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Doku-Haku

心の闇をみつめるブログ。
「独白」が「毒吐く」となるときも……。

あなたへのワンクリック

2005年05月27日 | Weblog
「あなたのことを、日に一度は思う人がたくさんいるはずですよ」

私が自分の存在を否定し、とても落ち込んでいたときのこと。
私のブログの記事を読んで、すぐに私の心を察し、こんなに温かいコメントを残してくださってTさん。
Tさんの更新が止まって、はや4ヵ月が経つ。
あのときTさんが私に言ってくれたように、私もTさんを一日に何度か思う。
Tさん。
たぶん、私が住んでいるところの隣の県にいる方。
たぶん、同世代の方。
そして、美しい写真をいつも載せてらした。
今日も私は、Tさんのブログにワンクリック。
私は、ずっと待っている。
Tさんのブログの再開を。
私は、願っている。
Tさんが元気で過ごされていることを。

見えてしまうとき

2005年05月25日 | Weblog
使う言葉でその人が見えてしまうときがある。
日ごろ、どんなにいい人だと思っていても、ちょっとしたひと言でそんな場面に出あう。
同じことがブログでも言える。
AさんとBさんは、ブログを通じていい交流をしていると、私は思っていた。
時々、Bさんの記事につけるAさんのコメントの言葉遣いに、第三者の私の方が、ハラハラしながら読んでいた。
けれど、Aさんのブログだけ読んでいると、すごくバランスのとれた方が書いているような印象を受け、いい言葉がたくさん並んでいた。
Bさんはさりげなく、Aさんのコメントにレスをつけていたので、私が深読みしすぎなのだと思っていた。
でも、そうではなかった。
Bさんは、とても傷ついたことを記事に残したまま、更新されていない。
同じ状況になったら、私もそうするかもしれない。
コメントのやりとりに臆病になった私は、コメント欄を引っ込めてある。

すごくいい人を装い、どんなに素晴らしいことを記事に書き、コメントを入れても、ちょっとしたことで、ほころびが見えてしまう。
会話なら聞き流せることでも、文字に残るとその言葉はもっと強烈に人の心に残る。
なぜ、こんなこと書くかというと私自身がAさんでありBさんであったから。
そして、そんな自分に嫌気がさしたから。
以前のブログがそうだった。
いつのころからか、人からの印象に自分を合わせるようになってしまった。
そこから、無理が生じて自分が疲れ、人をも疲れさせ傷つけた。
私のほころびを見た人がたくさんいたことだろう。

だから、このブログでは、自分のままでいきたいと思う。




追い込む

2005年05月24日 | Weblog
原稿の締め切りが続いた。
こんなにギリギリまで、追い詰められたのは初めてだ。
やっと書き終え、今日は気持ちが楽になった。
けれど、たくさんのものを原稿用紙に出し尽くしたようで、物事を感じる感覚がなくなってしまったような気がする。
虚脱感っていうのかな。

以前、ロシアのバレエ学校で、先生が生徒を限界まで踊らせていた。
インタビュアが先生にたずねた。
「どうして、ここまで生徒を追い込むのですか」と。
すると、先生はこう答えた。
「限界までいかなければ、新しい力は生まれません」

私にもまた、チカラが満ちてくるのだろうか。
「書きたい」気持ちが沸き起こるのだろうか。

今回の経験が新たなチカラにつながるかどうかは、わからない。
……が、バレエ学校の先生の言葉どおりになることを期待したい。

「RE:」は悲しい

2005年05月21日 | Weblog
友人や家族にメールを送信して、「RE:」で戻ってくると、ちょっと悲しい。
件名に「おはよう」と送って「RE:おはよう」っていうのは、ちゃんと挨拶を返された気がしない。
……で、PCでのメールのときに、自分が送った本文まで返されてくるともっと悲しい。
出した手紙が、つき返されたみたいで……。
仕事上のこと、パブリック的なものなら、もちろんそれでいい。

私は返信のとき、そんなことはできない。
私の気にしすぎ?
一般的にはそれはどうってないことなのかなぁ。
メールってお手紙のやりとり、会話のやりとりじゃないのかな。
相手があってすることなのだから、もっと温度を感じあってメールしたい。
画面に映る活字が無機質な分、私はそんなことを期待してしまうのだ。


カテゴリーにとらわれず

2005年05月18日 | Weblog
以前のブログでは、「Blog People」をブックマークに入れて、よくおじゃまするサイトの一覧を作っていた。
他の方のサイトにもそれがあったので、のぞかせていただくことも度々あった。
中には、カテゴリーごとにサイトが分類されていることもある。
たとえば、写真、カメラのブログ、動物のブログ、食べ物、紀行などだ。
私のは、たいていどこでも「その他」に入っていた。
私のブログそのものが、テーマのはっきりしないもので、どのカテゴリーにも属しにくいものだったからだ。
自分ではそれでいいと思っていた。
食あり、ペットあり、旅ありで……。
だって、生活の中で感じたいろんなこと、それを綴っていたかったから。
時々、ペットや食をテーマとしている人たちが、申し訳なさそうに、「今日はタイトルから離れてこんな話題を」と、前置きして記事をUPしていると気の毒に思った。
きっとそのサイトに訪れる人が、「ここは動物ネタだ」「食ネタだ」と期待しているのに、違うことを書いて失望させないようにとの配慮なのだと思う。
そんな様子を見ていたので、私は自分のブログのブックマークは分類をしなかった。
分類することで、誰かを縛ってしまうことを恐れたからだ。
人は日々、いろいろな場面に出合い、たくさんのことを感じる。
たとえばペットの成長記録を綴るというブログの中に、子育ての悩み、職場のことが書かれていてもいいと思う。
自分のことも誰かのことも、カテゴリーにとらわれることなく、縛ること縛られることなく、思うがままのサイト作りでいいんじゃないか、私はそう考えている。

自分に向かって

2005年05月16日 | Weblog
ずっと前のことなので、細部までは確かではないけれど、こんな話を聞いた。

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ある冬のこと、列車内では暖房を入れて運行していた。
車両から車両へ移る乗客たちが、ドアをきちっと閉めてくれないので、せっかくの暖房の効果がなくなってしまう。
車掌はドアに貼紙をした。
「ほかのお客様のご迷惑になるので、ドアはしっかり閉めてください」
……が、少しも改善されなかった。
車掌は考え、再び貼紙をした。
「あなたが寒い思いをしないために、ドアをしっかり閉めてください」
すると乗客は、ちゃんと閉めるようになった。
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人は自分ごととして物事を捉えると行動が変わる。

列車事故で会社組織の責任が問われている。
事故を起こした社内の人間も、そして、それを取り巻く社会全体も、自分ごととして捉えることで、もっと変われるのかもしれない。



私って

2005年05月12日 | Weblog
私って、なぜ、こんなに心がよどんでいるんだろう。
なぜ、こんなにひねくれているんだろう。

今日は新たにいろいろなブログに出合った。
どれも、平和的なものばかり。
旅先でのきれいな風景、日常に見るおだやかな光景、おいしそうなもの、かわいいペットたち。
こういうものをずっと描き続けられる人たちはすごい。
見る人々にいいものを与えてくれる。
心が和むよ。

私も今までのブログはそういうものでありたいとは思っていた。
けれど、やっぱり心根が良くないから、無理がきて続けられなくなってしまった。
以前の私のブログを「心温まる…」とか「ぬくぬく」とか「あったか系」と紹介して、リンクしてくださる方々のその気持ちを裏切らないようにと一生懸命だった。
本当は全然そうじゃないのに。

私はネガティブな人間だ、と開き直れることもできず、逆にみんなに温かいものを提供できる人間になりきるこもできず、中途半端なままだ。
嫌な人間だな、私って。

「みなさん」という呼びかけ

2005年05月11日 | Weblog
いくつかのサイトをのぞいていると、その中に「みなさん」という呼びかけがある。
たとえば、
「みなさんはGWをいかがお過ごしですか」
とか、
「みなさんはこの映画をご覧になりましたか」
みたいなの。
私はその言い方に非常に違和感を覚える。
人よりも高い位置に立って、話しているみたいだからだ。
例えば本名なり顔を出すなり、何かしら匿名性の薄いものならいいのだけれど、ハンドルネームで顔も出さなくて、自分が何者かを伏せておいて、勝手に優位に立った呼びかけをしてほしくないものだ。
数あるサイトの中の「一サイトの管理者」という以外、有名人でも何者でもないようなのに、まるで、ラジオなどのDJ風に、世間一般に向かって言う語り口。
ご本人はたぶんフレンドリーに軽く話しかけているつもりなのだろう。
でも、呼びかけをする前に、まず自分のことを話せばいいのになぁ。
いったいどれくらいの数の「みなさん」がそこをのぞいているか知らないけど、なんか勘違いしているみたい。
ネットという文字通りフラットな網目の世界で、一方的に上下関係を作られるってなんだか抵抗を感じてしまうのだ。
組織が嫌いな私の過剰反応なのかもしれないけど……。



渡るサイトはイエスマンばかり

2005年05月08日 | Weblog
昨日、「コメント欄に疲れてしまった」ということを書いた。
幸いにも、今までの自分のブログには不愉快だと感ずるコメントは一度もなかった。
私の記事を肯定してくれて、なおかつ、足りない部分を補っていただくものばかりだった。
ほとんどのサイトでは、「非難、中傷、宣伝はやめてほしい」とうたっている。
中傷、宣伝の類はともかく、「非難」「批判」または「批評」のボーダーはどこにあるのだろう。
個人個人の受け取り方で違ってくる。
時には、自分の考えをたがえる意見も必要で、それは自分を伸ばしてくれることもある。
ただ、やはり、コメント欄、掲示板上では、思考の細部まで表現するのが難しいから成り立ちにくい。

気付けば、自分のサイトの周りは、「YesMan」ばかり。
お互いが肯定しあうだけで、あまり発展はない。
そんなやりとりを1年続けていると、なんだか不毛だなぁと思えてきたのだ。
かと言って、見ず知らずの方の叱咤を真正面から受ける勇気にも欠けてしまうのだが…。
これまで、温かい言葉を残してくださった方々には、本当に申し訳ない。

私は、長い間、ぬるま湯につかりすぎてしまったようだ。


こんなはずじゃなかった

2005年05月07日 | Weblog
最初にブログを始めたのは、この「Doku-Haku」みたいに、心によどんだ泥を吐き出したかったからだ。
ネガティブな記事も多かったけれど、吐き出すことで澄んでいった。
そのころから、アクセス数、コメント数が増え、ランキングにも載るようになった。
……が、自分でも知らず知らずのうちに、サイトを訪れてくれる人を失望させない努力をするようになってしまった。
過去の自分の記事を読み返すと、そこに在るべき自分の姿がない。
違う、こんなの自分じゃない…と思う。

中学生ごろから今まで、何度言われたことだろう。
「あなたには失望した」「幻滅した」…と。
私は自分を少しも飾っていないつもりだったし、どんなイメージで見られているかなんて興味もなかった。
けれど、私が「私」を主張すると、必ずと言っていいほど、みんないっせいに背を向けた。
以前のブログでもそうだった。
記事を書く、コメントをいただく、コメントに対して返信する。
それを繰り返しているうちに、いつの間にか、幻影ができてしまったようだ。

時々、耐えられなくて、「自分自身」を主張する記事を書くと、途端にアクセスもコメントも減った。
それでもいい、自分にウソをつくよりも。
そう思って続けてきた。

でも、心機一転、新しい場所で始めるのだ。