○この歳になっても、まだ、よくわからないんだな。
人を大切にしたい、とか、人から大切にされている、という感覚は並外れてあると自負しているけれど、ならば、それが深遠な意味(そう、生死を賭けられるほどの、という意味においての)での心境なのか、と自問するとどうも確信が持てないのである。これから語ることは幾分唐突だが、僕の言いたきことと密接な関係があるので、しばらくのご辛抱を。
愛人と云う言葉はいかにも下世話な言葉の響きを持っていて、とんでもなく嫌いな言葉だが、それは決して世間的な常識からの観想ではない。こういう名称で呼び合う仲の人々が、制度上の夫婦生活がありながら、別の異性を好きになるという心性と行為を、どれほどの切迫感を抱いて行っているか?という自問に対する仮想的な推論ゆえである。
そもそもこの世界の中で、パートナーとしての相手が絶対だ、と確信を持って言える人はいるのだろうか?まず、確信を持って断言出来ることは、表層的な意味における寂しさを紛らわすためだとか、はたまた余計な計算が入り込む場合なんかが多すぎはしまいか?ということ。世間的な価値意識としての結婚制度というものに縛られている関係性などは、大概いずれは壊れる。僕にもその手の失敗があるから、これは決して偉そうな目線からの観想ではない。かたちとして残ってはいても、それは形骸というもので、こんなのはお互いに不幸になるばかりの関係性だろう、と思っているだけである。
キルケゴールが、愛の概念をコネ回すのを読んでいると、この人も不器用に、不ざまに、また、同時に自分本位に生きた人なんだな、と感じる。それがたとえ、哲学的な意匠で飾られていようと、どうしたって、この人、自分可愛さが勝つ人だ。こういう人に巻き込まれた女性は、たぶん自分の不幸をさえ自分で責めることになるから、ひどい哲学者もいたもんだと心底思う。キルケゴール信奉者のみなさんには申し訳ないことだけど。
そうだ、不倫という言葉も嫌いだね。結婚していて、別の人と付き合うことをそう云うのだろう?ということは、不倫の反意語としての倫理は、結婚制度にのっとった人間が主張出来る特権的言辞だね。浮気も嫌な言葉だ。結婚を絶対視した上でのいっときの浮ついた気分、感情で妻あるいは夫以外の異性と仲良くすることを云うんだから、ここにも、制度としての結婚が価値として絶対だという思想が前提として在るわけだ。
結婚して、一緒に生活していれば、相手の嫌なことも、我慢ならないことも出てくるだろう。当然のことだ。ここまではどうってことはない。問題は、自分のパートナーと向き合えないことだ。しっかりと向き合ったら、良いことも発見出来るだろうが、逆に互いに引けないことを表舞台に出すことを強いられる。どのような壊れであれ、それを晒さない限り、壊れは壊れのままか、あるいは、瓦解の道をまっしぐらというハメになるのは必然だ。もし、不倫だとか浮気という言葉を認めるとすれば、こういう段階で外に安易な救いを求める男女の関係性の場合だな。相手と向き合ってみても、到底互いの溝は埋められないし、努力という言動の埒外にあるような夫婦関係ならば解消したらいいのに、中途半端な逃避で火種を避けようとするからおかしなことになる。そこから生じる災いは、自己責任ものだ。仕方ないだろう。もし、制度的夫婦が、世間体や銭金にまつわる問題でくっついている必要があるなら、当然互いに外に異性が居てもおかしくはない。こういう場合は不倫とか浮気という概念は、制度上の関係性そのもののことを云うことになり、言葉の定義としては価値意識として、まったくの逆転的定義を意味することになる。「子どものために」なんていうこともよく耳にするが、これだって、壊れた父母のもとで暮らす子どもの側の息苦しさを無視したオトナの勝手な理屈だ。そこに養育費だとか、慰謝料だといった、金銭的な要素も絡んだ欲得づくの妥協だから、ほとほと馬鹿げたことだと僕は思う。子どものために離婚しない、と思っているご夫婦は、一度胸に手を当てて、内奥の声に耳を傾けてみるといい。自分のウソが透けて視えてくると云うものである。
こういうことなのに、なんで人は独りではいられないのだろう?その方がずっと解放的で、すっきりとした生き方が出来そうなものなのに。ところが、独り暮らしの人たちは現実に散見出来るが、どう控えめに見ても独りであることを楽しんでいるようにも見えない。やはり言葉でどう言い繕うおうが、結果的に独りの生活を強いられて、それを受け入れている、というのが偽らざるところではないだろうか?
加島祥造という89歳の英文学者が、引退して長野県の伊那谷に独りで移り住んでからの、独語と写真からなる一冊の本が手もとにある。本の帯に、本書からの引用が書かれている。曰く、「いまの私は、良い環境と健康に恵まれて老年を過ごしているが、時には恐怖や、疑惑の念がきざす。時には腹立たさや、悲しみに落ちる。」と。人間変わらないな。89歳になっても、独居しても、この人も生きている限り、僕たちと大した違いのない精神世界の中にいるということだ。そうして、凡庸すぎる観想を続ける。「しかし、そこから回復するには、「いい感情」を持つことだ。それが一番いい方法だ、と自覚するようになった。それには自分がいまどんな感情にいるのかを意識しなければならない。」ということになる。優秀なはずの、英文学者にして、人生の締めくくりの段階に、これだ!あかんな、これでは。僕はこの人よりもっとずっと早くに逝くはずだが、それにしても、加島よりは、もうちとこましなことを考え、言い遺してこの世界を去ろう。ここまで書いてくると、「まだよくわからないんだ」というのは、正当な、死への準備段階の言葉だと感じるようになった。まだよくわからいにしても、まだまだこれから、だ。今日の観想として書き遺す。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人を大切にしたい、とか、人から大切にされている、という感覚は並外れてあると自負しているけれど、ならば、それが深遠な意味(そう、生死を賭けられるほどの、という意味においての)での心境なのか、と自問するとどうも確信が持てないのである。これから語ることは幾分唐突だが、僕の言いたきことと密接な関係があるので、しばらくのご辛抱を。
愛人と云う言葉はいかにも下世話な言葉の響きを持っていて、とんでもなく嫌いな言葉だが、それは決して世間的な常識からの観想ではない。こういう名称で呼び合う仲の人々が、制度上の夫婦生活がありながら、別の異性を好きになるという心性と行為を、どれほどの切迫感を抱いて行っているか?という自問に対する仮想的な推論ゆえである。
そもそもこの世界の中で、パートナーとしての相手が絶対だ、と確信を持って言える人はいるのだろうか?まず、確信を持って断言出来ることは、表層的な意味における寂しさを紛らわすためだとか、はたまた余計な計算が入り込む場合なんかが多すぎはしまいか?ということ。世間的な価値意識としての結婚制度というものに縛られている関係性などは、大概いずれは壊れる。僕にもその手の失敗があるから、これは決して偉そうな目線からの観想ではない。かたちとして残ってはいても、それは形骸というもので、こんなのはお互いに不幸になるばかりの関係性だろう、と思っているだけである。
キルケゴールが、愛の概念をコネ回すのを読んでいると、この人も不器用に、不ざまに、また、同時に自分本位に生きた人なんだな、と感じる。それがたとえ、哲学的な意匠で飾られていようと、どうしたって、この人、自分可愛さが勝つ人だ。こういう人に巻き込まれた女性は、たぶん自分の不幸をさえ自分で責めることになるから、ひどい哲学者もいたもんだと心底思う。キルケゴール信奉者のみなさんには申し訳ないことだけど。
そうだ、不倫という言葉も嫌いだね。結婚していて、別の人と付き合うことをそう云うのだろう?ということは、不倫の反意語としての倫理は、結婚制度にのっとった人間が主張出来る特権的言辞だね。浮気も嫌な言葉だ。結婚を絶対視した上でのいっときの浮ついた気分、感情で妻あるいは夫以外の異性と仲良くすることを云うんだから、ここにも、制度としての結婚が価値として絶対だという思想が前提として在るわけだ。
結婚して、一緒に生活していれば、相手の嫌なことも、我慢ならないことも出てくるだろう。当然のことだ。ここまではどうってことはない。問題は、自分のパートナーと向き合えないことだ。しっかりと向き合ったら、良いことも発見出来るだろうが、逆に互いに引けないことを表舞台に出すことを強いられる。どのような壊れであれ、それを晒さない限り、壊れは壊れのままか、あるいは、瓦解の道をまっしぐらというハメになるのは必然だ。もし、不倫だとか浮気という言葉を認めるとすれば、こういう段階で外に安易な救いを求める男女の関係性の場合だな。相手と向き合ってみても、到底互いの溝は埋められないし、努力という言動の埒外にあるような夫婦関係ならば解消したらいいのに、中途半端な逃避で火種を避けようとするからおかしなことになる。そこから生じる災いは、自己責任ものだ。仕方ないだろう。もし、制度的夫婦が、世間体や銭金にまつわる問題でくっついている必要があるなら、当然互いに外に異性が居てもおかしくはない。こういう場合は不倫とか浮気という概念は、制度上の関係性そのもののことを云うことになり、言葉の定義としては価値意識として、まったくの逆転的定義を意味することになる。「子どものために」なんていうこともよく耳にするが、これだって、壊れた父母のもとで暮らす子どもの側の息苦しさを無視したオトナの勝手な理屈だ。そこに養育費だとか、慰謝料だといった、金銭的な要素も絡んだ欲得づくの妥協だから、ほとほと馬鹿げたことだと僕は思う。子どものために離婚しない、と思っているご夫婦は、一度胸に手を当てて、内奥の声に耳を傾けてみるといい。自分のウソが透けて視えてくると云うものである。
こういうことなのに、なんで人は独りではいられないのだろう?その方がずっと解放的で、すっきりとした生き方が出来そうなものなのに。ところが、独り暮らしの人たちは現実に散見出来るが、どう控えめに見ても独りであることを楽しんでいるようにも見えない。やはり言葉でどう言い繕うおうが、結果的に独りの生活を強いられて、それを受け入れている、というのが偽らざるところではないだろうか?
加島祥造という89歳の英文学者が、引退して長野県の伊那谷に独りで移り住んでからの、独語と写真からなる一冊の本が手もとにある。本の帯に、本書からの引用が書かれている。曰く、「いまの私は、良い環境と健康に恵まれて老年を過ごしているが、時には恐怖や、疑惑の念がきざす。時には腹立たさや、悲しみに落ちる。」と。人間変わらないな。89歳になっても、独居しても、この人も生きている限り、僕たちと大した違いのない精神世界の中にいるということだ。そうして、凡庸すぎる観想を続ける。「しかし、そこから回復するには、「いい感情」を持つことだ。それが一番いい方法だ、と自覚するようになった。それには自分がいまどんな感情にいるのかを意識しなければならない。」ということになる。優秀なはずの、英文学者にして、人生の締めくくりの段階に、これだ!あかんな、これでは。僕はこの人よりもっとずっと早くに逝くはずだが、それにしても、加島よりは、もうちとこましなことを考え、言い遺してこの世界を去ろう。ここまで書いてくると、「まだよくわからないんだ」というのは、正当な、死への準備段階の言葉だと感じるようになった。まだよくわからいにしても、まだまだこれから、だ。今日の観想として書き遺す。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃