そんなことをムダに痛感した昨夜でした。
てなわけで、今週のハヤテに関してのレビューやら感想やらは、明日以降にでも。ということで。
まあそれは置いといて、ここ最近ハヤテ関連で回るサイトが格段に増えたこともあったのですが、その中で同じサンデーに連載されていた「聖結晶アルバトロス」に関する記事を発見。打ち切られてしまったマンガに関する背景についてを知ることができて、なかなか興味深かったですね。
詳しくはこちらからドウゾ
「聖結晶アルバトロス」の裏側
アルバトロスの作者である若木先生が、実際はどのように話を持っていこうとしていたのか、その辺を色々と知ることができました。
ただまあ、私はこのアルバトロスという作品を読み切りでしか読んでなくて、連載時は殆ど見てなかったので、こういうことを語るのもどうかとは思うのですが。
しかし私がこの作品を見限ってしまった最大の理由が、読み切りと異なり、バトルものとして路線を変更していくのがはっきりと見て取れたからなんですな。若木先生がその辺に関しても色々と考えを綴っておられたので「ああ~なるほどな~」と読んでて思ったりしたわけです。
……で、なしてイキナリこんなことを話題に挙げたかというと、今回のハヤテ考察の補足では、この「バトルもの」と称される作品におけるストーリーの構成について少し触れようと思ったからです。
というわけで、かなり強引な気もしなくもないですが、ハヤテの考察に参ります。
「舞台演劇にも似た、ハヤテの世界観」~「ハヤテのごとく!」に見る演劇論~
〈目次的な何か〉
「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~①」
「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~②」
「Ⅱ:セミパブリックな空間~愛沢咲夜の影響力~」
「Ⅲ:漫画と演劇の差異~爆弾という名のコンテクスト~」
「Ⅳ:漫画だからできること~斜めから見る『暫定最終回その2』~」
(本日のテーマはコチラ)
補足①~演劇とエンタメ系作品との相違点とは~
もう何度も言っていることではあるが、こと場面転換のない一幕ものの舞台において、セミパブリックな空間を舞台にすることが重要だとしている。一幕ものの短い舞台では、TVドラマや映画のように場面を頻繁に変えることなどできない。では1つの舞台、というか空間のみで劇を進行させるにはどうするのか。その回答がセミパブリックな空間のように、外部と内部の様々な人間が上手く出会えるような場所を舞台にするということなのだ。
ハヤテでは時間軸という概念こそ明確に存在しているが、基本的に一つ一つの話は1話完結の短編である。そしてこのような短編であれば、原則として舞台になる場所はその度に一箇所である。大きな場面転換が行われることは少ない。基本となっている屋敷での物語などはまさにそうだ。
やはりハヤテという作品の根底には、セミパブリックな空間で行われる一幕ものの舞台演劇という要素があることを、私は考えずにはいられない。そしてそこには1つの必然性を見出せる。
そもそもこのハヤテという作品は、パロネタやら学園ラブコメやらバトルものやらといういくつもの要素を含んでいながら、それらのどれか1つに固執するということのない、良く言えばマルチな、悪く言えば中途半端な作品である。この辺についてはtanabeebanatさんも述べられており、私自身もこの意見に同意できる。
ちなみにバトルものには「ドラゴンボール」という偉大すぎる先駆者がいる。この作品はバトルものとしての作品の組み上げ方をある意味で完成させた作品でもあろう。
またラブコメでもパロネタでも、やはり先駆者と呼べる有名な作品が多く存在しており、それらの作品は基本的に、ある種の法則に乗っ取って物語を進めていく。
具体的には、バトルものであれば「強敵やライバルが次々に現れ、それに対抗するために主人公達も強くなっていく」という一連の流れの連鎖構造だ。
一方ラブコメなどには、それこそ恋愛成就に向かうために様々な障害やライバルを用意し、それらを主人公が乗り越えていく際に得られるカタルシスを読者に提供していく、という流れがある。
これらの様式は哲学者ヘーゲルの提唱した「弁証法」の論理に通じるものがある。弁証法そのものは、ある方向性を持った「正」(テーゼ)に対して、相互矛盾する関係にある「反」(アンチテーゼ)が存在するとき、それらが「止揚」(アウフヘーベン)という過程を経た結果、全く異なる「合」(ジンテーゼ)という結果を生み出す、というものである。
これをバトルものの漫画に当てはめれば、何らかの目的を有する主人公がいて(正:テーゼ)、その一方で主人公達と対立し、障害となる強敵やライバルが存在する(反:アンチテーゼ)。この相反する2つの陣営(というか人物)がぶつかりあったときに「止揚(アウフヘーベン)」が起こり、それまで無かった新しいモノを手にする(合:ジンテーゼ)という具合だ。このとき止揚されて現れる「合(=ジンテーゼ)」にあたる部分は、単純に敵を倒すことにとどまらず、敵が今後仲間になったり、倒す過程で新たな技なんかを習得したり、他にも主人公達の内面の成長など、様々なものが考えられる。
ハヤテと同じサンデー作品から例を挙げれば、例えば「犬夜叉」において鉄砕牙を使いこなすために竜骨精と戦った際、その結果として鉄砕牙の奥義・爆流破を会得した、というのがそれに近いだろうか(単行本「犬夜叉」20巻、及びアニメ版「犬夜叉」54話のエピソードに相当する)。この場合は犬夜叉が「正(=テーゼ)」であり、竜骨精は「反(=アンチテーゼ)」に位置する。そして爆流破の習得という点が「合(=ジンテーゼ)」ということになる。そしてこの結果得られた「合」すなわち爆流破は、その後の「犬夜叉」のストーリーにおいても、主人公の犬夜叉の必殺技として利用されていくことになる。
犬夜叉に限らずこうした漫画や小説などのストーリーにおいて「正」と「反」という相反する要素がぶつかり合い、そして「合」が発生し、更にそれを「正」として取り込んで、新たなバトルを展開していく、という一連の流れは、物語をダイナミックにするのに非常に有効な手段である。
ではハヤテはどうかというと、前述したようなバトルものやラブコメの要素は含んでいることは含んでいるのだが固執することはない、という作品の性質が問題になる。つまり、こうした有効なストーリー作りの構造を、十分に活用することができないわけだ。というかそもそも、この作品におけるテーゼとアンチテーゼって、一体何なんだろう。私には想像がつかない。
しかしここで舞台演劇に親和性を持つハヤテという作品の個性が出てくる。演劇で見せるべき一番重要なものは「戦闘」でも「ラブコメ」でもない。登場人物たちの内面、あるいは「人物そのもの」である。
その登場人物たちの、普通目には見えない精神の揺れ動き、日常生活では見過ごしてしまうような小さな心の変化を、演劇というジャンルはピックアップして、より明確に顕在化していくのだ。演劇においてはバトルもラブコメも、それをより効果的に見せるためのツールとしての役割に過ぎないだろう。
演劇において見せるべきものはまず「人の心」「人そのもの」である。そしてハヤテが演劇の要素を内包しているという私の仮説は、この物語が「ハヤテとナギの成長記録」だと捉えるtanabeebanatさんの結論を裏付ける結果ともなる。人の成長を描くということは、総じて「人の心」や「人」そのものを描くということであり、同時に何気ない日常にすらもスポットを当てなければならないのだから。
この作品に取り憑かれた人は(少なくとも私は)、経緯はともかくとして、この作品における様々な「人間関係」と「人物の内面」にある種の面白みを感じているはずだろう。これこそ、舞台演劇において描き出されるべき「人」そのものについてであり、畑先生がこの作品に求めているのはここではなかろうか。
おそらく畑先生は、舞台演劇のようなスタンスにおいて「一番見せたいもの」というビジョンをはっきり持っており、多くのエンタメ作品が用いている「萌え」や「パロネタ」「ラブコメ」「バトル」といったものは、全て舞台上での芝居を効果的に進行させるための手段でしかない、という割り切り方をしているのではなかろうか。
この作品は「バトル」でも「ラブコメ」でもない。だからこそ、それらの要素の利用できそうなところを利用して、物語を進めていければそれでいい、とでもいうような。
「バトル」でも「ラブコメ」でも、引っかかりはどこでも構わない。何かで引っかかり、手に入れた読者を自分の打つ芝居の観客としていかに引き込んでいけるか、むしろ重点を置いているのはそこな気がする。
またパロネタに関して言えば「ギャグは身近な人がボケた方が面白い」という師匠の久米田康治ゆずりの作風も、ここに出ているのかもしれない。とにかく一部の人にしかわからないようなギャグやパロネタを使用する。そうすると、理解できた人に対して、この漫画はある種の引っ掛かりをつかめる。しかしこの物語の本質はパロネタではない。実際の物語へ読者をひきつけるためのツールとして、あらゆる要素を利用していくところに真の目的がある。
そういう意味では、この作品への入り口は非常に「狭い」しかし入り口の数はとてつもなく「多い」わけだ。狭い入り口を見つけた読者ほど、この作品と作者に対して親近感を抱くはずである。はずである。
「どこを入り口にして、どういう印象から始まって、この作品を読んでくれても構わない。最終的に自分が提示している物語に行き着いてくれて、そこに何かを感じられればいい」
つまるところ、この作品に対する畑先生のスタンスはこういう感じではないかと、私は考えている。
見せたいものはちゃんとある、しかしそれを見せるための手法は限りなく多彩で、変幻自在。これは読者に対して迎合するというのとはまた違うと思う。見せたいものは厳然と存在しているわけで、そこまで読者をいかに引き込むか、そこに心血を注いでいるという印象に近いかもしれない。
平田オリザ氏が提唱した「参加型の演劇」とは異なるかもしれないが、漫画という土俵で、畑先生なりに読者との対話を模索しようとしているのかもしれない。
(つづく)
……結局、最初に挙げたアルバトロスがまずかったのは、若木先生自身が「漫画でやりたいこと」を表現するために、バトルという手法を不確定要素なのに固定化して用いちゃったことではないかと。本来なら「バトル」を通して見せたいものが、自分が見せたいものに直結しなくてはいかんのですが……ここに書いたとおり、基本的にバトルものっていうのは話が進むごとに規模がどんどんダイナミックに拡大されていくものですから、若木先生にとってはバトルをダイナミクスさせればさせるほど、本来描きたいことが描きづらいというジレンマもあったんじゃあないかと。
ただ、それを上手いことミックスさせるやり方もないわけじゃあないんでしょうが……でも意外と多いじゃあないですか、バトル化したせいで本来の目的を見失っているようにしか見えない作品って。ことバトルものの多いジャンプは特にそうだけど。まあ、そのせいで逆に上手くいった作品も、なきにしもあらずでしょうが。
一方、演劇に基調を置いて話を進めていく畑先生にとって一番重要なのはメイン3人であり、そのほか外部の人物は状況に応じていくらでも取捨選択できる上、舞台も屋敷という最小単位が存在し、そこから状況に応じて舞台を新設したり、学園や周囲にまで拡張するという姿勢があるから、本当に変幻自在です。他の場所でも言われていましたが、やりたいことはあるんだけど、比較的自由が利くようにしている。そんなこの作品における柔軟性こそが、畑先生のすごさなんでしょうね。
てなわけで、今週のハヤテに関してのレビューやら感想やらは、明日以降にでも。ということで。
まあそれは置いといて、ここ最近ハヤテ関連で回るサイトが格段に増えたこともあったのですが、その中で同じサンデーに連載されていた「聖結晶アルバトロス」に関する記事を発見。打ち切られてしまったマンガに関する背景についてを知ることができて、なかなか興味深かったですね。
詳しくはこちらからドウゾ
「聖結晶アルバトロス」の裏側
アルバトロスの作者である若木先生が、実際はどのように話を持っていこうとしていたのか、その辺を色々と知ることができました。
ただまあ、私はこのアルバトロスという作品を読み切りでしか読んでなくて、連載時は殆ど見てなかったので、こういうことを語るのもどうかとは思うのですが。
しかし私がこの作品を見限ってしまった最大の理由が、読み切りと異なり、バトルものとして路線を変更していくのがはっきりと見て取れたからなんですな。若木先生がその辺に関しても色々と考えを綴っておられたので「ああ~なるほどな~」と読んでて思ったりしたわけです。
……で、なしてイキナリこんなことを話題に挙げたかというと、今回のハヤテ考察の補足では、この「バトルもの」と称される作品におけるストーリーの構成について少し触れようと思ったからです。
というわけで、かなり強引な気もしなくもないですが、ハヤテの考察に参ります。
「舞台演劇にも似た、ハヤテの世界観」~「ハヤテのごとく!」に見る演劇論~
〈目次的な何か〉
「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~①」
「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~②」
「Ⅱ:セミパブリックな空間~愛沢咲夜の影響力~」
「Ⅲ:漫画と演劇の差異~爆弾という名のコンテクスト~」
「Ⅳ:漫画だからできること~斜めから見る『暫定最終回その2』~」
(本日のテーマはコチラ)
補足①~演劇とエンタメ系作品との相違点とは~
もう何度も言っていることではあるが、こと場面転換のない一幕ものの舞台において、セミパブリックな空間を舞台にすることが重要だとしている。一幕ものの短い舞台では、TVドラマや映画のように場面を頻繁に変えることなどできない。では1つの舞台、というか空間のみで劇を進行させるにはどうするのか。その回答がセミパブリックな空間のように、外部と内部の様々な人間が上手く出会えるような場所を舞台にするということなのだ。
ハヤテでは時間軸という概念こそ明確に存在しているが、基本的に一つ一つの話は1話完結の短編である。そしてこのような短編であれば、原則として舞台になる場所はその度に一箇所である。大きな場面転換が行われることは少ない。基本となっている屋敷での物語などはまさにそうだ。
やはりハヤテという作品の根底には、セミパブリックな空間で行われる一幕ものの舞台演劇という要素があることを、私は考えずにはいられない。そしてそこには1つの必然性を見出せる。
そもそもこのハヤテという作品は、パロネタやら学園ラブコメやらバトルものやらといういくつもの要素を含んでいながら、それらのどれか1つに固執するということのない、良く言えばマルチな、悪く言えば中途半端な作品である。この辺についてはtanabeebanatさんも述べられており、私自身もこの意見に同意できる。
ちなみにバトルものには「ドラゴンボール」という偉大すぎる先駆者がいる。この作品はバトルものとしての作品の組み上げ方をある意味で完成させた作品でもあろう。
またラブコメでもパロネタでも、やはり先駆者と呼べる有名な作品が多く存在しており、それらの作品は基本的に、ある種の法則に乗っ取って物語を進めていく。
具体的には、バトルものであれば「強敵やライバルが次々に現れ、それに対抗するために主人公達も強くなっていく」という一連の流れの連鎖構造だ。
一方ラブコメなどには、それこそ恋愛成就に向かうために様々な障害やライバルを用意し、それらを主人公が乗り越えていく際に得られるカタルシスを読者に提供していく、という流れがある。
これらの様式は哲学者ヘーゲルの提唱した「弁証法」の論理に通じるものがある。弁証法そのものは、ある方向性を持った「正」(テーゼ)に対して、相互矛盾する関係にある「反」(アンチテーゼ)が存在するとき、それらが「止揚」(アウフヘーベン)という過程を経た結果、全く異なる「合」(ジンテーゼ)という結果を生み出す、というものである。
これをバトルものの漫画に当てはめれば、何らかの目的を有する主人公がいて(正:テーゼ)、その一方で主人公達と対立し、障害となる強敵やライバルが存在する(反:アンチテーゼ)。この相反する2つの陣営(というか人物)がぶつかりあったときに「止揚(アウフヘーベン)」が起こり、それまで無かった新しいモノを手にする(合:ジンテーゼ)という具合だ。このとき止揚されて現れる「合(=ジンテーゼ)」にあたる部分は、単純に敵を倒すことにとどまらず、敵が今後仲間になったり、倒す過程で新たな技なんかを習得したり、他にも主人公達の内面の成長など、様々なものが考えられる。
ハヤテと同じサンデー作品から例を挙げれば、例えば「犬夜叉」において鉄砕牙を使いこなすために竜骨精と戦った際、その結果として鉄砕牙の奥義・爆流破を会得した、というのがそれに近いだろうか(単行本「犬夜叉」20巻、及びアニメ版「犬夜叉」54話のエピソードに相当する)。この場合は犬夜叉が「正(=テーゼ)」であり、竜骨精は「反(=アンチテーゼ)」に位置する。そして爆流破の習得という点が「合(=ジンテーゼ)」ということになる。そしてこの結果得られた「合」すなわち爆流破は、その後の「犬夜叉」のストーリーにおいても、主人公の犬夜叉の必殺技として利用されていくことになる。
犬夜叉に限らずこうした漫画や小説などのストーリーにおいて「正」と「反」という相反する要素がぶつかり合い、そして「合」が発生し、更にそれを「正」として取り込んで、新たなバトルを展開していく、という一連の流れは、物語をダイナミックにするのに非常に有効な手段である。
ではハヤテはどうかというと、前述したようなバトルものやラブコメの要素は含んでいることは含んでいるのだが固執することはない、という作品の性質が問題になる。つまり、こうした有効なストーリー作りの構造を、十分に活用することができないわけだ。というかそもそも、この作品におけるテーゼとアンチテーゼって、一体何なんだろう。私には想像がつかない。
しかしここで舞台演劇に親和性を持つハヤテという作品の個性が出てくる。演劇で見せるべき一番重要なものは「戦闘」でも「ラブコメ」でもない。登場人物たちの内面、あるいは「人物そのもの」である。
その登場人物たちの、普通目には見えない精神の揺れ動き、日常生活では見過ごしてしまうような小さな心の変化を、演劇というジャンルはピックアップして、より明確に顕在化していくのだ。演劇においてはバトルもラブコメも、それをより効果的に見せるためのツールとしての役割に過ぎないだろう。
演劇において見せるべきものはまず「人の心」「人そのもの」である。そしてハヤテが演劇の要素を内包しているという私の仮説は、この物語が「ハヤテとナギの成長記録」だと捉えるtanabeebanatさんの結論を裏付ける結果ともなる。人の成長を描くということは、総じて「人の心」や「人」そのものを描くということであり、同時に何気ない日常にすらもスポットを当てなければならないのだから。
この作品に取り憑かれた人は(少なくとも私は)、経緯はともかくとして、この作品における様々な「人間関係」と「人物の内面」にある種の面白みを感じているはずだろう。これこそ、舞台演劇において描き出されるべき「人」そのものについてであり、畑先生がこの作品に求めているのはここではなかろうか。
おそらく畑先生は、舞台演劇のようなスタンスにおいて「一番見せたいもの」というビジョンをはっきり持っており、多くのエンタメ作品が用いている「萌え」や「パロネタ」「ラブコメ」「バトル」といったものは、全て舞台上での芝居を効果的に進行させるための手段でしかない、という割り切り方をしているのではなかろうか。
この作品は「バトル」でも「ラブコメ」でもない。だからこそ、それらの要素の利用できそうなところを利用して、物語を進めていければそれでいい、とでもいうような。
「バトル」でも「ラブコメ」でも、引っかかりはどこでも構わない。何かで引っかかり、手に入れた読者を自分の打つ芝居の観客としていかに引き込んでいけるか、むしろ重点を置いているのはそこな気がする。
またパロネタに関して言えば「ギャグは身近な人がボケた方が面白い」という師匠の久米田康治ゆずりの作風も、ここに出ているのかもしれない。とにかく一部の人にしかわからないようなギャグやパロネタを使用する。そうすると、理解できた人に対して、この漫画はある種の引っ掛かりをつかめる。しかしこの物語の本質はパロネタではない。実際の物語へ読者をひきつけるためのツールとして、あらゆる要素を利用していくところに真の目的がある。
そういう意味では、この作品への入り口は非常に「狭い」しかし入り口の数はとてつもなく「多い」わけだ。狭い入り口を見つけた読者ほど、この作品と作者に対して親近感を抱くはずである。はずである。
「どこを入り口にして、どういう印象から始まって、この作品を読んでくれても構わない。最終的に自分が提示している物語に行き着いてくれて、そこに何かを感じられればいい」
つまるところ、この作品に対する畑先生のスタンスはこういう感じではないかと、私は考えている。
見せたいものはちゃんとある、しかしそれを見せるための手法は限りなく多彩で、変幻自在。これは読者に対して迎合するというのとはまた違うと思う。見せたいものは厳然と存在しているわけで、そこまで読者をいかに引き込むか、そこに心血を注いでいるという印象に近いかもしれない。
平田オリザ氏が提唱した「参加型の演劇」とは異なるかもしれないが、漫画という土俵で、畑先生なりに読者との対話を模索しようとしているのかもしれない。
(つづく)
……結局、最初に挙げたアルバトロスがまずかったのは、若木先生自身が「漫画でやりたいこと」を表現するために、バトルという手法を不確定要素なのに固定化して用いちゃったことではないかと。本来なら「バトル」を通して見せたいものが、自分が見せたいものに直結しなくてはいかんのですが……ここに書いたとおり、基本的にバトルものっていうのは話が進むごとに規模がどんどんダイナミックに拡大されていくものですから、若木先生にとってはバトルをダイナミクスさせればさせるほど、本来描きたいことが描きづらいというジレンマもあったんじゃあないかと。
ただ、それを上手いことミックスさせるやり方もないわけじゃあないんでしょうが……でも意外と多いじゃあないですか、バトル化したせいで本来の目的を見失っているようにしか見えない作品って。ことバトルものの多いジャンプは特にそうだけど。まあ、そのせいで逆に上手くいった作品も、なきにしもあらずでしょうが。
一方、演劇に基調を置いて話を進めていく畑先生にとって一番重要なのはメイン3人であり、そのほか外部の人物は状況に応じていくらでも取捨選択できる上、舞台も屋敷という最小単位が存在し、そこから状況に応じて舞台を新設したり、学園や周囲にまで拡張するという姿勢があるから、本当に変幻自在です。他の場所でも言われていましたが、やりたいことはあるんだけど、比較的自由が利くようにしている。そんなこの作品における柔軟性こそが、畑先生のすごさなんでしょうね。