踊り子の雑記

マンガ「ハヤテのごとく!」を中心に、読み物のレビューをつらつらと綴っております。

水曜の0時にコンビニに行ってもサンデーがあるとは限らない(ハヤテの考察の補足もあります)

2007-02-07 10:17:58 | ハヤテの考察
そんなことをムダに痛感した昨夜でした。

てなわけで、今週のハヤテに関してのレビューやら感想やらは、明日以降にでも。ということで。

まあそれは置いといて、ここ最近ハヤテ関連で回るサイトが格段に増えたこともあったのですが、その中で同じサンデーに連載されていた「聖結晶アルバトロス」に関する記事を発見。打ち切られてしまったマンガに関する背景についてを知ることができて、なかなか興味深かったですね。

詳しくはこちらからドウゾ

「聖結晶アルバトロス」の裏側

アルバトロスの作者である若木先生が、実際はどのように話を持っていこうとしていたのか、その辺を色々と知ることができました。

ただまあ、私はこのアルバトロスという作品を読み切りでしか読んでなくて、連載時は殆ど見てなかったので、こういうことを語るのもどうかとは思うのですが。

しかし私がこの作品を見限ってしまった最大の理由が、読み切りと異なり、バトルものとして路線を変更していくのがはっきりと見て取れたからなんですな。若木先生がその辺に関しても色々と考えを綴っておられたので「ああ~なるほどな~」と読んでて思ったりしたわけです。

……で、なしてイキナリこんなことを話題に挙げたかというと、今回のハヤテ考察の補足では、この「バトルもの」と称される作品におけるストーリーの構成について少し触れようと思ったからです。

というわけで、かなり強引な気もしなくもないですが、ハヤテの考察に参ります。


「舞台演劇にも似た、ハヤテの世界観」~「ハヤテのごとく!」に見る演劇論~

〈目次的な何か〉

「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~①」

「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~②」

「Ⅱ:セミパブリックな空間~愛沢咲夜の影響力~」

「Ⅲ:漫画と演劇の差異~爆弾という名のコンテクスト~」

「Ⅳ:漫画だからできること~斜めから見る『暫定最終回その2』~」


(本日のテーマはコチラ)

補足①~演劇とエンタメ系作品との相違点とは~

 もう何度も言っていることではあるが、こと場面転換のない一幕ものの舞台において、セミパブリックな空間を舞台にすることが重要だとしている。一幕ものの短い舞台では、TVドラマや映画のように場面を頻繁に変えることなどできない。では1つの舞台、というか空間のみで劇を進行させるにはどうするのか。その回答がセミパブリックな空間のように、外部と内部の様々な人間が上手く出会えるような場所を舞台にするということなのだ。

 ハヤテでは時間軸という概念こそ明確に存在しているが、基本的に一つ一つの話は1話完結の短編である。そしてこのような短編であれば、原則として舞台になる場所はその度に一箇所である。大きな場面転換が行われることは少ない。基本となっている屋敷での物語などはまさにそうだ。

 やはりハヤテという作品の根底には、セミパブリックな空間で行われる一幕ものの舞台演劇という要素があることを、私は考えずにはいられない。そしてそこには1つの必然性を見出せる。

 そもそもこのハヤテという作品は、パロネタやら学園ラブコメやらバトルものやらといういくつもの要素を含んでいながら、それらのどれか1つに固執するということのない、良く言えばマルチな、悪く言えば中途半端な作品である。この辺についてはtanabeebanatさんも述べられており、私自身もこの意見に同意できる。

 ちなみにバトルものには「ドラゴンボール」という偉大すぎる先駆者がいる。この作品はバトルものとしての作品の組み上げ方をある意味で完成させた作品でもあろう。
 またラブコメでもパロネタでも、やはり先駆者と呼べる有名な作品が多く存在しており、それらの作品は基本的に、ある種の法則に乗っ取って物語を進めていく。

 具体的には、バトルものであれば「強敵やライバルが次々に現れ、それに対抗するために主人公達も強くなっていく」という一連の流れの連鎖構造だ。
 一方ラブコメなどには、それこそ恋愛成就に向かうために様々な障害やライバルを用意し、それらを主人公が乗り越えていく際に得られるカタルシスを読者に提供していく、という流れがある。

 これらの様式は哲学者ヘーゲルの提唱した「弁証法」の論理に通じるものがある。弁証法そのものは、ある方向性を持った「正」(テーゼ)に対して、相互矛盾する関係にある「反」(アンチテーゼ)が存在するとき、それらが「止揚」(アウフヘーベン)という過程を経た結果、全く異なる「合」(ジンテーゼ)という結果を生み出す、というものである。

 これをバトルものの漫画に当てはめれば、何らかの目的を有する主人公がいて(正:テーゼ)、その一方で主人公達と対立し、障害となる強敵やライバルが存在する(反:アンチテーゼ)。この相反する2つの陣営(というか人物)がぶつかりあったときに「止揚(アウフヘーベン)」が起こり、それまで無かった新しいモノを手にする(合:ジンテーゼ)という具合だ。このとき止揚されて現れる「合(=ジンテーゼ)」にあたる部分は、単純に敵を倒すことにとどまらず、敵が今後仲間になったり、倒す過程で新たな技なんかを習得したり、他にも主人公達の内面の成長など、様々なものが考えられる。

 ハヤテと同じサンデー作品から例を挙げれば、例えば「犬夜叉」において鉄砕牙を使いこなすために竜骨精と戦った際、その結果として鉄砕牙の奥義・爆流破を会得した、というのがそれに近いだろうか(単行本「犬夜叉」20巻、及びアニメ版「犬夜叉」54話のエピソードに相当する)。この場合は犬夜叉が「正(=テーゼ)」であり、竜骨精は「反(=アンチテーゼ)」に位置する。そして爆流破の習得という点が「合(=ジンテーゼ)」ということになる。そしてこの結果得られた「合」すなわち爆流破は、その後の「犬夜叉」のストーリーにおいても、主人公の犬夜叉の必殺技として利用されていくことになる。

 犬夜叉に限らずこうした漫画や小説などのストーリーにおいて「正」と「反」という相反する要素がぶつかり合い、そして「合」が発生し、更にそれを「正」として取り込んで、新たなバトルを展開していく、という一連の流れは、物語をダイナミックにするのに非常に有効な手段である。

 ではハヤテはどうかというと、前述したようなバトルものやラブコメの要素は含んでいることは含んでいるのだが固執することはない、という作品の性質が問題になる。つまり、こうした有効なストーリー作りの構造を、十分に活用することができないわけだ。というかそもそも、この作品におけるテーゼとアンチテーゼって、一体何なんだろう。私には想像がつかない。
 しかしここで舞台演劇に親和性を持つハヤテという作品の個性が出てくる。演劇で見せるべき一番重要なものは「戦闘」でも「ラブコメ」でもない。登場人物たちの内面、あるいは「人物そのもの」である。 
 その登場人物たちの、普通目には見えない精神の揺れ動き、日常生活では見過ごしてしまうような小さな心の変化を、演劇というジャンルはピックアップして、より明確に顕在化していくのだ。演劇においてはバトルもラブコメも、それをより効果的に見せるためのツールとしての役割に過ぎないだろう。

 演劇において見せるべきものはまず「人の心」「人そのもの」である。そしてハヤテが演劇の要素を内包しているという私の仮説は、この物語が「ハヤテとナギの成長記録」だと捉えるtanabeebanatさんの結論を裏付ける結果ともなる。人の成長を描くということは、総じて「人の心」や「人」そのものを描くということであり、同時に何気ない日常にすらもスポットを当てなければならないのだから。

 この作品に取り憑かれた人は(少なくとも私は)、経緯はともかくとして、この作品における様々な「人間関係」「人物の内面」にある種の面白みを感じているはずだろう。これこそ、舞台演劇において描き出されるべき「人」そのものについてであり、畑先生がこの作品に求めているのはここではなかろうか。

 おそらく畑先生は、舞台演劇のようなスタンスにおいて「一番見せたいもの」というビジョンをはっきり持っており、多くのエンタメ作品が用いている「萌え」や「パロネタ」「ラブコメ」「バトル」といったものは、全て舞台上での芝居を効果的に進行させるための手段でしかない、という割り切り方をしているのではなかろうか。
 この作品は「バトル」でも「ラブコメ」でもない。だからこそ、それらの要素の利用できそうなところを利用して、物語を進めていければそれでいい、とでもいうような。
「バトル」でも「ラブコメ」でも、引っかかりはどこでも構わない。何かで引っかかり、手に入れた読者を自分の打つ芝居の観客としていかに引き込んでいけるか、むしろ重点を置いているのはそこな気がする。

 またパロネタに関して言えば「ギャグは身近な人がボケた方が面白い」という師匠の久米田康治ゆずりの作風も、ここに出ているのかもしれない。とにかく一部の人にしかわからないようなギャグやパロネタを使用する。そうすると、理解できた人に対して、この漫画はある種の引っ掛かりをつかめる。しかしこの物語の本質はパロネタではない。実際の物語へ読者をひきつけるためのツールとして、あらゆる要素を利用していくところに真の目的がある。

 そういう意味では、この作品への入り口は非常に「狭い」しかし入り口の数はとてつもなく「多い」わけだ。狭い入り口を見つけた読者ほど、この作品と作者に対して親近感を抱くはずである。はずである。

「どこを入り口にして、どういう印象から始まって、この作品を読んでくれても構わない。最終的に自分が提示している物語に行き着いてくれて、そこに何かを感じられればいい」

 つまるところ、この作品に対する畑先生のスタンスはこういう感じではないかと、私は考えている。

 見せたいものはちゃんとある、しかしそれを見せるための手法は限りなく多彩で、変幻自在。これは読者に対して迎合するというのとはまた違うと思う。見せたいものは厳然と存在しているわけで、そこまで読者をいかに引き込むか、そこに心血を注いでいるという印象に近いかもしれない。
 平田オリザ氏が提唱した「参加型の演劇」とは異なるかもしれないが、漫画という土俵で、畑先生なりに読者との対話を模索しようとしているのかもしれない。

(つづく)


 ……結局、最初に挙げたアルバトロスがまずかったのは、若木先生自身が「漫画でやりたいこと」を表現するために、バトルという手法を不確定要素なのに固定化して用いちゃったことではないかと。本来なら「バトル」を通して見せたいものが、自分が見せたいものに直結しなくてはいかんのですが……ここに書いたとおり、基本的にバトルものっていうのは話が進むごとに規模がどんどんダイナミックに拡大されていくものですから、若木先生にとってはバトルをダイナミクスさせればさせるほど、本来描きたいことが描きづらいというジレンマもあったんじゃあないかと。

 ただ、それを上手いことミックスさせるやり方もないわけじゃあないんでしょうが……でも意外と多いじゃあないですか、バトル化したせいで本来の目的を見失っているようにしか見えない作品って。ことバトルものの多いジャンプは特にそうだけど。まあ、そのせいで逆に上手くいった作品も、なきにしもあらずでしょうが。

 一方、演劇に基調を置いて話を進めていく畑先生にとって一番重要なのはメイン3人であり、そのほか外部の人物は状況に応じていくらでも取捨選択できる上、舞台も屋敷という最小単位が存在し、そこから状況に応じて舞台を新設したり、学園や周囲にまで拡張するという姿勢があるから、本当に変幻自在です。他の場所でも言われていましたが、やりたいことはあるんだけど、比較的自由が利くようにしている。そんなこの作品における柔軟性こそが、畑先生のすごさなんでしょうね。

えーえー、私は男兄弟しかいませんからなー、姉だの妹というものに、無用な期待をしちゃうんです!

2007-02-03 01:38:55 | ハヤテの考察
いや、あれですよ。
とある場所でこのような、究極の二者択一アンケートが行われていたものですからね。

ちなみに私は姉としての彼女に一票入れましたが。

慕ってくれるのは結構なんですが、私にはハヤテ君以上に甲斐性がありませんから(笑)
むしろ背中を蹴って「しっかりせんかい!」と言ってくれるくらいの人の方が、なにぶんヘタレな私としては近くにいて欲しいんですな。

そう、例えば咲夜嬢みたいな



……とっとと行きますか、考察の方に


「舞台演劇にも似た、ハヤテの世界観」~「ハヤテのごとく!」に見る演劇論~

〈目次的な何か〉

「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~①」

「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~②」

「Ⅱ:セミパブリックな空間~愛沢咲夜の影響力~」

「Ⅲ:漫画と演劇の差異~爆弾という名のコンテクスト~」


〈本日分はここからです〉

Ⅳ:漫画だからできること~斜めから見る「暫定最終回その2」~

 ……かくして、ここまでの論説でハヤテという作品が、舞台演劇の空間設定・コンセプトそのものにおいて親和性を持っているという私の考えを説明してきた。その根拠として、異邦への闖入 ・ セミパブリックな空間 ・ コンテクストのずれからくる誤解、というコンセプトについてを挙げたわけだが、最後にもう1つだけ焦点を当てておきたい部分がある。というのも、このハヤテという作品が漫画だからこそ、演劇では困難なことをも可能にしているという点を少し考えてみたいのだが、今回はそのために俗に「暫定最終回その2」と呼ばれていた頃のストーリーを取り上げてみる。

「暫定最終回その2」と呼ばれているこの中編の話は、単行本の3巻のラスト~4巻の頭までで語られた話であり、その後の4巻以降からは白皇学院でのエピソードが盛り込まれてくるという作品全体の流れを見たとき、ある種ストーリーの分水嶺とも呼べる話でもある。言うなれば初期のハヤテのまとめ的な話であろうか。
 しかし私がここで問題にしたいのは実際の話の内容ではなく、やはり背景となる舞台設定だ。ハヤテの作品を時系列ごとに解説してくれている「ハヤカレ」を参照すると一目瞭然であるが、この「暫定最終回その2」の時点で登場している面子が脇役も含めて殆ど一同に会している。確かに本当の最終回であれば当然の結果にも思えるが、まさか本当に最終回を想定してこの話を持ってきたわけではあるまい。もしも打ち切り、というか最終回を本当に予期してこの話を持ち込んだのであれば、作者の畑先生は予知能力者か何かに違いない(笑)。まあ勿論バックステージvol26にも書かれているが、この話は既に暫定最終回として組まれていたものを、時期を見計らってストーリーに組み込んでいったに過ぎないわけである。

 さて、この話ではナギに誤解を持たれたハヤテが屋敷を追い出され、伊澄のところにやってくる、という経緯が発端となっているわけだが、ここから登場人物が総出演(タマとクラウスはとりあえず置いといて)する状況まで持っていく手法は演劇ではまず不可能なことであろう。
 どういうことかというと、所有している情報も、状況も異なる登場人物達全員が一同に会することのできる空間、というか舞台を(ここでいえば鷺ノ宮家の地下)この話では無理やり作り上げたということだ。こんな強引なやり方は(演劇という観点からすれば、という意味で)漫画のようなエンターテインメント作品だからこそ可能なのである。当たり前といえば当たり前の話だが。
 勿論それはハヤテという漫画に限った話ではない。どんな漫画でも大風呂敷に設定とストーリーを拡張していけば、登場人物を一同に会させるというのは不可能なことではないだろう。しかし「セミパブリックな空間」を他の作品以上に重視するハヤテでは、この「強引なまでの舞台設営」が可能な「漫画」という土俵は非常に大きなメリットをもたらしてくれる。

 もともと存在するセミパブリックな空間、つまり屋敷を中心とした話だけでは、そこに呼び込める人物の数も、格差をもって表せる情報も必然的に限界がある。その中で劇作家は常に、外部の人物と内部の人物との情報の格差をより激しいものにし、また個々の登場人物が持つ情報の種類にもバラエティを持たせることで、異なる情報のやり取りである人物同士の対話をより面白く、ドラマチックに描こうとしていく。
 とはいえ、情報の格差を激しくすればするほど、その登場人物が一同に会することのできる空間作りには苦慮がともなうのも確かだ。いくら人物間の情報の格差があっても、互いに対話を行ってくれなければセリフは生まれない。そしてセリフが生まれなければ演劇は進行するはずがない。そういう意味で、漫画のようには上手くいかないところがある。

 また、もう1つ「観客との物理的な距離の差」というのも、漫画と演劇のこうした手法の違いに色濃く現れてくる。

 そもそも漫画・小説・演劇というように「何かを表現する」ことを目的とした行為には、いくつものジャンルと種類が存在するわけだが、前述した3つのジャンルを決定的に隔てているのは、単に「観客の想像に任せる部分の量」として言い換えることができるだろう。
 演劇というジャンルは具体的な絵やイラストがない上「人の心」という目には見えないものを表象しようとするため、どうしても観客の想像力に依存する部分が出てくるのだ。そこで観客が「リアリティがない、ありえない」と感じてしまったら、俳優がどれだけ必死に演じても、それ以上何も伝わらなくなってしまう。これは演劇そのものがいかに優れていようと必ず付きまとう不確定要素でもあるように感じる。あくまで見るのは作品について何も知らない観客であり、彼らの心の中で、作品がどのように受け入れられていくのかについて、演じる側は完全に予測しきることはできないだろう。観客が目と鼻の先にいるだけに、演劇ではヘタなごまかしが通用しないのだ。

 昨日の文章で、私は作品の登場人物における「コンテクストのずれ」というものについて触れたが、実は演劇において「コンテクストのずれ」として表象されるものには、ここでも触れている登場人物同士のコンテクストのずれだけではなく、演じている者と、それを見る観客との間にある「コンテクストのずれ」も含まれているのだ。
 要するに、演じ手の行っている劇を観客がちゃんと受け入れ、受け止めてくれているか、という問題だ。

 ゆえに平田オリザ氏は観客との対話をも目的とした「参加型の演劇」という考えを主張している。言うなれば「演劇は演じ手と観客との間に存在するべきだ」ということだ。

 一方小説についてはどうなのかというと、ライトノベル作家で「終わりのクロニクル」の作者としても有名な川上稔氏は、自身のサイトにおいて次のように述べている。

「意見として世に流れたモノは、受け取った側に消化され、作った側はもはや制御できない」

 小説では、演劇と違って作者と読者の物理的な距離と隔たりが確たるものとして存在する。ゆえに演劇のような形で読者との相互理解を持つことは極めて難しいことが、この文章からも理解できる。
 同じように出版物である漫画にも、読者との相互理解は極めて持ちにくいという現状がある。畑先生がバックステージを毎週更新していらっしゃるのは、こうした作者と読者との隔たりを、少しでも解消しようとしているようにも見て取れる。

 ただ、読者との間にこのような物理的な距離があればこそ、逆説的に漫画や小説においては「面白ければ何でもあり」という、演劇にしてみれば強引な設定が通用するのである。更に漫画というジャンルには「絵」という視覚に訴えることの可能な武器が備わっている。
 ここに鷺ノ宮家の地下がある、ここに巨大ロボットがいる、というシチュエーションで絵を描いてしまえば、読者がどう思おうと、そこが作品の舞台として成立してしまうのである。当たり前の話ではあるが、こういった形で「作品の舞台を自由に創設できる」ということは、ハヤテにおいては「屋敷以外であっても、登場人物が一同に会することが可能なセミパブリックな空間を自由に作り出せる」という、非常に優れたメリットを提供してくれるのだ。

 更にハヤテという作品が「ギャグ」や「パロネタ」「ラブコメ」という要素をちりばめた、それこそ「何でもあり」な話として我々読者に対して定着していることが、この無理矢理にも見える作品舞台の創設を、メタ的に可能にしているのも事実だろう。この作品独自の軽さというか、柔軟性とも呼べるものは、こういったメタ的な視点からも見て取れる気がする。それこそ、この意味では読者との相互理解の上に成り立っている設定と言えるかもしれない。

 例として挙げるなら、まさに現在進行している、伊豆の温泉のストーリーがそのまま当てはまる。

 伊豆に隕石が落下したことで出来上がった温泉には、実は作品のヒロイン達が欲してやまないような効能が満載されており、それを求めて登場人物、それもハヤテに対して好意を抱いている女性陣ばかりが伊豆の温泉を目指していくことになった、というのが話の大筋である。
 ここで述べられている温泉の効能といい、温泉が沸いた理由といい、もう漫画だからというよりは「ハヤテ」という作品だから許せるシチュエーションと化しているのが、考えるまでもなくお分かりいただけると思う。この旅は最初こそナギ・マリア・ハヤテという「プライベートな空間」の構成員のみでのものだと思えるが、実際のところナギが一人迷子になり、西沢さんもヒナギクも伊豆に向かっている以上、誰かしら「外部」の人間と接触するために設けられた話だと考えることもできる。そしてそれを実現するために、伊豆に向かう道中そのものを「セミパブリックな空間」として無理矢理作り上げたと考えられないだろうか。

 このように、仮に屋敷の外部に出るような話であっても、この作品はセミパブリックな空間に順ずるような「外部」の人間との接触、それに伴う情報の格差を求められるように作っていける。それも漫画だからこそできる手法を多量に用いることで。そして漫画だからこそ「セミパブリックな空間」を1つに限定する必要はない。こうした空間を複数存在させれば、一幕ものの舞台演劇を、ほぼ同時進行のような形で多重に、連続的に推し進めることが可能となる。 極端な話、このハヤテという漫画では「ナギやハヤテが向かうところ、全てがセミパブリックな空間として成り立つ可能性がある」わけだ。あとはそこに登場する「外部」としての人物を、状況に応じて適度に選定していけばいい。

 そう考えれば白皇学院という場所もまた、ある種の「セミパブリックな空間」として機能していることが分かる。おそらく単行本4巻以降で学園ものとしてのストーリーを盛り込んだのは、屋敷という最も重要な「セミパブリックな空間」の創設と機能化に成功したことを受けて、屋敷に次ぐ恒常的な「セミパブリックな空間」を生み出そうとした結果ではないだろうか。 ちなみに学園という場所を考えれば、屋敷よりも純粋にセミパブリックな空間に近い共同体といえるだろう。なにしろナギやハヤテも核となるプライベートな空間にいるわけではなく、学園に通う全ての人物が等しく「学生」という形で描き出されるため、ことハヤテやナギ以外の人物に焦点を当てる際、この白皇学院という空間は非常に重要な役割を果たす。

 また、こうすることで事実上複数の舞台において演劇を同時に進行させることになり、それらを全て描出しようとすれば、必然的に時間軸の進行は極めてゆっくりしたものになる。まして重なり合い、同時存在する2つの「セミパブリックな空間」に加え、ハヤテという物語には「プライベートな空間」における「異邦への闖入」という別の側面もあることを忘れてはならない。そしてそれらの空間で起こる情報の格差と是正は、また別の空間での情報の格差や是正にも大きく影響を及ぼすため、これらが非常に複雑かつ有機的な結合を起こすことになる。ここまで情報の格差をめぐる問題が複雑化してゆけば、それを是正し、ときほぐす、つまり「演劇」として行わなければならないことは必然的に増加し、結果作品の進行速度は急激に低下する。

 ハヤテがここまでゆっくりとした時間軸によって動かざるをえないのは、登場人物たちが少しでも動き出せば、そこにセミパブリックな舞台を容易に準備できる上、次々に情報の格差が噴出し、結果物語として成立してしまうからであろう。要するに「日常のどんな些細なことでも物語になってしまいかねない」状況なのだ。
 結果必然的に、どの情報の格差が最も重要で、それをどの物語に盛り込んでいくかという取捨選択が必要不可欠となる。より具体的に言えば、今回のハヤテにおいては「旅行」こそが情報の格差の提示に最も適しており、試験に関しては(少なくとも今は)描かなくても構わない、という判断が畑先生の中で決定したのではないだろうか。

 ちなみに、こうして情報の格差が生まれてくることに関して、確実ではないにしても根拠の1つとなりそうな文章がバックステージにある。
 畑先生はネーム作りに詰まった際「自動筆記」と称して、ひたすらキャラクターの日常会話を打ち込んでいくという手法を紹介している(バックステージvol82参照)。これによってネームを作り上げられるのは、キャラクター同士で情報の格差がハッキリしているからであろう。でなければ、自動筆記してもとうてい使い物にならない会話しか出てこないはすだ。
 日常の中であっても情報の格差が歴然と存在する、ハヤテという作品だからこそ、最後の手段としてこうした手法をとることができるのかもしれない。

(次回に続く)


理論として破綻してるかどうか、ヒヤヒヤもので書き上げましたが……どうだったでしょう?

ちなみに、次回に続くと銘打ってはいるものの、実はもう、当初書きたかったことは殆ど書いちゃってます。ただ、書いてる途中でどうしても補足として挙げておきたいことが微妙にあったりするので、明日以降はそのへんをちょっと書き綴ってみようかと思います。

〈参考サイト様〉

 tanabeebanatの日記

 VIRTUALCITY-DETROIT

 「ハヤカレ」

ちなみにVIRTUALCITY-DETROITは、ラノベ作家である川上稔氏のサイトです。小説に限らず作品を生み出すに当たっての非常に有益なことをいろいろ書かれていらっしゃるので、是非一度ご覧ください。

というわけで、今日はこのへんで

字数制限との戦い

2007-02-02 10:07:15 | ハヤテの考察
すみません、タイトルにもあるような理由で、さっきの記事に参考文献と参考サイトをくっつけることができなかったもんで、こちらで追記します。

大学の教授に「レポートを書いたら、出典を明らかにしなさい」と言われたばっかりなもので(笑)

〈本日の参考サイト様〉

 tanabeebanatの日記

 ぷらずまだっしゅ!

毎度のことですが、どうもありがとうございます。

 そろそろこのハヤテ考察も言いたいことがなくなって、もとい、佳境に近づいてまいりました。最後までお付き合いいただければこれ幸いです。

ではでは。

ヒナギクを「ヒナギク嬢」と呼ぶなら、マリアさんも「マリア嬢」と呼ばれていい年齢のはず

2007-02-02 09:08:13 | ハヤテの考察
年齢に大きな差はないはずなんだが、ヒナギク嬢に対してマリア嬢

……なんだろう、このとてつもない違和感は……

まあそんなわけで、電車を飛び降りるハヤテに驚愕してるヒナギクとマリアさんの2人の表情がえらく印象深かった、今週のハヤテでした。

考えてみればヒナギクの参戦は先週で暗示されていたものの、わずか1コマの伏線でそれが納得いっちゃうのが、漫画のすげえところだよなあ、と思ったり。

ハヤテの主人探しを描くための展開なのか、逆にマリアとヒナギクの話が描かれるのか、そして西沢さんはどこに行っちゃったのか、全く分かりませんが、今までになく大きな舞台で何かが描かれそうな予感はします。今から楽しみにしておこう。

さて、ハヤテに理由を聞かれてオタオタしてるヒナギクに萌えつつ、今回も考察に入ります。


「舞台演劇にも似た、ハヤテの世界観」~「ハヤテのごとく!」に見る演劇論~

〈目次的な何か〉

「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~①」

「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~②」

「Ⅱ:セミパブリックな空間~愛沢咲夜の影響力~」


〈本日分はコチラ〉

Ⅲ:漫画と演劇の差異~爆弾という名のコンテクスト~

 これまでは演劇とハヤテという作品の親和性について、舞台背景の観点から述べてきたが、この結果としてストーリーやキャラクターそのものにおいては演劇の要素がどう絡んでくるのかについても、少し考えてみたい。
 この際にポイントとなるのは、この作品はご存知のとおり、ハヤテとナギという二人の間での「勘違い」からスタートしたという点である。

 演劇に登場する人物には情報の格差が必要であるということはこれまで何度も取り上げたが、この情報の格差を持った人物同士が劇中で話し合う際には「会話」ではなく「対話」こそが重要なのだと、平田オリザ氏は著書の中で述べている。ここでいう「会話」とは、気心の知れた仲や、同じ共同体の中で使われる言語のことであり、対して「対話」とは、情報に隔たりがある人物同士が、あるいは異なる共同体にある人物達が、互いが何者であるかを相手に分からせるために使用する言語である。

 その結果、言うまでもなく情報の格差を利用して物語を生み出す演劇においては、人物同士の会話も「対話」としての体裁をとる。この際に互いが持つ情報を公開し、その上で共通の認識を見出す行為を、同氏は「コンテクストの摺り合わせ」という言葉を用いて表している。
 この「コンテクスト」という言葉に関しては、かなり深い意味合いが込められているので、詳しい説明は同氏の著書を参考願いたい。ここではとりあえず「自分では、それが相手にも理解してもらえていると思い込んでいる定義」という言葉で表しておく。

 ハヤテを例にとって具体的に説明すると、例えばナギがハヤテに向かって「私のことが好きか?」と聞くとき、彼女はこの「好き」という言葉のコンテクストを、ストレートに恋愛感情における「好き」という定義としてハヤテに投げかけており、そして(ここが一番重要)ハヤテもまた「好き」という言葉を同じように定義していると考えているのだ。

 ところがハヤテにとってこの「好き」という言葉は、ご存知のとおりナギとは全く異なる定義によって理解されている。ハヤテにしてみれば、破格の借金を全額肩代わりしてもらい、しかも住み込みで働かせてもらっている人に対して「嫌い」などと言えるはずがないのだ。彼にとってナギは一生裏切ることのできない、感謝してもし足りない存在である。そういう意味から彼はナギの「好きか?」という問いかけに対して「好きだ」と答えるわけだ。で、これまたナギと同様に(やはりここが重要なポイント)ハヤテはナギもそういう意味合いで自分に聞いてきていると思っているのである。

 ここでは最早、作品の第一話で起きた単純な誤解が問題になっているだけではなく、その背後により重大な誤解が存在している。すなわち、双方ともが「自分がある定義のもとで言った『好き』という言葉について、話している相手の方も全く同じ定義で理解してくれているだろう」という、とんでもない誤解をしているわけだ。更に厄介なことに、互いに誤解をし合っている以上、どちらが悪いというわけでもないのでますます気づきにくい。
 ちなみにこれは難しく言うと「間主観性の一致」に関する誤解として表せる。実は16世紀の政治学者ジョン・ロックが提唱していた、人間に関する概念なのだそうだ。

 平田オリザ氏は、こうした誤解を総じて「コンテクストのずれ」からくるものだと称しているが、まあ、ハヤテに関しては単純に「誤解」と読んでも差し支えはないだろう。
 この誤解を解消するためには、自分がどういう定義でもって発言をしていたのか、そこをまず明らかにした上で、更に相手がどういう定義でもって自分に向かって発言していたのかを確認する、というプロセスを踏む必要がある。そしてそれこそが演劇における「対話」という行為の根本なのだ。

 だが実際、現実においてこうした「対話」をすることは少ない。ゆえに日常生活でも意外なところで誤解が発生し、人間関係のトラブルに繋がることになる。
 そしてハヤテの作品中においても、こうした誤解がきっかけで、ハヤテに不幸が降りかかる場合が往々にしてある、全ての発端でもある第一話に限らず「暫定最終回その2」においても、ハヤテとナギの間での誤解が発端となり、ハヤテは屋敷を追い出されてしまったのだから。

 やはり全ての原因は、ハヤテとナギの間では「会話」こそあれ「対話」が行われていない、ということだろう。なまじ二人とも「プライベートな空間」という同じ共同体の内部にいるものだから、会話を通してのみのコミュニケーションで問題ないと考えてしまっているわけだ。どおりでいつまでたっても爆弾が残っているわけである。二人の間の爆弾を処理するためには「対話」が必要不可欠なのに、二人は爆弾の存在に気づかないだけでなく「対話」の必要性にも目を向けていないのだから。

 ところでこう考えると、この論説のⅠで述べていた「異邦のお茶の間化」という現象は、その時点ではある種の危惧として捉えていたものの、場合によってはこの作品を面白くする要素に化けるかもしれない。プライベートな空間がより「お茶の間」らしくなればなるほど二人にとって「対話」の可能性は低くなり、結果二人の間の爆弾は確実に処理されにくくなっていく。なんとも矛盾したような理論ではあるが。

 演劇の舞台として必要な「セミパブリックな空間」の設営が咲夜をはじめ脇のキャラクター達の登場によって成された以上、わざわざ異邦への闖入という効果を求めるより、こちらの「コンテクストのずれ」からくる誤解をより深めていくというのもまた、この作品の方向性の一つなのかもしれない。

 一度箇条書きにしてまとめてみる。

1:異邦への闖入という形での、情報の格差の発生

2:異邦のセミパブリック化にともなう、外部との情報の格差の発生

3:異邦のプライベート化(お茶の間化)からくる「対話」の減少の結果としての、コンテクストのずれ

1と2は、作品の舞台設定そのものに関する情報の格差だが、3の「コンテクストのずれ」は言うなれば、1と2の結果生み出された、キャラクター自身の持つ情報の格差ゆえに発生しうる「事態」である。ただこれらの舞台設定は相当複雑怪奇に絡み合っており、お互いの情報の格差を連鎖的に広げているような気もする。ここに関する詳しい構造は、ハヤテの全作品を穴が空くまで読み返さないと見えてこないだろう(あるいはそれでも見えてこないかもしれない)。

 少し注意しておきたいのは、無体背景としての「情報の格差」と、登場人物同士が持つ「コンテクストのずれ」とは、互いに関係のある要素ではあっても、意図するところは全く別モノである、ということだ。情報の格差は世界観と設定に対して影響力を持つが「コンテクストのずれ」というのは登場人物同士の関係性や絡みといった、物語の進行そのものへの影響力を所持している。言い換えれば人物同士の「コンテクストのずれ」の原因を、具体的に表象しているのが「情報の格差」だといえるのではないか。

 ところで通常の演劇であればこうして生まれた情報の格差もコンテクストのずれも、ただ存在すればいいというものではない。人物同士の対話によって情報の格差が示され、更にコンテクストのずれは解消されて、互いが共通の認識を持つような流れが必要である。でなければ、それぞれがてんでバラバラな見解を1つの劇の中で持つことになり、とてもじゃないが統一の取れた物語として収束することはできない(勿論、中には誤解が誤解のままで終わってしまうような作品もあるのだろうが)。

 ところがハヤテの場合は、そのあたりを実際の演劇ほどに深く心配する必要はない。
 というのもこの作品が「演劇に親和性をもつものの、演劇そのものではなく、レッキとした漫画である」という、考えてみれば当たり前の事実が大きく響いているのだ。

 何より演劇と異なるのは、漫画であればいくらでも登場人物の内面に心理描写を届かせることが可能ということである。基本的にこの漫画の視点は三人称視点であり、同時に各登場人物の内面に関しても見通すことが可能な「神の眼」としての視点である。普通の演劇では登場人物同士のコンテクストのずれは、情報の格差ともども「対話」を通してセリフの中で解消されていく必要がある。生身の人間の内面なぞ、どうやったって覗けるはずがないのだから。
 ところが、漫画ではそれが可能なのだ。ゆえにコンテクストのずれをすのまま残して「会話」をさせても、そこに生じる誤解を読者に伝えるということは、限定的ではあれ、可能な範疇に入る。
 読者や観客が「どこまでその人物の内面を見通せるか」というレベルにおいて、演劇と漫画には決定的な差異がある。演劇ではそのために「役者の演技」と「観客の想像力」という2つの要素が必要なのに対し、漫画では一方的に読者に提示してしまえるのだ。

 こうした点を鑑みると、この作品はストーリー・およびキャラクター同士の絡みという点では、演劇のいいところだけを吸い取り、漫画という舞台に利用した好例として考えることができるのではないだろうか。

 さて、その一方でこうしてストーリーを進めていくとなると、この作品において「対話」というファクターはこの物語を終わらせる力を持つことになる。各登場人物間、特にハヤテとナギの間にある見えない爆弾を掘り返すためには、この2人がしっかり対話をすることが必要だ。tanabeebanatさんが仰るようにこの物語が「ハヤテとナギの成長記録」であるのならば、いつかは誤解をといて、トゥルーエンドに向かう必要がある。つまりいつか必ず「会話」ではなく「対話」を行う必要があるのだ。一周年のバックステージで、畑先生はこう書かれていた。

「この連載のフィナーレで恐らくハヤテが言うであろう台詞があります。積み重ねた日々の先で少年が少女に言う一つの言葉です」
 私はこの言葉こそ、いずれ行われるであろう「対話」の先に現れる、誤解の解けた先にある、少年と少女との間に共通のコンテクストを持った言葉なのだと考えている。
 もっとも今のところ、ハヤテの周囲は誤解とずれたコンテクストばっかりの状況だろうから、そこにたどり着くのは随分先の話になるだろうが。何より現状の「会話」にばかり適した状況下から、いかにして「対話」のできるような環境を引っ張り出すのか、そこが最大の難問であり、同時に畑先生の最大の腕の見せ所でもあるといえよう。

 ところで、これは私見ではあるが、最近連載されていた「ヒナ祭り編」のクライマックスにおけるハヤテとヒナギクに関するエピソードは、ある意味この2人の間で行われた「対話」の産物として読み取れるかもしれない。
 先に述べたように「対話」を通してコンテクストを摺り合わせるということは、まず自分の中にあるコンテクスト、つまり定義をもう一度見つめなおし、その上で相手の持つコンテクストを把握した上で、自分のコンテクストを徐々に変化・拡張させることで、最終的には共通の認識を持とうとするのが主なプロセスである。

 この「ヒナ祭り編」の中でヒナギクはひたすら自問自答を繰り返している。つまり「自分がハヤテに関して抱いているのは如何なる感情によるものなのか」ということを。同時に彼女は自分と同じ過去を持つハヤテに対して「自分と同じように過去について苦悩しているのではないか」という考えをコンテクストとして持っており、ヒナ祭り編に限らず、このことへの回答を求めて彼女は幾度となくハヤテとの「対話」を試みている。
 しかし一方のハヤテは「対話」ではなく「会話」をしてしまっているがゆえに、この「ヒナ祭り編」に至るまで問題が先延ばしにされたのではなかろうか(確証はないが)。

 当たり前の話だが「対話」だろうと「会話」だろうと、相手がいてこそのものである。つまり相手が「対話」を望まなければ、自分がいくら望んでも「対話」は成立しないのだ。

 そしてこの2人が「対話」に向けてようやく動き出したのが「ヒナ祭り編」のクライマックスである。発端はご存知のとおり、ヒナギクの正宗乱舞によってだが。ちなみにこのバトルシーンが当初の予定ではもっと長くなるはずだったというバックステージの見解を考えると、やはりこの2人が「対話」をするためには、少なからず尺が必要だったということだろうか。
 まあいずれにせよ、ハヤテはここでヒナギクが内面に抱えているコンテクスト(感情の発露と言ったほうが正しいかもしれないが)を目の当たりにする。自分の内面にどういうものを持っているのか、ヒナギクの方からハッキリと示してきたのである。で、これに対して自分の見解を返さないハヤテではあるまい。
 そういう意味ではハヤテから「対話」を始めようとした、というよりはそこにいたヒナギクと、その環境が彼に「対話」を促した、と言った方が正確だろうか。
 まあ経緯はさておき、これがその次の話で行われた、自分の過去に関する「対話」を容易にしたのは間違いあるまい。ここでようやくハヤテは自分の過去について彼なりの考え、言うなればコンテクストをヒナギクに明かす。これがかの有名な

「でも……今いる場所は……それほど悪くはないでしょ?」

 という言葉に集約されている。

 ヒナギクが求めていた対話にハヤテはしっかりと対話でもって答え、結果部分的ではあれ、互いのコンテクストの摺り合わせが起こった。ゆえにここまで劇的な(文字通りの意味で)フィナーレを「ヒナ祭り編」は迎えたのではないか。彼女がハヤテに好意を抱いたというのはつまり、ハヤテの持っていたコンテクスト、ハヤテが言ったその言葉に対して一定の理解を、そして共通の認識を持ったということを、暗に示しているような気がする(「悪くない気分よ」という彼女のハヤテへの返答をそのように肯定的に捉えるのならば)。

 まあ、この辺はかなり思索的なものなので、明確な根拠はとくにないのですが。
 ただ、やはりこの作品における登場人物同士の「対話」には、すさまじい破壊力が秘められているのは確かだろう。そしてハヤテという物語において「会話」しか起こらないような話と「対話」が行われている話との間では、ストーリーに関わってくる重要度も当然違ってくる、ということになろう。

(次回に続く)







なんのかんので見入った40分(ハヤテに関する考察その3もあります)

2007-02-01 02:17:19 | ハヤテの考察
やっぱりデジモンはすげえな、と思った今日この頃です。

いや、セイバーズは知りません。アドベンチャーとテイマーズです。

早い話が、某動画サイトを通してデジモンのMAD画像を見たら、これがまたすげえ燃える演出なもんだから。

それと「僕らのウォーゲーム」はウワサどおり凄い映画ですな。良くも悪くも無印デジモンの色をしっかり残してくれてる。

流石あのワタル君が勧めるだけありますね。きっとシスターはお世辞抜きに感動したに違いない。

……さて、いい感じにハヤテの話題につなげたところで(笑)今回もハヤテの考察に参ります。

毎度のことながら、前回・前々回の記事にある考察から順序どおり読み進めていただけるとありがたいです。正直泣いて喜びます。もちろんここから読んでもらっても一向に問題ありませんが(特に今回はここからが本論、というところなので)。

前々回の記事:「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~①」

前回の記事:「Ⅰ:異邦への闖入~作品の致命的な矛盾~②」

では前置きはこのくらいにしまして、参ります。


「舞台演劇にも似た、ハヤテの世界観」~「ハヤテのごとく!」に見る演劇論~

Ⅱ:セミパブリックな空間~愛沢咲夜の影響力~

 これまでの論で紹介していた演出家の平田オリザ氏は、演劇において重要な要素の一つに「情報の格差」を挙げ、さらにそれを可能にするための「セミパブリックな舞台の創設」の必要性を訴えている(詳しくは同氏の著書「演劇入門」を参照していただきたい)。
 このセミパブリックな空間というのは同氏の造語であるが、意味合いとしては私的な空間(=プライベートな空間)と公的な空間(=パブリックな空間)の中間に位置する「半公的な空間」ということである。

 例えば先ほどから述べているように、家族のお茶の間のような、完全にプライベートな空間には、外部の人間が簡単に入り込む余地がない。ゆえに外部からの特別な闖入者がいなければ、この空間での会話は演劇になりにくい。
 かといって逆に、見ず知らずの人同士が会うような公共の場、つまりパブリックな空間では、今度は会話そのものが発生しにくいという現状がある。実際道路の道端や公共の公園、広場のようなところでは、見ず知らずの人が出会っても気軽に話しだすことなど滅多にないだろう。つまりパブリックな空間も物語の舞台としては使いにくいのだ。

 そこでセミパブリックな空間という概念が登場する。これはつまり、プライベートな空間に主要な「内部」の人間が核として存在すると同時に、そこへ「外部」の人間の出入りも自由に認められている状態、ないしそういった空間を意味している。

 具体的にはホテルのロビーを想像してみてほしい。ここでホテルに泊まりに来た一人の宿泊客を「内部」の人間とすれば、ロビーを行きかうであろうホテルの従業員や、同様にロビーに集まっている他の宿泊客などは「外部」の人間となる。
 あくまでホテルの「個室」ではなく「ロビー」という空間がミソだ。こういう場所であれば、見ず知らずの第三者ではあっても、何らかの原因で会話をするという可能性が出てくる。
 たとえば、他の宿泊客に対してなら「どちらからいらしたんですか?」という具合に。
 また、従業員から宿泊客に何か伝言が伝えられることもあるだろう。
 これらは何も、異邦への闖入のように「普段起こりにくい」現象ではない。要は「外部」の人間とも話ができる環境さえ設定できてしまえばいいのだ。

 もう1つ例を挙げると、例えば家族のお茶の間というプライベートな空間であっても、仮に「祖父の葬式の通夜の晩」などという特別な状況設定を設けると、状況は一変する。見ず知らずの遠い親戚や葬儀屋、お寺のお坊さんまで、様々な家族ではない「外部」の人間がお茶の間に出入りする口実ができる。これなら情報の格差は否が応でも発生するだろう。しかも比較的近しい親戚から、果ては会ったことも無い葬儀屋の人物まで持っている情報は各々違っているはずだから、その格差はかなりのものだ。

 このようにセミパブリックな空間というのは、プライベートな空間にいる「内部」の人間と、パブリックな空間にいる「外部」の人間とが出会う可能性のある場所、ないしはそういった限定された状況下のことを指している。

 さて、この「セミパブリックな空間」をハヤテという漫画の中で当てはめていくと、主な舞台である三千院家の屋敷が既に、セミパブリックな空間として比較的連載の早い段階から機能していたことが分かる。

 私はこの漫画における核となる「プライベートな空間」を構成しているのは、三千院家の屋敷の中でハヤテ・ナギ・マリアの三人のみだと考えている。なぜなら、基本的にこの3人がいれば漫画は進行するし、以前述べたようにこの3人の屋敷内での話が最もオーソドックスな構造として存在しているのである。
 つまりこの物語を進める上での最小単位が、3人の屋敷での生活なのである。であればこの話におけるプライベートな空間は、この3人によって構成されていると考えるのが自然である。
 ちなみにこのプライベートな空間でも話が物語として成立するのは、ハヤテがこの空間における闖入者という立場だからだというのは、先に説明したとおりだ。

 逆に言うと、この3人以外の登場人物は物語の構成上「外部」の人間ということになる。同じ屋敷にいるタマやクラウスでさえも「比較的内部に近い外部の人間」となる。実際連載初期におけるタマもクラウスも、プライベートな空間の内部での関わりというよりも、基本的にはハヤテのいるプライベートな空間をかき乱し(ことクラウスの場合はハヤテを執事として認めず、この空間からの排斥を試みている)、何か騒動を起こす発端になっている。
(またタマに関しても、後に登場するシラヌイとの騒動が、この屋敷でのタマの位置づけを内部には入りえない存在として定義していると考えられる)

 そして更に単行本2巻収録分に話が進むと、屋敷にはいない決定的な「外部」の人間が登場してくる。その最初の人物が通称サクこと愛沢咲夜であり、彼女の登場がプライベートな空間である三千院家の屋敷を同時に「セミパブリックな空間」として機能することを可能にした、最大の要因でもあるといえる。(それ以前に牧村さんも登場しているが、彼女はさすがにその後の登場回数にも難があるので、ここでは咲夜を最初に挙げている)
 脇のキャラクターとして捉えられがちな(悲しきかな、実際脇のキャラクターだけれども)咲夜であるが、連載初期においてはこの点で、ハヤテという物語に対して非常に重要な影響を与えていたといえる。
 また畑先生のバックステージを参照すると、咲夜はどうやら連載の更に早い段階での登場を予定されていたキャラクターのようであり、さらには現在と全く異なるキャラクターとして設定されていたという。意図していたかは別として、彼女がこの作品の連載最初期における決定的な「外部」の人間として描出される存在であったということは間違いないだろう(バックステージvol10参照)。

 また、この作品がスタートした頃の時間軸の設定も絶妙だったと私は考えている。この作品の第一話は12月24日、つまりクリスマスイブの日にスタートしており、その後単行本1巻から2巻にかけて作中の時間軸では年末年始を迎えている。
 単純に考えて年末年始というのは一年のうちではお盆と並んで、家庭内でも人の出入りが多い時期だろう。事実翌年の初めにハヤテはナギに連れられて、作品のキーパーソンである帝に会っている。これも意図していたかどうかは定かではないが、連載初期のこの時間軸の設定も、ハヤテにおいては外部の人間との接触の機会を増加させるという点で、非常に良い形で作用したのではないだろうか。

 いずれにせよ咲夜の登場により、その後三千院家の屋敷が「セミパブリックな空間」として機能するための下地が作られた。この結果、他の「外部」に相当する登場人物、すなわち伊澄やワタル、サキといった面々が次々に登場することができたのである。で、こうしたバタエティに富んだ「情報の格差」を持つ面々が集まってくると、どうしてもタマやクラウスといった「外部」と「内部」の中間に位置するキャラクターは、如何せん肩身が狭くなってしまう。連載が続くにつれ、彼らの出番が徐々に失われていったのはある意味当然ともいえる。
(ちなみに演劇において完全な「外部」と称されるのは、文字通りの赤の他人の場合もある。つまり正確に言えば咲夜はクラウスと同様、比較的内部に近い外部なのだろう。ただし所持している情報のバラエティにおいては圧倒的に彼女の方が勝っているゆえに、クラウスたちを立場上食っているというのがより正確な表現だろうか。それでもクラウスより外部に位置しているのは間違いないことだろうが)

 先に述べたように、連載開始当初、この漫画の持つ「異邦への闖入」という側面と「執事漫画」という独特のスタイルが抱える矛盾(無論、この矛盾は他の多くの「異世界冒険もの」の物語も抱えているのだろうが、この作品では特にその矛盾がはっきりと顕在化する恐れがある、ということ。実際この種の物語が異邦に闖入した当初のインパクトを超える何かを生み出すことは、作品が進むに連れて困難になるだろう)を危惧した編集サイドは、一方で早期から学園モノへのシフトという予防線を張っていたわけだが、上記のように作品の舞台である屋敷という空間がセミパブリック化したことを受けて、屋敷内部での物語を前倒しすることを決定したのだろうと、私は考えている。この結果制作サイドの危惧は杞憂に終わり、白皇学院に関するストーリーは単行本の4巻以降に持ち越され、逆に伊澄やワタルのようなキーキャラクターを屋敷に呼び込むような方向で登場させることが可能になったと、考えられはしないだろうか。

 ちなみにこの考えを推し進めていくと、ある種の興味深い仮説を立てることも可能だ。咲夜に関するエピソードの中でも比較的有名なものの中に、ワタルのために白皇学院の飛び級を辞退したという逸話がある。ここから「何故咲夜は白皇学院の生徒として描かれなかったのだろうか」という当然の疑問が生じるが、この疑問に対して作品の舞台背景を根拠とした回答が見出せるのだ。
 本来咲夜はナギと伊澄とともに、白皇の高等部に飛び級で進学する予定であった。しかしながら伊澄に好意を抱いているワタルもまた、一緒に飛び級することを望んでいたのである。結局、紆余曲折を経て咲夜が飛び級を辞退し、空いた飛び級の推薦枠にワタルが入ることになったのだというのが、現在分かっている話だ。
 まあ詳細はともかくとして、咲夜は実質上ワタルのために飛び級の枠を空けてやったことになる。その結果ナギに最も親しい友人にもかかわらず、ただ一人違う学校に通うことになってしまった。どうしてこのような設定が咲夜には付与されたのだろうか。白皇という学校内部に咲夜を置くということが何故されなかったのだろう。

 ここまで読まれた方ならもうお分かりであろうが、咲夜はこのハヤテという作品において最初期から徹底的に「外部」の人間として描かれ続けてきたのである。逆に言うとナギやマリア、ハヤテが生活している空間には、わずかでも彼女を拘束することはできないのだ。彼女は外部から何らかの理由をもって屋敷をたまーに訪れ、屋敷というプライベーな空間にセミパブリックな一面を付与する、そういう存在なのである。
 いくら情報の格差が厳然と存在していても人物同士で対話を繰り返すうちに、当然ながらそれらの情報はお互いが認識することになり、結果として情報の格差は是正されていく。つまり「外部」の人間はセミパブリックな空間に入る度に情報の格差を是正されるので、何度も登場するためには断続的に内部の人間との接触を絶ち、情報の格差を再び生み出す必要があるのだ。
 そういう点を考えると「外部」の人間として彼女を描く上では、学校という別の空間であってもナギやハヤテと普通に毎日顔をあわせるような状況は決してよくはない。外部の人間は、内部の人間とは異なる情報を所持している必要があるのだ。
 なるべくプライベートな空間や、その構成員達とは情報的に隔絶された状況を作り出し、かつ、そのプライベートな空間に対してアプローチをかけられるという、実に絶妙な距離に咲夜はいる。
 幸いなことに彼女には伊澄という白皇に通っている妹分的な存在がいる。彼女と連れ立ってナギに会いに行くというエピソードも当然存在した。また、突っ込んでほしいというただそれだけの理由でナギの屋敷を訪れることもあった。こうした半ば強引ともいえる、屋敷というセミパブリックな空間への押し入りは、彼女だからこそ可能なスキルといえる。
 だからこそ、彼女を白皇学園にいさせるわけにはいかなくなったのだ。結果としてワタルに学籍を譲るような形を取って、「外部」の人間としての体裁を保ったのだと、考えることもできるかもしれない。

 結果としてこの漫画ではなんというか、もともと親しかった者同士(例えばナギと咲夜。あるいはハヤテと西沢さん)ほど、実際の本編では互いに離れざるを得ないという、ある意味矛盾した構造を伴っている気がする。

 一方咲夜に変わって白皇に通うワタルはというと、こちらは咲夜とは逆の状態である。彼自身がナギとの許婚という状況をよくは思っていない上に(念のため書いておくが、よく思っていないのは許婚という状況であって、決してナギ自身についてではない)、咲夜のように親族としてナギを訪れることは少ないし、そもそも彼にはビデオ店という彼自身の「プライベートな空間」が存在していて、そこを保持する上ではホイホイと動くわけにはいかない。であれば彼が白皇に通うことは、ナギやハヤテに対して「外部」の人間としてアプローチをかける機会を増やすことに繋がる。
 いかに「外部」の人間であっても、セミパブリックな空間に立ち入る口実がなければただの「他人」になってしまう。彼を完全な外部としてハヤテたちから遮断しないためにも、白皇に通うことである程度の接点を持たせる必要があったのではないだろうか。

 となると、ここで白皇学院という場所は、ハヤテという漫画において非常に重要な役割を担っている可能性が出てくる。すなわち、ワタルのようにハヤテと接点を持ちにくい人物を「セミパブリックな空間」に呼び込むための装置として、学校という公的な場所は非常に都合のいいつくりになっている。ヒナギクはもちろんのこと「いいんちょ」こと瀬川泉をはじめとした学校の面々を、次々にセミパブリックな空間に状況に応じて送り込むことも可能なはずだ。

(次回に続く)


〈本日の参考サイト〉

「tanabeebanatの日記」

「ぷらずまだっしゅ!」

「サンデーバックステージ」

どうもありがとうございます。

果たして理論として成り立ってるのか、甚だ疑問ですが……とにかく、今回の分です。これはなんとか一回で収まりきりました。
さて、咲夜ファンの皆様なら誰もが一度は思う「出番がないよ!」という心の叫びに対して、この文章はちゃんと答えになっているのかどうか……まあ、そんな感じです。

次回は、もう少し別の観点から、演劇との共通点を探ってみようと思います。ある意味では今度はヒナギクファン必見……かもしれません。

それでは。