土の器   (この土台の上に)

多摩ニュータウン憩いの家教会に通うゴスペルシンガーです。
多摩ニュータウンで礼拝を捧げています。

重くとも汝が十字架

2013-03-31 22:43:13 | ちゃき日記
28日の木曜日、お葬儀に参列しました。

クリスチャンペンクラブをリードしてくださっていたI牧師さんが3月22日に召されました。

満開の桜の木々に導かれるようにして教会に辿り着きました。

会堂には復活の花、白ゆりに包まれたI牧師さんの棺。天井から差し込む陽射しに照らされた礼拝堂は明るく、暖かさに満ちていました。

その暖かさは、まるで集まれた方々、お一人おひとりとI牧師さんとの出会いから生み出されているかのようでした。




ここに、一枚のしおりがあります。

2009年、私の誕生日を覚えI牧師さんがくださったものです。

「お誕生日おめでとう。

喜び伝わる賛美の姿勢にハレルヤ!  さらなる祝福を祈りつつ。

      From H.I 」


しおりに記されていた御言葉

「義のために  迫害されている者は幸いです

            天の御国はその人のものだからです」

                        マタイによる福音書5章10節




お葬儀で捧げられた愛唱賛美歌。

          


         聖歌615番「重くとも汝が十字架」



   重くとも汝(なれ)が十字架  担い行け笑みもて

   試みに遭いし人々  助け得る時あらん

     笑みをたたえて 感謝 抱きて

   十字架を担え 神より報いをば受(う)くべし




I牧師さん、今までのご指導、お祈り、ありがとうございました。

文章による証し人として信仰による真の勇気と優しさを携えながらこの世を生き抜かれたお姿、姿勢に深く深く感謝捧げます。




                      





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みなさまの上に神さまの祝福を・・・小野路の礼拝堂からお祈りします。









あのとき困ったから・・・

2013-03-19 11:17:42 | ちゃき日記
CD「鳥の歌」が制作された過程にはいろいろな出来事が与えられました。


「あのとき困ったからこんな風に出来上がったんですね。」

チェリストの黄原さんのひとことです。

1枚のCDが生みだされる・・・その出来事を通して、神さまの導きを実感しました。


わたしたちの目から見ると困ったことに思えること、まったく先が見えないこと、行き詰ったと思われる状態に直面したとき・・・私たちのなすべきこと。

それは祈り・・・


神さまは、全く別の方法を目の前にご用意くださいます。



私たちは暮らしの中で先が見えないと感じるときこそ神さまのご計画に期待して祈ることの恵みを知ります。


http://www.youtube.com/watch?v=NqDTE6dHpJw

ここをクリックしてみてください。先日ご紹介しました「文化庁メディア芸術祭」のエンターテインメント優秀賞「勝手に入るゴミ箱」の動画です。



「ゴミ箱」に限定して作られた作品ですが、

私は作者の発想、視点がここにあることが楽しくなりました。

(将来この発想はきっと他にも応用できることでしょう。)

「見えるものは人それぞれ」との言葉にあるように、

「気づくことも人それぞれ」と、

神さまの力によって、

人それぞれに発想の豊かさが与えられ、それを活かし用いていただけますように。



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礼拝堂に生えた植物と、梅の十字架

2013-03-18 10:14:36 | 礼拝
この植物、名前は分かりません。



冬の間もずっとこの場所で育ってました。

昨日はここ最近の暖かさもあってか、グンと背丈を伸ばしたように映りました。

この場所、屋外ではありません。

礼拝堂の引き戸を開けて土間に入ったところです。

後ろに写る茶色の板は木の扉。

その扉の奥には蛇口が備えられ、地下からの井戸水がひかれています。



先週、金曜日の夕方。

かつてゴスペル音楽院で共に学んだ友人二人と会いました。

互いに再会を喜び、感謝して夜更けまで語り合いました。

互いに離れた場所で神さまのご計画を思い何か自分にできることを・・・

と、祈り、与えられている働きがあります。

働きを担いつつも、自分の弱さを知り、挫けそうになることも・・

同じような思いに襲われることを知り、自分だけじゃないのね・・・と、励まし合う時が備えられ祈り合い、

勇気が与えられました。

神さまがどんな時にも、どこに行っても共にいてくださり働きを導いて下さる。

その大切なことを、それぞれの体験を通して知り、会話が進むにつれ、互いに感謝し喜びあうことができました。




昨日、礼拝堂に入って目に飛びこんできた生き生きとした緑。

しっかりと根を張って、冬の寒さも共に過ごし、春を迎えようとしているそのありさま。

思えば、私たちが捧げる賛美もお祈りも、なにより御言葉のメッセージも共に受けている生き物です。



「生かされているときに思い切りその与えられた生命を感謝し、楽しみましょう!」

その青々とした緑の姿は、まるで牧師さんからのメッセージを喜ぶかのように見えました。


帰り道、みんなで礼拝堂に向かう石段に植えられた植物のさまざまな蕾、新芽を確認しながら楽しく石段を下りました。

行きには、気づかなかった梅の花を発見。

2本の枝がちょうど十字架のように交差していました。

          

                


自然の営みの中で生まれた梅の十字架です。


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「行ってきます」「おかえりなさい」

2013-03-15 11:13:00 | ちゃき日記

「あれは梅ですか?」

「いいえ。河津桜だそうです。以前、ここに植えることになってようやく大きく育ってきました。」


昨日の空はどんよりとした曇り空でしたが、その枝にほころんだ小さな花びらに近づくと、

そこのあたりの空気がぽっと暖かく感じられました。

白ゆりの練習会場のあたりに咲いた桜です。






今日は、クワイアのメンバーのおひとりがヨーロッパに出発される日です。

「ちゃきさん、私今月の15日から2カ月、お休みします。」

クワイアの練習のお休みを話されつつ、ちょっと寂しそうな表情をされました。



数週間前、その報告を伺った同じ日、

「こんにちは。6年ぶりに戻ってきました。」

と以前、お仕事の都合でクワイアに通えなくなった方が練習に参加されました。

「おかえりなさい!」

聞けば、お仕事の都合もつき、これからは通えるようになったとのこと。

その方は最近観た映画「レ・ミゼラブル」に感動し

またみんなと一緒に歌いたい・・と思われた時、

クワイアのことが思い浮かんだそうです。

そして6年ぶりに訪れたクワイアの練習会場。

そこで歌っていたのは、まさに、レミゼラブルで歌われていたあの曲。



「6年間お休みしていた方がこうして戻ってきてくれて

またみんなと一緒に歌いたくなった・・と思っていたその曲を私たちがこうして歌っていた・・

こんなことってあるんですね。

私も、2カ月留守にしますが安心して出かけてきます。すぐに帰ってきますからね^^!」





自分たちで練習会場も練習曲も捜したりして続けてきた集まりのように思ってしまいがちでしたが、

実は、あらかじめご用意してくださり、待っていて下さる神さまがいらっしゃるから、こうしてかなって続けていることなのですね。



神さまの不思議に思いを巡らせるこの頃です。


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でも、元気を出すんだよ、チャ―リ―・ブラウン!

2013-03-12 23:36:16 | ちゃき日記
私が高校生の頃のこと。

当時、英語の先生が教材としてスヌーピーの漫画「ピーナッツ」を使っていました。

それから数十年後、

今、私の手元に1冊の本があります。

「スヌーピーたちの聖書のはなし」(講談社)ロバートL.ショート著  



10日の礼拝のメッセージで放蕩息子を迎え入れる父親の愛に満ちた行動を通して神さまの愛の存在を教えていただきました。

こんなにも喜び歓迎してくれる父親の心境は一体どのようなものなのでしょう。

想像もできないほどの広く深い愛があることを知ることができた私たち。



今日パラパラとめくった「スヌーピーたちの聖書のはなし」

の最後はこうまとめられています。

以下に一部転載いたします。


・・・・・・・・・・・・

第5章  愛すること、信じること

P.198 「どんなことがあっても君が好き」

『ピーナッツ』は、作者がつねにそのつもりだったかどうかは別にして、こういったキリスト教の解釈の助けになっています。
したがって、『ピーナッツ』をはじめとする無数の現代芸術が、すばらしく想像力豊かなたとえ話によって、キリスト教と文化のあいだに意味深い ”話しのタネ”を提供することにより、キリスト教の中で重要な役割をはたすことができるのです。
そして教会が主のためにさらなる率直な証言をする、創造的で効果な機会を与えています。
なぜならすべてのキリスト教徒の証言は、結局はイエス・キリストのために立ちあがり、心の内を明かしてイエスのみが主であリ救い主であることを告白する、率直な証言になるからです。
しかしながらキリスト教徒が忘れてならないのは、こういった証言が愛する人たちから聞いてもらえなかったりしても、
あまり失望してはいけない、ということです。
というのも、キリスト教徒の証言が ”成功する” かどうかは、最終的には神の手にゆだねられているからです。

でも、元気を出すんだよ、チャ―リ―・ブラウン!

どんなことがあったって君を愛している ”誰か” がいるのはたしかなんだし、その ”誰か”は、とてもつつましくて、ピーナッツほどの大きさだが、その ”誰か”よりはるかに大きな ”唯一の存在”の身代わりなんだから。


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”小さなキリスト”スヌーピー、と記されるこの本との出会い。

高校生だった頃から備えられていたような気がします。



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