故あって、50年ぶりに母校「杉原中学校」の卒業式(最近は「卒業証書授与式」って呼ぶのだそうで・・・)に招かれ、久しぶりに「校歌」というものの斉唱にも参加した。
・・・のだが、ピアノの前奏が始まると、テンポがずいぶん速くて・・・こんなパカパカした曲だっけ?と感じたり、歌っていくうちに、どーっも記憶していた校歌とはところどころメロディが違っていたりして・・・今まで違ったままに(自分に都合がいいように)歌ったりしてたんだろぅか?などと考えながら声を振り絞っていた。
・・・で、正直な感想を吐露すれば、式そのものは感動も共鳴も涙も何もなく淡々と流れていった時間だった。数年前に同級生が別の中学校の校長をしていたときに招待されて参会したときには、見紛うほどの彼の凜々しさと式の運び方に結構感動したような記憶もあって、思わず知らずに比較してしまっていたこともあったのかもしれない。
最近の流行歌を卒業に際して3曲歌っていたが、「こんな歌、彼らが大人になったときにゃぁ覚えてすらいないだろな・・・」と生徒たちが哀れに思えてきた。一生に一度の式典なんだから、ここは「クラシック」(「古典」というよりは「格式のある」の意)の「仰げば尊し」と「蛍の光」で いかにゃあ・・・。今でも聞いているうちに涙が知らず識らずに流れてくる曲なんて、「仰げば尊し」以外にはそうそう無いぞ。
最近の卒業式で「仰げば尊し」を歌わなくなった原因が「歌の意味がわからないから」というものだそうなのだが、小さいとき、っちゅうのは意味がわからないままで歌っていても大きくなったら、ある日とつぜん「そういう意味だったのか!」とわかることも多々あるもんで、そこがまた「クラシック」のいいところでもあるものなのだ。
ところで、全く気付いてなかったというか、そもそも校歌なんてものも学生時代にゃ何を言わんとしてるのかほとんど全く理解してなかったのだが、件の校歌を歌っているうちに「♪高く雄々しく 悠然と~」という歌詞があった。「東の立山」と「西の牛岳」のこと、である。
「立山の雄々しさ」については、立山連峰 のところでも紹介していたことがある。
立山の 空にそびゆる をゝしさに
ならへとぞ思ふ み代のすがたも
富山県民のひとりなので、今でもソラでスラスラと歌える、ということも立山連峰のところで打ち明けていたところだが、富山縣護國神社のサイトによれば、昭和天皇が大正14年の歌会始で「山色連天(山色天に連なる)」の勅題としてお詠みになられたものとのこと。
昭和21年の新年歌会始では
ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ
松そ ををしき 人もかくあれ
という「松上雪(しょうじょうゆき)」をお詠みになっているが、この「松上雪」の石碑が山形県鶴岡市(旧羽黒町)の松ヶ岡開墾場に建立されている。雪国ならではの情景だろう。雪の冷たさと重みにも耐えて松の木は枯れずに緑色のままである。人間もどんなに過酷な下でも変わらぬ強さと凛とした気品を持ち続けていたいものだ、という意図(我流の解釈です・・・)が込められているのだろう。
松は千年の長い歳月を経ても風雪に耐えぬいて少しもその色を変えない、というめでたい言葉とされる「松寿千年翠」や、同じ意味で使われる「松無古今色」(松に古今の色無し)から「強さ」をも思い起こせ、という意味も込められているものと思われる。
天皇が「雄々し」という言葉を使われるのは、日本が「ここぞ」というとき(国難の時)、ということで、明治天皇が日露戦争の開戦時に、
敷島の 大和心の 雄々しさは
事ある時ぞ 現れにけり
と詠まれ、昭和天皇は終戦の翌年、GHQ占領下という混乱と自虐史観の押しつけの時期に、日本人としての矜持、道徳、価値観というものを失いたくないものだという思いを込めて「松上雪(しょうじょうゆき)」を詠まれていた。
そして、平成の世。未曾有の東日本大震災があったときにはビデオメッセージという形の生の声で「雄々しさ」という言葉を使われた。
「・・・・この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。・・・」と。
そして5年を経た追悼式のお言葉では、「何人もの漁業者が、船を守るために沖に向け出航していく雄々しい姿も深く心に残っています。」と。
日本の国民の雄々しさというのは、平時には現れなくても、ひとたび事ある時には自ずと現れてくるものである、ということをご存知ならではのお言葉である、と拝察する。
東日本大震災直後の天皇の「おことば」の重さ
http://agora-web.jp/archives/1584765.html
薄れゆく故郷──5年後の「つなみ」の子どもたち
http://news.yahoo.co.jp/feature/125