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昭和の記憶を忘れながら
街並み散歩・いろいろな

五箇山の流刑小屋

2013-10-18 | 中部の記録 昭和






                                                                                      昭和47年08月撮影

 流刑小屋概要
 江戸時代、五箇山は加賀藩の流刑地となっていた地域で、寛文7年(1667)に初めて罪人が送り込まれました。流刑地は猪谷、小原、田向、大島、篭度、大崩島、祖山の7集落に限定され明治維新まで150から200人の罪人が刑に服しました。7つの集落は全て庄川右岸に位置し橋が掛けられていなかった為、逃亡が困難で1人では渡れない篭の渡し(両岸に太い藤づるを渡し、篭を吊り下げて往来したもので、軍用の硝煙の産地でもあった為、秘密を守る必要があったとも言われています。)を使用されていました。この建物は明和年間(1764~72)に流刑小屋(お縮小屋:建物外には一歩も出れなく食事は牢番から柱の穴から差し入れられた。)として建てられもので切妻、妻入り、茅葺、間口2.6m、奥行き3.6m、高さ3m、外壁は強度と耐久性の強い栗材が採用され、食事の差し入れ口や格子戸、便所といったものが設けられていました。明治時代以降は小屋や物置として利用されていましたが昭和38年に豪雪で倒壊したことで復元保存されることになりました。全国的に見ても流刑小屋の遺構をほとんど見る事が出来ず民俗学上貴重な存在で昭和40年に富山県指定有形民俗文化財に指定されています。

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