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2018-12-16 08:56:54 | 旅行
成都
中国四川省の省都成都は、豊かな自然に恵まれ、昔から「天府の国」と言われてきました。海外からの観光客も多く比較的治安も良いので、日本からも多くの人が訪れています。古代の水利・灌漑施設で世界遺産にも登録されている都江堰、道教発祥の地青城山など自然に恵まれた観光地は必見。また、世界的に有名なパンダの研究・保護施設「成都ジャイアントパンダ繁殖研究所」はお薦めの観光スポットです。
四川省中部に位置する成都。四川省は平原と丘陵、山地が多くを占めており、九寨溝、黄龍、楽山大仏などの有名な世界遺産も多く存在するため、成都は四川省の観光の基点となっています。日本でも多くのファンがいる三国志の「蜀」の舞台でもある成都は、世界中から多くの観光客が訪れます。

また、成都がある四川省は辛い料理が有名で、麻婆豆腐や担担麺の発祥地でもあります。そして成都はパンダが見れることでも人気のスポット。昔から「天府の国」と呼ばれており、気候にも恵まれています。それでは成都のおすすめ観光スポットをご紹介します。ぜひ成都に訪れる際は参考にしてくださいね!
武侯祠は、中国三国時代の蜀の丞相であった諸葛亮が祀られていましたが、その後、主君の劉備なども祀られるようになったと言われる三国志にまつわる霊廟で、霊廟は1961年に全国重要文化財に指定されました。武侯祠は、劉備、関羽、張飛、諸葛孔明などの人物が祀られており、三国志ファンにはこれ以上ない観光スポットとなっているのではないでしょうか。また、この霊廟には、中国の英雄が祀られているので、外国だけでなく中国人観光客も多く訪れています。
2.錦里古街
先ほど紹介した武侯祠のすぐそばに位置する錦里古街は、古い町並みを再現した歩行街。錦里古街は、広いエリアではありませんが中国の観光客からも人気が高く、いつも観光客で賑わっています。レストランや土産、仮面のショーなどが集まっており、成都が位置する四川料理の屋台も多いので、歩きながら気軽に料理も堪能できるのは魅力的ですね。
昼間も風情があって歩いているだけでも楽しい場所ですが、夕暮れ時から赤提灯に灯りがともり、とても雰囲気があるので夕方以降に訪れるのもおすすめ。絵になる景色が多いので写真撮影にももってこいの場所です。また、観光客が多く集まるエリアなので、スリに気をつけてくださいね!
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2018-12-08 06:01:30 | 旅行
汶川地震博物館
汶川地震博物館は2009年に開館、「5•12汶川大地震」を記念するために創建された大規模な博物館である。
狭い観点から言うと、汶川地震博物館は北川地震博物館の建設構想により建てられた。また、広い観点から言うと、汶川地震は300キロメートルの竜門山断層を成した、その地震記念碑を建て、記念施設や文化財館を設置しており、すべては地震遺物保全の為めである。博物館の内容は写真と文章の資料、汶川大地震の遺跡博物館(記念館)、記念地及び地震文化財が含まれている。本館は10万枚の文化財を募集して、それぞれに精確な説明もつけてある。
それ以外に、数ヶ所の地震により壊されたままの状態の現場を保存し、「汶川被害者記念碑」を設立し、地震や被災者救済に関することも保存している。汶川地震博物館は地震についての「生き字引」と言っても言い過ぎでない。
主な展示物
被害者の遺物などの地震のすべての証拠物、発行の切手、記念封筒などの郵政のマック、地震災害救済を記録する切手集、軍警や志願者の実物資料などの地震災害救済証拠物
住所
成都市大邑県安仁鎮清江路368号

自貢恐竜博物館 
四川省自貢市の東北に1987年に開館した、世界の有名な「大山舗の恐竜の化石群の遺跡」のところで建設された。中国一大規模な専門恐竜博物館であり、世界の三大恐竜の遺跡博物館の一つでもある。
大山舗から発掘された恐竜の化石を主として展示している。展覧は三つの部分から成っている。第1部分は重点的に恐竜に関する基礎知識について紹介している。例えば生物進化、化石、地質年代、恐竜の進化と分類などである。第2部分は主に大山舗の各類の恐竜の化石を紹介している。第3部分は恐竜を埋葬する遺跡を紹介し、人々に広面積の発掘現場を公開している。
館所蔵の化石の標本は2.05-1.35億年前のジュラ紀の時期の恐竜の種類がほとんどあり、現在収集されているジュラ紀の恐竜の化石は世界で最も多い。米国の『全世界の地理の雑誌』に「世界で最も良い恐竜博物館」を評価された。
主な展示物
恐竜の化石、埋蔵した(発掘?)現場、「ジュラ紀の恐竜の世界」(「恐竜の世界——恐竜の遺跡——恐竜の時代の動植物——貴重な品のホール——恐竜の再現」により、順番に展開する)
住所
中国四川省自贡市大山舗238号
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2018-11-30 06:46:41 | 旅行
寛窄巷子
寛窄巷子は古代から残された横町で、濃厚な歴史文化を持つほか、しっかり整えられとてもおしゃれな所で、上海の新天地と似ていますが、雰囲気はちょっと違います。寛窄巷子は三つの巷子(横町)からなり、それぞれは寛巷子、窄巷子、井巷子です。
寛窄巷子は成都で唯一残された清の時代の街で、南方の四川西部の住家の特徴を持ちながら、北方の満蒙文化の粋も含んでいます。寛窄巷子は成都の歴史と変化の証人です。
今の寛巷子には街内で最も多くしかも無傷である古い建築が集まっており、20軒余りの特色を持つ住宅があり、大部分は昔のままで残され、ほかの二つの巷子(横町)より古代の風情に富んでいます。ここは成都ののんびりした生活の見本だといえます。お茶を飲んだり、本場の四川料理を食べたり、成都の風土や人情を体験できます。
古代の建築を真似して建てられた錦里と違い、寛窄巷子は本物の古代建築です。中国の西南部にありながら、北方の建築様式です。これはなぜでしょうか? 清の康熙の時代に、康熙皇帝はチベットを鎮めるため北方の兵士を派遣しました。その後、千人ぐらいの兵士を成都に駐屯させました。寛窄巷子はその兵士たちによって、多くは四合院の建築様式で建てられました。ですから、ここは中国南方で北方の建築を最も保存してきた所となりました。
トイレ:観光地には二つの公衆トイレしかなく、一つは入口、もう一つは巷子の突当りにあります。
巷子は昔「如意胡同」と呼ばれ、辛亥革命の後は「井巷子」と改名されました。康熙の時代、多くの兵士が駐屯していたので、、この巷子は水不足になり、仕方なく巷子の西に井戸を掘り、兵士に水を提供しました。井巷子はそのことよって名付けられました。
話によると、昔井巷子に住んでいた住民は地位が低く、召使い、家来が多かったので、住宅はボロボロで、長い時間を経て、今の井巷子は半分だけになったので、約380メートルの長さしかありません。
寛窄巷子に来ると、静かな所或いは路傍の藤椅子に座り、ひなたぼっこをしながらぼんやりしたり、劇を聞いたり、昔話を語ったり、のんびりして時間を潰します。これは成都での生活スタイルです。
春熙路
ビルを上るパンダ
春熙路に行ったことなければ本当に成都に来たことがあるとは言えないと地元の人がよく言っています。ここは多くのデパートが集まり、一軒から出たらすぐ次のが目に入ります。
春熙路は成都の都心部にあり、東大街の北部、南新街、中新街、北新街の東部、総府路の南部、紅星路の西部からなるエリアで、面積は20万平方メートルに達しています。春熙路は長い歴史を持つ繁華街で、成都で最も賑やかな商業歩道街です。
成都の春熙路は1924年に命名され、今は88年の歴史を持ち、「百年金街」という美称があります。春熙路は商人の寄付と役所の命令によって建てられ、軍閥の時期に落成しました。当時の四川省の官吏である楊森の提案によって建てられ、最初は南北を貫く一つの街だけが建てられましたが、その後東西を繋ぐ二つの街が建てられました。最初は「森威路」と呼ばれていますが。老子の「道徳経」の中の詩句「众人熙熙,如登春台(みんなうれしく、まるで美しい景色を楽しんでいる様子。)」から春熙という二文字が用いられて名付けられました。ここは賑やかな繁華街で人々が楽しく生活している景色を描いています。
春熙路の最大の特徴はここは各ブランド品の専門店や数多くの老舗が集まり、観光客と地元のサラリーマンに好まれる所です。成都に来て観光客がもし春熙路を回らないことは、北京に行って王府井を回らないこと、上海に行って南京路を回らないことと同じで、とても損したことです。春熙路は成都で美人がたくさんいるファッションセンターだけでなく、グルメも数えきれないほど多くあります。
成都锦里
錦里は四川西部で最も古い歴史を持つ商業街の一つで、秦、漢、三国の時代でも中国で名を知られていました。錦里は武侯祠の隣、チベット自治区の成都連絡所の周りに位置しているので、洗面橋横街、武侯祠横街など近くの街には多くのチベット人や僧侶が目に入ります。彼達はみんな身長が高く、皮膚は日焼けして黒く、伝統的な民族衣装を着ています。
成都の武侯祠博物館(三国歴史遺跡区、錦里、西区)の一部分として、錦里街の長さは550メートルで、三国文化と四川伝統民俗文化を主な内容としています。古街にはバーのエリア、四川料理屋エリア、府第旅館エリア、お土産の販売エリアが整えられています。
錦里は三国文化を主題として作られた古風な商業街です。ここは観光客に好まれるほか、優れている立地条件のおかげで、地元の人にも大人気です。
夜の錦里も面白く、上海の城隍廟と似ていますが、それほどうるさくはなく、古めかしい庭、特色のある店は濃厚な四川の風情が溢れています。
琴台路
琴台路は寛・窄巷子の南西に隣接する成都の宝石販売の大通りす。市内の大手宝石店はここに集まり、小さな料理屋さんも何軒かあります。琴台路の長さは900mで、両側には保存された古風な建物が立ち並び、2002年から民衆に開放されました。この街は漢や唐の時代の古風な建物を背景とし、司馬相如と卓文君のラブストーリーを主題とし、漢代の礼儀、舞踊、音楽、飲食などの民俗文化を表しています。
琴台路は西漢期の伝奇人物―卓文君と司馬相如の美談を記念するために名付けられたので、ここに来ると、彼らのラブストーリーをきっと知りたいですね。
卓文君と司馬相如の物語
卓文君は西漢の人で、美貌と才能の両方を備えており、彼女は裕福な家に生まれ、琴も得意でした。それ故彼女に求婚した人も多かったですが、彼女は貧しい書生である司馬相如だけを気に入りました。司馬相如は琴と文章に長じていましたが、家柄はよくないので、なかなか卓文君の家族に受け入れられませんでした。卓文君は愛のため、豊な生活をあきらめ思い切って司馬相如と一緒に駆け落ちしました。司馬相如には一銭もないので、仕方なく卓文君と琴台路で酒屋を始めました。人の嘲笑にも関わらず、卓文君は自ら酒を売り、司馬相如は雑事を手伝っていました。その後、卓王孫は自分のメンツを守るためよく二人を助けたので、二人はやっと豊かな生活を過ごせました。最後、司馬相如は官吏になり、偉くなった当初、卓文君を棄てようという考えが涌き、そして卓文君に何も書かない空白の手紙を書きました。卓文君はその手紙を見てすぐ悟り、詩を作って返事しました。司馬相如はその詩を読み、恥ずかしくてたまりません。その後、夫婦はずっと幸福な一生を送りました。
青い石板で舗装された道を歩くと、灰色の壁、形が様々な灯籠、尖っている軒……道の両側の古風の建物や建築の輪郭を描いているネオンは注目を集めています。そのほか漢の時代の浮き彫りもあり、これを一枚一枚読みながら進むと、漢の時代の宴会、歌舞、遊園、狩猟、車馬など当時の生活の有り様を大体分かるようになります。
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2018-11-19 08:07:17 | 旅行
武侯祠
成都市市内にある三国時代の蜀漢の宰相・諸葛亮(孔明)を祭った社です。6世紀ごろから建てられ始め、明代には隣接する主君・劉備玄徳の陵墓、漢昭烈廟と併合されました。孔明の贈り名である忠武侯にちなむ武侯祠として親しまれています。戦火のため、現存する建物は清代康熙の1672年に再建されたものです。
3.7万平方メートルの広大な境内には、南北方向の中軸線に沿って大門、二門、劉備殿、過庁、諸葛亮殿の五つ主体建築があります。劉備殿には金泥の劉備像が安置され、側棟には関羽、張飛ら文官、武官の塑像があります。諸葛亮殿には、孔明の像や南征時に鍋や銅鑼として使ったという、諸葛亮自ら作ったといわれる青銅製の巨大な諸葛鼓などの文物が納められています。
また、大門を通ると、生い茂る緑の中に六通の石碑があり、中でも孔明を称えた唐代の809年建立の石碑はかなりの文物価値を持っており、"三絶碑"と呼ばれています。これらは唐代の著名宰相裴度が作った碑文、書法家柳公権が書いた書、名匠魯建が彫ったもので、いずれも卓越しています。
杜甫草堂
杜甫草堂は唐代の詩人-杜甫が成都に住んでいた時の住居です。759年から約4年間、杜甫は安禄山の乱を逃れるために成都に移り住み、絵のように美しい街の郊外にある浣花溪のほとりにあばらやを建てて質素な生活を送りました。彼の全作品1400首のうち、代表作を含む247首がここで生まれました。唐末期には杜甫を称えるためにあばらやの跡地に草堂が建てられましたが明代になり再建されて今日に至っています。
1811年、杜甫草堂の規模とレイアウトが決められ、記念となる祠と詩人の旧居が一体となった博物館のようになっています。古めかしく素朴な雰囲気に溢れ、幽玄の美として名声を博しています。
杜甫草堂は清の嘉慶皇帝の時代に建て直された際の設計をそのままに、総面積は300ムー(1ムー=6.6アール)あります。庭園は非常に独特で、いわゆる「混合式」という中国の古典庭園様式です。博物館はそれぞれ文物観光スポット(草堂の旧跡)、庭園(梅園)、サービスゾーン(草堂寺)に分けられています。草堂旧跡内には照壁、正門、大廨、詩史堂、柴門、工部祠が一直線上に配されており、回廊は左右対称で、その両側にはその他付属建築物があります。間を水が流れ、小さな橋が連なり、竹林が茂り、荘厳かつ古風質素、静かで静寂な雰囲気を醸し出しています。
杜甫草堂の中にある記念となる祠の中心的な建築は詩史堂です。真ん中には彫刻家の劉開渠によって彫られた杜甫像が置かれ、堂内には歴代の有名人が書かれた絵馬が陳列されています。工部祠内には杜甫の肖像画が祀られています。祠の東側には「少陵草堂」という石碑を保護するためのあずまやがあり、それは杜甫の暮らしていたあばらやを象徴しています。
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世界遺産地都江堰水利施設と青城山 成都旅行  成都観光お勧め

2018-11-18 10:53:02 | 旅行
都江堰
都江堰は四川省都江堰市の灌口という町に位置し、古代に建設され、今でも役に立っている大規模な水利プロジェクトです。「世界水利文化の開祖」と呼ばれ、中国の有名な名所古跡の一つです。秦の時代の蜀郡の太守(注釈:中国の古代の官職)李氷父子が群衆を率いて、紀元前256年ごろ都江堰水利プロジェクトを建設しました。今では、全世界で歴史が最も長く、唯一保存され、しかもダムがなくて引航を実現する大型の水利プロジェクトです。2000年、悠久な歴史、大きいな規模、合理的な構成、科学的な運行、環境にもやさしいなどの特徴で、また歴史の面でも科学の分野でも高い価値を備えているので、都江堰水利プロジェクトは世界文化遺産に登録されました。
現在、成都平原は「天府の国」と呼ばれていますが、古代には実に旱魃や洪水も非常に頻繁な地域でした。岷江は長江の支流で、しかも水量がすごく豊富で、ちょうど四川盆地という中国西部の豊かな地域を経由し、典型的な地上川になりました。都江堰と成都の距離はわずか50キロメートルですが、しかし273メートルの驚くほどの高低差があります。古代には、岷江は洪水が発生したら、成都平原は果てしのない海原になって、旱魃(かんばつ:雨が降らないなどの理由で土壌が乾ききってしまい、農作物が育たない状況。)が発生したら、また不毛の地域になってしまいました。
魚嘴
都江堰水利プロジェクトは洪水防止、農業灌漑用水の提供、水上運送を一体とした水利工事です。都江堰の第一肝心な部分の魚嘴は分水の役割を果たしています。魚嘴(岷江の流れを適切な比率で本流と灌江に分ける「魚嘴」は最も重要な構造物である。)の建設場所、大きさ、長さ、高さ、傾斜角度と造る位置の周辺の水流流速、水量などが全部精密に計算、設計されています。それで造った魚嘴がうまく岷江の内江と外江の分水をしています。増水期は上流から流れてきた岷江総水量の60%が外江に入り、40%が内江に流れます、渇水期が逆になり、60%の水量が内江に入り、40%の水量が外江に入ります。そうすると、うまく内江に入る水量をコントロールして、増水期の洪水を防ぎ、渇水期には農業灌漑用水を確保します。
宝瓶
都江堰第二の肝心部分‐宝瓶口は成都へ水を導く主要な役割のほかに2回目の分水効果もあります。宝瓶口は幅が一定なので、その中に入る水が自然に制限されています。余った水は、飛沙堰を通って、外江に流れ、効率的な2回目の分水機能をしています。
都江堰水利プロジェクトのおかげで、成都平原は広くて肥沃な地域になって、中国西部は真珠のように輝いています。
青城山
 青城山は四川省都江堰市の西南部に位置し、古くは「丈人山」と呼ばれ、主峰は上空に天高くそびえ、海抜は1260メートルです。山全体の木々が四季を通して青さを保ち、諸峰を囲む城郭のようなので、青城山と呼ばれています。何千段もの階段があり、くねくねした小道は、奥深い静かな所まで通じています。高い木々に囲まれた幽玄な雰囲気が特色で、古くから「青城天下幽」という美誉を持ちます。剣門の険、峨眉の秀、夔门の雄と同じレベルに立っています。景勝地の面積は200平方メートルで、古人の記述によると、青城山には「三十六峰」、「八大洞」、「七十二小洞」、「一百八景」があると言われています。青城山
 青城山は前山と後山に分けられます。前山は青城山景勝地の主体の部分で、約15平方キロメートルあり、景色が美しく、文物と遺跡がたくさんあります。主な景観は建福宮、天然図画、天師洞、朝陽洞、祖師殿、上清宮などです。後山の総面積は100平方キロメートルで、水が澄み、奥深い林、山は雄壮で険しく、真直ぐ空高くそびえ、よじ登る事は不可能です。主な景観は金壁天倉、聖母洞、山泉霧潭、白雲群洞、天橋奇景などです。
 青城山は木々が青々と茂り、深緑の森林と峰、川、谷、宮と観(道教の寺院)は、互いに引き立て合っています。寺院と亭閣は自然から材料を取り入れ、装飾は少なく、山林岩泉と一体になり、道教の素朴自然を尊ぶスタイルが現れています。その他、青城山の特色は日の出、雲海、聖灯などの自然奇観です。
 青城山は中国の著名な道教名山であり、中国道教の発祥地の一つです。東漢以降、二千年も経過しています。公元143年、「天師」張陵はここに来て、青城山の奥深さと緑深さが気に入り、家屋を作り道教を伝えました。青城山は道教の発祥地になり、道教から「第五洞天」と認定されました。山全体で今まで無傷に保存された数十の道教寺院には、天師洞を中心に、建福宮、上清宮、祖師殿、圆明宮、老君阁、玉清宮、朝陽洞などがあります。
 唐末期、有名な道士--杜光庭が青城山に来た後、天師道の伝統と上清道は結合されました。杜光庭は晩年、青城山に30年間定住し、著書をして説を立て、道教の発展に大きな影響をもたらしました。
 明代、青城山の道教流派は、全真道竜門派に属しました。全真道は「養身習静」という修行方法を創立します。当時、道士は山に定住して、宮観の保護、山林の栽培をさらに重視してきました。明朝末年、戦乱が頻繁に起き、道士達は避難して各地に散りました。清朝康熙八年まで、武当山全真道竜門派道士--陈清覚は青城山で教務を管理した後、局面はよい方向に向かいました。現在、青城山道教流派は、全真道竜門派丹台碧洞宗に属しています。
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