ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

僕のTo be or not to be. That is the question.について

2008-11-28 23:24:12 | 文学・哲学
○僕のTo be or not to be. That is the question.について

生の可能性にほとほと限界を感じ、さてこの先、どれほどの命の長さが残されているやも分からないままに、それでも命の長さの単位くらいは特定出来る年齢である。ならば、かなりの速度で訪れるであろう自己の死を予測しながらの、限定つきの小さな可能性の中で、いったい何をなし得るのかについて、そろそろ真剣に考え詰めなければならないのだろう。まだまだ人生に大きな可能性を秘めているはずの青年の視点から見れば、人生とは長く、退屈でもあり、それでもどう生きるのか、という選択肢はいくらもあり、それらに向かって生のエナジーの炎(ほむら)を膚で感じとり、文字通りエナジーが燃焼したとき、ぞくぞくとするような感覚が体内で感じとれるような人生の、生のある季節の過ごし方を模索出来る幸福感を羨ましいと心底思う。

しかし、このような幸福感とは果たして一般論に過ぎないのであって、僕の人生などは、振り返って考え、これまでの生の軌跡をたどるのにそれほどの時間もかかりはしない。事ほど左様に、内実の乏しいもの、それが自分の生の姿である。こんなはずではなかったという後悔と、とりもどしようもないこれまでの歳月に対するいかんともし難い自己への憤怒に似た感情の発露。たぶん、ひと言で換言すれば、<つまらなさ>という表現に尽きるだろうし、日常語の慨嘆として表現するなら、<なーんだ、オレの人生、結局はこんなものだったのか!>という如何にもありふれた言葉になってしまう。自己の生の予測に抗ったつもりが、抗いの名にも値しなかった、ということが人生最大の皮肉ではなかろうか。そして何ものをもなし得なかったという、やるせなさの果てに立ち現われてくるのは、ハムレットのあまりに有名で、同時に陳腐になり果てた、<To be or not to be. That is the question.>という独白である。

いまや、残りの人生、なんとかして切り開かねばならない、という意気込みも消え失せた。さらに言えば、積極的なこの世界との断絶を肯定出来るような感性も鈍磨している。生きる可能性も見出せず、かと言って、死する覚悟も消失した僕は、ソール・ベローの「宙ぶらりんの男」の主人公のごとき存在である。今日のブログのお題は<To be or not to be. That is the question.>であり、それはまさに、「生くべきか、はたまた死すべきか、それが問題だ」という切羽つまったモノローグだが、正確に言えば、<To be or not to be. That is my ambiguous agony.>「生きべきか、はたまた死すべきか、それこそが僕の曖昧模糊とした懊悩である」というべきであっただろう。

生きることへの自己に対する信頼感の喪失、その結末たる自己否定と自己嫌悪が、想えば青年の頃から耐えることなく、自分についてまわる。勿論、青年の頃に吐き出す自己否定や自己嫌悪に関わる表現は、それ自体が否定しつつ、嫌悪しつつ、生の可能性を手探りで探索するためのツールとしての役割を果たし得た、と思う。1970年代を青年として生きた人々が、いまや老年の時期を迎えている。彼らの多くが、かつて抱え持っていた自己否定や自己嫌悪という時代の空気を、時の流れとともに自己肯定の方向に変節して行ったとしても、誰にそれを責める資格などあろうか。そのような人々を僕は認めるが、ただ、そういう人生の転換を果たせないままに、いまを生きざるを得ない僕は、いつまでも「宙ぶらりんの男」のままなのだろう。決して心穏やかではない。不安感と絶望感とがないまぜになって、僕の精神を腐食していくのを食いとどめることが出来ない。生きる目標としての、生の平衡感覚を想起することは可能だが、なぜかしら自分には到底そのような心境に立ち至ることはないのだろう、とも思う。切なく、悔しい限りだが、今日の観想とせざるを得ない。

○推薦図書「百万遍-青の時代」(上)(下)花村萬月著。新潮文庫。三島由紀夫が市ヶ谷駐屯所で、割腹自殺を遂げた頃、この小説の主人公は教護院から放逐されます。1970年を境に、主人公のあてどない精神の漂流がはじまり、世界との齟齬を感じながらも、無骨な生き方を花村は筆力の強さで書き切っています。花村萬月という作家には共感しつつ、言い知れぬ違和感を抱いてしまうのですが、物語の紡ぎ手としてはたいへん優れた人だと思います。ぜひ、どうぞ。

文学ノー卜ぼくはかつてここにいた
長野安晃

人格と顔つきとの関連はあるのだろうか?

2008-11-25 23:14:26 | Weblog
 厚生労働省の元事務次官夫婦刺殺事件に関連するニュース番組の報道を通じて垂れ流される情報の内実とは、識者?と呼ばれる人々のコメントや、政府閣僚たちや、新聞報道の論調が、政治的テロの疑い濃し、ということ一色に塗りつぶされているようであった。犯人に対するオーケストレィティドなテロリズムが民主主義に対する脅威であり、許されぬ行為である、という論難は、たぶん表層的なそれに過ぎない、と僕は数日間の報道番組を観ながら感じとっていた。識者といい、コメンテイターといい、政治家といったところで、それぞれがその仕事を飯のタネにしている人々である。迂闊なことは絶対に言えないのは分かっているが、犯人の行為を民主主義に対する挑戦である、と主張すればするほど、彼らの心の底が透けて見えてくるようで、とても興味深かった。マスコミも含めて、この事件に対するコメントを生業としている人々は、ひとまずはテロ行為であるとするなら、それは民主主義に反する言語道断なるものだ、としながらも、現代の政治の現実に対する批判の刃がテロリズムという行為によって振り下ろされたことを、ある種自己のなし得ない疑似的行為、代償行為としての位置づけをしていた感がある。被害者となった人物たちの生活が、庶民感覚から見れば神経を逆なでるような、高級官僚としての地位と報酬と絵に描いたような天下りの結果による豪奢な家を観て、腹の底になにほどかの義憤を抱かせない方がおかしなくらいなのだ。刺殺された人間に対する同情とは別に、この国が長年の間に創りあげてきた、高級官僚が国政を支配し、自らの利権を貪る体質であることに、多くの人間が大きな怒りを感じていたことに間違いはないだろう。配偶者までをも巻き込んだ殺人事件という背景が、屈折した官僚に対する憤怒の情と、人の殺害という現実との間で、論調が単に殺人事件の惨さというベクトルに傾いただけの、マスコミが仕掛けた世間に対する大騒ぎであったように僕には感じられて仕方がない。ここにはまさに建前と本音の交錯した言葉がマスコミを中心とした報道の空気の中を空疎に垂れ流された感がある。現代の生き難さを創り出した政治家たちの知恵袋としての、厚生労働省の最高権力者、最高実力者としての事務次官の殺害によって、国民年金の改悪の結末がもたらした国民の怒りという図式を、殺人事件報道の裏に読みとることは容易に出来たことだろう。
 犯人の自首による自白が明らかにされるにつけて、その幼稚な動機に、がっかりしたマスコミ関係者は多くいることだろうと推察する。30年前に保健所に連れて行かれた自分のペットの報復という、如何にもとってつけたような間の抜けた事実報道をする一方で、たぶんその影で、進学校から現役で国立大の理工学部へ入った元エリート、そして、気弱な人間だったはずの男が、大学を追放され、職を転々とする中で、気弱だった男の顔つきが、スジ者のそれとかわりなく変質している現実、気弱な人間が、ヤクザにしか出来ないような周辺住民に対する脅しや、恐喝まがいのタクシー会社とのトラブルで手にした、たぶんそれほど小さくない金額の金のむしり方をみると、この犯人の後ろには、右翼団体の後ろ盾があったことが十分に予想される暴挙の数々であることが伺われる。11/24のテレビの報道に、元長崎市長が右翼に銃撃された報道と、彼へのインタビューが唐突に挟み込まれていたのは、単なる偶然のことではないだろう。すでに警察の番付きの新聞記者たちはそれなりの事実をつかんでいるはずである。犯人が仕事もせずに食えていた事実、殺害現場の下見を8月の時点で、黒塗りの車に乗って、どうやら二人で行っていること。周到な準備と金の出所などを総合すれば、この犯行の背後には、ヤクザが表層的な右翼思想を持って、天誅という名で呼びならわされているエセ世直しの論理が働いていることは間違いないだろう。勿論、エセ世直しの所謂鉄砲玉が、この犯人の正体だろうが、エセ世直しを指示した右翼たちは、世直しと称して、当然さらに黒い存在からの資金を得ているのが、一見政治的行為と見えるテロリズムについてまわる経済の論理の匂いが濃密にして来るのは、果たして僕だけの行き過ぎた推論なのであろうか?
 大学時代の犯人の、気弱で繊細そうな顔つきが、押しも押されぬほどのヤクザ顔になり果てているのは、生活の荒みと、自分の内面をごまかさずにはいられない生を選びとった悲喜劇が見え隠れしている。そういえば、どこかの国の総理総裁の顔相も、いやらしいほどにウソが見え透いた笑みと、眉間の醜く、深い縦皺、まがってしまった口もと、どれをとってもまともなことを考えていそうにないそれではなかろうか。人格は顔つきに確かに出るように思う。醜い人格はやはり醜い顔つきになって現れるのだ、と僕は思う。今日の観想である。

○推薦図書は今日もありません。事件報道に対する単なる僕の勝手気儘な推論です。そろそろ真面目なブログを書き始めます。お許しあれ。

制度化された生からつきぬけてみようではないか!

2008-11-24 21:11:57 | Weblog
○制度化された生からつきぬけてみようではないか!

人間は、結局のところ社会という組織を存立させていくための知恵として、自らの精神を縛るという行為を成すべくして成しているようである。人間の精神それ自体としては、拘束とは正反対の、自由を希求する性質を有した存在なのではないか、と思われる。だからこそ、人は社会制度という枠組みの中から逸脱するような生き方を、時として選び取るのである。たとえそれが自らの、現世的な利益に反する行為であるにせよ、である。それを人は時として、非常識だと評してみたり、また時として、人間らしい、と評価してみたりするという、かなり曖昧な価値基準の中に放り込まれているようである。とは言え、人間社会とは、その成り立ちのために絶対的に必要な、制度という精神の縛りをかける。そしてその縛りが、時の社会の常識ともなり、良識ともなり得る。常態としては、人は制度という枠組みの中で、時の秩序を形成し、価値基準とし、それに基づいて自分に許された生の許容範囲内で、どうやら社会生活という名のもとに日常生活を送っているようである。

しかし、長い人生、絵に描いたような淡々とした生など、どうもがいても生き抜けないようで、やはりどのような安全志向型の人間にも、彼らなりの、山もあれば谷も訪れる。それが人生だ、と開き直ってしまえる人は幸いだが、自己に唐突に襲いかかってきた不幸に耐えきれず、心を病んだり、真面目であるがゆえに、かえって無茶な人生を選択し、そのために背負わねばならない苦渋を舐めるような生に転落してしまいがちではなかろうか?そもそも社会制度などというものが、国の違いによっては、常識が非常識になり替わり得るような相対的なものに過ぎないではないか。僕が保守主義者や伝統的思考の持ち主を忌み嫌うのは、自国の制度というものを価値の優劣も綿密に判断することもなく、無条件的に絶対視してしまうような無思想、思想の硬直化が、人間に本来的に備わっているはずの、価値観の異なる存在者や存在物を受容する知的・良識的な力量を極めて狭隘な世界に閉じ込めてしまう可能性が高いからである。さて、そうなれば次に生起し得ることは、このような保守主義者や伝統的思考たちを捉えて離さなくなるような価値基準の中に、自ずと自国の伝統的制度の中で形成されたあらゆる差別主義が正当化されるような思考の型が出来あがってしまうのは必然ではないか。

学校という制度、仕事という制度、結婚という制度、etc.これらの制度から逸脱した人間は、社会から逸脱したことと同義語になり、差別の対象に直結するだろう。つまりは、本来、制度という装置がそもそも兼ね備えた価値意識とは、常に社会の変化にしたがって検証されるべき対象であるべきなのである。制度とはまたその意味で、常に流動的であってしかるべきなのである。
保守主義者や伝統主義者たちは、このような人間社会が本来内包している流動性を敢えて無視する人々である。また、その一方で、保守主義者や伝統主義者が最も心動かされるのが、経済の論理である。皮肉な結果だが、日本における守るべき価値あるもの、たとえば日本の農耕文化と農産物の育成が、海外のコストの安い農産物があれば、経済の論理が優先されてしまう。日本の伝統文化が次々と破壊され、コストさえ安ければ、伝統文化など平気で踏みつぶす。経済の論理が、彼らにあっては全てを凌駕する価値観となる。したがって、真の伝統というものを破壊するのは、進歩主義者や自由主義者たちではなく、経済の論理の奴隷になり下がる保守主義者や伝統主義たちなのである。彼らこそ、制度を経済の論理の観点からしか視ない人々であり、制度からはみ出す人々は、伝統主義者や経済至上主義たちの利益を脅かす危険性があるがゆえに、社会の脱落者という烙印を押されるハメになる。京都の伝統的文化遺産とも言うべき町屋をいとも容易く破壊しつくし、経済の論理を優先させ、マンションだらけの街にしたのは、保守主義者や伝統主義者たちが支配する政治である。要するに彼らにとって、保守するべき内実とは、自らの社会的地位や財力なのである。その前にあって、本来の伝統的なるものたちは、当然のごとく経済の論理によって駆逐されていく。京都は税金も支払わない寺院が観光客から拝観料をくすねとり、拝観料が取れない無名寺院は、本来自分のものでもない土地を、かつては地域の子どもたちの大切な遊び場だったであろう空間を、いとも簡単に駐車場にして、さらなる蓄財を重ねている。日本の伝統文化を保護するどころか、安かろう悪かろうという安直な姿勢で、食料まで諸外国の目先の安いものを優先して輸入する。日本の農業が壊滅状態になるのも当然だ。漁業はどうか?これもまた経済の論理が最優先される。結果はどうか?かつての日本近海で豊富に獲れた海産物は汚染された海水や淡水のために獲れなくなった。

僕が、制度を突き抜けようではないか!と問うのは、もはや、保守主義者たちや伝統主義者たちの利権のための制度など、破壊し尽くし、破壊した上で新たな制度を再構築するべきではないか、と言ったまでである。格差社会?当然である。格差を造るのは、既存の利権にしがみついている輩が自分たちを守るために、差別主義を持ち込んでいるからである。もうこんな社会はご免だろう?そうではありませんか?

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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

ラブ・チェン(Love Change)が意味するもの

2008-11-19 11:37:18 | Weblog
 関西ローカルの深夜番組にラブ・チェン(Love Changeという和製英語のカタカタ語の略だろう)という、二組の夫婦の、お互いに相反する個性を持つ夫と妻が入れ替わるという設定の、つまらない番組が結構な長寿ものとして生き残っている。これは、主に夫の個性に嫌気がさした妻どうしが、お互いの住居を入れ替わって、二泊三日の夫婦生活の疑似的交換劇というスタイルで、番組は進行するのである。何度か観ているが、結果は最初から見えているのである。3日目の朝、それぞれ入れ替わった家を後にする際に、二人の妻たちは、それぞれの個性にしたがった表現の仕方をするが、二人ともに同じ観想を抱いて、元の古巣へと帰還するのである。つまりは、やはり、自分のこれまでの生活の不満は単なる軽い倦怠であり、それくらいは我慢出来得るものなのであり、夫に抱いていた憤懣の原因などはたいしたことはないのだ、として帰路へと向かうのである。視聴者たちも、自分たちの夫婦生活の底に澱のように淀んでいる互いの不満を、この番組を観ることによってなだめるのである。その意味において、この番組の、いつも同じ結論に達するはずのつまらなさは、長年の夫婦生活の鬱積したやるかたない憤懣の情を、別の、あるいは次元を高めた情愛へと高めることなく、互いの気分を出口なき、円環の中に封じ込める役割を果たしているのではないか?
 入れ替わった妻たちは、当然、何年もかけて出来あがった相手方の夫婦の創り出した空気の中に飛び込む。相手方の夫たちも、入れ替わった疑似的な夫婦関係の中で、なにほどか居心地の悪さを感じとっている様が見えるが、あくまでそれぞれの夫の役割は、入れ替わった妻たちが、異次元空間を味わうための素材に過ぎない。妻たちはそれぞれこれまで抱いていた結婚観なり、そこから派生してきた価値観なりと、異次元空間で体現するそれらとを比較検討する。番組の中では、食事も、さすがに入浴のスタイルまでは演出できないらしいが、一日の終わりには、相手方の夫と同じ寝室で眠る。各々の寝具で眠る場合もあれば、同じ布団の中で眠る場合もある、ことにしている。
 しかし、よく考えてみれば分かることだろうが、この番組は、ある意味においてNHK以上に保守的な思想で貫かれた存在である。言葉を換えて言えば、新たな価値意識を芽生えさせることを阻み、あくまで旧価値を是とさせるファクターで成り立っていると言って過言ではないだろう。たとえテレビ番組と言えども、その趣旨は夫婦交換の思想である。しかし、それはかつてアメリカ社会を震撼させた、「カップルズ」という作品で、ジョン・アップダイクがアメリカの旧価値を底支えしている、恋愛観や結婚観という保守的な心的要素を、主にセックスを主体とするスワッピング(夫婦交換)という素材を駆使して、価値意識の転倒の必要性をドラスティックに読者に投げかけた意識革命とは似て非なるものである。もし、そうであれば、番組の中で、相手方の夫を好ましいと思い、お互いに言葉どおりのスワップが起こり得る、本来、かなり際どい内実を含んだものである。また、そういう要素が起こり得ず、それどころか、旧価値の中に閉じこもるための、視聴者にとっては、日常から逸脱する要素をなだめるためだけの体制側の論理で成立している番組である。そういう観点から見れば、一日の収録が終わると、妻たちはたぶん番組が用意したホテルにでも宿泊しているのであろう。番組にとっては、性的な交換が起こってしまったら、それこそ旧価値を保持する役割を果たすどころか、番組の成り立ちそのものを破壊してしまうからである。これだけ性意識が弛緩した時代を迎えたのである。番組の成り立ちどおりに、事が進行していれば何がしかの齟齬が生じる可能性に満ち溢れている危険な存在であるはずなのだ。
 視聴者にとっては、たぶん他人の生活を覗き見してみたいという単純な動機が、この番組の、深夜にも関わらず、かなりな視聴率をとり得ている主な要因なのだが、しかし、それよりも深い動機は、視聴者自身の単調な日常の日々を再評価するための大切な指標にもなっているのである。たぶん、そのことに気づいている視聴者の数は少ないのだろう、と推察する。文頭で、<つまらない番組>と称したのは、夫婦交換という設定や、視聴者たちの覗き見趣味がつまらないのではなくて、この番組が潜在的に意図している保守性が、僕にはつまらないのである。ではなぜ時折にせよ、この番組を観るのかと言えば、自分自身の裡なる世界観の中に同種の<つまらなさ>が、もし脳髄に巣くっている可能性があるならば、たぶん、そのような陳腐な保守性に陥っている低次元の価値意識の点検にはなり得るのではないか?という儚い想いで、僕は何となく観るともなく観ていることがあるのだろう。誤解のないように言っておくが、一般論としては、旧価値やその思想の土台となる保守主義を全否定したいのではない。あくまで一般論でなく、自分の生き方の問題として、自己の内心の奥底には、決して保守的な思想を蔓延らせない覚悟のようなものがあるだけである。たぶん、この番組の<つまらなさ>は、自分自身の裡に同じ種が播かれてはいはしまいか、という、とても低次元のリトマス試験紙の役割が見えているからこそ、生じた観想の表現なのであろう。果たして、今日はこれくらいが、僕の思考の限界か。

○今日は推薦図書はありません。漫才師が司会をし、如何にも軽い番組の底には時として、意外に深い思想が隠されているような気がします。その意味では「新婚さん、いらっしゃい!」なども同じ資質を持った番組なのかも知れません。

「サラリーマン金太郎」の意味するもの

2008-11-15 23:23:28 | Weblog
 現代社会において、サラリーマンというカテゴリーで一括りされる職業に就いて、生活の糧を得なければならない人々は、第2次大戦後以来、日本という国の中で、初めて直面しなければならないほどの厳しい現実の前に立たされて、身動きならない状況の中にいるのではなかろうか。かつて日本が戦後の復興期を経て、高度経済成長を経験する過程で、サラリーマンたちは<企業戦士>などと称されながら、身を挺して働いてきた。いや、そのようにして働ける社会風土があったからこそ、無名の累々とした<企業戦士>たちは、社会の土台を底支えしてきたのである。終身雇用制度があった。春闘でたとえ少額であれ、賃金が上がる喜びがあった。真面目に勤め上げれば、能力に応じたある程度の出世も出来た。自分の努力が唐突に無価値になることなどは滅多に起こらないことであった。頑張って生涯同じ会社に勤めあげれば、それなりの退職金もあり、老後の準備も予測可能な時代だった。贅沢が過ぎなければ、子どもにある程度の教育を施し、庭付き一戸建ての建売住宅くらいは手に入れることが出来たのである。昭和という時代においては、その意味で、緩やかな社会主義的風土の中に包まれるようにして、サラリーマンたちは守られていたのかも知れない。勿論、現実社会における労働にはどのような社会形態であれ、厳しさも伴うが、それにしても、その厳しさを乗り越えるだけの意味が、昭和という時代には確実に存在していたことに意義を唱える人は数少ないのではなかろうか。頑張れば、努力に応じた報いが訪れる時代が、かつて確実に存在したのである。サラリーマンたちは総じて元気であった。
 さて、21世紀に突入した現代という時代性とは、どのようなものなのか?終身雇用制度は過去の遺物になり果てた。春闘などは名ばかりのお祭りに騒ぎに過ぎなくなった。さらに言えば、そのお祭りそのものが、終焉をむかえようとしている。賃金は上がるどころか、賃下げはあたりまえのことになった。サラリーマンが<企業戦士>になりたくとも、そんなことはすでに不可能なことであって、逆に、身を挺すべき企業からある日突然に首切りを言い渡される、という危険性と隣り合わせの、崖っぷちに立たされた毎日なのである。リストラは日常語になった。果たして定年まで同じ企業に勤められるかどうか、全く見通しが立たなくなった。建売住宅のローンが支払えず、持家を手離す悲劇と、持家を喪失しても、ローンだけが残る残酷な現実が眼前にある。老後の保障など、800兆円に上る国債発行に頼らざるを得ない、国の実質的な経済破綻を前にしては、空想することすらむなしくなった。職場は当然のことのようにギスギスとした空気に覆われ、人間関係は空疎になり、サラリーマンたちは総じて、鬱病の危機と直面している。
 サラリーマン金太郎というテレビドラマには、かつて日本人が生きるために必然であった価値観がふんだんに込められている。古き良き時代の旧価値の詰め合わせと言って過言ではない。主人公の金太郎は、凡庸なサラリーマンという職業にありながら、仕事を成し遂げることと、人間としての正義を行使することが同義語であるような個性として、描かれる。彼の中にあっては、サラリーマンの仕事は、そのまま豊穣な人間性の快復の行為なのである。己れの仕事は、常に人情厚き上役に理解されている。その様は、任侠道の世界から現実的な経済的な論理を抜いて、漂泊したごときの、<強気を挫き、弱気を助く>の論理で貫かれている。金太郎の正義は、正しく上司から評価されるのであり、同僚からも尊敬の的となり得てもいる。正義を貫くためには、悪を挫くための暴力の行使も厭わない。経済的論理だけに支配されたヤクザなどは、金太郎と直面すれば、駆逐されるだけの存在に過ぎない。金太郎は女にモテモテだが、しかし決して女たらしではない。彼には男が無慈悲に女を泣かせるような要素は微塵もない。あくまで男の論理には違いないが、それなりのけじめを貫く人間である。金太郎という男気に惚れぬいた仲間が、危機に瀕した金太郎を、命がけで守ろうとする。それがサラリーマン金太郎という、現代の、すでに喪失された価値意識を奪還するべき存在として、敢えてこの世界の、最も凡庸で誰もがなり得るサラリーマンの、仕事の行使のプロセスで、獲得していくのである。この点において、サラリーマン金太郎は、ただのサラリーマンでありながら、同時に英雄的存在でもある。現代日本における英雄復活は、アメリカのようなスーパーマンの姿を借りることなく、むしろ平凡さの中に限りなく降り下っていくように、最もありふれた職業人として、ドラマの中に立ち現れる。かつてのドイツ国民は、迷走の果てにヒトラーという怪物を求め、21世紀という夢のないこの日本という国では、英雄願望が、果てしなく凡俗なただのサラリーマンとして結実するのは、とても好ましいことではなかろうか。サラリーマン金太郎は、その名のごとく、いつも真っ赤な金太郎の前ダレのごとく、真っ赤なネクタイを締めているのは作為ある演出なのだろう。それがまた白々しくもあり、白々しさも徹底すれば、それなりの意味を持つということでもあろう。今日の観想である。

○推薦図書「才能が目覚める男の生き方」里中李生著。三笠文庫。決して深い洞察に満ちた読み物ではありませんが、ある意味実学的な才能開花論です。この書で元気になれそうでしたら、ぜひテレビドラマの方もどうぞ。

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生まれてきてすみません!

2008-11-13 20:40:52 | Weblog
○生まれてきてすみません!

と、太宰治は有り余る才能の一端を「人間失格」という作品の中でこのような言葉の横溢によって、披歴して見せたのであって、それと比較の対象にもなりはしないにしても、僕などは、何の才能も持たず、人生において何ものをもなし得ず、行き着く果てなどは、哀れな末路であることもよく諒解しているわけで、むしろ太宰の作品などには、何の共感も得ることがなくなった。太宰という作家は、まだ自分の才能も見えず、暗中模索している青年にこそ、あの自虐的思考が、逆に自分の人生に前向きに立ち向かわせてくれる要素にもなるのであって、お先真っ暗、その真っ暗闇の内実もかなりな現実感をもって実感せざるを得ない凡庸な人間にとっては、「生まれてきてすみません!」は、敢えてイクスクラメーションマークをつけておくが、文字どおり、この世に生を受けながら、何の存在理由も明らかにすることなく、真近に迫った末路を迎えんとする哀れな人間の最期の雄叫びのようなものである。明滅しながらの、生の寸断を自覚している人間にとって、せめて最期の雄叫びくらいはあげる権利もあるのではなかろうか?だって、それ以外に、何も出来ないんだから。

想えば、つまらない人生を送ってきたものだ、と思う。人生、長いようで短い、などとよく耳にするが、これは言い得て妙なのであって、やがて訪れて来るであろう自らの末路を前にして、これまでの人生を俯瞰してみると、なんともあっけなくその全てが瞬時に掌握出来てしまう。情けないこと、この上ない。何度も人生、生き抜いて見せるなどと強がってもみたが、僕のごとき存在では、生き抜く、とは単なる生命体としての存在が、こと切れるまで、息をし、飯を食らい、脱糞し、多くの人間にとって不可欠な地球資源を無意味に浪費する期間を長引かせるだけのことであり、これほど他者にとって、迷惑千万なことはなかろう、と思う。

昨夜だったか、鬼籍に入った筑紫哲也の特番があったので、観るともなく観ていると、筑紫の業績は当然立派なものだが、僕が胸打たれたのは、彼の長男がいかにも父である筑紫のことを尊敬している様であった。彼の言葉の中の筑紫は、まごうことなき己が人生の模範になり得ているのであって、これはまことに凄いことではないか、と参った。筑紫哲也という優れたジャーナリストならば、決して世に言う、家庭的な?父親であり得た時間など殆どなかったはずである。私的な時間をほぼ持ち得なかったであろう筑紫は、やはり自らの生きざまで、我が息子に生き抜く意味を教えたのだ。大いに尊敬する。
 筑紫哲也と比較すること自体がおこがましいが、やはり筑紫の息子の語る姿を見て連想するのは、自分の二人の息子のことであり、息子の居場所を絶対に知らせて寄こさなかった、かつての女房が筋金入りの厭味な女であることは間違いないが、それにしても、偶然にせよ下の息子の消息は、インターネットで知ったわけで、その息子の勤め先の小学校に二度手紙したが、予想どおり何の返答もない。憎まれているなら、それもよし、なのだ。せめてどのような内実であれ、返信くらいは寄こせるほどの常識があってもよさそうなものではないか。25歳の男だ。これでほんとうに、モンスター・ペアレントたちが横行するような、現代の小学校教諭が勤まっているのか、はなはだあやしいものである。離れて以来、居所も知らされずの、7年間だった。その結末がこれなのか。子育ても全くの失敗である。要するに、己れの仕事に対する安逸な構えが、息子たちの生活に安逸を与えただけの、これが無残な結末であろう。全ての責任が自分に跳ね返って来る。

男として生まれた限りは、子どもに対して自らの生きる姿勢を通して、未来のあるべき姿を見せてやれなければ、父親失格であろう。いや、その前に人間失格である。この場合における人間失格とは、太宰における作品の内実とは似て非なるものである。僕にとっての人間失格とは、自分は何のためにこの世界に生を受けたのか、という本質的な自問の答えとしての、明瞭なる否と同義語である。僕がかつて青年の頃に、自己否定あるいは自己嫌悪という概念性が流行したが、それは凡庸なる精神性を一旦捨て去って後の、自己再生の可能性を秘めた、ある種の生に対する希求を意味したのではなかろうか?たぶん、僕の裡なる自己否定感あるいは自己嫌悪感とはまさに片面の真理の実践でしかなかった代物であり、自己再生の可能性を捨象したものではなかったか?
 この年齢まで生き永らえたのは偶然の産物であり、僕の生のプロセスにおいて、今日に至るまで、自己再生という体験は一度たりとも訪れはしなかった、と正直に告白しなければならない。経験知としての自己否定や自己嫌悪は常に僕に襲いかかってくる。その度に僕は生と死の狭間まで突き落とされるハメになり、生の果ての果てから立ち戻ってきたとしても、そこに自己再生という新たな可能性は芽生えることはなかったと思われる。これが僕における人間失格者としての定義である。生きていく限り、自らの生に光が射す可能性はなきに等しい。果たしてそれでも生き抜く価値があり得るのだろうか?答えはもう出てはいるが、断言するにはいまだ意気地がないだけのことである。今日の観想とする。

○推薦図書「負け犬」志水辰夫著。講談社文庫。生き急ぎ、駆け抜けてきた生しか生きられなかった人生を振り返ったとき、確かめずにはいられない「過去」が浮かび上がって来るものです。志水のこの作品集は、このような切ない心情を小説という物語の形式の中にギュッと押し込めたような優れたものです。お勧めの書です。ぜひ、どうぞ。

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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

生き抜こうとは思うけれど、この世の中って、本当に生き抜くだけの意味があるのかしらん?

2008-11-11 21:04:46 | Weblog
 もう十分過ぎるだけの挫折と絶望の繰り返しで、何度も生きる意味を喪失した身としては、何となく辛抱していたら、すでに人生の大半を空費した感があり、ええい、もうこうなれば生き抜いて、自分の人生の果ての果てまで見極めてやれ、という、かなりな居直りのもとに世界を眺め返してみれば、何となくそれなりのおもしろみも分かるようにはなった。でも、それはあくまで結果論なのであって、決して自らが選びとった生の選択肢などではないので、もういまとなっては、厚顔を貫き通すしかないわけである。  55歳にもなって、やっと分かるのだけれど、人生って、かなりな部分、偶然性によってもたらされた要素の寄せ集めを、なんだかんだとこなしていくプロセスで、寄せ集めの中のお気に入りの要素のいくつかを、生きがいなどと称しているのではなかろうか?まあ、僕らの年齢であれば、世の中まだまだ戦後民主主義という、ある意味、薄い社会主義的な共同体という幻想の中で守られていたわけで、政治的右翼などとは公言出来ないくらいに、左翼思想がもてはやされていたように思う。当時の大思想家たる丸山真男も現代においては何とも軽い評価でしかないではないか。あるいは殆ど忘れ去られた感さえある。戦後の日本に、軍国主義を再び呼び起こさせないためにアメリカの肝入りで創り上られた日本国憲法に異議を唱えたいはずの、戦前の旧価値を信じる人々もなりを潜めていた感がある。それだけ当時の若者にとっては、未来に対しての夢想も容易に抱けた幸福な時代でもあった、と思う。日本国憲法の第9条や第21条や第25条などは、世界のどこの先進諸国も憲法の条文には掲げられなかった、人間が存在するという意味合いにおいて、とても重要な意味が含まれている。ただし、この陰には、戦後も長きに渡って、沖縄がアメリカの支配下に置かれ、戦後日本の犠牲になっていたことも絶対に忘れてはならないことだろう。この世界、誰かが幸せであれば、その裏で、その幸せを享受している人々の犠牲になっている人々が間違いなく存在する、という酷薄な現実を認識する必要があるのは当然のことだろう。このような真実を理解しようとする意思が人間としての最低限の誠実さだ、と僕は思う。
 昭和という悲劇と悲劇からの解放の時代を通り過ぎ、平成という訳のわからない、労働者切り捨ての時代としての21世紀になり、終身雇用制度は過去の遺物と化し、平気でリストラという首切りが罷り通る非情なこの国は、11年間連続の自殺者3万人を超す自殺大国として、所得格差が広がり満足に生活も出来ない人々から順番に、この国は切り捨てるような無残な結末を迎えている。所得格差が広がっているというのに、全納税者一律に6万円ものバラマキ給付を行うのだ、と政府はのたまう。なんでやねん?と疑問符の一つも掲げたくもなる。この金も税金からの支出だ。麻生のボンボンは、3年後には消費税を13%に増やすと宣言した。もうアホか、と言いたい。さらに絶望的なのは、この国の国民とやらの、麻生のボンボンが組閣した内閣支持率が上がっていると言うではないか。なんでやねん!とまた僕はつぶやくことになる。(さらに言うと上記の給付金の内実もすでにこれを書き終わった時点で変わっているそうな。消費税率もどうなることやら。いずれにしても数値の変更の必要性も無意味なようなので、このままにしておくことにする。)もうこの日本という国は終末を迎えようとしているのではなかろうか?アメリカでは、あれだけ黒人差別の強かった国なのに、47歳という若き、アメリカ史上初めての黒人大統領の誕生である。スローガンはチェンジだ。たとえウソでも夢がある。麻生太郎の率いるアメリカ様さまの日本など、政策の脆さゆえに、当のアメリカに置いてけぼりを食らうのは目に見えているではないか。
 日本のみなさん、もっと真面目に自分たちのための生活のことを考えませぬか?そうであれば、麻生内閣支持率アップという現象はどう考えてもおかしいではありませぬか?それでも僕は命ある限り生き抜きますよ。でもね、ときおり、こんな国とは縁が切れるなら、すぐにでも切り捨てたいとも正直、思っていることも偽らざる事実なので、そのことを告白して、今日の観想として書き遺しておきましょう。

○推薦図書「退屈の小さな哲学」ラース・スヴェンソン著。集英社新書。この書は以前に紹介しましたが、こんな国に産まれ落ちた人間の一人として感じることと言えば、生きていることの馬鹿さ加減に飽き飽きして、その後に訪れるのが、どうしようもない退屈感です。人間の退屈感や倦怠感についてまともな論考を追求したのは哲学者としては、ハイデガーくらいですが、この書は文庫本のくせに、憎いほどに人間の抱く本質的な退屈感というものに果敢に取り組んで、成功をおさめている小さな書です。この書の題名にある「小さな」は、決して小さなものではなく、深い洞察にとんだ考察です。ぜひ、どうぞ。

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人と人の関係性ってどうなっているの?

2008-11-10 03:26:30 | 観想
○人と人の関係性ってどうなっているの?

ええ歳こいて、こんなことを書くのはまことに気恥かしい限りなのだが、近頃とみに人間関係というものに対して、これまでの人生の過程で大きな思い違いをしてきたのかも知れない、とつくづくと胸に沁みわたるような感じがして、またその感覚が心地よいものであれば、何も問題はないわけだし、ここに、こんなふうに書き綴ることもなかろうに、と思い、それでも書き記したいという欲求が残るのは、書き遺す内実が自己の人生における大いなる思い違いなのかも知れぬという怖さを承知しつつも、やはり僕自身の馬鹿さ加減も含めての生の総括ではないか、といういささか開き直りに近い気分が強く内心に疼くからに他ならない。
 たぶん、僕の裡なる人間関係という概念性は、確実に大人のそれではない。というよりも、大人の付き合いとは何ぞや、と常々思っていたし、確かに表層的な人間関係を含めると、大人のそれはある程度の広がりを持つものだろうが、どうも人生の大半を空費した人間であるにも関わらず、他者との関わりにおいては、青年の頃の、稚拙ではあっても、掛け値なしの思い入れで成り立っているような、深くて、濃密なるものを、いや、そういうものだけを求めて生きてきたような気がしてならない。だからたぶん、僕と同じだけの生を生き抜いてきた人々ならば、お互いに友人とか、知己であるとかという定義が、かなり広いものになっているはずなのである。またそうでなければ、人はまともな生活環境を整えことは出来ないだろう、と思う。生活の知恵とはよく言ったものである。

間違いなく僕には、この種の生活の知恵というものがまるで欠落しているように思う。だからこそ、つまらない、浅い人間の関係性などになにほどの興味もないし、そのような環境の中に身を置いていると、寒々とした感覚につい、襲われてしまう。とは言え、前記した生活の知恵というものの存在も馬鹿には出来ないのであって、僕のような感性で生きていると、自己の内面で完結してしまった、濃密なる他者との関係性を永遠のごときものと夢見てしまうことがしばしばであり、かたや当然のごとく他者をとりまく環境というものは変わるのであって、それに従って他者の意識も変化していき、他者の僕に対する言動も確実に変質していくのである。またこれが自然な人間の関係性なのかも知れない。いや、きっとそうなのだろう、と思う。それゆえに、人は出会い、別れていくのであろう。そして、この出会いと別れが、生活の知恵という日常的な思想の力によって脳髄の中で自然に整理され、整頓されて、過ぎゆく過去は記憶の彼方に葬られ、新しき出会いによる人間関係が、主な関心事となり得るのではなかろうか?実によく出来た精神構造だと感嘆するが、なぜか僕には、こういう人の入れ替わりが過不足なく脳髄の中で行われ、認識されるような心性というものを認めたくはない、という想いが支配的であり、これはかなりあやしいエセものではなかろうか、とも思うこの頃なのである。

人間社会における暗黙の了解事項に対して疑問を抱いたその瞬間から、人は他者との距離感を感じてしまう。他者とさらに濃密な関係性を望んでも、当の他者の方から立ち去ってしまう。表層的な人間関係ならば、敢えてそのような関係性など断ち切って差し支えないという覚悟はあるが、同時にそのような覚悟をした瞬間から、底なしの孤独感の中に叩き落とされる。それでよし、と思うが、時折発作のような寂寞感に見舞われるのは、たぶん自分にウソをつかないことの副作用のごときものか、と諦める。

生きるとは随分と多面的なものだと思うが、こと、人間関係という問題についての僕なりのスタンスが、時折襲い来る孤独という猛毒のごとき苦悩を伴うにしても、その苦悩の底を這いつくばって生き抜いてやろうかと心を定める。たぶん、見たくもない真実をも見てしまうのかも知れないし、それが自分の心を抉るような傷となろうと、敢えて避けられないのであれば、それらの深く切り刻まれるようないくつもの傷を心に刻みつけて生き抜いてみたい、とも思う。孤独な無意味で、不条理な自分一個の闘いである。これからも闘い続けてやろうではないか。今日の観想とする。

○推薦図書「生きる勇気」 パウル・ティリッヒ著。平凡社ライブラリー。僕の書いた内実は、詰まるところ、人間の存在と、存在するための勇気に関わる考察の断片です。その意味で、この書は存在論的哲学論考のおさらいとしてはもってこいのものでしょう。ぜひともどうぞ。お勧めの書です。

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長野安晃

思想の柔軟性は、持続的な知的訓練によってしかなし得ない、と僕は思うんだけれど

2008-11-08 01:21:07 | 哲学
○思想の柔軟性は、持続的な知的訓練によってしかなし得ない、と僕は思うんだけれど

かつて心理学者の岸田秀が看破したように、<人間とは、本能の壊れた動物である>という視点は、どうも正しいことのように思う。人間は、知性を持ち、知性を媒介にした文化を持ち、文化的背景を反映させながらの文明というものを手にしたその瞬時から、まずは肉体の強靭さを喪失し、現代においては文明病ともいえる成人病の罹患率がますます高まりつつあるし、それだけならまだしも、なかなか意識化出来ないのが、知性の衰退現象なのである。たぶん肉体の衰えに関する危機感は、健康診断への異常なほどの傾斜や、ガンの早期発見、早期治療とやらの過剰な宣伝や、昨今では流行語ともなり得たメタボ(メタボリックシンドローム)への、これまた異常な関心の高まりなどが横行しているところを見れば、人は遅ればせながらのエクササイズに励むことは必然の結果だろう。ただ、真夏の太陽、ガンガン照りの中を、ゼロゼロ言いながら走っている中高年の姿を目にすると、なんとも盲目的な、見通しのない肉体の苛め方だ、と思わざるを得ない。あれでは突然死もあり得るだろうに。あるいは健康さえ害するだろうに、と僕の横を走り抜けていく、汗でベッタリと背中に貼りついたTシャツを見ると気の毒になる。おい、おい、それって身体に悪いだろう!って声をかけたくなってしまう。広い意味で言うと、こういう身体の鍛え方?も知性のなさ、あるいは思想の硬直化の現れと言えるのではなかろうか。

さて、本題に入る。今日の思索の対象は、純粋に思想のありように関する考察である。異常な健康志向などは、次元の低いところから派生してくるフリンジのごときもの、と考えればよい。もし、人間が、知性を有した生物体として、本能の命ずるがままに生きていけるのであれば、岸田は、わざわざ人間に対して、本能の壊れた動物などという定義を下さなかったであろう。つまり岸田は、人は知性を有したが故に、本能の持てる才能を自ら壊したし、さらに言うなら、知性主義という獲得し得た<本能>すら、自ら壊しにかかっている、というのが僕の見解である。人は知性というものに憧れながら、その一方で、知性というものの本質から確実に逸脱していく存在である。これを、知性を獲得した人間の本能の壊れと称してもよい。したがって、人はかなり意識的に自らの知性を磨かなければ、知性そのものが摩耗してしまう。摩耗した知性とは、単なる日常生活における利便性を追求できる程度のそれに過ぎなくなる。パスカルが、<人は考える葦である>と定義した人間像は、現代においてはすでに過去の遺物になり下がっているように思われる。

現代における<考える葦>とは、あくまで21世紀というどうにも生き難い世界の只中を、強靭な知性に磨きをかけ、少々の失敗を恐れず、乗り越え難き壁に直面してこそ、生きなおしのためのエネルギーを体内から絞り出せる胆力がにじみ出て来るような存在でなければならない、と僕は思う。それこそが、21世紀における<考える葦>たる人間の存在理由である。鍛え抜かれた鋼(はがね)も捨て置かれ、雨風に晒されるままにしていれば、当然のように錆びついて腐りゆくだろう。人間の知性も、繰り返しになるが、磨きをかけなくなったその瞬間から、頽落がはじまるのである。人間から考えるファクターたる知性が喪失してしまえば、人は知性をもったが故に<本能の壊れた動物>と、岸田は称したが、それは言い直せば、生命を維持し、生きる活力を与えてくれる動物の、本能的に有する生きる力を喪失した、脆弱で、歪曲した精神の抜け殻だけが残るだけのことである。現代の病める知性とは、生きる力を喪失した、自立とは程遠い、依存心と負け犬のごとき性根をしか持ち得ない人間のイメージである。病める知性は、病んだままに死にゆくのか?あまりに惨めではないか!現代を生き抜くために立ち上がれ!そして、そのために僕たちは21世紀の<考える葦>とならねば、どうして生まれてきた甲斐などあり得ようか。

人が<本能の壊れた動物>であっても構いはしない。そのこと以上に大切なことは、壊れた本能ゆえに獲得した知性という、生きるための最も有効な武器を自ら壊してしまうような、脱知性主義を横行させないことである。知性の頽廃、あるいは精神の頽落からどれだけ人は自由になり得るか、それがいまの僕の最大の関心事である。そして願わくば、僕たちは本能を犠牲にした末に獲得した知性に磨きをかけ、生の可能性を広げていきたいものである。知性を論じながら、論理が飛躍していることを認めざるを得ないが、これがいまの僕の筆力であるならば、稚拙さを晒してもなお、やはり今日の観想として書き遺しておきたい、と痛切に思う。

○推薦図書「路上」 ジャック・ケルアック著。河出文庫。とても無骨ですが、アメリカのビート・ジェネレーションの代表格の作家としてのケルアックの作品には、行き場のない、剥き出しの知性が噴き出してくるようです。知性に生きる力がみなぎっていた頃の作品として楽しんでください。しかし、ケルアック自身は有り余る生のエネルギーゆえに、命を縮めた感があります。生の皮肉を感じはします。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

アメリカ大統領選は、世界政治・経済の大きな転換期だということを日本人も認めないと…

2008-11-06 03:01:20 | Weblog
 アメリカ大統領という言葉で思い出すのは、高校一年の頃、J・Fケネディの暗殺の後にケネディの記念切手が発行されたので、郵便局で並んで買ってうれしそうに学校へ持って行ったときの、英語教師の憐れむような顔だった。その頃の僕はケネディがアメリカ合衆国における偉大な大統領であり、黒人の公民権運動に対しても積極的であり、何一つ申し分のないはずの大統領の暗殺という事実に、かなりなショックを受けていたのである。問題の切手を見せに行った英語教師を僕は尊敬していたし、僕の想像の中では、彼に褒められるイメージしかなかったのである。その頃、ベトナムへのアメリカの軍事介入が本格化し、その後のアメリカの完全なる敗北に導いた、あのベトナム戦争の発端をつくったのが、当のケネディだった、と彼に切々と聞かされて、正直愕然とした。ケネディは、彼の話によれば、暗殺されるまでの数年間に、軍事顧問を数千人単位で、ベトナムに派遣していたらしく、例のごとくアメリカが世界の民主主義を守るなどという傲慢な大義名分を無理やりこじつけて、ベトナムから共産主義を排除する目的のために、かなり積極的な関わり方をしていたらしい。
後で自分でも調べてみたが、やはり事実だった。いわば、ベトナム戦争の道筋をつけたのが、ケネディその人だったということになる。政治とは酷薄なものだなあ、とつくづく考えた。アメリカの公民権運動の最大の指導者、マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺され、彼を支えていたはずのケネディも、アメリカ大統領という地位に昇りつめた者が直面せざるを得ない、世界の民主主義の擁護者としての自国の傲慢さの表現、その裏に隠された、世界を牛耳るアメリカ経済支配の欲求からはついに自由にはなれなかったのだ、と思うと、政治に対する不信感も募ったが、人間の暗い欲動に対する深い絶望感があの頃の僕を支配したおセンチな感情である。
 今日の、アメリカの大統領選挙におけるオバマ氏の圧倒的勝利は、すばらしいことだとは思う。あれだけブラックアメリカンに対する差別の強い国民が、国の代表者にブラックアメリカンのオバマ氏を選んだのである。かつて、アメリカは、ホワイトとカラードという差別主義を自国で貫いてきた国である。公共機関であるバスに乗っても、黒人は同じ料金を支払っても、白人に席を譲ることが義務づけられてきたし、レストランもトイレも黒人だけでなく有色人種と白人種とを差別するのが当たり前の世界だった。それが世界に冠たる民主主義アメリカの実態だったのである。そして政治的には強烈な反共主義。共産主義をぶっ潰すためには、世界のどこにでも出かけていく。経済的には特に強欲で、自国の利益のためならば、平気で他国の政治にも口を出す。新たしいところでは、石油の支配を邪魔されそうになったイラクへの軍事介入だったし、それ以前は湾岸戦争で、イラクのフセイン元大統領を散々痛めつけた。いまや、フセインもアメリカの肝いりの軍事裁判で絞首刑になり、鬼籍に入れられた。フセインがイラクという一国の独裁者であったことは事実だが、それではアメリカという国は、民主主義という衣を着た世界の独裁者である。特に経済的には専制君主並みである。金になることなら、何でもやる。戦争も辞さない国だ。  オバマ氏は、アメリカ史上最初のブラックアメリカンの大統領である。確かに時代の変化を感じはする。アホウのブッシュ前大統領のこれまでの数えきれない失策の後始末に当面は追われることだろう。アメリカ国民の大半は確かに変革を望んでいるのは事実だ。しかし、実質的にアメリカ経済を牛耳っている輩はどうだ?オバマなど一刻も早く暗殺したがっているだろう。また彼が暗殺を逃れたとしても、経済界からの締め付けは否応なくオバマ大統領の施策の実現をことごとく潰しにかかることは目に見えている。テレビで観る限りにおいては、オバマ大統領は確かに行動力がありそうだし、ブッシュのような失態を演じることはないだろうが、もう一方で、自分の理想と現実の平衡感覚をうまく保ってもいける人物のように見てとれる。だからこそ、かなりな現実主義者であると踏んで間違いはないだろう。そうであっても、どこぞの経済・外交音痴の国の、世襲制にすがった人間ばかりが議員様になり、かつての優秀な宰相の孫であるということだけで、首相になりおおせているような小国は、オバマ大統領にまともに相手にされるかどうか?かつてのアメリカ様さまだった日本が、アメリカ自体の変化についていけるものかどうか、あやしいものである。オバマ氏には、くれぐれも暗殺などされぬようにしてもらって、彼の後を、遅ればせながらも細々とついて行くことが出来ればこの国はまだいい方だ。情けない前途しか見えてこないが、いまはオバマ大統領の誕生をとりあえずは歓迎したい。今日の観想である。

○推薦図書「アメリカの大統領政治」 花井 等著。NHKブックス。テレビでは訳もなく華々しく報じられるアメリカ大統領選ですが、その実態を案外日本人は知らないのではないでしょうか。大統領選挙のあり方もこの書は分かりやすく解説していますが、アメリカの政治システムに関する分析もかなり分かりやすく解説したものです。アメリカの絶大な影響下にありながら、アメリカの政治の実態が分からないのではお話になりません。どうぞ、この機会に。

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グロテスクについて考える

2008-11-04 23:14:01 | 文学
○グロテスクについて考える

グロテスクという言葉を最初に聞いたのは、もう何十年も昔の、英米文学の有名どころの著者のアンソロジーをテキストにした、英米文学の入門期の講義を大学で受けた頃だったと記憶する。あの頃の、僕の通学していた大学の英文学科では、文芸評論で言えば「ニュークリティシズム」(新批評)という、東部イスタブリッシュメントに対抗するアメリカ南部の一大文芸批評運動の影響が、何年も遅れてまったりとしたスピードで、京都の二流どころの大学の英文学科の講義に反映された結果の出来事だった。僕の記憶に間違いがなければ、たぶんそういうことで、グロテスクという概念が僕のうちに入ってきたのであろう、と思う。

勿論、日常語で一般的に使うグロテスクという言葉は、視覚的な醜悪さを表現するための言葉であろう。しかし、文学におけるグロテスクという概念は、日常性の中で、何気なく、何の疑問もなく、とりおこなわれる日常生活者の言動の中に潜む非日常性、そしてその非日常性の持つ意味は、日常性の側からみると何の変哲もなく、見過ごされる性質のものである。しかし、その実、日常で生起する事柄の奥底にどんよりと横たわっている不可避かつ不可思議な、避けがたい存在なのである。つまりは、日常生活者たちが、普段通りに生活をしているという何の変哲もない出来事の中にこそ、人間存在にとって避けることのできない醜悪さが息を潜めており、それをグロテスクと呼んで差し支えないであろう。

小説作品の中に繰り広げられる世界像とは、日常生活に起こり得ることばかりであるが、人々がその日常性の中に埋もれていると、美的なものは多少なりとも、世間知の常識の範囲内で起こることがあるために、それを美的なものとは感じずとも、人の心を揺り動かすことも可能であろう。しかし、その一方で、人は日常生活の中に生起する醜悪なる現実には目を背けてのうのうと生きる傾向があるように思われる。たぶん、自己の思想のありように関する問い詰めを敢えてせずとも、飯を食らい、排泄し、飯のタネになる仕事をし、情緒的には善人を気どることで、危うい日常的平衡感覚を保っているのが、大多数の日常生活者たちの生活の本質ではなかろうか?このような本来はのっぺらぼうな人生に意味を持たせ、凡庸なる精神には想像もつかないほどの思想化を、小説空間の中で構築する一握りの才能ある人々がいる。自らが凡庸な日常生活の中に身を置きながらも、その只中で単なる日常を、非日常の世界たる芸術の次元にまで高める思索を絶えることなく表現し続ける人々こそ、創作者である。いまは創作者の中の小説家だけを素材にして語ろうと思う。

小説家が、日常生活の中から拾い出す人生の様々なエッセンスこそが、小説世界における芸術性の発露たる物語性である。日常性を物語という世界像の中で表現することによって、生活者たちが見逃しているさまざまなファクターが明確なカタチを持って描かれる大きな可能性が出てくるのである。日常生活者たちが、意識的か無意識的かは別にして、見逃してしまうものこそ、日常性の中に抗い難くついてまわる醜悪さ(グロテスク)である。人の自然な習性とは、醜いものを避けて、美しきもの、心地よきものだけを生活の現実の中からすくい取ろうとするごときものである。しかし、これでは人間の存在の片側しか捉えきれないことになる。美の次元の問題には、凡庸な人々にとっては、美的なものが心地よいがゆえに好んで反応する。が、その正反対に位置する、人間が存在する上で、避けることの出来ない、グロテスクな生の本質をすくいとって、日常生活者の眼前に突き付けることの出来ることが小説家の役割である。生における美と醜とをくみ取ってこその人生ではなかろうか?美よりは、醜の方が認識しづらいのであれば、醜を認識し、それを芸術の次元にまで高めることで、小説家こそが、生活者に醜を見極めさせる勇気を与えることが出来るのではないか?

このようなグロテスクを認識する文芸評論の一大運動が、得てして裕福なアメリカ東部イスタブリシュメントには真似出来なかった方法論を、文学運動としては当時異端だったはずのアメリカ南部の知識人たちが起こし得たのは、ある意味において、自然な流れであったようにも思う。遠い過去の出来事としてのグロテスクとの対面は、少なくとも僕に人生の意味の深淵さを教えてくれた感がある。そしてそれ以降、僕はたぶん自己の人生の中から、グロテスクという要素を隠蔽することなく生きてきたと思う。少し自己満足が混じってはいるが、今日の観想としたい。

○推薦図書「現代アメリカ小説」 マルカム・ブラッドベリ著。英米文化学会翻訳。彩流社。単なるアメリカ文学の鳥瞰的な解説書ではありません。意外にみなさんがアメリカ文学に馴染みがないのは、時代の流れとともに、たくさんの作家が優れた作品を書き遺していますが、残念ながらそれらが単なる文学史の枠内に閉じ込められているからです。この書は、優れた作品の解説に終わることなく、ヨーロッパの文学とはひと味違うアメリカの、少し粗野ではありますが、それだからこそ大胆に物事の本質を抉ることの出来るダイナミズムを持っていることを教えてくれる良書です。ぜひ、どうぞ。

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長野安晃

生き生きと生を生き抜くために

2008-11-03 01:42:04 | 哲学
○生き生きと生を生き抜くために

自分でも制御不能な脱力感に苛まれるほどの、精神の袋小路に追い詰められたとき、人は極端な二者択一の選択肢を選ばざるを得ないかのごとく、考えあぐむ。それは、更なる不可能性の中に敢えて飛び込むか、あるいは不可能性の只中で、居直ってしまうかのいずれかの道筋である。

いずれの選択肢がより良いものなのかは分からない。ただ言えることは、前者の場合、少数の、哲学的思弁の能力に恵まれた人たちは、更なる不可能性を、生にまつわる不条理という概念性と連結させて、新たな哲学的地平から世界を眺め直すことも出来るであろう。しかし、その一方で、大半の凡庸な知性では、更なる不可能性に直面することは、すなわち己れの生の不可能性と直面することと同義語である。すなわち、もし自己評価から自分の知性の次元が熟成したものでないと判断するなら、その時点で更なる不可能性へと分け入ることは諦めた方が無難である。待ちうけているのは自滅という結末しかないからである。ならば、僕をも含めて多くの凡庸なる精神の持ち主たちのとるべき道筋とは、生の袋小路に追い込まれたとき、それがもたらす生の不可能性の真っ只中で、居直ることでしかないのではなかろうか?

生の不可能性の中で居直るとはどういうことなのか?それを考える前提とは、人が生きるということの意味を見直すことである。すると次のようなことが見えてくる。少し皮相な言い方を敢えてするが、生とは、何かを成し遂げることとは無縁の精神的・肉体的営為の連続体である、と認識し切ることである。<成し遂げる>の定義は、他者からの評価とか、あるいは自己満足ということとは無縁である。つまりは、人は生ある限り、何ものかを成し遂げようと骨身を削るように生きはするが、しかし、その実、自分に成し遂げられることなど何一つない、と思い切ることである。自己の精神的活動とは全てが、途中段階で訪れる死によって、確実に中断される。角度を変えて言えば、人は生ある限り、何ものかを成し遂げようとし、成し遂げられず、この世を去る。このような中づり状態こそが、生きるということの意味ではなかろうか?

ということは、人は死の瞬間まで、気づきの機会に恵まれているということであり、自分の死という虚無の訪れの間際まで、新たな気づきに対して貪欲でなければならない、と思うのである。個としての人間の死が、たとえ死をもって虚無の果てへの旅路を意味するとしても、個としての人間が、個の消滅の瞬間まで、生の側の意識を持ち続け、如何なる矮小な意識の変化の訪れに対しても、それを歓びとすることである。たぶん死の瞬間、全ては虚無の底に投げ入れられるのであろう。しかし、僕には、そのような意識の流れこそが、人の生から死への自然な行程であるように思われる。生が死によって一個の人間の存在の消滅を意味することを拒否したい気分は理解できるが、だからと言って、宗教的な生まれ変わりなどという、幼稚なメルヘンの世界に逃げ込むような精神を、僕はあくまで忌避する。宗教的な死生観はすべからく生ある者たちの、死を回避し、死を様式化することに過ぎないのではないか?それは、あたかも死した者が、無に帰することを、儀式という詭弁によって、死そのものを忘却するがごとき、傲慢なる生の論理である。生に論理があるように、死にも論理があるのである。僕の裡なる生とは、あくまで人間の総合体としての<からだ>の果てなき気づきの連続そのものであり、死とは<からだ>としての機能の全面的停止状態である。そして、死とは個にとっての、あくまで全ての終わりを意味するものなのであり、それを虚無と呼んでも差し支えない、と思う。

それなら、どうせ終わる生であるなら、何をしても無意味ではなかろうか?という安直な疑問が湧いてくるのも当然なのだが、もし、このような思考回路に落ち込めば、生の只中で、絶望感に打ちひしがれたとき、その瞬間に生の無価値を意識することになる。あるいは、逆に、生は個の死の後も永遠であって、彼岸の果てであれ、死者は生き続けるのだという、迷妄に陥ることになる。このような意識の延長線上に、人生における絶望感によって、立ち直れないような、か弱き精神性が立ち現れるのである。生に対する無様なほどの執着が、人を、生きる過程で陥った絶望から立ち直れなくさせる元凶なのである。生に対する開き直りこそが、人を、生きている限り、何度も訪れるはずの絶望感から立ち直らせ、再び生への活力を取り戻す大切なエッセンスではないだろうか?生を生き生きと生き抜く覚悟があるなら、同時に、死する覚悟、すなわち死の瞬間まで、気づきのチャンスが訪れるという福音を信じて、今日の、この日を生き抜きませぬか?

○推薦図書「ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶」 大崎善生著。新潮文庫。いくつかの恋愛短編集ですが、この書の恋愛の物語性の中には、生と死というモチーフが張り巡らされています。深い洞察に富んだ恋愛ものです。ぜひ、どうぞ。

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長野安晃