こんばんは、ちゃーみーです。
今日は、1995年1月17日に起きた『阪神大震災』から11年目になります。
ニュースでも取り上げられてますし、皆さんもご存じのことと思います。
直接被害に遭ったワケではありませんが、あの時のお話を、今回は珍しく
真面目に進めていきたいと思います。
私は当時、大阪府の中でもどちらかと言うと京都寄りの街に住んでいました。
ここまで来ると震災の被害はさほど大きく無く、発生時刻、私はまだ夢の中・・・
けど、マンションにトラックか何かぶつかってきたような大きな衝撃があったのは
何となくですが覚えています。
一緒に住んでいた、はるりの部屋に懐中電灯の明かりがぼんやりと灯り、
ゴソゴソ動く気配で私も起き、「今なんかあった?」と彼女の部屋で話してました。
しかし時間も早い為、とりあえずもう少し寝る!と決めてしばしの二度寝に突入。
この時、神戸の街が大変なことになっているなんて、全く知る由もなく。
起床して準備をしていたら、友人から電車が不通で復旧のメドなしとの知らせが。
すると、立ってられない程の大きな余震がきて、これが原因だと分かりました。
でも、テレビをつけてもしばらくは詳細が出なかったので、まさかあんなに
酷い状況だったとは思いもよらなかったのです。
そして、神戸の街が燃えさかる映像が流れた時。
戦争でも起きたのかと思うような黒煙と炎に、ショックで声が出ませんでした。
神戸近辺の友達に電話しても全く繋がらず、やっと昼に連絡がとれて無事を確認。
その後、欲しいと言っていたお水を救援物資にと、近くのコンビニへ行きましたが
なんと在庫ゼロ。
いろんなお店を回りましたが、全て同じ状況で驚きました。
翌日には阪急京都線も無事復旧し、一応会社へ行ってはみたものの、
事務所はめちゃくちゃで仕事にならず。
結局、連絡のつかない友人がいるという会社の人と一緒に、その人を探しに
車で震災の中心地へ向かいました。
(この時はまだ交通規制がされてなかったので)
そこで見たのは、国道のはずなのに、前から道路いっぱいに広がって
ぞろぞろと歩いてくるたくさんの人達。
大きな荷物を運んでいる人もいて、テレビの映像でしか見たことがない
戦後のような光景に、二人してただ呆然と見つめることしか出来ませんでした。
迂回せざるを得なくなり、細い道へ曲がると潰れてガレキの山のような家々。
そんな中、大学生らしき若者4~5人がインスタントカメラを片手に、なにやら
写真を撮っていました。
しかも笑いながら。ピースサインで。
許せませんでした。
怒りの余り車を降りかけましたが止められて。当然なのでしょうけど悔しかった。
どうして彼らがあんな行動をとれるのか、今でもさっぱり理解できません。
その後は会社の人の友人を探しに病院を回りましたが、その時の内部の様子は
あまりにも悲惨すぎて書けません。
生きているのか亡くなっているのか分からないような状態で、その場に俯いて
座っていたり、寝転がっている人達でいっぱいだったんです。
結局、会社の人の探し人はその日見つからずに心配しましたが、翌日には
連絡がとれたと聞き、一安心でした。
後日知った話ですが、ああいう状況になると人間の良い部分と悪い部分が
顕著に表れるもので、炊き出しや配給が行われる前にやって来た業者が、
オニギリをなんと1個500円や1000円で売っていたとか!
かと思えば、有名な某ヤクザの組の人達がやって来て、たくさんのオニギリを
タダで配ってくれたり、率先して炊き出しをしてくれたそうです。
あの頃はもう、何が良くて何が悪いのか分からなくなったと、被災した友人が
言っていたのが非常に印象的でした。
最初に書いた通り、私は直接震災の被害に遭ったワケではありませんが、
そんな私でも、あの時見た光景や聞いた話は未だに忘れることが出来ないんです。
だから、被災者の方々なら尚更でしょう。
最近は震災の記憶が風化していってると聞きますが、追悼番組を見るたびに
あの日の事を思い出しますし、決して忘れてはいけないとも思います。
恐ろしく長くなりましたが、お付き合い下さり、ありがとうございました m(_ _)m