老いぼれよれよれ道中記

ひまなじっさまが、余生のあるうちはと、内外のおもしろげな街や村をほっつきあるく旅日記

インド道中記89

2007年04月27日 | Weblog
♪ いざ往けぇええ つわもの 日本んー 男んー子ー

明日、早朝いよいよ、世界で一番高い峠、「クンジャラブ」を目指し作戦開始!
まず、とりあえずは、フンザより少し進撃し、「グルギット村に」

その後、今年の国境が開かれるはずの「一番乗り」を目指し?

♪ 一番のりをー やるんだとー 勇んで死んだ 戦友の 遺骨を抱いて・・

はい。そうのような事態にならぬよう、慎重に「中国最西端・カシュガル」の街に
入城相いたす所存なれば、各位におかれましたは、よろしくのご放念をお願いいたし、それでは、勇躍、出発させていただきます。

以上、とりあえず。

      2007・4・26

          桃源郷フンザの最後の夜
                       老兵 敬助

インド道中記88

2007年04月21日 | Weblog
ついに御聖断! わが老兵の作戦。ここにきたりて
「北北西に進路をとれ!」・・・?

「このカラコルムの峪合い奥深く、単騎、攻略できたるは極上の幸運。この戦果を手土産にいざ祖国に凱旋スルベシ」

いったん、決断したる我が作戦方針。恥ずかしくも、かたじけなくも?、ここに来たりて、急遽、4730メールロの標高に位置する中国・パキスタン国境を突破してシルクロード・中国側最西端。すでにイスラム圏にはいる「クシュガル」の街に進撃することに決意せり。

かって、帝国陸軍は優秀なる参謀をかかえつつも、やはり、「南進」と「北進」でその方針、かなり揺れ動いた戦史あれば、余のごとき老兵が南進から、北進にその矛先を転換するは、まらやむなきことと銃後各位には理解賜りたきところにて候。

なを。ここにて、作戦転換の要因を記す前に、「なぜに一旦は南下の方針をもちたるか」を総括いたせば、「かの中国カシュガル攻略を視野にいれつつも、わが戦力・装備は、パキスタン国内にての作戦のみを視野にいれての進撃。

中国攻略には、あまりにも懸案とするところ多し。
主たる弱点を挙げれば。

①ほぼ半月の作戦期間を想定したりて、インドよりフンザに来たれば、余の生命維持にかかせぬ常備薬(通風および前立腺肥大)まもなく底をつくの危機。まさしく弾丸なきては、玉砕必定!

②装備、靴さえもたず、サンダルでのフンザ攻略に見るごとく、ジャンバー一枚なき軽装での、山越えは、また寒中に倒れぬの危険。

③予想外の戦線拡大により、戦費もはや限界。トラベラル・チック底をつき、予備として持ち来る「カード」の宝刀を抜く必要ありしも、フンザにては不可。

④パキスタン・ビザはシングルにつき、一旦出国すれば、戻るに戻れずの立ち往生を予測。

かかる、戦況にありては、やはりフンザより、イスラマバードのインド大使館を目指し、一気に「南下」スルことこそ、賢者の策!と覚えしも、4月17日、引き返す途上の「ギルギット」の街にて、

「待て!。ここは大和男子!。中国国境を目の前にして、その高度を恐れての攻略断念は、いかにも無念なり。この街で、装備、戦力の補充ができうれば、矛先、北に向け、我はすすまん、はるかなるシルクロードへ!」

の熱き想いが我が老いの心にフツフツと沸き起これば、宿のスタッフ、友軍諸氏の加勢を得て、ここ数日、上記懸案事項の手当てに鋭意邁進!

本日現在の、装備点検を記せば、
①戦況により、パキスタンに撤退も視野にいれ、「り・エントリービザ」即ち再入国のビザを、この街にありし「政府事務所」で取得。フンザから一旦撤退せしも、時によれば、ココニテの野望ありし。

②常備薬は、医師を叔父にもつ友好的宿スタッフの全面的協力を得て、「処方箋」を診ずテンで、作成願い、それにて、2種50日分を確保セリ。

③重装備インドで解き、いまや、足回りの「サンダル」に見るごとく、軽装そのもの。その靴さえなき身であれば、このギルギットの古着屋にて、昨日、「毛皮入りのブーツ」「内側破れし頭巾つき厚手コート」、加えて、無帽は無帽なりと、現地フエルトの民族帽を購入。これをかぶることにより、持ち来るクルタパジャマニに加えすでに現地人に変装の効果でにけり。

④このギルギット。うれしくもわずか一箇所の銀行に、わずか一台の「ATM」装置あり。これにて、現地通貨、思いのまま我が手中に。はじけて国外で発動したる「伝家の宝刀」。このカードあれば、まさしく向かうに敵なし。
(ただし、残高ある限り)

ただし、以上は解決したるも、難航しつつある「高度順応剤」は、いまだ目途がたたず。余、低血圧の持病あれば、この世に生をを受けて初めて身を置く4000メートルを超える峠にて、酸欠状態による危機は、十分予測されるところ。

やむなし。「中国側から、国境を越え来る旅人を捕獲し、使わずもちきたる順応剤の割譲をうけしことこそ良策!」
ゲストハウスにともに起居せし友軍の助言をたよりに、今日現在は、山に挑む決意なり。

さらに、「ここギルギットより、一日もはやく、高度2500メートルのフンザに再度駒をすすめ、高度になれていることこそ肝要」の助言があれば、余、このアラブ色濃厚なギルギットの街に愛着ありしも、明日23日早朝、フンザをめざし、「いざ、出撃!」

かわらずの、ひとりよがりの戦陣日誌?
お詫びを兼ねて、このギルギットおよびゲストハウスの寸景を羅列。


                ○
街の入り口には、銃眼あけたる土嚢が詰まれ、歩道には完全武装、鉄兜、小銃すがたの兵士があちこち。機関銃の引き金に指をかけた兵士がのるピックアップ・トラックが街筋を走行。この小さな町に、夜の帳がおりれば一個小隊程度は配置されている様子で、メイン道路の鉄の扉も閉鎖!
「うーん。バグダットなんてのニュース場面でみたなあ」
「それにしても、かかる興味ある光景、地球の歩き方には紹介しとらんなあ。あほか」その想いひしひし。

                ○
すでにアラブ世界というか、「茶髪」「碧眼」の民族。あるいは、黒いショールで身を覆い黄金バットのごとく「目だけ」を覗かせた女性。いかずしてペルシャの匂いを。とりわけ、少女の美しさは、おいの目にもまぶしき想いがしきり。

                ○
街の主要乗り物は、まごうことなく「スズキ」。現地人もまた、この発音で。多分に正式名称。いえば、市バス。スズキの軽トラックの荷台に、カマボコ型の金属製ホロをかけ、長いすおき多ければ中に8人、車外うしるつかまりだち3人。
ときによれば、サイドにしがみつくように4人、片方では転覆するとおもえばその反対側に同じように・・計十ナン人!ほぼ一回5ルピーの十円!
結構、ご愛用させていただいています。

前日、「これはいい」。運転席の横にのせていただきラクチンコだなあ」
おもっているうちに、次のバス停留で「日本人。ウシロの荷台にうつれ」
ブルカのご婦人に強制的にシートを譲らされる事態。この地では、ご婦人、絶対に男性と席をならべず。日本のおばさん、見習うべし?

               ○
とにかく、女性は子供・学生を覗き、極端にみることすくなし。商店、食堂など、完全無欠に婦人の働き手みかけず。完全な男のみ社会。先日みたポロ競技の会場。
観覧席や関係者。選手など千人を越える中にあって、唯一女性は、「2.3の白人女性旅行者」のみ。どこかの国の女性のように出歩かず結婚すれば家の中だけに。女性用を除き、食糧など買い物すべても男の役割。

               ○
女性見かけること少なければ、またノラ牛みることなし。かわりて「ヤギ」や「ヒツジ」。昨晩は、そのヤギのノウミソというかなりおいしき食い物を。
なを、随時、街中でも見かける騎乗の民!。パカパカ。競馬場で、馬券を手にして眺めてきた余にしては、その遊牧民の末裔たちの乗馬姿にほれぼれ。
ポロ競技が盛んなわけは、この光景からも納得。

                ○
街筋から10メートルほどおりれば、まさしく「上高地カケル10の風景」
河童橋にかわる木造のつり橋には、騎馬にはじまり、ジープなども。当然ゆっりすすむも当然ユッサユッサ!。
「問題なし。切れて堕ちることなし」そうなんでありましょう。
雪解け水を放流するがごときギルギット川{インダス川の上流)をはさみ、焼岳をまた十倍したごとくの瓦礫の山塊が両側に。スケールのデカもまた魅力!
ただし、長年の努力か。わずかな平野部には大きな木々がそびえ、水の豊富さをくわえやはり、ここはカラコルム山中の「オアシス」の街・・・
ほんといいなあ。

まだ、報告いたしたきことおおけれど、ここパキの山中。やはり、それだけに通信費高く、ネット代もバカになれず。以後の戦費も思考いたし今回は、これにてつたなき戦陣日記にかえさせていただきます。

かわらぬ御支援をお願いいたしつつ・・・

     2007・4・21 

         朝夕はことのほか涼しく、またことのほか
         乾燥地帯にてパンツなど洗濯ものの乾きことのほか
         よけれど、日中はすでに「43度」に達する、
         ギルギットの街にて   転進決意の「迷い」の敬助


インド道中記87

2007年04月15日 | Weblog
ヒマラヤの花の谷は真っ盛り この桃源郷に わしはきたぎゃあ

インダス河の上流を遡りさかのぼり、肝を冷やし、心臓を凍らせ、
冷や汗を流し続けて、腰をさすりながら、やっと辿りついた夢の峪あい。
「風の谷のナウシカ」の舞台ともいわれる世界の「桃源郷」・・・

北部パキスタンのフンザは、花の装いでこの老兵をお待ちいただいておりました。
いや、はや、もういうに言なく、書くに文字なし!

この谷間の斜面を彩る、アンズ・サクラ・リンゴ・ウメ・・の花々が、
「神々の座」が号令をかけたと思うばかりに見事に揃い踏み。

「そんな花、日本にも」
でもよう、ここフンザ。眼前にある7000メートル級のヒマラヤの山々。
その白銀の「神々の座」を背景に、次々、まるでスターマイン花火ごとく開花していくサマ。
これって日本にあり。

どうも、この辺り、冬がおわればすぐ夏で、その切り替わるわずかな時間が「春」らしく、その一瞬を待ちかねて、花々が「早いもん勝ち」での開花の競演。

「順番なんてこだわっちゃあいられないわよ」
やや生物学的に観察するに、例えば桜吹雪のなかで梅が満開という「梅より桜が先」。とにかく、そのモモ色の世界に加え、すらりとしたポプラの木々からは新緑の芽を吹き出し、地表にはタンポポの黄色がいろどりを・・・

ホント。名にしおう世界の山岳道路、「カラコルム・ハイウエイ」
中国が、ヒマラヤを貫いて、アラビア海に石油を求めての天山北路の終点「カシュガル」から、パキスタンの

   ★          ★          ★

ここまで、書いたところで、昨日14日のフンザの夜は終わり、本日またヒマにまかせてどうでもよい続きを・・
のつもり。まちがいありません。今朝、15日、起きたときも、それは変わらず。

しかし、急転超過。今朝、6時半、宿を出た相部屋の青年山岳家を見送り、中庭で桃源郷の朝日を浴びつつ、昨日の日記を整理しつつあるとき・・
「よし、思い切って、ここを今回の旅の到達点として、帰国をはじよう」

突然の心変わりが起きれば、簡単な荷物をまとめ、「場合によれば、雪解けをまち開かれる中国との国境を越え、カシュガルに一緒に」
声をかけていた、宿仲間の日本青年に詫びをいれ、10時のミニバスで、その青年たちといまや盛りのフンザの新緑と花々に見送られるようにして、出発。

昼過ぎ、すでに下界の暑ささ予測させる、ここカラコルム・ハイウエー沿いの最大の街「ギリギット」まで撤退。

にしても、間違いなく一度は内心「あと数十キロ。5月はじめの雪解けをまち開かれるという背後の中国国境は越え」の構想と準備体制を考えつつも、なぜにの翻意・・

その心境は、またの日に整理するにしても、ガキの頃からアタマにあった
「シルクロードシルクロード」の中国側終点「カシュガル」は憧憬の街であることはたしか。

それを目の前にしての撤退!。「絶えがたきを耐え忍びがたき忍び・・」ほどにはないにしても、たしかに「ここまで、きてもったにゃあな。もうあと半月、長がてひと月、なんとかここでまっとれんか」の思いもしきりに。

そのわが身の希望をわが身で押し切り、帰国を選んだ心には、やはりわが人生の晩年に思いもかけず身をおくことが出来た「桃源郷・フンザの日々」

よき旅トモやメルトモの「うれしき声援」にあおられるようにして、今回の旅ではモトモト期待さえしていなかった、この桃源郷。

ここに古希を越えたおいぼれの足でたどりつけた幸運で十分過ぎる満足。
勢いをかって「さらに、そのうえ」は、幸運の神様も横をむくに違いない「欲」の範疇になるはず。

いまだ、多分、自力でなんとか無事に日本の地を踏める体力と気力のあるうちに
帰国への道を踏み出そう。「そうだ!。カシュガルは、人生最後の旅の、最後の到達点として、しまっておこう」

しかし70歳の高齢。到達できないかもしれない。それどころか、今回が最後の旅となる可能性もある。しかし、わたしは、臨終を迎えたとき、今回、「カシュガル」を前に撤退したことに、悔いは持たないはず。

むしろ、繰り返すが、「よかったなあ。あのヒマラヤの桃源郷フンザの花の風を浴びることができて」の満足感が。

すこし、感傷的になりましたが、そんなことで帰国の道にあることを、ここキルギットからご報告いたしつつ、あらためての今日までの皆様方のご支援、御激励を心から感謝申し上げます。ほんとうに、ありがとうございました。

なを、このあとの日程としては、イシラマバードにて、インド・ビザを取り、さいどインド・チャンデガルに入り、預けてある荷物をまとめ、5月中旬に帰国できれば・・・そんな予定です。
 
      2007・4・15   北部パキスタン・ギルギットにて
                      
                なぜか心静かな日を迎えた、おいぼれ敬助

インド道中記86

2007年04月10日 | Weblog
へい。ついにパキスタンによぼついた老いの足を踏みいれてきやした。
今回。銃後各位のご期待、ご心配もあれば、はてどうしたものか。わがインドビザ切れが4月19日に迫っていることもあり、これは悩みました。

ところが、そこに飛び込んできた、わしが「女性版沢木耕太郎」と御敬愛する「おはる姉さん」からのメールというか「決起督促状」。再掲させてまうでよう。

     ★         ★        ★

フンザへ! (ハルコビッチ)

2007-03-22 21:04:37

ご老公。
パキビザを取っちゃったなら、パキスタンは北西部のフンザへお行きなされ。
4月の第1週~3週は、桜にそっくりの杏の花、散る頃に桃の花が咲き、7000m級のヒンドゥクシ山脈・・と、まさに桃源郷になりますの。
世界で一番美しい桃源郷ですっ!
もう、行っちゃってください!
フンザは長寿地域なんでご老公よりジジイがいっぱいいます。
そして居心地いいですよ。
他にもいいとこありますが、行きやすい&日本人パッカーが多いフンザへ、
go!go!go!!
       
      ★         ★        ★


いいでっか。檄文もすっごく素敵やけど、文末の「go!」の三連弾!
わしかて、古希を迎えそれなりに分別もある男やで。「go!」が二つまでなら、
まんだ我慢できたやろうけど、三つもならべられたら、もう辛抱できんぎゃあ。

決起あるのみ。ススメ ススメ ヘイタイ ススメ!
トテチテタ・・行くぞ。大和男子!。進撃開始スベシ。ニイタカヤマ・ノボレ!

いまだ野戦病院から退院して2月たらず。体力に不安はあれど、すでに「演習」として、先週にはインド北部山岳地帯で、小規模戦闘をなんとかこなして、無事、後方のアシュラム基地に辿りついた身であれば、その旨、パキ作戦を高僧に上申。

ただし、今回のわがパキ作戦。かって身の程わきまえず猪突猛進、アジア各地に戦線を広げすぎて敗退した旧日本軍の反省にたち、「攻略地」はただ一点!
おはる姐さん、厳命の「世界の桃源郷・かってのフンザ王国」のみ。

この身の程をわきまえた謙虚な姿勢が、好感をよんだのか、はたまた「旺盛な戦意?」が師の心を動かせたのか、うれしくも「開戦許可」のご聖断が下り、「無事を祈願して」、出立に先立ちシバ神の絵像をわがノートに挟み込んでいただけるのご高配。

で、進撃メモ。

4・6 朝、決起を思い立ち、装備に気合。昼近く、アシュラムを踏み出し、バス6時間ほど、夜、インド側最後の都市。名にしおうターバン姿象徴するシク教の総本山「アムストサライ」に。その夜は、黄金寺院内の「巡礼宿」に。無料でありしが当然にドミ部屋。ただし、ここにてもわが日本軍の姿なし。

4・7 早朝、一番で国境を越える決意で、はや立ちしバス一時間余で国境の町「アタリー」に。ここからは公的交通機関なし。リキシャで約10分。9時近く辿りつけば周辺に、警備の軍関係者の姿はあれど、閑散たる「これが、権謀渦巻く国境線」とうたがうばかりののんびり光景。

そこらの、広場で、日本のジジババが、早起きゲートボールを楽しんでいても場違いではないような感じであれば「リキシャ青年」に、「おい、どうなっとるんや」
なんと、「国境は10時オープン」ネ。

バカ。リキシャに乗せる前にそれを言え。小一時間ほどアタリーの町を偵察できたはず!。とはいえボヤいちても仕方なし。

そこで、「チャイ」でも飲んで待ついいあるよ。リキシャ青年の進言に、「ほんじゃわしがオゴルからしばらく付き合っておれ」
本日、初めての客を笑顔で迎える簡易屋外レストラン的な店で、チャイに加えて、わしは「ヌードル」の朝飯。

ここで意外。なんと、となりの茶店に「ジャパニー」がいるとの主人の親切に、目を転じれば、ポツリンコと日本人らしき青年。
立ち上がり、すすりかけのヌードルを手に近づき、「日本人?」と声かければ、
「あれ?日本の方ですか?」向こうが逆質問・・というこは、多分、彼は、自分と同じように国境オープンタイムを確認せず、「はやければよし」とボーダーに近づ
いてきたヘンな老人の姿を目に捉えていた感じ。

余ドリンクを追加してたのみ、二つのグラスにわけて青年のすすめしばし自己紹介とメールアドレス交換をしなが「うん、18歳のバックパッカーはめずらしいなあ」「オレも70歳には初めて会いました。うちのばあさんが、同じ年です」
旅人、この日本人老若二人だけのインド側国境線での朝の寸刻。
流れ旅における「ささやかな」幸せ時間ではありました。


すでに、10回を超える陸路国境線の出入国でしたが、この朝は、なんと、インド側イミグレを出て・・100メートルほどの完全無人。
(ちなみに、いつも思うんやけど、アソコはどちらの国に土地所有権があり、治安はどちらの軍が、になうんかなも?)

「この国境を歩いて超える気分はほんとにいいですねえ」「そうだねえ。飛行機なんてで越えてはもったいないよなあ。ゼニカネにはかえられんというもんだ」
ケチって、飛行機を使わんという理屈ばかりではございません。

荷物検査などを、両国サイドいずれもまったくなく、そのうえパキスタンイミグレでは、ビザ交付時と同じ「ウエリカム」のうれしきご挨拶。
とにかく、出国、無人地帯、パキ入国とウロウロしつつあちこちの建物訪ね、くぐりぬけ、パスポートを何回も提示したこの朝の国境超え。

最後まで、ウソでもオーバーでもなく、終始「旅人」は、わしたち二人だけ。
現地人もおらず、見ようによれば、この朝、双方の国境線に配置されたかなりの係官や軍人は、「そのわしたちだけのタメ!」
であれば「国際的VIP待遇」のゼイタクでございました。

昼近く、パキ第二の都市にして、国境に近い「ラフォール」から、「今日中に中央部のラワルピンディーに」という青年に「わしも」と応じて、夜の10時過ぎまでかけ一気にバス(なんと、このデラバス。車体正面に鮮明な奈良交通の表示版と、両サイドには「NISHI NIPON ROYAL HIGH DECKER」の色鮮やかなデカ装飾文字アリ。べつに愛国心的な感情は湧きませんでした)で、突入!

ところが、この夜。宿営場所確保が意外にも、しいて言えば、余が異国で経験したことなき難航のハメ!。これは情報や案内書からは予想もできぬ事態。

次々、らしき建物やホテル看板を夜中の町で探し、交渉するも、「ソーリー。フル・満員」や、「現地人以外はペケ」などで、すべて拒否!。覗いたドミでは、「そこのベッドあいとるやんか」と攻め立てれど、やはり外人?は駄目。

結論というか、わが旅とも戦友各位に情報提供いたせば、多分、多分であります・・・現下のパキスタン、戒厳令一歩というか二歩程度手前の警戒体制にあり、とりわけ、外人は徹底的にマーク。

ここに至る間、夜間、国道では、大型ビデオカメラ肩に乗り込んできたきた軍人により、前部座席の乗客から、レンズで逐次舐められように顔写真の収録される場面も体験していれば、余の推測まちがいなし。

その宿探しをしながら、徘徊する深夜の街には、小銃や機銃を抜き身で肩にする兵士がいたるところに。で、あれば、「泊めるな」なの軍命令はなくても「ヘタに外人を泊めて、疑われたり、軍に踏み込まれたり・・さわらぬ神にたたりなしのお断り」。多分そうです。

もやは、荷物を肩に自分たちの足で、土地勘などさらさらない深夜の異国の街での宿探しは、絶望とさとれば、現地人の手助けをと声をかけれど、教えていただきしホテルに出向けば、やはりのムダ足。

しかるに、余が助けの声をかけた少年が、まさしくアラーの神が下された、素敵過ぎる協力者で、付き添いながら次々とあちこちのホテルに案内。まるで、今夜の自分の宿をさがすように、大人に声をかけたり、助言をもとめて必死に先導する姿・・後をおうわしの心には、宿見つからぬ不運感より、むしろ感動がそれを超える量で、湧いてきました。

小学生高学年の優等生という感じの少年。白色オワン型のあのムスリム帽子に上下そろいのクルタパジャマで決め、その長めの裾を翻しながら・・・
「駄目だ。最後のところえ案内するよ」そんな感じでした。

わしたち、なんか特別の宿か?と、少年の後を追い、とあるゲートをくぐり建物に入れば、そこはなんと「警察署」の一室!

「こうなったら、お巡りさんに頼むよりしかたなし」
ムスリム少年の精一杯の知恵でありましょう。ことばはわかりません。
しかし、理知的な瞳を輝かせながら、はきはきしたおおきな声で、物怖じすることなく、まるで署長(駐在所長か)を説得するように、

「この日本人が、今晩宿がなく困っているので、ボクがむずいぶんと時間をかけ、頼みまわっているんですけど、どこも断ってしまうのです。もう、ボクの力ではなんともなりません。助けてやってください」

リッパすぎる少年です。その純真な少年の表情と心を前にしては、「余分な問題を持ち込んで!」の思いは、警察側にも起きるはずはなく、なんと、わしたちに席を勧めたあげく、部下に「チャイ」を取り寄せるまでの手配。
もちろん、「こちらで支払わせてください」と財布に手をかけようとすれば、「お前たちはわがパキスタンにおけるゲストであるから」
ゲストの言葉だけは聞き取れました。

その後の推移。所長が少年と話し合いながら、2・3回電話をかけたあと、「それでははこれから再度ボクが・・」という感じ少年につき、お礼をいいつつ警察署から人影少なくなった深夜の街に。

であれば、わしの推察として「多分、署長が、私が責任をもつから泊めてやってもよい」的な言葉を宿主人に話し、そこに少年がわしたちを案内・・・と思えど、結果的には、どうもそうではなく「警察署長がいいといったから、この日本人ふたりを」。少年の依頼は、またも次々、たずねる宿のフロントで断られる始末。

しかし、この少年のすごさ。「もうなんともまらないから、ボク、家にかえります」ではなく、周囲に助けをもとめれば、街角の男たち、また数人顔をそろえ、少年に助言している様子。
「だめだぞ。いま、この周辺では公安がうるさいから。少し離れているが、ドコソコの街に行ってもらえ」

男たちと少年が、オート・リキシャに近づき、コトの次第を話し、わしたちは、見送られるようにして、言えば、有楽町界隈から江戸川沿いの下町に・・という流れで、その夜の宿をなんと確保。そこでもやはり異常。宿帳にはチエックインすることなく、朝は早急に出てくれ。それでも、その宿主人の精一杯の善意でのこと。
下町に入ってもやはり断られ、何軒目かの末の結果、そうしたヤミ泊まりでの一夜でありました。


4月8日
年寄りの早起き。相部屋した日本青年に先立ち、宿を飛び出し、この日、ふたたびなんと15時間。ひたすらバスに身を預け続けながら、世界に名をとどろかす「カラコルム・ハイウエー」の峻険そのもの、岩肌に鑿で刻んだような山岳道路を。

なんと再び深夜0時前、あと三時間ほどで目的地フンザに達するギルギットの街のバスターミナルに。小さな山間の町ですが、ここも、輪をかけたような戒厳令ムード。闇のなかに、鉄兜姿の戦闘服で、兵士たちが辻ごとに厳重チエック。

しかし、確保した宿が、きわめてグー!。というかグー過ぎ。かつ、ドミ一晩50ルピーであれば100円。加えて、街そのものが、完全にグー。加えて、この日本語ネット屋あり。食事もインドのベジだけ、カリーずけから、肉料理もふんだんでスパイ少なきパキスタンは最高!

そんなことで、8日一晩の中継ぎとしてとまり、翌朝、すぐ目指すフンザへの意志は「急ぐことはなぁーんもなし。どうせインドビザはパキできれて、フンザの帰りにイスラマバードで。そんでええわさ」

もろくもくずれ、はやここで二泊。今日は、3時からギルギット川のほとりにある競技場で、あの馬を自在にあつかうおとこたちの「ポロ競技」の決勝戦あり、それも入場料タダとの情報があり・・・
となれば、これからそろそろそちらの方に、ヒトリトボトボと。
となれば、今晩もこのギルギットもお宿に。

思わぬところで三泊!。流れた旅のよさというか、「そんなん、のんべんだらりのいいかげニンゲンでつがな」のご批判があるというか?
どちらかは、本人自身にはわかりませんが、とりあえずは「ゲンキ」にフンザを目指しておりますことを報告いたし・・・

「からゲンキにならんようたのみまっせ」
いつもながらの各位のご支援。まことにありがとうございます。

お礼にはなりませんが、御参考までに、今回のオネウチ宿は、
GOLDEN PEAK HOTEL。

けっして名前負けはしておりませんことを、書き加えてこれにて本日は失礼申しあげます。
まあ、ちょこっとヤリたいけど、ここの街、ネット代がド高いのが泣きでよう。
宿が一晩八時間以上寝とっても50ルピーやに、めーる代は二時間で80ルピー。ほういうこってすわ。


  2007.4.10

            つい長居になった、カラコルム街道沿いの
            パキスタン北部、ギルギットの街にて
                         のんびり敬助


インド道中記85

2007年04月01日 | Weblog
予想に反し、こんなインドの山奥で日本語メール店を発見!!
であれば、喜びいさみ近況をチョイと。

ここ、すでにヒマラヤに近く、チベット高原まで数十キロ。視界の山は雪をいただき、わしの安宿におりる坂道には、「おまちしておりました。もう数日で消えようとおもっておりやした」。
山奥わけいって来た、日本人老人を歓迎するごとく名残の雪のかたまりが。

標高2000メートルを越える、このヒマラヤ州「マラリー」の街。すでに山岳民族やネパール人が主流で、ラマ僧の姿も散見し、「ここもインドきゃあ」という山々に囲まれた谷間にあり、
たとえれば「上高地」を10倍ほど拡大したような雰囲気。

今朝方、バスに揺られに揺られ谷をさかのぼりやっと着いた、その「マラリー」のバス・センター近くに宿をとればよかったものを、安宿もとめリキシャを雇い、さらに奥まった「オールド・マナリー」に分け入って、「一泊個室オンリー100ルピー250円の個室ダブルベット眺望きわめて良好」を確保。

それはいいけんど、ここやっぱり失敗ででなも。新婚旅行やペアー連れなら、なんもないながら、景観と雰囲気が最高のこのヒナラヤの山麓の小集落がええとしても、野郎のおいぼれひとり、ベットの上でひざ抱えておれば、これほどまでにして辿りつきながら・・・でヒシヒシたるミジメ感だけがおのが心に。

せめて、「頼みの日本人旅行者」に出会えれば、寂しさ、心細さは救われるんやけど、それこそ、「呼べど叫べどスギノは何処♪」で、チラリの影もなし。

まっ、この地帯。三月中は完全なオフシーズンで、いまどきがどうやら山開きを迎えたというアタリやそうやで、まっ、「われはやまてり」で、わしが反省しなかんとこかもしれんわなも。

ほんじゃ、わしが、「はやまった」経緯といま展開中の、「ヒマラヤ山麓単騎よぼつき作戦」を状況をここでご報告であります。

本来は「パキスタン作戦」に従軍しておるわが身がなぜにここに。やはり、わしが世話になっとるアシュラムの高僧が、そのパキスタン行きに否定的で、「本来、ここで静養していることがユーのボディーとマインドにもっともベターであるが、ヒマで困るというのであれば、このチャンデガル市の背後にある空気のきれいな山岳地帯に逍遥してはどうか」

わしも、「地球の歩き方・インド版」の「ヒマラヤを望む国境の町」の項目にあるそのあたりは、一度、偵察したき思いがあれば、「後に心は残れども?それじゃんじゃあ行くぜと・・♪」わがグル・スマミー師にしばしのいとまごいをなし・・

3月29日早暁、チャンデガルを出立。終日、バスに揺られ、パキスタン国境にも近い北インドの鉄道結節駅「パタンコット」に。このあたりは、観光ルートとまるで関係なく、わが日本でいえば「米原駅」てなところ。

泊まる旅人は、限りなく少なく、多分、年間通じて日本人はかぎりなくゼロ(まっ、そういうけんど、オレとまったことあるでーちゅう元気な日本青年がおったらわしにメールもらうとうれしいわなも)

で、翌日、これがホントの目的!!。ここから約160キロほど、あの世界遺産のダージリン・トイ・トレインに匹敵する超小型のトロッコ級列車が、時速20キロほどの超スロースピードで、トコトコと、雪のヒマラヤの山々を小さな車窓に時折覗かせながら・・・

予想した以上の景観と、小型列車の楽しさ!。
これは、してはいかんけどやっぱ自慢したゃあわしが自分で見つけた、インドの旅の圧巻!!。
いや、ほんと。これが、遊具的とか観光用ではなく、いまの時代に現実の実用線としてリッパに軌道と列車を確保しているスゴサ!。インドの底力でっがな。

それにしても、驚くべきは、「地球の歩き方」の鉄道路線図にこの路線は、掲載されておらぬばかりか、なんと、チャンデガル市の国鉄窓口でも、「そんな列車はノー」の回答!

要は、「予約コンプューター」からも、除外されている「零細かつ過疎路線」で、わしが、29日夜その始発のパタンコット駅に明日の予約をと顔をだしたら、やっぱし「当日カム・プリーズ」のお答え。インドは広い!。市バスなみに予約や指定座席券がなて、すべて当日ハヤイモンガチだけの列車がはしっとるんだわなも。

で、30日、一日かけてのらせてまってもアキのこなんだその路線と列車光景は、また別に報告させてまうことにして、終点駅でおり、今度はいよいよ山奥分け入る現地バスに乗り換え、ややマイナーな、「クルー」の街に2泊。

今朝、月改まり4月1日。早朝、クルーのバス・センターを発ち、さらにこの山奥、これより先はバスがなく、もはやジープとトレッキングの山岳地帯に入る直前の「ムスリー」に。へい。そういう流れぐあいでおました。

あと、2泊程度を重ねて谷筋をバスでおり、有名な避暑地「インドを征服していた英国が、暑さをのがれ夏の間はここに首都を動かしていた」というシムラーから、人気の狭軌登山鉄道に乗せていただき、その終点で乗り換え、ほぼ一週間の一人旅を終え、なつかしの チャンデガル市の収容所に・・・
途中、列車転覆・道路崩壊などの突発事項なければ、そんな日程で、わが山岳戦は推移する予定でございます。
そんな次第であれば内地の各位におかれては、なにぶんのご放念をお願い申し上げます。

なを、その後の作戦につきましては、ご期待の「パキスタン攻略」の懸案もありますが、頂いたときは「半年も」とその長さにインド外務省に感謝していた「ビザ」もはや期限切れ間じか!

この年になり、「不法滞在」で、外国の官憲の世話になること、いさぎよしとしなければ「はて、どうしたものか」
悩みは深しわが胸の底!

ということで、わが行く末を、これからトボトボとお宿に戻り、ひとりベットで深く思考いたす所存であれば、今晩はこれして失礼を申し上げます。

すでに、デリーでは「暑季」というのに、さすが2000メートルを越えるこのムスリーは、昼はともかく、はやかなりの冷え込み。あげくに暖房なし。

今晩はきっついでヵんて。
はい。やっぱ、ここでも自業自得でおます。まいったわなも。

          ヒマラヤを望む国境の街にて。  2007・4・1
          「本日のレポート。ウソはございません」  自称真面目敬助