毎日「何となく」つまんねえよなあ。そりゃ友達と遊んだりしているときは楽しいけど、それが一生続くわけじゃないし。メールが来たら、どんなときでもすぐに返さないといけないのもウザいし…
何のために勉強するの? 何のために仕事するの? お金を稼いでご飯を食べるため? そうなんだろうなあ。でも、オレ、本気で飢えて死にそうになったことないよ。それなのに、食べるために働くとか言われてもねえ。なんか、もっとそれらしい理由が欲しいよなあ。わかんないから「何となく」働いてるけど。
ニュースでいろいろやってるけど、根本的にはどうてもいい。そりゃ自分に被害があることだったら動くけど、自分の知らないところで、人が何人死んだとか、世界や政治がどう動いているとか、関係ないじゃん。一番大切なのは身近なことじゃん。
朝起きて、仕事して、帰って、漫画読んだりゲームしたりテレビ見たりネットしたりして、寝る。そんな生活の繰り返しで、なんとなくつまらないけど、でも、どうしたらいいかわかんないじゃん。
■
僕なりに、今の20~30代前半の若い人たちの日々の心境を想像しながら書いてみた。もちろん、僕が見た限りの僅かなケースからの想像だし、僕自身の主観によってバイアスがかかっている。ただ、この「何となくつまらない」「何のために生きているのかわからない」感は、前記の層の人たちに、幅広くあるものじゃないか、というのが僕の考えである。
■
「情熱に燃えて、意欲に溢れて、何かを一心不乱に目指し、また悩みも深いのが若者の姿だ」なんてことが言われるけど、僕は、それこそ実態に即さないステレオタイプだと思う。そもそも、「らしくあれ」と押し付けられることを嫌うのが若者の特性だとすれば、「若者らしさ」という言葉は、それだけで矛盾している。
僕が思うには、今の日本で一番、それらしい「反抗」をしているのはひきこもりの人たちだと思う。従来の世代が作り上げて来た「金と経済成長、モノや生活の充実こそ良きこと」という価値観に反発し、働かない。何もしない。「何かをする」「何かを作る」ことは、それだけで旧来の価値観に組することだから。
それでいて、親たちの世代が与えてくれた自分の部屋だけは、自分の持ち物として収奪し、あくまで居座る。なんと素晴らしい反抗ではないだろうか。何らかの場所に「居座る」ことが抗議であることは、歴史的にも例があるはずだ。黒人差別の時代、黒人が映画館のイスに居座って、てこでも動かないという抗議もあったそうじゃないか。
■
経済成長によって、身の回りがモノで埋め尽くされた一方で、なぜ生きるのかとか、なぜ働くのかとか、人間はどうあるべきなのか、とかそういう精神面が全く考えられてこなかった、あるいは単発的に「精神」について議論が巻き起こっても、奥深くまで根を下ろすことがついぞなかった、ということが、やっぱりあると思う。モノと精神という分け方は、いささか割り切りすぎかもしれないけど。
んでそうなると結局、「自分と、自分をとりまく集団、自分の周りだけ充足していればいい」という、昔も昔ながらの日本のムラ社会性が全面に出てくるのもムリもないことだと思う。
もちろん、携帯やネットによって、特に10代の人たちの人間関係のあり方は、形の上では変わったと思うけど、根本的な「自分と自分の周りだけ」思考は変わってない気がする。
そうでなければ、なぜ「スクールカースト」なんて言葉が議論されたり、メールの返信の早さや有無に一喜一憂したりするのだ? また、「草食系男子」「肉食系男子」だの、「山女と壁女」なんていう、些末な違いを見つけては定義しあう言説が活発になるのだ? ごく小さな違いで相手を「キャラづけ」することに躍起になりながら、自分の周りの「社会」とか「世界」にまったく目もくれていない姿が浮き彫りになっているじゃないか。
■
とは言え、現状では、僕のように「世界」だの「社会」だの考える人間の方が、むしろ珍しいのかもしれないという気がする。僕は、以前、友達をまったくなくした時期があり、その鬱憤の中でいろんなことを考えすぎる癖が出来たけれど、普通に友達を作りながら生活している人たちは、ごく自然に、その中で慣れていってしまうのだと思う。「大きな物語」が壊れ、学生運動も何もないこの時代に、「世界」や「社会」なんていうことを考えたって得することは何もない。
そしてそんな今の現状の中で、それでも曲がりなりに「社会」や「世界」を伝えるニュースという仕事に携わっている人間として、考えることだけは止めるまいと思う。
■
あのねえ、若者はハングリーなものだとか、好奇心おう盛であるはずだとか、情熱に燃えているはずだとか、悩んでいるはずだとか、本当にウソだから。そんなの、貧しかった時代と、その後の高度経済成長期に作られた幻想だから。
むしろ、感受性が豊かな若者こそ、肌で感じてしまう。今の時代は情報もモノもありすぎるってことに。どれだけ掘り尽くそうとしても、最初からキリなんてないってことに。むしろ最初から、「取りに行くこと」「消費すること」をやめてしまったほうが得策だってことに。
今の時代の若者は消費をしないとか、情熱がないとか、本も読まないとか言うけれど、それはむしろ、至極当然のことではないだろうか。むしろ、小難しいことばかり考えている僕みたいな人間の方が、今の時代では特殊なのだろう。
コンビニの前でたむろしたり、電車の中で意味のないしゃべりに没頭してたり、あるいは小さい居酒屋で、いっつもお決まりのメンツで騒いだりしてる、2ちゃんあたりでは「DQN」と呼ばれそうな人たちが、むしろ最も「若者らしい」若者かもしれないのですよ。
何のために勉強するの? 何のために仕事するの? お金を稼いでご飯を食べるため? そうなんだろうなあ。でも、オレ、本気で飢えて死にそうになったことないよ。それなのに、食べるために働くとか言われてもねえ。なんか、もっとそれらしい理由が欲しいよなあ。わかんないから「何となく」働いてるけど。
ニュースでいろいろやってるけど、根本的にはどうてもいい。そりゃ自分に被害があることだったら動くけど、自分の知らないところで、人が何人死んだとか、世界や政治がどう動いているとか、関係ないじゃん。一番大切なのは身近なことじゃん。
朝起きて、仕事して、帰って、漫画読んだりゲームしたりテレビ見たりネットしたりして、寝る。そんな生活の繰り返しで、なんとなくつまらないけど、でも、どうしたらいいかわかんないじゃん。
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僕なりに、今の20~30代前半の若い人たちの日々の心境を想像しながら書いてみた。もちろん、僕が見た限りの僅かなケースからの想像だし、僕自身の主観によってバイアスがかかっている。ただ、この「何となくつまらない」「何のために生きているのかわからない」感は、前記の層の人たちに、幅広くあるものじゃないか、というのが僕の考えである。
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「情熱に燃えて、意欲に溢れて、何かを一心不乱に目指し、また悩みも深いのが若者の姿だ」なんてことが言われるけど、僕は、それこそ実態に即さないステレオタイプだと思う。そもそも、「らしくあれ」と押し付けられることを嫌うのが若者の特性だとすれば、「若者らしさ」という言葉は、それだけで矛盾している。
僕が思うには、今の日本で一番、それらしい「反抗」をしているのはひきこもりの人たちだと思う。従来の世代が作り上げて来た「金と経済成長、モノや生活の充実こそ良きこと」という価値観に反発し、働かない。何もしない。「何かをする」「何かを作る」ことは、それだけで旧来の価値観に組することだから。
それでいて、親たちの世代が与えてくれた自分の部屋だけは、自分の持ち物として収奪し、あくまで居座る。なんと素晴らしい反抗ではないだろうか。何らかの場所に「居座る」ことが抗議であることは、歴史的にも例があるはずだ。黒人差別の時代、黒人が映画館のイスに居座って、てこでも動かないという抗議もあったそうじゃないか。
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経済成長によって、身の回りがモノで埋め尽くされた一方で、なぜ生きるのかとか、なぜ働くのかとか、人間はどうあるべきなのか、とかそういう精神面が全く考えられてこなかった、あるいは単発的に「精神」について議論が巻き起こっても、奥深くまで根を下ろすことがついぞなかった、ということが、やっぱりあると思う。モノと精神という分け方は、いささか割り切りすぎかもしれないけど。
んでそうなると結局、「自分と、自分をとりまく集団、自分の周りだけ充足していればいい」という、昔も昔ながらの日本のムラ社会性が全面に出てくるのもムリもないことだと思う。
もちろん、携帯やネットによって、特に10代の人たちの人間関係のあり方は、形の上では変わったと思うけど、根本的な「自分と自分の周りだけ」思考は変わってない気がする。
そうでなければ、なぜ「スクールカースト」なんて言葉が議論されたり、メールの返信の早さや有無に一喜一憂したりするのだ? また、「草食系男子」「肉食系男子」だの、「山女と壁女」なんていう、些末な違いを見つけては定義しあう言説が活発になるのだ? ごく小さな違いで相手を「キャラづけ」することに躍起になりながら、自分の周りの「社会」とか「世界」にまったく目もくれていない姿が浮き彫りになっているじゃないか。
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とは言え、現状では、僕のように「世界」だの「社会」だの考える人間の方が、むしろ珍しいのかもしれないという気がする。僕は、以前、友達をまったくなくした時期があり、その鬱憤の中でいろんなことを考えすぎる癖が出来たけれど、普通に友達を作りながら生活している人たちは、ごく自然に、その中で慣れていってしまうのだと思う。「大きな物語」が壊れ、学生運動も何もないこの時代に、「世界」や「社会」なんていうことを考えたって得することは何もない。
そしてそんな今の現状の中で、それでも曲がりなりに「社会」や「世界」を伝えるニュースという仕事に携わっている人間として、考えることだけは止めるまいと思う。
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あのねえ、若者はハングリーなものだとか、好奇心おう盛であるはずだとか、情熱に燃えているはずだとか、悩んでいるはずだとか、本当にウソだから。そんなの、貧しかった時代と、その後の高度経済成長期に作られた幻想だから。
むしろ、感受性が豊かな若者こそ、肌で感じてしまう。今の時代は情報もモノもありすぎるってことに。どれだけ掘り尽くそうとしても、最初からキリなんてないってことに。むしろ最初から、「取りに行くこと」「消費すること」をやめてしまったほうが得策だってことに。
今の時代の若者は消費をしないとか、情熱がないとか、本も読まないとか言うけれど、それはむしろ、至極当然のことではないだろうか。むしろ、小難しいことばかり考えている僕みたいな人間の方が、今の時代では特殊なのだろう。
コンビニの前でたむろしたり、電車の中で意味のないしゃべりに没頭してたり、あるいは小さい居酒屋で、いっつもお決まりのメンツで騒いだりしてる、2ちゃんあたりでは「DQN」と呼ばれそうな人たちが、むしろ最も「若者らしい」若者かもしれないのですよ。