くろねこさんの話によれば

くろねこが思ったこと、考えたことを記すだけの日記なのだと思う。たぶん。

先生

2016年11月26日 22時31分16秒 | 比較的短文ではない文章
結局その日は3時間半にわたって先生と語り続けた。短歌の話から、日本語の話になり、そしてなぜか恋愛の話になった。

「実はこの前、その彼から電話があったの。会いたいって言うから、会えばいいじゃないですかって言ったら、彼が会えないって」

先生はチャーミングに笑った。

「そうして、今夜は夢の中で君を抱いているよ、ですって。女としてはね、これほどぞくぞくする言葉ってないわよ」

先生は少女の顔になっていた。それは、とても素敵な出来事だったのだろう。

◇◇◇◇

ことしも僕は、仕事の関係で他県にいる短歌の先生に会いに行った。いつものように和装で出迎えてくれて、「お久しぶり」と微笑んでくれた。ことしで80歳。仕事を頼むような年齢ではなくなってきたけれど、代わりになるような人はなかなか見つからない。男たらしで女たらし、つまり人たらしのチャーミングな先生だ。ヘビを食べる魔女でもあり土着的。それでいて、考え方が飛んでいる金星人でもある。

僕は「ことしも来ました」と言って頭を下げた。

会話はいつものように本筋から簡単にはなれていき、多岐にわたった。もちろん、打ち合わせなんてものは、ものの5分で終わる。打ち合わせと称して、我々はいつだって雑談をしているのだ。だからこそ僕たちは、その雑談を楽しんだ。特に先生は、「いつこの人とあえなくなるか分からない」という理由で、いろいろと話しすぎてしまうらしい。ころころと話題を変えながら、あれやこれやと話し続けた。先生は、イギリスで行われた生誕100周年夏目漱石展に合わせ、歌集を英訳で出版したとのことだった。それを逆輸入するのだと言った。

何かの弾みで、あなたも歌を詠んでみたらいいのに、と先生が言うので、実はことしの初めに作ってみたのですと答えると、先生はとても聞きたがった。恥ずかしいですと言うと、なんで、と残念そうな顔をするから、僕はしぶしぶと口にした。もちろん、空で言うことができた。自分で作ったものだから。

「君に触れ、初めて知った温もりを、恋と言うかな、愛と言うかな」

ここから推敲してさらに変えてみたのですが、ロジックに頼りすぎて上手くいかなかったのです、と言うと、先生は「あまり考えすぎるのは良くないわね。まず素直な気持ちを大切にすること。テクニックの意味で巧さがないということが、歌を引き立たせる場合もあるから」と言った。

それからしばらく短歌談義にうつり、色々と教えてもらった。助詞の使い方、感情の柔らかな表現方法。長年短歌に関わってきただけあり、先生の情熱は真に迫るものがあった。

「それにしても、良い恋愛をしているのね」

出し抜けに先生が言った。僕は複雑な気持ちになって、「うーん、どうでしょうね」と誤魔化した。「あら、どうして」と先生。僕はとぼけた顔を作って「分かりましぇん」。そうして2人で笑い合った。

「恋愛と言えばね」と先生は言った。「こんな話は誰にもしたことはないんだけれど、この前ね、昔の恋人から電話があったの。君に会いたいって」。

◇◇◇◇

先生は大学を出ているけれど、当時は女性が大学に行くということは、とてもハードルの高いことだったという。先生は若くして父親を亡くしたため、学生時代は家庭教師のアルバイトなどを掛け持ちして学費を工面した。それでも、奨学金の返済が残った。

「だから結婚はね、政略結婚だったの。どうしてもお金の後ろ盾が必要だったから。でもね、最初に恋愛感情がなかったとしても、愛が生まれないわけではないの。私は、お父さんと結婚して本当に良かった」

先生の夫は昨年他界し、一周忌を過ぎたばかりだった。そうしているうちに、「彼」から電話が掛かってきた。

「彼は大学時代、私のことを好きだった。私も彼のことが好きだった。ところが卒業するころになって、彼はイギリスに留学してしまった。待っていてくれって言われたけれど、私は待てなかった。だから政略結婚なの」

それから2人とも十分に歳をとった。およそ60年。長い歳月だ。電話口で彼はこう言ったという。

「僕もだいぶ歳をとった。とても痩せてしまってね、君に会える容姿じゃないんだ。もちろん君には会いたいけれど、これでは会えない。だから、今夜は夢の中で君を抱いているよ」

ねぇ、それってとても素敵な台詞だと思いませんか?

◇◇◇◇

ことしは僕が先生の仕事を少し代行することになったのだけれど、後日それを完了して先生に電話したら、思いのほか褒められた。

「素晴らしい出来。拍手喝采ですよ、お世辞じゃなく。あなたの案でいきましょう。新鋭の歌詠みとしてデビューできるんじゃない?」

こそばゆくって、そして嬉しかった。先生にしてみれば、短歌人口が増えるに越したことはないから、そういう「お世辞」はあったにしても。

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