○この歳にして、自分探し
もはや、この歳にもなれば、失敗多き人生であっても、これまでの生の総体の中から、残された時間を、できるだけ自分にとって意味あるものにするために、生きてきたプロセスの中から、適当な素材を取捨選択し、それらを抽出する時期に来ているのだ、と思い込んでいた。違う角度から見れば、もはや新たな価値の発見はないのだろうと思っていたとも言える。つまりは、僕にとって、人生の収束の時期にさしかかっているのだと思っていたのである。
社会生活上の失敗も、私生活上のそれも、誤謬の原点は、自分の価値意識が絶対であると思い込んでいたことである。無論、相対的な価値の存在理由についての理解と認識は、かなり意識的に自分の裡にとり込んでいたつもりであった。しかし、決定すべき最後の最後に、必ず顔を出して譲らないものが僕にはあった。自意識の絶対化されたもの。それを自我と呼ぶにはあまりにも頑強なものだった。こいつは、かなり難問であり、譲歩すること=敗北である、という、妥協なき転倒した自意識である。我執!このタームが最も妥当なものに違いない、と思う。
パリがどんな街なのか、映画の中の数ショットくらいの認識しかないのに、僕はボードレールの「パリの憂愁」の散文詩の意味が分かると思い込んでいたし、いや、その前提として、原口統三の「二十歳のエチュード」(もはやいまの青年諸氏には聞いたこともない作者と作品なのだろう)の、鋭く尖った自意識だけが、散文と云うかたちの中で踊っているような、無骨な生活感覚をこれでもか、というくらいに剥ぎとった作品に酔っていたのである。ここから、フランス文学やロシア文学へ傾斜していく幼い精神性の中に、精神の寛容さが生まれ出る可能性があっただろうか?10代の後半期である。この後の読書体験は、アメーバの増殖ほどに広がってはいくが、逆に、生活感覚の広がりとは決して繋がらず、むしろ頑ななまでの精神性の収斂の坂道を転げ落ちるかのごとくに、僕は偏狭な人間に成り下がっていった、と思う。
もはや、我が息子たちに対して、如何なる言い訳もしない。自己正当化など、もはや僕の方が懲り懲りなのである。父親なんて、生活人としての凡庸さを子どもに見せてこそ、子どもは安心して他者の中に歩み出していけるというものである。僕は、少なくとも子どもを産み育てる家庭など創る資格のない人間だった、とつくづく思う。自分の中に芽生えんとする凡庸さを拒絶することが、そして、拒絶してこそ立ち現れるはずの(と思い込んでいただけである)価値意識を体現することが、父親としての役割であると錯誤した。考えてみれば、そんな父親が家にいれば、うっとうしくてかなわないわなあ。さらにまずかったのは、自分の感情を露わに出し過ぎたことである。感情の表出は、思想の表出そのものである、と勝手気儘に思い込んでいただけだ。要するに、自分勝手なことを声高に言い、自分勝手な行動を言葉で正当化していただけのことだ。出来の悪さもここまで来ると、タチが悪いのである。ただ、根っ子には、子どもたちに、自由というものの意味を知らしめたいと思っていたから、昨今目立って多い、単純な支配―被支配というような共依存的な関係性にはならなかった、とは思う。しかし、この自由の概念も、僕の我執から見える括弧つきの自由であり、そこからはみ出る言動は、凡庸でつまらない、ということになるわけで、まあ、幼い息子たちから見ても、最も父親らしくない人間が家の中に居座っているという想いだったのだろう、と推察する。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
もはや、この歳にもなれば、失敗多き人生であっても、これまでの生の総体の中から、残された時間を、できるだけ自分にとって意味あるものにするために、生きてきたプロセスの中から、適当な素材を取捨選択し、それらを抽出する時期に来ているのだ、と思い込んでいた。違う角度から見れば、もはや新たな価値の発見はないのだろうと思っていたとも言える。つまりは、僕にとって、人生の収束の時期にさしかかっているのだと思っていたのである。
社会生活上の失敗も、私生活上のそれも、誤謬の原点は、自分の価値意識が絶対であると思い込んでいたことである。無論、相対的な価値の存在理由についての理解と認識は、かなり意識的に自分の裡にとり込んでいたつもりであった。しかし、決定すべき最後の最後に、必ず顔を出して譲らないものが僕にはあった。自意識の絶対化されたもの。それを自我と呼ぶにはあまりにも頑強なものだった。こいつは、かなり難問であり、譲歩すること=敗北である、という、妥協なき転倒した自意識である。我執!このタームが最も妥当なものに違いない、と思う。
パリがどんな街なのか、映画の中の数ショットくらいの認識しかないのに、僕はボードレールの「パリの憂愁」の散文詩の意味が分かると思い込んでいたし、いや、その前提として、原口統三の「二十歳のエチュード」(もはやいまの青年諸氏には聞いたこともない作者と作品なのだろう)の、鋭く尖った自意識だけが、散文と云うかたちの中で踊っているような、無骨な生活感覚をこれでもか、というくらいに剥ぎとった作品に酔っていたのである。ここから、フランス文学やロシア文学へ傾斜していく幼い精神性の中に、精神の寛容さが生まれ出る可能性があっただろうか?10代の後半期である。この後の読書体験は、アメーバの増殖ほどに広がってはいくが、逆に、生活感覚の広がりとは決して繋がらず、むしろ頑ななまでの精神性の収斂の坂道を転げ落ちるかのごとくに、僕は偏狭な人間に成り下がっていった、と思う。
もはや、我が息子たちに対して、如何なる言い訳もしない。自己正当化など、もはや僕の方が懲り懲りなのである。父親なんて、生活人としての凡庸さを子どもに見せてこそ、子どもは安心して他者の中に歩み出していけるというものである。僕は、少なくとも子どもを産み育てる家庭など創る資格のない人間だった、とつくづく思う。自分の中に芽生えんとする凡庸さを拒絶することが、そして、拒絶してこそ立ち現れるはずの(と思い込んでいただけである)価値意識を体現することが、父親としての役割であると錯誤した。考えてみれば、そんな父親が家にいれば、うっとうしくてかなわないわなあ。さらにまずかったのは、自分の感情を露わに出し過ぎたことである。感情の表出は、思想の表出そのものである、と勝手気儘に思い込んでいただけだ。要するに、自分勝手なことを声高に言い、自分勝手な行動を言葉で正当化していただけのことだ。出来の悪さもここまで来ると、タチが悪いのである。ただ、根っ子には、子どもたちに、自由というものの意味を知らしめたいと思っていたから、昨今目立って多い、単純な支配―被支配というような共依存的な関係性にはならなかった、とは思う。しかし、この自由の概念も、僕の我執から見える括弧つきの自由であり、そこからはみ出る言動は、凡庸でつまらない、ということになるわけで、まあ、幼い息子たちから見ても、最も父親らしくない人間が家の中に居座っているという想いだったのだろう、と推察する。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃