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ビョーキの話、続きの続き

2020-03-21 00:23:49 | 日記
3月20日は手術記念日😇😇

手術室に入ってからの事は正直良く覚えてません。
映画で見たアメリカの薬物注射による死刑みたいに手術台に寝かされ両腕を固定された。💉打たれてからの記憶がほとんど無い。

次に目覚めたのは翌日の夕刻。
何と27時間眠ってた。
その間妙にリアルな夢を延々と見続けたが内容はここでは書けない。
後で聞いたら何度か叫び声を上げて起き上がろうとしたらしい。
目が覚めても、おそらく痛み止めが点滴に入ってるらしく意識モーロー。強烈な喉の渇きがあるがかろうじて出る声で「みーずー」と言ったら、看護師から明日の朝までは駄目との宣告。聞いた途端また眠りに落ちた。
こうしてICUでの闘病が始まった。
このときは気づかなかったけどベッドサイドに嫁はんがおったらしい。

術後3日めの朝、意識もはっきりしてきて水も飲ませてもらえるようになったが、摂取量は厳密に管理されていて、1日吸飲みに二杯程度。一口目の旨さが筆舌に尽くしがたいほど。
朝一番で嫁はんが現れ話すことができた。

アリャ? 声がめちゃめちゃかすれとる。
嫁はんが聞いてくれたところ、挿管した時に声帯が傷ついているためでいずれ治るとのこと。
顔はともかく、自慢の美声?が台無しやないか! と余計な心配。

嫁はんが言うには、手術は6時ころ終わる予定と聞いていたが一向に手術室から出てくる気配がなく、10時過ぎた頃には半分諦めていたらしい。
11時前にやっと出てきて担当医から説明があり、6時ころに予定通り終わったが出血が止まらない為再度胸を開けて止血処置をしたとの事。
ほんま、ヤバかったやん。
そんなことになってるも、息子と娘は来やがらん!
何たる親不孝者共め😡😤😡😤

3月24日、リハビリ開始。
幼児のように歩行器に捕まりながらヨチヨチ20メートル歩かされる。
ベッドから起きるのも大変やのに歩くんかい。無茶苦茶ツライがな。

3月25日、ICUを出て重症者用の一般病棟に移動。リハビリで歩く距離が徐々に長くなる。ベッドに寝てるぶんには傷口に痛みはないが、やはり動くとツライ。

3月28日、普通病棟に移る。


順調に回復ちう。
ドレンも取れて、腹から出ていた電極線も抜かれ徐々に身軽に。
リハビリは歩行器無しで歩けるようになった。

看護師共も回復の速さに驚くほど。
しかし声が全然出ない。先生には徐々に戻りますよと言われたが、8月くらいまでは森進一状態やった。


レントゲン写真はこんな感じ。
真ん中の6個の輪っかは切り開いた胸骨をつなぎ合わせるためのワイヤ。
よう見たら鉄筋を番線で縛るようなやり方。右下に人工弁が3つ見える。

4月4日、40日以上に渡る入院生活に別れを告げ帰宅した。

因みに退院時の体重がこれ。
183cm 70キロ有ったが情けないくらい痩せて、アフリカあたりの飢餓難民みたいな体になってしもた。


何度も入退院を繰り返し顔なじみになった看護師さん、お馴染みになったのを良いことに我がままも言いました。
ゴメンねそしてありがとね。

これで大団円を迎えるはずが、8月の外来検査で先生から来週一泊で入院せよとの宣告。

ん、どういうコッチャ?

理由は4種類の手術のうち最後のメイズ(心筋焼灼術で不整脈の治療)がうまく行かず不整脈が残ってるそうで除細動をかけるとのこと。
元々メイズは50%位の成功率と言われていたので、まぁしゃあない。

てなわけで、電気ショックをやって今日現在も無事生きとります。

お・し・ま・い






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