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愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

つつしんでごぶさたのお詫びを申し上げます

2012-12-19 00:06:32 | 日記

 このブログをお読みいただいたみなさま、ご無沙汰して申し訳ありませんした。3か月近くもすっかりごぶさたしていたにもかかわらず、その間、たくさんの方にのぞいていただき、恐縮です。

 この間、特に何かがあったわけではないのですが、強いていえば夏の疲れが一気にでてしまい、集中力の持続しない日々が続いておりました。とはいえ、フェイスブックやらツイッターで遊んでいたのですからこのいいわけも嘘っぽくなってしまいます。

 夏以来、ルイとどんな生活をしていたかというと、8時前後にぼくが帰宅するとたいていルイが玄関にいて迎えてくれました。着替え、夕飯を終えるまではおとなしくしているのですが、それからがルイとの時間になります。

 ぬいぐるみやらボールなどのオモチャをくわえてきて、「さあ、遊ぼうぜ」と催促します。ソファーに座り、それらを投げたり、引っ張りっこをしているうちにだんだん動きが激しくなってきて、ぼくのまわりを走り回り、ひとしきり暴れまわらないとなっとくしません。お互いに疲れ果て、ぼくはそのままソファーで爆睡というパターンが増えていきました。

 ルイもぼくの足元で丸くなって寝ています。そのまま朝まで寝てしまうこともあれば、途中で目覚めて寝室に移動することもありますが、ぼくが目が覚めれば、先にぼくのベッドまでいって寝ています。

 昼間、ぼくがいないときは、それはおとなしいわんこだそうです。たいてい寝ていて、いたずらなどいっさいしません。家人が外出してルイひとりが留守番しているときも何か悪さをした形跡はいっさいありません。

 それなのに、ぼくの顔を見るたちまちわんぱくというか、いたずら小僧に変身してしまうのです。とくにこのひと月ほどはパワーがついてきたので遊んでいても凶暴なわんこにさえ思えてしまいます。とにかく毎晩の激しい遊びが修練となってすっかり筋肉質のわんこに成長しています。

 そんなルイを見ながら、あるいは乱暴なくらいに遊んでやりながら、ついついシェラやむぎとの違いを痛感してしまいます。メス犬ながら女房など男の子としか思えなかったというくらい活発だったシェラでもルイほどではなく、ましてやむぎにいたってはひたすらおとなしく、やさしかっただけに、いま、ルイに手を焼きながらはじめてオス犬のすごさに愕然としているところです。

 乱暴もののルイではありますが、休日の朝など寝坊していると女房のところへいって顔をくっつけて寝ていたりして、甘え方も尋常ではなく、これはシェラやむぎになかった姿です。やっぱりオス犬は人間同様甘ったれなのでしょうかね。


 むぎを喪くして17か月、シェラを送って10か月、元気なルイがいてくれてもやっぱり寂しさはいまも払拭できずにいます。いままでは毎月のようにいっていたキャンプも今年は5月と7月、そして9月にかろうじて出かけことができました。そのときのことは一部、このブログにも書きましたが、どこへいってもシェラやむぎの面影が残る思いでの場所ばかり。どうしても感傷に沈み、涙にくれてしまいました。

 それじゃ、シェラやむぎのビジョンのまったくない場所にいけばいいのでしょうが、それもまた寂しく思え、やっぱりふたりの面影を追いかけています。もし、ルイがいてくれなかったらきっとキャンプに出かける気にもならなかったことでしょう。

 去年は瀕死のシェラを抱えて中止した年越しキャンプでしたが、今年は30日から出かけるつもりでいます。ただ、以前のような「さあ、いくぞ!」といった高揚感はなく、心のどこかで「いかなくてもいいかな」などとの思いもあります。

 それでもこの暮れは自分を叱咤激励して伊豆のキャンプ場へ出かけることになると思います。シェラやむぎのいない思い出の場所なら、一度はそこを訪ね、楽しかった日々をしのび、いまの寂しさを味わうことで乗り越えていきたいからです。
 そして、その先に、ルイとの新たな思い出づくりも可能になってくることでしょう。

*シェラとむぎと出かけた年越しキャンプの思い出――


寒いから寝袋に顔を埋めて朝を迎えたシェラとむぎ(2009年の年越しキャンプ)


毎年、ぼくと一緒にキャンプ場の展望台から初日の出を拝んできた(2007年の元旦)


2007年を迎えたテントサイトで仲良くガムをかむシェラとむぎ




つかのまの楽しい夢(その2)

2012-06-17 10:52:39 | 日記
☆今度はわんこの里親探しが
 姫路の迷いネコの銀(その後、コハクに改名)のことで揺れ動いていたころ、会社の若いのから「フェイスブックを見てください」と声をかけられた。彼とはフェイスブック上の友達関係であるし、最近、ぼくの会社でもフェイスブックを使ったプロモーションを積極的に推し進めている。これらのプロモーションはぼくが預かる事業部でのオペレーションである。


 何事かと思って仕事の手を止めてフェイスブックを開いた。彼が見てほしかったのはこれだなとすぐに分かったのが、彼がシェアした上の写真。
 捨てられていた子犬の里親探しの情報であり、実は彼にいわれる前からフェイスブックのほかの友達のページで知っていた。彼もまたフェイスブックのどこからかシェアしてきていた。
 
 会社の若いヤツは、つまり、ぼくに「里親にならないか」といいたかったのだ。
 写真に写っている子はメスの子犬である。シェラを拾ったのもこのくらいのころだった。真っ黒でタレ目の不細工な、いわゆるブサカワイいパピィだった。
 フェイスブックで最初にこの写真を見た瞬間、シェラと出逢ったときのことを思い出し、不意に気持ちがグラリと揺れるのを感じて慌てて写真を閉じた。

☆やっぱり茶色のメスでしょう
 声をかけてきた男のページにぼくはコメントを寄せた。
 「とってもほしいけどルイがいて二匹目は無理。ただでさえ、わんこに看取られるかもしれない年齢になっています。この子たちがやさしい飼主さんとめぐりあえ、幸せになってくれることをひたすら祈ってます」
 コメントを書きながら、夜、反対されるのを承知で家人にこの写真だけでも見せてみようと思っていた。もしかしたら……。
 
 写真のボードでもわかるとおり、合計4匹の子犬が里親を探している。その4匹の写真も見たが、ぼくはここに写っているメスの子に決めていた(?)。シェラのような茶色のわんこになってくれるのではないかという期待があったからだった。
 
 夕方近くになって別の友達がぼくのコメントにレスコメントをくれた。全部の子の里親が決まったという。よかったと思う以前に、なんだかとっても寂しかった。あの写真の子をルイがもてあます場面をいろいろと想像していたからだ。

 「よかったね」と心からいえなかったけど、ホッとした気持ちはある。むろん、この子たちを家族に迎えてくれる方々がこんなにも早く名乗りを上げてくれからである。この子たちを拾い上げ、フェイスブックでお世話してくれた方も含めて、世の中、捨てたもんじゃないと心から思えた。
 
 これもまた、つかの間の楽しい夢。
 いまもなお、とっても残念で悔しいけど、みんなが幸せになれてやっぱりよかった!


つかのまの楽しい夢(その1)

2012-06-17 08:57:13 | 日記
☆掲示板仲間からのメール
 もうはるか先々週の話題になるが、二度も危ない目に遭った。
 といっても事故などではなくて、ネコとイヌの新しい子を迎えてしまいそうになったという意味である。だから、危なかったけど、つかのまの楽しい夢をみたことも事実である。
 
 最初は姫路の掲示板仲間からケータイにメールが舞い込んだ。そこにはかわいいトラネコの写真が添えられていた。
 どうやら迷っていたネコを彼女が引き取り、世話をしているらしい。このキャンプ仲間の彼女は「移動動物園」と異名をとるほどイヌ、ネコ、フェレット、ウズラなど、いろいろな動物を自宅に引き取り面倒を見ている。いずれも路頭に迷っていたり、処分寸前だったり、来歴は不幸な境遇にあった動物たちばかりである。
 
 拾ってくるのは娘さんが多いけど、母親の彼女だってダックスのわんこを引き取ったり、以前は、他家の薄幸のイヌの世話をしていた。母娘ともに、ほんとうに心やさしい女性たちである。だから、キャンプで同行するわんこたちの表情も実に穏やかで満ち足りている。

 このネコを保護した経緯は、彼女の掲示板の投稿によると以下のとおりである。
 3月後半に近所(お地蔵さん)にいきなり現れた。朝夕、お地蔵さんにお参りしている人が不憫に思い、パンや何やらをあげていた模様。人恋しいのか、お腹が空いてるのか誰かが通ると擦り寄って、ときにはにはついていったり、追い払われる姿も目撃されていたという。しかし、食べ物を与える事が許せない人もおり、「食べ物をやるなら連れて帰って飼え!」といわれ、この正論の前に誰も何も与えることができなくなったらしい。
そのうちゴミを漁り、カエルを捕まえて食べたりするようになった。

☆このネコ、ほしい!
 ご近所の人たちと話し合い、里親を探すにしてもまず捕まえて、家に連れ帰るにはダニやノミの駆除もしなくてはならない。里親探しには健康診断もしないと……。もろもろ考えると、数万円かかるかもしれない。専業主婦の方々は当然二の足を踏むなかで、彼女は自分でやるしかないと決意。保護を決めた次第。
 保護をされたあとのこのネコは、どこを触っても爪は出てこないし、先住犬のダックスに抑え込まれてもゴロゴロとご機嫌だという。

 添付されている、仮に「銀」と名づけられたネコの写真のあまりの可愛さに、思わず姫路まで引き取りにいく自分を想像してしまった。しかし、さんざん考えたあげく、以下のような返信をした。
かわいいねぇ。ぜひとも里親に立候補したいけど、自信がない。もうちょい若いときだったらなぁ。猫には猫の可愛さがあって、あのしなやかな感触がたまらなく恋しいけど…。銀ちゃんの幸せを祈ってます。


 そして、後日、以下のようなメールが届いた。
決めました。動物管理センターから正式な引き取り依頼の連絡があり、うちで面倒みることになりました。
薄いグレーが綺麗な子なので浮かんだイメージから琥珀と付け替えました。
漢字で呼ぶか、カタカナで呼ぶか・・悩むとこですが。



☆サクラの背中に涙する
 この写真を見るだけで、この子は姫路の彼女の家にくるべくして生まれてきた子だと確信した。写真の上のほうで背中を見せて寝ているのが、シェラと同じ歳の17歳のシバイヌのサクラであり、右のダックスが理由があってこの家の子になったユズである。

 この写真で、はからずもサクラに会えてすごくうれしかった。シェラと同じ歳なので、ぼくの想いもひとしおである。
 サクラ、長生きしてくれよ――心からそう思う。



今日、母が死んだ

2011-11-26 21:29:24 | 日記
☆手の記憶を遺して逝った母 

    Aujourd'hui, maman est morte.
          ――Albert Camus『L'etranger』
   
      今日、ママンが死んだ。
           ――アルベール・カミュ『異邦人』

 
 ぼくの2011年は死のリフレインのなかにある。3月の東日本大震災で多くの人々の死を間接的であれ目の当たりにした。7月にむぎが逝き、ついひと月前には母の妹の叔母を送った。
 そして、今日、母が死んだ――Aujourd'hui, maman est morte.
 
 10月の誕生日で90を迎えたばかりの母だった。
 午前0時06分、死に目には会えなかったが、搬送された病院で夕方までは一緒に時間を過ごしている。長い間、母の手を握ることができた。長い指のきれいな手だった。ぼくが悪戯っぽく強弱のリズムで握ると、苦しい息の下から同じ動作で応じてくれた。
 90の老母と66の愚息の最後の親子の遊びだった。24歳だった母がみどり児のぼくの小さな手を握り、同じように遊んでくれたことがあったかもしれない。
   
 夜、末の妹からのケータイで、「今夜危ない」という報せを受け、クルマで東名道を横浜町田インターを入ったところで、弟から、「いま、心臓が止まった」と連絡が入った。
 ぼく以外の三人の弟妹たちは、死に目に立ち会ってくれた。もうそれだけでじゅうぶんだった。90という母の年齢から、いつ、訃報が舞い込んでもおかしくないと常日頃から臍を固めていた。最期の別れにはじゅうぶんすぎる時間を、運命は与えてくれた。
 
☆死のリフレインに満ちて 
 急に老いを深めたシェラにかまけているうちにむぎの不調を見落として呆気なくむぎを喪い、いままた、悪性腫瘍に魅入られたシェラよりも先に動脈瘤で突如として老母を彼岸へと送る羽目になった。ぼくの2011年は、やっぱり死の色が濃厚な年である。 
 シェラを人間の年齢に換算したら母の90歳には届かないまでも80も半ばの年齢であるという。やはり、限りある時間が残り少なくなっている現実を直視し、覚悟を決めている。

 母の動脈瘤の破裂から心臓が停止するプロセスが実に珍しいために、病院から「医学の発展のために」と、解剖を乞われた。即答できずに迷う弟や妹たちを説得して、解剖を承諾した。死してのち社会の役に立つと、母は喜んでくれるはずである。死してなお医学の進歩に役立つ母をぼくたちも誇りに思う。
 
 明日、解剖後に納棺し、明後日に荼毘に付す。母の遺言により、通夜、告別式といった葬祭の類は一切排し、家族だけでひっそりと送ることになっている。「死に顔なんか家族以外の誰にも見られたくない」という母の強烈な遺志を継いでの「家族葬」である。わが母ながらあっぱれだ。 

☆生きようという意志はあれども


 今日、シェラを病院へ連れていった。腫瘍の状態をチェックしていただくためだった。投与しているステロイドの副作用で、シェラは四六時中、食べ物を欲しがっている。悲痛なまでの姿である。対応する家人もほとほと疲れ果て、電話でお医者さんに相談したところ、「連れてきてください」ということになった。
 腫瘍の様子はほとんど変化がない。この上は、腫瘍を小さくさせる効果を狙うことから一段目標を下げてシェラの負担を楽にするための薬に切り替えることにした。
 
 ものを食べる、水を飲むという行為には、いまのところ支障がないようだが、気道を圧迫しはじめたのか、暑いころのように呼吸が荒くなり、ときとして、ヒューヒューという異音も混じりはじめた。
 毛艶は決して老犬のそれではない。顔も崩れていない。だが、足腰は確実に衰えを増している。しかも、足早に……。
 
 いまはまだ「生きよう」とする意志を捨ててはいない。それだけが支えである。
 昨日、臨終を数時間後に控えた老母が、腹部の痛みに耐えながら、「まだ、あと10年は生きないと!」と繰り返し呟いていた。「生きよう」という意志だけで生命の灯が消えないほど現実は甘くない。それでも、遺される者にはどれだけ心強いかはかりしれない。
 
 愛するものをまとめて喪う年――これもまた憂き世の現実である。


足早に老いていく

2011-03-29 23:43:51 | 日記

 
 月曜日の朝、いつものように6時に起きてリビングへ移動するぼくに従うシェラの様子がいつもとまるで違っていた。激しくよろけそうになる身体を懸命に支えて歩き、水を飲むのも前足を踏ん張りながら、それでもなかなか思うように飲めずに時間がかかった。
 
 明け方からベッドに上がってきて短く吠えながら訴えていた原因がようやくわかった。毎朝、夜明けどきにやってきては吠えるいつもの行動とは少し違ってはいたが、まさか、こんな姿を見せつけられようとは思いもよらなかったので驚くばかりだった。
 原因はわかっていた。日曜日にほかのマンションで3階まで階段を昇り降りしたのが悪かった。日曜日はそれからも出先で散歩をして、夕方、大型電器店の駐車場にとめたクルマに向かう途中、かなりヘタった歩き方をしているのに気づいた。
 
 夜、家では感じなかったが、朝方に前日の疲労が一気に出てしまったらしい。散歩は最低の距離で終えた。シェラ自身もわかっているのか、すぐに排泄を終えてくれた。
 殊勝にも、毎朝、排泄をなかなかすませてくれずにてこずらせるムギも月曜日は早めに終えた。
 
 この日は、家人が4月からはじめる店のプレオープンの初日だった。3月のなかばにオープン予定でいたが、地震とそれに続く原発事故で世間が騒然としていたので4月にずれこんでいた。土曜日になって、周りからのリクエストもあって急遽プレオープンを決めたのである。
 
 結局、家人はスタッフの方々にまかせて店へ行かなかった。シェラには、以前、クリニックでもらってあった栄養剤を飲ませて様子を見ることにした。足の自由が思い通りにならなくても、気力は充溢しているのが救いである。
 午後、家人に電話をかけてその後の状態を訊くと、かなり好転していた。時間の経過がそうさせたのか、はたまた栄養剤のおかげなのか、あるいはその両方のおかげなのか……?
 いや、いや、シェラの気力のなせるわざであろう。
 
 今朝の散歩はシェラがルートを選んだ。休日の朝用のショート・コースである。まだ少し歩き方がおかしい。
 これからは、階段をなるべく避けなくてはならない。ぼくたち人間の何倍もの速さで年をとっているのである。そのことへの配慮を失念していた。