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dB通信

NPO法人DANCE BOXが企画制作しているコンテンポラリーダンス公演、WSを様々なアプローチから取り上げる。

「セレクション15」 by北出昭

2006-07-21 20:56:57 | 公演レビュー
会場に着いたとたん、ダンスボックススタッフの横堀さんから「本日のレビューを書いてください」と言われる。なぜ、私に? と思ったが、見終わってなぞが解けた。それは、今回の女性ダンサーがみな美人だったからだ。
 断っておくが、私はダンスとダンサーの顔は全く無関係と思っている。だからと言って美人が嫌いだという訳ではない。正直に言えば、その逆だ。「あなたのダンスの評価は見た目の顔が影響しているのね」と指摘されそうだが、幸いそんなことを聞かれたことはない。仮に聞かれても、「そんな事はない」と否定することを決めている。そんな私を見抜いている横堀さんが、えこひいき無しで見て欲しいという思いから、この日の批評を私に割り振ったのだろう。

 山上恵理にとって、音は「空気の振動」ではなく、目に見えないほど小さな散弾銃の弾のような「物質の伝播」なのかもしれない。音が流れると、その物質が体にぶち込まれ、痛みを伴わないが、飛び込む位置や角度、大きさ、速さによって体のさまざまな部位がさまざまに動かされる、という感じである。後半は違ったけどね。

 0九が光を受けながら壁際で踊ると、その影と一緒に踊るようで楽しく見えた。ところが、途中からその影が、ダンサーの動きとは異なる動きを始め、まるで、影が意思を持っているかのように踊り出した。エッと驚いた。よく見ると、影のように見えたのは壁に映し出された映像だった。非常に不思議な気分だった。こういう映像の使い方は、初めて見たので、いいなあと思った。

 ポポル・ヴフってデュオだと思っていたので、なかなか2人目が登場しないなあ、なんてことを思いながら見ていた。結局、ソロダンスだった。座って片足を両手で持ち、その足をぶらぶら振り続ける場面があった。異様なほどの振り具合で、体の一部と思えなくなった。その肉体を非肉体化させる行為に嫌悪感を覚えるような、見てはいけないものを見る快感のような。極めて印象に残った。

 ダンスボックスの事務所にはダンス公演前になると、「今度はハダカがありますか」という問い合わせが入るという。警察からではない。ハダカが好きな人からだ。今回の野田まどかについてはどう答えたのだろう。ハダカではない。しかし、今が冬ならあんな薄い布地では寒いだろうなと心配するような衣装であった。ハダカ好きの人でも納得したのではないか。いや、そんな事を考えて見ていたのではない。
 時々、電車の中で車内放送より少し先に車内放送を始める人がいる。本人は非常に楽しそうである。もし、そういう人が突然、車内でダンスを始めればどうなるだろう。野田まどかのダンスがその答えのような気がした。そんな事を考えて見ていた。
 私は、劇場でどこか正気でないような人が踊るダンスを見ると、「これだからダンス鑑賞はやめられない」と思う。本日もそう思った。もちろん、野田まどかは突然、車内で踊らないし、車内放送もしない。と思う。


プロフィール
名前:北出昭
年齢:47歳
職歴:1981年、新聞社入社。現在に至る。
ダンス歴:今のところなし。
ダンス鑑賞歴:2002年、知人の師匠のダンスを見て以来。

「Dance Circus34」5月10-11日/「Noism06」5月22-24日

2006-06-26 20:44:58 | 公演レビュー
このレビューのコーナーでは、その名のとおり、DANCE BOX主催公演を中心に、批評家や関係者によるレビューを綴っていきます。
今号は、「Dance Circus34」(5月10-11日)とNosim06新作公演(5月22-24日)の模様を一挙にアップしました。
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DANCE CIRCUS(その1 /5月10日)  中西理
「Sister」がよかった。表題は姉妹のことかと思うとそうではなくて、尼僧のシスターなのだが、尼僧姿で登場したyumがしだいにあられもない姿を晒していくという少しきわどい作品。ダンスの動きのなかに性的な隠喩を明らかに匂わせるものがあったり、解釈しだいでは涜神的とも思われる要素もあるが、それが下世話にならずに見せられるのはyumに凛としていて気品を感じる端整な個性があったからこそ。あらためてダンサーとしての資質の高さに感心するとともに、この人は作品の作り手というよりはダンサーとして輝く人なんだなというのを再認識させられた。

 Joe Smallの「Upbeat, Downtime.」は通常のコンテンポラリーダンスとはアプローチの異なる作品で新鮮さを感じた。和太鼓とコンテンポラリーダンスの要素を組み合わせて融合させようと試みたもの。和太鼓の演奏はそれ自体、楽器演奏というだけでなく、パフォーマティブな要素を持つ。それゆえ、発想としては面白いと思うし、打楽器の生演奏の楽しさが見ていて味わえた。ただ、意図した「和太鼓とコンテンポラリーダンスの融合」にはなりきってない印象。

 林正美「Unconscious」はダンサーの資質の高さを感じさせ、完成度も高い。それだけに逆に「なぜこういうのを作るんだろう」という疑問も感じた。こういう風に作るとコンテンポラリーダンスになりますという典型みたいになっていて、そこからはみ出てくるようなところがないので優等生的に感じてしまうのだ。

 sonno「sole di mezzanotte」にも同じような不満を感じた。sonnoはダンサーのTENと美術家の山口智美の2人によるユニットで、今回は山口は舞台美術を手掛け、出演はせずにTENのソロダンス公演となっている。TENがいいダンサーだというのは分かるし、完成度も低くはないのだが、「ここしかない」という種類の強い個性が残念ながら感じられない。この作品もはみ出しのなさを不満に思った。

 坂田可織「ヒア」はその身体性の持つ個性に好感を受けた。自分の作品を発表したのはこれが初めて。実質的なデビュー作だった。12分程度の作品とはいえ、音楽はいっさい使わず、身体ひとつで見せていくという今回の作品は実は相当の難易度で、作品としては少し工夫が必要だと思うが、大きな破綻を見せずに踊りきったのには感心させられた。不器用だけれども素朴で真摯にダンスと向き合っていることのよさがこの作品には出ていたと思う。

DANCE CIRCUS(その2 /5月11日)
 市川まや「天井の上は、ソラ。」にやられた。奥の黒い壁に3本の矢印(↑↑↑)が白いビニールテープで貼り付けてあり、それをはがし壁と舞台に左右に平行する2本の線とその線と直角に交差する何本かの線を作っていく。そうして空間構成された上でゆっくりした動きで踊る。最初は分からないのだが、少しゆがんだへたうまの図形は線路みたいになっていく。流れている音楽に重なって、声が聞こた時にはそれはサブリミナルな存在で、聞き逃した。もう少し注意すると「次は尼崎」のアナウンス。「列車の社内アナウンスだ」と気がつき、そうか、白いテープは線路だったんだ……その瞬間、突然どういうことだったのかが、天啓のようにフラッシュバックし、衝撃を受けた。尼崎事故への鎮魂歌だったのである。さりげなさに少しぐっときた。

 野口知子「肖像(T)」は少女から老人までの女性の移ろいを演じ分けた。繊細に少女を演じ、パフォーマーとしての芸域の広がりを感じさせた。ただ原イメージはやなぎみわの「無垢な老女と無慈悲な少女の信じられない物語」の連作だったらしく、だとすると可憐すぎて、もう少し怖い部分が必要だったかもしれない。

 アッペカカは三林かおるとパーカッションの演奏家のタカシマタイコによる新ユニット。ダンサーとしての三林は何度も見ているが、振付作品は見たことがなかったので、どういう風になるのだろうと楽しみにしていたが、同じ場所で跳んでいるだけではあまりにミニマルすぎた。ダンスとその伴奏でなく、演奏を主体としたパフォーマンスと考えた方がよかったのかも。

 おかのあきこ+あいかよこは技術は高いが残念ながら作品になっていなかった。稽古場の動きをただつないでみた印象。コンテンポラリーダンスが他ジャンルのダンスとどう違うのか枠組みが分からず作るとこういう風になる典型に見えた。

 逆に既存のダンステクニックを使わなくても、「自分たちの動き」を意識して作ればちゃんと作品になるのを示してみせたのがKIKIKIKIKIKI「Twin」。太目の体形の女の子が2人登場して、相撲をサンプリングしたような動きでコミカルに踊る。「後輩をだまくらかしてこんなことをやらせて、受けるためなら手段をえらばずかよ、きたまり」と思ったものの、実に楽しそうに踊るし、愛嬌もあって可愛らしくて、キャラ立ちしているので、「本人たちが楽しいならいいか」と先程の老婆心などどうでもよくなってしまう。案外、「ジャパニーズ・スモウ・ガールダンス」などとして海外でも受けるんじゃないか。
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中西理

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Noism06『sense-dutum』5月22日-24日
「記憶を物質に置き換えたら、物質は自由な反乱を始めた」
柳井愛一

客席に着く前に既にパフォーマンスは始まっていた。舞台の三方を囲む様に渦巻き型の白いオブジェがテキスタイル・パターンの様に並べられている。舞台の後方には椅子が九つ並んでいる。椅子と舞台を神経質に行ったり来たりして、一人の男がしきりに正確な日記の記憶¬=表現の仕方に就いてのモノローグを繰り返している。やがてダンサーが徐々に現れる。欝としい男の独り言とは関係なく、混沌を孕みながら肉体を物の様に自在に操る。細かい感情よりも空間を強引に支配する物としての肉体。変化して行く日常をうまく処理できない言葉に対して、肉体が記憶をモノに変換し語り=騙りだす。その後どうなるのか、当然答えはない、答えは個々で見つけなければならない。だからまた混沌に帰る、ただダンス=踊ることにはそんな難しいことを敢えて要求していない、個々の表現を尊重することから全てを始めることが重視されている。金森穣とノイズムはギリギリのところで、コンセプトその他に対して、結論として、踊ることを楽しむことを選んだと思う。だから正解。すごく気に入った。-ダンサー達は当然この難しい要求に応えるテクニックを持っている-。
10人の出演者に対して9個の椅子は少なすぎる。椅子取りゲーム、記憶とは少し多すぎたり、少なすぎたりするモノなのだ。なんだか記憶が必死で遊んでいる様にも感じられる。微妙な差異の象徴としての性差を無視、あるいは強調するカツラを奪い合うゲームも始まる。決まったときに意味の様なモノが目の前を過ぎっていく。わずかな差異の祝祭。差異の祝祭が混沌の祭りになる。テクニックだけではなく、踊りたい気持ちが正直に見える一瞬、それが良かった。そういった構成ができる金森穣にも拍手。
常に遊ぶために、運動するために、なにかが空いている状態が必要になる。だから椅子は一つ少ない。動きが固定化された時にある体制、感動、その他ができるけれど、その固定化を新たな動きに換えて行く、能動的な状態を保たなければならない。実存主義的な言葉で始まりながら、テキスタイル様の繰り返し模様は、言い古された言葉かもしれないけれどポストモダンの標語「リゾーム」のイコンの様にも見える。サルトルが嘔吐した花の根っ子を別の可能性に読み替える作業だと思う。根っ子=根茎=リゾーム。バラバラになりながら適当なところで一つの場所を見つけて、またバラバラに成っていく、止まることが一番危険、だからダンス的な動きは常に必要とされている。ダンス的な動きが止まるとき、全てが止まってしまうと思う。コンセプトがはっきりしている、でもその隙間に気持ちの良い風が吹く。
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柳井愛一>演劇情報誌『JAMCI』スタッフを経てフリーのライターに。『劇の宇宙』『diatxt.』『act』等に執筆。情報誌『イマージュ』・『明倫アート』に連載コラム・演劇評を掲載中。共同編集者として『維新派大全』(松本工房・1998)に参加。