徒然日記

日々の記憶

娘の声

2006-07-06 20:44:05 | 家族
 一昨日のこと。お風呂に入ろうと服を脱ぎ、湯船に片足を突っ込んだところで電話が鳴った。今頃だれだろうと耳を澄ましていると、すぐに留守電になった。近頃は、家の電話にかかってくるといえばセールスの電話くらいだ。多分、またそうだろうとは思ったが、もしかしたら入院している娘が何か必要なものを持ってきてほしいというのかもしれないと思い直し、あわててタオルを体に巻きつけた。ちょうど留守録が始まったので、体をふきつつ洗面所から飛び出すと、
電話の「メッセージをお話ください。ピーッ」に続いて、
「あっ。。。」と小さな声がしただけで電話は切れてしまった。
「ああ、これはもう、娘からに違いない。私が留守だとでも思って切ってしまったんだ。」と思うといてもたってもいられない。タオルを巻いただけの姿で子機を持って洗面所にとって戻り、入院先の病院に電話をかけた。
「あの病院て、入院患者に電話の取次ぎなんてしてくれるんだっけ。」と一瞬思ったが、だめもとでかけてみると、快く小児科病棟へと回してくれた。
「すみません。あの○○ですが、お世話になります。あの~~・・・うちの娘が家に電話をかけたみたいなんですけど、切れてしまって・・・」としどろもどろに言うと
「はい、変りましょうね。」
なんだ、電話、全然オッケーだったのね。
電話に出た娘は
「もしもし、お母さん!」
「Rちゃん?さっき、うちに電話したでしょ。」
「え??ううん?してないよ~~。」
「そうなの?さっき留守電が途中で切れたからてっきりRちゃんだと思っちゃった。」
「あ~~~、でもねぇ、ちょうど電話かけようかなあって思ってたところだったの。用があったんだよ。」
そんなやりとりがあって、結局今となっては、その用がなんであったか既に忘れてしまった私であるが(だめじゃん!)、その用事の内容はともかくとして、とにかく娘の声の可愛かったこと。
 よくよく考えたら、携帯も持ってない娘と電話で話すということはめったにない。だから、すごく新鮮だったのだ。受話器を通して聞こえてくる声は、思っていたより幼くて、守ってあげたいような気持ちになってくる。電話を切った後も、その声を思い出しては、
「ぐふふ・・・」と笑っていたのだった。付き合い始めたばかりの恋人同士が、電話で相手の声を聞くだけでうれしいという気持ちがよくわかるなどと、ちょっと見当違いなことを考えたりもした。それにしても、あんな可愛い声の子が自分の娘でよかったなあと親ばかぶりを発揮して幸福な気分に浸ったのだった。

 子どもといえば私には息子もいるのだが、これは昨日の夕方のこと。私が娘の病院へ行こうとすると、そのすぐ近くの歯医者に予約が入ってるという息子。それじゃあ、一緒に車で行きましょうということになり、マンションのエレベーターを待っていたら、中から出てきたのはお隣さん。挨拶をした後、私と息子がぺちゃくちゃと話してるのを見て、
「すごく仲いいねえ。。なんか、うらやましいなぁ。。」って。
そのお隣さん、幼稚園児のかわいい息子の手をひいてて、ちっともうらやましがることなんてないと思うんだけど。
 それでも、よその人にあらためて言われてみると、やっぱりこんな息子がいてよかったなあと思ったりする。すごく手がかかるけど、手がかかることがうれしいんだから、この親ばかっぷりもしょうがない。子どもの存在に幸せを感じられる、自分の平和で平凡な人生をありがたいなあと思った。

 ところが今朝の夢はどうだ。家族や知人と海に来ているのだが、その沿岸部から砲弾射撃で鉄砲の玉みたいなのがびゅんびゅんと飛んでくる。目の前の海は、降り始めたばかりの大粒の雨粒のように円を描いているが、これは、玉が落ちた後なのだ。気がつくと、海の家みたいなところへ座っている私たちのすぐ横にも、鉄砲玉は飛んできている。
「もしかしたら、いつまでもここにいるのは危ないんじゃないか。」と思って、後ろを見ると、山がある。
「そうだ。あの山の裏側に行けば、もう弾にはあたらないに違いない。」
それから、身支度をして、そこにいる人たちに「あっちへ行こう」と誘う。でも、いざ歩き始めてみると、その山を車で1時間以上かけて超えてきたのだ。歩いて戻るのは大変である。
「そうだ。車はどこへ置いたんだっけ?」と考えると、今いるところから歩いて10分くらいも離れた駐車場だ。なんだかそこまで行くのはとてつもなく遠い気がしてくる。だからといって、徒歩で山を越えるのはもっと大変だ。どっちにしようと迷っているところで、携帯のアラームが鳴ったのだった。

 起きてから、この夢はなにをいいたかったんだろうと考えてみる。海の家にいるという一見平和な私の世界は、実は危険とすぐ隣り合わせにいるんだよという警告だろうか。北朝鮮のミサイルのニュースのせいで、戦争に対しておびえてる私がいるのだろうか。なんたって、あのわけのわからない指導者のいる国だ。何が起こるかわからないという危惧を感じたのは確か。戦争になんてなって、息子を戦争にとられるなんてことになったら、絶対にいやだ。これ以上嫌なことは世の中にないだろうと思えるほどにいやだ。とりとめもなく、暗い思考が広がっていく。。

 でも、いつの時代だってそうだったと思い直す。昭和の初期にモガだといわれて銀座の街を闊歩していた人が、数年後の戦争を予想しただろうか。。諸行無常だ。ゆく河の流れは絶えずしてだ。月日は百代の過客にして・・・これはちょっと違うかもしれないけど、とにかく昔の人がいうように今をせいいっぱい楽しく生きるしかないのだと思う。大きな歴史の中の本の小さな時間を借りて生きているだけだけど、だからこそ悔いを残したくない。可愛いものを可愛いと愛でて、やりたいことをやって幸せを感じて生きていく。娘の小さな声を聞いて、そんなことまで考えてしまったお気楽な私であった。

 

病院に落ち着く

2006-06-09 22:45:52 | 家族
 前回の日記に書いた通り、甲状腺機能の値が高い娘は、学校へは送り迎えをしながら通ってみて、1週間様子を見るということになっていたのだが、翌日からもう身体がだるくて学校へはいけず。無理をして、余計悪くなってもいけないので休ませたが、その次の日もやはり同様。
 ここにきて、娘もいろいろと考えたようだ。
「やっぱり、入院したほうがいいのかな。このままずるずると学校休んで、勉強とか遅れるって心配するのもいやだし。来週の検査でやっぱり入院てことになるんだったら、今からしといたほうがちょっとでも早く治るかもしれない。それにもう、入院になるかもしれないって思うことに疲れた。」
というようなことを、ぽつぽつと話し始めた。
 娘にとっては、部活にいけなくなった時点で、学校に対する執着はかなり薄くなったらしい。部活に早く復帰するためには、入院が一番の早道だと考えたのかもしれない。
 それに、学校を休んだ二日間で、身体に発疹のようなものが出ることがあった。瞬間的に出ては消えるのだが、かなり痒いという。薬の副作用に発疹というのがあったので、そちらも心配になってきた。
 そんな風に学校を休んだ1日目と二日目の午前いっぱい悩んだ末に、病院へと出かけた。午後診がちょうど担当医の外来だったのでちょうどいい。
 そして、案の定という感じで、
「やっぱりねぇ、心臓がかなりタンタンいってるよ。えらいでしょう。入院したほうがいいんだよお。」笑いながらおっしゃる。
 「入院となると、また以前のように3ヶ月とかかかるんですか?」と尋ねると、ドクターの目がきらりと輝いた。
「うん?いやいや、今度は1ヶ月を目標に頑張ってみよう。今からだと7月の頭までだね。うん、悪くとも、夏休みは自宅に戻れるようにしよう。」と、猛然と説得モード全開だ。
 それに調子を得た私。
 「院内学級は、入るまでに1週間とかかかりますよね。」と尋ねると、「いやいや、もう月曜には入れるように手配しよう。中学はどこだったかね?」
「○○中です。」と娘。
「おお~~~そりゃちょうどいいじゃないか。うちの院内学級はその○○中になるんだよ。先生も○○中からやってくるよ。先生の名前は確か森田先生と言ったかな。」といきなり多弁になりながら、病院用のPHSを取り出した。
「もしも~~し、院内学級の先生の名前なんだっけ?森田先生?あ~~違う。○△先生ね。あはは、わかったわかった。」といってPHSを切った。
「いやあ、全然違ってたねえ。。あははははは。でも、○○中とは連携してるから、これ以上安心ってことはないほど安心だよ。」って・・・。

 そうなると、やたら忙しくなる。身体がえらいから安静じゃなかったのかと言いたくなるほど、胸のレントゲン、心電図をとりにいかされ、戻ってみると、今度は喉のお写真をと、病院中を歩き回る。
 その後は、看護婦さんの案内で小児科病棟へ行き、私は院内学級の先生と顔合わせ&説明、小児病棟での入院の説明を受ける。娘はその間に、採血やら部屋への移動やら。
 それからやっと、準備に戻ることになった。微妙なお年頃なので、本人も戻って準備したいという。外出許可願いを書いて、ふたりで家に戻ってきた。入院の手引きを片手に入院必要グッズを揃える。娘は勉強道具やテディベアを袋に詰めて。あれ、パジャマは洗ってないのがミニモニのしかないので嫌だという。あわてて、スーパーに買いに走る。
 入院とはなんとも慌しく、体力のいるものである。

 それでも、入院してしまうと私のほうは返って開き直った気持ちになった。もうこうなったらジタバタしても仕方ない。1ヶ月間、ゆっくりさせることにしよう。
それまでの、曇った気持ちも少しだけ晴れてきた。もう、泣かないわという感じ。
 それでも、今回の騒動でいろいろあったものの、私自身の食欲が落ちたのには驚いた。これはまだ、回復ならずだ。食欲がないとご飯を作る気にならないのね。だからといって、外食をしようという意欲もわかない。とりあえず、昨日は時間がなかったので、外で食べようということになったのだが、もうなんでもいいやという感じ。「おいしいものを食べに行きたい~」と思えるってことは、幸せなことだったんだなあ。
 そういえば、この入院騒動の前に食べた和食。久しぶりに会った友達が予約してくれて写真も撮ったのに忘れていた。
せっかくだから、記念にアップしておこうっと。

    

最初は、少しずつおかず。飲みたくなるけど、車なので我慢。
素敵なカップに入った茶碗蒸し
この器も素敵鯛そうめん
蒸籠に入ってるのは散らし寿司、もれなく赤出し
デザートは黒蜜のわらびもちとコーヒー

 Sさん、ありがとう。また行こうね


ああ、もう、なんてこと!

2006-06-06 23:04:38 | 家族
 この春、中学生になった娘。髪の毛をふたつに結んで、セーラーから覗く華奢で折れそうな足は、ミニーマウスみたいなんて思った。こんなに細くてちっこいのに、中学にいってやっていけるのだろうかと不安になったりしながら、それでも、中学生になった喜びでいっぱいの娘を見守るしかなかった。

 小学校では、思いがけず甲状腺の病気になって、一年生の時に3ヶ月、三年生で半年近くも入院を余儀なくされた。小児病棟というちょっと物悲しい響きのある病室に入院し、病院内に設置された院内学級に通った。
 退院してから戻った学校では、「あんた、だれ?」などと言われるいじめを受けたのだと、何年も経ってからうちあけられた。それでも、普通に健康でいることを目指して、どれだけ頑張ったろう。月に一度の退院外来はかかせないものの、みんなと同じように小学校生活を無事に終えることができた。薬は飲みながらだったが、病気の存在は普段、ほとんど思い出すことはないのだった。

 「中学生になったら、少しでも体力をつけたいから絶対に運動部に入りたい。今は体育苦手だけど、みっちり運動部で頑張ったら、普通くらいにはなれるよね。だから、運動部ならどこでもいい。入れてもらえるとこならそこに入る。」という娘の言葉を、ほんの少しの誇りと、応援していいのだろうかという揺れる心で聞いた。
 それでも、卓球部に入部が決まり、その時に見せた笑顔に、「これでよかったんだ。」と納得したのだが。。やはり、そこで止めておくべきだったのだろうか。無理に運動部に入らせる必要はなかったのだろうか。
 卓球部に入ってのはりきりようは、すごかった。もちろん、運動神経はいいとはいえない娘のこと。外周を走るのだって、新入部員の中では一番ビリ。それが、一日、二日と経つうちに、
「今日はビリじゃなかった。」
「今日は前から4番目だった!!」
「今日はね!!!2番だったんだよ!!!」
と目をきらきらさせて報告する。
 すごくすごく一生懸命頑張っていたんだろうな。

 中学になったからといって、退院外来は決まったようにいかなければならない。毎月一度行っては、血液検査を受けて悪化してないかを調べてもらう。よくても、薬は飲み続ける。この月に一度の検査のために、部活を休まなくてはならない。他の子に遅れるから休みたくないというのを、そうはいかないでしょと説得しては迎えに行っていた。
 4月・・・「少し悪くなっているよ」と6年来の担当医師に言われる。
 5月・・・「前よりもまた少し悪くなっている。今月もういちど来て。」
 5月2回目・・・「よくないなあ。薬の量を増やすからね。」
 そして、今日。「変らないなあ。あれ?心臓がかなりたんたんいってるじゃない。これ、えらいでしょう。喉もかなり出てる。」
「う~~~ん。ここまできたら、えらいな。入院するしかないな。」
 もっとも恐れていた言葉だ。悪い値がさすがに3回も続いた後は、こういう結果になるんじゃないかと、先生の言葉を先回りして、何度も思い描いていた。そして、もし、そうなった時には、せめて入院しないですむように、お願いしようと決めていた。
 他の病気と違って、入院したところで治療をするわけではないのだ。薬をきっちりと飲むことしか治る方法はないのだから。
 でも、先生の苦渋に満ちた顔を見ていると、中々言い出せない。
娘はというと、今にも泣き出しそうな顔をして、
「せめてそれなら、18日が過ぎてからにして。18日の卓球の試合は見に行きたい。」と蚊の泣くような声で訴える。もちろん、独り言だ。
 ふと横を見ると、いつもついてくれる看護師さんが、すごくつらそうな顔をしていた。かわいそうでたまらないという表情だ。それを見て、勇気を得た。「やはり、入院になんかなっちゃったら、かわいそうだ。部活だけじゃなくて、勉強だってあんなにはりきってるのに。
「先生、送り迎えしますから、学校では勉強だけにしますから。やっと中学生になったばかりで、今入院するのは、つらいと思うんです。」
 横で、看護師さんが「うん、うん」というように、つらそうに目を伏せたまま相槌を打ってくれている。
「うーん。。気持ちはわかるよ。でもねえ、入院したほうがいいんだよ。でもなあ。。じゃあねえ、1週間だけ様子を見よう。送り迎えしてもらって、体操はだめだよ。」ということになった。
 
 1週間後にまた検査を受けることを約束して、とりあえずは、1週間の猶予はできたわけだ。とはいえ、この病気、なるときはあっという間だけど、治るのはゆ~~っくりなんだよね。よっぽどのことがないと、1週間後によくなってる自信は私にもない。もしかしたら、1週間先延ばしになった分、しんどい思いをさせるだけだろうか。

 頑張ってる子に、「頑張れ、頑張れ」って言い過ぎただろうか。
 ストレスが原因だといわれるこの病気。もっと私が気を配るべきだったのだろうな。もともと、私もなった病気だ。遺伝性もあるといわれるこんな病気に、どうしてなっちゃったんだろう。
 いくら考えても、どうなることではないとわかってるけど、振り返っては自分の言葉を思い出したり。ああすればよかった・・・と思ってみたり。まさに、後悔というのは、後になって悔いることだなと、今更ながら思ってみたり。
 すごくひさしぶりに凹んでしまった。久しぶりすぎて、この感情に対して対処の方法がわからない。「だいじょうぶ。命までとられる病気に比べたら、ぜんぜんいいほうじゃん。」などと思うようにするのだが、気を許すと涙が出そうになる。憎たらしい息子ならともかく(そりゃ、息子がなってもいやだけど)、こんなにけなげな子に、どうして神様は意地悪をするんだろう。。