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Doku-Haku

心の闇をみつめるブログ。
「独白」が「毒吐く」となるときも……。

人生の明るさは……

2012年08月09日 | Weblog
ある寺院の門の脇の黒板に書かれていた一文。
車の運転中、信号待ちをしていて目に留まったので、うろ覚えではあるけれど……。


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吸う息では笑えない。
人生の明るさは吐き出すことから始まる。

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悩みなどを自分ひとりで抱え込まないで、話せる人がいたら話してもいいんだ、たとえ愚痴だとしても……と、私は自分の都合のいいようにこの言葉を受け取った。
こんな心持でいられたら、いっときでも心が軽くなれそうだ。




悩みがないことが……

2012年08月08日 | Weblog
先日、目にとまった一文。


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悩みがないことが幸せなのではなく、
悩みに負けないことが幸せなのだ。

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悩んでばかりで思考が堂々めぐりするとき、私はこの言葉を心の中で繰り返している。



言葉のブーメラン

2008年06月11日 | Weblog
メール1本で、なんでこんなに落ち込むんだろう。
自分から送ったメールで落ち込む。
送るときは、とってもテンションが高くて、相手がうれしそうな顔をするのを思い描きながら、楽しいことを早く伝えてあげたい…そう思って送信したのだけど。

いつもはすぐに何かしらアクションが返ってくるのに、1時間経ち、2時間経ち、一晩経っても返信がないと不安が広がる。
彼女からの働きかけに対して、こちらも一緒に盛り上がり、そのことの後日談を伝えたつもりだった。

自分では何気ない言葉だったつもりが、本当は深く人を傷つけているのではないかと、そんなことばかりを思い悩む。
どの一言が相手を傷つけたのか…といろいろ考えてしまう。
何度も読み返し、どこが問題なのかを探る。
相手に送ったメールは、そのまま自分の心に戻ってきて、胸に突き刺さったままでいる。


待ち続けるおばあちゃん

2007年12月08日 | Weblog
友人の…といっても、親子ほど年の違う、私の父と同い年の、人生の大先輩である80歳のFさんが、90歳のご主人とともに介護老人ホームに入居した。
Fさん夫妻に子どもはいない。
ご主人は介護度2で、Fさんは足が不自由であり、日常生活に不安を抱えているため、入居を決めたらしい。
先日、Fさんに呼ばれて、施設を訪ねた。
とてもきれいなところで、市内を一望できる見晴らしのいいところだ。

日当たりのいいコミュニティルームに私たちは腰をおろした。
Fさんは、ホッとしたようすで話し出した。
常にスタッフが近くにいてくれるので、安心して過ごせているとのこと。
入居して数ヵ月、施設内での友人も増えたそうだ。
その中の一人、Aさんというおばあちゃんについても話してくれた。

Aさんは最初、家族に「施設の下見に行こう」と誘われ、ここへ来たそうだ。
ところがその日、家族はAさんを残して帰宅してしまった。
実は、家族と施設の間では、Aさんの入居について話が決まっていたらしい。
Aさんだけがそのことを知らされず、「下見」がそのまま「入居」となった。
翌日から、Aさんは来る日も来る日も、玄関ロビーで家族の迎えを待ち続けた。
朝から晩まで一日中。
ひと月半ほどが経ったころ、Aさんは玄関ロビーに姿を見せなくなった。

AさんとAさんの家族がどのように過ごしてきたかはわからない。
家族にとっては悩んだ末の苦渋の選択であったのかもしれない。
Aさんにとっては大事な決断のときに正面から向き合ってもらえなかった無念もあるだろう。
玄関ロビーで家族を待つことがなくなったにしても、日々、心の中では常に待ち続けているのかもしれない。
小春日和の穏やかな日差しが温かくて心地いいはずなのに、私は切なくてやりきれなくて胸が詰まった。

Fさんは、老後の備えの大切さをいろいろ話してくれた。
備えというのは、お金だけではなく、周りの人との交流や自分の生き方など。
1時間ほどして、Fさんのところをおいとました。
初冬の太陽は西に傾きかけている。
わが身の老後について考えつつ、長く伸びる自分の影を追いながら歩いた。
30年以上も先のこととはいえ、急に現実味を帯びてきたような気がする。
帰り際、Fさんが持たせてくれた二つのリンゴが、心なし重く感じた。


企業は人なり

2007年12月02日 | Weblog
20年以上、つきあいのあった車のディーラーが、組織統合とかでいろいろ変わった。
営業所はそのままだが、人事は一新。
セールスマンも整備士も受付嬢も変わり、私の担当者も次の人に引き継がれた。
これまで、そこにいた人たちは、グループ会社へそれぞれ異動になったらしい。
……で、会社組織が変わってから、初めての車の点検日が来た。
予約を入れようと、新しい担当者に電話した。

「○○町のdo989ですが…」
「うん、お世話になります」
ここで、私の血管がプチッと1本切れた。
初めて話をするのに、「うん」という受け答えをするセールスマン。

「代車の空いている日に点検をおねがいしたいんですが…」
「うん、じゃぁ、代車のほうと聞きまして、折り返しお電話します」
代車のほうと…って、あんたは車と相談するのか、と思わずツッコミたくなった。
それを言うなら、「代車を確認いたしまして」じゃないのかな。
「うん」という返事にも、私はしだいにプチプチ切れ始めていた。
そして、私がすでに名乗っているにもかかわらず彼は、
「***トモタロウさんですよね」と、まったく違う名前を言う始末。

だいたいの話がまとまったころ、彼に聞かれた。
「それでdo989さん、今回は”安全点検”でよろしかったですか」
私は、他にどんな点検があるんだろうとわからなくて、少し沈黙していたら、その答えは受話器の向こうからやってきた。
「あの、こちらからは”安全点検”のハガキを出させてもらってますんで…」
わかっているんだったら、わざわざ聞かなくてもいいのに。

点検当日、私は自分の車に乗って、ディーラーへ出向いた。
担当セールスマンを待っている間、営業所内を見回した。
建物は以前と同じで、机や展示車の配置もそのままなのに、そこに働く人々が違うだけで、雰囲気ってこんなに変わるんだろうか。
暖房は効いているのに、寒々とした空気が漂っている。
それとも、私が担当セールスに対して持った印象が悪くて、そのように感じるのだろうか。

やがてセールスマンがやってきた。
想像していたとおり、30代後半から40代前半くらいの中堅社員といった感じ。
身なりは人に不快感を与えない程度で、ルーズでもなく、かといってきっちりまとめているふうでもない。
車の調子を聞かれ、それに答えるけれど、うまく伝わらない。
私の言い方が悪いのか、彼がキャッチできないのか、ちっとも話がかみ合わない。
彼は世間話をして私をなごませようとしたらしく、話の脈絡などないのにいきなり、「子どもさんは何人ですか」と聞いてきた。
「私にはいません」と答えたら、カレンダーを手渡された。
はじめから子どもがいることを前提としたような「何人?」という聞き方に、私はまたまたプチッときた。

用意された代車へ、乗り込もうとしたときだった。
「あの、do989さん、ガソリンがないんで、今から入れてきます。あと10分か15分、待ってもらえますか」
えっ、えー!? 
あまりに悲しいオチに、私はもう、呆れて何も言えなかった。
代車のガソリンが少な目にしか入ってないのは、素人の私でも知っている。
予約を入れておいたのにもかかわらず、ガス欠必至の代車。
今、まさに車へ乗り込もうと瞬間、こんなことを言われるなんて。

以前は、創業者の熱いマインドがすみずみまで感じられて、本当によかった。
世界の一流企業といわれるまで大きくなった会社はさすが地方の営業所にまで、その心意気が浸透していると思っていた。
崩れるときは、内側から崩れるのだ。
企業はやっぱり人で成り立っている。



ラジオパーソナリティ

2007年11月30日 | Weblog
ここ5年くらい、自宅の電波の調子が悪くて、ほとんどラジオを聴かなくなった。
たまに聴くのは、車の中だけ。
先日、人を待つため、駐車場に車を入れ、ラジオに耳を傾けていたら、パーソナリティがリスナーから寄せられたFAXを読み上げていた。
内容は、京都へ「紅葉狩り」に行ったというものだった。
読み終わえたあと、男性パーソナリティは言った。
「いいっすねぇ、京都へ”こうよう狩り”。この時期、たぶん多くの人でにぎわっているでしょうねぇ。ボクも京都の”こうよう狩り”へ毎年のように行くんですけど、いいですよねぇ。きれいですよねぇ。”こうよう狩り”が楽しめるのは今のシーズンだけですからねぇ」
…と、このあとも「こうよう狩り」を何度も連発したのだった。
彼は本当に京都で紅葉狩りを楽しんでいるのかしら……。
きっと楽しんではいるんだろうけど、「紅葉狩り」を「こうよう狩り」と間違って覚えてしまったんだろう。
これは「もみじ狩り」と読むんですよ…おせっかいな私は、思わず、電話したくなってしまったのだ。
FAXを送ったリスナーは、自分の投稿が読まれたことを喜びながらも、胸中は複雑だったかもしれない。

三連休の催し物を、女性パーソナリティが案内していた。
「……というわけで、みなさん、お出かけになってみてはいかがでしょうか。それにしても、あの話題の***(人気上昇中のユニット)が来てくれるんですからねぇ。お天気もいいようですし、これはすごい人出でヤバイんじゃないですかねぇ」
ヤ、ヤバイ?
私はちょっと耳を疑った。
この放送をしているのが、アーティストやタレントなら聞き流したけれど、FM放送のアナウンサーだったから、なんだかしっくりこなかった。
「ヤバイ」をこういう使い方をして、そのまま電波に乗せちゃうのかなぁ。
リスナーとの距離を近くしようとしてのことかなぁ。
さすがはアナウンサーって感じで、滑舌は良く、きれいな声だっただけに、私としてはちょっと残念。

久々にじっくり聴いたら、パーソナリティの言葉が雑になったような気がした。
テレビと違って、神経が耳に集中してしまうので、そんなふうに感じたのかもしれないけど……。
そして、流れてくる曲の数に比べ、パーソナリティのトークの割合が多くなったように思った。
内容も、業界の内輪受けしかしないようなものが多かった。
以前は、パーソナリティの話は簡潔で的を得ていて、おしゃれにスムーズに曲の紹介へと移っていったのになぁ。
夢中で聴いていたころを懐かしく思った。


冬の夜空

2006年12月06日 | Weblog
ゆうべは満月がきれいだった。
今年最後の満月だそうだ。
月に誘われ夜空を見上げたものの、星が見えない。
私が住んでいるのは地方都市で、街明かりが多いほうではない。
にもかかわらず、やはり年々、夜空は人工的な明かりに侵食されている。
そして最近は、個人の家のクリスマスイルミネーションも華やかになっている。
資源の少ない日本で、しかもクリスチャンが多いわけでもないのに、これほどイルミネーションを飾り付けていいものだろうか。
時代はエコといいつつも、エネルギーをこんなに使ってしまっていいのだろうか。
クリスマスに水を差すつもりはないけれど、冬の澄んだ夜空には電球の光より星の光を見つけたい。


心の深呼吸

2006年11月12日 | Weblog
深呼吸するとき、
まずは、息をぎりぎりまで、はき出すといいそうだ。
そして、胸いっぱい新しい空気を吸う。

心の深呼吸もしてみようと思った。
まず、胸の内にあるものをすべて吐き出してみる。
そして、思いっきり、新しい空気を吸う。

きっと何かが変わるだろう。

『永遠の0(ゼロ)』

2006年10月27日 | Weblog
『永遠の0(ゼロ)』(百田尚樹/著)を多くの人に読んでほしいと思った。

先日、私は60代の先輩女性Kさんに、
「人の人生がどれほどのものだ」と言われ、とてもショックを受けている。
彼女と私の共通の友人が自伝エッセイを書き、自費出版し、それを仲間に配ったことについての痛烈な批判だった。
彼女自身はこう思っているのだとか…。
「人生というのは誰にも語ることなく自分で全部背負って死に、あるとき誰かがふと自分を思い出してくれれば、それで自分が生きた証になるのだから、それでいいのだ」と。
私はKさんの言葉に圧倒され、その場では何も言えなかった。
それから数日間、彼女の言葉を反芻しているうちに、「違う、それは違う」と思うようになった。
かといって、今さら、それを伝えられるわけでもなく、話を蒸し返すことにもなってしまう。
それで、消化不良の気持ちをここにおいている。
誰かのことをweb上で具体的に書くのは良くないなぁと思いつつも。

エッセイを書いた女性は、70代後半のFさんで、私は出版のお手伝いをさせていただいた。
Fさんのご主人は、海軍にいた。
特攻作戦に参加することになったのだが、九州へ向かう途中、終戦を迎えた。
ご主人は90歳を迎えたが、かくしゃくとしていらっしゃる。
私は、Fさんが書かれた原稿用紙を、一文字一文字追いながら、深い感銘を受けていた。
そして、Fさんの人生が活字になり、本として残ったことがうれしかった。
戦争体験を原稿用紙に綴ることは、辛く苦しい作業であったと思う。
貴重な体験を私たちに残していただいたことに感謝している。

現在40代の私は、FさんともKさんとも年齢が離れている。
これまで歩んだ人生も、今後、残されている人生についても、それぞれ考えの違いはあるだろう。
けれど、自伝を書く書かないは別にしても、Kさんの意見には納得しかねている。
KさんはFさんの自伝と人生を否定したわけだけれど、私は私自身も否定されたような気がしている。
そして、Kさんの言葉をそのまま解釈すると、誰の人生であってもそれほどのものではない、ということになる。
それならば、自分の命を懸けて国を守り、支えてきてくれた多くの人たちの人生は…と考える。

『永遠の0』を読んだあとだっただけに、私にはKさんの言葉があまりに悲しい。
この本には、当時を生きた人と、その人たちの人生のバトンを受け取る今の世代の人が描かれている。
私には大事な大事な一冊となった。


経験の前に…

2006年09月27日 | Weblog
経験の前に謙虚でいたいと思う。

どんなに年を重ねても、どんなに若くても、
人はその人でしか経験できないことがある。
年輩の人が、若い人に対して、
「経験が足りない」とか「苦労が足りない」とかよく言うけれど、
経験の量や中身は年齢に比例しない。
だから、若い人が何かを経験し、
そのことに苦悩したことを軽んじてはいけないと思う。

また、年輩の人たちに対しても、
長い年月の間に培ってきた経験に、謙虚でいたいと思う。
特に戦争体験については…。
私のような戦後生まれは、おそらくもう戦争は経験しないであろう。
だからこそ、しっかり耳を傾け、真摯に向き合いたいと思う。

人がその人生において経験したことに対して、
誰も軽んじてはいけない、
そのことを私はいつもいつも心に刻みながら、
誰かの話に心を開き、謙虚でいたいと思う。