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Doku-Haku

心の闇をみつめるブログ。
「独白」が「毒吐く」となるときも……。

姉妹の確執

2005年06月24日 | Weblog
姉に初めて反抗した、いや、反撃した。
今まで、姉に対して言いたかったことをメールにしたためて。
世間では、若貴兄弟の確執に始まり、中学生の弟が高校生の兄を殺したなどのニュースや話題がある。
そこまですごいことではないにしても、私には彼らの気持ちがわかる気がする。
姉は私の人生を丸ごと否定するようなことを言った。
そして、本人もそれをとても悔やみ謝っているのだけれど、私はどうしても許せなかった。
今までなら、何もなかったように流すことができたけれど、今回は納得できず、初めて反撃に出た。
ずっとずっと姉の言いなりだった。
周囲では姉のことを、美しく頭もよく、ほとんどにおいて完璧と言っている。
私からすると、だから、人の欠点ばかりが目につくのではないかと思う。
私のことは特に。
私がダメ人間であることは自分でもよくわかっている。
だから、もうこれ以上、突っつかれたくなかったのだ。
傷口をさらに広げるみたいに。
私は子供ができない体。
それを姉が突いた。

「子供ができないことにあんたはコンプレックスを感じている。子供がいない人は、苦労が少ない、だからあんたは甘い考えしかできない」と。

姉は子宝に恵まれた人だ。

私はせめてもの口答えをする。
欠けていることが美しいことだってある。
苦労の数と人間性は必ずしも比例するとはいえない……と。

実のところ、姉にメールしたものの、私は今もドキドキしているし、本当にこんなこと言ってよかったのかと思い悩んでいる。
そんな気の小ささまでもが情けない。




私一人だけでも

2005年06月20日 | Weblog
私のマイバッグ歴は、25年くらいになる。
当時から、スーパーで渡される袋に対して疑問を持っていたので、自分の買い物バッグを持参していた。
そのころは、レジ袋を断るとレジ係りの人にイヤな顔をされていた。
たぶん、私はすごく変わり者、ヘンクツ娘に思われていたと思う。
私は先頭に立って声を大にし環境問題云々とかできる人間ではないので、「私一人だけでも」という消極的な思いで、マイバッグを貫いてきた。
最近になってレジ袋有料化が検討されていることをニュースなどで知り、少しずつ世の中が変化して良かったなと思う。
また、雑古紙を集めることもしていた。
これも、先頭に立ってしたわけではなく、そういうボランティアグループの回収場所に運んでいただけだ。
これについては行政の対応が早かったので、間もなく、市単位で回収されるようになった。
他に「私一人だけでも」で実践していることは、極力、牛肉を食べないこと、ブラックタイガーを食べないこと。
これらも、もう20年近くなるだろうか。
牛の放牧のために南米では熱帯雨林を伐採しているらしい。
また、マングローブの木の根っこに集まるブラックタイガーを捕獲し、現金収入を得るため東南アジアではマングローブを伐採しているそうだ。
森林破壊により生態系が崩れ、豪雨による災害も増えているとの報告もあるという。
しかしながら、ファーストフード店ではバーガーを競ってCMし、消費を増やし、年末年始にはブラックタイガーが大量に店頭に出回る。
今後、もっと環境教育などで、明るい方向に進んでいくかもしれない。
そう願いながら、私も「私一人だけでも」を続けていきたい。




「正論」という名の刃物

2005年06月16日 | Weblog
また、やっちゃったなと思う。
私の悪い癖はいろいろあるけれど、中でも一番よくないないのが、「正論」という刃物を振りかざしてしまうこと。
その「正論」を聞いた人たちは、何か言いたいけど言えなくなってしまうのだ。
それを言われたら実も蓋も無いないほど「正しい」から。
私自身、人から「正論」を言われるのはとてもイヤなことなのに、自分は堂々と言ってしまう。
「正論」とわかっていても、否、わかっているからこそ、人は日々、そのはざまで悩みながら生きていくというのに……。
私は、そこに追い討ちをかけるように、バサッと「正論」で切り捨ててしまった。
言ってしまったあとのなんともいえないあと味の悪さ。
ああ、自己嫌悪だ。
誠意をもって謝ろう。



「癒される」を卒業する

2005年06月13日 | Weblog
「癒される」っていう言い方はあまり好きじゃない。
いろんなメディアでの取り上げ方がそうなので、なんとなくちまたでも使っているけど……。
「癒される」という言葉を簡単に使いすぎだし、もて遊びすぎている感じもする。
ずっと違和感のある言い回しだなって思っていたけど、やっとそのズレがわかった。
「癒し」を求めるのなら、自分で自分を癒さないかぎり、心の底から癒されはしないのだっていうことに、私はようやく気がついた。
ヒーリングやテラピーで癒されるのはとてもいいこと。
けれど、それは自分の弱った精神や体を支える「杖」でしかないのだと思う。
そういう「支え」を得ながら、今度は自分の足で立とうという努力が必要なのだと思う。
「癒された~」で、気持ちよくなって終わっちゃいけない。
自分自身を見つめる時間をもち、自分と向き合っていかないと、本当の「癒し」はやってこないのだ。
自分の便秘は自分の力で排便しないかぎり、すっきり感がないのと一緒。
他の誰かがどれだけウンチしても、自分の便秘解消にはならない。
ヒーリングは、便秘にいい食物繊維や運動、マッサージのような大事な手立て。
そのあと、おなかに力を込めるのは、自分自身なのだ。
他力本願じゃいけない。
現代人は「癒されたい人」ばかり。
私もその中の一人だった。
でも、もう受身でいるのは卒業する。
自分を癒すのは自分でしかないことがやっとわかったから。
ちょっと勇気はいるけれど、自分自身と向き合っていこう。

下りエスカレーターのように

2005年06月09日 | Weblog
生きることにおける物事の多くは、下りエスカレーターに似ている。
たとえば簡単な例として肉体を取り上げてみると、何もせずに放っておけば、年齢とともにどんどん衰えていくばかり。
その流れになんとか逆らうように、運動したり、肌の手入れをしたり、体のケアをする。
業績を重視される仕事においてもそう。
一度上げた成果を死守しながら、○%増とさらに駆け昇るようにがんばる。
何もしなかったら、下りエスカレーターに乗ったままのように、降下し続けるだけ。
だから、みんな、日々の何かにおいて、流されるままではいられない。
流れに身を任せていたい人には、ちょっと辛いことでもある。
一方、いろんなことに情熱を傾けて、アグレッシブに生きたい人には、がんばった結果が生き甲斐につながるのかもしれない。
私はどちらだろう。
流されるままでいたいときもあれば、自分を痛めつけるほど、ガムシャラに下りエスカレーターを駆け上っていきたいときもある。
以前のブログでは、ランキングに常に載っていたことがある。
でも、それだって、そのままでは維持できないことだった。
記事の更新をせずにランキングを保てる、というのはなかなかできないものだ。
更新だけなら続けられるけど、いただいたコメントに返信をし、来てくださった方のブログにも行き、コメントを残してくるというマメさも必要だ。
ブログに綴る内容だけでなく、ランキングまで意識し始めた私は、下りエスカレーターを昇らなければならなくなった。
常に走り続ける。
気持ちいいコメントをいただいたり、リンクを依頼されると、それに精一杯こたえたくてがんばった。
そして、息切れし、失速していった。
いったいそこまでして、何を守り、何を目指したかったんだろう。
下りエスカレーターは、本当に自分が気持ちを込めたいところだけに設置しておくのがいいのかもしれない。
あれもこれもじゃ、身が持たないよ。


めぐり来るチャンスのために

2005年06月08日 | Weblog
ホリエモンこと堀江貴文氏について、ちまたではいろいろな情報が流れている。
手腕についても好ましいとかそうでないとか……。
私自身、ビジネス的なことはよくわからないし、好きか嫌いかという単純な分け方をしてもどちらでもない。
ただ、一つ、彼を見習いたい点がある。
それは、彼が世に名前が出始める以前に、彼なりの下積みがあったということだ。
そして、ただ積み上げてきたわけでないところが、私の心に響いた。
以前、『いつみても波乱万丈』に出演していたときの話によると、
彼は、
「いつか自分の目の前にチャンスが来たときに、困らないように」
と、努力を重ねてきたというのだ。

マラソンの高橋尚子選手が大事にしている言葉で、私もいつも自分に言い聞かせている言葉がある。
「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。いつか大きな花が咲く」

堀江氏も同じだったのではないかと思う。
ちゃんと根っこを張っていたからこそ、今があるのだろう。

私はこれまで、チャンスというのは、日々の努力がなければ、向こうから自分の元に転がりこんでくるはずはないと思っていた。
そして、自分から掴みに行くものだと思っていた。
ところが、この春、二つのチャンスがいっぺんに舞い込んで来た。
なんという幸運!と、天にも昇る気持ちだった。
が、いざ、そのチャンスを目の前にして、愕然としてしまった。
自分には何の下地もなかったことに気がついたのだ。
この3年間、いつもいつも望んできたけれど、私には何も積み重ねたものがなかった。
せっかくのチャンスが少しも生かせていない。
今はただひたすら、手にしたチャンスがこぼれ落ちないよう努力をしている。

先の希望がたとえ見えなくても、自分の夢や目標があるのなら、あきらめず、くさらず、日々コツコツと向かったほうがいいのだ。
いつかめぐり来るチャンスを生かすために。


彼と彼女がいた店

2005年06月04日 | Weblog
犬の散歩をしているときだった。
今日は、いつものコースをやめて、初めての道を歩いてみた。
ある店先に来たら、犬がにおいをかぎはじめたので、しばらくそのまま待っていた。
すると女将さんが出てきた。
「まあ、かわいい犬ね。名前はなんていうの?」
と、声をかけられた。
よくある会話のとっかかり。
私も犬の名前を告げ、話を始めた。
女将さんも以前は犬を飼っていたということで、しばらくおしゃべりに花が咲いた。
犬が先を急ごうとリードを引っ張るのをしおに、店をあとにした。
少し歩いて、振り返ってみた。
なんと、そこは苦い思い出の場所だったのだ。

もう、15年以上も前のこと。
その日は、友人宅でのホームパーティが予定されていた。
友人から、お好み焼きのテイクアウトをオーダーしてあるので、取りに行ってほしい、と店の地図を渡され頼まれた。
その店のドアを開けて驚いた。
店内の座敷席では、私の交際している彼が女の子と、鉄板の上のお好み焼きを差し向かいで突っついている。
彼には他に女性がいることは、少し前からうすうす感じていた。
私は自分の車に戻り、彼に借りていたホイットニー・ヒューストンのテープを取り出し、つき返した。
私たちの仲は、それで終わりになった。

私が悲しかったのは、二股かけられていた事実を知ったことではない。
そのときに、彼と彼女が、ジャージ姿だったことだ。
私とのデートでは、彼はいつも質のいい服をカッコよく決めていた。
少しも隙がないほどに。
だから、私も精一杯のオシャレをして出かけた。
彼は、いつも洒落たレストランに連れて行ってくれた。
その彼が、裏通りのお好み焼き屋で、ジャージを着てあぐらをかき、彼女と食事している。
それだけ、打ち解けた仲であったことが、私の本当のショックだった。

昨日のことのように思い出したけれど、もう痛みなどまったくなかった。
ただの過去の出来事。
そんな心の確認ができた。
犬が飼い主を導いたのだろうか。



SNS入ってみたものの……

2005年06月02日 | Weblog
SNS(ソーシャル・ネットワーキングサイト)に紹介してくださる方があり、登録した。
ネット上では、完全に己を隠して違う人みたいになりきれる人もあると聞くけれど、私はどうもそういうふうにはできない。
なので、たとえハンドルネームを使っても、超人見知りする自分を隠しきれない。
SNSでお付き合いの幅が広がったら楽しいんだろうか……と少しばかり期待していたものの、本来のそんな性格が災いして、友人を作ることができないでいる。
既存のコミュニティに「はじめまして」と入っていくのは、もっと勇気を必要とする。
以前、お笑い芸人の人が売れない時代に、着ぐるみのバイトをしていたときの話をしていた。
彼曰く、
「着ぐるみを着て人に接すると素直になれる」とのこと。
そして、着ぐるみに寄ってくる人も、着ぐるみに対しては心を開くという。
その場では、とてもいい交流ができるらしい。
ネット上のHNも着ぐるみ効果があるようだと私は思っていた。
でも、私の場合、それが当てはまらないことがわかった。
結局は自分は自分でしかないし、隠し続けることにとても疲れてしまうのだ。
自我が強い……というのか、自分自身を抑えていることができない。
今まで、SNSのコミュニティ内で、数人の方がお仲間へのお誘いをしてくださった。
声をかけられるのはとてもうれしい。
私って、たとえばカラオケのとき、自分からはマイクを手にできないくせに、人からマイクを渡されると、歌い続けてしまうタイプ。
日ごろの生活においては、初対面の人に自分からは話しかけられないくせに、話をふられると周囲の迷惑もかえりみず、ずっと語ってしまうタイプ。
せっかく入ったSNS、なんとかいい交流をしたいけれど……。



言葉の拾い食い

2005年06月01日 | Weblog
よく、「笑う角には福きたる」と言われる。
そして、明るい気持ちでいることは、いい人いい事を磁石のように引きつける……と。
今、私が体験しているのは、その反対ばかり。
ネガティブな心持ちなので、ネガティブな事象ばかりが起こり、引きつけてしまっているみたい。

たとえば、一緒に暮らしている犬のことなどは、特に周りの言葉がひっかかる。
うちの犬は散歩のとき、家を出てもすぐには歩き出さない。
しばらく周囲を見渡して、においをかいでからなのだ。
すると、動かない犬を見て通りがかりの人が口々に言う。
「もう、歩きたくないのよねえ」
「お散歩、いやになっちゃったんだよねえ」と。
犬の気持ちを飼い主に対して代弁してあげてるのよ、といった感じで。
「まだ、一歩も歩いていないんだけど……」
そんな言葉が、私の喉で行ったり来たりする。
そして、この犬種の成犬の標準体重は、4~5kgとされている。
うちの犬は、現在、ちょうど4kg。
けれど、ほかの同じ犬種に比べて毛が短いせいか、一回りほど小さく見える。
なのに、通りがかりの人たちは、
「この仔、やせちゃっているね」
と、非難めいて言っていく。

初めての犬との生活。
しつけやマナーなど、一生懸命しているつもり。
しつけ教室のトレーナーのごとく完璧ではないにしろ、たぶん迷惑はかけてないと思う。
そんなことに自分自身が敏感になっているせいか、散歩途中のいろいろな人の言葉が心に刺さる。
犬の拾い食いには気をつけているけれど、私自身が行きかう人々の言葉を「拾い食い」して消化不良になっている。

この悪循環を断ち切るのには、もっと前向きにならなくっちゃと思う。
明るい循環を自分の内側から起こさないと。
鏡を見ながら、ちょっとだけ口角を上げ微笑んでみた。



無意識の中に育つ意識

2005年05月29日 | Weblog
たった今、気がついた。
先日の記事に書いたTさんのブログをのぞいて。
Tさんのブログと、このブログのテンプレが同じだったこと。

私がここに新たにブログを開設し、もう何日も経つ。
なのにずっと気付かなかった。
毎日、Tさんのブログも自分のブログも見ていたのに。

ちょっとうれしい。
無意識に自分がTさんと同じデザインを選んでいたこと。

その人のことを思い続けていると、知らないうちに自分の意識の底に、その人の情報がたまっていくのかな。
そして、あるとき、ポッと表面に出てくるのかもしれない。

Tさんに、私の新しいブログのことを告げたくなってしまった。

それで、ふと、思った。
ちょっと飛躍してるけど……。
もしかして、夢や目標を持ち、実現することもそれと似ているんだ。
一般的にはよく言われていることだけど、実体験したような気がした。
成し遂げたい何かをずっと内に燃やし続けること、
そして、一生懸命に向かっていくこと、
ある日、形になって結果が出る。
思い続けること、願い続けることが無意識に輪郭を持たせ、形ある意識に変えチカラとなり、実りとなる。
私はやっぱり、そう、信じていたい。