昼下りのティファニーで

おそーい朝食を食べるようになっても・・・

ティファニーで朝食を食べるようになっても・・・(9)

2012-09-30 00:00:44 | 日記
 さて、原作では、サングラスを外したときのホリーについて、以下のよう説明しています。

●カポーティ

I'd never seen her before not wearing dark glasses,and it was obvious now that they were prescription lenses, for without them her eyes had an assessing squint, like a jeweller's.

龍口訳:
これまで彼女が黒い眼鏡をかけていないところを見かけたことがないが、それが処方箋でつくらせたレンズを使っている眼鏡であることが今や明らかになった。
それをかけていないと、彼女の眼は宝石屋さんの眼のように、それとわかる程度に斜視だったからだ。

村上訳:
サングラスをかけていない彼女を見るのは、それが初めてだった。サングラスが度入りであることはあきらかだった。
というのは、サングラスをかけていない彼女の目は、宝石鑑定士みたいにぎゅっとすぼめた目で、探るようにこっちを見ていたからだ。

●比較

<dark glasses>
 →黒い眼鏡
 →サングラス

「黒い眼鏡」または「黒眼鏡」は、時代を感じます。

<it was obvious now that ・・・>
 → ・・・が今や明らかになった。 
 → ・・・はあきらかだった。

 村上版は「now」を飛ばして、そのとき初めて判ったということ感じを薄めていますが、前後の文脈で、「今」が明白だと言いたいのでしょう(たぶん)。

<prescription lenses>
 →処方箋でつくらせたレンズ
 →度入りレンズ

「prescription」には「処方箋」の意味があり、さらに、オンライン辞書で調べると「prescription lenses」で「度入りレンズ」とありました(原典が行方不明)。

 ただし、昭和39年10月1日改訂61版の「ニューコンサイス英和辞典」によると「処方箋」とはありますが、「度入りレンズ」の記載まではありません。

<assessing squint>
 →それとわかる程度に斜視
 →ぎゅっとしぼめた目で、探るようにこっちを見て

 決定的に違う部分です。
龍口版では、「assessing」を「それとわかる程度に」としたのでしょうか?
村上版は、「assessing」を「探るようにこっちを見て」と考えて、表現しています。


<考察>

 龍口版を読んだとき、宝石鑑定士が宝石を鑑定するときに目を寄せる様子(=斜視)をイメージしていました。 
 村上版を読んだときは、村上春樹がホリーの「斜視」のことを誤魔化して、「ぎゅっとすぼめた目」としたのかと、疑いました。

 この部分で、龍口版は、「斜視」だから「矯正するために処方箋でつくらせたレンズ」であることが、今、明白になった、としているようです。

 村上版は、近眼者がよくする「ぎゅっとすぼめた目」でこちらを見ていたから、「サングラスが度入りである」ことが判ったと言っています。

 「squint」には、斜視のほかに「目を細めてみる」の意味があります。そして、「assessing」には「査定する」という意味があるので、ここでカポーティが言いたいのは、

「宝石鑑定士が(宝石)を査定するときのように、目を細めて見る」

と思われます。

 すなわち、ホリーは「近眼」であって、「斜視」ではないのです。

 龍口版の「処方箋でつくったレンズ」というのが、斜視を隠すための「黒い眼鏡」であるというのは、何となく無理があるからです。おそらく、処方箋がなくても、サングラスくらいは選べるでしょう。

 従って、村上版の翻訳が正しいのでしょうが、「ぎゅっとすぼめた目」で頭に浮かんだイメージは「霊能者・宜保愛子の目」でした。

 もっといい訳はないのでしょうか? 誰か、考えてください。

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ティファニーで朝食を食べるようになっても・・・(8)

2012-09-29 16:55:58 | 日記
 「ティファニーで朝食を」の原作を読んだとき、本当のホリー・ゴライトリーはどんな容姿をしているのかが、気になるところでした。

 龍口直太郎翻訳版を読むと、映画のシーンにもありましたが、ホリーが非常階段を使って、小説家のタマゴの部屋に窓から入ってきたときの、ホリーのルックスに関する描写があり、ホリーが「斜視」だということに気がつきます。 

●龍口訳:

これまで彼女が黒い眼鏡をかけていないところを見かけたことがないが、それが処方箋でつくらせたレンズを使っている眼鏡であることが今や明らかになった。

それをかけていないと、彼女の眼は宝石屋さんの眼のように、それとわかる程度に斜視だったからだ。

それは大粒の眼で、少し青く、少し緑色をおび、あちこちに茶色がまじってた。

●原作

I'd never seen her before not wearing dark glasses,and it was obvious now that they were prescription lenses, for without them her eyes had an assessing squint, like a jeweller's.

They were large eyes, a little blue, a little green, dotted with bits of brown:

 辞書で調べると、確かに「squint」には、斜視と言う意味がありました。

 ところが、村上春樹版では、この部分をそのようには表現していません。村上春樹が、意図的に「斜視」を隠蔽したのでしょうか?

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ティファニーで朝食を食べるようになっても・・・(7)

2012-09-29 00:09:56 | 日記
 しかし・・・

 もし、ヘプバーンがホリー役をしていなかったら、この映画のこのシーンは生まれていませんでした。こんなに綺麗で品のある後ろ姿を見たことはありません。

 


 

 

 
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ティファニーで朝食を食べるようになっても・・・(6)

2012-09-28 00:20:19 | 日記
 「ティファニー」の龍口直太郎版も、村上春樹版も、そのあとがきには、
「カポーティは、ホリー・ゴライトリーは、マリリン・モンローの主役を条件に映画化を許可した。」
 という主旨のことが書かれていました。モンローが断ったときの事情は、Wikipediaに以下のように書かれています。

 「ところが、出演オファーを受けたモンローは、娼婦役を演じることが女優としてのキャリアにマイナスになると考え、出演を断った。」

 映画をみた限りホリーは娼婦ではなく、映画の脚本は、ヘプバーン用に書き直されたものだと思っていました。

 しかし、先日、原作を何十年ぶりかで読んだところ、Wikipediaの記載の完全な間違いでありました(あまり信用してはいけないことが判った)。
 ホリー・ゴライトリーは「新しいタイプのプレイガール(龍口版あとがき)」であり、「型破りの奔放さ、性的開放性、潔いいかがわしさ」を持つ「戦略的自然児」(村上版あとがき)なのです。
 
 このとこに気づいて、モンローがホリー役を受けていたら、どうなっていたのでしょう?
 
 映画版で、一般的に不評であるラスト・シーンは、原作通りに作られていたかも知れません。原作ファンの人たちは、喜んでいたでしょう。

 しかし・・・・
 
 
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ティファニーで朝食を食べるようになっても・・・(5)

2012-09-24 00:00:00 | 日記
 ネットで調べていると、カポーティの「ティファニーで朝食を」の原語と日本語翻訳、および龍口直太郎訳と村上春樹訳について、比較・研究・評価している人が居るのがわかりました。

 全般的には、50年以上前の龍口訳の誤訳を指摘し、2008年の村上春樹訳の日本語の美しさを褒め讃えるものが多いな、という感想です。

 皆さんと同じことをする気はないですが、前回、ブログで紹介したこの本の出だしの部分がみつかったので、これだけは完結しておきます。

カポーティ:
I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighborhoods. For instance, there is a brownstone in the East Seventies where, during the early years of the war, I had my first New York apartment.

龍口訳:
私はいつでも自分の住んだことのある場所-つまり、そういう家とか、その家の近所とかに心ひかれるのである。たとえば、東七十丁目にある褐色砂岩でつくった建物であるが、そこに私はこんどの戦争の初めの頃、ニューヨークにおける最初の私の部屋を持った。

村上訳:
以前暮らしていた場所のことを、何かにつけふと思い出す。どんな家にすんでいたか、近辺にどんなものがあったか、そんなことを。たとえばニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、イーストサイド七十二丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。戦争が始まってまだ間もない頃だ。


<always drawn back>
 →いつでも〜心ひかれる
 →何かにつけふと思い出す

 ふーん。

< the houses and their neighborhoods>
 →そういう家とか、その家の近所とか・・・
 →どんな家にすんでいたか、近辺にどんなものがあったか・・・

 龍口訳のは普通です。村上訳の「どんな家」「どんなものがあったか」の「どんな」という単語は原語にはありません。

<a brownstone>
 →褐色砂岩でつくった建物
 →おなじみのブラウンストーンの建物

 村上訳の「おなじみ」はどこから出てきたのでしょう。[a brownstone]は、この単語だけで、前面が赤褐色の砂岩でできた建物の意味があるようです。

<the East Seventies>
 →東七十丁目
 →イーストサイド七十二丁目

 まず、前回、龍口訳が間違っていると考えた「東七十丁目」は正しく、村上訳が間違いというのがわかります。

<during the early years of the war>
 →こんどの戦争の初めの頃
 →戦争が始まってまだ間もない頃だ。

 個人的には、龍口訳の「こんどの戦争」という表現が好きです。

<I had my first New York apartment.>
 →私は〜ニューヨークにおける最初の私の部屋を持った。
 →ニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、・・・

 龍口訳は、いかにも大学の英米文学の教授らしい訳です。村上訳は、原語とは主語が変わっており、日本語として綺麗にまとめたかったら、こうなってしまうのでしょう。

 全般的に、龍口訳は英語の構文に沿った翻訳で、村上訳は日本語の表現に適した意訳をされています。
 
 読みやすいのは村上訳ですが、実は、原文の構文構造がわかる龍口訳が嫌いではありません。


 
 
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