1.憲法改正の限界
憲法の改正については96条で規定が設けられているが、この手続きを踏みさえすれば、どのような条項でも改正可能なのかを議論するのが憲法改正の限界である。この中では改正に限界があると考える説が有力であるがその説を逐次見ていく。
2.根本規範想定説(以下、A説)
この説では、憲法を憲法たらしめる規範としての根本規範や人類普遍の自然権を想定し、その根本規範や自然権を超えるような改正は許されないとする。たとえば日本国憲法の場合、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重が日本国憲法の根本規範であると考えられ、それを否定するような改正はできないとするのがこの説である。
3.憲法制定権力想定説(以下、B説)
この説では、憲法を生みだした力(憲法制定権力)と憲法を変更する力(憲法改正権力)の二つを観念する。憲法制定権者は主権者であり、憲法変更権力をもってして、憲法制定権力を否定できない、つまり、憲法改正により主権者を変更することはできないとするのがこの説である。
4.通説的理解
以上、改正に限界があるととらえる説をみてきたが、分類としてはA説のみを肯定する立場(ア)、B説のみを肯定する立場(イ)、双方を肯定する立場(ウ)、双方を否定する立場(エ)の4通りが考えられる。ア~ウの立場は憲法改正に限界を認め、エは限界を認めない。通説的立場はウであると考えられる。
5.私見
個人的にはエの立場を支持したい。そのためにA説、B説両方の批判にお付合いいただきたい。
A説のいう根本規範や自然権はそもそも擬制であり、その擬制がいかなる法的作用を保持しているのか不明である。さらに、その根本規範も長期的に見れば、パラダイムシフトしないという根拠はない。そういった意味で普遍的たりえない。
B説への批判として明治憲法から日本国憲法へ移行する際に、主権者が天皇から国民へ変わったという事実がある。これに対して古沢俊義は8月革命説を唱え、そこでの主権者の変更は超法規的な現象であったと反証する。しかし、これには合点がいかない。明治憲法から日本国憲法へと改正がなされる際には、明治憲法の手続きに従った改正がなされている。これを超法規的とみなすためには、前提としてB説を採用する必要があり、他説支持者への反論としては説得力を持たない。そもそも、8月革命説を唱える方々は憲法学者でありながら、憲法を直視していないのではないか。明治憲法制定時には改正の条項を置かないという選択肢もありえたはずだ。もちろん、制定時と戦争突入時では時代や認識にズレがある。しかし、明治憲法の起草者たちが改正の条項を設けた意義は軽視できないはずだ。
最後に、エの立場を支持する積極的な主張をしたい。権利や自由は天から授けられたものではない。歴史的にみると、多くの血の上に今の権利や自由がある。僕は今の権利や自由のある暮らしが好きだ。だからこそ、この権利や自由を守り抜きたい。だけれども、それを学者や一部の専門家の議論にゆだねるべきではない。日本国憲法は、この憲法の行方を決める最後の砦として国民を選んでいる。その国民の意志は一部の学者が声を上げたところで、もろく掻き消されるほど、絶大で圧倒的だろう。僕らの選択はそれほどに重い。その重大な決断を安易なものにしてしまわないためにも、憲法改正に限界はないと国民に知らしめ、主権者としての国民の意識を高めることが、ひいては個々人の権利を守る最善の方法だと提言したい。
憲法の改正については96条で規定が設けられているが、この手続きを踏みさえすれば、どのような条項でも改正可能なのかを議論するのが憲法改正の限界である。この中では改正に限界があると考える説が有力であるがその説を逐次見ていく。
2.根本規範想定説(以下、A説)
この説では、憲法を憲法たらしめる規範としての根本規範や人類普遍の自然権を想定し、その根本規範や自然権を超えるような改正は許されないとする。たとえば日本国憲法の場合、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重が日本国憲法の根本規範であると考えられ、それを否定するような改正はできないとするのがこの説である。
3.憲法制定権力想定説(以下、B説)
この説では、憲法を生みだした力(憲法制定権力)と憲法を変更する力(憲法改正権力)の二つを観念する。憲法制定権者は主権者であり、憲法変更権力をもってして、憲法制定権力を否定できない、つまり、憲法改正により主権者を変更することはできないとするのがこの説である。
4.通説的理解
以上、改正に限界があるととらえる説をみてきたが、分類としてはA説のみを肯定する立場(ア)、B説のみを肯定する立場(イ)、双方を肯定する立場(ウ)、双方を否定する立場(エ)の4通りが考えられる。ア~ウの立場は憲法改正に限界を認め、エは限界を認めない。通説的立場はウであると考えられる。
5.私見
個人的にはエの立場を支持したい。そのためにA説、B説両方の批判にお付合いいただきたい。
A説のいう根本規範や自然権はそもそも擬制であり、その擬制がいかなる法的作用を保持しているのか不明である。さらに、その根本規範も長期的に見れば、パラダイムシフトしないという根拠はない。そういった意味で普遍的たりえない。
B説への批判として明治憲法から日本国憲法へ移行する際に、主権者が天皇から国民へ変わったという事実がある。これに対して古沢俊義は8月革命説を唱え、そこでの主権者の変更は超法規的な現象であったと反証する。しかし、これには合点がいかない。明治憲法から日本国憲法へと改正がなされる際には、明治憲法の手続きに従った改正がなされている。これを超法規的とみなすためには、前提としてB説を採用する必要があり、他説支持者への反論としては説得力を持たない。そもそも、8月革命説を唱える方々は憲法学者でありながら、憲法を直視していないのではないか。明治憲法制定時には改正の条項を置かないという選択肢もありえたはずだ。もちろん、制定時と戦争突入時では時代や認識にズレがある。しかし、明治憲法の起草者たちが改正の条項を設けた意義は軽視できないはずだ。
最後に、エの立場を支持する積極的な主張をしたい。権利や自由は天から授けられたものではない。歴史的にみると、多くの血の上に今の権利や自由がある。僕は今の権利や自由のある暮らしが好きだ。だからこそ、この権利や自由を守り抜きたい。だけれども、それを学者や一部の専門家の議論にゆだねるべきではない。日本国憲法は、この憲法の行方を決める最後の砦として国民を選んでいる。その国民の意志は一部の学者が声を上げたところで、もろく掻き消されるほど、絶大で圧倒的だろう。僕らの選択はそれほどに重い。その重大な決断を安易なものにしてしまわないためにも、憲法改正に限界はないと国民に知らしめ、主権者としての国民の意識を高めることが、ひいては個々人の権利を守る最善の方法だと提言したい。