○僕のTo be or not to be. That is the question.について
生の可能性にほとほと限界を感じ、さてこの先、どれほどの命の長さが残されているやも分からないままに、それでも命の長さの単位くらいは特定出来る年齢である。ならば、かなりの速度で訪れるであろう自己の死を予測しながらの、限定つきの小さな可能性の中で、いったい何をなし得るのかについて、そろそろ真剣に考え詰めなければならないのだろう。まだまだ人生に大きな可能性を秘めているはずの青年の視点から見れば、人生とは長く、退屈でもあり、それでもどう生きるのか、という選択肢はいくらもあり、それらに向かって生のエナジーの炎(ほむら)を膚で感じとり、文字通りエナジーが燃焼したとき、ぞくぞくとするような感覚が体内で感じとれるような人生の、生のある季節の過ごし方を模索出来る幸福感を羨ましいと心底思う。
しかし、このような幸福感とは果たして一般論に過ぎないのであって、僕の人生などは、振り返って考え、これまでの生の軌跡をたどるのにそれほどの時間もかかりはしない。事ほど左様に、内実の乏しいもの、それが自分の生の姿である。こんなはずではなかったという後悔と、とりもどしようもないこれまでの歳月に対するいかんともし難い自己への憤怒に似た感情の発露。たぶん、ひと言で換言すれば、<つまらなさ>という表現に尽きるだろうし、日常語の慨嘆として表現するなら、<なーんだ、オレの人生、結局はこんなものだったのか!>という如何にもありふれた言葉になってしまう。自己の生の予測に抗ったつもりが、抗いの名にも値しなかった、ということが人生最大の皮肉ではなかろうか。そして何ものをもなし得なかったという、やるせなさの果てに立ち現われてくるのは、ハムレットのあまりに有名で、同時に陳腐になり果てた、<To be or not to be. That is the question.>という独白である。
いまや、残りの人生、なんとかして切り開かねばならない、という意気込みも消え失せた。さらに言えば、積極的なこの世界との断絶を肯定出来るような感性も鈍磨している。生きる可能性も見出せず、かと言って、死する覚悟も消失した僕は、ソール・ベローの「宙ぶらりんの男」の主人公のごとき存在である。今日のブログのお題は<To be or not to be. That is the question.>であり、それはまさに、「生くべきか、はたまた死すべきか、それが問題だ」という切羽つまったモノローグだが、正確に言えば、<To be or not to be. That is my ambiguous agony.>「生きべきか、はたまた死すべきか、それこそが僕の曖昧模糊とした懊悩である」というべきであっただろう。
生きることへの自己に対する信頼感の喪失、その結末たる自己否定と自己嫌悪が、想えば青年の頃から耐えることなく、自分についてまわる。勿論、青年の頃に吐き出す自己否定や自己嫌悪に関わる表現は、それ自体が否定しつつ、嫌悪しつつ、生の可能性を手探りで探索するためのツールとしての役割を果たし得た、と思う。1970年代を青年として生きた人々が、いまや老年の時期を迎えている。彼らの多くが、かつて抱え持っていた自己否定や自己嫌悪という時代の空気を、時の流れとともに自己肯定の方向に変節して行ったとしても、誰にそれを責める資格などあろうか。そのような人々を僕は認めるが、ただ、そういう人生の転換を果たせないままに、いまを生きざるを得ない僕は、いつまでも「宙ぶらりんの男」のままなのだろう。決して心穏やかではない。不安感と絶望感とがないまぜになって、僕の精神を腐食していくのを食いとどめることが出来ない。生きる目標としての、生の平衡感覚を想起することは可能だが、なぜかしら自分には到底そのような心境に立ち至ることはないのだろう、とも思う。切なく、悔しい限りだが、今日の観想とせざるを得ない。
○推薦図書「百万遍-青の時代」(上)(下)花村萬月著。新潮文庫。三島由紀夫が市ヶ谷駐屯所で、割腹自殺を遂げた頃、この小説の主人公は教護院から放逐されます。1970年を境に、主人公のあてどない精神の漂流がはじまり、世界との齟齬を感じながらも、無骨な生き方を花村は筆力の強さで書き切っています。花村萬月という作家には共感しつつ、言い知れぬ違和感を抱いてしまうのですが、物語の紡ぎ手としてはたいへん優れた人だと思います。ぜひ、どうぞ。
文学ノー卜ぼくはかつてここにいた
長野安晃
生の可能性にほとほと限界を感じ、さてこの先、どれほどの命の長さが残されているやも分からないままに、それでも命の長さの単位くらいは特定出来る年齢である。ならば、かなりの速度で訪れるであろう自己の死を予測しながらの、限定つきの小さな可能性の中で、いったい何をなし得るのかについて、そろそろ真剣に考え詰めなければならないのだろう。まだまだ人生に大きな可能性を秘めているはずの青年の視点から見れば、人生とは長く、退屈でもあり、それでもどう生きるのか、という選択肢はいくらもあり、それらに向かって生のエナジーの炎(ほむら)を膚で感じとり、文字通りエナジーが燃焼したとき、ぞくぞくとするような感覚が体内で感じとれるような人生の、生のある季節の過ごし方を模索出来る幸福感を羨ましいと心底思う。
しかし、このような幸福感とは果たして一般論に過ぎないのであって、僕の人生などは、振り返って考え、これまでの生の軌跡をたどるのにそれほどの時間もかかりはしない。事ほど左様に、内実の乏しいもの、それが自分の生の姿である。こんなはずではなかったという後悔と、とりもどしようもないこれまでの歳月に対するいかんともし難い自己への憤怒に似た感情の発露。たぶん、ひと言で換言すれば、<つまらなさ>という表現に尽きるだろうし、日常語の慨嘆として表現するなら、<なーんだ、オレの人生、結局はこんなものだったのか!>という如何にもありふれた言葉になってしまう。自己の生の予測に抗ったつもりが、抗いの名にも値しなかった、ということが人生最大の皮肉ではなかろうか。そして何ものをもなし得なかったという、やるせなさの果てに立ち現われてくるのは、ハムレットのあまりに有名で、同時に陳腐になり果てた、<To be or not to be. That is the question.>という独白である。
いまや、残りの人生、なんとかして切り開かねばならない、という意気込みも消え失せた。さらに言えば、積極的なこの世界との断絶を肯定出来るような感性も鈍磨している。生きる可能性も見出せず、かと言って、死する覚悟も消失した僕は、ソール・ベローの「宙ぶらりんの男」の主人公のごとき存在である。今日のブログのお題は<To be or not to be. That is the question.>であり、それはまさに、「生くべきか、はたまた死すべきか、それが問題だ」という切羽つまったモノローグだが、正確に言えば、<To be or not to be. That is my ambiguous agony.>「生きべきか、はたまた死すべきか、それこそが僕の曖昧模糊とした懊悩である」というべきであっただろう。
生きることへの自己に対する信頼感の喪失、その結末たる自己否定と自己嫌悪が、想えば青年の頃から耐えることなく、自分についてまわる。勿論、青年の頃に吐き出す自己否定や自己嫌悪に関わる表現は、それ自体が否定しつつ、嫌悪しつつ、生の可能性を手探りで探索するためのツールとしての役割を果たし得た、と思う。1970年代を青年として生きた人々が、いまや老年の時期を迎えている。彼らの多くが、かつて抱え持っていた自己否定や自己嫌悪という時代の空気を、時の流れとともに自己肯定の方向に変節して行ったとしても、誰にそれを責める資格などあろうか。そのような人々を僕は認めるが、ただ、そういう人生の転換を果たせないままに、いまを生きざるを得ない僕は、いつまでも「宙ぶらりんの男」のままなのだろう。決して心穏やかではない。不安感と絶望感とがないまぜになって、僕の精神を腐食していくのを食いとどめることが出来ない。生きる目標としての、生の平衡感覚を想起することは可能だが、なぜかしら自分には到底そのような心境に立ち至ることはないのだろう、とも思う。切なく、悔しい限りだが、今日の観想とせざるを得ない。
○推薦図書「百万遍-青の時代」(上)(下)花村萬月著。新潮文庫。三島由紀夫が市ヶ谷駐屯所で、割腹自殺を遂げた頃、この小説の主人公は教護院から放逐されます。1970年を境に、主人公のあてどない精神の漂流がはじまり、世界との齟齬を感じながらも、無骨な生き方を花村は筆力の強さで書き切っています。花村萬月という作家には共感しつつ、言い知れぬ違和感を抱いてしまうのですが、物語の紡ぎ手としてはたいへん優れた人だと思います。ぜひ、どうぞ。
文学ノー卜ぼくはかつてここにいた
長野安晃