ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○この歳にして、自分探し(13)

2011-12-30 22:39:29 | 観想
○この歳にして、自分探し

もはや、この歳にもなれば、失敗多き人生であっても、これまでの生の総体の中から、残された時間を、できるだけ自分にとって意味あるものにするために、生きてきたプロセスの中から、適当な素材を取捨選択し、それらを抽出する時期に来ているのだ、と思い込んでいた。違う角度から見れば、もはや新たな価値の発見はないのだろうと思っていたとも言える。つまりは、僕にとって、人生の収束の時期にさしかかっているのだと思っていたのである。

社会生活上の失敗も、私生活上のそれも、誤謬の原点は、自分の価値意識が絶対であると思い込んでいたことである。無論、相対的な価値の存在理由についての理解と認識は、かなり意識的に自分の裡にとり込んでいたつもりであった。しかし、決定すべき最後の最後に、必ず顔を出して譲らないものが僕にはあった。自意識の絶対化されたもの。それを自我と呼ぶにはあまりにも頑強なものだった。こいつは、かなり難問であり、譲歩すること=敗北である、という、妥協なき転倒した自意識である。我執!このタームが最も妥当なものに違いない、と思う。

パリがどんな街なのか、映画の中の数ショットくらいの認識しかないのに、僕はボードレールの「パリの憂愁」の散文詩の意味が分かると思い込んでいたし、いや、その前提として、原口統三の「二十歳のエチュード」(もはやいまの青年諸氏には聞いたこともない作者と作品なのだろう)の、鋭く尖った自意識だけが、散文と云うかたちの中で踊っているような、無骨な生活感覚をこれでもか、というくらいに剥ぎとった作品に酔っていたのである。ここから、フランス文学やロシア文学へ傾斜していく幼い精神性の中に、精神の寛容さが生まれ出る可能性があっただろうか?10代の後半期である。この後の読書体験は、アメーバの増殖ほどに広がってはいくが、逆に、生活感覚の広がりとは決して繋がらず、むしろ頑ななまでの精神性の収斂の坂道を転げ落ちるかのごとくに、僕は偏狭な人間に成り下がっていった、と思う。

もはや、我が息子たちに対して、如何なる言い訳もしない。自己正当化など、もはや僕の方が懲り懲りなのである。父親なんて、生活人としての凡庸さを子どもに見せてこそ、子どもは安心して他者の中に歩み出していけるというものである。僕は、少なくとも子どもを産み育てる家庭など創る資格のない人間だった、とつくづく思う。自分の中に芽生えんとする凡庸さを拒絶することが、そして、拒絶してこそ立ち現れるはずの(と思い込んでいただけである)価値意識を体現することが、父親としての役割であると錯誤した。考えてみれば、そんな父親が家にいれば、うっとうしくてかなわないわなあ。さらにまずかったのは、自分の感情を露わに出し過ぎたことである。感情の表出は、思想の表出そのものである、と勝手気儘に思い込んでいただけだ。要するに、自分勝手なことを声高に言い、自分勝手な行動を言葉で正当化していただけのことだ。出来の悪さもここまで来ると、タチが悪いのである。ただ、根っ子には、子どもたちに、自由というものの意味を知らしめたいと思っていたから、昨今目立って多い、単純な支配―被支配というような共依存的な関係性にはならなかった、とは思う。しかし、この自由の概念も、僕の我執から見える括弧つきの自由であり、そこからはみ出る言動は、凡庸でつまらない、ということになるわけで、まあ、幼い息子たちから見ても、最も父親らしくない人間が家の中に居座っているという想いだったのだろう、と推察する。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○この歳にして、自分探し(12)

2011-12-29 14:55:40 | 観想
○この歳にして、自分探し

みなさんには、あまりにも分かり切ったことだろうが、僕は、いま、この時点で気がついたのである。どういうことか?人は、どのような事柄であれ、その渦中にいると、なかなか自分を客観視出来ない存在であるということ。あまりにも当然のことで、あまりにも愚鈍な気づきである。しかし、僕にはこのことが分かっていなかった。少しだけ自己弁護させてもらうならば、分かっているつもりが、その実、胸に落ちてはいなかったと云う方が正確だとは思う。さらにもう少しくだくだしく言うなら、僕は観念の世界に生きていて、それが実践に通底する最も大切なファクターを、意識的・無意識的に遮断していたのである。まさに、絵に描いたごときの観念論者であった、と思う。無論、観念というのは実践のための不可欠のファクターに違いないにしても、それが無価値なものに変質するのは、観念が独り歩きするときである。観念(理論)と実践が結びつき、既成の頽落した価値観を揺るがし得るのは、何よりも眼前のリアリティを冷徹な目で見極めるだけの、思考の力が必要である。

さて、大仰な書き方を改める。さらに自己の内面の真実について語らねばならないと思うからである。観念が肥大すると、眼前のリアリティを見誤る可能性が大きいと書いた。その誤謬のかたちは、大抵の場合、人間に備わった、とても自然な感情を封殺してしまう。それは、畏れである。人や事象に対する畏れである。誤解なきように書き記せば、この場合の畏れとは、換言すれば、畏敬に限りなく近いものと考えてくれればよい。畏敬の念なき、世界観とは、自分以外の存在と決して対等に向き合えないものでしかない。人は、この種の畏敬という感情があるからこそ、他者や事象と同じ目線に立てるのである。控えめに云っても、その可能性が出てくるのである。

観念(理論)の肥大化は、畏れを忘却させ、その結末として、他者や事象に対する優しい観想を抱けなくさせる。自分と云う存在が、世界の単なるひとつの構成物に過ぎないということを忘却させる。いや、それどころか、世界を、自己と同一化してしまい、自己が世界の中心点に居座る。もし、さまざまな要素が偶発的にでも整って、自分の価値判断で世の中の仕組みの幾ばくかが変質し得る可能性を手中にすれば、その規模の大小はともかくも、人は独裁者か神がかった存在になるのである。他者に対する畏敬の念が完全に吹っ飛べば、自分の一声で世界が変わることに歓喜の情さえ抱くのである。世界の変革が、究極的に、暴力という手段でしかなし得ないという、人間のこれまでの哀しいまでの歴史の堆積がそのことをよく証明しているではないか。

世の独裁者、世の超越者気どりの人間が、必ず凋落の憂き目に遭うのは、一個の人間が如何に考え、如何なる価値観を持ち、如何なる希望を抱くのかということに、真摯に向き合えなくなるからである。観念の過剰は、自分と云う存在の意味を捻じ曲げ、他者の存在価値を紙くず同然のごとくに変質させてしまう。世界が自分の意思のもとに動き得るという錯誤は、自分が世界から解離させられ、自己解体する道をまっしぐらに突き進むということと同義語なのである。

自分の内面の真実と向き合うことに躊躇することなかれ!自分の中の、怖さ、畏れの感情をむやみに捨象しようとすることなかれ!決して愉快な感じ方を与えてくれないにしても、一見マイナスのファクターに見えるにしても、これは、他者と、対等に、自然なかたちで向き合うための、不可欠なツールでもあるからである。自己を、そして他者を幸福という概念にむすびつけるためのエチュードと考えればよい、と僕は思う。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○この歳にして、自分探し(11)

2011-12-27 16:17:53 | 観想
○この歳にして、自分探し

秋葉原に行く直前の僕は、70年代安保闘争という時代に翻弄された、どうしようもないバカな男でしかなかったわけで、時代の潮流を視野に入れながらも、なすべきことはしっかりとなした友人たちもいたのである。いや、むしろ、僕が尊敬に値すると感じていた友人たちはすべからく、自治のない大学など解体すべきだ、という空気(そう、空気だけであって、解体すべき大学の実態などまるで分かっていなかったし、すでに大学に入っていた人々の、大学教育におけるマスプロ的な風潮を打破する、という程度のものだったのではなかったか、と今にして思う。)に何ほどかの違和感を感じてもいたし、なすべき勉学を徐々に取り戻していった。彼らは時代の潮流に翻弄された時間を取り戻すだけの粘りがあったし、その粘りを支えるだけの頭のよさも兼ね備えていたのである。

長い間、僕は僕の親友たちのことを思想の変節を疑問なく受け入れてしまう、自分勝手で、節操のないヘナチョコ野郎たちだと罵倒して憚らなかった。しかし、自分が罵声を浴びせかければかけるほど、元の位置に立ち戻るだけの勇気も、それに伴うつらさ、学力を取り戻すだけの力量もない自分のことを心の奥底で嫌悪していたのある。正直に告白するが、僕は、彼らのことが羨ましかったのである。それとともに、彼らには到底及ばない自己の意気地のなさ、意気地のなさを虚勢を張ることでしか誤魔化す術がなかったことに懊悩していたのである。地の底に落ちた人間が、唯一誤魔化し得る手段とは、地に落ちたことを自己欺瞞という衣で覆い隠すことでしかない。大学受験を放棄した、と言い張ったのは、その実、友人たちとかつて争ったはずの大学などには到底入ることが出来ない憂さを晴らしていた結末に過ぎない。要するに、僕は地に落ち、地に落ちた、まさにその次元から立ち上がることも出来ず、地の底の暗闇の中に、逃げ出したのである。こういう卑怯な行為を、精神の彷徨などとは言わない。単なる逃避の過程で、後悔と自己卑下との狭間で性懲りもなく愚にもつかないことばかりを考えていただけのことなのである。他者に胸を張って語れる内実など、当時の僕にはまるでなかった、と思う。

紆余曲折を経て、一年遅れで大学に入ったのはよかったが、高校時代の友人たちとは明らかに差が出る結果になった。当然のことだろう。もし、僕がかつての傲慢で、虚偽的な自己表出から自由になれていたとしたら、僕の大学生活は金銭的な苦しさは伴ったにせよ、つまらぬ虚勢を張る必要などまったくなかったのである。僕は中身のない文学青年、あるいは哲学知らずの哲学青年という装いを演じ、その過程で屈託のない豊穣な精神を持った友人たちと、ついに心を通わせることが出来なかった。勿論、当時の僕は彼らと心を通わせているつもりではいた。が、心のどこかで、自分は彼らとは違う、という傲岸さが見え隠れしていたのだろう。結末はどうか?当然、僕は心を通わせる友人たちを失った。自分が招いた結末だ。受け入れるしかないのだろう。言い訳はしない。僕がすべて悪い。この歳になって友情を、あるいは愛情を十全に感得出来ない状況下に生きざるを得ないこの僕を、懲りずに支えてくれる数少ない人々には、心から感謝したい、と心底思う。年が明ければ、僕をとりまく環境は激変する。しかし、この大きな変化を僕は人生最後のターニングポイントとして位置づける。大切に毎日を生きる覚悟でいる。やがて訪れる死を怖れることはない。が、決して自分の死を肯定的に見ることだけはやめようと思う。死はあくまで自己の死であるが、大切な人生の同伴者に多大な影響を与えることには自覚的でなければならない。遅まきながら、生の再スタートである。素直に喜びとしたい。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○この歳にして、自分探し(10)

2011-12-24 10:49:50 | 観想
○この歳にして、自分探し

40年以上前の秋葉原のことを少々。電気屋の小僧をしていたときの僕の仕事は、主に電気部品を町工場に配送するトラックの助手というものだった。配送の合間に、売れた家電製品を家庭に届けもする。もっと大手の安心できるところがたくさんあるのに、なんで好き好んで、こんな店で買うかなあ、というのが僕の素朴な疑問だった。だって、配達先は大抵、目黒や目白などの昔からの豪邸ばかりなんだから。お金持ちなんだし、あやしげな電気屋で買わずにきちんとした大手量販店で買えばいいのに。そういう店が秋葉原にはたくさんあるのに。

電気部品の配送は届け先が町工場なので、まあ、同じ労働者という感じがして、違和感がなかったけれど、豪邸に配送する、たとえば、巨大な電気冷蔵庫なんかは、腰の骨が砕けるかと思うくらいに重い。そもそも二人で運ぶには重すぎる。当時の家電はすべからく重かった。僕は思ったね。それまでチャチな学生運動をして、民衆の平等なんて言っても、豪邸の中に家電を運び込む度に感じるのは、見たこともないものずくし、という感覚ばかり。膝から下の力が微妙に抜けていくような感じになる。こういう豪勢な暮らしをして、しかもたっぷりとお金はあるはずなのにさらに、チャチな電気屋で値切るわけだから、金持ちの感性というものに直に触れたある種のショック状態だったのか、な、あの脱力感は。そりゃあ、富める者、既得権益は死守しようとするわなあ。彼らにもそれなりの筋金が入っている。一番嫌だったのが、テレビのアンテナ設置。当然屋根の上に昇る。歴史のありそうな豪邸ほど、瓦がもろくて、滑りやすい。瓦を壊そうものなら、即効弁済の憂き目に遭う。実際にはドジは踏まなかったにせよ、そういう雰囲気プンプンの中で仕事をとりあえずこなすわけである。この種のルーティーンワークをずっとやっている人々がいるわけだなあ、と自分が既にその一員になっているのに、どこか他人事のように感じている。まことにええ加減な仕事ぶりなのだった。心の中ではすでに逃げ出す用意が出来ていたような気もするね。

一仕事終わった後の昼飯は大抵かつ丼。40年以上も前のことだ。関西出身の人間にとって、かつ丼は決してポピュラーな食いものではなかった.卵丼か親子丼ならわかる。しかし、せっかくカラっと揚げたとんかつに、わざわざダシ汁をぶっかけることはなかろうに、と思ってはしこしこと食っていた。なにせ、一緒に仕事をするオニイサンはいつもかつ丼なんだから、何となく他のものを頼むのもなあ、と思っていたからである。それでも、食い続けているうちに、これは如何にも労働者向けのメニューだと納得するようになった。ボリュームの点で申し分ないのである。味の方はともかくとして。いまどきは、東京でも関西風の味付けが浸透しているようだが、当時は、何もかもがカライ。醤油ガライ。立ち食いうどんもそばも、だし汁は濃い口醤油の真っ黒に近いもので、食えたものではなかったが、これにも慣れる。人間の味覚など、たいしたことはないのである。そもそも、人間、これしかない、と思っていることの大半は、大して根拠のあるものではない。単なる習慣性に関わるものが殆どだ。こだわりのある人は、自分の裡のこだわりに、こだわっているとしか思えない。相棒というか、一緒に仕事をしているオニイサンは、自分の4トントラック持ち込みの、請負仕事だ。武蔵野美大出身だというから、そのオニイサンも相当に屈折した生き方をしてきたのだろう。大抵は、昼飯の最初の一二回は奢ってくれそうなものだろうが、このオニイサンはしっかりとしていて、いつもきっちりと割り勘だった。まあ、それなりに気楽だったけど。

ある日、横浜に近い、新興住宅地まで、ステレオセットとエアコンの納入とそれらのセッティングに出向くことになった。道すがら、あまり口数の多くはなかった相棒のオニイサンが、その時はやけに饒舌だった。どこから仕入れてきた情報なのか定かではないが、向かっている先は、悪徳弁護士の、それもヤクザとつるんでいるやつ(彼の口ぶりそのままだ。そういうことは言わない人だと思っていたので、不思議に記憶に残っているのだろう)の新築の豪邸だという。奥さんが迎えてくれたが、感じが悪かった。人に蔑視されるとは、こういうことか、とつくづく思ったね。新しい壁や家具に傷つけられないかと気が気でないらしい。背中に視線を感じる、ということもホンマなんや、と感じ入った。腹が立つというよりも、自分の存在を消すことの難しさを思い知った。所詮、配送なんて、黒子に徹することだろうな、と諦めの気分でいると、無言の相棒のオニイサンは、真っ白な外壁にエアコンのホースを通すための穴をドリルで開けようとしていた。何気なく見ていたら、明らかに彼は、不要な穴をもう一つ空けて、一応目立たぬうように薄く、そう、あくまで薄く白パテを塗って、僕の方を見てにんまりしている。感情を顕わにしない人だなあ、と助手席に乗っていてずっと思っていたが、彼なりに思うところがあったのだろう。帰りはなんとなくすっきりして、いつものかつ丼の味がはらわたに沁みた。よろしくないことだが、時効だろう、もう。いまの時代、弁護士さんも御苦労が絶えないようだが、当時の、それもヤクザとつるんでいる弁護士だ。壁の小さな穴が気に食わなければ、また別の家くらいは建てられただろうから。

だらだらと書き綴ったが、僕は秋葉原というわけの分からない巨大な電気街で、はじめて、観念論を捨てた。いや、捨てざるを得なかったのである。人間の生活の、人間の銭金に関するとてつもない欲望の深さに圧倒もされたのである。革命や社会変革というなら、こういう日常性をしっかりと体感しておかなければならない、と思う。無論、僕だって、日雇いの労働者として、何度も働いたことがあった。が、そこには日常生活者のしたたかさはなかったのである。日雇いのおっちゃんたちは、その日暮らしだけれど、その日暮らしだからか、やけに気前がよかった。自分を守る術をとっくの昔に放棄した人々だった。無論、こういう人たちを守らなければならないが、少々小賢しい生活者の感性を理解しない社会変革は、小賢しい生活者の保守性に阻まれる。政治家がときとしてしたたかに見えるのは、こういうことを熟知しているからだろう。人間の小賢しさをバカにしてはいけない、とずっと思ってきて、また、自分の中にも確かにそれに近いものがあると感じてもいるが、やはりどこかでまだそれを忌避しようとしている自分がいる。これが僕の限界か?まあ、それでよし、とする。したたかには生きられないんだから、いくつになってもこの僕は。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


○この歳にして、自分探し(9)

2011-12-22 15:55:44 | 観想
○この歳にして、自分探し(9)

何となく名前だけは知っていたが、まったく興味もなく、テレビで観ているはずなのに、自分の視野に入って来ないタレントがいる。今ごろ?という感覚でこれを読んでくださる方は、世の中の動きに敏感に反応している方々なのだろう。最近、僕の視界の中に入ってきたのがAKB48とモーニング娘。どちらも歌とダンスが売りのグループらしいけれど、果たして僕には歌もダンスもうまいのかどうかもよく分からない。そう言えば、EXILEという男性のグループについても認識がないに等しい。そもそもEXILEとはリードボーカルのアツシ(でいいのかな?)の天才的な歌のうまさと声の魅力だけを認識していたに過ぎない。いったい、何人いるのかもよく分からないグループがストリートダンスっぽいのを踊っているのを見ると、確かにうまいのだろうが、あまりに人数が多すぎて、また身長もそろってもいないので、人の数が多い分、バラバラに見えたりもする。こんなふうに書いても全く説得力などないだろう。よく分かりもしないで、と言われるのがオチだ。だって、僕なんて、ずっと、ずっと昔に、レ・ガールズという3人の女性グループにハマっていた程度。いまはお三人ともに芸能界の大御所だ。金井克子に奈美悦子に由美かおる。大人の少しエロティックで単純な振り付け(なんだろう、あの程度ならば)に痺れていた程度の感性しかないわけだから。

たぶん、AKB48とモームス(というのだそうな、ファンは)は、似て非なるものなんだろう。両者に対する観想はともかく、AKB48は、東京の秋葉原という電気屋街に出現したらしい。最近知った。遅きに失する感あり。昨今の秋葉原は、この人形のような女の子グループもそうだが、マンガやメイド喫茶などで有名である。いっとき総理大臣になった麻生何某が自分のマンガ好きと秋葉原とをむすびつけて語ったから、この街がさらに有名になった。国民に媚びたのだろう。それにしても、単なる電気屋街が何たる変わりようなんだろう、と思う。「単なる」と書いたのは、蔑視の意味を込めているのではない。僕が関わった頃とは隔世の感がある、という意味である。少しおセンチな話になるが、腐心を抱えて神戸から東京の秋葉原という巨大な電気屋街に降り立ったのは、もう40年も前のことだ。18歳の世間知らずで、世間ズレし(論理矛盾だろうけど、そうとしか言えない)、未来を捨てた僕は、この電気屋街なら住み込みの仕事もあるのかも知れないと思って、現在と大して見た目は変わらない秋葉原をあてどもなくブラついて、一枚のハリ紙を見て、秋葉原では極小の電気屋に飛び込み、住み込みで働くことになった。保証人がどうのこうの、といったことは一切触れなかったから、かなりヤバいか、あるいは、鷹揚だったのか、当時の時代性なのか、よく分からないが、僕は仕事と住処を40年前の秋葉原に得たのである。

いまは、夜の秋葉原も結構にぎわっているのだろうが、40年前のこの街は、昼間の雑踏と、夜のゴーストタウンのごとき、人の姿がまったく消え去った姿との対比は、見事なほどで、秋葉原の電気屋の二階で寝起きしていた僕は、生活上、かなりの不便を強いられたのである。事務所のロッカーの裏の二畳にも満たない空間に、病院のベットそのままのものがぽつんとあるだけの、小さな空間だったし、自炊する設備がなかったから、食事は安い定食屋か、蕎麦屋に限られる。が、夕食には困った。前記したが、当時の秋葉原は、夜ともなるとすべての店のシャッターが閉まる。暗闇だけが広がるゴーストタウンそのものである。夜の街を20分ほど歩いて、お茶の水まで食事に出かけるのが日課だった。アテネ・フランセというフランス語の語学学校はまだ健在なようだが、そこに通った。すでに目標を見失っていたから、フランス語学習はちょっとした自己満足のためのもの。地下のカフェのアップルパイが美味かったことの方が、そこに通うための強い動機だったようにも思う。精神的頽落だな。地に落ちた感。

ゴーストタウンへの帰途に、暗がりの中を歩きつつ、夜空を見上げると、東京でも星が結構きれいに見える。強気で圧してきたけれど、もうアカンわな、もう電気屋の下働きでいいか、と思い、どうせ生きたとしても60年がせいぜいだろうから、それまでここで時間潰しでもするか、と自分を納得させていた、と思う。

あれからずいぶんと紆余曲折があり、いま、こうして書いているけれど、圧し出しを強く前面に出すと、気分がいいけれど、人を傷つけ、自分の生活も破綻することを学んで、それでも、長い間その延長線上にいた。強気でアグレッシブに勝負も出来るけれど、どうも、そういう生き方は、自分にとっても他者にとっても、結果的にはロクなことが起きないのである。もう、やめる!かつてのように、強気でぐいぐい圧すような生き方は、もうやめないと。人生の総括というならば、まずは、ここの時点からはじめないと。心底そう思う。今日の気づきとして書き遺す。

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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○この歳にして、自分探し(8)

2011-12-20 16:36:11 | 観想
○この歳にして、自分探し

山田洋次が、フランク・キャプラ監督の評伝を読んで、「人間にとって、絶望するのは簡単なことだが、人生を楽観するのは大変なことなのだ。」と言ったことをすでに紹介しました。実は書き終わってから、この言葉の実質を自分自身の問題意識として、整理し直す必要がある、と考え続けていました。これは、かなり切実な欲求です。もっと正確に言うならば、ずっと以前から拘っている、自分の体内に蓄積してきた重しのような思念を思い起こさずにはいられなかった、ということでしょうか。

自分の存在の軽さを思い知らされてきました。そう言えば、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」という小説に魅了された経験が数年前にありましたが、僕の裡なる自己の存在の軽さに対する実感は、この小説の主人公たちがとりまかれていたような、「プラハの春」も存在せず、その政治的高揚の凋落が、主人公をめぐる人間関係に大いなる影響を与えたような、人間にとっての不可避な出来事など何も起こり得なかったことに起因しているのだろう、と思います。もし、敢えて似かよったことがあったと強弁するにしても、それらは、世界史的視野に立てば、まるでコップの中の嵐のような、つまらないミニチュアのごとき出来事でしかありません。過去を振り返るときに、自分が生きた時代を過大に描きたいのが、人間の、いや、僕自身の本性だとするなら、自分が辿ってきた道程で生起し、それによって、影響を受けた出来事のすべてを見直さなくてはならない時期に差し掛かっているのではないか、と思います。その意味で、僕は自己の実像をかつてないほどに謙虚に見つめ直そうとしているとは思います。さて、強がりな自分から自由になります。そうして視えてくるものを書きとめることにします。

さて、いま、この歳になって、まず第一に思い浮かぶことと云えば、自分という人間は何ものをもなし得なかったということです。無論、歴史に名をなすような、大袈裟なことを視野に入れて物を言っているのではありません。単なる日常生活人であるにしても、生きることに確信をお持ちの方々は、ご自身の経験が、現時点におけるのキャリアともなり、その経験則で世の中にアンガ―ジュマン(参加)している実感があると思います。しかし、この僕にはそれがない!短い連続体の経験は、すべてが分断され、孤立しています。ですから、いま、ここにいる、この僕と云う人間は、過去の経験則の集積を再構築して、現代に生かすなどという思想の新たな枠組が創れないのです。いや、もっと卑近なことを書くと、僕と同じ年齢層の日常生活者が当然のごとくに持っているはずの、世間知すら感得し切れていないのです。もう、こうなると救いようもないバカとしか言い表わしようがありません。しかし、これが、僕と云う人間の偽らざる実像なのです。

あらゆる強弁、虚飾を剥げば、過去の経験がすべて無駄に、個々バラバラになっていて、いまの僕の足場を支えてくれていない、ということなのです。こういう人間にとって、思想は常にブレます。ブレて、その振幅の度合いは、場合によっては、どちらかの両極に振り抜けてしまうほどなのです。僕の身近な人の中には、僕の心性を日常語で云うところの、頑固者という枠組の中に組み入れようとします。本音のところでは、自分の裡なる価値観はブレまくりなのですが、語る素材が同じパタンのものが多いからでしょう、どうも自分の過去を絶対のものとして、それにしがみ付いているかのように解釈されることがしばしばです。しかし、繰り返しになりますが、事実はまったく違います。僕の苦悩は、思想の足場があまりに脆弱だという認識に直面したときに、どっと襲ってくるのです。そんなとき、僕は、僕自身の存在の耐えられない軽さに茫然自失するというわけです。生きることに対して、楽観的になることの難しさを身に沁みて感じるところですが、楽観的というのは、何も考えないから楽観出来るのではなくて、考える葦としての人間が、考え抜いた末に悲観主義を乗り越えて、楽観的に生を捉え返すことだ、ということだけは胸に落ちています。これに良き自己評価を下しておくことにします、とりあえずは。僕はこういう軟弱な個性ですけれど、生きている限り、僕なりに深化し続けようという気力は持ち続けるような気がしますから、まあ、捨てたものではない、と自画自賛。絶望してみたり、自画自賛してみたり、いよいよ、あやしくなってきましたので、今日の観想はこれにて。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○この歳にして、自分探し(7)

2011-12-18 12:37:02 | 観想
○この歳にして、自分探し(7)・・・過去に毒ずくことことはしない、と決意したんだ。

人生の総括と云う意味で、このブログを書き続けてきたのです。たぶん、まだまだ続きます。当然のことですが、圧倒的に話題にする素材は過去に、自分の身に降りかかってきたことが多いわけですが、それらに対する単純な評価や思い出に浸るごときの、感傷主義のためなら、とっくに止めています。当然のことですが、悪しき、忘れたき体験もありますけれど、それらに毒づいてみたところで何の意味もないでしょう。総括とは、未来への指針と密接に結びついているものです。余談になりますが、かつて過激派の連合赤軍というセクトの中で、総括と云う言葉と、リンチ(私刑)とが同義語のごとく使われていたことがありますが、この場合の総括とは、未来と完全に断絶したものですから、言葉の半分の意味を悪用したに過ぎません。こういうのは、総括とは言わないのです。また、日常生活上の、過去の出来事への単純な遡及も、大抵の場合は、現在の不全感を嘆き哀しむあまり、過去を実体以上に美化したものですから、総括とは言い難きものです。

さて、自分の人生を振り返り、その中で起こったさまざまな出来事を、現在・未来に価値を変容させながら、生を豊かにすること。これが総括の意義です。過去を感傷的に振り返るだけでは、いい思い出もありますが、当然嫌なものもたくさん含まれていますから、いきおい、負の感情に押し流されて、過去の悪しき思い出に対して毒づくということも大いにあり得ることです。でも、そこから学ぶことなど何もありません。生における退歩でしかないのですから、それなら過去を忘れることの方がまだましですね。すべてまっさらにして、未来だけを見据えるということですが、しかしこれもいかにも前向きであるかのようで、過去を未来に生かせない分、底が浅いのは致し方ありません。それでも、過去の全否定よりは、まだましか、とは思います。

ずっと前に、ここに「素晴らしき哉、人生!」という、フランク・キャブラ監督の古いビデオの話を書きました。いまはDVDで観ることが出来ます。これを観た当時、僕は私生活上の、あるいは仕事上のさまざまな難問にぶち当たって、絶望の淵にいました。生きる意味を見失っていたのです。この映画のスジ立ても物語自体の意図も至極単純です。映画の主人公は、絶体絶命の窮地に追い込まれ、もうだめだと投げやりになって、自死を決意したときに守護天使に救くわれるというクリスマスイブの奇跡です。そのことで、主人公は愛と勇気を取り戻すという物語ですから、人生、前向きにバリバリと難関辛苦を切り開いているような人々にとっては、たわいもない映画でしかありません。しかし、こんな単純な映画で、僕は救われました。当然現実の重い課題が解消されることはありませんが、少なくとも物事を見る角度、視点の位置が変わります。人間、こういうことでずいぶんと救われるのです。極端な言い方ですが、そうでなければ、多くの人々を救済するあらゆる芸術作品の存在理由などありません。人それぞれに抱えている難問が、芸術のエッセンスに触れることによって、人生の難題の意味が変容させられ、それらをフッと乗り切れてしまう瞬時があることも事実なのです。

考えてみれば、人間の生とは絶望の連続です。とりわけ悲観論者でなくても、たぶん、誰もが反論しない生の真実ではなかろうか、と思います。あっけなく絶望の淵に沈み込む人々に対して、それでも人生を肯定する意味があることを、映画という手段を通じて訴えているのが、この「素晴らしき哉、人生!」です。あまり好きな監督ではありませんが、山田洋次が、フランク・キャプラ監督の評伝を読んで、「人間にとって、絶望するのは簡単なことだが、人生を楽観するのは大変なことなのだ。」と語ったと聞きます。確かに、言い得て妙です。人生を楽観することの意味を、この映画に託して創った当のフランク・キャプラが、この映画の興行成績の惨敗状態に絶望し、創作意欲著しく喪失してしまったというのは、いかにも皮肉ですが、逆にこの映画の真実を深めてもいます。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○この歳にして、自分探し(6)

2011-12-16 22:56:15 | 観想
○この歳にして、自分探し(6)

自分探しの旅に出て久しいが、当然自分の過去のいくつもの出来事への遡及を総括の素材とするのである。人生の総括と称しながらも、何度も手痛い失策をしでかしている。このような領域で最も犯してはならないことがある。それは、過去の出来事の中から、未来に生きるための素材を拾い出していく作業であるはずのことを、単なる過去への沈潜となり、自己憐憫の権化となることである。その時のつまらない己れの感傷主義的な、あるいは、エセもののメランコリックな気分など、何の普遍性もなく、精神の自慰行為以外の何ものでもないものになり果てる。自分探しどころか、自己のイメージの捏造すら、無意識の領域で犯している可能性だってある。もし、そういうものが数多くあるならば、これを読んでくださっている方々には、申し訳ないこと、この上ない、と心底思う。

という猛省をしながらも、懲りずに今日の観想を書きとめる。生き上手、生きベタについて、少々。言うまでもなく、生き上手というのは、僕の裡の最大の皮相を込めて使う言葉である。

おかしな習慣だと思いつつ、過去の、教師という仕事柄最低限の年賀状は書いていた。そういえば、みなさんもそろそろ年賀状を書いておられる時期なのだろうか。30代の後半の頃だったか、内奥の虚無感を隠しながら、そういう空気はおくびにも出さず、当時の家庭もうまくいっていなかったのに、僕にもファミリーマンを装うだけの元気というか、見栄はあった頃の話。学校の校務でも、労働組合でも、人の面倒を見る側の立場であり、たぶん、その意味では、合格ラインに達していたはずの生き方をしていたように思う。人のグチにもよく耳を貸していたとも思う。同じ組合役員だった後輩がいて、彼は、理科の先輩女教師が大嫌いだとよくグチっていたのである。人に嫌われる要素のまったくない言動を売りにしていたような男だったし、いつも彼から受け取る年賀状は、家族写真を裏面いっぱいに印刷した、家族団欒を見せびらかすようなそれだった。言わせてもらうならば、こういう家族写真を、職場レベルの、たいして関係性の濃くはない人たちに見せる神経が僕にはよく分からないのである。家族でエへへと笑っている写真を見せられる側の人間の、たぶん、かなり多くの数の人々は深い違和感を感じるのではないのだろうか?それでも、まあ、この男は、こういうのが好きなんだな、と受け流して賀状を受け取っていたのである。こういう年賀状がお好きな方には、まことに申し訳ないことを書いているようですね。すみません。

年ごとに、どこが違うのかも分からぬ家族写真入りの賀状を受け取って、また数年が経ったときの、彼からの同種のハガキを手にすると、手触りに違和感がある。分厚いのである。詳細に観察すると、どうも写真の粘りのせいか、賀状が二枚重ねになっている。写真どうしがくっついているので、たまたま手にとった方のそれは僕宛て。裏を見て、唖然とさせられたのである。自分の目を疑ったね。彼が最も忌み嫌っているはずの理科の女教師宛てだ。破れないように注意して引き剥がしてみると、アホらしい家族写真の下の文章も僕のとまるで同じ。ほう、こやつ、人づきあいの妙味を心得ておるな、と、ある意味、感嘆の呟きが出る。同時に、自分の不器用な人付き合いのあれこれが、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。郵便受けから、玄関ドアまで数歩の、狭苦しい建て売りだ。時間にすれば、数秒だろう。が、その数秒で、彼の愚かさよりも、自分の愚かさを呪ったね。ああ、こういうことね、人が上手く立ち回るってのは、って。彼が大嫌いな理科の女教師宛ての年賀状は家の近所の郵便ポストに投函しておいた。数日遅れで着いたはずだ。毎年送っていたはずだから、たいしたことはないだろう、と思って、彼には連絡しなかったね。

後年、彼は女房が同じ学校の教師だったし、ええとこのボンボンでもあったわけで、金には困らんわね、2年ほど学校を休職して、大阪の教育大で修士号をとって復職してきた。と思ったら、どういうツテか、職場の大学の講師を兼ねることになっていた。同じ学園でも、指導手帳のつくりが違う。大学のは分厚く、質もよく、いかにも大学教師然としたつくりになっている。(ひがみじゃあなく、ほんとにそうなっているわけです)その男が会議などに持参する指導手帳は、中・高校の安っぽいものと、大学のそれとを会議室の机の上にこれ見よがしにバン、と置く。宗教差別丸出しの学園だったから、坊主が大学へ教えに行くことは珍しくはない。が、彼は理事会に嫌われているはずの組合の役員だ。その男が、復職したその年から大学の講師とくるから、こういう人間が勝ち残るわけかー!と呟いたね。さらに数年して、どこかの女子大の準教授になり、学校を去った。挨拶状を受け取った、勿論。挨拶というより、自慢だな、あの長文の近況報告は。さらに付け加えるなら、彼の関わった教え子すべてに同じ挨拶状をバラまいたらしい。遊びにきた教え子から聞いた。

僕にはまわりの変化が視えなかったのである。そういえば、この男だけではない。みな、一様に自分の居場所を確保する努力をしていたようだ。僕は相も変わらず、学校法人から宗教法人を分離する急先鋒というわけで、理事会からは狙い撃ち状態だったね。もう一例。お母ちゃんが東京のどこかの大学の教授で、彼女と共著ということで、理科の一般書の翻訳をした男も、賢かったけれど、修士号もないままに、お母ちゃんのコネクションで、四国の片田舎の、どこかの大学の専任教員になった、と学校を辞めた後で噂で聞いた。

僕といえば、学校を辞めてから、今日まで、喰いつめながら生きてきた。要するに、生きベタなのだろう。無論、能力もない。家庭も壊し、仕事のあてもなかった数年間をどうやってしのいできたのか、よくわからないのである。この歳になっても、ここに書いた意味での生き上手な人間はやはり嫌いである。そうなりたいとも思わないが、かと言って、自分の生き方を正当化するつもりもない。人生の失格者に、誰それを批判する権利はないし、説得力もないだろう。しかし、少なくとも、こうは言える。僕は、多少の柔らかさを識ったわけで、そういう感性を抱きつつ、残りの人生を僕なりに少しは豊かなものにしていこうとは思う。生きベタなりの修正の仕方もあるのだろうから。

文学ノートかつてぼくはここにいた
長野安晃

○この歳にして、自分探し(5)

2011-12-15 15:55:48 | 観想
○この歳にして、自分探し(5)・・・その場、その場しか見えない単眼的人間として語る

70年安保の荒波(とはいっても、そんなものに呑み込まれもせずに、しっかりと前を見据えていた友人の方が多かったのが実情なんだけど)をまともに被る前は、まじめに大学の研究者になるか、はたまた世界中をマタにかけるような実業の世界で活躍したい、と思っていたわけである。いまにして思えばたわいもない戯言のようにも感じるけれど。しかし、僕は勇敢にも(ウソですよ。現実のしんどさよりも、空想的な革命論に逃げただけです。)、学業を放棄して、ヘルメットを目深に被り、顔にはタオルを巻き、真っ黒なサングラスをかけ、毎日アジっていたのでのである。当然、学校では完璧な脱落組ですね。自分のねばりのなさ、弱さを、時代の最先端を走っているという言い訳で誤魔化していただけのこと。角度を変えれば、確かにちょとした武勇伝にもなり得るけれど、たぶん、そういう書き方は、真っ赤なウソに限りなく近いものだろう。

さて、荒波?に呑み込まれなかった友人のこと。3人の思い出を少々語る。二人はまさに成績で争っていたライバルどうしで、かなりな仲よし。もう一人は頭の回転はよろしいが、能力的には落ちる仲よしのこと。高3になって(なんとか放校もされずにギリギリで進学してきたわけです、僕は。)、当時は大学解体などとウソぶいていたこともあり、大学受験を放棄した。実際は、もはや数学の問題はまったく解けず、理科もダメで、英語も嫌になるほど、成績下位者で、その現実から逃避するために芦屋のセイド―外語学院(いまでもあるはずです。知る人ぞ知る有名校だから)にフランス語をやりに行ってウサを晴らしていたわけで、とくに、前記した二人のライバルには到底かなわなくなっていた言い訳だな、やはりフランス語の勉強は。

一人は京大法学部から官僚になるべくがんばっていたけれど、母子家庭でもあり、現役合格が絶対条件。合格圏内にいたのに、大阪大学に落として合格。合格後に、京大の時計台を眺めて、泣いたとか。メソメソするくらいなら、腹を括って京大受験しろよ!とは決して言うべき立場ではない。幼い頃から彼は母親と苦労をともにしている。僕のようなアマちゃんとはわけが違うわけだから。いまは、神戸市役所の幹部になっているはずだ。いや、そうあってくれなくては困る!もう一人。神戸大の経済学部に。銀行マンになるべく、大学に入学したら、すぐにセイド―外語学院に入って、英語をやりはじめた。東洋信託銀行に入行してから、その能力を生かして、すぐにイギリスに為替担当で赴任だ。出世コースだな。素直にうれしかったね、僕は。ロンドンから手紙を受け取った。その頃、偶然にも僕は京都の私学の英語の教師になっていたが、当時の僕は、英語の手紙の宛先の書き方もロクに知らない無能な教師だったわけで、打てないタイプライターで、封筒を何枚もをダメにしながら、なんとか投函した。単なる見栄である。その後の銀行再編の波で、東洋信託銀行の名が消えたが、なんとか生き残り、出世してほしい。絶対に負けてほしくはない。心底そう思っている。

3人目は、神戸の家具屋の息子。お兄ちゃんが、2浪して地方の国立大の医学部に進学したが、この男は真面目だが、そういう能力はない。代わりに商売人気質を知らず知らず身に付けたような若者だった。東京の3流どころの私大に行った。学歴としては、大学も必要ないところだから、本人も東京時代を大いに楽しんだと思う。大学時代によくドライブに誘われた。その頃は僕も京都のどうでもいいような私大に入っていて、アルバイトに明け暮れていたので、彼の誘いは気分転換にはちょうどよかったわけである。しかし、ただ楽しかったわけではない。僕だって、家庭的には大いに問題ありの父親の息子だったのに、彼は、自分の父親のことをグチる、グチる。外に女をつくって大変だとか、まあ、そんなレベルなんだけど。それなら、僕の親父はどうなる?と彼に言いたかったが、礼儀としていつも聞き役に回る。それでよい、と思っていた。銀行に入った友人と三人で会う機会が、後年あり、彼はその頃すでに家具屋の社長で、飯を食いながら、商売談義である。僕は京都。二人は神戸住まい。で、銀行マンたる友人が結婚話を打ち明けたら、家具屋の息子の目が輝いた。自分のところで家具を買ってくれ!安くしとくから、と商談。長野、おまえも頼むだと。ところが、連絡先の名刺を二人に渡そうとして、名刺が一枚しかないことに気づいて、彼は躊躇なく銀行マンの友人に手渡したね。同じ神戸で、より確実な客だと判断したのだろう。まあ、商売人根性としては正当だな。でも、その時は、少々嫌な気分になったんだ、正直に言うと。

3人ともに、幸せな人生を歩んでいてほしい、と思う。こういう心境に立ち至るまでは、おぞましい僻み根性を扱いかねていたけれど、もはや、この歳になると、かつて交流があった親しき友人たちの、その後の人生が少しでも豊かなものであってほしい、と心底思う。こんなふうに思えるようになってから、僕の心はずいぶんと軽くなった。ありふれた観想だけど、書いておかねば、と思ったわけである。単眼的思考から少しは抜け出せたかな?読んでくださった方は退屈極まりなき話だったと思う。ご容赦あれ!

文学ノートかつてぼくはここにいた
長野安晃

○この歳にして、自分探し(4)

2011-12-13 23:47:36 | 観想
○この歳にして、自分探し(4)・・・思想は堆積するね、とくに悪しきそれは人に迷惑をかけるからよろしくないな。

この間から、自分の個性的な危うさと、他者との折り合いのつけ方における裡なる横暴さに気づかされることがあり、数日のことだが、胸の中に重苦しい砂の固まりがつまったような感じになり、それがどうにも不快で、むやみに呼吸が荒くもなり、と同時にこういう感覚は過去にも何度も体験済みであることに思い当たる。

僕の感情が激したときの粗暴さ、言葉の荒っぽさ、そのときの威圧感の大きさなどについて、とりわけ僕がキレたときの野蛮な雰囲気には、どこかしらに素人の域を超えたものがあるらしく、その瞬間に遭遇した人は、耐えられぬ想いを抱く、と、最も近しい人に何度も指摘されたのである。「~あるらしく」などと他人ごとのような書き方をしたが、実際には、僕自身がよく理解していることで、自分が危険に晒されることが現実問題として身に迫ってくるような、ずっと昔の、サバイバル体験の堆積ゆえなのだ、ということも自覚的である。親父の影響もある。彼は10代の後半に、まだ広域暴力団という概念がなかった頃、淡路島から、神戸のあるヤクザの親分のところに弟子入りしたいと申し入れ、逆に、ヤクザなんかにはなるな、と諭されて、親元に連れ戻された、気弱だが、荒っぽく、能天気な男だったのである。ともかく、見栄っ張りで、大して好きでもなかったはずの神戸のオナゴをものにして、できたのがこの僕というわけである。当時の淡路島なんて、荒っぽいだけの漁師まちだ。対岸の明石から神戸に至る道は、輝かしい都会への道程そのものだったはずである。彼にとっては、神戸にいるオナゴというのは、漁師まちのボンボンの、ひとつのプリスティージそのものだったのである。

親父の子育ては、(そういう意識すらなかったと思うが)いまのよく出来た親御さんたちが聞いたら、たぶん、常軌を逸していると思うことの連続だろう。真面目に机に向かっていたら、叱られる。そんなに机にしがみ付かないと勉強が出来ないのか、とくる。たまに喧嘩をして、顔のどこかに傷でもつけて帰宅しようものなら、子どもの喧嘩みたいな闘い方はするな!(子どもの喧嘩なのに)とくる。相手に殴らせずに倒す方法論を徹底して教えられ、もう一度やってこい、と家を出される。そんなことが出来るはずもなく、子どもの喧嘩なんてその場限りのものだから、戦意喪失も甚だしく、いきおい、時間つぶしにぶらぶらとすることになる。でも、よろしくないことほど身についてしまうもので、親父の喧嘩指南のせいで、僕は喧嘩で名を売るハメになってしまった。そうなると、毎日が怖い。誰彼となく喧嘩を売ってくる。負ければ、またさらに強烈な喧嘩サッポウを授けられる。だからこそ、負けるわけにはいかないのである。

自分の中の暴力性は、こんな、僕の裡なる幼児性の変容したものなのだろう。とはいえ、僕が単なるチンピラにならなかったのは、たまたま少しだけ勉強が出来たことと、クラスや、学年の代表者になり得る素養もあったからだ。そういうところには親父は弱いらしく、オレにはない才能だ、と言い、神戸の繁華街で貧乏人など出入り出来ないところで(言葉どおりの貧乏人だったのに)、高い飯を食わせてくれる。学業のことは一切褒めてもくれないのに、おかしな価値観を持った親父だったとつくづく思う。

後年、押し出しの強い個性と、何かがあっても決して負けはしないという根拠のない自信で、集団の中で困ることはなかったが、実はこれが僕の災いの本質だったのかもしれない、といまにして思い当たる。たいした勉強もしていなかったから、自覚はまったくなかったと思うが、親父の思想性は少々右に傾いていたくらいか。僕の学生運動の内実など理解できるはずもなく、その後彷徨して、教師になったと聞いたときの、親父の失望した顔はいまでも鮮明に覚えている。彼の言葉も。「えらい地味な仕事やないか」だった、と思う。

親父に対しては、言いたいことは山ほどある。とは言え、理不尽極まりなかった人だが、決して嫌いではない。僕に暴力的な要素を植えつけたことについては、呟きくらいの文句はある。なぜ呟きなのかと言えば、その後自分で敢えて軌道修正出来ず、むしろ自分の中の暴力性をよし、としていたからである。ともあれ、親父も鬼籍に入って久しい。彼と同い年になり、死の瞬間に、彼はどういう想いを抱きつつ逝ったのか、と少々感傷的にもなるわけである。さて、この年齢を通り過ぎて、これから如何に生きようか?同時に如何に死のうか?な。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○この歳にして、自分探し(3)・・・コーヒーの味がだいなしだ。

2011-12-12 15:59:52 | 観想
○この歳にして、自分探し(3)・・・コーヒーの味がだいなしだ。

自分探しの真っ只中で、自分の存在理由を見失うこともある。自分の感覚に鋭敏になり、この先の残り少ない未来をなんとか意義あるものにしようとすればするほど、空回りすることがあるのである。なにより、歳を食い過ぎている。心地よい体験というよりも、喪失感の方が大きい状況下での模索である。世間知に長けている人たちは、言葉は悪いが、多少の疑り深さで武装しながら、とるべきものを獲り、捨てるべきものを容赦なく捨てるという賢明な?ことも出来るのかも知れない。が、この僕には無理な相談というものだ。

しばしば、他者との距離感がつかめないという訴えを聞くが、ぼくのような歳の人間にとって、少なくとも、若き頃の感性からすれば、他者との距離感などというものは、どんどん無視するのがあたりまえの姿。ブルドーザーみたいに、相手の心の中に割り込んで、よし、とする。これが人間関係の構築の姿だったのである。そうは云っても、僕らの年代の人間だって、歳と伴に徐々に他者との微妙な距離感の置き方を会得する。取捨選択の妙技を駆使するようになる。無論、僕の裡にもこのような欲動が働かなかったと云えばウソになる。しかし、ヘソ曲がりの僕は、この種の世間知を唾棄する生き方を選びとった。行き着く果てはどん底。孤独・孤立の袋小路だという予測がありながら、である。

こう書いたからと云って、自分が雄々しい気分で、このような生き方をしてきたとは決して言うべき立場にはない。むしろ、いまは、前記した世間知は必要なものなのだろう、と思う。それに敢えて逆らったのは、たぶん、僕は幼い頃から、ずっと孤独だったからなのではないか、と思う。両親の祖父母にはよく可愛がられて育った。が、その前提条件を幼いながら、鋭い嗅覚で嗅ぎとってもいたのである。自分が大事にされるのは、一般的な意味云う、よく出来た孫であること。これが絶対条件だということは、身に沁みて分かっていたのである。気をつかった。どうすれば自分が賢く、聞きわけのいい孫であり得るのか、常に意識していた、と思う。

だから、僕は後年、他者との個人的な付き合いにおいて、敢えて自己評価を高めるすべての諸要素を剥ぎとるクセがついた。あらゆる付属物を剥ぎとった後の、自分の本来の姿?(いまにして想えば、何が本質だったのか定かでない)を見せることが、誠実だと錯誤したまま長く生き過ぎたのである。当然のことながら、相手の張り巡らせている心の中のバリアなど、力業で破壊する。そのような行為を通してしか、互いの本質に触れ合わないと信じて疑わなかったのである。現実にこのようなことで、人と絆を構築出来たのか、と問われると、ノン、と答えるしかないのだろう。事実、僕は他者との距離感を破壊して、他者との関係性まで破壊してきたのである。人生のどこかの段階で、これはまずい、と気づきつつ、この旗を降ろすことは、生における敗北である、などと肩ひじを張り続けた。

ある親しい人から、おまえというやつは、自分が投げかけた言動で傷ついた人間の気持ちなど永遠に分からぬ、と批判されたことがある。確かにそのとおりだ。懺悔するしかないが、ただ、この世界というのは、どうも僕には息づまるほどに、人は自分を守り過ぎる気がしてならない。あまりに傷つくことに対して、過敏であり過ぎる。様々なジャンルの芸術作品や、文学・哲学に人間の本質が堆積されているとしても、それが、日常性とブチ切れた状態では、人の精神性に広がりが出てくるはずがない。精神の閉鎖空間の中に、どうして自-他の回路が開ける可能性があるというのだろうか?などと言うこと自体が、その人にとっては、僕の言い訳なのだそうな。こうなると、もはや僕としてはどうしようもないね。

と、僕は、自分が選びとったはずの道程の行き着く果てが、孤独・孤立状態であるわけだから、勝敗は、明らかに僕の負けだ。残りの人生、この負けを背負っていくしかなかろうね。いま、負けを背負うことの意味、負けを生き抜くことの厳しさ、そういうことを考えはじめている。誰も助けてはくれないのだ。自分で後始末はつけねばならない。生死の覚悟の問題として、胸に落とさねばならないのだろう。

それにしても、いま淹れたばかりのコーヒー、いつもよりほろ苦いのは単なる気のせいか?

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○この歳にして、自分探し(2)・・・酢豚の味、チラシ寿司の味

2011-12-11 00:37:48 | 観想
○この歳にして、自分探し(2)・・・酢豚の味、チラシ寿司の味

親父について書いた日記はたくさんあるが、それにしてもおかしな男だった。彼が肝臓ガンでなくなった年齢を遥かに越えてみると、あんな男には絶対になるものか、と思って生きてきたにしては、いま、無論置かれた状況は異なるにしても、生活のうき沈みという観点から見ると、いかにも同じ遺伝子を持っている人間どうしだと感じざるを得ない。

教師になり立ての頃、そう、まだ6ヵ月しか経っていなかった、ある日曜日の午後に、長い間姿を消していた親父が、確か僕より2つ歳下のオナゴ(あの頃はまだ入籍はしていなかったか?二人でとんずらして数年後だ)と連れだって、どこをどうやって捜し当てたのか、僕の住処である見るも無残なボロアパートに唐突に訪ねてきたのである。金の無心。何十万単位。あるわけがない、と言ったら、おまえ、教師なんだろう?学校に貸してもらえないのか?だと。僕もまだ世間知らずだったのか、その場で学校の規定を調べてみたら、1年未満の就業では、学校からも共済組合からも借りることが出来なかったのである。いまは、どういう規定になっているのか知らないが、当時はそうだった。それを説明したら、親父はわけのわからんことを言い出した。自分の預金通帳を預けるから、何とかならんか?だと。何をどう言おうと、逆さに振っても鼻血も出ない。親父の情けなさもどうしようもなかったが、傍に座っているオナゴに恥をかかせてはいかん、と何故だか思い、金を貸せぬ自分に腹が立っていた自分がいた。二人はすごすごと帰って行ったが、夕暮れ時に、アパートの近くの餃子の王将で、いつもの酢豚定食と餃子で、ビールを2本。いまはまったくの下戸だが、その頃は何故だか飲んでいた。同じ味付けのはずなのに、その時の酢豚は酢がきき過ぎていて、妙にすっぱかった。心の底は根拠のない敗北感でほろ苦い味。目の前の酢豚を食べるとすっぱ過ぎた。それからまた、親父とは音信不通。

親父が58歳になる年の夏に肝臓にガンを発症して、入院。叔母から知らせを聞いて、長年会っていなかった親父を見舞いに京都から一人車で訪ねて行った。足の付け根から太いカテーテルを指し込まれて、肝臓のガン細胞を何かの物質で囲い込むのだと担当医から説明を受ける。が、その時の印象は、医学もなんとも原初的な治療法しかやらないんだな、という率直な思いと、それでは治らんだろうにという切ない感覚。痛がっていた親父の枕元に、病院の飯は合わないだろうから、うまい飯でも食えよ、という伝言を添えて、5万円入りの封筒をそっと枕元に置いて帰京した。

秋口には、医者も諦めたのか、退院させた。神戸の北区にある市営住宅まで訪ねていったら、教師になり立ての頃にやって来たオナゴが女房になっていて、女の子までいた。二人の言によると、僕の妹なのだそうだ。僕の下の息子と同じ歳だったから、妙な気分に陥る。昼飯に彼女がつくったチラシ寿司を食す。親父は左手で器用に大盛りのチラシ寿司をあっと云う間にたいらげた。僕はまだ半分。そう云えば、昔から飯を喰らうのが速かったが、ますます加速しているように思えた。何だか無理矢理口に押し込んでいるかのように。病気のせいというより、箸運びの速さに、僕の幼い頃からずっと変わっていない親父の、日常性への不全感を込めて、僕に誇示しているかのように。どう控えめに見ても親父は幸せそうには見えなかった。病気であるから、そうだとも思えなかった。チラシ寿司の味?無論、すっぱ過ぎた。たぶん、2度のすっぱさの過剰さは、親父の人生のドタバタ劇に自分を重ね合わせていたせいで、味覚がおかしくなっていたからだろう。その頃、僕はまだ教師であり、教師なりのジタバタはあったにせよ、生活はそれなりに成立していた。が、自分の日常性に対する不全感は、親父同様に、日々深まるばかりだったのである。その年の2月に親父が死去し、彼の死去の後に、僕の日常性は徐々にだが、確かな?瓦解をし始めるのである。血は争えぬ?確かに。親父が亡くなった年齢を越えて、僕の生活はドタバタの連続と相成った。こういうの、遺伝するものなのか、とかなり真剣に思ったね。馬鹿げてはいるが、これが本音である。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○この歳にして、自分探し(1)

2011-12-09 14:46:33 | 観想
○この歳にして、自分探し(1)

過去の出来事、そして、その各々の出来事によって、自分が何を考え、どのような心的状況に置かれていたのかを、敢えて思い起したくはない、という心境もある一方で、嫌な思い出なんて早く忘れて、前を、未来だけを見ましょう!なんていう世間ずれした、無責任な励まし?の言葉なんて、とうの昔に信用できなくなってもいる。

よく考えてみれば分かることだが、いくら過去に悲惨な体験があったにしても、逆立ちしてもそれをきれいさっぱり忘れ去るなんてことは出来はしないのである。人間はそれほど単純には出来ていない。ただし、意味なく他者の過去をほじくり出すという行為は、その当人が忌避するならば、止めるに越したことはない。なにもそんなことをしなくても、当人には過去の出来事の一つ一つが、拭い難く脳髄の中に刻印されている。その深く刻み込まれた過去の跡を辿りつつ、それを土台にしながら未来を展望するのに、助けを求めているのなら、大いに手を貸してあげればよい。それが人としての優しさだ。ただ、人は常に前を向きたがっているとは限らない。思考停止状態でもよい、立ち止まっていたいときもある。自分にとって大切な人たちが、いま、どの時点にいるのかによって、自分のたち振る舞いのあり方を自在に変えること。これも人としての洞察力のなせるワザだ。

自分探しの旅に関する観想に、上記のようなことを書き添えるのは、自分探しの旅こそが、自己の内面に収斂していくような思想のベクトルでは決してなし得ぬことだからである。自己の内面に沈潜していく精神の彷徨にとって不可欠なファクターは、信頼出来る他者がいるかどうか、なのである。なぜなら、そこにこそ、世界からの、か細い光であれ、それが絶えることなく放射されているのであり、これを換言すれば、自分探しの旅が、世界と断絶することなく、探し当てた過去の残滓の中の、現在に通用するエッセンスが、すべて自己の未来と深くむすび付いているということと同義語であるからだ。

現実に起こった過去の出来事は変わりようがない。なぜなら、それは単なる現象に過ぎないからである。人は必ず生起した現象から影響を受ける。あるいは学ぶ。その影響の受け方、学び方こそが、自分探し(過去の総括をもとにしなければならないのは必然だ)のコア-である。つまり、こう言えるのである。過去の出来事は普遍である。しかし、その出来事から受けた自己の内面と思想の変化、その後の変奏の現象的側面を、僕の解釈から云えば、現象学というのである。現象学の大御所たるフッサールがこれを聞いたとした、たぶん、不満タラタラなのだろうが、そんなことはいまの僕にはどうだってよい。幸い、というか、不幸にも、というか、僕は学者ではなく、また学者になるだけの器量・才能もなかったわけだから。市井の人間の世迷い事、それを僕の自分探しの定義とする。それでなんら構わない。過去の出来事は人生の総括として、すでに書きつづってはきた。が、同じ現象であれ、その現象をどのように解釈し、評価するのか、はたまた、それらが、自己の未来に向けてどのような足がかりがあるのか、再確認する必要がある。同じ現象であれ、異なる角度から見返せば、様相はまるで違ったものにみえるものだろうから。あるいは、これまで語り得なかったことは、すべからく書き切ろうとも思う。何のために?無論、自分と、自分に関わってくれる大切な人たちのために、である。まだまだ、自分には未来が開ける可能性があると思っている。おとなしく、この人生舞台から降りるつもりはない。さて、今日は<自分探し>へのプロローグである。どこまでもエビローグに辿りつきそうな予測の立たないブロローグなのである。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○人間、心が閉塞していくことが最もいけないね。

2011-12-08 20:02:58 | 宗教哲学
○人間、心が閉塞していくことが最もいけないね。

人の心を閉塞させていく、大きな要因は人が孤立していることではない。それよりも、むしろ、どのようなかたちであれ、盲目的な価値を追求するような、人間の集団の中において起こる現象なのである。この種の例を捜せば限りなくあるので、分かりやすいもので語る。たとえば、狂信的な新興宗教における、信仰という名のもとに追求される、世界と寸断された価値意識。そして、それを求めるために、人は特異な集団の中で、自己の自由闊達な思想の広がりを自ら閉じる。絶対者の存在が必然で、思想の広がりを封じ込めてしまうのだから、信仰を通じた世界観の広がりなどは望むべくもない。そこにあるのは、限られた人間集団の中でしか通用しない閉塞した価値観の追求のありかたである。だからこそ、おかしな新興宗教ほど、執拗な勧誘を、詐欺的な勧誘まで含めて、信者を募るための最重要課題とするのである。無論、信者勧誘の目的の中に、銭金の収奪が合理化されているのは当然のことだ。そもそも宗教というものには、新興であれ、既成のそれであれ、銭金がかかるのである。宗教者の堕落の底深い穴は、そこここにアングリと口を空けているわけだ。 

新興宗教というものにまともに関わり合ったことが一度ある。既成宗教教団を、勤務する学校から、追い出そうとし、それが原因で失職して、精神的失落感と金銭的困窮の果てに、憎悪していたはずの宗教にハマったのである。もっと正確に云うと、何気なく知った、谷口雅春という宗教者の著作に惚れこんで、いま読める本はすべて読破したと思う。200冊くらいか。ご存知の方も多いと思うが、谷口雅春が起こした宗教教団とは、生長の家と呼ばれている。僕は、谷口の宗教哲学の真理や美しさに心惹かれたのである。もし、この多筆な宗教家の末裔たちが、現代においても同じ理念と宗教哲学を受け継ぐ教団ならば、そこに足を踏み入れるのもやぶさかではないと思ったわけで、京都の東天王町にある教団事務局に連絡を入れたのである。将来の希望をまったく奪われ、金銭的困窮もひしひしと身に迫っている中で、ここで出会った人々は、例外なくすばらしい人々たちばかりであった。あの、日本最大の宗教教団が、自分を追放し、そこの僧侶たちが一応に銭金の亡者に近い存在だと云う認識を一変させてくれたのは、生長の家の人々である。

もう一度、他者という存在を、他者が集う場を信頼してみよう、と思いかけたとき、僕は自分が住んでいる地域の、サブ・リーダーになり、いろいろなところで毎週行われる学習会の地方講師にならんとしていたのである。学習会の教材は当然のことだが、谷口雅春の著作を使うのだが、谷口の宗教哲学に心酔していた僕の感性は、学習会で語られる内実が、また、谷口の宗教哲学が、信仰心を深めるためだけの、教条主義に陥っていることに深い疑問を感じ始めたのである。根っからの無神論者が、己れの思想を根底から覆そうとしているのである。自分の裡に在る、谷口雅春の宗教哲学と、現実の宗教教団における教条主義との落差について、論述した文書を僕の所属部署にも、本部にも投げかけた。宗教者になるための、どうしても避けては通れぬ岐路だったからである。僕が谷口雅春に違和感を持った点といえば、谷口がたいへんな右翼的思考の持ち主だったという点だけだ。元極左的思考の持ち主だった僕にとっては、乗り越えることの困難な壁だったにせよ、それを上回る哲学的高みを目指す価値があったのである。著作の中で、肉食を断つべきことを説いていたから、僕の食卓からは、一切の肉食に関わる食物は姿を消したくらいなのだから。

ところが、である。僕の提出した文書は、大きな波紋を投げかけたのである。僕は完全な異端者として、忌避されるようになった。生長の家の人々は、まず、「ありがとうございます!」からはじまって、丁寧語だけで喋る。笑顔を絶やさない。しかし、すべての距離感をつめるために発した僕の文書によって、宗教教団としての生長の家の人々は、僕を危険分子と見なし、排除することに徹したらしい。彼らの態度が豹変した。まあ、おとなしい豹変の仕方だったけれども。

閉塞した集団の中であるからこそなし得る善意というものがあるようだ。しかし、これはいかにもおかしなことなのだ。善意が概念どおりの意味を持ち得るものならば、当然、広がりのあるものでなければ意味がない。閉塞したところからは、価値あるものなど生まれることはない。これが僕の信念である。もう一つ付け加える。ほぼ100%の宗教教団は、世襲制(ネポティズム)という悪習を捨てられない。谷口雅春にしてそうだ。優れた高弟はたくさんいたのに、娘婿をとった。いまは、その息子が総裁のようだ。世襲制こそ、人間から平等性と可能性を奪い去る元凶である。これを棄てられる人間集団こそが、次代を背負っていける存在なのだ、と確信を持って言える。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○人間の強さ、弱さって、いったいどういうことなんだろうか?

2011-12-06 14:00:30 | 観想
○人間の強さ、弱さって、いったいどういうことなんだろうか?

新党大地代表の鈴木宗男が仮釈放で、今日出所してきたそうな。二度目の収監からの復帰である。一度目などは、収監中に胃ガンが見つかり、手術して、ガンすら乗り切った。鈴木は強面の中川一郎の秘書だった。ところが、当の中川一郎は、総裁選で敗北して、それが原因だったのかどうかは分からぬが、ホテルのバスルームのドアノブにタオルをかけて縊死した。どう控えめに見ても、自死するようなタイプには見えなかったのに。鈴木宗男が犯罪者として裁かれたということは、政治家として権力を恣意的に行使し過ぎたからだが、それにしても、一度目の収監後の総選挙では当選しているわけで、まあ、逞しいとしか、形容のしようがない。中川一郎の息子の中川昭一と熾烈な選挙戦を闘ったが、そのときは、選挙地盤を受け継いだ中川昭一に敗北したと記憶する。それでも、その後衆院議員となるわけだから、鈴木宗男という人の精神の強靭さをどう解釈したらよいものか、よく分からない、というのが僕の本音である。もはや、政治家としての資質の問題などという次元を超えて、唖然とするほどにこの人の精神性に興味が湧く。たぶんアル中だっただろう、政治家としては、サラブレッドだった中川昭一は、すでにこの世の人ではない。変死だった。

そう云えば、田中角栄は、総理大臣として憲政史上初めて、ロッキード事件で有罪判決を受けて収監されて、その後も影の総理などと言われてはいたが、腹心の竹下登に裏切られて、いまはバカみたいに安い酒になってしまった、当時の高級酒の代表格だったオールド・パーの過飲にて、脳溢血で倒れ、政界から実質的に引退せざるを得なかった。政治の栄光も汚辱もすべてを一身に引き受けた、古典的なタイプの、庶民的な強さを売りにしていた、あの田中角栄が倒れるかなあ、という素朴な驚きを味わった人は僕だけではなかっただろう。無論、「田中角栄研究」における立花隆の田中角栄批判の立論には賛意を称しつつも。

人間の精神の強靭さ、脆弱さは、いったいどのようにして決定されるものなのか、まったく分からないという方が、事の本質から云って妥当な判断の仕方ではなかろうか。難関辛苦も何のその、という感じで、前に前に突き進む。そのまま生き残るかと思えば、ある日ポキリと折れる。あるいは、まったくヤワな感性なのか、と思っていた人が、折れそうで折れずに、生き残る。極端な比較だが、こういうことが人生においてはしばしば起こる。人間の精神とは如何に不可思議なものなのか?

僕はここで、人生の辛苦に耐える術を述べるつもりなど毛頭ない。敢えて言うなら、そういうことの無意味さだけは、よく分かっているだけである。自分でもなぜいままで生き残ってきたのか、よく分からない生き方だった、と思う。感傷主義的な思い入れではなく、実際に、生と死の境を行き来するようなタイトロープのごとき生の軌跡だった、と思う。他者に伝えるべき、生きるための、生き抜くための、なにほどの方法論も持ち合わせてもいない。無責任なようだが、人生など、一瞬先は闇なのである。生きるとは、闇の中を手探りで突き進むことそのものではないか?闇の中で足が滑って、自死へ傾斜して、何度かそういう経験を踏んで、やはり生き残った限りは、また人生という闇の中へ、今度は足を踏みしめながら、入り込んでいくしかないのだろう。一瞬先は闇にしても、漆黒の闇の中で、しっかりと足を踏みしめてさえいれば、なんとかなりそうな気がしている今日この頃である。今日の観想として、書き遺しておこうと思う。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃