河辺のブログ

正しいことだけが正しいわけじゃない

コンタクト外した瞬間/ぼやける風景みたいに

2009-05-30 20:44:44 | Weblog
毎日「何となく」つまんねえよなあ。そりゃ友達と遊んだりしているときは楽しいけど、それが一生続くわけじゃないし。メールが来たら、どんなときでもすぐに返さないといけないのもウザいし…

何のために勉強するの? 何のために仕事するの? お金を稼いでご飯を食べるため? そうなんだろうなあ。でも、オレ、本気で飢えて死にそうになったことないよ。それなのに、食べるために働くとか言われてもねえ。なんか、もっとそれらしい理由が欲しいよなあ。わかんないから「何となく」働いてるけど。

ニュースでいろいろやってるけど、根本的にはどうてもいい。そりゃ自分に被害があることだったら動くけど、自分の知らないところで、人が何人死んだとか、世界や政治がどう動いているとか、関係ないじゃん。一番大切なのは身近なことじゃん。

朝起きて、仕事して、帰って、漫画読んだりゲームしたりテレビ見たりネットしたりして、寝る。そんな生活の繰り返しで、なんとなくつまらないけど、でも、どうしたらいいかわかんないじゃん。



僕なりに、今の20~30代前半の若い人たちの日々の心境を想像しながら書いてみた。もちろん、僕が見た限りの僅かなケースからの想像だし、僕自身の主観によってバイアスがかかっている。ただ、この「何となくつまらない」「何のために生きているのかわからない」感は、前記の層の人たちに、幅広くあるものじゃないか、というのが僕の考えである。



「情熱に燃えて、意欲に溢れて、何かを一心不乱に目指し、また悩みも深いのが若者の姿だ」なんてことが言われるけど、僕は、それこそ実態に即さないステレオタイプだと思う。そもそも、「らしくあれ」と押し付けられることを嫌うのが若者の特性だとすれば、「若者らしさ」という言葉は、それだけで矛盾している。

僕が思うには、今の日本で一番、それらしい「反抗」をしているのはひきこもりの人たちだと思う。従来の世代が作り上げて来た「金と経済成長、モノや生活の充実こそ良きこと」という価値観に反発し、働かない。何もしない。「何かをする」「何かを作る」ことは、それだけで旧来の価値観に組することだから。

それでいて、親たちの世代が与えてくれた自分の部屋だけは、自分の持ち物として収奪し、あくまで居座る。なんと素晴らしい反抗ではないだろうか。何らかの場所に「居座る」ことが抗議であることは、歴史的にも例があるはずだ。黒人差別の時代、黒人が映画館のイスに居座って、てこでも動かないという抗議もあったそうじゃないか。



経済成長によって、身の回りがモノで埋め尽くされた一方で、なぜ生きるのかとか、なぜ働くのかとか、人間はどうあるべきなのか、とかそういう精神面が全く考えられてこなかった、あるいは単発的に「精神」について議論が巻き起こっても、奥深くまで根を下ろすことがついぞなかった、ということが、やっぱりあると思う。モノと精神という分け方は、いささか割り切りすぎかもしれないけど。

んでそうなると結局、「自分と、自分をとりまく集団、自分の周りだけ充足していればいい」という、昔も昔ながらの日本のムラ社会性が全面に出てくるのもムリもないことだと思う。

もちろん、携帯やネットによって、特に10代の人たちの人間関係のあり方は、形の上では変わったと思うけど、根本的な「自分と自分の周りだけ」思考は変わってない気がする。

そうでなければ、なぜ「スクールカースト」なんて言葉が議論されたり、メールの返信の早さや有無に一喜一憂したりするのだ? また、「草食系男子」「肉食系男子」だの、「山女と壁女」なんていう、些末な違いを見つけては定義しあう言説が活発になるのだ? ごく小さな違いで相手を「キャラづけ」することに躍起になりながら、自分の周りの「社会」とか「世界」にまったく目もくれていない姿が浮き彫りになっているじゃないか。



とは言え、現状では、僕のように「世界」だの「社会」だの考える人間の方が、むしろ珍しいのかもしれないという気がする。僕は、以前、友達をまったくなくした時期があり、その鬱憤の中でいろんなことを考えすぎる癖が出来たけれど、普通に友達を作りながら生活している人たちは、ごく自然に、その中で慣れていってしまうのだと思う。「大きな物語」が壊れ、学生運動も何もないこの時代に、「世界」や「社会」なんていうことを考えたって得することは何もない。

そしてそんな今の現状の中で、それでも曲がりなりに「社会」や「世界」を伝えるニュースという仕事に携わっている人間として、考えることだけは止めるまいと思う。



あのねえ、若者はハングリーなものだとか、好奇心おう盛であるはずだとか、情熱に燃えているはずだとか、悩んでいるはずだとか、本当にウソだから。そんなの、貧しかった時代と、その後の高度経済成長期に作られた幻想だから。

むしろ、感受性が豊かな若者こそ、肌で感じてしまう。今の時代は情報もモノもありすぎるってことに。どれだけ掘り尽くそうとしても、最初からキリなんてないってことに。むしろ最初から、「取りに行くこと」「消費すること」をやめてしまったほうが得策だってことに。

今の時代の若者は消費をしないとか、情熱がないとか、本も読まないとか言うけれど、それはむしろ、至極当然のことではないだろうか。むしろ、小難しいことばかり考えている僕みたいな人間の方が、今の時代では特殊なのだろう。

コンビニの前でたむろしたり、電車の中で意味のないしゃべりに没頭してたり、あるいは小さい居酒屋で、いっつもお決まりのメンツで騒いだりしてる、2ちゃんあたりでは「DQN」と呼ばれそうな人たちが、むしろ最も「若者らしい」若者かもしれないのですよ。

ため息の数だけ何かをなくしていくよ

2009-05-26 02:24:43 | Weblog
仕事に行く。北朝鮮の核実験でてんやわんやだったが、よくできる新人に助けられ、それなりにやり通す。いつもより、やりきった感を抱いて帰る。

帰り際に、近くのコンビニでSabraを買う。

マカロニ・グラタンを食べながら、セブンイレブンで買ったギネスビールを飲みつつ、このあいだ買ったフィナンシャル・タイムズを眺めている。英語紙だから内容はほとんどわからない。ただカッコつけてみたいだけのことだ。腕のいい誰かが、僕のことを写真でも撮ってくれたら、それなりに「洋風」に見えるかもしれない。しかし僕は典型日本人だ。

スネオヘアーを聞いている。



以下は余談。



日本のロックとかポップミュージックの弱みは、「自己模倣」が出来ないことかもしれない。洋楽を聴いていると、時に怖いほど、彼らの中に、ビートルズが、ザ・フーが、いつでも生きていることを感じさせられる。ビートルズやザ・フーという御大がいて、それがすごく染みこんでいる。

日本の場合、模倣はいつでも外国のものになる。だからここのバンドの味は、ビートルズだったりフォークだったりパンクだったりするのだけど、日本ならではの統一された味という物が出てきづらい。はっぴいえんどは、60年代に日本語でもロックが歌えることを彼らなりに証明したけれど、「はっぴいえんどの血を受け継ぐバンド」が、今のロック歌手の中にいるだろうか?



ハロプロから離れた後、他のアイドルに興味を持つようになりました、何てことを言うと、ハロプロファンである人(および、だった人)の大半は、鼻白むような感覚を覚えることだろう。

それをわかった上で言うなら、最近のアイドルでは小池里奈が好きです。

絶望や希望を/歌うほど若くない

2009-05-18 03:41:07 | Weblog
日曜だが、金・土休みで仕事をしている僕には週の初め。朝起きて何やかやしたあと、昼寝したら寝すぎてしまう。前夜に睡眠剤を飲み過ぎてしまったせいもあったか。仕事に10分遅刻する。反省する。

仕事の休憩中に、同じビルの地下にあるうどん屋に行ったら、休日のためか、時間が遅かったためか閉まっている。ついてない。

仕事を終える直前、ダウンタウン松本の結婚のニュースが飛び込んで来て、急ぎその分も仕事をしてから帰る。見逃さなくて良かった。ついてると言えばついてる。

どこかに落としたのか、紛失してしまったと思っていた精神安定剤の包みは、ナップサックのポケットの奥から出て来た。薬をもらうために、一度余計に医者に行かなくてもすむ。ただ、今週あたり、先生に話を聞いてもらいたかったような気もする。ついてると言えばついてる。ついてないと言えばついてない。

書いていたらとりとめがなくなってしまったが、そんな日常。

ILLMATIC BABY

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ART-SCHOOLは、基本的に、いい曲よりも、さえない曲が多いバンドだけど、この盤の2曲目「夜の子供たち」はカッコいいと思ったし、それに次ぐ3曲目「君はいま光の中に」は、何か胸に沁みる物を感じた。絡み合う、という感じではなく、並列して流れていく、という感じの、メロディーとギターとベースラインが気持ちいい。

悲しみロックフェスティバル
スネオヘアー,渡辺健二,箭内道彦,池田貴史
エピックレコードジャパン

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これの2曲目「Happy end feat.Azumi」は、何となく今日聞いて、いつもより良さがわかった。落ち着いた4つ打ちの打ち込みと、優しいメロディーが良い。僕が音楽に求める最重要要素の一つである「温かさ」がにじみ出ている気がする。

こういうシングルがあるから、シングルも買った方がいいアーティストというのがあるんだよなあ…でも、そういうアーティストのシングルも追うことを考えると、ちょっと気が遠くなる。

カブトムシ
aiko,aiko,島田昌典
ポニーキャニオン

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「温かさ」という言葉を出したついでに言うなら、僕が思う「温かい」曲の筆頭候補はこれになる。胸の奥がじんと温かくなって、気持ちが安らいで、悲しくないのに涙が出てきそうになる…それが、僕の言うところの、「温かさ」の定義である。



本当にとりとめもない文章になってしまった。

無題

2009-05-16 02:25:24 | Weblog
家で使っている光通信のケーブルが、いつのまにか切れていて(原因は不明、)プロバイダに頼んで今日復旧してもらったが、2日ほどネットにつなげず。予想以上の退屈さを味わう。

3ヶ月分払い忘れ、滞納が高額になっていたネットの料金を漸く払う。3万円以上の支払いになると、収入印紙が貼られることを初めて知る。

今日は、上記のような金銭的な処理をいろいろやったり(銀行の通帳記入をしたりとか)。ビートルズの「Beatles For Sale」や「The Beatles」(通称ホワイト・アルバム)を聞いたり、図書館に行ったりしていた。図書館では、新潮45の内田樹のコラムを読みふけってしまい、フォーブズなど他の雑誌を読む時間がなかった。

ほし(紙ジャケット仕様)
曽我部恵一
ROSE RECORDS

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これも最近良く聞いている。


Quadrophenia

MCA

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今日はあと、これでも聞いて寝る。

(無題)

2009-05-07 00:35:14 | Weblog
希望を捨てる勇気 - 池田信夫 blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/6f12938eaad206d10b7629456f0a051e

サヨナナ:何もかもについて事細かにルールを決めるしかない
http://replica-love.jp/sayonana/archives/000708.html

404 Blog Not Found:ある種のネト充やオタクたちが決して「リア充」にはなれない理由
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51202331.html

最近、少し考えさせられた上記のブログエントリーをまず張ってから、この文章の書き出しを考えたいと思う。



生きてるのはつまらない。いきなりな書き出しであれだけれど、今の時代を生きる20代の人間として、確かにそういう感覚はある。そして、僕より年齢の低い人たちも、気づいているにせよいないにせよ、そういう感覚を背負っているんじゃないかと僕は感じている。

僕の場合、どうしても、語る切り口はハロプロのことからとなる。ハロプロは、ある観点から見れば、ある時点から「つまらなく」なる一方だった。もちろん、今なおハロプロを愛している人たちもいることも、僕はわかっているが。

その過程の中で、いろんな人たちの、いろんな場合を見て来た。他のアイドルに目を向け始める人、過ぎ去った「よきハロプロ」と今を比べ、愚痴を言うだけになってしまった人、何も言わずに離れていった人、改心したかのように、今一度ハロプロを肯定する道に戻った人、皆それぞれだ。



論理の飛躍と思われるだろうが、僕にとって、そのようなハロプロの「衰退」は、宮台真司氏のいう「共同体の崩壊」や、斎藤環氏のいう「大きな物語の消失」と共通するものがあると感じられる。実際、僕はずっと、ハロプロの流れと社会の流れとに通底する物があるような、そんな見方をずっとしてきた。

つまり、「若者も大人も年寄りも混じって構成される身近な共同体」がどんどん崩れ、かつ「若者は若者らしく、大人は大人らしく、年寄りは年寄りらしく」という社会の中での役割の通念も崩れ、「若者は勉強を頑張って大人になり、大人は仕事に邁進してお金を儲ければ、老人になったとき安楽に暮らせる」という社会の一般的なモデルも崩れて、みんながバラバラの個人になり、他人との連帯を見いだせず、不安に苛まれたり、息苦しくなったりしていく、そういうことだ。



いい時代になった、と言えばいい時代になったのだと思う。各人が「らしさ」に縛られることなく、自由に動けるようになったということだから。もちろん、その「らしさ」の押しつけの中で、気づかないうちに伝承されていた能力、心構えなんかが伝承されなくなった、という点はデメリットだろうが。

そして、ハード面から言えば、他ならぬこのインターネットという技術ができた。それにより、情報へのアクセスは非常に容易になった。テレビや新聞が持つ、時間的な制約や、論調・センセーショナリズムなんかのバイアスを避けて、一気に一次情報に触れる機会も増えた。

プロ論」なんかを読んでも、今はいい時代なのだ、という人たちは少なくない。インターネット、その他いろいろなハードを使いこなして、自分なりの仕事をする能力のある人たち、あるいは能力はなくても気概のある人たちには、今の時代はいい時代なのだろう。

ただ、その同じインターネットの世界の中で、いつ果てるともしれない言い争いや罵倒に精を出し、陣取り合戦やストレス発散をするばかりの人たちがいることも確かなのだ。そしてそういう人たちの性情が、「古き日本人像」と変わらないという点は、池田信夫氏が喝破しているとおりだ。



それに加えて、さっき言った、「各人がバラバラの個人になる」ことによって、人と人との繋がりが希薄化し、それにともなって、見知らぬ人には声もかけない、見知らぬ人と関わりたくない、という欲求も、社会で増えていているように思う。

そして、逆説的に、「仲間内」での付き合いには注力し、「空気を読み」、雰囲気を壊さないように常に配慮し、仲間はずれにされないように血眼になる、という風潮も増してきているように思う。

何かの共同体、何かの「場」の中にいなければ、他に居場所がないし、居場所がないことは存在を否定されることと同じだ、というのが、日本人に染み付いた考え方であることを考えれば、相反する上記2つの流れが同時進行していることは、全然不思議じゃない。

そして、そういう人間関係のあり方を続けている内に、本当は誰もが気づいてしまうんじゃないだろうか? 「自分は、本当に好きで友達と付き合いを続けているわけじゃないんだ」「仕方ないから付き合っているだけなんだ」「本当は自分は、誰のことも本気で好きなわけじゃないんだ」「本当は、自分は友達を『利用している』だけなんだ」と。

そういう感覚が、冒頭で言ったような「生きづらさ」を生み出す大きな原因の一つじゃないかと、僕は推測している。



そういう「生きづらさ」を抱えながら、たぶん多くの人が、いろんな所で息苦しくなったり、苛立ったりしているのだろう(僕だってそうだ)。冒頭の2番目に張ったURLにもあるように、マナーの悪いファミレスの客に苛立ったり、何か言ってやりたいと思いながら、結局、身も知らぬ人を怒ったりして、なお厄介なことになるのは嫌だから、黙って我慢するほかない。

あるいは、黙ってその場を絶え抜いた後で、家に帰ってネットの掲示板にその憂さを吐き出す。自分が見たその場面に、「マナーの崩壊」「社会の無秩序化」というテーマでも付ければ、もう上出来だ。立派な憂国の士を気取り、周りからも支持の書き込みをもらえることだろう。

そうやって、憂国の士になるうちに、いつしか、社会の崩壊、無秩序化を憂う「ネット右翼」の方向に引かれ、道を誤った人たちも一定数いるのだろう。僕はそう推測している。「ネット右翼」というと、いかにも人を罵倒するだけの人、というイメージもあるけれど、本当は、社会を憂う、真面目な人たちであるが故かもしれないと、僕は思っている。



冒頭の3番目に張ったURLにも関することだけど、そういう状況の中で、「脳内のイメージだけで満足してしまい、現実を全てあきらめてしまえば、それが一番幸せだ」という考えが、もう一方の流れとして出てくるのも、無理もないことだと僕は思う。

なんてったって、自分の好きなものだけでマイ・ワールドを作ってしまえば最強だ。加えて、前述のように、(幸か不幸か)今の世の中にはモノが溢れているし、簡単に手に入れることができる。自分の気持ちいい物だけ周りに集めることができる。「欲しい物は何もないいので、自分で取ってくるしかない」戦後のような状況と今とは違うのだ。

自分の周りに、自分の気持ちいいものだけのマイ・ワールドを作ってその中に耽溺していれば、一生楽しい。もちろん、人間は働いたり何やかやしなくてはいけないし、24時間ずっとマイ・ワールドに閉じこもっていることは出来ない。そういう「外に出る」瞬間は何よりの苦痛となることだろうが、その点だけを除けば、あとは幸せだ。



ただ僕は、上に書いたような「憂国の士」のような生き方も、「マイ・ワールドに閉じこもる」生き方も、あまり楽しそうな生き方とは思えない。実際にそういう生き方をしている人も少しは知っているけれど、あまり楽しそうには見えない。

だから僕は、冒頭に書いたように、人とうまく繋がれない不安や苛立ちを、日々少しは感じつつ、会社という共同体や、家族という共同体ぐらいは何とか持ち、かつ、以前から身につけて来た、孤独を紛らす術で乗り切りながら、毎日生きている。

そしてこれからどう生きるべきなのだろう?

そして、ヒントになるのは、冒頭の3番目のURLに張った、「現実は、自分のイメージよりも豊かである」「現実の中にしか、想像の材料はない」という主張であるような気がしている。



月並みな言葉だが、明日も頑張ろう!