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ひょみすふぃあ。―一時避難所(更新停止)―

半年間ここで雨露しのいでました。

ギンガ系。

2005-08-30 | 聴いた。
さて本日総選挙が公示されました。…という話は今はさておき。

ギンガです。銀河じゃありません。Guingaと綴ります。ブラジルの方なのでファーストネームというよりは「呼び名」なのかなあという感じもします。作曲家です。ギターも弾きます。歌も歌います。でも、何よりその独特の和声感覚とメロディラインで作曲家としての認知が高いです。

そんな訳で、私も本人名義の作品は聞いたことがなく、セルメン(Sergio Mendes)やレイラ・ピニェイロ(Leila Pinheiro)などによる演奏でだけ、その不思議にねじくれた、それでいて軽妙な音楽世界に触れていました。ギンガのご縁で遊んでいただいている金井さんも同様だったようです。ところが、金井さんはギンガの自作自演を聴いて、他者によるカバーが物足りなく感じるくらいハマったとのこと。そこで私も、ブラジル指南役のなべぞうさんからCDを借りて聴いたのですが…これが、スゴイ。

確かに、薄々思っていたんです。半音階だけでなく、不安定な分数コードやルート音外しやディミニッシュを多用する、どことなく不安定な移ろいを見せるギンガの作品に、レイラのピンと背筋の張った「上手い歌」では十分に良さが出てないのではないか、と。その点、今回お借りしている3点、"Delirio Carioca", "Cheio De Dedos", "Cine Barones" (業務連絡: "Noturno Copacabana"の中身違いでウチに来てます>なべぞうさん、源之新さん)はいずれも、ストリング含めた繊細なアレンジに乗せて、そよ風にさえ揺らいでしまいそうなギンガの声が歌い、えも言われぬトリップ感を醸し出します。

ムード・ミュージック、という言葉はあまり褒め言葉としては使われませんが、ある意味ギンガの自己名義の作品は、究極のムード・ミュージックだなと思いました。部屋にこの音を流した瞬間、部屋がそのあやうく脆い世界の光に染まり切ってしまうような感じ。これは、病みつきになります。

Fonteに注目!

2005-08-14 | 聴いた。
スーパーインストゥルメンタルトリオ"Fonte"(フォンチ)ライブ@北青山プラッサ・オンゼに、ジョイスの時同行いただいたお二方と行ってきました。私は一年振りなのですが、相変わらずのはじけぶりに感嘆。素晴らしい。

でも今日一番頭に残ってる話はお二人とも、吉田戦車の描く「みっちゃんのママ」(ご存知ないかたはぜひこちらを)のように、もし子供がいたらウソ教えまくりたいってことです。みんなイカレてますから! というわけで本題は後日。

<というわけで8/20ようやく追記>
帰省して、帰省先から直接午後出社して水曜日。いやーよく働きました。と報告遅れの言い訳はさておき本題です。

帰省直前ということで家を片付け仕事をやっつけ、約束の6時に30分は遅れて到着。その前にお二人は私のドッペルゲンガーさんを見たらしい(正体は店員さん)。中華食べつつ一頻りお喋り。「みっちゃんのママ」の他にも面白い話山盛りでしたがまだ内緒です。

プラッサ・オンゼに移動したのは開演定刻の8時。たいがい定刻には始まらないよという金井さんの予想に反してすぐに始まる。渋い選曲での滑り出しにしんみり聴き入ってたのですが、ギンガ作品やギターの小畑和彦氏オリジナルの"Cataplana"あたりから、楽曲の捻れはじけっぷりに乗せて三者ともテンション急上昇。Edu Loboの名曲"Casa Forte"などでのスリリングなインタープレイに鳥肌です。

昨年の今頃に初めてFonteを観たときは、安井源之新氏のパンデイロ技やデジタル・ディレイを駆使した一人バトゥカーダに目を奪われたものですが、今回は金井さんから着眼点のアドバイスもあり、フルートの中川昌三氏に注目。というか、変幻自在なインプロヴィゼーションは圧巻でした。緩急を自在に切り替えながらグルーヴにきちっと乗ってる。体でリズムを取りながら聴いてると実にハマります。端正できれいな音色のせいで、一瞬「難なく吹ける」フレーズかと思ってしまったりもするんですがとんでもない。マエストロ!

三者とも凄いテクの持ち主ですが、キャラクタ的には三者三様という感じ。言ってみれば、「教授」中川氏、「職人」小畑氏、「天才」源之新氏。この多彩さがトリオの厚みになってるような気がします。

それからこの日は2nd Stageでフロアで踊ってくださった方があり、これがまた盛り上がりに花を添えてくれたのでした。ショーロ/ボサノヴァで踊るのを観るのも初めてなら、ブラジル音楽でペアのダンスを観るのも初めて。後から知ったのですが「サンバ・ヂ・ガフィエイラ」(Ballroom Samba)というものらしい。滑らかなステップで流れるように回転するさまに、踊れたら楽しいだろうなあと思うことしきり。そうやって眺めているうちに、あー音楽と同じだ、と気づいたのでした。

ステップを何も知らないと踊れない。でも、基本のステップを少しだけ知っていれば、自分を楽しませるくらいの踊りはできそうだ。基本だけでも知っていれば誰かと合わせることもできる。基本を知っていれば多分、多少「遊ぶ」、つまり即興をしてみることもできるんじゃないかな。…というのは丁度、音楽で言えば、基本技術(運指の基礎とか)と基本音形(スケールとかアルペジオとか)、そして楽曲構成の基本パターンを、極めずともある程度知っていれば、色々自分なりに遊べたり、人と合わせてみたりできる、ということと同じだなあ、と思ったわけです。すぐに、はムリでも、踊りを教わってみたいなあ。

ちなみにその日踊って下さったJorge氏はこの方だと思います。すごいカッコよかったです。

不思議ちゃんを遠く離れて。

2005-08-02 | 聴いた。
なんか、「○○を遠く離れて」ってタイトルで一文書くと、それだけで「私は安易に既存の枠組に自己同一化しませんよー」と主張してるような感じがして、ちょっと良くないですか? 良くないですね。うん。われながら気恥ずかしいです。もうこのテは使うのやめよう。

というわけで、yskさんが以前書かれていた「不思議ちゃんの座」をめぐる話について、ちょっと連想することがあったので書いてみます。実は「不思議ちゃん」という言い方が定着したのって案外新しくて、確かバブル末期くらいだったような。そして、そういうカテゴライズをされていた人たちというのは、ミュージシャンというより「役者」とか「タレント」として括られる人がメインだったような気がします。戸川純はもちろんどちらでもあるのだけれど、音楽作品そのものというよりその「キャラ」で言われていたので、やはり「タレント」としての不思議ちゃんだったように思います。それから他では篠原ともえとかでしたか(あ、彼女もミュージシャンなのだよなあ。でもそれよりキャラで言われてましたよね)。そんなイメージなので、「矢野顕子」=「不思議ちゃん」という命題の立て方に対しては、なるほどと思う反面、「本当にそうだったのかなあ…」という感触を抱いたのでした。

何より、「不思議ちゃん」にはフォロワーがいないのです。似たような人が出てくることはあっても、それは「真似た」とか「触発された」結果ではない。あくまでもそれぞれ独自に発達(?)した同士が似ていただけのことです。その点で言うと、唱歌や童謡をポップスやジャズに展開するというアプローチで多くのフォロワーを生んだ矢野顕子は、受容のされ方自体が「不思議ちゃん」ではなかったのではないか、という疑念があります。

さて。「不思議ちゃん」にはなぜフォロワーがいないのか。それは、不思議ちゃんが「発生するもの」ではなく「発見される」ものだから、ということと無関係ではないでしょう。不思議ちゃんというのは、結局「男の視点」じゃないの、というのが私のかねてからの疑問です。まあ、人は誰しも「不思議なもの」がどこか恐ろしく気味悪いのであって、それをどう消化するかというと、たいがいは自分の生活圏の周縁に置いてラベルを施し(お札を貼る?)、自分を脅かさないものにするという処置を行うんじゃないでしょうか。「住む世界が違う」「取るに足らない」「狂気」などは非常にわかりやすいんですが、「不思議ちゃん」というカテゴライズにも同様のはたらきを感じます。

もっと踏み込んで言ってしまうと、男に対するラベリングには「不思議ちゃん」と同様のカテゴリ概念がちょっと見当たらないことが、この視線の男性性を証明しているように思えます。何故なんだろう? 勝新やジョン・ケージは不思議ちゃんではないのだろうか? しかし実際にかれらは「役者ゆえの破天荒」とか「自由奔放な孤高の天才」とラベリングされてしまうのですよね。あくまで肯定的に。不思議ちゃんとどう違うんだ、と思うのですが。

ここで、女性ミュージシャンで「不思議ちゃん」にカテゴライズされがちな人としてもう一人、ケイト・ブッシュを挙げてみます。確かにかなり精神的にフラジャイルな人で、出たり入ったりを繰り返したこともあったと聞きます。確かに、彼女のヴォーカルは時としてヤバい感じに絶叫したりします。メロディラインの跳躍ぶりも、ちょっと常人の域を超えています。で、それを何かと「女性性」に結びつけて評されていた(たとえばこんなふうに)。しかし、聴けば聴くほど私には、ケイトの歌は「私の歌」でもあるとしか思えない。それは「不思議なもの」として遠巻きにしたい何かではなく、「自分にも内在する何か得体の知れないものに対して向き合うためのコトバ」のように感じるからです。もちろん、そう感じられるものを決して、不思議「ちゃん」などとは呼べない。もっと親しげな、そして避けようのない何かです。

だから、ケイトが男性だったとしても同じように位置づけられていたろうか、と疑問に思うのです。きっと、トッド・ラングレンなんかのように「リスペクトされる変人」として受容されたのではないか、と。

そんなわけで、「不思議ちゃん」というラベリングには、男性社会の内部の異端に対してではなく、その外部からやって来る理解しがたいものへの恐怖や忌避が貼り付いているように思われます。そう考えるとこれは、以前からあった「女性ならではの」「母性的」「子宮感覚」みたいな言い方のヴァリエーションと言えるのではないでしょうか。男社会の論理や価値観を、女に侵食されないためのおまじない、その一つが「不思議ちゃん」なのではないかと。

さて、以上の場合は「内部=男社会、外部=女」ですが、同様の図式によるラベリング行為は他の場面でも見られます。…というところで話が長くなりましたので続きは改めて。

ラヴェルとドリと夕食と。

2005-07-17 | 聴いた。
さて本当は体を動かそうかと思っていたこの週末ですが、「これも動かすうち」と勝手に割り切って久々にピアノを触ってみました。しかも大胆不敵にも、かのラヴェルの「ソナチネ」。これは単に楽曲全体の規模が小さいからソナチネと言ってるだけであって、タイトルとは裏腹に技巧的にはかなり大変なシロモノです。ソナタアルバム半ばでクラシック離脱した私の手に負えるようなものではないのですが、では何故楽譜まで買って弾いてみてるのか。それはやっぱり、構造を知りたいからなんでしょう。ラヴェルの、聴いただけでは何やってるかわからないピアノ書法というのも目で見てみたかった。というわけで、ガタボロになりながらも何とか通して弾いてみてるような有様です。しかしまあ、音が密集してるところで右手と左手がどうやったって被って、交錯して細かいパッセージを弾くのですが、これはよっぽど指が細くないと絡まるのでは。私も野郎にしては繊細な指と言われてるんですが、きっと長さか細さのどちらかがまだ不十分なのに違いないです。指のろれつが…!

まあ、これだけでは体を動かしたというのもちょっと、ということで一通りのエクササイズを済ませて、近所で夕食をとった帰り道。久々に中古CD屋に寄って眺めていると、なんとドリ・カイミがあるではないですか! こんなローカルな店に、こんなニッチなものを誰かが売りに来たなんて…。しかもこの盤、先日のブルーノートで満場の客をうならせたハイライト曲'Amazon River'から始まる"Brasilian Serenata" (Qwest, 1991)なのです。これを出会いと言わずして何と言う。もちろん買いました。帰って来て早速鳴らしました。泣けました。音楽ってすばらしい。それから、ドリのボーカルは悪くないですから!

ジョイス! ジョイス! ジョイス! (時々ドリ ^-^;)

2005-07-16 | 聴いた。
ご報告が遅くなりましたが、行ってきましたJoyce with Dori Caymmi! ブラジル指南役のなべぞうさんとグルーヴ至上主義フルーティストの金井さんを半ば強引にお誘いして、7/13の1st showを楽しみました。しかし何度行ってもブルーノートは高いです。贅沢言わないのであと2kくらい下げてくれてもよいのでは。「たまにはちょっとオシャレして上質な音楽と食事を」というマーケティング・コンセプトはわからなくはないのですが、その結果として「別にジョイスってよく知らないけど」なお客さんが多くなってるのは覆いがたい事実ではないかと。

さて話を戻して、と。終演の瞬間、思わずお二人に「ジョイス、カッコいいっすね~!」と力説してしまいました。いや、お二人も全く同感だったようなので良かったのですが、しかしこの方のこのカッコよさは何なのでありましょう。初っぱなステージに登場した瞬間からその凛とした佇まいに目は釘付けだったのですが、決してそんなオーラ一発なんかではなく、歌声の紡ぎ出すグルーヴとでも言うんでしょうか、その過酷なまでに精緻なコントロールに逆説的な艶かしさすら覚えました。そう、そうなんです。Joyceの音楽は実は非常に理知的、というか数学的な印象が前面に出ていて、CDで聴いているとそのあたりが良かったりよそよそしかったり、気分によって色々なのですが、生で聴くともうこれはそんなファジィな印象の揺らぎは無くて、ひたすら「これしかない」完全無欠にして無敵のグルーヴとして聴く者を射抜きます。いや参りました。

そしてゲストのドリ・カイミ。彼の楽曲はまた個性が異なるから、良い!のです。たおやかで繊細で、移ろいゆく水の流れのようにコードとメロディが変化していくドリの曲は、ジョイスとは対極的に、ある意味非常に演歌的というか、涙腺直撃系なのですが、これにジョイスの非常にストイックなボーカルが乗ると何て立体的な音が立ち現われるのか! 二人の共演による新譜"Rio-Bahia"は当然買いです。買います。……え? 「ドリは歌わなくていいから」って? そんな、ひどいやなべぞうさんも金井さんも! ていうか、確かにライブで聴くと好き嫌いがあるレベルかもしれませんが、沈潜した低い声はなかなか味わい深いし、絶対ジョビンよりは上手いですから!

そう、今回のライブで一つ非常に残念だったのが、ギターの音がうまく拾われていなかったことでしょうか。共演の二人はどちらもフレームだけのガットギター、見た目で言うとヤマハのサイレントシリーズっぽいものを抱えていたんですが、これがピッキングのニュアンスを拾い切れていない。その上、低音が時々ハウリングっぽく異様に長く伸びてしまうし、ミキシング上もかなり埋もれてしまっているし…。ジョイスが「ギターのセンセイ」と紹介したドリのアルペッジョの美しさが十分に伝わらなかったせいで、ドリの株が下がってしまっていたら悲しいです。

ドリはともかくジョイスには共々ノックアウトされた我々は終演後、食事しながら話に花を咲かせたのですが、いやあ咲きました咲きました。あまりに色々お話しさせていただいたので詳細は省略しますが、二つだけ語録として記しておきましょう。「ドイツ・ロマン派はリズム感のない時代。だから演らない。」「フランス近現代は表情記号に忠実に弾かないといけない。そうすることで作曲者の意図したグルーヴ感がきれいに再現できる。勝手にルバート付けるとかもってのほか。」目からウロコ、というか、以前から漠然と感じていたことを代わりにきちっと言語化していただきました。こんな嬉しいことってないですよ!

……お、やた! 音楽の記事を書けました! この調子でちょこちょこ書きましょう。今度はyskさんの「クラシックの素養がある不思議ちゃん」の話に、ちょっとツッコミを入れてみようかと画策中。何とジョイスまで引き合いに出す予定。どんなエントリになるか、乞うご期待…てほどのものではなかったらゴメンナサイです。

バトンが回って来てやっと音楽の話を書くという体たらく。

2005-06-17 | 聴いた。
音楽ブログの辺境へようこそ!(笑)
yskさんから"musical baton"なるものが回ってきました。yskさんがそういうものを回す先と思って下さってることが、まず何だかウソみたいです。この「一時避難所」に来てから書いた音楽のエントリって1つしかないじゃん! ダメすぎます。音楽に撃ち抜かれて死ぬなら本望だったんじゃないんかい。って初めて公言してみます。

そんなわけで、良い機会なのでちゃんと書きましょう。書きましょう。
ちなみに、ルールはここにあります


■今パソコンに入っている音楽ファイルの容量

8.70GBだとiTunes君が言っています。2200曲ほど。でもまだようやく「シャッフルして楽しい、かな」くらいですね。いやその、好きなアーティストは取捨選択せず軒並み入れる、とかしてるからバリエーションが広がらないのはわかってるんです。わかってるんですってば。


■今聴いている曲

♪青山陽一: Tragic Magic Home ("EQ", 2000)
iTunes君と「あいぽさま」のお気に召すままに掛けていただくという受動的な日々を送っておりますが、それもまた気持ちよく。夜半はスムーズなものをリクエスト。


■一番最近買ったCD

Pat Metheny Group: "The Way Up" (Nonesuch, 2005)

正直、CD1枚で1曲だと聞いたときはちょっと二の足を踏んだのですが、店頭で出だしだけ試聴したらすこぶる快調だったので購入。68分で1曲というので心配していた「クラシックになりたい症候群」的な副作用はほとんどなく、むしろ「連綿と連なるメセニー節に乗せて、バップやブルースが延々シーンをつないでいく」という驚くほどジャズでラプソディな曲でした。確かに万人に薦めるかと訊かれると考えますが、でも間違いなく意欲作ではあります。

そういえばここんところCDはほとんど買っておらず、思い起こせばこの前が矢野顕子。この2人(2組)しか買ってないような気がします。でも、まあ、何となくこの2組は一生かけて見届けたいようなアーチストなので。ファンというのとはちょっと違うんですが。グッズ集めたりしないし。


■よく聞く、または特別な思い入れのある5曲

よく聴くものはとても5つに絞れないし、「何度聴いても泣く曲」とか「人に勧めたい曲」にしても両手両足家族全員分使って数えてもあふれるので、「音楽の聴き方を変えた5曲」になるのかなあ。これも結構難しいとこありますが。一応、出会った時期の順で。

♪Carpenters: (They Long to be) Close To You

ラジオで聴いて夢中になって探した、最初の曲。
バカラックを認識したのはピチカート小西氏が発掘したからではなく、それよりもはるか前、この曲に出会ったから。
1979年だったでしょうか。ほんの8年程度前の曲になるとラジオでは滅多に掛からない、そんな時代でした。

♪ドビュッシー『映像 第1集』より「水の反映」

音楽の授業で後頭部を殴られるような衝撃を受けた、おそらく唯一の曲。私のなかでドビュッシーの歴史的評価が世間並みよりも高いそもそもの原因。
何よりビックリするのは、前奏の途中で突然出てくるテンションコードが1/16刻みでクロマティックする部分です。1905年発表。まだジャズってなかったはずだけど? 今聴いても衝撃的。

♪Junior: Mama Used to Say

1982年頃。何でなんだろう、妙によく思い出します。
後から知ったのですが、これが出たのと丁度同じ頃にIncognitoがデビューをしたそうで、丁度それまであまり影や形のなかったUKソウルというものが胚胎した瞬間を表わしていた曲なのかもしれません。同時期のIncognitoの緩い打ち込みソウルっぽさとは対照的に、どぎついシンセベースが熱っぽくて気持ち良い。思えばこういうものでダンスビートの面白さに目覚めたのかも。これがなかったら、オトナになってからSoul II Soulに惹かれたり、そこを経由して改めてChicを聴き直そうと思ったりしたろうか。

♪ラヴェル「ピアノ協奏曲 ト長調」 (俗に言う「ピアコン」「両手」)

暫くクラシックから遠ざかっていたのを引き戻されるきっかけとなった曲。洒脱、諧謔、そして「やり過ぎ感」が、高いレベルで一致する。カッコいいけどなんかヘン。それでいて中間楽章なんて死ぬほど美しい。
これがきっかけでフランス近現代とかディアギレフ周辺をたくさん聴きました。音楽生活を豊かにしてくれた有難い1曲。

♪Lo Borges: Um Girassol da Cor de Seu Cabelo (a.k.a. "Sunflower")

Toninho Hortaがカバーしていたこの曲を偶々近所のCD屋で耳にして即座に店員さんに確認。今思えばToninhoとLoに一気に出会えたという幸運。これにより「ミナス派」を見つけた、という意味で、私の音楽生活史上でとても重要で思い出深い曲。そして珠玉の名曲。

さーて、次のバトン・トゥワラー(敬称略)は…

 ・なべぞう@日々の音
 ・みねぎし@Communication Breakdown

うーん、2人が限度ですね。辺境なので、渡したい人でまだなのはこのお二人くらいかも。でもお二人とも是非読んでみたいなあ。

<追加(6/26)> Guingaがとりもつ縁で知り合えた金井さんがバトンを受けてくださいました。光栄です!

7月はブルーノート。決めたもんね。

2005-05-16 | 聴いた。
7月11日からブルーノート東京にジョイスとドリ・カイミが来る! と浮き足立っているひょみです。意味わからない方には申し訳ありません。

ブラジル音楽に興味がある人でも、人によっては「んー?」と思われるのではないかというこの人選。ここのところジョイスが毎回共演者に選んで来たのは、基本的にボサノヴァの人だった気がします。でもドリ・カイミは違います。全く違う、とは言わないものの、ミナス成分たっぷりの彼は… と言ったところで、たいがいの方はおいてけぼりですよね。度々すみません。あの、日本ではブラジル音楽というと、ボサノヴァ、サンバ、最近ではバイーア系が連想されると思うのですが、それらとはちょっと違った佇まいの音楽が、内陸であるミナス・ジェライス州で育まれてきました。代表選手としてよくミルトン・ナシメントが挙げられますが、彼を中心としつつも、もっとスムーズなポップバラードを得意とする人、透明感あるコーラスワークで聴かせるグループ、要は「たおやかさ」に彩られた美しい音楽がたくさん、生まれてる。その中にドリ・カイミの名前も挙げられます。

ドリの父、大御所ドリヴァル・カイミはバイーアの人ですが、そのせいかドリの初期のソロは、まるで内陸に海を抱え込んだような不思議な熱気と、たおやかさとが同居しています。そして、ややかすれて、しかし太く低い声の魅力。生で聴ける日が来るなんて思わなかった。2回くらい行ってもいいかな。あー、だめ、そんな散財!

というわけで、なんとなくたらたらと同行者募集します。ほっといても声が掛かりそうな人も、今か今かとお待ちください。しかしまあ、こんなふうにミナスに首ったけだから、ダンスナンバー嫌いなんちゃうんとか言われっちゃうんだよなあ、もっともだ!>きしさん