ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○産学協同ということすら話題にならなくなったなあ・・・。

2012-06-17 11:28:35 | 政治・経済・学問
○産学協同ということすら話題にならなくなったなあ・・・。

建前だけを論じると、それもありか、と思わせるものですが、産学協同というシステムそのものが、強固なそれ自体の思想を創り出します。また僕たちは、すでに産学協同の弊害に対して論じることすらしなくなっています。おかしなことなのです。

かつて、産学協同という、金になる研究なら、研究費を企業が出しましょう、という仕組みに対して、大学教授会などは、各々の研究の自立性、独立性が、企業への貢献ありきの思想によって、損なわれてしまうという、当然の危惧を抱いていました。世の中が拝金主義的風潮に流され、アメリカ型の大学のあり方を金科玉条のごとくに信じていた、当時の自民党政府の肝入りで、強引に産業発展に貢献する学問研究ありき、というかたちを創り上げてしまいました。

産学協同は、もともとは理工学系、及び医学系の研究分野にダイレクトに関わるものでした。確かに人類全体のための研究に進展があったことは事実として認めるとしても、金と権力がついてまわる研究に矛盾が起きないはずがありません。昨今の例でわかりやすいのは、原子力の安全性の基準を、政府や経済界からの要請で研究者たちが極端に切り下げたことなどでしょうか。勿論良心的な研究者はいますけれど、そういう人を政府内閣府は原子力安全委員会の委員長には絶対に任命しません。任命された委員長さんは、委員の発言の取りまとめなど、金の力で平気で反故にしてはばかるところを知りません。恥を知れ!と言いたくなります。福島原発のメルトダウンに関する分析も終わっていないし、メルトダウンはいまも解決不能状態なのに、大飯原発の再稼働にゴーサインを出しました。しかし、このゴーサインには学術的な意味も殆どありませんから、大飯原発の再稼働を自分の責任で執り行うという野田首相のやり方は、古めかしい原発安全神話と、どこがどう違うのでしょうか?また、自分の責任で、と言いますが、野田さんの責任の取り方なんて、たかが衆議院の解散か、自分の議員辞職でしょう。でもね、野田さんは責任の取り方として、議員辞職など考えてもいないだろうし、また、たとえ、そういうことをしたとしても何の意味もない。今回の大飯原発再稼働は、まさしく原発神話の復活そのものです。原発村として、経済的な潤いはありますけれど、根拠無き原発神話を拠り所としている原発誘致県のみなさんも目先の欲得を捨て去る覚悟を決めないと。あるいは、原発再稼働によって、日本のエネルギー供給と経済再生の役割を自分たちが担うのだ、という使命を感じておられる方々も、見切り発車の危険性を犯すと、最悪の事態に加担することになります。

さて、産学協同という思想は、研究費を調達するために、本来の研究から逸脱してしまう可能性を広げてしまう可能性大です。目先の利害に縛られるという意味では、日本の大学の研究そのものが利益を呼び込むような価値意識に縛られてしまうことになり、自由闊達な研究から疎外されてしまうことに繋がります。現にいまどきの大学の風潮はそうなってしまっているのではないでしょうか?優秀な研究者よりも、御用学者の方が幅をきかせてしまうのです。先日、高橋克也容疑者逮捕に際して、監視カメラの必要悪に対して、あるコメディアンが危惧の念を表明したところ、京大の大学院の教授(名前は忘れました。覚えているのは、悪趣味なジャケットとシャツの、どう控えめに見ても、くたびれたスジモノにしか見えなかったセンセ)が、監視カメラは、一般の市民にはまったく害のないものだ、と発言しました。いまの日本では、ニュース番組から、バラエティ番組まで、世論操作に手を貸していると言っても過言ではないでしょう。消費税増税の議論もそうでした。

アメリカ全大統領のブッシュが、テロ対策法の一環として監視カメラの増設と一般市民の監視強化をやったことは周知の事実です。その結果、個人の情報が権力によって常に監視される体制が出来上がったことになります。こういうことを知りながら、この悪趣味な服装の大学のセンセは、意図的に情報操作をしたことになるのです。こういう状況下ですけれど、一般市民として、絶望することなく、お金の力に屈しない良心的な大学の研究者が増えることを願って、この拙論を閉じることにします。

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長野安晃