつうのか、一人一人の客の顔と名前を覚えてくれて至れり尽せりのサービスである。そんでもって立食形式のレセプションパーティーに招待されたのだが、そこにいた女子大生の二人連れ! 聞くと、バンコク滞在中の4日間はず~っとオリエンタルに泊まるとぬかすではないかっ! タイは初めてだからオリエンタルだと安心だと思ったからだとぉっ! ワシでさえ一泊なのに。(人の金で)学生やったら、安宿に泊まらんかいっ! とぶっちしたんだけど(内心ね)、気をとり直してその夜はオカマショーの「マンボ」に行くことになった。ショーがはねたあと、せっかくオリエンタルに宿泊してるんだからと出演者をホテルの部屋に招待することにした。そのむねを小太りのマネージャーに伝えると、 「オリエンタルはドレスコードが厳しいから入れてもらえないかもしれませんよ」 というではないか。出演者のカマー(オカマのことね)も 「あら~ん、あんな高級ホテル、大丈夫なの? あなた保証する?」 などという。どうにかなるだろっと九人のカマーを三台のタクシーに押し込み、ホテルに向かった。結果はホテル・マネージャーに頼みこんで、部屋は駄目だがガーデンならいいということになった。ホテルが氷やグラスを用意してくれてわれわれは宴会を始めたのだが、いや~さすが世界一のホテルといわれるだけのことはある。さすが鷹揚やね。チャオプラヤー川の夜風に吹かれながらの宴会は最高でしたっす! とここまではよかったんだけど、実は大きな声じゃあいえないけどさ、部屋にあったセイコーの置き時計をカバンに入れて持って帰ったのよね。チェックアウトの時になんにも言われなかったから、しめしめって感じで。ところが一か月後にホテルから請求書がきた。時計が紛失していたのでクレジットカードからその代金を引き落とさせていただきますってな。それがなんで2000バーツになるんじゃい! 何の変哲もないただのちっこい時計やないかい! 世界一にしてはせこくないか! もしかしたらボッてるんちゃうんかい、オリエンタル! ふざけんじゃね~! って悪いのはオレか。よい子のみんなはお持ち帰りはスリッパか歯磨きセットまでにしときましょうね。(泣)
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自己紹介
2007-08-23 | Weblog
尊敬する人は大山倍達とマザー・テレサとジョン・ライドンと町田康と中村うさぎです。ピストルズを聴いて人生に目覚め、スマッシング・パンプキンズで人生の悲哀に気づいた野球嫌いのA型の魚座の極真空手を愛するインドア派。-大阪在住の鳥取県産まれ-

NO15 カンボジア~
2007-08-28 | Weblog

「い、いっでぇ~っ!」 
腹痛で目が覚めた。時計を見ると、まだ朝の5時前だ。シェムリアップのホテルでついに下痢に襲われてしまった。原因は分かっている。昨日、アンコール・トムを見物したあと、ホテル近くの屋台に夕飯を食べに行った。そこは広場に立ち並ぶ屋台のうちの一つで、母と娘が切り盛りしていた。昼に食事した時、彼女たちが親切にしてくれたのだ。広場にはゴミ捨て場もあって、ハエを追っ払いながらメシを食うのも難儀だったがな。行ってみると、昼間は汚れた顔をしていた娘が化粧して着飾っている。夜は営業用の顔か? ともかく、フルーツを何種類かミキサーに入れてジュースにしてくれたので、飲んだ。それがいかんかったようだ。しかし、その時点では大したことがなかったので、早朝にホテルをチェックアウトした。「フリーダム」という名のそのホテルはホテルといっても、ゲストハウスに毛が生えた程度だ。モーニング・コールを頼んだはいいが、部屋に入ってみると電話がない。はて、どうすんだ?と思っていたら、翌朝、フロントの人がその時刻に部屋のドアを叩きに来たのであった。このホテルはプノンペンの空港で客引きのにいちゃんに勧められた。バイクの送迎付きで一泊15ドルのはずなのに、二泊で40ドルだとぬかしやがった。(もちろん30ドルにさせたけど)行きは飛行機だったが、帰りの便が満席だったので、スピード・ボート(という名の渡し船)にした。
 ボートは強盗に襲われるので危険なのだそうだが、地元の人や観光客が大勢乗っていてのんびりしたものだ。5時間かけて、プノンペンに着く。ううっ、いかん、小腸及び肛門周辺に緊急事態発令~っ。船着き場からダッシュでホテルにチェックインして、トイレに駆け込む。軟便というよりは水である。ああっ、フラフラする。3時間ほど横になったが、眠れない。今日はゆっくり静養しようと思ったが、せっかくカンボジアまで来て無為に過ごすのはもったいない。なんとか病身を起こし、ピーピーのヘロヘロ状態でホテルを出て、バイク・タクシーをつかまえた。郵便局に行ってハガキを出してから、情報省に行く。ここでパスポートと写真を提出し、書類に必要事項を記入すれば、ジャーナリスト・カードを5ドルで発行してくれるのだ。その間、わずか10分。カオサンあたりで売っているぱっちもん(ニセモンのことです)とはわけが違う。何に使うのかというと、これが大いに役に立つ。日本に帰国する際、税関職員の目につくようにパスポートにはさんでおくのだ。職員がパスポートをめくりながら言う。 「これは何ですか?」 「ジャーナリスト・カードです」 「すると、今回はお仕事で?」 「ええ、まあ、取材でね」 とかなんとか言って楽しむわけだ、これが。(うっ、書いてて涙が.....)ともかくだなっ、それだけをやり終えるとシアヌーク通りにあるコンビニ、「Tokyo store」でパンとジュースとミネラルウオーターを買い、ホテルに戻った。まだ6時前だが、今日の行動は全て終了! ベッドに倒れ込む。
 それから翌朝までベッドとトイレを20往復はした。食欲はないが、脱水症状になるのでこまめに水分を補給する。買っておいたパンにはとうとう手をつけなかった。下痢と寝不足でヨタヨタと空港までたどり着き、なんとかバンコク行きの便に乗ることができた。その日はカオサンのホテルに泊まり、次の日にマニラ経由でやっと帰国した。その間、ず~っとお尻はピーピーさ。その3日後、仕事から帰ると保健所から留守電が入っていた。
 「あなたの乗っていた帰国便の乗客の中からコレラ患者が出ました。追跡調査をしたいので連絡して下さい」ってな!
 げげ~っ! あわてて夕刊を読むと、インド帰りの男性がコレラを発病。インドで食べた乳製品が原因らしい。今年始めてのコレラ患者。という記事が載っていた。その男はラッシーを飲んで感染したに違いない。そういえば、飛行機の中で私の隣に座った男は青い顔をして機内食も食べずに(私も無理して食べたが、残してしまった。機内食を残したのはそれが始めてだ)、頻繁にトイレに行ってたぞ。うぬぬ、まさか、そやつが.......。
 あくる日、保健所に電話して、体にはなにも異常なし、と答えておいた。「お尻がピーピーですう~」などと正直に申告するといろいろと面倒だ。昔、インドから帰った時に懲りてるからな。その日に病院に行って、薬をもらってきた。医者からは「3日以上、下痢が続いたら危険ですよ」とあきれられたけど。薬を飲んだら、お尻は沈静化した。それだけで済んだのならよかったが、私は当時、夜間大学に通っていたのだ。何日間かは薬を飲んでいたのだが、ある日、下痢が再発し講議を休んだ。しかし、その日は期末試験が行なわれていたのだったぁ~っ。知らなかったんだよぉ~。大事な必修科目を落とした私は結局、大学を中退することになってしまったのだ。ううっ、カンボジア~。
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NO14 カオサンの大晦日
2007-08-28 | Weblog
 カオサン通りでのニューイヤーズ・イブは一体どうなっておるのだ、という素朴な疑問を抱いた私はその実態を解明すべく、2001年12月30日と31日にカオサンに宿をとった。泊まったのは通りの中ほどにある「カオサン・パレス・ホテル」だ。あるガイドブックにも書いてあるようにサービスは良くない、っていうかレセプションの人間はやる気が全くないぞ。思わずここは中国の旅社かと思っちゃったぜい。ツインしかなく、おまけにエアコンは壊れていて530バーツもした。唯一の取り柄はNHK放送が受信できるってことぐらいだろう。   
 その日はバンラ-プ市場とパトゥ-ナムをうろついた。タイ人にとって正月はタイ暦の4月だし、中国系タイ人にとっても正月は2月ぐらいだから街は普段と変わらない。しかし、だ。7時頃に行ってみるとマーブンクロンの前には特設ステージが出来て、歌謡ショーとファッション・ショーのようなものをやってるし、ワールド・トレード・センター前のラチャーダムリ通りはホコ天になっていてすごい人だかりだ。こりゃあ、何かあると踏んだ私は鼻息も荒くカオサンに戻ったね。お祭り好きの私はじっとなんかしてらんねえよ、江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ。今日は特別な日だからってんで、奮発してコンビニでケーキを買って(といっても28バーツだよ、べらんめえ)、ホテルに帰ったと思いねえ。シャワーを浴びて、WTCで買ったヤイコのテープを聴いてじっと待ったさ。格闘家が試合前に音楽を聴いて精神を昂揚させるのと同じだな。そういえば日本でも大阪城ホールでヤイコのカウントダウン・コンサートが始まってる頃だ。とにかく気力、体力ともに充分だっ! 11時になると私は鼻の穴を通常より3センチばかり拡げて、フガフガとホテルを出た。
 最近のカオサンは渋谷化状態していて、タマ大の学生や地元のバンコクっ子が大挙して遊びに来てるよーだ。これもデカプリオ主演の「ザ・ビーチ」のおかげか? とにかく尋常じゃない人だかりだ。私は表通りや裏通りをうろうろしてカウント・ダウンを待った。私の泊まっているホテルの前にはオープン・レストランがあって、テーブルが道路の半分を占領している。必然的にそこが一番、混雑率が高くなるってわけだ。地元の人間やら旅行者やらがくんずほぐれつ、盛り上がっている。
 こら~っ、ビールをかけるんじゃないっ! わしは野村監督かいっ!(野球が嫌いなので去年はどこが優勝したのかも知りません)耳のそばでラッパをプープー鳴らすなっ! 人ゴミの中で踊るな~! 喧噪の中でもみくちゃにされるうちに何が何だかわからなくなってきた。ふんがぁ~。私はタイムズ・スクエアやトラファルガー・スクエアでも年越しをしたことがあるが、てめえらみたいな脳天気なやつらは初めてだっ! 白人どもっ、たかが新年になるだけなのに何でそんなに興奮するのだあ! そのうちレストランから流れてくる「オアシス」に合わせて白人どもが大合唱を始めた。薄れてゆく意識の中で私は思った。2000年に欧米人が連帯できる音楽って、やっぱりオアシスなのね。らぶあんどぴいす.....。「VSゲストハウス」の連中はこの時間、やっぱり新年を祝って一発キメてるんだろうか.....。ヤイコのコンサートのアンコールは何だったんだろう.....。「グレース・ホテル」のアラブ人たちは盛り上がってんだろうか? あっ、イスラム教は陰暦かぁ.....。いろいろと世話になったな、タイ人。お前たちのこと好きだけどな、最後に言わせてくれ、「マイ・サイ・パクチ~.......」(注) 
 しっかりしろ、おれっ! 目を覚ませっ! これじゃあいかんと思い、ホテルに帰ろうとしたが、ベルリンの壁より分厚い人壁に阻まれ、目と鼻の先にあるのに帰るに帰れんじゃないかっ! みなさ~ん、よいこは早くおうちに帰って寝ましょう~って、結局やつらは4時まで騒いでたぞっ、バカヤロ~!!(爆死) 
  
注 「パクチー(コリアンダー)を入れないでね」
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NO13 ネパール
2007-08-28 | Weblog
 カトマンズの朝は早い。そして寒い。ここ、バサンタプルの広場でも早朝から何することもなく人々がたむろしている。オーストラリアから来たという女の子が物乞いをする少年に仏心を出し、パンケーキを買ってやった。それを他のガキどもが見逃すわけはない。「僕にも、僕にも」と彼女を取り囲む。困惑顔の彼女はしかし、近くにいた大人がたしなめたおかげで事なきを得た。ああくわばら、くわばら、桑原和男(吉本のギャグどぇす)。寒いのでギャグも寒い。それにしても遅い。さっきから誰も来ない。なぜ私がこんな所で待ちぼうけを食っているかというと、今からさかのぼること昨日のことだ。
タメルで一泊した私はジョッチェンに投宿しようと昼前にここにたどり着いた。そして広場の入口にある貸し自転車屋の前の絵看板に目が釘付けになってしまったのだ。こっ、この一見ヘタだがよく見るとやっぱりヘタな絵は極真会館の松井館長ではないかっ。ほれっ、その証拠に極真マークもちゃんと描いてあるぞ。なにを隠そう、私は極真空手家だ。夢はムエタイ・ボクサーとルンピニー・スタジアムで戦うことだ。ちなみに子安慎悟?(あれっ?)のファンだ。ここってもしかしなくてもネパール支部じゃん。これも何かのお導き、天国の大山総裁、ありがとうございます、押忍っ。カラテ道場を知らないかとそこら辺の人に聞いてまわったが、誰も知らん。そうしている内に60歳くらいのお爺が出て来て言った。 「道場なら閉鎖して去年ニューヨークに引っ越したよ」
 何でネパールの道場がニューヨークに引っ越すんじゃい! と今ならつっこむところだが、生憎その時の私は冷静さを失っていたので心底、落胆した。せめて閉鎖した道場でも見たいと所在地を聞くと、このじっさま知らんとぬかしよる。何でやねん! 筋が通らへんやないけ! と今ならつっこむところだが、私はあせって平常心を失っていた。しばらくすると、じっさまはまわりの人に何ごとかを尋ね、郵便局に行こうと促すのだ。何でやぁ~~っっ?! しかし、頼みの綱はこのじっさましかおらん。大人しくついて行くと、うしろからガタイのいい男が追っかけて来た。 「僕の弟は黒帯で指導員をしてたんだ。僕自身は結婚して忙しくなったので茶帯でやめてしまったけど」 そうか、そうか。君がそうなのか。会いたかったぞ。我々は再会を約束し、そこで別れた。聞きたい話はたくさんあるが、まずホテルを確保しとかんとな。ホテルにチェックインする時もなぜかじっさまはついて来て街を案内してくれた(とはいっても広場とショッピング・センターだけだがな)。バサンタプルに戻り、さきほどの男と話をしていると彼の弟の黒帯空手男(クマルという名前)と奥さんがやって来た。奥さんは台湾人で、ネパール旅行中にクマルと知り合ったそうだ。二人はこの広場で露店商として土産物を売っているのだ。私とクマルはカラテについて飽くことなく、何時間も語り合った。奥さんは傍らに座っていて時おり会話に加わった。クマルの影響でカラテに詳しくなっているらしい。
  じっさまが再び現われて、「あっちで待ってるから」 と言った。このたわけた子泣きじじいめ。わしが何のために世界中で何度も何度も何度も(泣)騙され続け、何回も何回も何回も(号泣)金をまきあげられたと思うてけつかんねん! てめえの悪だくみなんぞ、こちとらお見通しでい!(我ながら気づくのが遅いっちゅうねん) 無視するとじっさまはいつの間にかいなくなった。あまりクマルの商売の邪魔をしては悪い。 「またあとでね」 と腰を上げ、近くのガキんちょたちにババぬきを教えて遊んでいたら、今度は見るからに怪しそうな男に肩を叩かれ、ついてこいと声をかけられた。てめえ、じじいの仲間か、と警戒心を抱きながらもついていった。それにしても人相悪いぞ、この男。私は5、6人の男女がたむろしている場所へつれてこられた。なによっ、あんたたち、変なことしたら大声だすわよっ。 
 「私たちはキョクシンカラテのメンバーです。オス!」 なんだ~、びっくりさせんじゃないわよ~。でも良かったわ、会えて。みんなに、すぐ近くにある彼らの先生(三段)のアパートまで案内してもらった。先生は8畳ほどの部屋に妻子と住んでいるのだが、壁の到る所にカラテの賞状が飾られている。何冊もあるアルバムは稽古や試合の写真ばかりだ。私(長野)は猛烈に感動した! この地でこんなにも極真カラテを愛している男がいたことに!! (梶原一騎調でお読みください)
 一週間後に試合があるからビザを4日間延長してカラテを教えてくれと懇願されたが、私は真面目なリーマン・パッカーだ。帰国して職を失ったら家賃が払えん。残念ながら断ると、それじゃあ、明日道場生とピクニックに行くから一緒に行きましょうと誘われたのだ。
 7時の予定が結局8時半に出発した(ネパールタイムだそうです)。8人が幌付きのトラックの荷台に乗って。みんなの顔を見ると何だかヤクザの出入りか自衛隊の演習って感じぃ~。着いたダクシンカリはヒンズー教の寺院で神サマに捧げるためにヤギの首をはねるそうだが本当にはねていた。ピクニックといってもネパール人は弁当なんぞ持っていかん。材料を持参して現地で料理する(もちろんカレーっす)。トラックに積んでいたバカでかいインド製のカセットでダンス大会をするつもりだったらしいが、シャイなネパール人は誰も踊ろうとしないのだ。ここでも私が得意のダンスを披露して、皆の尊敬を一身に集めたのはいうまでもない。
  翌朝、バサンタプルを歩いていると誰かに聞いたのか、「僕もキョクシンカイです」と佃煮にできるほどのガキんちょ、いや少年たちに声をかけられた。そういうわけで朝からこの広場にはあっちこっちで気合いがこだまするのであった。オッ~~ス!
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NO12 大都会バンコク 
2007-08-28 | Weblog
 友人をバンコクに連れていくと、必ずこう言う。 「バンコクがこんなに都会だとは知らなかった」
(次にくる言葉は「タイ人がこんなにオシャレだとは思わなかった」だ)
 そんな時、私は内心思うのである。どうだっ、驚いたかっ。なめんじゃねーぞって、なにも私がムキになることはないんだけどさ。スカイトレインから景色を眺めていると、マンハッタンのセントラル・パークかと思っちゃうような場所もあるし、この前なんか世界一高いホテル、バイヨーク・スカイの展望台から夜景を見たら、さすがの私もびっくりしちゃったよ。
 「おおっ、すごい。私はこんな大都会をあっちに行ったり、こっちに来たり、うろうろしてたのか」
 バンコクの人口はスラムの住人や地方からの労働者を合わせると、1千万人を超えるといわれる。日本人は不法滞在者を入れると3万人が住んでいるそうだ。ある意味ではバンコクは東京やシンガポール(行ったことないけど)以上の大都市であり、欧米型の都市とはあきらかに違う。
 第一に、あの厳しい気候だ。ニューヨークや最近の日本の夏もかなり暑いが、タイの季節は雨期と乾期しかない。バンコクに限って言えば、ほとんど毎日が暑い。関西人がアホなのは小さい頃からお好み焼きやうどんやたこ焼きといった小麦粉食品を大量摂取しているので、全身のみならず、脳も炭水化物化しているからだという説があるが、東南アジア人がボーッとしているのも毎日暑いからである。昼過ぎになるとあちこちの店先では店員がだら~っと犬のように眠りこけている。シエスタなどというかわいいもんではないな、あれは。スコールになると、降水量が多いのか、水はけが悪いのか、街中が水浸しになる。そんな時、ここは東南アジアにできた都市であるということを実感するのである。
 第二に、なんといってもあのタイ人だ。バンコクにも、もちろん悪人はうじゃうじゃいる。コンビニで売られている「クライム・ニュース」という雑誌には殺人事件の被害者の惨殺死体がばんばん載っていて、これが微笑みの国の人間のやることか~っと思うのだが、大抵のタイ人というのは人がいいというのか、細かいことは気にしないというのか、早い話がぬけている人が多い。ファランポーン駅構内にコンビニがあるのだが、そこに野良犬が入り込み、奥で涼んでいた。警備員がやって来て、追い出すのかなと思っていたら、しゃがみこんで犬の頭をなでてやっていた。(日本では想像しにくい光景じゃありませんか、皆さん)
 発展途上国や中進国の警官は国民から賄賂を要求するのが公然となっているが(タイでも、もちろんそれは日常茶飯事だ)、バンコクで軽犯罪を犯した三人の大学生が罰金を持っていなかったので、その代わりに警官が彼らに腕立て伏せをやらせたという様子が新聞記事になったことがあった。(そういうことが記事になって、話題になるということ自体が中進国らしいね)
 先進国で同様な処置をしたら前近代的だとか、人権問題だとか姦しいだろう。私は西欧民主主義から観た、前近代的といわれることが間違っているとかは思わないけどね。
 先日、関空に行くためにタクシーに乗っていたら、運転手の奥さんと娘さん(名門タマサート大学を次席で卒業した才媛。日本人としては始めての快挙らしい)はバンコクに住んでいるという話になった。若い頃、建築作業員として海外を転々としていたが、タイが気に入り、住みついてしまったらしい。日本にはお金を稼ぐために単身帰国して、1日も休まずに働いているそうだ。
 「来年には仕事をやめて、タイに戻るつもりです。日本は嫌です。やっぱり私にはタイの水が合ってるんでしょうなあ。でもたった一つだけ、タイには悪い所があるんですよ。実は私、ドンムアン空港の近くに家を持っとたんですが、空港を拡張するっていうんで土地ごと没収されてしまったんですわ。弁護士を雇って国と争ったんですが、一銭の補償もなしです。あの時は参りました。それだけです、嫌な所は。タイ人はいい人間なんですけどね」
 今はバンコク市内にアパートを三軒持っているそうだ。タイ人はぬけている奴らばかりだが、国はぬけていなかったらしい。それよりも、そんな目に会ってもタイが好きだという彼の気持ちが私にはよ~く分かって、ちょっぴり感動しちゃったぞ。
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NO11 バンコクの魅力
2007-08-28 | Weblog
 「なぜタイがそんなに好きなのか?」 とよく尋ねられる。そのたびに考えるのだが、自分でもよく分からん。タイに移住している日本人にインタビューするというテレビ番組を観たことがあるが、そのインタビュアーが元モー娘の中澤ねえさんだった。中澤ねえさんが 「なぜタイが好きなんですか?」 と私も何度ともなく聞かれた質問をある日本人にぶつけた。その人は「ここでは戦わなくてもいいですから」と答えていた。う~ん、そうかもしれんな。何かにしゃかりきになってるタイ人なんて見たことがないぞ、私は。タイ人に限らず東南アジア人というのは(日本人から見て)物事を深刻に受けとめる能力が欠けている人が多い。バーツが大暴落しようが、エイズが蔓延しようが社会全体が重苦しくなったりはしない。
 私はスコールの時に、傘を持つ習慣のないタイ人と一つの軒下で雨宿りしたり、中華街でトラックから荷物の積みおろしをしている半裸の労働者を眺めたり、屋台引きのフルーツ屋からスイカかパイナップルを10バーツで買って歩きながら食べたり、夜、通りを歩いていてふいに後ろを見ると象がいるのに気づき、象使いから20バーツで買ったエサをやったり、朝、セントラル・デパートの一階にある「スタバ」でホット・チョコレートを飲みながら通りを眺めたり、たまには豪華にインドラ・リージェントホテルでバイキングの朝食をとったり、ディスコの帰り、深夜2時にロビンソンで飲み物を買ったりするのが好きだが、中でも一番好きなのがドンムアン空港からバスで市内に向かう時間だ。これだけのためにもバンコクへ行く価値があると私は思う。市内までの交通手段としては空港の前に鉄道駅があるし、エアポート・バスやもちろんタクシーでも行ける。以前、タクシーに乗ったらドライバーがホテルの所在地を知らなかったので、50メートルも走らないうちに降りた。すぐ別のタクシーに乗ると、そのホテルまで遠いから1150バーツだとぬかしやがった。高いと文句を言うと、今度は500だと言う。怒ってタクシーを止めさせて降りた。相場はだいたい、250から300バーツだ。3台目でやっと目的地までたどり着くことができた。私は一度お金の節約のために市バスに乗ってみて大いに気に入り、それからは必ずこれに乗ることにしている。
 空港を出て、大通りの前のバス亭で24時間運行のファランポーン駅行きの29番バスを待つ。なかなか来ねえなと少しやきもきするのも趣がある。やっと来たバスに乗り込むと、すでに車内は学生や労働者や主婦といった風体の人で一杯で、旅行者は私一人だ。安い航空券で日本を発てば、バンコクには深夜に到着する。深夜なのになぜいろんな階層の人がバスに乗っているのか、日本からやって来た旅行者には不思議でしかたがない。どんなに混んでいても女性車掌は新しく乗り込んできた人を見逃さない。運賃を徴収し(普通バスは深夜料金で5バーツ。エアコン・バスなら16バーツ)、ブリキ製の筒をパカパカいわせ、ロール状のチケットに切り込みを入れ、ちぎって渡してくれる。なんで車掌は太った人が多いんだ? バスがかなり揺れるから重心が安定するためにそういった女性を優先的に採用するのか? 等と考えているうちにバスは停留所を五つ、六つ通過し、ようやく座れるようになる。車内は窓を開けていても、むっとするほど暑い。汗がにじみ出るのを感じながら車内灯をじっと見つめていると、ボーッとなってくる。アセチレン灯のようなそれが縁日を思い起こさせ、幼い頃の記憶があれやこれやと浮かんでくるのだ?信号でバスが停まる。車窓から古びたアパートやコンビニが見え、ソイからひょいっと人が出てくる。何でもない光景だが、ひどく懐かしい。ああ、またこの街に戻ってきた、と心の中でつぶやく。スカイトレインの駅が見えてくるとバスはやがてパヤタイ通りを南下する。アジア・ホテルの前を通るともうすぐだ。ラーマ一世通りを左折すれば左に終点のファランポーン駅が現われる。運河の側の停留所に降りると、私にとってもうここは外国だという意識はない。故郷に帰ってきた、そんな感じだ。
 到着第一日目はカオサンに泊まるのもずっと変わらない。ここはタイらしくないと敬遠する人もいるようだが、私は商店街で生まれ育ったせいか、いろんな人たちがうろうろしているのは好きだ。遅くまでやっている屋台でカオ・トム(おかゆ)を食べ、コンビニで雑誌や飲み物を買う。バンコクに来た時の儀式のようなものだ。これも私の楽しみのひとつである。
 ある国や地域が好きになるということは言うまでもなく、その人自身が何に反応するかという内面の問題だ。私のように瑣事に喜びを感じる人間は 「なぜタイが好きなのか?」 という質問には 「行ってみれば分かるよ」 としか答えられない。

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NO10 ドリアン
2007-08-28 | Weblog
 人は非日常的な体験を求めて旅に出る。海外ならなおさらだ。しかし、それが食文化になると頑なに自国の食生活に固執する人がいる。たとえば、欧米人なんかがそうだ。彼らは外国においても朝はトーストとハムエッグ、昼はマクド(関東地方だったらマックよね。おされだわ)というスタイルを崩そうとしない。マーブンクロンのクーポン券式大食堂には欧米人の姿も見かけるけどな。大半は一、ニ度料理を食べてみて後はコーラとハンバーガーってとこだろう。君たち、それで満足なのか? 私はイギリスではフィッシュ・アンド・チップス、アメリカではステーキとハンバーガーを食い続けたぞ。まずかったけど、それでも我慢して食ったわい。(我慢して食うなよ)
 自国以外の食生活に興味を持たんから、鯨を食う日本人は野蛮だなんてぬかすんじゃい! 「美味しんぼ」の海原雄山も食はその国の文化だとゆうておろーが。私はある国に行ったら、その国の人間が食べている物を食い倒すぞ。フィリピンやベトナムでおやつがわりに食べてる、孵化寸前の鶏の卵は塩をかけて食うとうまいんだよっ! 海外番組のTVリポーター(女優)は「いや~ん、気持ちわるう~い」とか「やっだあ~、ざんこくう~」とかぬかしてんじゃねー! アラブ人街に行ったら、羊の脳みそのカレー煮込みが安く食えるぞ。ベトナムでは時間があれば、センザンコウでも犬でも食いたかったわい。イサーン地方では虫も食べる。カオサンやラーチャダムヌーン・スタジアムの前やナナ・エンターテイメント前の路上に行けば、屋台でいつでも売ってるぞ。メーンダーは黒くて一見するとゴキブリに似ているがタガメだ。羽と足を取り、歯で身をしごいて食べる。その他にはバッタのフライとかコオロギとかカイコのさなぎとか赤アリとか、全部スナック感覚だ。もちろん、私の口に合う物もあるし、合わん物もある。だが、口に入れてみなければ味は絶対にわから~ん! 食わず嫌いはいろんな事を損してると思うぞ。
 日曜日の夜の「世界ウルルン紀行」はタレントがいろんな国へ行って、一週間ホームステイするという番組だ。お世話になった家族と別れるシーンで私はいつも号泣してしまう。下條アトムのナレーションが泣かせるんだ、これがまた。ある日の番組では某男優がアフリカの某国に行った。その国では牛がとても重要な役割を担っているわけだよ。畑を耕したり、牛乳を飲んだりはもちろん、牛糞を燃料にしたり、家の壁にしたりな。それどころか、尿をシャンプーにもするし、飲んで胃に収めてから吐き出して胃腸を整えたりするのだ。その男優がそれに挑戦した。牛の泌尿器の下に容器を構え、おしっこを受ける。男優は容器になみなみとつがれたおしっこを眺めた。さあ、どうするんだ? 本当に飲むのか? 私は手に汗握って見つめたね。彼は一瞬ためらったが、ついにうぐうぐと飲み干し、そして吐いた。司会者に「どんな味でした?」と聞かれ、彼は苦いような、しょっぱいような、とにかくすごい味でした。その味が今でも口に残っています、と答えた。私は猛烈に感動したね。これが感動せずにおられよかってんだい。世の中には健康飲料だと称して己のおしっこを飲むやからがいるが、自分のでも躊躇すんのに、ましてや牛のおしっこだぜ。サムライだね。えらいもんだ。郷に入っては、リーに従えとはこのことだっ!(離婚したけど)さすがの私でもおしっこまでは飲めん。そこでドリアンだ。フリが長かったな。ドリアンを屁のにおいだとかウンコくさいとか言うやつは、牛のおしっこも飲めんくせにグタグタぬかすんじゃねー!(無茶苦茶)
 ドリアンは確かに強烈なにおいがする。バンコクの「ロビンソン」で買ったドリアンをリュックに隠し、日本に持って帰った。(見つかると税関で没収だからな)機内でもリュックを開けるとガスのにおいが漂うので、冷や汗もんだったさ。その密輸入したドリアンを会社の同僚が食べてみたいって言うので、親指大をアルミ箔で包み、ビニール袋に入れて会社に持って行った。ロッカー室で包みを開け、食べさせてやった。その後、会社の人が「ガスくさいぞ。ガス漏れしてるんちゃうか」と騒ぎ始めたのだ。本当のことを言うに言われず黙っていたら、誰かが電話したんだろうな。大阪ガスの車がやって来てガス漏れの点検をやり始めた。しばらく調べていたが、もちろん異常なしで帰っていった。恐るべし、ドリアン! 今でも会社の人には真実を伝えていない。でもさ、ドリアンアイスとかドリアンスナックとかドリアンキャンディーとかドリアン羊羹(がバンコクの伊勢丹で売っとるのだが、これはさすがに食したことはない)はうまいとは思わん。ドリアンの身上はにおいではなく、カスタードクリームを濃厚にしたような 、あのねっとりとした果実だ。これぞ、キング・オブ・フルーツ。ドリアンを食べるためだけに、タイに行く人の気持ちが私はよく分かるぞ。ドリアンを食べていると私は幸せになる。納豆やくさやの干物を好んで食べる日本人が、においだけで毛嫌いするのはどういうわけだ。
 マレーシアに行った時、屋台にドリアンを食べに行った。買ったその場で食べていると、「ドリアン、むっちゃ、うまいわ~」 「ほんま、最高やね~」という大阪弁が聞こえてきた。見ると、屋台のテーブルで女の子が二人、必死の形相でドリアンにむしゃぶりついていた。クアラルンプールは退屈な街だったが、その時の光景だけはよく覚えている。
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NO9 スワニー
2007-08-28 | Weblog
 君はスワニーを知っているか? もちろん、知っておろう。チャイナタウンにある、なぜか日本人パッカーに人気があって140バーツで泊れるが麻薬及び娼婦関係等のトラブルが多いので日本大使館の悩みの種の楽宮ホテルの一階にある日本料理が食べられる安食堂の北京飯店のことだ。なぜスワニーというかというと、切り盛りしているのがスワニーという女主人だからなのだ。そうだったらそうなのだ。なぜ日本料理なのに北京飯店なのかは、永遠の謎だ。
 私はチャイナタウンに行くたびに楽宮ホテルを探すのだが、なぜかいまだに見つけたことがない。公園を中心にして、7月22日ロータリーが6本の道となって放射線状に伸びているのだが、歩いているとこれも安宿である台北旅社にいつも行き着いてしまうのだ。もう一つの伝説のジュライ・ホテルは私がチャイナタウンに足を踏み入れた頃は閉鎖していたと思う。楽宮を一躍有名にした、谷恒生の「バンコク楽宮ホテル」は日本では絶版になっていて、私はバンコクの紀伊国屋書店で買った。文庫本が314バーツもしたので、買う時に迷ったぞ。バンコクの物価を考えると3日は食えるもんな。北京飯店のことはいろいろな本に書かれていて、私はスワニーさんに会って、カツ丼や焼そばを食ってみたい! と長らく熱望していたのだ。なにもバンコクまで行ってカツ丼食うこたあねえだろうとは思うが、それはほれ、気は心ってやつよ。(意味不明)
 ロータリー付近に行くといつも方向感覚が無くなって、記憶が途切れたような気がするのは、毎晩立っている娼婦の怨念か、ビンボー旅行者の呻吟する霊のせいに違いない。これは腰をすえてかからねばならない。というわけで、ファランポーン駅前のクルンカセム・シークルン・ホテル(京華大旅社)に泊まることにした。
 このホテルは名前は厳めしいが、一泊500バーツの中級ホテルだ。部屋は清潔で、何よりも駅まで3分で行けるのが嬉しい。駅はチケットがなくてもホームには自由に出入りできるので、夜になると長い長いホームを虫の鳴き声を聞きながらうろついたり、かまぼこ型の高い天井を見上げながらベンチに寝転んだりするのは気分がいい。
 ホテルの裏の通りには「旅社」とだけ書かれた看板が掛かっている、怪しい館がいくつかある。二階へ続く木造の階段の入口にはおねいさんがたむろしていて、前を通ると獲物を狙う猛獣のような眼でじろじろ見られたり、時には声をかけられたりするというナイスな環境だ。ラーマ4世通りを左に折れると、そこはもう、暑いバンコクの中でもさらに暑苦しいチャイナタウンだ。
 フカヒレスープやツバメの巣が安いので、私はここに来るたび、ここぞとばかりにガツガツと意地汚くむさぼり喰う。ヤワラー通りにあるホワイト・オーキッド・ホテルの前にはうなぎの寝床のようなラーメン屋があるのだが、ここの麺がうまい! クイッティオ(米麺)やバーミー(小麦粉麺)はコシがあるし、ルークチン(魚のつみれ)はコクがある。いつ行っても人でいっぱいだ。私なんか朝から3杯も喰っちゃったもんね。えっと、何の話だったっけ? そうだ、スワニーだ。その日の夕方、私は地図をぐっと睨み、ロータリーの右から2本目の通りに入って行った。少し歩くと、あれはまさしく北京飯店だ。やっと見つけたぞ。食堂に入ると客はおらず、女の人が一人でメシを喰っていた。空腹ではなかったので、お粥を注文した。食べながら聞いてみる。 「あの、スワニーさんは?.....」 「はい、わたしです」 
 そうか、あなたがあのスワニーか。私は本を読んで想像を膨らませていたので、やせこけて、引っ詰め髪でこめかみに梅干しを絆創膏で張り付けたようなおばちゃんだと思っていたのだ。(今どき、そんなおばちゃん、いるかーっ。しかもバンコクに)
 スワニーはにこやかで、美人といっても決して過言ではないような(微妙な言い方やな)人だった。私は街で、テレビに出ている有名人に出会うことよりも嬉しかった。たとえば、V6の森田剛に会うことよりも、嬉しい.....と思う。
 彼女は「あさりの味噌汁飲む?」と聞いてきた。必ず客にあさりの味噌汁か冬瓜のスープを薦めるようだ。これも本で読んだ通りだぜ。お粥も味噌汁もとてもうまかった。最後に食べた焼そばはちょっと塩辛かったけどな。(食べ過ぎやっ!)
 メニューに書いてある「豚丼」というのは、カツ丼のことだろーか? 今度来た時に試してみよう。自分が少食なのが悔やまれる。(一日、何回喰えば気が済むんだ、お前はっ!)
 メシを喰ってる時に入ってきた中年の男に、スワニーはお金を渡していたが、あれが旦那さんか? まさか悪い男に騙されてるんじゃないだろーな(とすっかり身内気分)。スワニー、バンコクに来た時はまた寄るよ。私は長い間たまっていたウンコを排泄したような清々しい気分で食堂を出た。
 その夜、ファランポーン駅前でソムタム売りのねーちゃんに声をかけられた。彼女たちはイサーン地方出身で、天秤棒を担ぎながらイサーン料理を売っているのだ。客はゴザに座って、彼女たちが石臼で作ったソムタム(パパイヤやトマト等を加えた辛いサラダ)を食しながら故郷に想いを馳せるのである。そうだな、日本でいえば京成上野線の日暮里駅界隈の安キャバレーで東北出身のおっちゃんが同じ東北出身のホステスにうだうだと愚痴をたれるようなもんだな。
 ソムタムを喰い終わると、おねいさんはもっと食べない? と言って、別の料理をもう一品作ってくれた。それも食べた。さすがに満腹だ。しかし、彼女はそれで許してはくれなかった。豚の絵が書かれた黄緑色のソーセージを取り出して、「これで作った料理はおいしいわよ」と私に迫るのである。こうなったら、イサーン料理を喰い尽くしてやろうじゃないかっ。私は苦しさに涙をこらえつつ、異国の星空を見上げながら食べた。ぜいぜい、もう勘弁しておくんなせえ。幸運にも料理はそれで終わりだった。
 「うえっぷ、もう帰りますう。おいくらですかあ~」 「一品50バーツだから、全部で150バーツね」 なにお~、ひゃくごじゅうばあつだとぉ~、げっぷ。私は久々にボラれたよ。最初に値段を聞いてなかった私も悪いんだけどな。気をつけろよ、夜のファランポーン駅前でおねいさんに声をかけられて、鼻の下を伸ばしているとボッタくられるぞ、この私のようになっ!(いばってんじゃねーっ!)

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NO8 クロントゥーイ市場
2007-08-28 | Weblog
 私は市場やスーパーやコンビニやデパートに行くのが好きだ。行って何をするのかというと、生鮮食品や加工品や日用品を見るのである。見るだけで楽しいので、買い物はあまりしない。日本人が集まる「伊勢丹」や「フジ・スーパー」もいいが、私のお気に入りはスクンビット、ソイ5にある「フードランド」(ここにはカウンター方式のダイナーがあるが、午前2時、3時でもアラブ人や白人や黒人がメシを食っている。余計なお世話だが、体に悪いぞっ、とひとこと言いたくなる)、シーロム通りとラーマ4世通りの交差点にある「ロビンソン」、チャクラポン通りの「タングアセン・デパート」やその近くのワット・チャナソンクラムというお寺の向かいにある小さなコンビニ(店員は二人か三人の若い女性。いつもおしゃべりしている。あまりやる気なし)等だ。
 バンコク市内には多くの市場がある。中華街のサンペーンレーンやアラブ人、インド人、黒人が多いプラトゥーナーム市場、インド人街のパフラット市場(ここにあるハンバーガーショップに入り、椅子に座ったら店員がヒンズー語のメニューを持ってきた。どうせ私はインド人並みに顔が濃いわよっ!キィーッ!)なんかが有名なのだが、私が一番好きでバンコク滞在中は必ず行くのがクロントゥーイ市場だ。
  この市場の周辺にはバンコク最大のスラムがあり、そこを通って市場に足を踏み入れると、初めて訪れた人は気分が悪くなるに違いない。なにせ、生臭さと汚物のにおいが入り混じっているし、鶏や魚の内臓が山と捨てられてるし、道はそういった汚物と泥とでぐちゃぐちゃになってるし、かつ、ゴミがあちこちに散乱しているからだ。神経質な人は行かんほうがいいだろう。ここには鶏や豚の頭や足や内臓、野菜、果物、魚、カエル、なまず、カブトガニ、虫等、いろんな物が売られているが、私がこの市場に来るのはニワトリのを見るためだ。まず、ニワトリを釜で焚いた熱湯に放り込んで殺してから、分離器にかけて羽をむしり取る。それを半裸になった男たちが次々と包丁で解体していくのだ。私にとっては興味深い光景で、何時間見ていても飽きない。熱気と悪臭が充満するそのの傍らには市場の子供だろう、5歳くらいの女の子がすやすやと寝ているのだが、人間はどんな環境にも順応するんだなあと妙に納得する。
 話は唐突に変わるが、モンゴルの遊牧民の生活をテレビで観たことがあった。ご承知のように、彼らにとって羊はなくてはならぬものである。何歳かになると、羊の解体を覚えなければならない。馬に乗ることと羊を捌くことができないとモンゴルでは生きていけないのだ。何人かの子供が羊を持った大人の周りを取り囲む。大人は神に祈りを捧げ、羊が苦しまないようにナイフで頸動脈を一気に掻き、大地に血を一滴も流さぬように捌いてゆく。子供たちは真剣な面持ちで眺めていて、私も神聖な儀式を観ているような気持ちになったな。で、思うんだが先進国では肉も魚も切り身になってスーパーで売られとるが、元の形を実際に見る機会は金輪際ない。うんこでも出した形状を観察すれば、それが今朝食べたものか前の晩に食べたもんかくらいは判別できるだろう。うんこなおもちて往生をとぐ、いわんや切り身をや。自分でも言ってることが全く分からんが、口にする動物の解体現場も観たことがないから食べ物を粗末にするんだっ! と私は言いたいのだ。反省しろっ、先進国の人間どもっ! なんてね、当のタイ人が食べ物を粗末にするんだもん。もう、ちょっと満腹になれば残す、残す。そんなもんすね、う~、脱力。
 おまけにクロントゥーイ市場の脇に流れとる川は解体処理の水を汚物と一緒にそのまま流すもんだから、はっきり言ってヘドロ。川底からはブクブクとメタンガスが発生しとるよ。飛び込んだりしちゃったら即死だね、きっと。その上にプラスチックの弁当箱やビニール袋を平気で捨てるもんだから、環境保護団体なんかが見たら卒倒しちゃうね。地球に優しくないタイ人。でも私なんかそれを見たら何だか安心しちゃうんだけど、なぜだ?
 でも、行ってみて損はしないと思うよ、クロントゥーイ市場。旅行代理店の人、ワット・ポーの寝釈迦像や水上マーケットもいいけど、ここもツアーに組み込んでみたらどうすかねえ。
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第二バナー
2007-08-24 | Weblog

やや大きめの第二バナーです。
こちらもどうぞ。
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NO7 テーメーその2
2007-08-23 | Weblog
 予算の都合で、いつも泊まる「グレース・ホテル」ではなく、近くにあるソイ1の「ストリート1・ロッジ」に泊まった。それでもツインで550バーツだ。私の感覚では500バーツを超えると立派な高級ホテルだ。しばし、宿泊するかどうか迷う。それでもここはレセプションの兄ちゃんの愛想がいいのでお薦めだ。ホテルに戻ってきた時、「あけましておめでとうございます」と言われた。日本人の宿泊客に教わったらしい。「地球の歩き方」に載っているので日本人が多いらしい。まっ、私もそれを読んで泊まったんだけど。
 ホテルの近くの歩道橋のたもとにゴミ捨て場があるんだけど、その隣にホームレスが座って、物乞いをしてるわけさ。もう、よく見ないとゴミだか人だか分からないって感じ。そこへアラブ人のオジさんが通りがかりに「ライス、ライス」と言いながら、紙袋を置いていった。私はちょっと感動したね。いいことをしてやる、って態度じゃなくて、ごく自然な感じだったもんね。なるほどっ、それがイスラム教のいう、喜捨ってやつだなっ!アラブ人にもいい人はいるんだなとシミジミ.....。言っとくけどな、これって偏見ちゃうぞ。グレースにいるアラブ人を見てると、みんな悪人に見えてくるんじゃ~い。(顔も暑苦しいしな) それが偏見だと言われると返す言葉もないがな。とにかく心暖まる、いい話しだ。うん、うん.....。って、今回はそういう話じゃな~いっ! 性懲りもなく、テーメーネタ第二弾だっ! 全然、心暖まらないぞ。当たり前だがな。
 テーメーに入ると、私は空いている席を探してカウンターに座った。横を見ると、黒ずくめのおばあさんが座っている(注:バンコクでは、その方面の職業婦人の方の服装は黒です)。
 う~ん、この人はまさか.....。いぶかし気に見ていると、彼女が話しかけてきた。 「あんた、どこから来たんだい?」 「日本です」 「日本人かい。それなら、ほら、あそこに座っているスズキはもう何年も前からずっと、ここに通っているよ」 
  我々のななめ後ろのソファーには、何人もの娼婦を侍らせた、スズキと呼ばれた男が座っていた。常連か。スズキ、エイズで死ぬなよ。 
 「あたしはスージーだ」 すっ、すうじい~? 「客はとらないよ。客のくれるチップで生活してるのさ」 なるほど、納得。で、失礼ながらお年を聞いてみたが、「あんた、そんなこと、こんな場所で聞くもんじゃないよ」と一蹴されてしまった。すんまそん。だが、おそらく70代であろう。スージーはテーメーの最長老であり、娼婦からはママと慕われ、頼りにされるボス的存在であった。スージー、あんたに出会えて光栄だ。私は思わず名刺を渡してしまったくらいだ。スージーは顔見知りの白人がやって来ると急いで駆け寄り、話しかけたり、ビールの注文を取ってきたりしていた。酔っぱらって大声でしゃべる客の相手もしていた。スージー、生きていくってのは大変だなぁ。やがて、女の子が隣に座り、笑いかけてきた。  
 「私、クンっていうの。アユタヤから来たの」 すかさずスージーが口を挟む。 「その娘はグッドだよ。ベリー・グッドだ」 あんたは商品の売り込みまですんのか? これ以上、長居しているとむりやり売りつけられそうだったので、そそくさと退散した。それにしても、私もいつかスズキみたいに言われてみたいもんだ。 「あの日本人、常連だよ。テーメーじゃあ、知らない者はいないね。初めて会ったのはあたしが70の頃だったね」ってな。それまでスージー、長生きしろよっ。なんだかんだ言っても結局、最後は心暖まる話になっちゃったな。(なわけねーだろっ!)
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NO6 バンコクのディスコ
2007-08-23 | Weblog
 パッポン通りにある、チョー有名なディスコ「○シファー」に行った。ええ、踊りましたとも。全てを忘れて踊り狂いました。気が付いたら、2時間ぶっ続けで踊っていた。時々、白人や黒人や日本人観光客がダンスを教えてくれと進み出てきたけど、スタミナもリズム感もないから話にならないね。黒人に踊りを誉められたことが私の唯一の自慢だ。次の日は二人のタイ人大学生を引き連れて踊りに行ったが、彼らは恥ずかしがって観ているだけだ。2時間も退屈だっただろう。誘って悪かったのぉ。ホテルに帰るのが朝の3時。寝るのは4時だ。毎日フラフラになってるのに踊り始めると身体がシャッキとするのって、これって異常じゃないかぁ~? でもダンシング・ハイってお金がかからないから、まっいいか。そうだろっ、「VSゲストハウス」のみんな!(注)
 3日目はカトゥーイのレックとトミーを誘ったが、入口で店員が「会員じゃないと入れませんよ」とぬかしよった。嘘にきまっとろーが。オカマが入店したら風紀が乱れるってかい。特にレック(小さい、という意味です)は名前のわりにはガタイがいいから、見た目ですぐにオカマってわかるけどな、乱れてんのはてめえの顔のほうじゃい! オカマを差別するんじゃねーっ。でも2人とも怒ったり、落胆した素振りはなかった。きっとこんな事には慣れっこになってるのね。(シクシク)
 シーロム通り、ソイ4の「TAPAS」に行ってみたのだが、閑散としている。ギャラリーが少ないと、踊ってても張り合いがない。私は自分の踊りを誰かに賞賛してもらいたい。(我ながら、オレってやつは....)トミーが言った。 「私の知り合いがお店をやってるから、そこに行きましょう」 
 そして連れていかれたのがソイ2にある「YOUR PLACE」だった。ここはフロアから3階の吹き抜けの通路まで人でビッシリ、上から見ると、踊ってるというより、死体に群がる蛆虫がうごめいているとしか見えん。なによりもここは90パーセント以上が男、もしくは男たちのカップルで占められ、スキンへッズに皮のパンツにリストバンドという典型的なそれ系白人どもが便所でディープ・キスをしているという、ハード・ゲイからタイ人のソフト・ゲイ(?)までが集う、天下無敵のゲイ・ディスコだ~~っ! お立ち台の連中、所せましとフロアから通路まで踊り狂うゲイども、私の真後ろで椅子にのぼって半裸で肉体を誇示しているやつ、どいつもこいつも恍惚の表情をしている。はっきり言って私はうれしいぞ。踊りは熱狂的じゃないとな。みんな、明日の憂いは忘れて今夜は踊りあかそうぜいっ! エイズなんかに負けるなー!
 .......... 気が付くとまたもや2時になっていた。誰もが自分の踊りに熱中していて私には注目してくれなかったのが残念だったがな。いつの間にかレックとトミーがいなくなってしまった。外に出ると、ディスコの向かいにガラス張りのコーヒーショップがある。そこから10人くらいのモーホー野郎が横一列に座ってディスコから出てくる男を欲望に満ちた目で物色しているという香ばしい風景だ。ソイの入口で2人を探していると、左ななめ45度に熱い視線を感じた。見ると、パンク・ヘアーを金髪に染めたジャニーズ系の男の子が私を見つめ、ウインクまでしてきた。(もっ、もしかして.....)その男は近づいてきて言った。 「何してるの?」 「友だちを待ってるんだけど.....」(レックとトミー、どこ行ったんだ、早く戻ってきてくれ~!) 「あなた、ゲイ?」 「違う、違います! 私はゲイではありませんっ!」 そいつは一呼吸おいた後、こう言った。 「あなたのこと好きよ」 どひぇ~~っ!! 初対面の男に、しかも会ってから1分以内にそんなことを言われたのは生まれて始めてじゃいっ! 「もし友だちが見つからなかったら、そこのバーガー・キングにいるから今晩つきあって」 つっ、つきあうって一体なにをなにしてどうしてどういう意味で.....。(もはやパニック状態)
 私は友だちを探すふりしてタクシーを拾って逃げた。(バンコクでは何だかいろんな事から逃げてるなぁ)でも、でも今でもあの男の子のことを考えるたびに残念な気持ちがするのは、なぜぇ~っ?!
注 「VSゲストハウス」はカオサンにある、ヤク中が集まる安宿として有名。宿泊客の8割以上はヤクが目当てだといっても過言ではなかろう。頻繁に警察の手入れがある。
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NO5 ホーチミンのディスコ
2007-08-23 | Weblog
「今晩、ディスコに行かないか?」 
バイク・タクシーのヒューはメコン・クルーズのボートの中で聞いてきた。今日はニューイヤーズ・イブだし、社会主義国のディスコってのも気になるしな。古めかしい建物の二階にあるディスコにヒューと行くと、彼の奥さん(ディスコで知り合ったそうだ)が二人の日本人女性を連れてきていた。彼女達と自己紹介をし、初めはおそるおそるっていう感じで踊っていたのだが、そのうち脳内にエンドルフィンとドーパミンが放出されたのだろう、体内メーターがレッド・ゾーンに入った。こうなると止めることなど不可能、私は我を忘れて踊りまくった。私の踊りは太極拳にブレイク・ダンスをミックスしたオリジナルだ。踊り始めると周りには人がいなくなるという危険なダンスだ。ふっ、お嬢さん、気をつけなせえ。俺に惚れるなよ。この時も無我夢中でキープ・オン・ダンシング、気がつけばみんな、私の周りを遠巻きに見物している。もっ、もしかしてこれって奇異の.....、いや違うね!(なぜかきっぱり) 羨望の眼に決まっとる。(とむりやり納得)
 見て見て、もっと見て~。快感だわ。そのうち、輪の中から一人のベトナム少女が踊りながら出て来た。そうなの、私と一対一で日越ダンス対決をするつもりなのね。わかったわ。受けてたってあげる。私たちは我を忘れて踊った。離れては近づき、近づいては離れ、相手の差し出す一挙手一投足に呼応し、互いのリズムを感じ取りながら。歓声が上がり、拍手が起こる。誰かがタオルを差し出した。汗を拭いて観衆に投げ返すと、我先にと奪い合う。オーホッホッホッ。私はスターよ。今宵のディスコ・キングなのよ~。 
ひと休みして外のソファーに座っていると、通りがかった人が「かっこよかったよ」と言って握手を求めてくる。ふっふっふっ。ホーチミンのディスコは最高だぜい! よしっ、来年まで踊り続けるぜい、ベイビー、と腰を上げるとヒューが「もう帰ろう」とつまらなさそうに言う。えっ? まだ11時ですぜ、だんな。   
 「ベトナムのディスコは深夜まで営業できないんだよ」 
そうか、さては私のあまりの人気を妬んでるな。仕方なく私たちは帰った。こうしてホーチミンの長く暑い夜は更けていくのであった。
そんでもってこの前、スクンビットにあるディスコ、「ナルシサス」に行った。行ってみて驚いたぜ。最先端のハウスやトランスはいいんだけどさ、みんな下半身だけ揺らしながら踊っているのだ。何だ何だ、その金魚踊りは? やる気あんのかっ。踊りっちゅうのは、なんちゅうかこうもっと情熱的に踊るもんちゃうんかいっ! こんなんやったらグレース・ホテルのエスニック・ダンスのほうが100倍ましやっちゅうねん。かくなるうえはわしが乗り込んで踊りの基本を教えたるわっ、とフロアに出て行こうとすると連れの女に必死に止められた。(なんでやねん) 
 私は日本ではクラブに行かないので分からんが、ハウスはああやって金魚踊りをするのが主流なのか? 誰か教えてくれ~。こうなれば次に狙うのはゲイエリアで有名なシーロム通りのソイ4じゃい。金魚野郎ども、首を洗って待っとけ!
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NO4 カトゥーイ
2007-08-23 | Weblog
 私はカトゥーイが好きである。とはいっても女よりも男に性的興味があるという意味ではない。中島らもが額に「犬」と入れ墨を彫ったり、鼻に安全ピンをぶらさげたパンクスは「俺、もう後戻りできんもんね。もうどうなっちゃってもいいもんね」というある種の社会性を放棄した意志を表明している、という意味のことを書いていた。カトゥーイも性転換なんかしちゃったら後戻りできんのである。いや性転換なんかしなくてもカマーとして生きていくにはいくらカマーに寛大なタイ社会でもそれなりの気苦労や不便さがなくはないとはいえないこともないかもしれんような気がしないでもない。私はその、人生は私が主役だもんね、欲望には結局勝てないんだもんね、みたいな気持ちが好きなんである。オカマ・ボクサーのパリンヤーも結構、強かったのに性転換手術をして引退してしまった。私はパリちゃんのファンだったのに。日本に来て試合をした時、試合終了後にパリちゃんが対戦相手にチュー(死語?)をした。それを見て私はファンになったのだ。パリちゃんの勇姿をテレビや「格闘技通信」で見られなくなったのは悲しい。そういえば、友人のカトゥーイのレックは元ムエタイ・ボクサーだった。シャープな顔だちの美人だが、時々眉間にしわを寄せて男になる。ボクサーからカトゥーイへの転身ってのはあんまり多くないと思う。たとえてみれば、力士がオカマになったようなもんか?(やっぱり違うか)レックも対戦相手に胸をときめかせたりしたんだろうか。でも、「マンボ」のコミック・ショーのカマー(外見はまるっきり男)は「僕の彼女は日本人の女の子なの」って言ってたなあ。「男と女、どっち好き?」って聞いたら、「どっちも」としゃらっと答えた。きさま、バイセクシャルだったんか~い。というわけで人間の嗜好なんてえのはよく分かりません。
街を歩いていてきれいな女の人に出会ったとする。その時、私の感情に芽生えるのは「うらやましい」である。ああ、私もあんなきれいな顔になりたいな~、なんて思うのである。(いっとくけど私はゲイではない)男にちやほやされて手玉にとってみたいと思う。(ゲイじゃないぞ)ゲイソン・プラザの近くにあるドラッグストアの「ブーツ」でイミディーンを買ったら(ちなみにイミディーンっていうのは肌の老化をおさえる薬だ。だからといってゲイとはちがうぞ)、白衣が似合う男の店員がとてもかわいかった。彼にもらった住所録をいまだに愛用しているくらいだ。(しつこいけどちがうぞ)バンコクに行くたびにその店を訪れるがいつも彼はいないので寂しい。(だからちがうって)レックにもらったミス・コン(カマ・コン?)の時の彼の写真も私の宝物だ。ああ、もう2時だわ。ダブで洗顔して早く寝なくっちゃ。睡眠不足はお肌の大敵だものね。
 パリンヤーのドキュメンタリーがハリウッド映画になるそうだ。タイ人がハリウッド映画の主役に抜擢されるのは初めてらしい。私はもちろん観に行くぞ。パリちゃんの勇姿が映画で観られるなんて今から楽しみだわ????
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NO3 続テーメー・カフェ
2007-08-23 | Weblog
<前回までのあらすじ>
天使の街、バンコク。ここに世界最強のコーヒー・ショップがあると聞いた「私」は現地に赴いた。そこであやうく生命の危機にさらされたが、すんでの所で窮地を脱する。臥薪嘗胆で知力、体力を充電した「私」は再びバンコクへ飛ぶ。果たして「テーメー」の黒い野望を阻止し、打ち砕くことができるのであろうか。雌雄を争う戦いが今まさに始まろうとしていた......。
「私、客がつくかどうか試してみるわ」こう言うと彼女はボックス席に移った。一人になると隣のおばちゃんが話しかけてきた。ふくよか、というよりも太った近所のおばちゃんという感じだ。名前を教えられたが覚えてないので風貌を思い出し、麻原彰子とする。「イサーンからバンコクに出てきて家族6人、アパートのせっまい部屋に住んでるんだよ。ビンボーは嫌だね。仕事は楽じゃないし。あたしも43だからね、もうおばあさんだよ」と彰子さんは切々と訴えるのである。そうか、肉体労働はきついだろう、っていう前に出動要請があるのか? おばちゃん。ボックス席の友人を見ると、すでに白人となにやら話しこんでいる。ここは入れ食い状態なのか? 何を話してるのか気になるぞ。こっちはこっちで入れ代わり立ち代わりタイ人が話しかけてくる。彰子さんが言うには、みんなイサーン出身の仲間なんだそうだ。(調子にのってマーブンクロンで作った名刺をばらまいたが、大丈夫か? )その中の一人は「私はいろんな人と話すのが好きだし、英語も勉強できるからテーメーに来てるの」と遠い目をして言った。(そっ、そうなのか? よく知らんがそれは違うと思うぞ。ひょっとしてエイ○に脳が犯されているのか?)そのうち、友人がもどってきた。「あの人、イギリス人なんだって。なんだかインテリっぽくてさ、この国の教育問題とかを熱く語ってきてん」 何い~っ、教育問題だとぉ~。そんな話ならタマサート大学でも行って、学生とでもしやがれっ。偽善者め。ここは黒いテーメーやぞっ。テーメーにインテリなんぞ、時間厳守のタイ人やお金に淡白なインド人やプレイボーイのラオス人と同じくらいおらんのじゃー!(偏見か? しかし頼むからワシの思い入れを壊さんでくれ~い。テーメーはいつまでも黒いテーメーであって欲しいんじゃ~い)
 「あんた、どこのホテルに泊まってんだい?」いきなり彰子さんが聞いてきた。「あの....グレースですけど.....」 「部屋でマッサージしてあげるよ。ルームナンバーは?」 「いっ、いや、今日は友だちも一緒だし、あっ、そうだ、明日もう一度来るから、その時に.....」 「それじゃあ、待ってるよ」 すまん、おばちゃん。我々は明日の昼過ぎの便で帰国してしまうのだ。いくら待ってても来ないぞ。私は心の中でおばちゃんに手を合わせた。今度バンコクに来た時はテーメーに寄らせてもらうぞ。マッサージは受けないけどな。おばちゃんをよく見ると、慈母のごとく見えんでもない。その長い人生にはつらい出来事もたくさんあっただろう。我々は二人がかりでおばちゃんの肩を揉んでやった。誰かテーメーに行ったら、彰子おばちゃんの肩でもマッサージしてやってくれ。喜ぶぞ。マッサージを受けたら、もっと喜ぶと思うけどな。
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NO2 テーメー・カフェ
2007-08-23 | Weblog
 2001年の1月、ソイ・カウボーイに行こうと友人とスクンビットを歩いていたら、怪しいネオンサインに縁取られた看板が目に入った。その看板に書かれていた文字を読んで私は思わず息を飲んだのであった。「テーメー・コーヒーハウス」 思えばこれがテーメーに集う怪しくもしたたかな人々と私とのハートウオーミングな交流の始まりであった(嘘)。ここがテーメーかぁ~。私がその名を知ったのはクーロン黒沢氏の「バンコク電脳地獄マーケット」という本だ。その名も世界最強の援交カフェ。ジャングルの奥地でアンコールワットを発見した時のフランス人探検家の心境もかくやであったであろう。地下へと降りる私の心拍数は200ぐらいになっていた。この扉の向こうにはいかなる世界が待っているのか。めくるめく、快楽のバビロンか、はたまた魑魅魍魎の棲むブラックホールか。神様、私をお助けください。お母さん、先立つ不孝をお許しくださいっ。ええいっ、ままよっ、ぱぱよっ。 ............店内は薄暗く、楕円形のカウンターを取り巻くようにボックス席があり異様とも思える男女がゴキブリのように密集している。私の頭の中にはワイドショーでお馴染みの「24時間潜入ルポ、私は見た! バンコクの黒い援交カフェの実態!!」という言葉が浮かんだ。店内の人たちの刺すような視線が痛い。これって場違いってことじゃあ......。バカヤロー、ふざけんな~、べらんめ~、こちとら江戸っ子で~い(嘘)。矢でも原爆でも持ってきやがれってんだい。.....という言葉とは裏腹に店内を一周した私たちは異様な雰囲気に恐れをなし、そそくさとテーメーをあとにしたのであった。しかし、気になる。ここで引き下がってはジャーナリストとしての使命は果たせん。(誰がっ?!)私たちは再び潜入を試みた。暗い店内を今度はゆっくりと観察するように歩く。女はタイ人かアラブ人、男は白人と日本人らしき人がちらほら.....。ピーター・バラカン似の男と目が合い、その男が話しかけてきた。「僕はアメリカ人だけど、韓国で働いてて、休暇になるとここに遊びに来るんだ。ところで、彼女のカメラ危ないよ」と友人を指差す。彼女は首からカメラをぶら下げていたのだった。「この前、店内で写真を写したヤツが袋だたきになったからね」なっ、なんだあ~? 刺すような視線はそのせいか。そういやあ、その昔、西成暴動の写真を撮ってたらいつのまにか100人くらいの労働者に囲まれ、殺されるかと思ったもんなぁ~、と往事を偲びつつ(偲ぶなよ)、再びテーメーをあとにしたのだった。
半年後、私は別の友人とテーメーにいた。人生はどこで何が起きるか分からんもんである。っていうか、常夜灯に群がる蛾のように怪しい人間は怪しい場所を好むもんである。あいかわらず満員電車なみのゴキブリの群れだ。カウンターに座ると、ぬらりひょんのようにどこからともなくウエイターが現われたので、50バーツで飲み物を注文する。一旦、注文すれば朝までねばってもノー・プロブレム。援交相手に何時間くっちゃべっててもOKだ。これってマニアにはめちゃくちゃおいしいんじゃないのかしら、オホホ(私にはよく分からんが)。
その時、友人(34歳。離婚2か月目)がすくっと立ち上がってこう言ったのである。「私、客がつくかどうか試してみるわ」。 (続く)


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長期休暇もない有給休暇もないリーマン・パッカーが、短い休日と高い航空券にもめげず海外を旅したお笑いエッセイ

 自己紹介
尊敬する人は大山倍達とマザー・テレサとジョン・ライドンと町田康と中村うさぎです。 ピストルズを聴いて人生に目覚め、スマッシング・パンプキンズで人生の悲哀に気づいた野球嫌いのA型の魚座の極真空手を愛するインドア派。 -大阪在住の鳥取県産まれ-


 ~旅支度について~
パスポートの入手、渡航先の選定、旅先の海外旅行案内書を購入して読んで予習、必要なら電子渡航認証等の申請や観光ビザの所得、外国語の学習、旅費と休暇の捻出、複数存在する旅に必要な商品の購入、外貨の保有、交通費、宿泊費、海外旅行保険の支払い等を
済ませないとお気楽に海外旅行は行えません。


 海外旅行記の内容はドリアン長野が渡航した時の状況です。海外では町名が言語によって異なりますので旅行記内において日本では一般的ではない町名が存在します。  予算やお薬は多めに用意して下さい。 複数の時計を利用し時差に対応しましょう。
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出入国に関わる法規制や価格等は過去と現在で異なるので渡航前に各自で確認下さい。
 私はドリアン長野からホームページについて頼まれ平成15年にgoo簡単ホームページを利用した後、こちらを担当してます。
 一日から14日に一回以上、14日から月末迄に一度は投稿する予定です。
敬具 マーキュリーマーク

 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。 旅も好きだが、旅行記も好きだ。この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。何よりも文章がうまい。奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、一気に読め、感動的でさえある。朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。
旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。