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デスペラード日記

日々の内容を綴る

日本国憲法が定める「国民主権」条項を憲法の改正により変更することは可能か。

2010-07-26 00:50:36 | Weblog
1.憲法改正の限界
憲法の改正については96条で規定が設けられているが、この手続きを踏みさえすれば、どのような条項でも改正可能なのかを議論するのが憲法改正の限界である。この中では改正に限界があると考える説が有力であるがその説を逐次見ていく。

2.根本規範想定説(以下、A説)
この説では、憲法を憲法たらしめる規範としての根本規範や人類普遍の自然権を想定し、その根本規範や自然権を超えるような改正は許されないとする。たとえば日本国憲法の場合、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重が日本国憲法の根本規範であると考えられ、それを否定するような改正はできないとするのがこの説である。

3.憲法制定権力想定説(以下、B説)
この説では、憲法を生みだした力(憲法制定権力)と憲法を変更する力(憲法改正権力)の二つを観念する。憲法制定権者は主権者であり、憲法変更権力をもってして、憲法制定権力を否定できない、つまり、憲法改正により主権者を変更することはできないとするのがこの説である。

4.通説的理解
以上、改正に限界があるととらえる説をみてきたが、分類としてはA説のみを肯定する立場(ア)、B説のみを肯定する立場(イ)、双方を肯定する立場(ウ)、双方を否定する立場(エ)の4通りが考えられる。ア~ウの立場は憲法改正に限界を認め、エは限界を認めない。通説的立場はウであると考えられる。

5.私見
個人的にはエの立場を支持したい。そのためにA説、B説両方の批判にお付合いいただきたい。
A説のいう根本規範や自然権はそもそも擬制であり、その擬制がいかなる法的作用を保持しているのか不明である。さらに、その根本規範も長期的に見れば、パラダイムシフトしないという根拠はない。そういった意味で普遍的たりえない。
B説への批判として明治憲法から日本国憲法へ移行する際に、主権者が天皇から国民へ変わったという事実がある。これに対して古沢俊義は8月革命説を唱え、そこでの主権者の変更は超法規的な現象であったと反証する。しかし、これには合点がいかない。明治憲法から日本国憲法へと改正がなされる際には、明治憲法の手続きに従った改正がなされている。これを超法規的とみなすためには、前提としてB説を採用する必要があり、他説支持者への反論としては説得力を持たない。そもそも、8月革命説を唱える方々は憲法学者でありながら、憲法を直視していないのではないか。明治憲法制定時には改正の条項を置かないという選択肢もありえたはずだ。もちろん、制定時と戦争突入時では時代や認識にズレがある。しかし、明治憲法の起草者たちが改正の条項を設けた意義は軽視できないはずだ。
最後に、エの立場を支持する積極的な主張をしたい。権利や自由は天から授けられたものではない。歴史的にみると、多くの血の上に今の権利や自由がある。僕は今の権利や自由のある暮らしが好きだ。だからこそ、この権利や自由を守り抜きたい。だけれども、それを学者や一部の専門家の議論にゆだねるべきではない。日本国憲法は、この憲法の行方を決める最後の砦として国民を選んでいる。その国民の意志は一部の学者が声を上げたところで、もろく掻き消されるほど、絶大で圧倒的だろう。僕らの選択はそれほどに重い。その重大な決断を安易なものにしてしまわないためにも、憲法改正に限界はないと国民に知らしめ、主権者としての国民の意識を高めることが、ひいては個々人の権利を守る最善の方法だと提言したい。

内閣総理大臣の職務権限について論じなさい。

2010-07-26 00:49:57 | Weblog
1.条文上の規定
このテストが憲法の問題であるということを忘れないためにも、まずは内閣総理大臣の職務権限に関する憲法上の規定を見ていくと、まず内閣内での権限として国務大臣の任命及び罷免が記されている。さらに、内閣外への権限として議案提出、一般国務及び外交関係報告、行政各部の指揮監督が72条で置かれており、75条で在任中の国務大臣に対する訴追への同意が定められている。

2.行政各部の指揮監督をめぐる問題点
以上、内閣総理大臣の職務権限について憲法上の規定を見てきたが、行政各部の指揮監督権について少し整理していく必要がある。というのも、行政各部の長として各国務大臣がいるにもかかわらず、総理大臣が国務大臣の指揮監督を通り越して行政各部を指揮監督できるのかという問題があるからだ。憲法72条の要請を詳細化したのが内閣法6条である。これによると、内閣総理大臣は閣議の決定が得られれば、行政各部を指揮監督できる。では、閣議決定がない場合はどうなのかを以下、検討していく。

3.閣議決定のない場合の指揮監督権
この問題は2つの主張に大別できる。すなわち、指揮監督権を肯定する説(以下A説)と否定する説(以下B説)である。A説はさらにいくつかの主潮に細分化できる。
A1説…この説は内閣法6条の上位規定である憲法72条が総理大臣の指揮監督権を是認していることを肯定の根拠とする。
A2説…この説は憲法68条で内閣総理大臣に国務大臣の人事権が与えられていることを重視し、人事を通じた意向伝達が可能な以上、指揮監督権を肯定する。
A3説…この説は全員一致を原則とする閣議決定ではなく、閣議了解が得られれば、総理大臣の指揮監督権を認めてもよいとするものである。
次に、B説の主張をみていくと、B説は内閣法6条の存在意義や合議体としての内閣のあり方を重視し、総理大臣に絶対的な権限を認めない。そして、内閣法6条を反対解釈し、閣議決定がなされない以上は総理大臣の指揮監督権を認めない。

4.判例(ロッキード事件丸紅ルート最高裁大法廷判決)
この事案を通じて、最高裁判例は内閣総理大臣の指揮監督権の要件としての閣議決定を重要視しておらず、上記のA2説に近い立場かと解することができそうである。

5.私見
たしかにB説は、理にかなった主張であり、それだけに価値はある。ただ、個人的にはA2説が妥当ではないかと考える。総理大臣に国務大臣の罷免権がある以上、迂遠な措置をとって閣議決定を待つよりは、初めから総理大臣の指揮監督権を認めた方が現実的であり、迅速でもある。さらに、経済的緊急課題に直面した際に閣内不一致が起こった場合(今の政治を見ていれば十分にあり得そうではないか!)、迅速な決断が何よりも求められる。このような観点からA2説を支持する。

6.憲法外の職務権限規定
内閣総理大臣にはこのほかに、自衛隊の最高指揮監督権(自衛隊法7条)や執行停止(行政事件訴訟法25条2項)に対する異議を唱える権限などを有する。