○政治体制が問題ではないんだ!
エジプトにしろ、リビアにしろ、政治的指導者の資質が問題にされている感が強いが、実は問題の核心としていえることは、たぶん、政権獲得後には確かにあったであろう、比較的公平な視野、その上に立った政治力、経済の建て直し、そういう政治にとって不可欠な要素が、彼らを政治的指導者におしあげたのだろう、ということである。しかし、政治的混乱の意味するところは、あまりに長期独裁型の政権の座に居座ると、人間誰しも堕落するということの証明でしかないだろうということである。この二国の政治的混乱ぶりだけではなく、現代のその他いくつかの国のありようは。イエスマンが意識的、無意識的に独裁者、あるいは独裁政権のまわりに集まってくるようになるからだ。当然だろう。独裁者その人も含めて、利権を貪るという哀しいまでの人間の性向から誰も自由にはなり得ないからである。
そういう意味では、人間みな同じだと思う。いろいろな必然と偶然の組み合わせで、国の指導者になり得たとしたら、あるいは、国だけではなく、どのような組織においても、そういう立場になったとしたら、また、その上で、権力を掌握する時期が長すぎるという要素が加わったとしたら、相当な思想的格闘の末に、次代へと政治的実権を、自らの行った政治のあり方すらも後世の審判に委ねるだけの勇気と覚悟と諦念が身に備わることなしには、人間の社会はどこまで行っても不公平感が尽きることのない社会でしかないだろう。当然の帰結だ。あまりに悲観的な人間観なのだろうか?僕はそうではない、と思っている。ここにわざわざ人間の小賢しい権力抗争の歴史的後付をしなくても、そんなことは分かりきっている事実ではないか。もし、それでも楽観的に、独裁的政権と民主主義的政権との比較論で、民主主義のあり方の修正主義に未来のひかりを見ようとする人がいるならば、やはり、おめでたいとしかいいようがない。あるいは、そういう人たちは、かたちを換えた権力志向者だろうとも思う。
僕は、これまでの人生でかなりな試行錯誤を繰り返してきたけれども、やはり、孤独なアナーキストで人生を終えようと覚悟を決めている。とりわけ、政治的な立ち位置としては、もはや変わることはない。しっかりと線引きをしたいので、繰り返して書くが、僕は政治的には、誰にも働きかけるようなことはしないし、(なにより、そんな力はないな)誰からの働きかけにも応じるつもりはない。人間が政治的な意味で、集団になること、集団になった上で出てくる思想に基づいた施策など信じる気がそもそもないからである。ロビンソン・クルーソーを気どることはむしろ現代社会においてはピエロでしかないから、自分が所属している社会機構の中で生きるが、表層的なヒュ-マニストは、僕の軽蔑の対象である。ひとつだけ自分の中にある真実を明かすならば、一人一殺のテロルは認める。認めたうえで、人を殺めたら、己れも潔く死することを忘れることなかれ、とは言いたい。そういう考えで生きている。いずれにせよ、近現代人ではありませぬな、僕は。そう思います。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム 長野安晃
エジプトにしろ、リビアにしろ、政治的指導者の資質が問題にされている感が強いが、実は問題の核心としていえることは、たぶん、政権獲得後には確かにあったであろう、比較的公平な視野、その上に立った政治力、経済の建て直し、そういう政治にとって不可欠な要素が、彼らを政治的指導者におしあげたのだろう、ということである。しかし、政治的混乱の意味するところは、あまりに長期独裁型の政権の座に居座ると、人間誰しも堕落するということの証明でしかないだろうということである。この二国の政治的混乱ぶりだけではなく、現代のその他いくつかの国のありようは。イエスマンが意識的、無意識的に独裁者、あるいは独裁政権のまわりに集まってくるようになるからだ。当然だろう。独裁者その人も含めて、利権を貪るという哀しいまでの人間の性向から誰も自由にはなり得ないからである。
そういう意味では、人間みな同じだと思う。いろいろな必然と偶然の組み合わせで、国の指導者になり得たとしたら、あるいは、国だけではなく、どのような組織においても、そういう立場になったとしたら、また、その上で、権力を掌握する時期が長すぎるという要素が加わったとしたら、相当な思想的格闘の末に、次代へと政治的実権を、自らの行った政治のあり方すらも後世の審判に委ねるだけの勇気と覚悟と諦念が身に備わることなしには、人間の社会はどこまで行っても不公平感が尽きることのない社会でしかないだろう。当然の帰結だ。あまりに悲観的な人間観なのだろうか?僕はそうではない、と思っている。ここにわざわざ人間の小賢しい権力抗争の歴史的後付をしなくても、そんなことは分かりきっている事実ではないか。もし、それでも楽観的に、独裁的政権と民主主義的政権との比較論で、民主主義のあり方の修正主義に未来のひかりを見ようとする人がいるならば、やはり、おめでたいとしかいいようがない。あるいは、そういう人たちは、かたちを換えた権力志向者だろうとも思う。
僕は、これまでの人生でかなりな試行錯誤を繰り返してきたけれども、やはり、孤独なアナーキストで人生を終えようと覚悟を決めている。とりわけ、政治的な立ち位置としては、もはや変わることはない。しっかりと線引きをしたいので、繰り返して書くが、僕は政治的には、誰にも働きかけるようなことはしないし、(なにより、そんな力はないな)誰からの働きかけにも応じるつもりはない。人間が政治的な意味で、集団になること、集団になった上で出てくる思想に基づいた施策など信じる気がそもそもないからである。ロビンソン・クルーソーを気どることはむしろ現代社会においてはピエロでしかないから、自分が所属している社会機構の中で生きるが、表層的なヒュ-マニストは、僕の軽蔑の対象である。ひとつだけ自分の中にある真実を明かすならば、一人一殺のテロルは認める。認めたうえで、人を殺めたら、己れも潔く死することを忘れることなかれ、とは言いたい。そういう考えで生きている。いずれにせよ、近現代人ではありませぬな、僕は。そう思います。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム 長野安晃