goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

墨池記(宋代)曾鞏 (韓国語訳などから日本語にしました)

2021-09-25 10:41:50 | 日記
墨池記(宋代)曾鞏

臨川之城東,有地隱然而高,以臨於溪,曰新城。新城之上,有池窪然而方以長,曰王羲之之墨池者,荀伯子《臨川記》雲也。羲之嘗慕張芝,臨池學書,池水盡黑,此爲其故跡,豈信然邪?
方羲之之不可強以仕,而嘗極東方,出滄海,以娛其意于山水之間;豈其徜徉肆恣,而又嘗自休於此邪?羲之之書晚乃善,則其所能,蓋亦以精力自致者,非天成也。然後世未有能及者,豈其學不如彼邪?則學固豈可以少哉,況欲深造道德者邪?
墨池之上,今爲州學舍。教授王君盛恐其不章也,書‘晉王右軍墨池’之六字於楹間以揭之。又告於鞏曰:“願有記”。推王君之心,豈愛人之善,雖一能不以廢,而因以及乎其跡邪?其亦欲推其事以勉其學者邪?夫人之有一能而使後人尚之如此,況仁人莊士之遺風餘思被於來世者何如哉!
慶曆八年九月十二日,曾鞏記。


原文、译文(現代中国語訳)のある簡体字のサイト

原文、譯文(現代中国語訳)のある繁體字のサイト
https://fanti.dugushici.com/ancient_proses/47521

原文、韓国語訳のある韓国語Blog

ずっと韓国語訳から日本語にしていたところ、韓国語訳に酷い箇所が出てきました。

そのときになって初めてYahoo!知恵袋に日本語訳が見つかりました。(ガックシ⤵️⤵️)
途中までの現代日本語訳がYahoo!智恵袋にあったんですね。

後半1/3は中国語のpdf資料も参照しました。
なお、中段の一部分の訳は加地先生訳を使っています。

(拙訳)
臨川の城の東に高く聳え立つ土地がある。下では小川に面しているのだが、新城と呼ぶ。新城の上にはボコッと窪んだ長方形の池がある。ここが王羲之の墨池というのは荀伯子が臨川記で述べたところだ。王羲之は嘗て張芝を慕うあまり、池べりに臨んで書芸を学んだのだが、池の水が全て黒くなった。ここがその遺跡だというのだけれど、どうして信じられようか?王羲之は官職の道を登るのを固辞して、東の地方をあまねく遊覧し、青い海へ出て行き、山水の自然で楽しみを探したことがあった。もしかしたら、勝手気儘にさまよっていて、ここで休息したのではなかろうか。王羲之の筆跡は晩年になってはじめて見事なものになった。とすると、王羲之の名筆というのも、おそらく努力に努力を重ねて自力でもたらしたものであって、生まれつきの力によるものではない。ところが、 王羲之以後、彼に及ぶものはまだ出ていない。後世の人たちの学習が、王羲之に及ばないためだろうなあ。まだ全く学習が固より、少ないのではないだろうか!まして深く書道を探求し、德を求めた点でも並の人が及ぶものだろうか?墨池の上には今、撫州の学舎がある。この学舎の教授、王君は、墨池の来歴がくっ付くか、とても心配になり、晉王右軍墨池と六文字を書いて、柱の間に掛けた。そうして、さらに喜び、しっかりと「私には記文が必要です」と言った。私は王君の気持ちを推し量ってみた。おそらく、他人の長所を好むから、よしんば一枝の長所であっても、それを埋没させようとしない。それだからこそ、王羲之の遺跡と1つにまとめて重視するのではないだろうか。あるいは、また推し量って考えるに、王羲之の臨池苦学の事跡を通して学ぶ者を鼓舞しようとしたのではないだろうか。そもそも人に一枝の才能があって、後世の人たちに、このような境地に達したと崇められる。ましてや、仁の人や君子が遺した気高さと美徳が後世に影響を及ぼすのは、どんなに深遠なことか。
慶曆八年九月十二日曾鞏記す


なお、正しい現代日本語訳は「漢・魏・六朝・唐・宋散文選」平凡社にあります。









金陵瑣事 周暉(明末)秀才何岳 (現代中国語訳から日本語にしてみました)

2021-09-23 12:50:55 | 日記
金陵瑣事 周暉(明末)秀才何岳

原文のあるサイト

兩次還金
秀才何嶽,號畏齋。曾夜行拾得銀貳百餘兩,不敢與家人言之,恐勸令留金也。次早攜至拾銀處,見一人尋。至問其銀數與封識,皆合,遂以還之。其人欲分數金為謝,畏齋曰:「拾金而人不知,皆我物也。何利此數金乎?」其人感謝而去。又曾教書於宦官家,宦官有事入京,寄一箱於畏齋,中有數百金,曰:「俟他日來取去。」數年絕無音信。聞其侄以他事南來,非取箱也,因托以寄去。夫畏齋一窮秀才也,拾金而還,暫猶可勉。寄金數年,略不動心,此其過人也遠矣。畏齋即觀察何矩所之曾祖。


現代中国語訳のあるサイト

現代中国語訳
译文:秀才何岳,自号畏斋,曾经在夜晚走路时捡到200余两白银,但是不敢和家人说起这件事,担心家人劝他留下这笔钱。第二天早晨,他携带着银子来到他捡到钱的地方,看到有一个人正在寻找,便上前问他,回答的数目与封存的标记都与他捡到的相符合。那人想从中取出一部分钱作为酬谢,何岳说:“捡到钱而没有人知道,就可以算都是我的东西了,(我连这写都不要),又怎么会贪图这些钱呢?”那人拜谢而走。他又曾经在做官的人家中教书,官吏有事要去京城,将一个箱子寄放在何岳那里,里面有金数百两,(官吏)说:“等到他日我回来再来取。”,去了许多年,没有一点音信,(后来)听说官吏的侄子为了他的事情南下,但并非取箱子。(何岳)得以托官吏的侄子把箱子带回官吏那儿。秀才何岳,只是一个穷书生而已,捡到钱归还,短时期内还可以勉励自己不起贪心;金钱寄放在他那数年却一点也不动心,凭着一点就可以看出他远过与常人


中国語訳から日本語にしました。(私は中国語を勉強したことがないので、怪しい日本語訳です)

(拙訳)
秀才何岳(畏斋と呼ぶ)は、かつて夜道を歩いていて200白銀余り拾ったが、家族に敢えてこの事を言わなかった。家族がこのお金を留め置くように勧めるのを心配したのだ。
翌日早朝、何岳はお金を携え、拾った場所に来ると、一人の人がまさに探しているところだった。すぐに尋ねると、答えた金額と封に書かれた金額が全て拾ったものと符号した。その人は中から一部分のお金を謝礼金にするため取り出しそうとしたが、何岳は言った。「お金を拾って、誰も知らないので、全て私のものにすることもできたのに、またどうして、こんなお金を求めてはいけないのに貪ることができようか?」その人は拝礼して去って行った。
何岳はまたかつて、仕官する人の家で書を教えていた。官吏は事が有って京城に行くとき、何岳の所に1つの箱を預けた。中に数百両のお金が入っていた。官吏は言った。「私が帰って来てまた取りに来る日まで待ちなさい。」かなりの年数が過ぎたが、何の音沙汰もない。官吏の甥に依ると、事情があって南下したとのことだが、箱も取りに来ない。何岳は官吏の甥に箱を持たせて官吏の所に行かせた。
秀才何岳は、ただ一介の貧しい学者にすぎないが、拾ったお金を返し、短い期間の内にも、さらに克己勉励し、貪る心を起こさず、金銭を預かる数年、むしろ少しも心を動かなかった。僅かなことを根拠にするだけで、普通の人を遥かに超えるのが見てわかる。

郁離子 千里馬篇(元末明初)劉基

2021-09-17 17:30:47 | 日記
郁離子 千里馬篇(元末明初)劉基

蜀賈三人,皆賣藥於市。其一人專取良,計入以為出,不虛價亦不過取贏。
  一人良不良皆取焉,其價之賤貴,惟買者之欲,而隨以其良不良應之。
  一人不取良,惟其多賣,則賤其價,請益則益之不較,
  於是爭趨之,其門之限月一易,歲餘而大富。
  其兼取者趨稍緩,再期亦富。
  其專取良者,肆日中如宵,旦食而昏不足。
  郁離子見而嘆曰:「今之為士者亦若是夫!昔楚鄙三縣之尹三,
  其一廉而不獲於上官,其支也無以僦(音就)舟,人皆笑以為癡。
  其一擇可而取之,人不尤其取而稱其能賢。
  其一無所不取以交於上官,子吏卒,而實富民,
  則不待三年,舉而任諸綱紀之司,雖百姓亦稱其善,不亦怪哉!」


原文と譯文(現代中国語訳)のあるサイト

  
現代中国語訳から日本語にしてみました。
(拙訳)
四川に三人の商人がいて、皆、市場で薬を売っている。その中の1人は優れた質の薬材を専門に仕入れ、購入価格に応じて販売価格を決定する。価格を偽って知らせない。利益を多く取りすぎない。1人は優れた質と悪い質の薬を全部仕入れ、販売価格の高い低いを、ただ購入者の求める度合いを見て決定する。それから、優れた質の品または不良品を購入者に合わせて売る。他の1人は優れた質の品を仕入れず、ただ多く買い求め、販売価格も安く、多く買えばもう少し多く渡し、細かいことを気にしない。こういうわけで、人々はそこで薬を買うために争って行き、その店舗の敷居は毎月一回換える。1年が過ぎ、非常な大金持ちになった。あの、優れた質の品と劣った品、同時に気を配る商人は、そこに出向いて薬を買う人は少し少なめだが、2年過ぎると、またも金持ちになった。あの専門に優れた品を仕入れる商人は、昼の店舗は夜なのと同じようで、朝食べると夜ご飯が足らなくなる。郁離子は見て嘆いた。まさに今の士たる者もまた、このようであるなあ。昔、楚の国の辺遠の3県の3人の官吏、その中の1人は、私欲がなく、行いが正しいのだが、上司の抜擢を得られなかった。彼は離任するとき乗る船を借りるお金がなかった。人々は皆、間抜けな奴だとお笑い草にした。その中の1人は都合よく獲得できる利益を取ることを選択した。人々は彼が掠め取ることを咎めないで、逆に彼は賢くて才能があると称賛した。その中の1人は、搾取しない利益はなく、獲得する利益は上級官吏に渡すために使った。彼は下級官吏、士官、兵卒であり、子どものようになった。金持ちには賓客のような対応だった。3年未満で長官法紀の職務に任命され栄転すると、庶民は、またも彼のことを善良だと称賛した。これは奇妙なことではないか!

唐國史補 (中唐)李肇

2021-09-11 10:33:02 | 日記
唐國史補 (中唐)李肇

裴佶常話:少時姑夫為朝官,有雅望。佶至宅看其姑,會其朝退,深嘆曰:“崔昭何人,眾口稱美。此必行賄者也。如此安得不亂!”言未竟,閽者報壽州崔使君候謁。姑夫怒呵閽者,將鞭之。良久,束帶強出。須臾,命茶甚急,又命酒饌,又令秣馬、飯仆。姑曰:“前何倨而後何恭也?”及入門,有得色,揖佶曰:“且憩學院中。”佶未下階,出懷中一紙,乃昭贈官絁千匹。

——李肇《唐國史補》


原文と現代中国語訳 (譯文)のあるサイト
裴倍姑父外廉內貪:裴佶常話:少時姑夫為朝官,有雅望。佶至宅看 -華人百科

原文と一部分の現代中国語訳のあるサイト
良久,束带强出.须臾,命茶甚急什么意思_百度知道

現代中国語訳から日本語にしてみました。
(拙訳)
裴佶(字弘正752~813)は嘗てこんな事を話したことがある。裴佶がまだ若い時、おじさん(父の姉妹の夫)は朝廷に仕える役人で、品行清らかで貴いと評判がよかった。一度、裴佶はおじさんの家に行き、おじさんが朝廷から退出するのに間に合った。(おじさんは)深く深く嘆いて、独り言を言った「崔昭はどんな人なんだ。人々は口を揃えて皆、崔昭を称賛する。これはきっと賄賂をして獲得した評判だろう。こんなのが続けば、どうして朝廷の政治を腐敗させないことができようか。裴佶のおじさんの話がまだ完全に話し終わらないうちに、門番が壽州の崔長官がご主人様に謁見すると報せた。裴佶のおじさんは聴くと怒って、門番を叱り一度鞭打った。長い時間が経ち、おじさんは装束を整え、敢えて客を出迎えた。すぐ、おじさんは家の人に崔長官にお茶を出すよう命じた。またしばらくすると酒宴の準備を命じた。またしばらくすると、崔長官の馬に草を食べさせ、使用人にご飯を食べさせるよう命じた。崔長官を送り出した後、おばさん(父方のおば)は、おじさんに尋ねた。「あなたはどうして前はあんなに傲慢だったのに、後はどうしてそんなに謙虚なのですか?」裴佶のおじさんは意気揚々とした面持ちで門に歩いて行き、手を振り、裴佶をここから離れさせて言った。「しばらく書院に休みに行きなさい」裴佶は家を出て、まだ門前の階段まで行かないうちに振り返ると、おじさんが懐から1枚の紙を取り出すのが見えた。紙には書いてあった「崔昭は太織りの絹織物千匹を贈る」と。

郁離子 巻下(明)劉基   田璆論救楚 (中国語訳を参照して日本語にしてみました)

2021-09-03 12:29:03 | 日記

郁離子 巻下(明)劉基   田璆論救楚

秦恶楚而善于齐。王翦帅师伐楚,田璆谓齐主曰:“盍救诸?”齐王曰:“秦主与吾交善,而救楚是绝秦也。”邹克曰:“楚非秦敌也,必亡,不如起师以助秦,犹可以为德而固其交。”田璆曰:“不然。秦,虎狼也,天下之强国六,秦已取其四,所存者齐与楚耳。譬如摘果,先近而后远,其所未取者力未至也,其能终留之乎?今秦岂诚恶楚而爱齐也?齐楚若合,犹足以敌秦。以地言之,则楚近而齐远,远交而近攻,秦之宿计也。故将伐楚先善齐以绝其援,然后专其力于楚。楚亡,齐其能独存乎?谚有之曰:攒矢而折之,不若分而折之之易也。此秦之已效计也。楚国朝亡,齐必夕亡。”秦果灭楚,而遂伐齐,灭之。

中国語訳(譯文)のある中国語(簡体字)のサイト

http://www.8bei8.com/book/yulizi_100.html

http://www.shuzhai.org/gushi/yulizi/14805.html

中国語訳を参照しながら、日本語にしました。
(拙訳)
秦の国は楚の国が斉の国に対し友好なのを憎悪していた。秦の将軍王剪は軍隊を統帥して楚の国を伐った。田璆は斉の王に言った。「どうして救援に行かないのか?」斉王が言った。「秦王と私の関係は友好だ。もし楚の国を救援すれば、それはすなわち秦の国との関係を断絶することになる。」邹克は言った。「楚の国は秦の国の戦う相手ではない。楚は必ず滅亡する。兵を起こして秦の国を助けに行くのに及ばない。そのようであれば、秦に恩を売り、秦の国との関係を揺るぎないものにできる。」田璆は言った。「そのようにはできない。秦の国は凶悪残忍だ。天下の強国が6個あって、秦の国は既にその中の4個を奪取した。存在するのは斉の国と楚の国だけになった。果物狩りのようだ。先に摘むのは近いもので、それから摘むのは遠いものだ。そのように、まだ秦に奪取されていない地方は、その力が到達していないからだ。秦は最後にあなたを保留して攻めるのか?まさか今、秦は本当に楚を恨み、斉を愛しているのだろうか?もし斉、楚両国が力を合わせれば、まだ秦の国に反抗し得るに足りる。地理や位置に照らして言うと、まさに楚の国が近くて斉の国が遠い。遠くと友達になり、近くを攻める、これが秦の国が一貫して使用する手段だ。それ故に、秦は楚の国を攻め、初めに斉の国と友達になって救援を絶ち、それから楚の国に力を集中するのだ。諺の言葉で言うと、矢を集めて折るのは、別に分けて折るのが易しいのには及ばない。これは秦の国の成功の方策だ。楚の国は朝に滅び、斉の国は必ず夕べに滅ぶ。」果たせるかな、秦は楚を滅ぼし、それから遂に斉を攻め、滅ぼした。