外れ者たちによる街の記録。
昭和昨日町ー放浪記
雑記/2012.10
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トゥーリア(TURIA)


今日のつぶやき
ZYXROT(ジロー)。マルチアーチスト/詩人。
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トゥーリア(TURIA)は1987年(昭和62年)5月8日に、東京都港区六本木7-13-7(外苑東通り沿いの当時防衛庁前)に開店した高級ディスコである。レイトンハウスの名称でレーシングチームの運営やアパレルの展開などを行っていた丸晶興産が経営していた。
「トゥリア」とはギリシャ語で数字の「3」という意味である。
概要
総床面積392平方メートル、収容人数約800人。当時高級ディスコブームの代表的存在であった。
アレンジャーは空間プロデューサー山本コテツ。内装を手がけたのは映画「ブレードランナー」の美術コンセプトを担当したシド・ミード。近未来惑星に故障した宇宙船が不時着したというコンセプトで、宇宙船を模した照明が天井からつり下がる構造だった。店自体は未完成のままオープンし、少しずつ「改修」して3年後に「完成」したところで閉店する計画だった。
だが1988年(昭和63年)1月5日、吹き抜けの2F天井から照明が落下し死亡者3名、負傷者14名を出す事故を起こし、開店からわずか1年足らずで閉店した。
詳細は「六本木ディスコ照明落下事故」を参照
その後、現場検証が終了した後に建物はすぐに解体され、跡地はパチンコ店となっている。この店の軒先には現在でも慰霊碑代わりの地蔵が立っている。
ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%B3)
2012年1月 6日 (金)
トゥーリアとディスコとバブルと私
1月5日は『トゥーリア・照明器具落下事故』の日。
(Wikipediaの記事へのリンク)
1988年のこの日、六本木のディスコ、『トゥーリア』で名物の昇降式ペンダント型巨大照明器具が落下し3人が死亡、14人がけがをした。
この照明が墜ちた。そりゃ、死ぬわ。
1988年というと、バブルもディスコも絶頂に向けて昇っているのか墜ちていくのか、訳のわからない熱狂の中で踊っていた頃だ。 死人が出ているので、ざまあみろとは言いにくい事故なんだがあの時代はなんだったんだろう。 しかし、笑わないで欲しいが、この時代私ですら、『ぢすこ』に行ったことがある。 『なんで金を払ってこんな拷問を受けないといけないのか』と、正直思った。
変な時代だったなあ。
この事故のあとも、ディスコでは単に『踊る』という機能だけではなくVIPルームで酒飲みながらフロアを見下ろすのが偉いとかジュリアナのお立ち台でセンスを持って水芸するのが偉いという変態じみたベクトルで、滅びの道を駆け抜けていく。
変な時代。そもそも、この事故自体が不思議な話だった。写真にある照明器具は重量1.8tもの巨大なものだがアメリカ製で、舞台や映画でたくさん使われていて、ホラ、ありがたりなさいよ、という触れ込みだった。 事故が起こったとき、アメリカのバリライトの社員がすっ飛んできたそうだが、調べてみたら全然偽物。腹を抱えて帰ったそうである。
Wikiprdiaには、この事故の原因が『設計上の想定頻度以上で動かしたのでモーターが壊れた』とか、眠たいことを書いているがこんな事、工学系の人間が書く文章なら許さない。何トンの照明であっても、その安全をモーターの根性と頑張りに頼っていたような書き方だ。モーターが焼けようが、停電になろうが津波をかぶろうが器具を支えるワイヤーは絶対にロックされる、という当然のフェールセーフが出来ていなかっただけだ。ふざけんな、馬鹿。そんな『原因分析』じゃ死んだ人も浮かばれまい。 バリライト社に鼻で笑われた、トゥーリアはこの事故を機に閉店。運営していた丸晶興産という会社も、いまはない。『レイトンハウス』というブランドでF1にも出ていたのだが、これもない。ザ・自業自得。
そもそも、いまや、ディスコというものがない。
いまの若い衆に『最近の人もデスコでフィーバーするのかい?』なんて聞いたら、笑われてしまう。聞かないけど…
クラブ、というのだ。平板口調でアクセントを『ブ』に置く。ディスコと同じように、酒を飲んで曲とともに踊るのだが、なんと、ディスコと違って終夜営業である。ディスコは、ソープと同じく風営法に引っかかるので夜12時に閉めないといけないが、クラブはそうではない。そこは、のりピーがラリってDJをやっちゃうような無法地帯なのだそうだ。おおこわい。まあ、ディスコでも、クラブでもいいけどね。
曲と一緒に踊りたいというのは、村祭りの盆踊りの頃から同じだ。若い衆は、目をつけていた娘とともに繁みの中に消えていく、というところまで同じ。しかし、バブルをリアルタイムで知っているというのはおそらく幸福な体験ではないのだろう。私自身は『バブル世代』よりも年上だし、何しろこんな性格だからそこに入って泡まみれ、ということにはならなかったんだけど曲を聴いて踊るのが楽しい、って気持ちは、わからなくもない。酒とクスリが入って音楽と一緒に踊れば、ナンパの一つもしたくなるだろう。でも、もちろん今更クラブなんか行かない。というか、入れてもくれないだろう。
昔のディスコでも、入口で『黒服』のチェックを受けて合格しないと入店さえさせてもらえなかった。トューリアというのは、そういう『高級ディスコ』だった。どんな商売も、ある程度普及すると『差別化』という事をする。ガキの頃なじみだった八百屋が久しぶりに帰省してみたら息子が継いでいて有機野菜とフレッシュハーブばっかり売っていて、『あたしってば「おうちカフェ」みたいな生活をするの。』なんて、『てめえの脳みそに虫がわいてんじゃねえのか?』という変に気取ったおばさんを集めたりするようなものだ。ビジネス用語でいうと『クラスファイされたカスタマーをディファレンシエーションする』というのだそうで、うるせえよ。こんな文章を書いてるから社会的な成功はないのだなと思うと、ちょっと切ない。従って、ディスコでもクラブでも、世代やファッションで客を選ぶようになる。 クラスの班分けで『お前。入れてやんねえよ。』というガキのいじめと同じだ。 余計腹立つ。
で、結局 今日の結論は一体何だ?というと、『私はディスコが大嫌いだ。』ということ。ついでに、バブルも嫌いだ。変な時代だったよ。あれは…
なつやすみ
http://natsu00117.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-9d8f.html
DANCE HALL
【トゥ-リア】
■所在地:東京都港区六本木7-13-7■経営:トゥーリア企画■床面積:970㎡(バー・ディオ、レストラン・エナ込み)■オープン:1987年5月8日■総工費:想定約8億円(建物込み)■総合ディレクション:山本コテツ+その他■イメージデザイン:ジド・ミード■設計:キュービックデザイン+その他
■ コメント ■
ディスコ史上、最も話題を呼び、最も悲しい事件が起きたお店です。
私自身、当然このお店には行った事が無く、聞識(見は無い)でしかありませんが、ご覧のとおりすごい内装です。
バブル絶頂にレイトングループ(本業は不動産、アパレルのレイトンハウスやF1なども手掛け、ブルーグリーンみたいな色のレイトンカラーが有名)が企画し、テナントビルに入るのではなく建物から建築したそうです。
私の記憶では、『ヴェルファーレ』の真向かいにあるビルで、1995年くらいに1階でカジノ営業していたような?
同ビルにディスコ・バー・レストランの3店舗が入居していますが、図面を見るとそれらに合わせてかなり複雑な設計や吹き抜けを多用しており、88年1月5日にあの悲惨な事故があり1年あまりで閉店し、その後、この間取りでは店舗業態変更しぬくかったと思われます。
2005年あたりから、バブルのキーワード(日経平均株価・投資ファンド・不動産価格・会員制・F1JAPANなど)が鼓動しはじめたように感じるのは私だけでしょうか?
DANCE HALL
http://www.geocities.jp/maharajastory/22turia.html
六本木ディスコ照明落下事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内、 検索
六本木ディスコ照明落下事故 日付 1988年1月5日
時間 21時40分頃(JST)
場所 東京都港区六本木
死者・負傷者
3人死亡
14人負傷
六本木ディスコ照明落下事故(ろっぽんぎディスコしょうめいらっかじこ)は、1988年(昭和63年)1月5日に東京都港区六本木7丁目の高級ディスコ「トゥーリア」で発生した照明装置落下事故。
事故の概略[編集]
事故発生の場所は東京都港区六本木7-13-7にあったディスコ「トゥーリア」である。
このディスコの2階天井には、天井の巻取ドラムから直径6ミリのワイヤー8本で吊られた可動式大型照明装置[1]があったが、1988年(昭和63年)1月5日21時40分頃、巻取ドラムのワイヤーが過剰な荷重を受け瞬時に全数切損し、吹き抜けとなっている地下1階のダンスフロアまで8.2メートル落下するに至った[2]。
女性13名・男性4名の計17名が照明装置の下敷きになり、目黒区の看護自衛官(21歳女性)、桐生市の予備校職員(26歳女性)、世田谷区の会社員(24歳男性)の3名が死亡、14名が負傷した。落下した照明装置は楕円形で中央部には何もない形状であったため、落下時に中央にいた来店客は運よく難を逃れた。当時このディスコのフロア内には約200人がおり、プロ野球選手の桑田真澄と当時スポーツメーカーカドヤスポーツの販売促進課長だった中牧昭二、さらに女優の相楽晴子、アイドルの栗原冬子(のちの羽鳥慎一夫人)がいたと報道される(桑田は事故の数分前に店を出ており難を逃れた)。
昇降動作の頻度は設計上4回/日であったが実際には15 - 20回昇降動作させていた[3]。
事故の影響[編集]
事故で負傷した一人の21歳学生は障害が残ったものの年金非加入であったことから無年金障害者となり[4]、国民年金未加入を理由に障害基礎年金が支給されないのは憲法違反[5]だとして、国側に不支給処分の取り消しと損害賠償を求め民事訴訟をしている。この事故を受け懸垂物安全指針・同解説が取りまとめられた。
脚注
1. ^ ストロボスコープやスポットライトが取り付けられ、上下に動かすことができ、長さ5.5メートル、幅3.5メートル、厚さ1.5メートルの楕円形で重量約1.8トンであった。アメリカ製のバリライトであると称していたが、この事故で国産のコピー品と判明している。
2. ^ 床から2メートルの高さでストッパーが掛かる設計になっていたがあまりの落下速度にストッパーは掛からなかった。
3. ^ ただし常連客の中には10 - 20回/時の昇降動作を行っていたという声がある。
4. ^ 20歳以上の学生は強制加入であったが1985年に任意加入とされた。
5. ^ 20歳以上の学生でない国民は強制加入であり、学生に対する差別であるとした。
ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9C%AC%E6%9C%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%B3%E7%85%A7%E6%98%8E%E8%90%BD%E4%B8%8B%E4%BA%8B%E6%95%85
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MAHARAJA SALOON キング&クイーン



マハラジャ (ディスコ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マハラジャ (MAHARAJA) は、1980年代-1990年代に日本全国に展開した高級ディスコチェーン。1980年代後半のバブル経済期に高級ディスコブームを築いた元祖である。「キング・オブ・ディスコ」や「ディスコの代名詞」と言われ、数々の伝説を残した人気店。2010年11月1日から東京都港区六本木に『マハラジャ六本木』として復活した。
概要
社会的現象
全国でレストラン『しゃぶ禅』、カラオケパブ『2001年』『3001年』、絨毯バーやライブハウスの『最後の20セント』やその他多くのサパークラブ等、ナイトレジャー店舗を展開していた日本レヂャー開発(NOVA21グループ)が、1982年8月大阪ミナミに1号店をオープンして以降、北は札幌から南は九州・沖縄まで日本全国に展開した高級ディスコチェーン。
1984年12月に7店目の店舗として東京都港区の麻布十番にオープンした、事実上の旗艦店舗となる『マハラジャ麻布十番店』が社会的現象と呼ばれるほどの人気を博し、その後最盛期には全国に数十店舗を展開。そして1989年5月にはハワイのホノルルにも店舗をオープンした。
これまでのディスコの概念を打ち破った大理石を使用した絢爛豪華な内装、コンサートホール並みの音響効果に特殊照明、ホテルマン並みのきめ細やかな接客、高級レストラン並の本格的な料理、そしてガラス張りのVIPルームの登場と、芸能人ご用達が評判を呼び、折からのバブル景気とともにディスコブームを作り上げた。
ドレスコードと「お立ち台」
また、その後多くのディスコやクラブで取り入れられた『服装チェック(ドレスコード)』や『お立ち台』の元祖である。尚『お立ち台』については六本木スクエアビル3Fの『ギゼ』が元祖という説もあるが、その頃はまだ『お立ち台』と呼ばれておらず、それは高さも無く女性一人ほどしか乗れない小さな台だった。本格的な専用台として大々的に広げたのはマハラジャが最初である。
また「黒服」と呼ばれる役職を持つ店員もマハラジャから生まれた。これは従業員が階級別に色分けされた制服を着、役職はタキシード(黒服)を着ていたことから呼ばれるようになる。さらに現在もカラオケ店やレストランで人気のハニートースト(はちみつトースト)もマハラジャから生まれた。
成田社長
『マハラジャ麻布十番店』等、東京地区のマハラジャを運営する「エヌ・エンタープライズ」社長の成田勝が、全国のマハラジャ・チェーンのイメージリーダーとなり、1986年には歌手としてメジャーデビューも果たした。イタリアのユーロビートの雄、マイケル・フォーチュナティの大ヒット曲『INTO THE NIGHT』『GIVE ME UP』やデッド・オア・アライヴの大ヒット曲『TURN AROUND AND COUNT 2 TEN』などをカバーし、オリコンでも30位台に入るなどヒットした他、マハラジャ系列のディスコでプレイされ盛り上がった。
また、その後も『東京マハラジャウェスト』、『東京マハラジャイースト』、『青山キング&クイーン』、『川崎キング&クイーン』、『エデンロック・トーキョーベイ』、『ロイヤルトン・トーキョーベイ』などの人気系列ディスコを次々にオープンし、1980年代のディスコブームを象徴するカリスマ人物といわれた。なお、現在は元『東京マハラジャイースト』の場所にあるレストランバー『プレゴ』や元『東京マハラジャウエスト』の場所にあるカラオケ・ダイニングレストラン『六本木しゃらら亭』などを経営している他、各種アドバイザーとして活躍している。
伝説の終焉
バブル崩壊が始まった1990年からはディスコブームが終焉しマハラジャの人気も下火になったが、1991年にオープンしたジュリアナ東京のブームに便乗し地方店は再人気がでる。しかしディスコブームが去った後も数店が営業を続けていたが、1997年9月には麻布十番店が閉店。1998年4月には『最後のマハラジャ』と呼ばれた『マハラジャ横濱店』も閉店。皮肉にも第3次パラパラブームを目前としての閉店である。これらをもって『伝説』とまで言われた高級ディスコチェーン・マハラジャは約15年の歴史に幕を閉じた。
伝説の復活
その後2003年8月には六本木に『マハラジャ東京』が復活オープンしたものの、2005年1月に一旦閉店。同年5月からは改装し『六本木キング&クイーン』として再オープンした。
2007年12月には中洲に『マハラジャ福岡』が復活オープンしたが、2009年8月15日の営業を持って一時休店。しかし事実上の閉店と思われる。
2010年7月『六本木キング&クイーン』が閉店。その後『マハラジャ』の商標を大原俊弘が取得し、 2010年11月2日、オーナー大原俊弘のもと『六本木キング&クイーン』と同じ場所に『マハラジャ六本木』としてグランドオープンし、現在も営業中である。
実質運営は日本都市プロダクション株式会社が行っている。
全国マハラジャ全67店
* 『マハラジャ』…インド王族の称号から連想される通り、インド王宮を思わせるゴールドを基調とした豪華絢爛な内装。ダンスフロアにある真鍮製の象牙がトレードマーク。
o 札幌店・函館店・仙台店・郡山店・麻布十番店・<'03年東京店>・<<'10年六本木店>>・横浜店・新潟店・<富山店>・<金沢店>・長野店・<白馬店>・浜松店・<岡崎店>・名古屋店・<岐阜店 >・京都四條店・祇園店・大阪店・梅田店・マルビル店・<和歌山店>・神戸店・岡山店・福山店・広島店・<徳山店>・ <徳島店>・松山店・博多店・<<'07年福岡店>>・長崎店・熊本店・鹿児島店・沖縄店・ホノルル店
* 『マハラジャウエスト』…マハラジャよりカジュアルな店舗。
o 六本木店・横浜店・金沢店・名古屋店・大阪店
* 『マハラジャイースト』…マハラジャよりカジュアルな店舗。
o 麻布十番店・名古屋店
* 『マハラジャクラブ』…マハラジャよりカジュアルな店舗。
o 京都店
* 『マハラジャジュニア』…マハラジャよりカジュアルな店舗。
o 渋谷店
* 『マハラジャバー』…マハラジャよりカジュアルな店舗。
o 名古屋店・大阪店・岡山店
* 『MAHARAJA SALOON キング&クイーン』…マハラジャのインド王宮に対しヨーロッパのヴェルサイユ宮殿を思わせる豪華絢爛な内装でマハラジャのグレードアップ店舗。
o 仙台店・青山店・<<'05年六本木店>>・川崎店・金沢店・前橋店・長野店・静岡店・<豊橋店>・名古屋店・<四日市店>・大阪店・神戸店・広島店
* 『MAHARAJA PRODUCE エデンロック TOKYO BAY』…郷ひろみプロデュースでコートダジュールを意識し、東京ディズニーリゾートにある東京ベイホテル東急1Fにあったリゾート店舗。
o 浦安店
* 『MAHARAJA PRODUCE ロイヤルトン TOKYO BAY』…シルバー色を基調とした近未来型ニューヨークテイスト店舗。
o 浦安店
* 『MAHARAJA SALOON パシャ』…店名は違い内装はエデンロックと同じ店舗。
o 札幌店
* 『MAHARAJA SALOON サハラ』…高度文明が滅び廃墟した惑星がコンセプトの店舗。
o 宇都宮店
※上記 <○○店> はFC(フランチャイズ)店
※上記<<○○店>>はNOVA21グループの運営ではない
ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%A3_(%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%B3)
マハラジャ麻布十番店
陸の孤島
日本全国はおろか海外にまで広がったマハラジャの代表的存在であった『マハラジャ麻布十番店』は、当時まだ地下鉄の駅が開業しておらず、一番近い日比谷線六本木駅からでさえ徒歩10分以上かかるなど「陸の孤島」とまで呼ばれた東京都港区麻布十番(1-3-9 TBC麻布1F,2F)に1984年12月にオープンした。
なお、同店は『ダンスホール』として風営法の適用を受けるために午前0時で閉店するため、隣接した建物に、『レストラン』として風営法の適用を受けず午前0時以降もオープンできる、『マハラジャイースト』が設けられていた。
成功
同店はその立地条件を逆手に取り、六本木の多くのディスコのように郊外から電車で来店するようなボリューム層ではなく、自家用車での来店、もしくは港区内など近所に住みタクシーで来店するような比較的裕福な層をターゲットとし、さらにをドレスコードの強化や男性同士の入店を断るなど客の選別を行うことで、客層を一定以上のレベルに保つことに成功した。
さらにきらびやかな制服を着用した従業員に徹底的な顧客対応訓練を施すことで、顧客満足度を上げリピーターを増やす事にも成功した。その他、動員力のある裕福な大学生および大学のイベント系サークル向けに割引カード「カレッジカード」を発行し、金曜の夜は「金マハ」という大学生中心の動員がされた。また土曜日や日曜日の午後には、これらのイベント系サークルが開催する貸し切りパーティーも頻繁に開催された。
店内
1階
1階はエントランスとレストランコーナーになっており、レストランコーナーではパスタやピラフなど他のディスコでも提供されるメニューの他に、寿司職人が握りたての寿司を提供する他、「はちみつトースト」やパフェなどをはじめとするデザートも提供するなど、本格的な食事を提供していた。なお、エントランス脇には、トミタ夢工場が輸入代理店となっていたハルトゲBMWの最新車種が展示され、高級感の演出に一役買っていた。
2階
2階には真鍮製の象牙がエントランスにあしらわれたダンスフロアとDJブース、バーカウンターとVIPルーム、一般客用の座席があり、ダンスフロアを大理石で仕上げた上に、DJブース脇にはモニターを設置し、ところどころに真鍮の飾りを施して高級感を演出した。またトイレの清掃も頻繁に行われ清潔さを保っていた。
閉店
開店から約13年を経た1997年9月に閉店し、その後跡地にはワインバーがオープンしたが2004年に閉店した。その後、USENの宇野康秀が高級会員制社交クラブの「THE HOTEL JUBAN」を開店させたが、USENの経営状況の悪化もあり2009年に閉店し、現在はレストラン「MANCY'S TOKYO」となっている。ちなみに、1980年代後半に閉店した『マハラジャイースト』の跡地は系列店のレストラン・バー『プレゴ』となって、現在も営業している。
ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%A3_(%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%B3)
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