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Doku-Haku

心の闇をみつめるブログ。
「独白」が「毒吐く」となるときも……。

匿名のもとの行為

2005年11月09日 | Weblog
以前、私のブログのコメント欄への書き込みで、一度だけ大変困ったことがある。
それは、「やさしい正論」を唱えたものだった。
意図的に私を攻撃したり、「不快な思いをさせてやろう」という書き込みの方が、ずっとタチがいいと思ったほどだ。
やさしく諭すように正論を書かれると、どう対処していいのかわからない。
その人が言っているのは正しいけど、絶対正しいと言い切れない部分もある。
そうなると文字だけで意見交換するなんて、私にはお手上げだ。

例えば、その人が自分のサイトのURLでも示してくれてあるのなら、日ごろ、どんなことに関心をもち、どんな考えを持っているのか想像する手立てがある。
けれど、それがないので、その人の真意が量りかねる。
その人はたぶん、「自分は絶対まちがっていない」と思っていて、手には「批判する石ころ」を持って、私の意見を待ち構えている。
私としては、ここは穏便に相手の意見を謙虚に受け止めたというポーズをとりたいけど、それも癪でなかなかできない。
無視もできないし、削除なんてましてできないし、真摯に受け止めることもできないし……。
あのときは本当に悩んだ。
最終的には「あなたの意見を受け止めた」というコメントを出した。

たとえ正しい意見でも、匿名である限り、何を言ってもむなしいのだ。
それは、とても人を傷つける行為であり、誹謗中傷するのと同じくらい相手を追い詰める、卑劣なやり方に思えてならない。
匿名であるなしにかかわらず、以来、私は安易に人を批判することは決してしないようにと心がけている。

励ましも慰めも…

2005年11月05日 | Weblog
カッコつけているつもりはまったくないのに、
「いいカッコしすぎる」と、先日、年上の友人に言われた。
カッコつけようとして、それができるほど器用じゃないから、
私のすごく間抜けでどん臭いところを見る友人には、
「幻滅した」と嫌われてしまうこともある。
あるときは、
「自己主張がなさすぎる」と言われ、
次のときから、思い切って自分の意見を言ってみると、
「そんなにハッキリものを言う人とは思わなかった」
と、そっぽ向かれる。
「自分らしさ」を守ろうとすると「頑固だ」と言われ、
人に言われたことを素直に受け入れようとすると、
自分が苦しすぎて生きていけない。

こちら側が要求していないのに、一方的に励ましや慰めをされるのは、
時には、とてもむごさを伴う。
その人たちは、誰かを励まし慰め、
自分ではいい気分になるかもしれないけど。

そして、突き詰めて考えていくと、
私なんてこの世からいないほうがいいのだ……という結論を出したくなる。
私が生きていて、有益なことは何一つないのだなと思う。
かといって、命を絶てば、身内には迷惑をかけるようで、
死んだとて有益なことはなさそうな気がする。

人間関係を作るのも、絶って生きていくのも、どちらも難しい。


あそびのある約束

2005年10月11日 | Weblog
時々、「あそびのある約束」をする人に出会う。
「あそび」っていうのは、例えば、車のブレーキのあそび…とか言う、そういう「あそび」。
その人は約束をするときに必ず、「当日、もし行けなくなったらごめんね」と注意書きをつけてくる。
それで、たいていの場合、本当に「行けなくなる」のだ。
けど、最初から注意書きがついていたので、約束を破ったことにはならないし、ドタキャンでも許されてしまう。
もちろん、やむをえない事情があって守れないことは誰にでもある。
けど、毎度毎度になると、「オオカミ少年」と変わらないではないかと思ってしまう。
何度かそんなことが続くと、私などはそういう人たちを信用できなくなる。
その人たちにとっての「約束」はいつも「とりあえずのもの」であって、絶対遂行するものではないのだ。
「約束」に対する私の考えとの温度差があまりにも違いすぎて、約束することの意味を感じられない。
「約束」というものまでいかないにしても、誰かと予定を立てるとき、「あそび」が大きすぎるのはどうかなと思う。
それは、相手に対しての非礼もさることながら、自分自身に対しての言い訳やウソにもつながるのではないか。
自分に対して正直に生きなければ、生きる意味などないんじゃないか。
できそうにない約束は最初からしないほうがいい。



○○バトンと言うけれど……

2005年08月06日 | Weblog
「ミュージックバトン」や「イメージバトン」など、「○○バトン」がめぐっているようだ。
私のブログのように、コメント欄を閉ざして、広がりを持とうとしないところには回ってくるはずもないんだけど、ああいうのはどうかなあと思ってしまう。
お付き合いのあるサイト全部に回せるのなら、なんの抵抗もなく受け入れられるけど、人数を限定しているのはどうも……ね。
たとえばもし、「自分に渡してほしい」と思っている人がいて、バトンを受け取ることができなかったら、なんだか微妙に人間関係にズレを感じてしまったりしないのだろうか。
その上、web上での一つの世間(社会)ができていて、他のみんなにはバトンが来たのに、自分だけが回されなかった……なんていったら、すごくさびしく感じたりしないんだろうか。
回す人、回された人の間での絆は強くなるだろうけど、半面、そうでない人は疎外感を持つんじゃないだろうか。
音楽や連想などをテーマに、サイトからサイトへバトンをリレーするのは、不幸の手紙と違い和やかなムードの広がりがあるのかもしれない。
でも、必ずしも、いい連鎖ばかりを生むわけではない側面もあると思う。
顔が見えない分、人間の感情が過剰に働くこともあるのではないか。
もっとも、バトンごときで結びつきを確認しなければならないほどの、人間関係の希薄さにも首をかしげてしまうのだが……。
バトンをゲームのように軽い気持ちで受け取って、軽い気持ちで回せればいいのだろうけれど、私はどうも陰にひそむ部分ばかりを見つめてしまう。
これは、私自身の人間性のゆがみでもあるのかもしれないが……。


人が集まるところ

2005年07月31日 | Weblog
SNS(ソーシャルネットワーキングサイト)の国内では大手のところを紹介してくださる方があり、登録して数ヵ月が経った。
日常を過ごす社会でも、こういったネット上のコミュニティでも、人が集まるところには、結局同じような問題がいくつもあるのだ、ということをあらためて思った。
人の紹介があるから安全で居心地のいい社会とは限らない、ということを嫌というほど感じている。
それどころか、会員制という一種閉鎖的な集まりでもあるので、悪い方に傾くとその中は淀んでいく一方だ。
今、日本が抱えている問題、現代人の人間関係の集約が、そのままそこにあるような気がしてならない。
私は以前のブログで、少しばかり人間不信にも陥っていたこともあり、SNSに対してはどこかとても希望を持って臨んでいた。
まるで、そこがユートピアでもあるかのように……。
でも、あまりにドロドロとしたものがあり、ちょっとショックを感じている。
たとえば、川には流れがあるから淀みにくいけれど、湖沼のように外からの流れがないところは淀みやすい、ということと似ている。
SNSのすべてを否定するつもりはない。
いい意味では、同じ価値観を持った者同士のより強い結びつきや、情報交換などができ、もっと発展したらビジネスへ反映させていくこともできる。
私が人とうまくかかわれないのか、時流にうまく乗れないのか。
特にSNSのような独特な社会とそりを合わせていくことが器用にできずにいる。




「いただきます」は「ありがとう」

2005年07月18日 | Weblog
最近、耳にした話で興味深い話題があった。
ある昼食会の席でのことだった。
テーブルにみんなのオーダーしたものが並べられ、そして、「いただきます」と手を合わせて箸をつけた。
すると、以前、中学校の校長をしていたという方が、
「近ごろの生徒は、給食や弁当のときに『いただきます』を言わないんだよね。実は、保護者から意見が出てね……」
と、話された。
ある保護者が学校側に対して、
「給食やお弁当は、先生にお金を払って子どもが食べさせてもらっているわけではないので、『いただきます』を強制しないでほしい」
と、要望したそうだ。
つまり、給食費は先生に払っているのではないし、弁当は自宅から持たせているものなので、先生に対して手を合わせるのはおかしい……ということなのだそうだ。
以来、食事の前の「いただきます」は、言いたい人だけ言う、との方針になったそうだ。

そういうものなんだろうか。
私は違うと思う。
私達の命は、「食べる」→「生きる」で成り立っているのだと思う。
「食べる」をするのには、野菜や魚、肉といった命が目の前にあってこそ、「生きる」が持続できているのだと思う。
「いただきます」は、それらの命に対して、また、さまざまな恵みに対しての、感謝の言葉だと思う。
お金を誰に対して払っているのか……という問題ではない、と私は思う。
私ごときがえらそうなことは言えないし、人それぞれ解釈は違うと思うのだが、もうちょっと「命」というものを、感じてみてもいいんじゃないかと思う。
私にとっては、「いただきます」と「ありがとう」は同義語なのだ。

言い訳はほどほどに

2005年07月09日 | Weblog
ここ数ヵ月、ある文芸集の編集のお手伝いをしている。
原稿用紙に書かれたものを、私がパソコンに入力して、印刷所に送る。
とっくに締め切りを過ぎているのに、こちらが連絡を入れるまで、何も言ってこない人たちが数人いる。
電話をすると、まず、長々と遅れたいきさつの説明を聞かされる。
それが、どの人もそうなのには、びっくりする。
この数人の人たちのために、締め切りを守って提出した人たちまでが、待ちの状態を強いられてしまう。
私一人だけが被る迷惑ではない、ということを、遅れている人は誰一人認識していない。
この人たちは60代~70代で、過去に何百人という人たちのトップに立っていたほどの、すごい経歴の持ち主ばかり。
それほどの人たちが、なぜ、一言も詫びもなく、言い訳ばかりを言い募るのか、私には心底合点がいかない。
ひどい人になると、メールに連綿と言い訳を綴ってくる。
「①今日は大手家電店に出向いていました。②その後、デパートへ行っていました」
と、行動の報告ばかりが続き、やっと、原稿の書き出しが始まる。

たとえ、まず最初に謝られても、これだけ言い訳をされると、まったく意味がなくなってしまう。

そういえば、姉もそうだった。
姉はたいそう成績が良かった。
その姉はこの前、まず「ごめんなさい」と言ったけれど、次に「でもね…」と始まり、あとは私への攻撃だった。
だから、最初の「ごめんなさい」が何の意味もなくなってしまった。

謝ったあとに、「でもね」とか「実は忙しくて」などと、極力、言い訳はしない方がいい。
ほどほどにしておかないと、せっかくの自分の価値をおとしめてしまう。
言い訳ばかりをしていると、どんなに素晴らしい人でもそうでなくなってしまうのだ。
なんて、もったいないことだ。



自分のために

2005年07月04日 | Weblog
自分のために生きちゃいけないんだろうか。
近ごろ、そんなことばかりを考える。
それは、朝の連ドラのセリフを聞いて思った。
ヒロインの母親役の酒井法子が、友人琴子役の川原亜矢子に言う。
「あたしは今まで、夫と子供のために生きてきたの。琴子は自分の好きな仕事して、好きな人ができて……」
と、こんなふうな言葉が続いていった。

私が、自分の好きなことに夢中になっているときに、やっぱり友人から同じようなことを言われた。
当時、私達は二人とも結婚はしていなかったけれど、彼女は一人っ子でいずれ親の商売をつがなければならなかった。
確かに、彼女は親の店に縛られて、身動きがとれない様子だった。
その彼女が、
「私は、店のために好きな人と別れなければならなかったし、好きなことを仕事にするなんてできない。だから、あなたがうらやましい」
と、たびたび言っていた。
「うらやましい」を繰り返し聞かされることに、私は苛立ちを覚えるようになった。
心の中で、彼女にいつも反論していた。

私だって、好きなことを仕事にするまでに、大変なことも乗り越え、努力もしてきた。
私のことをうらやましがるだけで、今の生活を変える努力なんてしてないじゃない。
好きな人がいたのなら、駆け落ちだってすればいいし、店を継ぐのがいやなら、親を説得すればいいじゃない。

最近では、結婚して子供がいる友人たちもまた、私をうらやましいと言う。
「気楽でいいね。自分のことだけ考えていればいいんだから」と。
そして、私はまた、心の中で反論する。

あなた方が自分で選んだ人生じゃない。
パートナーを決め、結婚を選んだのはあなた、子供を産むと決めたのもあなた。

なぜ、私の周りの女性たちは、自分の選んだ道をまるで後悔しているように口にするんだろう。
こんなふうに考えたくはないけど、私に対する妬み?
それとも、ほんとは家庭を持つ者の、のろけ?

自分のために生きてはいけないんだろうか。
誰かのために生きられることは美しいかもしれないけれど、私の理想は、まず、自分が自分のために一生懸命に生きて、それが結果として誰かの役に立っていればいいと思う。



子供のいる人、いない人

2005年06月30日 | Weblog
姉に子供のことを言われてから、思考はいつもそこへ戻っていく。
仕事したり、友達とお茶したり、少しは紛れても、自分の周りに静寂がやってくると、そればかり考える。
私の長所なんて少ない。
その少ないなかで、ちょっと自分でもプチ自慢できることは、人を「くくり」で判断しないことだった。
たとえば男女の別に始まって、「今どきの○○の人」とか「○○人って」と出身国などで相手を見ないなど……。
あくまでも、自分の目の前にいるその人の個性などを見てきたつもりだ。
だから、姉が言うところの、「子供のいる人は……」とか「いない人は……」なんていう括りで人づきあいが左右されることは私には考えられなかった。

そして、この問題で納得いかないことは、姉の攻撃がなぜいきなり始まったかということだった。
私は姉の機嫌を損ねるようなことは、何一つ言ってないつもり。
(もしかして、自分の気付かないところで、傷つけていたのかもしれないが……)
姉のHPを開いてみた。
すると、今回のことが起こる数日前から、過去の出来事を振り返る記述ばかりだった。
それで、私はちょっと納得した。
私にとっては突然起こった今回のことでも、姉の頭の中では、少し前からつながっていたシーンだったのだ。
姉自身の過去を振り返っているうちに、私が子供ができなくなった経緯を思い出していたようだ。

あれから、子供のいる友人2人に今回のことを話してみた。
彼女らの反応を見ていたら、やはり姉のいうとおりなのだと思った。
子供のいる人にとっては、子供のいない人間には何を話しても通じない、と思っていることを否定をする考えは聞けなかった。
話したことを後悔した。
私は彼女らに、「そんなことないわよ」と打ち消してほしかったのだ。
誰かに、そういう言葉を投げかけてほしかった。

私は、出産を自分の意志で選択することなどできない。
今後、どんなことをしても出産などできないことが、こんなにも大きな壁になるなど想像もしていなかった。
女同士の価値観の共有ってそういうものだったんだ。
そんなことはない……と私が信じていたものは、絵に描いた餅だったんだな。



姉妹の決別

2005年06月25日 | Weblog
ゆうべはちょっと酔いがまわっている状態でブログを書いた。
今日になって読み返すと、わけがわからない内容になっている。
でも、まっ、いいか……と、あえて手を入れず残すことにした。

結局、私がいろいろ案ずることなどなかった。
姉はそれ以上のことをメールで返信してきたからだ。

「子供のいる人にとっては、あんたとの付き合いの中で、子育てについてこの人には何を語っても通じない、と思っている人がたくさんいるはず」

……そう、言ってきた。

そりゃ、出産と子育てについてはわからない。
でも、人間同士が付き合うって、そういうことだけで、ボーダーラインを引かれてしまうものかなぁ。

姉のメールによって、私は、かなりおとしめられたと思う。
そして、昨日、私に対して「ごめんなさい」と謝ったのは、なんの実もなかったということが認識できただけだ。
私からはひと言、
「もう、これっきりにして」
と返信した。
姉とはもう二度と会うことはない。