老いぼれよれよれ道中記

ひまなじっさまが、余生のあるうちはと、内外のおもしろげな街や村をほっつきあるく旅日記

那智従軍写真館=戦場

2011年12月19日 | Weblog

■前線基地=井関サテライト

わしたちは、毎朝、この基地で点呼を受け、作戦方針を聞き、小隊ごとに別れて各戦場に赴く。その際、「きょうも突撃するぞ~」の団結の雄たけびを円陣を組んで発するのがわが「絆軍団」の軍律なのだ。

その基地となっている場所が、那智勝浦町は氾濫した那智川の「井関地区にある「町立井関保育園」であるが、なぜここがサテライトになっているか・・

へい。暫くしてからわしが理解したところによればですねぇ。水道や道路の復旧など公共的なデカイコトは、税金をもっとるお役所サンがやるのは当然にして、問題は「一般庶民のオウチ」を含め、当面、自力で「なんとかせなかん」「だども人手がたらん」ちゅうとこは、わしがおっとり刀で被災一ヵ月後に現地にかけつけた段階でも、そら、ぎょうさんありますわな。

そこで「ボランテイア」ちゅう「志願兵」を募集して、庶民の要望によりその前線に「派兵」する「大本営」の機能をもった組織として「那智勝浦町社会福祉協議会」ちゅうとこが急いで立ち上げたのが「12号台風災害復興支援ボランティア・センター」なんです。多分そうだな。

だども、そこは街中にあって、日々、奮戦する基地としては前線からは離れすぎておって地理的にまったく不利なんで、「どうしたら、よかんべぇ」
町長さんや、福祉協議会長たちが相談した結果、

「どうだろう。被害の酷い井関地区にある町営の井関保育園だが・・あそこも壊れて園長以下全員別の保育園に疎開して貰っており当分は空家だからサテライトとして使ったらよかんべぇ」「その案でよかんべぇ」

多分、そんな経緯で、ここに社会協議会の前線基地としてボランティア・センターのサテライトが置かれ、合わせて、被災者救済や相談の行政側窓口として那智勝浦町災害対策本部の職員が常時駐在しておった・・とこない次第でございます。

ほんじゃ、そのあたりに関わる代表的?なお写真を以下になも。


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看板にみるごとく、ここが基地のセンターであり、 暫し談笑する3人の絆軍団に所属する青年士官の背後の小さな部屋が、いわば指令室で、町の社会福祉協議会事務局の職員が常駐している。「支援をたのむ」の住民の要望は、ここに寄せられ、ただちに軍団により臨戦体制が樹立される。

写真に見る「とうる」「ほっぴー」「なおきち」の歴戦の勇士は、出撃前にもかかわらずでいずれも余裕の笑顔だ。

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*旧保育園の運動場、現サテライト広場では、朝は全国各地からのボランテイア(そうした援軍が400人を超える日もあった)を出迎える前、夕方はその援軍をお見送りした後、絆軍団だけによるこうした円陣を組んでの作戦会議がかならず開かれるのである。

10月2日の朝は、この場で「今日から参戦される名古屋の敬助さんで、旅仲間では仙人サンと呼ばれています」と、かっての戦友「じょじょクン」がわしをこの軍団に紹介してくれたことにより、以後、このナチカツ戦場では「仙人サン」が、本官の正式名称になり申しましたとサ。

背後に見える緑色ボックス2基は仮設トイレです。本来、当然、常駐する保育園内にも水洗のしっかりしたものがありますが、いまだ復旧せず、強引に使用すれば、今度は部屋の中が糞尿で氾濫するのでこの仮設でも仕方ありません。

同じように、この井関地区をはじめ那智川ぞい一帯では、こうした仮設トイレをいたるところに見かけました。なんとか家に住めても、まだトイレの使用は不可!。ほんと、気の毒でございました。被災、一ヶ月以上も経つによう。


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*朝礼、終了後、直ちに当日の前線を偵察するため、先陣をきってオフロード・バイクの愛機を駆って、広場から飛び出して行く情報参謀の「トムさん」を隊員が見送るの図である。

「なんや、エンジンのかかりが悪そうでおますなぁ」
漏れ聞いた情報では、これも地元有力者のご提供の中古車両とのこと。たしかに「和歌山ナンバー」でしたので。本人のであれば「琉球ナンバー」のはず。トムさん、琉球快男子の見本のような青年でございました。


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武器なくして戦闘はできない。その質量が勝敗を分けるのは、太平洋戦争の日本帝国陸海軍の敗北が証明している。これが、わが絆師団のセンター受付の近くに設置された武器倉庫?だ。これでもまだ一部だから壮観というほかない。多忙時には、これでも不足する様相をみせる。
夕方には、一旦は全て高圧洗浄器でドロを落とし、ここに戻されるが、その後、軽トラで前線の戦場に運びだされるケースも多い。

当初、不審に思ったが、翌日、朝、基地にきたボランティアさんの団体が、その日にすぐ作業にはいれるよう事前に、最前線である被災家屋の庭先へ移動させておくことをしり、その準備のよさに「さすが精鋭師団だ」の思いを新たにした。

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*上の写真をアップした一輪車群。これだけあると、解体や破砕のクギなどで
連日、パンクが発生し、それを修理する「素人自転車屋」も、わしの隠れた作業ちゅうか師団公認のお役目でございました。

なを、この一輪車の「所有者」表示には、「石巻」とか「仙台」の東北都市名がございましたが、なぜか、わしの地元県、「飛騨高山」もかなりの数が。東北は、わかりますが「高山」からなぜに此処に。いま、現在も、その真相はヤミの中であります。どなたか、ご教示いただければ幸いであります。


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その武器庫?に入りきらぬスコップやジョレンは、建物横に整理されるが、それぞれの大小、カタチ、加えて、バールやハンマー、ジュウノウ、ホウキ、ブラシ、カナズチ、クギヌキ・・など、その仕分け作業もラクではない。

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基地の掲示物でこれは本部横の張り紙。上が「ボランテイアはん。遠路、ほんまご苦労様ですなぁ。せっかくやさかい、タダコの温泉に漬かっていきはったらどないでっか」の趣旨で、下が「そのかわり、持ってきおった自分たちのゴミは必ず持って帰ってくなはれ。たのみまっせ」

400人を超えると、弁当の容器や残飯などの量はバカにならず。ゴミで苦戦を強いられているこの町に、問題を上乗せしては支援にきおったボランティアティアの名折れになるよって、当然ですわなぁ。


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*全員が絆師団だ。わしの隣、上品な娘さんは従軍看護婦ならぬ従軍「整体師」のゆうこサンさん。昼間は被災者のサービスで奮戦せしも、夜間、宿泊所に帰営後は、被災者でないわしも、ご老体ということで格別にモミモミしていただけました。嗚呼、えかった、えかった。

その隣、黒メガネの精悍な将校は、軍団の情報参謀のトムさん。オフロード・バイクで被災地の情報収集をなし、的確な作戦を指導。特技に理容あり。
休息中に、この広場で業務用の挟みを取り出し、女子隊員の髪のカットに続き、この老兵のお鬚も。へい、無論タダコでございました。

背後の、「ヤスさん」「せいちゃん」「おざざさん」「マルくん」たちが乗る、戦車ならぬゴミ出し作戦に欠かせぬ「作業用軽トラック」は、歴戦の痕跡にみるごとく、つい最近まで「東北石巻」の災害復旧で活躍していたものです。(絆師団は、石巻市に本部をおく歴戦のボランティア団体であり、故に、今回それを紀州に回送してきたのでアル)

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「仙人」「バンダイ」「ラッキー」と3人の絆戦士がスクラムを並ぶが、わしは新参モノ。右の2人は、その青の軍服に白く染め抜かれた「石巻 協議会」の原隊名に見る如く、絆師団の正統派なのである。

従軍中、トラックにユウボーを掲載し、日帰りのごとく急遽、東北災害地に再度支援におもむき、また、数日でこの前線に引き返し、疲れも見せず直ちにユンボーの操作をするバンダイさんの雄姿に襟を正した次第であります。

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*わしだけが絆師団で、並んでいるのは神戸から日帰りで駆けつけた「外人部隊」というか、気鋭のボランティア集団です。一日だけの激戦が終わっての「強兵4名が老将?を囲んで」の一枚である。
「弱将とちがいまっか」。「へい。間違いおまへん。あいすまんこって。」

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*こうした外人部隊は、職場、地域、学校などで仕立てられた「車両」で、前線に馳せ参じ、馴れぬスコップを手に奮戦して夕刻、またサテライト広場から帰路につく。その「ボランティア・バス」を「ご苦労様でした。では、気をつけてお帰りください」
那智勝浦町長にかわり?お礼の言葉で見送るのも、絆師団の軍律の一局面である。

「記念に後で送りますから」と、見送り時に惜別の情絶ちがたく、わしが強引にバスに乗り込み、強引にシャッターをきった一枚である。

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*ある日、被災しているサテライトの一部屋を、青テントで囲い、看板のごとき被災者サービスがございました。写真のドロだらけズボンにみるごとく、わしもまた心身ともに草臥れておりましたので、丁度、客ナシと、この先生にお願いさせて頂きました。

わし。蜂に刺されたことあるけど、鍼をチクチク刺されたのは、生後74年で初めてなんですわ。
無免許で操作したユンボーに加え、今回の従軍による初体験。いずれも無料のご奉仕活動からえろう儲かった気分でおます。

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*うれしくも、また別の日には、とある業者さんから「氷」の寄贈があり広場で「かわいい地元中学生掻き氷屋サン」がオープンし、作業を終了し次々基地に戻って汗を拭うボランティアさんを喜ばせていました。その方々を見送ったあと、わしたち絆師団も、遠慮なく喜ばせていただきました。

左のおねいさんは地元那智勝浦町から「絆師団」に志願してきた「タッシー」ちゃんで、いわば氷屋さんコンビの部活顧問のお役目を担っていたように拝見いたしました。

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氷屋さんもやってくれた基地のマッコット・ガールの「ミユちゃん」と「エリちゃん」だ。地元の中学生で、休日と放課後には、自分の通学自転車でここに来て一輪車のパンク修理を仲良く。外れぬナットに苦戦をする2人をみて、わしが手をだしたことにより、すぐにわしが指導教官?というか、以後、2人の登校中のウイークデーにおいて軍団直属の自転車屋の重責を晴れて担うことになった。

なを、帰宅後、ミユちゃんからたのしいメーセージをつけ
マイ・ミク申請あり。いやはや。女子中学生のお友達は初めてですわ。
繰り返すアジア・ふらつき旅でも、見つからなんだのによう。

今回の従軍の、ほんとよき記念になり申しました。

(追記)昨日27日、夕刻、「いま、名古屋駅近くで絆師団のOB会をやっています。仙人さんの電話番号を大阪のやっさんから聞き出し連絡するんですが、お出かけいただけますか」

親切なアイちゃんのお誘いで「ちょうど恵那の山から自宅に戻っておるとこ」と勇んで答えて、勇んでバイクで指定のカフェに急行。たのしい総括兼勉強会のあと近くの中華料理店で翌日朝1時近くまで。

なを、お顔なじみとしては、名古屋の「ひーさん」東京の「和助さん」和歌山の「おざざサン」岐阜の「とおるサン」に「寛治さん」たちも。ほんに、なつかしゅうございました。

で、今日は、この日記を自宅で書きつけ、明日からまた仙人宿に隠棲しますんでしばしご無礼申し上げます。

           

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