子どもの見方を改めねばならない、子どもの行いだけを見るのではなく、その裏に隠された子どもの「思い」にこそ心を寄せなければいけない。私の、子どもに対する狭い見方を大きく変えてくれた本です。
それでもかれは,さぐるような目つきでじっと見つめながら,歌いやめなかった。マイヤー先生が,もうあきらめて立ちさろうとしたそのとき,ヒルベルは,ふいに立ちあがった。そしてまるめたパンツに小便をひっかけると,びしょぬれになったのを,マイヤー先生の顔めがけてなげつけた。 マイヤー先生は,むっとした。が,にげはしなかった。マイヤー先生は,顔をまっ赤にした,頭でっかちの,やせた小人のような少年に,たじたじとなりながら,むかいあって立った。そして,いった。 「ひどいじゃないの。」 すると,ヒルベルはけらけらと笑いだした。全身をゆさぶって笑いだした。それからいった。 「だ・け・ど・う・ま・く,あ・た・っ・た。」 一語一語,休み休みいった。ヒルベルは,すらすらとはしゃべれなかった。 ペーター=ヘルトリング作 上田真而子訳『ヒルベルという子がいた』 |
「小便をかけたパンツ」を投げつけられて怒らない大人はいないでしょう。
しかし,子どもの行為にはそれなりの意味があると、河合隼雄氏は次のように書いています。
「ヒルベルはなぜこんなことをしたのだろう。一つの意味は明らかだ。彼は自分の「家」に侵入してきた外敵に対して反撃を加えたのである。そして,私にはもう一つの意味があるように思われる。唾や汗や大小便などは,人間にとって「分身」という意味をもっている。未開人や子どもたちの行動を観察すると,そのような意味が感じ取られることが多い。ヒルベルは,自分の「分身」を信頼し得るに足る人としてのマイヤー先生に「投げかけた」のではなかろうか。子どもたちの行為は,思いのほかに多層的な意味をもつことが多い。」
このヒルベルに対して若いマイヤー先生はどのように対応したでしょうか。私がするであろうように怒ったでしょうか。いいえ、彼女はそうはしませんでした。
上に書かれているように「むっとした」が逃げずに「むかいあって立った」のです。やがて、ヒルベルが寝たあと、みんなを切りきり舞いさせるヒルベルに対し、マイヤー先生はこう思うのです。「あのヒルベルって子、気を付けてあげなくちゃ。」
私たちもまた,子どもの行いに込められた意味をしっかりと受け止めなくてはなりません。子どもの「思い」教育ですし、教育ですし、子どもの「思い」を無視して教育は成り立たないのですから。