ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○政治体制が問題ではないんだ!

2011-02-27 13:50:35 | Weblog
○政治体制が問題ではないんだ!
 エジプトにしろ、リビアにしろ、政治的指導者の資質が問題にされている感が強いが、実は問題の核心としていえることは、たぶん、政権獲得後には確かにあったであろう、比較的公平な視野、その上に立った政治力、経済の建て直し、そういう政治にとって不可欠な要素が、彼らを政治的指導者におしあげたのだろう、ということである。しかし、政治的混乱の意味するところは、あまりに長期独裁型の政権の座に居座ると、人間誰しも堕落するということの証明でしかないだろうということである。この二国の政治的混乱ぶりだけではなく、現代のその他いくつかの国のありようは。イエスマンが意識的、無意識的に独裁者、あるいは独裁政権のまわりに集まってくるようになるからだ。当然だろう。独裁者その人も含めて、利権を貪るという哀しいまでの人間の性向から誰も自由にはなり得ないからである。
 そういう意味では、人間みな同じだと思う。いろいろな必然と偶然の組み合わせで、国の指導者になり得たとしたら、あるいは、国だけではなく、どのような組織においても、そういう立場になったとしたら、また、その上で、権力を掌握する時期が長すぎるという要素が加わったとしたら、相当な思想的格闘の末に、次代へと政治的実権を、自らの行った政治のあり方すらも後世の審判に委ねるだけの勇気と覚悟と諦念が身に備わることなしには、人間の社会はどこまで行っても不公平感が尽きることのない社会でしかないだろう。当然の帰結だ。あまりに悲観的な人間観なのだろうか?僕はそうではない、と思っている。ここにわざわざ人間の小賢しい権力抗争の歴史的後付をしなくても、そんなことは分かりきっている事実ではないか。もし、それでも楽観的に、独裁的政権と民主主義的政権との比較論で、民主主義のあり方の修正主義に未来のひかりを見ようとする人がいるならば、やはり、おめでたいとしかいいようがない。あるいは、そういう人たちは、かたちを換えた権力志向者だろうとも思う。
 僕は、これまでの人生でかなりな試行錯誤を繰り返してきたけれども、やはり、孤独なアナーキストで人生を終えようと覚悟を決めている。とりわけ、政治的な立ち位置としては、もはや変わることはない。しっかりと線引きをしたいので、繰り返して書くが、僕は政治的には、誰にも働きかけるようなことはしないし、(なにより、そんな力はないな)誰からの働きかけにも応じるつもりはない。人間が政治的な意味で、集団になること、集団になった上で出てくる思想に基づいた施策など信じる気がそもそもないからである。ロビンソン・クルーソーを気どることはむしろ現代社会においてはピエロでしかないから、自分が所属している社会機構の中で生きるが、表層的なヒュ-マニストは、僕の軽蔑の対象である。ひとつだけ自分の中にある真実を明かすならば、一人一殺のテロルは認める。認めたうえで、人を殺めたら、己れも潔く死することを忘れることなかれ、とは言いたい。そういう考えで生きている。いずれにせよ、近現代人ではありませぬな、僕は。そう思います。

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○なんでやろうな?

2011-02-24 13:08:35 | Weblog
○なんでやろうな?
 芥川賞や直木賞受賞作家が決まっていく中で、どうしても納得できないことがある。芥川賞候補に何度となくなりながら、落選の憂き目に遭っている島田雅彦が、芥川賞の選考委員になったのは記憶に新しい。たぶん、芥川賞をとっていない作家が選考委員になるのは、初めてのことではなかろうか。だからこそ、西村賢太のようなある意味、この時代にそぐわない作家が芥川賞をとったとも思えるけれど、それならば、なんで山本文緒が受賞しないのか、不思議でならないのである。
 「恋愛中毒」のプロットをここで書いても仕方がないので、観念的な読後の印象だけを書き置くが、この小説は、ともかく粘っこいのである。人間の心の奥底を舐めるように抉り出す手法は、山本の筆致の厚みとして評価してよいのではなかろうか。山本周五郎賞受賞だから、山本ファンとしては少しは溜飲が下がる思いではある。たぶん、この小説を読んだ方の印象を日常語で書けば、読んでみたけど、内容にはどんどん引き込まれたけど、読み終わったら、とてもしんどかった、というものではなかろうか。だからというのもなんだが、山本文緒の持ち味は、小説という創造空間で、生きることのエネルギーを描くようなタイプではなくて、生にまつわる人間の哀しさ、虚しさ、切なさ、生き難さ、という現象的なひとつひとつの出来事をぎゅっと凝縮させたような作品を書く作家である。その意味で、山本は心の襞を一枚一枚剥がし取るような粘着質な描写にこだわっているかにみえる。これは凄いと僕には思えるのである。西村賢太の「苦役列車」に対して、石原慎太郎(なんで「太陽の季節」なんかが芥川賞作品なんだ?)が、現代におけるピカレスク小説の復権などというような分かったようなコメントをしていたが、そういう意味ならば、山本文緒の小説の方が、男と女のありようとして、どれほどピカレスクというジャンルにふさわしいか、一目瞭然だろう。僕はそう思う。
 山本文緒の作品はどれもよい出来栄えだけれど、いま読み直している「みんないってしまう」という短編集は、秀逸だ。短編集の帯なんかには、決まって、珠玉の作品集なんて書いてあるけれど、山本のこの短編集は、文字通りの珠玉だから、自分とはなんぞや、男とはなんぞや、女とはなんぞや、人間とはなんぞや、生とはなんぞや、という類の発問をしたくなったら、ぜひ手にとって読んでみてほしい作品集だ。お薦めですよ。

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○自己愛過剰の心性に関して想うこと。

2011-02-23 14:58:59 | Weblog
○自己愛過剰の心性に関して想うこと。

人間、誰だって自分が大切である。また、そうでなければ生きてはいけないのだろう。だから自己愛といっても、その概念性自体を全否定しているわけではない。そもそも自己愛のない人間など存在しないわけだから。問題は、その内実である。それは空疎であれば、生きる意欲を何かのちょっとした拍子に喪失してしまって、自ら命を絶つということにもなりかねないし、また、過剰であれば、自分本位の考え方に陥り、他者の言葉や真意が理解できないわけで、究極的には抜きがたい孤独という寒風に晒されることになる。心的状況のあり方としては、まず、こんなところだろう。

ずっと昔、浅田彰という天才的な哲学者が「逃走論」という著作を引っさげて登場した。浅田は、その著書の中で、フランス現代哲学の紹介をやったわけだが、それは単なるフランス現代哲学のアンソロジーではなかった。時代は、マルクスやヘーゲルが思索し構築した絶対的な思想のコアーというものを、フランス哲学者たちの考え方のプロットを通じて、徹底的に相対化するのが、浅田の目論見だったと僕は思っている。<逃走>とはこれまでの絶対主義的哲学からの意識的な離脱宣言であり、相対主義の理論化であった。

フランス現代哲学の底流にあるのは、ニーチェがキリスト教的絶対権威に対して、宗教が人間に与える絶対主義への傾斜及び服従に対して、ツァラトストラの叫びを通じて、また、「人間的な、あまりに人間的な」という随想的哲学的考察などを駆使して、絶対主義を否定した思考の原型である。浅田は、「逃走論」の中で論じたフランス哲学者たちよりもずっと相対主義的な思考が強かったと思う。彼の影響を受けてか、日本の思想界は、しばらくの間、相対主義のオン・パレード状態だったことを覚えておられる方も多いと思う。

しかし、浅田の目論見は、実のところは日常生活にもその影響を与え、下卑た相対主義を正当化させた。<なんでもあり>なら、他者の<なんでもあり>を積極的に認知する能力でもあるからまだマシだが、その動きは自己愛過多の方向へ流れた。敷衍すると、自己愛を正当化するために他者の自己愛をないがしろにするとか、もっと極端になると、他者の存在理由の否定を促した感がある。イジメという行為は、特に学校社会に特有なものではなく、おとなの社会全般に広がった。つまりは、イジメという行為は、下品な相対主義が行き着く果ての姿と規定出来るのではないか、と僕は思うのである。

とは言え、僕は思想の相対化をまったくダメだと言っているのではない。宗教的権威による絶対者や、数少ない天才たちが思索の果てに構築した絶対主義的な哲学的論考に対して、人は意識している以上に屈しやすい存在なのである。圧倒的に有力な存在に自分を委ねたいという心性は、人間の自己愛偏重の思想と矛盾しない。それは次元を下げれば、依存という心性を生み出し、次元を高めれば、思想への盲従を意味する。その意味で、思想の相対化のための思想が必要なのである。絶対主義に対する依存や、盲従から人を解き放ち、<自由>の概念を取り戻すためのエッセンス。それが、相対主義の効用であり、存在理由である、と僕は思う。哲学が日常から遊離したものである、という単純な考え方は、まったく当を得ていないだろう。自己愛過剰の心理が生み出されて、その功罪が取り沙汰されている本質を僕たちは見抜いておかねばならないし、そういう時期に来ていると信じて疑わないが、みなさんはどうでしょうか?

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長野安晃 

○現代における生の物語性について少々。

2011-02-21 12:23:02 | 哲学
○現代における生の物語性について少々。

もし、僕が、人は誰もが、自分固有の物語性の中で生きている、と言い放ったら、そのことに対して反論したくなるのでしょうか?たぶん、反論する人々の反論たる思想のコアーというのは、自分は現実の世界で生きているのであって、物語などという虚構の中で生きているのではない、と論駁することでしょう。日常生活をきちんとおくり、仕事をし、帰宅したらいつもどおり食事をし、風呂に入り、明日に備えて眠るという現実を生きているのだ、と。

勿論、生きるために不可欠な生活時間の要素を否定しているのではないのです。それは、僕にだって厳然としたかたちで、在るわけですし、そのこと抜きには、そもそも人は生存できないからです。前記した具体的な生活のパタンから、不幸にもリストラや、就職難で仕事に就けない人がいたとしても、それは生活時間の中から、仕事という要素を抜いて考えてみればよいだけのことです。

生きるための物語性とは何ぞや?ということですけれど、それは別の言葉で表現すると、生きる意味と言い換えてもよいものです。しかし、生物学的な視点から見ると、たとえ人間には考えるという能力が備わっていたとしても、生きること自体に意味などないのです。論理的にものを言うために敢えて、このように言い切ります。

今日は、人間の物語性というごく限られた一側面への言及です。哲学と現実的な政治的テーゼの簡単なアウトラインについて。そもそも現代という時代は、価値が錯綜している時代です。簡単に言うと、極論すれば、人はそれぞれ勝手気ままな価値観で生きていれば、それでよいのだ、という相対主義的思想ですけれど、たとえ勝手気ままな価値観というものであれ、人は、それぞれの生に対する物語性の土台に乗っかって生きているわけです。たとえば、勝手気ままという物語の上に。しかし、所詮相対主義的思想というのは、ずっと昔に遡りますが、ソクラテスやプラトンが考え抜いた、<真・善・美>の世界観が崩れた結果の、真理は無数にあってよいのだ、という究極のアナキズム状態を指していうのです。無論、こうなった根拠はあります。政治的・歴史的な反省のもとに出てきたものが、アナキズム的な相対主義という現代的な物語の実体です。<真・善・美>が屈折して、政治的に悪用されると、その時々の権力者たちの絶対主義的な価値観が生きる指標になってしまいますから、それに反する考え方の持ち主は、極端な場合、粛清されたり、暗殺されたり、投獄されたりします。ポル・ポト政権や、文化大革命や、ヒトラーのナチスや、その他諸々の独裁主義をことさら掲げなくても、みなさんには、なぜ現代が、相対主義という物語的な無政府状態に傾斜していったのかがお分かりになるでしょう。

こういう相対主義に対してダメ出しをしている動きも当然あります。日本における分かりやすい例は、西部邁とか、小林よしのりの存在を想起してください。彼らは、やはり、幻像あるいは、物語としての天皇制を持ち出すのですが、僕は、生の物語性に対して、何も古臭い天皇制を掲げることもなかろう、とは思っています。天皇制の賛美は、分かりやすい絶対主義の復古ですけれど、やはり、政治的価値観としては、民主主義が人間の知恵の産物としては、最も優れているとは思います。民主主義的な価値意識を持ちつつ、しかし、勝手気ままな相対主義に陥らない唯一の課題とは、それぞれ異なった考えを抱いている人々が、その違いを超えた価値の共通項を持とうとする意思です。これを、現代における政治的な粛清もない、暗殺もない、拷問もない、投獄もない、歩みはノロいとは思いますが、とても意味ある生きる物語性のあり方ではなかろうか、と思っているのです。口幅ったく、また乱暴に物を言いました。

文学ノートぼくはかつてここにいた
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○自尊心に関する雑感

2011-02-20 12:35:52 | 観想
○自尊心に関する雑感

根拠なきプライドはいけませんね。これは百害あって一利なしです。根拠なき、という意味は、それなりの自尊心を抱くには、自分が置かれた環境の中にあって、自分の持てる力、才能と言い換えてもいいです。才能といっても大仰なものではなくて、何かをなし得る、という確信であれば、それを才能と称しましょう。この才能とは、常に壁の前で、この壁をいかにして乗り越えるべきか、それを凌駕するべき方法論を自分の持てる力ぎりぎりのところで考え抜く力を発揮し続けることを意味します。こういう自負のないプライドを根拠なきもの、と規定します。余談ですが、今日、勝ち組とか負け組みという二分法で、自分がどちらの側に立っているのか、といったことを言いたがる人がいますが、こういう発想に陥る人は、どちらの側に属するかということ以前に、根拠なきプライドを振り回しているような人々です。勝っても負けても、要するに、その意味は銭金の問題に過ぎませんから、人生の節目で、ちょっとした選択肢の選び間違えで、銭金とは無縁の生活を強いられたりしますから、生きる意味などよく考えもせずに、金がないから自分は負け組みだと言い張ります。あるいは、金があるから勝ち組だと言うのです。これは僕の目からは醜悪に見えます。

さて、自尊心の問題にもどりましょう。それは究極のところ、自尊心とは何ぞやという自問からはじまるものでしょう。僕の考える自尊心とは、その本質がとてもストイックなもの、ということです。また、凡庸な人間から見ると有り余る才能を持って生まれたとしても、常に自己の才能に対しては、奢ることなく謙虚である、というものでもあります。こういう本質は、非凡、平凡を問わず、当てはまるものだとも思っています。敷衍して言えば、才能のない人間は存在しないし、また、自分の才に対する自尊心のない状況も存在しないのです。それが人間存在のあるがままの姿ではなかろうか、と僕は思っています。

こういう考え方を披瀝すると、次のように反論する人が出てくるのは、十分に予測しています。結局、おまえの言っていることは、内面的な問題に収束する思想であり、現実の世界に存在する政治体制や、既成の権益を後生大事に抱えている輩たちに対する批判の目を摘むことにつながるものではないか、という批判ですね。確かにそうです。僕の今日の拙論は、内面的な問題に絞って書いていますから、もしも、こういう考え方を飽きずに書き続けているとするならば、僕は単なる遠巻きの権力の走狗という存在に過ぎなくなりますね。よく分かっています。

その上で言いたいことは、自尊心とは、逆説的ですけれど、それは常に内面的、外面的な負の要素によって、折り曲げられる可能性と直結しています。僕が言いたきことは、つまりは、この点なのです。言葉を換えて言えば、自尊心を保持し続けられるかどうかの決め手は、自己の才能を、それは常にその限界を乗り越える覚悟が必要なのですが、それをストイックに伸ばす努力ができるかどうか、ということにかかっていると言っても過言ではないでしょう。他者との比較はするな、とは言いませんが、自己の内面的な努力抜きの比較論は、他者に対する僻みや、自己憐憫の虜になってしまいかねません。これでは、はじめから勝負を投げているとしか思えません。もっと言えば、生きる意味の喪失を意味しますから、とても危険なことです。

偉そうに物を言った感は拭えませんが、生き死にの限界まで何度か立ち至った末に、生き抜くと覚悟を決めた結果の僕なりの観想です。どうか、気分を害した方もその怒りを少し差っぴいて胸に落としてくださるとありがたいのですが。

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○人間の寿命、延び過ぎだ、と思うな。

2011-02-18 21:29:45 | Weblog
○人間の寿命、延び過ぎだ、と思うな。
 医療の技術が、不均衡に発達したお陰なのか、功罪なのかは敢えて断定することは避けるけれど、平均寿命が、70歳だの80歳中盤だのという事実を聞くと、そりゃあ、ちょっと生き過ぎだろう、と率直に想う。あくまで平均寿命だから、とてつもなく若くこの世界から去っていく人もいれば、100歳を超えて生きる人もいる。平均なんていう数値的な意味がどこにあるのか、と頭をかしげたくもなるが、まあ、だいたいは、人間は長く生きることになったのだろう。この日本や地球上のごく限られた国々の、いろんな資源やそれをもとにした技術を牛耳っているところに限られた現象だけれど。
 しかし、人間、誰も根っこから死にたいとは思わない存在なのだろうから、生きるとしても、元気で溌剌とした生き方がしたいに決まっている。個々の人々の考え方だから、断定はできないにしても、自由を奪われてまで生き延びている老年って、僕の発想からすると、ひと言で言うなら、嫌なこった、ということになるな。だから、僕個人としては、老人介護は拒否するし、そうまでして生きる意欲もない。他人のことは知らない。しかし、要介護なんていう次元に立ち至ったら、間違いなく僕の考える力もなきに等しくなっていることだろうし、そもそも体が元気ないまだって、たいしたことを考えているわけでもなく、たいしたことを日々やっているわけでもないのである。元気ゆえに他者に迷惑をかけることも多いにあるとは思うが、もはや自死する気力は失せたので、生きているうちに僕との接点を持った人には、この機会に多大な迷惑をかけること、気を悪くさせること、精神的なダメージを与えてしまうこと、等々の負のファクターについてのお詫びは、いまのうちに心からしておきたい、と心底思う。これは、嘘偽りのない心境なのである。
 ところで、体が元気そのものでも、年老いてなお、醜悪なほどの利益、利権、権力に対する執着を捨てない人を目にすると、嫌悪感を抱くよりも、もはや哀れを感じてしまうのは、僕自身の命に対する原初的な執着がなくなりつつあるのかしら、と思わなくもない。あまりの長期政権にしがみついている政治家たちも、政治形態も含めて、また、その他のジャンルにおいても、それを世襲制として、己が血縁にまで累々と自己の執着を永続させんとするような心性にはほとほと恐れ入る、としか言いようがないな。
 まあ、他人様のことは横に置くとして、自分の身の上について考えてみれば、元気で、他者との関係性の中で、あるときは人のタメにもなり、あるときは迷惑もかけながら、息をしている時間はそれほど長くはない、と実感しつつ、日々勝負!という心境を新たにして、今日の観想を閉じることにする。

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○世の中の芸術作品の殆どが、凡庸な生に意味を与えるものなんだなって、思う。

2011-02-17 13:55:48 | Weblog
○世の中の芸術作品の殆どが、凡庸な生に意味を与えるものなんだなって、思う。
 独裁者が支配する世の中では、あらゆるジャンルに属する芸術家たちの殆どが、権力におもねるような作品や演技や歌を披露することになる。もっとも、独裁政治というものなどは、永遠に続くがごときのような錯誤に陥るほど、独裁下に置かれている人々にとっては、長く、厳しく、つらい日々の連続である。だからこそ、独裁者に擦り寄り、小さな権力を手に入れたがる卑しい輩も出現する。人民のレベルでもそうなのだから、もともと才能のある芸術家たちが生き残る術は、独裁者の嗜好に合わせた才能の表出にとどめてその地にとどまるか、はたまた独裁者から逃れて他国に亡命するかしか手段はない。独裁者のもとに留まった人の創り出したものは、歴史の審判を受けた後、そのすべての創作活動の結果がジャンルを問わず、駄作であり、見るも無残な結末であったことは、すでに僕たちは歴史上の現実の出来事として、諒解していることである。
 極端な例としての独裁政権下における芸術活動のありようについて少しだけ書くつもりが、前置きが長くなり過ぎた。本題に入る。以下は、程度の差はあるにせよ、一応、民主主義が底流にあるような国における僕たち庶民の生き方と関連した芸術作品のあり方についての僕なりの拙論である。しばらくのご辛抱を。
 特に庶民にとって身近な存在としての映画芸術と歌謡に関する観想を少し。たとえば、世界の?クロサワ作品は、屈折した勧善懲悪と、名もなき庶民の小さな抗いが主なテーマではなかろうか。映像効果のありかたにかけるクロサワの常軌を逸したこだわりも一皮剥けば、その主題は上記の二点に尽きる。たとえば、出世作の「7人の侍」、及び「生きる」。その他の、たくさんの作品についての一々の言及は必要ないだろうと思う。
 歌謡のジャンル。演歌も含めて、クラシックの中のオペラ、ポップス、ロック、ジャズその他諸々を含めて、いかに小さな生に意味を与える歌詞が多いか、検証してみればわかる。その現れは、貧しくとも、目立たなくともいいから、自分の生きる足場をしっかりと固めて、文句を多く言わず、生を全うしようというメッセージがたくさん含まれていると僕には思えるけれど。どれほど新しいジャンルの歌であろうとも。いまにして思えば、反権力を標榜するようなメッセージソングだって、非日常を謳いながらも、生きるという蒙曖な営為の、いっときのオアシスのごときものだったから。
 映画の事例として最初に挙げたクロサワ映画などは、どうでもいいけれど、たとえば、戦後民主主義的な思想で創られた「青い山脈」も清々しいイメージしか与えないのは、どうも不自然でしかない。僕が子どもの頃によく観た、日活映画の石原裕次郎や、小林旭なんかの映画はまったくの勧善懲悪昭和版だから、やはり不自然、不可思議なのである。当時はいまと違って、外国物といえば、フランス映画やイタリア映画がたくさん放映されていたし、それらには、少し理屈っッぽいおもしろさがあったけれど、アメリカ映画なんて、鉄の塊のような巨大な自家用車に、ハンバーガーに、ドーナッツ、勿論食べ物はともかくげっぷが出そうなほどに出てくるわ出てくるわで、その上、エルビズプレスリーの若い頃の映画なんて、イカシタあんちゃんのエルビスが、これまたイカシタおねえちゃんをたらしむスト―リーだけで、大流行りしたんだから、生の謳歌というよりは、見かたによっては相当に刹那的な享楽の表現だろう。まあ、アメリカ人は勿論だけど、日本人なんかは、ああいう生活がしたい、という物欲で生きていたようなものだったし、生の本質など、忘却していたのではなかろうか。少々極端な書き方になってしまった感はあるけれど、たぶん、多くの真実を言い当てているとは思う。
 21世紀のこの世界は、たとえ錯覚であれ、生は生きるに値するとは、到底言い難いものになってしまった。もう僕などは死の方が近しい人間なので、生のすばらしさを若者に向かって無責任に吹聴もできるが、そういう誤魔化しはしたくはない。現代は息苦しい時代だ、と心底思う。未来を切り開くには、条件が悪すぎるのも現実だろう。それでも生きることに価値あり、などとは決して言わないが、それでも自分の寿命分くらいは、生きてみて、生がおもしろかったのか、つまらなかったのかくらいは、死の床でつぶやく権利はあるとは思う。非常に消極的な生きるための箴言として聞き流してくれればよい、と思う。今日の観想として書き遺す。

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○<理由なき反抗>?本来、あり得ない。いや、あってはならないな。

2011-02-16 12:47:16 | Weblog
○<理由なき反抗>?本来、あり得ない。いや、あってはならないな。
 僕が子どもの頃の、人気絶頂の時期に自動車事故で亡くなったアメリカの人気男優の主演映画の題名。大スターの名は、ジェームス・ディーン。いまの若者にはまったく縁がないのだろうが、案外映画好きの人の中にはジェームズ・ディーンの名前を知っている人もいるのかも知れない。思い出したように、時折テレビのCMにも彼の別の映画の一場面が使われたりするので、知る人ぞ知る、絶大な人気を誇る、いつまで経っても青臭い青年のままの彼が、イメージとして誰それの心の中に生き残っているのは想像に難くない。
 さて、<理由なき反抗>だが、反抗の論理に理由がついてまわらないはずがない、ということを再度僕たちは認識しなければならないだろう。もしも、それでも、自己の反抗の精神には、あくまで理由なし、と敢えていう人があるならば、その人が論理を放棄しているか、あるいは、反抗の意味を探っていないということと同じなのである。どの時代にも、どの地域にも、どの環境においても、どの年齢の人間にも、そこに身を置いた人間には、それ相応の反抗の論理というものが在る。
 僕の裡なる反抗の論理の内実とは、既成の価値観や決まり事に対する鋭敏な検証のための論理的嗅覚のごときものと定義すれば、たぶんそれが最も実体に近い、と思う。それに比して、<理由なき反抗>とは、己れの抗いのエネルギーの行き場所、発散どころを見失った、希望なき、実りなき精神の彷徨ということになるのではなかろうか。こういう人は、内面に、どれほど鋭きエネルギーの発露の可能性を秘めていたとしても、だいたいは、そのエネルギーそのものが閉塞しているわけだから、もの言わぬ羊の群れに属するような人たちよりも、体制を利用して利権を貪っている権力者の擁護者になりやすい。意識的か否かは別にしても。最も唾棄すべきは、確信犯的なイエスマンになり下がった反抗の精神の持ち主たちである。この場合、理由なき反抗とは、自己弁護のための強弁に過ぎなくなる。まずは、こうは生きたくはないものである。反抗の論理は、あくまで反抗するべき対象に対峙し得るものでなければ、それ自体が、狡猾な他者に利用されるだけの、 虚しい産物に過ぎなくなるのは目に見えているのではなかろうか。かつて既成体制の政治的・社会的理念を反抗の論理で批判し、抗いも出来ていた知性が、既成体制の中にどっぷりと組み込まれて、あるいは、組み込まれることを確信犯的に受容して、甘い汁を吸っているがごときの、堕落した人間にだけはなりたくはないな。心底、そう思うこの頃である。

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○人生、なにもかもが、無価値に思えるときだってありますよ。

2011-02-14 15:31:19 | 観想
○人生、なにもかもが、無価値に思えるときだってありますよ。それは生きるという行為に織り込み済みのことだと、僕は思うな。

生きるという行為は、思いのほか、たいへんなことで、人生、躓きの連続と言っても過言ではない。逆に、自分の人生に躓きなどない、と言い切るような人を僕は信用しない。あるいは、人生、楽しくて仕方がない、などとほざく人間も信用しない。

そもそも人間というのは、自分のなすべきことを発見するために生きているような存在で、逆の視点から見ると、自分のなすべきことがなかなか見つからないのが、人生とも言えるのである。従って、生きる行為についてまわる苦悩とは、人間がどう生きるべきか、を考えるときに、明るき未来像も、その逆に暗黒の、希望なき将来像も同時に頭を駆け巡るのである。その意味においては、人間存在とは、考える葦などとパスカルは言い放ったが、考える、という行為には、二つの相反する要素、つまりは、自己を生かすベクトルと自己を破壊しようとするベクトルという要素が織り込み済みなのである。だからこそ、人は、窮地に立ち至ったときに、絶望するし、絶望ゆえに、己れを破壊すべく不幸な選択肢を選びとることもあるわけである。

だから、人生に、ゆるぎない安泰の生き方などあり得ないわけで、生の安寧ということで、すぐに想起できるのは、経済的・社会的な安定感だろうが、しかし、これとても、大病を患っては、備わった経済的な背景を活用も出来ないし、社会的地位など、体調がついていかねば、それを維持することさえ出来かねる。こういう次元においては、人間は平等な生のリスクを背負っているということになるが、経済的困窮であるとか、社会的地位に恵まれないという現象的な意味における不平等は、生まれ育ちを自らが選びとってこの世に生を授かるのではないから、もしも極貧の家庭に、あるいは、家庭的不幸の只中に生まれ落ちたら、またあるいは、難治の病気を持ってこの世に生を受けたならば、それは、天に向かって呪詛するしかないのだろう。その他にも数え挙げたらキリがないほどに、呪詛するべきことは多々あれど、人間、自分という存在を人生のどこかの時点で、恨みつらみがあろうと、折り合いをつけねばならないのも否定できない事実。やっぱり、人生とは、そもそも不平等に出来ているものなのかしらん、というのが偽らざる心境だが、それなら、それで自分になし得ることを精一杯考えて、実践するしかないね。そういうことがすべて面倒になったら、死にどきかも知れない。

生きること、そのものに価値がある、なんて言い出したら、むしろ、世の中の不平等や矛盾を見逃すことになりかねないし、どのような艱難辛苦に遭ってもそれに耐えるがごときの、もの言わぬ羊の群れになり下がる。そんなことはまっぴらごめん。僕が無神論者を標榜するのは、この世界にまん延しているあらゆる宗教的真理が、人間的な不平等感や、矛盾を超えた絶対者に帰依することで、自分が背負っている不幸の数々から目を逸らせる要素を多分に含み込んでいるからである。

また、もっと嫌悪することは、宗教が政治を繰ることである。これは人類の太古から行われてきた宗教と政治(祭り事)との合体であるが、現代におけるも、この思考回路は、人間の裡からどうも抜けきらぬらしいのである。日本においても、政教分離が出来ていない政党すら存在するし、すでに国会議員を有している新興宗教もあれば、ここに乗り出そうとしているのもある。こういう事態は人間の未来において、凌駕されてしかるべき現象だと、僕は強く思う。イスラム原理主義による政治支配においても、同じ種の人間の原初的で、未成熟な要素を感じるので、やはり、どこの国においても、政治と宗教は切り離されてしかるべき存在だと思う。

さて、どう考えても、人間は不平等ですよ。不幸平極まりない。それが人間社会。とはいえ、それを絶対者なるもので、諦念の対象にしないことだ、とも思う。どこまで行っても、不平等、不幸平な世の中であっても、それでも生き抜く勇気と覚悟。これが、人間にとっての不可欠なファクターだと僕は思うけれど。どうでしょうか?

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長野安晃   

○無縁社会?NHKらしく、暗いイメージで番組づくりをしているけれど、ね。

2011-02-13 00:07:22 | Weblog
○無縁社会?NHKらしく、暗いイメージで番組づくりをしているけれど、ね。
 無縁社会という定義が、まるでなされないままに、たとえば、いまから20年後の社会が、家族もつくれない現代の20代、30代の若者が歳をとり、定職もなく臨時の職業を転々とし、親の介護をしながら歳を喰らい、ふっと気づいたら自分は独りぼっち、まわりには、自分と関わってくれる人がいない、という基調の番組づくり。そして、現代にもすでに起こっている、この無縁社会なるものをいかに解釈し、改善していくのか、というテーマらしいのだが、番組に参加している非正規雇用者を中心とした人々の中から出る意見には、なるほどと頷けるものがいくつもあるが、数人のコメンテイタ―の意見には、まったく説得力がないのである。その中でもケッサクだったのは、けったクソ悪いので、名前も覚えてはいないが、経済同友会関係のおばちゃんのコメンテイタ―なんかは、簡単にまとめていうと、社会的勝者の意見。若い人は、働きがいがないとか、自分が必要とされていないということをすぐに口にするが、自分なりに、自らが自らの存在価値を探していかねばダメだ、というのである。結局、人は、自分の置かれている立場からしかものが視えないということを、また、社会的成功者たちは、自分たちを正当化することにかけては、分かりきった理屈を恥ずかしげもなく口にする。そういうことだけが、分かった番組だった。ツイッタ―で紹介される若者たちの意見もたぶん、意図的な感情論的、情緒的な悲観論を拾って番組中に流されたものだろう。こんなのを観ていると、希望もへったくれもない、まさに今後生きていて何が楽しいのか?という観想しか浮かんでは来ないだろうな。司会者が解説するまでもなく、かつての終身雇用制度が消滅し、非正規労働者を法律で認めてしまったがゆえに、会社の経営が少しでも思わしくなくなれば、リストラあたりまえの時代、正社員だって、いつでもリストラ対象になるし、そのあとは、非正規労働者で埋め合わせが効くようにしたのは、自民党の政治と経済界の要請だったんだ。そのことを若い人たちは忘れてはイカン。若者のコメンテイタ―の一人などは、非正規労働者であっても、夫婦二人が働けば、子どもを生み育てられるような社会システムとして、社会というもののありかたを根本的に考え直す必要があるなどというのがいたが、これなどは、自民党政府時代の小泉首相が泣いて喜びそうな意見だ。分かりやすいことに、経済同友会関係の勝ち組のおばさんコメンテイタ―などは、笑顔で頷いていたから、お笑いだ。NHKというところは、現代の深刻な問題を話題にしながらも、しっかりと、権力に媚びるようにこの手の番組つくりをやるね。こんなのをまじめに観て、悲観的になっていてはイカンよ、現代の若者たち!
 介護の問題を大きくとり上げていたが、生きていたくもないのに、生かされている老人が現在もどれほどいるか?20年後という時代をシュミレーションしていたが、少なくとも、自分が20年後に生き永らえて、要介護になったとしたら、安楽死を僕は望むね。オランダやベルギーのように安楽死を法制化するべきではないのか?一旦植物状態にされてしまったら、生前にその人間が尊厳死を望んでおり、たとえば、尊厳死協会に登録していたとしても、医師はむしろ積極的な人間の植物化をめざすごとくに治療せざるを得ないのが日本の医療の現実だ。植物的に生かされていて、膨大な医療費がかかっていても、誰にも手が出せない。税金が足らんなどと言っているが、誰も喜びもしないところで、税金が無駄にすり減っているのである。医療の進歩によって、ガン死やその他のいくつかの難病による死は克服出来てはいないにしても、要介護であっても、生きたいという意思があれば、かなりな長命が保障される時代である。逆に、要介護になるくらいならば、安楽死を望む人もいるのではなかろうか。そのような選択肢を何故つくれないのだろうか?日本は海外からこれまで文化・文明をたくさん学んだ国柄である。すでに安楽死を法制化している国があるのである。一から議論を起さなくても、そのモデルはあるわけで、その気があるならすぐにでも議論が開始できる。政党の利益ばかりを考えている政治家たちは選挙を戦えないという発想になるから、何も出来ないのである。とはいえ、経済界の要請だけは、選挙用にも、財政的な基盤のためにも、国民の声などどこ吹く風で実行する。終身雇用制などは、国民のために守るどころか、積極的に切り捨てたではないか。あらためていうが、非正規労働者が当然で、それでも生活が成り立つ、などというようなアホウなことを考えることなかれ!若者たちは、自分の価値を自ら値切ったらイカンのである。
 いまの多くの企業が、年齢制限などの条件も含めて、採用基準も明確にしない世の中、うまく若者たちが力を発揮できる場がつくれないのは当然の帰結ではないか。若者たちは、世の中のシステムを見直さないといけないとは言うが、それは、あくまでいま、ここの、仕組みを修正するべきだ、という訴えだとしか伝わって来ない。これは、おかしいではないか?システムを変えるとは、世の中の仕組みを変えるということだろう?そうであれば、政治を変えなければならんだろう?政治を変え、経済を変える。これが世の中のシステムを変えるということの実質的な意味だろう?君たち、おとなしすぎるよ。おとなの意見なんて、自分たちの利権、利益が根底にある。そのことを忘れることなかれ!君たちの利益を優先してものごとを考えてもいいんだよ。それが次代を生きる君たちの権利と責任だと僕は思うね。いまのおとながシュミレーションしているような未来図?などまったくあてにはならん。そう思いきることだ。君たちが、老いさらばえた人間は、去れ、というなら、そういう法制化をすればよい。従うよ。

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○あざとい広告や。

2011-02-11 23:07:41 | Weblog
○あざとい広告や。
 文芸春秋が、芥川賞受賞者の二人、朝吹真理子と西村賢太の写真を対比させて、新聞一面ぶち抜きの広告を出したのを見て、分かりきってはいるけれど、まあ、これをなんと称したものか、と考えていたら、あざとさ、という表現が頭を掠めた。いや、もっと次元の低い対比で云えば、聖と俗、美と醜、さらに言い古された対比的表現で云うならば、美女と野獣か。まあ、ひとりひとりを見ていると、朝吹が聖的でも美的でもなく、西村が俗的でも醜悪なのでもない。そういう対比で読者の興味を惹こうとする文芸春秋の魂胆があざとい、ということなのだろうか。ちなみに、お笑いなのは、このふたりを対比させるためのキャッチコピーが、「海辺の別荘」vs.「日雇い現場」とくるからやってられない。さらに、二人のインタビューにインタビューアーがつけたタイトルが、朝吹のを「文学の名門に生まれたゆえの苦悩」とし、西村のを「{中卒・逮捕歴あり}こそわが財産」などとなっているのを見るにつけ、別にこんなことを広告にしなくても、西村の作品群は絶対に読まれると言いたいけれど、まあ、朝吹のような作品を好む層もいるだろうし、読者の掘り起こしという点では成功か?
 おっと、今日はそんなことをここに書くつもりではない。西村賢太が登場するにつけ、平成の時代に再臨した私小説家などというようなコピーが流布しているので、待ったをかけたい気分で書きはじめたのである。
 勿論、日本文学の潮流の中には、明確に「私小説」というジャンルが存在し、それが日本文学史の中に位置づけられてはいるが、どうも、そもそもこの私小説というものが、僕には信用できないようなのである。その理由は至極簡単である。私小説というジャンルが出来たのは、作家たちの自由奔放な生き方の中から文学の素材を拾い出してきたことが、いつしか過剰になった結果の産物である。作品を書くために作家が自らの生活そのものを作品素材にしやすいように、意識的に生活の中の、非日常性を膨らませて生まれ出た作品を指して、私小説、あるいはそれらの作品を書いた人間を私小説家と称したのであるが、僕にはどうもこれがそもそもおかしい、と思うのである。素材を何にとるのかは、実はどうでもよくて、作品に仕上げる段階で、それが私小説であれ、その他のジャンル分けをされている作品であれ、そこに、虚構性なき小説創造などそもそもあり得ないわけである。私小説と呼ばれているジャンルの作品において、登場人物に、作家その人を含めて登場人物の実名や、作家の言動を作品の素材やプロットに使ったとしても、出来あがった作品それ自体が、事実そのものとはまったく異なる次元のものとして仕上がるのが、創造性というファクターを介在させた小説空間なのだから、これが私小説というジャンルそのものの存在理由を否定してしまうのは、当然の成り行きなのである。
 たとえば、事実そのものとしてのルポルタージュという手法を考えてみても、ルポルタージュを書く人間の思惑が事のはじまりから入り込んでいるわけで、ルポを書く人によっては、同じ現実的な事象が、まったく異なった事象として描かれる可能性が大きいということを想起すれば、私小説というものの小説空間の中で繰り広げられた事実を媒介とした事件や事象が、リアルを超えた創造的な物語になるのは必然的な帰結ではなかろうか。つまりは、日本文学史における私小説というジャンルとは、一皮剥がすと、それは当時まだ厳然としたかたちで残っていた文壇という特別な階層にいる作家たちと、彼らを経済的に支え、そのことによって、より高い収益を見こんでいた出版社との慣れ合いの結果出来あがった虚構的な経済システムの別称だと、僕は考えているのだが、みなさんは、どのような認識をお持ちだろうか?
 西村賢太が、平成の私小説作家なのかという問いかけそのものが、前記したような、作家と出版社とのかつてのような経済システムだと考えるには、現代においては、あまりにも無理があると思うのである。大手出版社が、あざとい方法論で、利潤をあげようとするのであれば、西村にはもっとあざとく、出版社の意向をせいぜい利用しながら、自らの作品群をどのような文学史的定義も当てはまらないようなものにしてもらいたいものだと、心から願う。

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○人が不安感に苛まれるのは、生きるための大切なモチベーションだと、僕は思う。

2011-02-10 17:08:41 | 哲学
○人が不安感に苛まれるのは、生きるための大切なモチベーションだと、僕は思う。

人が不安感に襲われて、えも言えぬような不快感、精神的苦痛、恐怖心、投げやりな気分の虜となることが多い。こういう現象だけを見れば、不安という概念は、どう控えめに考えても、負の要素が強いと思われがちだろう。確かに何事もなかったのに、唐突に襲ってくる不安感、悪夢を見て、起きぬけに感じるどうにも制御不能な不快感などは、生きるためのモチベーションどころか、逆に生きていたくない、という領域に属する感情を惹き起す。ただし、それは、あくまで現象的に、という条件つきで。

考えてみれば、人は物心ついた頃から、想像力の中で、この種の恐怖感に襲われ、それが結果的にどのような感情を惹き起すのか、という明確な確信はないにしても、自分の身の置き所を失ったような感覚は、子どもなりに感じとることの出来るものである。つまりは、不安感とは、自分の立ち位置を見定めることが出来なくなった状態と言い換えることの出来る概念性だと規定出来るのではなかろうか。

よく自分は不安だから、死んでしまうのではないか?という切羽つまった疑問を投げかけてくる人たちがいる。しかし、この問いかけはまったく死とは真逆の精神構造のベクトルから発せられる発問なのである。人は不安だから死ぬのではない。誤解を怖れずに言うと、人は不安だから生きようとするのである。自分の立ち位置を強固にするように生きようとするのである。そのプロセスで、人は不安とは無縁の生き方を結果的にしたいと望み、実際、そのようにふるまうのである。だから、人は生きるという行為の中から、不安という概念を普段は忘却しているに過ぎないと言っても過言ではないから、生と不安とは切っても切れない関係性にあるのは、必然でもある。

不安という概念をもう少し違う角度から眺めてみると、人が不安に駆られるときは、大概において、自己のこれまでの生き方に何らかの可変を加えねばならない原因があり、そのための自己修正を加えようとする大切なファクターなのである。そうであるからこそ、強い強制力を伴って、自己の裡に差し迫ったかたちで、襲ってもくるのである。自分のこれまでの立ち位置を揺るがすほどの威力がなければ、どうして生き方の修正に関わるような力を持ち得ようか?不安の概念は、その意味で強烈なのである。生きるために、それは強力な強制力を持って、立ち現れるのである。

確かに言えることは、不安の向こうには、必ず不安を克服した後の、自己の生き方、思想のあり方の、再構築した結果が見えている、ということだ。だからこそ、不安を怖れてはならないし、不安感に伴う後味の悪さも同時に引き受けなければならない。それが、人がこの世界を生き抜くための大切なレッスンだからである。さあ、みなさん、生き抜きましょう!不安を抱えながら、ね。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○うれしいね。

2011-02-09 15:09:12 | Weblog
○うれしいね。
 ひさびさに骨太の作家に出会った気がする。ついこの間、芥川賞をとった西村賢太だけど、文体もたくましいし、なによりこの人の生き方が、いまどきのインテリ作家とは違って、地の底から這い出してきたような底力に溢れているから、今後も楽しみな作家だ、と思う。とても知的だけれど、その知性には、生き死にを賭けた重さがある。ともあれ、物書きとしての存在感自体が重厚なのである。人間の存在理由の底の底を抉り出すような立ち位置から作品を書くからか、西村の作品には、僕には怖いほどの共振を与える。この種の邂逅は、たくさんのものを失い過ぎた哀しさを帳消しにしてくれる。たぶん、西村にも同じような要素があるんだろうな。ともあれ、うれしいね。
 そうは言っても、僕の読書の傾向は、基本的には何でもあり、なので、軟弱な甘ったるい小説も大好きときているから、こんな人間ばかりなら、いまどきの出版不況など、どこ吹く風というところなんだろうけれど。僕の拙い読書体験からすると、やはり読書の幅は広い方がいいね。小説に限らず、ジャンルは枝分かれしながら、どんどん広がっていくのが望ましいと思うけれど、別に無理をする必要もないわけで、小説だけが好きなら、そこにとどまっていたってなんら構いはしない。ともかく読書は楽しくなければ意味がないから。
 その意味においては、学校教育における国語の授業はどうかと思う。先生方にケチをつけているのではない。文科省の検定制度に問題があると僕は思っている。特に、母語としての国語の教科書の素材の決め方に思想がない。いまは現代国語というのか、現代文というのかは知らないが、昔から国語の教科書の現代文に関わることについて言えば(無論、古典や漢文についても言いたきことはあるけれど)、細切れ、キレギレのアンソロジーだから、ともすると、その限られた文章量のせいで、生涯を左右したかも知れない作家のことが、極端に言うと、嫌いにもなりかねないのである。これは、何とかしなければならないことではなかろうか。それから、世の中にはものすごい人もいるわけで、膨大な読書量を誇る国語の先生もおられるに違いないだろうが、少なくとも、僕の長年の教師生活において知己になった国語教師で、本を読まない、文章を書かない人が殆どだったのには、驚かされた。君ら、なにやっとるの?と言いたかったが、そこはとても失礼にあたることだろうから、ぐっと堪えていたのである。しかし、それにしても、僕は英語の教師だったから、英語の運用能力があるかどうか、英語の教授法が正しいのかどうか、という検証を常に受ける立場にいたわけで、たぶん、学校社会の中で、もっとも周囲からの点検の目が厳しく入るのは、英語の教師だろうな。これは間違いない、と思う。あれこれの具体的な出来事を経験した上での確信があるので。
 さて、少し年上の同僚の教師たちが結婚をして、私学の教師の給与は当時はかなりよかったので、共働きで子どもをつくらない家庭だったから、結婚後すぐに当時の不動産バブルの時代に、趣味は悪いが、大きな一軒家を買ったのである。いまの若い人は誰も知らないだろうが、ロス・インデオスというグループがいて、もう当時は、クラブまわりをするのが精いっぱいの芸能人だったが、そのうちの一人が、建てた家だそうで、無駄な空間の多い造りだった。応接間の天井には、悪趣味でヘタくそな天使の絵が描かれていて、なんともはや見るも無残としか表現のしようのない家だったが、当人たちはものすごく気に入っていた様子。家の隅々まで案内してくれた。生物を教えていた同僚が旦那だった。生物学の発展についていくのはたいへんだろうし、僕は勝手にどういうわけか、その男がたいへんな勉強家だと思い込んでいたのである。彼の書斎に案内されたとき、天窓があり、洒落たつくえがあり、それにしてもパソコンがないのは気になったが、もっと気になったのは、広い書斎の片隅に学生時代から持ち続けているようなスチール製のかなり小ぶりの本棚に、数冊の生物の、特に専門書ともいえない本が並び、後は文庫の推理小説が並んでいたので、僕はなんのテライも悪意もなく、ごく自然に、なあ、君の書庫はどこや?と聞いた記憶がある。専用のサウナはあっても、当然書庫などあろうはずはなく、彼の表情が一瞬歪んで見えた。また嫌われたかい、と嘆息したけれど、素朴な疑問は抑えようもないからね。女房は僕より8歳年上、彼は4歳年上で、子どもはいないから、いまは金銭の面からだけで考えれば、二人の退職金だけでも相当な額だし、貯め込んでもいるわけだろうから、悠々自適の老後を過ごしていることになるが、さて、果たして、そもそも悠々自適の老後などと云うものが虚妄でなく、現実として存在し得るものなのかしらん?24時間医療体制完備とやらの、安普請まる出しの馬鹿高い老人養護施設にでも入って暮らすハメになるのと違うのだろうか?銭金に執着心旺盛なお二人だったから、その落差を考えるとよけいに切ないね。
 西村賢太というエネルギー横溢な、強烈な個性の作家との出会いをうれしい、とだけ書こうとしたら、その真逆のことで埋め尽くされるブログなんてロクなもんじゃあない。毎度、ごめんなさいね、みなさん。

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○記号としての永田洋子

2011-02-08 13:35:47 | Weblog
○記号としての永田洋子
 かつての連合赤軍のリーダーだった森田恒夫を操り、実質的な実権を握っていたと思われる永田洋子が、先日死刑囚のままに拘置所で死した。脳腫瘍による多臓器不全が死因だったそうな。森田と永田は、セクト内の掟を破ったという理由で、セクトの仲間を、「総括」と云う名のリンチで、次々に抹殺していった。彼らが逮捕された後の報道によって、リンチというものの質的な次元の低さが明らかになった。というのも、「総括」は決して思想上の分裂を意味しなかったのである。また思想闘争の勝敗の結果ですらなかった。それらは、殆ど怨嗟という感情的な次元の、死刑宣告だったと記憶する。また、死刑執行に携わる仲間も、「総括」されるかつての仲間といつなんどき同じ轍を踏まぬとも限らない恐怖心ゆえの行為に走ったと思われる。逮捕後すぐに森田恒夫は留置所内の鉄格子にタオルを括りつけて縊死したから、20代で逮捕されて以来、65歳にして命絶えるまで生き延びた永田洋子を、リンチ事件の象徴的な存在として捉えることが出来るだろう。
 森田恒夫と永田洋子をリーダーとするこの過激派セクトのリンチの実態が、特に週刊誌などの報道を通じて明らかになるにつれ、世間の人々は眉をひそめて、あってはならない事件だというように締めくくった。無論、この種の思想的、実践的な問題と隔絶した理由によるリンチ事件などあってはならないし、リンチという行為そのものがまかり通る世の中であってはならない、という考え方は至極まっとうなものだ。僕だってそう思う。
 しかし、こうも考えられないだろうか?永田洋子という存在は、大罪を犯した冷酷非情な人間かも知れないが、世界史レベルでこの事件を俯瞰してみれば、僕たちはすぐに大きな権力の中で秘密裏に行われてきた粛清という名の、有無を言わせぬ死刑を想起せざるを得ないのではないか?そして、粛清と名の殺人者の数はこの世界の中には、累々として、数知れぬのである。粛清というと、ポル・ポト派の大量虐殺をすぐにイメージしがちだが、世界史の中の政治的事件としては、粛清された人々の数を認定することすら困難な、大量虐殺は何度も、何度も、繰り返されてきた人間の暗黒の歴史的行為である。スターリンは一体、どれほどの人々を粛清してきたのっだろうか?あるいは、チャウセスクはどうなのだろう?東西冷戦時代の東側諸国で粛清された人々の数など現在ではつかみようもない。東西冷戦後も、粛清が途絶えたことはない。現在の中国はどうか?北朝鮮はどうなのだろうか?つまりは、記号としての永田洋子は、粛清という政治的虐殺行為として、過去から現在に至るも脈々と絶えることなくうち続いている存在なのである。
 記号としての永田洋子の行為は、何も独裁政権下においてのみ起こる出来事ではない。東西冷戦が終わった当初、西側諸国の御用学者たちは、こぞって、資本主義の勝利だ、と恥も外聞もなく勝利宣言したものである。これこそが馬鹿げている!それでは、資本主義下における社会制度とは、多くの民にとって、安心立命して生き抜いていける世の中なのだろうか?表だった政治思想上の理由で粛清されることは、少なくとも報道上は殆ど見受けられないと言っても過言ではないだろう。しかし、自由主義的競争原理という虚妄のもと、一部の人間にしか手に入れられない情報があり、それが金融情報であれ、政治的なそれであれ、この種の情報を独占する輩が確実におり、彼らは、結局は、政治的・経済的な支配体制を構築する。富の独占も当然に起こる。大多数の、カスのごとき情報をマスコミから受け取っては、とりとめもない投資をして破産の憂き目に遭う人々、投資などという概念すらも感受できないほどに飼いならされたもの言わぬ労働者たちにとって、勝敗の行方など、レースがはじまる前から分かりきっているスタートラインに立たされる。その結果、日常のささやかな生活もままならない状況に陥ると、自ら命を断つ人々も多く出てくる。日本では13年連続の3万人を超える自殺者を出し、また、同じように西側先進国とかつては称された国々でも、多くの自殺者が出ている現象をどのように説明したらよいのであろうか?これを自由主義競争という名の、虚妄の、不平等な状況のもとにおける、緩慢なる粛清だとは言えないだろうか?ここにも、記号としての永田洋子は存在してはいないだろうか?
 残念なことに、記号としての永田洋子を超越するべき思想は、この世界のどこにもまだ現れ出てはいないのである。今日の観想として書き遺す。

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○人間性の中にひそむ悪については、無理解ではないけれど。

2011-02-07 12:13:50 | Weblog
○人間性の中にひそむ悪については、無理解ではないけれど。
 人間の中で最も始末に悪いのは、自分が善人だと思っていて、そのことに露ほどの疑いも持たぬ人々。こういう人ほど他者に害悪を垂れ流して、自分は平然としているわけで、手痛い一発くらいはお見舞いしてやりたくもなる。だから、人間性の中にひそむ悪の中で、最もタチがよろしくないのは、悪を善だと錯誤している輩たち。こういうのは、社会のさまざまなジャンルに存在するわけだけれど、特に矛盾が大きくて、罪深き人々としては、やはり宗教にたずさわる人々だな、やはり。以前の仕事では、彼らは身近にいたし、その実体もよく知っているから、これは間違いない。既成の大宗教教団でも、新興宗教でも、同じ種のことが当てはまると思う。彼らが堕落するのは、単純な動機で、やはり、金の魅惑にとりつかれるからだが、それを宗教的救済などという崇高な?価値の代償として考えるようになってしまうので、まことに始末に悪い。僕が筋金入りの無神論者になったのも、既成宗派、新興宗派で関わった人間たちの金に対する並々ならぬ執着心、出世欲、利権の独占を絶対に手放そうとしないおぞましき執念などが原因、か。
 教師時代の忘れ得ぬ事件がある。中高校の教諭として雇用されていたこともあり、だいたいは中学と高校を行きつもどりつするのだが、その子は、僕が中学で出会った才能豊かな女の子。女性が社会進出して、相当なポジションを獲得するはずの子どもだ、と確信していた。中高一貫教育などと云うが、実のところは、高校に送り出してしまうと、殆ど口を出せない。教師などというのは、集団で力を合わせていけば、かなりな教育力を持てると思うのだが、これが、なかなか至難の業なのである。ともかく人からとやかく言われるのをことさらに嫌がるのが、教師存在。難儀なものだ。この子の場合は母親が躓きのもとだった。和服の着付けの先生だと云うが、実のところはたいへんな浪費家にて、何百万もする和服をローンで買いまくる。授業料まで払えなくなって、学業を続けるためにこの子はアルバイトをするようになるが、そのバイト代まで手をつける母親だったから、やはりいくら才能ある子と云えどグレる。いつの頃からか、家を飛び出して、男の子との付き合いで憂さを晴らすようになった。すべては、後で聞いた話だが、授業料を稼ぐこと、遊ぶ金が必要なこと、そういう大枚の金を稼げるのは、風俗だ。その世界で、高校時代からナンバーワンになったそうな。10代でも何百万と稼ぐのだが、それをことごとく母親が使い果たす。たぶん、悪しき共依存の典型だったろうが、哀しきことに、卒業式を迎えて、ひとりひとり卒業者の名前が呼ばれて、席から立ち上がるのだが、この子の名前だけが呼ばれなかった。式に出ているのに、である。担任は何をしていたのか、と思うし、管理職はなにをしていたのか、と卒業延期にて、退学だとタカを括っている校長室に事情を知って、怒鳴り込んだ。怒鳴り込んで、卒業日時が延びても何とか卒業出来るように、授業料の納入の分割払いに校長を同意させて、この子に知らせ、母親も説得した。校長には母親と会うように手配した。京都市内のあるホテルの喫茶室で母親との話合いをセッティングして、この子を卒業させるための話合いをさせたのだ。
 話合いをしたはずの次の日の朝一番に、校長(坊主しか校長になれない。坊主で、イエスマンならば誰でも校長になれる宗教教団の一員だ)が、僕に報告したこと。長野くん、あの母親はイカンね。(そんなことはわかっている!)その次に出てきた言葉。イカンよ。オレがわざわざ出向いているのに、あの母親は、コーヒー代をオレに払わせたのよ、だって。足腰立たぬようにしばいたろうかという衝動をかろうじて抑え込んで、ともかく最後の授業料の支払い期日を再度確認させてから、母親に連絡をとった。母子が校長室にやって来る日時も決めた。僕も立ち合うことにしたが、その日にやって来たのは娘だけだった。彼女は意味ありげな視線を僕に送ると、やおらバックから分厚い銀行の封筒を出してきて、未払いになっている一年分の授業慮を校長の目の前の机に放り出した。アホの校長は同席していた事務職員に札を数えさせて、満額あると知って破顔し、日にち遅れの卒業証書を読みあげた。それで黙るならまだしも、社会に出てがんばるように、などとウソ八百の言葉を並べたてる。風俗で稼いできた金に決まっているだろう?よくそんな歯の浮くようなことが言えるね、テメエは。と心の中で毒づいたが、手が出ないように自分の左手で、右手のこぶしを抑え込むのが精いっぱいだった。この校長、自分の中の悪に対して、まったく無自覚。おめでたいから、これを書いているいまも、まだ校長で長生きしていると聞く。校長はなにもしないから校長になれるし、その報酬は特別職給として、月額が100万近くになるし、それにボーナスも合わせると、どれだけ生徒の授業料からぼった食ったら気が済むのかと思う。この校長を操っている理事長ともなれば、もっと格上の寺の坊主にて、せいぜい自分の寺を金メッキで飾り立てたらよい。いまどき高級外車に乗っていられるのも、こういう事情があるからだな。
 僕が学校を辞めてから、二度会いにきたか、彼女。つまらない男につかまって、その旦那になった男が、探してきたというパソコン上で上半身だけを露出して、話相手になってやる仕事。夜通しやる仕事なので、トイレにも行けず、パソコンの下にバケツを置いて済ませているのだ、と言っていた。何とかその環境から抜け出せるようにがんばったが、母親と旦那に邪魔された。可愛い女の子の母親になっていたが、その子も父親に虐待されていると言っていた。今ごろ、いったい、どんな生活を送っていることやら。自分の非力さを思い知った出来事だった。最後の最後まで力になれなかった。悔しいかぎりである。また、グチることになった。ごめんね、みなさん。

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