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electronic doodad

deelie, jigamy, oojah, wobbegong, gismo, and thingamajig.

responsibility

2004年09月17日 | scribbling
少し前に「子供が殺されたというニュースほど嫌なものはない」と書いたばかりだが、また悲惨なニュースがテレビで連日報道されている。栃木の兄弟誘拐殺人事件である。テレビの画面に幼い二人の写真が出てくるたびに、私はすぐにチャンネルを変えてしまう。あまりにもかわいそうで見ていられないのである。だからこの事件についてたくさん情報を持っているわけではない。真相がわかれば違う感情もわくのかもしれない。
しかし、今私がどうしても我慢ならないのはこの兄弟の父親である。この男の方が罰せられてしかるべきではないのか?容疑者の男はもちろんだが、私にとってはこの父親の方がより極刑に値する重罪人である。まるで被害者であるかのようにマスコミがインタビューしている記事を読んだりすると腹が立って仕方がない。
この男はこれからどういう顔をして生きて行くのだろうか? 健康な体を持っていて、まじめに働く意欲さえあれば、親子3人で慎ましく生活して行けるぐらいの収入を得られる仕事なんていくらでもあったはずだ。幼い子供はそれでも十分に幸せなのである。 
前ニューヨーク市長が「親を亡くした子供はorphan、夫を亡くした妻はwidow、しかし子を亡くした親を表す言葉はない」とどこかで演説しているのを聞いた。この父親が、子供を失ったという大きな痛みが自分に与えられた極刑だと思って、更生してくれることを願うしかない。

mind-set

2004年09月15日 | scribbling
仕事で青森に行ってきた。青森市内で何度か「ラグノオ」と書かれた看板を目にしたのだが、その度に、あれは「酪農」の青森弁なのか、それとも右から「オノグラ」と読むのかと気になっていた。ところがお土産に買って帰ったお菓子にも期せずして「ラグノオ」と書かれているではないか。そこには ウェブサイトのアドレス まで載っていたので、はやる心を抑えつつアクセスしてみる。
名前の由来を知って苦笑。笑うところではないのだろうが、街角で見かけたときの自分の想像の範疇からは完全に逸脱していた。こういうことってとても愉快である。
私の場合、異性であろうが同性であろうが、自分とはまったく違う発想をする人に強く惹かれてしまう傾向がある。この場合、相手もそのような人だとお互いに刺激し合えてとても良いのだが、一般的には自分と異なる発想をしてしまう人とはうまくつきあえないものだろう。民族や宗教の対立なんてのも結局のところはそこにたどり着くのだと思う。仲間意識の根底にあるのは何だろう。自尊心か。

justice

2004年09月09日 | scribbling
「スウィンバーン症候群」というブログの ホランとデリマ選手の救済度 というエントリーの中に『チェチェンやパレスチナやイラクでは、憎しみの連鎖、度重なる攻撃の応酬が続いているが、ホランもデリマもどこかで超越してしまっていることは確かである。』という記述があった。私もまさにそう思う。
以前のエントリー で私は「そもそも私が、私の家族を一人残らず虐殺されたらどう思うだろう。」と書き、さらに「憎悪の応酬をいつまでも続けていてはいけない。」と書いたが、それ以来このことが頭を離れない。特に後者はただのきれいごとなのではないかと思ってしまうのである。
アニメでもドラマでも映画でも、愛する人を守るために戦う、あるいは愛する人を失ったらその復讐を遂げる為に戦うのが主人公である。そこに我々は感情移入をし、自然にそういう行為を「正義」と呼ぶようになる。小さな子供だって知っていることだ。
しかし本当の正義とは、その怒りを超越することなのに違いない。既存の価値観に照らせば、そんな主人公はかっこ良くない。情けないかもしれない。
デリマ氏の超然とした態度が強く胸を打つ。願わくば彼のような心こそが正義だと呼ばれる世の中になって欲しい。

earthquake

2004年09月06日 | scribbling
立て付けの悪い4階建ての公務員住宅の最上階に住んでいると、震度1以下(震度表示が出ない)地震でも十分に揺れを感じてしまう。部屋全体がぐ~っぐ~っと浮き沈みする感じである。和歌山の地震は東京でも感じられたようで、イギリスのSkyNewsが伝えていた。イギリス人にとっては地震なんてのは大事件である。
それで思い出すのは10年近く前のこと。日本に来ていたインド人のポスドクが夜中にひとりで実験していて「生まれて初めて」の地震を経験したときのことだ。日本人なら誰も問題にしないほどの微震だったようだが、彼はびっくりして廊下に飛び出し、研究所中を「Emergency!!!」「Emergency!!!」と叫んで走り回ったそうである。翌朝、研究室のご近所さんが口々に「おたくのガイジンさん、昨日の夜中に凄い形相で叫び回ってたよ」と教えてくれた。彼のとった行動はマニュアルどうりだ。実に正しい。だから笑ってはいけないと思いながらも、彼の顔を見るたびに、こみ上げてくる笑いを抑えきれなかったのを覚えている。

cornered rat

2004年09月05日 | scribbling
「失うものが何もない人は決して敵に回してはいけない」と教わったことがある。先週末に仙台で話題をさらったこの方もその類か。
比べては失礼なのだろうが、先週末には私の心に刺のように突き刺さった事件もあった。北オセチア共和国での学校占拠事件である。罪もない子供たちが300人以上も殺された。同じ子供を持つ親としては、子供が殺されたというニュースほど嫌なものはないのだが、それが300人以上ともなると、思わず息が出来なくなるほどショックである。我が子の亡骸を抱えて号泣する両親の映像など見ると思わずチャンネルを変えてしまう。とてもつらい。
背景にあるのはまたもやチェチェンの民族独立運動なのだそうだが、チェチェンでロシア軍がいかに残虐な殺戮を繰り返してきたかということが報道されるたびに、チェチェン人の過激な復讐行動もむべなるかなという気さえしてしまう。許してはいけないのことなのだが。
そもそも私が、私の家族を一人残らず虐殺されたらどう思うだろう。もはや自分の命なんか惜しくないから、命がけで復讐してやろうと思うに違いないのである。
しかし今度は、北オセチアで殺された子供たちの両親が、チェチェン人を死ぬまで憎むだろう。イスラエルとパレスチナの例をあげるまでもなく、激しい憎悪の循環は1000年経っても断ち切れるものではない。
歴史をねじ曲げずに教えることには勇気がいるのだろうが、歴史を封印することにはもっともっと大きな勇気が必要である。憎悪の応酬をいつまでも続けていてはいけない。もうこれ以上血を流してはいけない。

jinx

2004年09月04日 | scribbling
この夏は、オリンピックで日本勢が大活躍だった。景気にも大いに影響したらしい。私は開会式まではテレビ観戦できて男子サッカーの連敗を目撃したが、その後は不在にしてたのでオリンピックの生中継は全く見ることが出来なかった。その間、なんと日本は15個も金メダルを取っている。
ようやく不在から戻るとき、下に書いたように最初に生中継でラジオ観戦したのが野球の準決勝だった。しかしこれは敗退。まあ、オリンピックもあと半分あるし、生中継のテレビ観戦もできるぞと楽しみにしていたら、私が見ているときには、金メダルは1個もとれなかった。
ところが閉会式のころ、また二日ほど不在にしていたら、何と室伏が繰り上がりで金メダルになっているではないか。これもまた経緯を見逃してしまった。
どうやら「日本の大躍進」は、このオリンピックを私がほとんどテレビ観戦できなかったのが原因だったようである。この際、期間中ず~っと私が不在で全く見ることができなかったならば、ソフトボールも野球もシンクロも、いやもしかしたら男子マラソンも男子レスリングもテコンドーも自転車も金メダルだったのかもしれない。
何だかとても悪いことをしてしまったような切ない気持ちでいっぱいである。

scoring event

2004年08月28日 | scribbling
シンクロや新体操のような芸術点が加味される競技を見ていると、採点に納得がいかないことが多い。芸術点抜きの体操や、時間内に決着がつかないと判定に持ち込まれるような競技だってそうだ。この問題がなくなることはないのだろうが、もっといい方法があるはずだ。
例えば審判の数を大幅に増やせばいい。30人とか50人とかの(もちろんしっかりと訓練された)審判団で採点した結果であれば、その結果はより正確な評価に近づくであろう。50人の審判の採点の合計だということになったら「採点ミスじゃないか」とは言いにくい。さらに統計処理を施して、各審判の採点の分布を正規分布(?)曲線でフィットして「平均点」を導くとでもすれば、単純に最高点と最低点を除外するなんていう意味不明の採点方法よりは良くなるはずだ。こんな処理はパソコンさえあれば一瞬である。
インターネットを使ってその採点の詳細をリアルタイムで発信してくれるなんてことも、できない相談ではないはずだ。
陪審員制度ではないけれど、双方向のデジタル放送が普及したら、テレビで見ている世界中の視聴者にも採点をしてもらって、その結果がリアルタイムで画面に表示されたら最高に面白いと思う。自分の感じた採点が極端に主観的だったのか、それとも皆同じように思ってたのか、それが審判団の採点とあまりにも極端にずれていたら、採点の見直しを求められるとかいうことになれば、熱心なファンには堪えられないだろう。

demigod

2004年08月27日 | scribbling
ひいきの引き倒しとでも言うのだろうか。先日たまたま飛行機の中で、アテネオリンピックの野球準決勝、日本対オーストラリア戦をラジオで聞いていたときのことである。私はずっと一生懸命に日本を応援していたのに、このラジオのアナウンサーの実況を聞いているうちに、どうも嫌になってきた。そしてなんと最後には「日本なんか負けちゃえばいい」とさえ思うようになってしまったのである。
そもそも「長嶋ジャパン」だ。アナウンサーはことあるごとにこの言葉を繰り返し、絶対に負けてはならない試合なのだと強調し、神聖な長嶋氏のユニフォームがベンチで見守ってくれているから日本が負けるわけがないと何度も何度も心の底から熱く語っていた。まるで日本は神の国だから鬼畜米英に負けるはずがないとでも言いたいかのようだった。
私は長嶋が現役を引退したときに現役最後の試合をテレビで見る為に(デーゲームだった)、歩いて片道30分かかる小学校から必死で走って帰ったほどであるから、長嶋のことはとても好きである。しかしなぜ長嶋が神様になってしまわないといけないのだろうか。
こういう感情には共感できない。これで金メダルでも取っていたら日本の野球はとんでもない方向に歩み始めたに違いない。負けてくれて本当に良かったと思う。野球もスポーツになってほしい。

doping

2004年08月26日 | scribbling
実は私はdopingの研究をしている。といっても物理の話なのでいまどき世間を騒がせているドーピングとは違うのだが、どうもこの言葉には敏感になってしまう。
今回のオリンピックで日本勢が大活躍しているのは、この数年ドーピング検査が非常に厳しくなってきたため、外国の有力選手が軒並みレベルダウンしてしまったのが原因ではないかと、私は考えてしまうのだが、果たしてうがっているだろうか。特にアメリカ勢が不振なのは、このことと全く関係がないとも言えないだろう。
ベン・ジョンソンのドーピングが発覚したとき、大変にがっくりしたのを昨日のことのように思い出す。全てのスポーツでもっと徹底的にドーピング検査をやるべきだと思う反面、いささか天の邪鬼的だが、ドーピングで肉体改造したらどこまで人間は凄くなれるのかを見てみたいという気もしないわけではない。そうなるともうこれは「ショー」になってしまうのだが、プロスポーツとショーの境界というのはそもそもどこにあるのだろうか。
そのうち「非常に頭脳が明せきになる薬(ただし健康に害を与える)」なんてのが発明されて、受験生がこぞってそれを飲み始めたらどうなるだろう。入試などの後には全員尿検査を義務づけられるのだろうか。
それではその「頭脳明晰薬」を飲んだ研究者が科学史に残るような素晴らしい業績を残したらどうなるだろう。その研究のおかげで、例えば重力の謎が解き明かされたとかしたら。陸上競技の世界記録のように、その研究成果も取り消し? いやまさか。「プロ」の研究者が自分の命をかけてでもその薬を飲んで、歴史に名を残す偉業を達成したのなら、褒められても良いのではないか。
じゃあ、自分の生命の危険を引き換えにしてもドーピングして世界記録を目指した選手たちはどうなのだろう。唾棄されるべき存在なのだろうか。


dwindling appeal

2004年08月25日 | scribbling
プロ野球が1リーグ制になったら、最初の年は面白いと思うだろうが、すぐに物足りなくなるだろう。後半以降も優勝を争えるのはせいぜい4球団である。残りの多くの球団はペナントレースの大部分をいったい何を目標に戦えばいいのだろうか。
1リーグ制が盛り上がるのは、例えば欧州のサッカーのリーグのように上位何チーム以内に入れば欧州チャンピオンズリーグ、その下の何チーム以内に入ればUEFAカップ、そして最下位から3チームあるいは4チームになると下部リーグへ自動的に降格してしまうという事情があって、上位のチームも中位のチームも下位のチームにも等しく十分なモチベーションが与えられている場合だけである。
そういうニンジンがなければ、全てのチームができるだけ最後まで優勝争いの緊張感を感じられるようなシステムにして(つまり小さいリーグ)、さらに優勝チームには優勝チームにしか与えられない希少な快感(つまり日本シリーズ)が与えられなければならない。そうでなければ選手もファンも燃えないし、試合も面白くない。
ただしプロ野球がまず最優先で求めるべきものはテレビ放映権料の等しい分配であろう。テレビ放映権料の収入は、各球団ではなくプロ野球機構で一括管理して、全ての球団に同額で再分配する。そうすれば巨人戦を求めてパ・リーグの球団が1リーグ制を主張することもないはずだ。ダイエーや日本ハムのように思い切って地方に本拠地を移すチームも増えるだろう。オリンピックや高校野球を見ればわかるように日本人は「地元チーム」を応援する意識が強い。沖縄や四国あるいは東北なんかに球団を作ればきっと盛り上がると思うのだが。
そもそも巨人がパリーグに移ったらちょうどいいんじゃないか?

film

2004年08月21日 | scribbling
子供にせがまれて「金色のガッシュベル101番目の魔物」という映画を見に行った。まだ封切りから2週間もたっておらず、しかも夏休みだというのに、観客は全部で20人ほど。とても寂しい。つまらないのだろうか。私はガッシュベルのガの字も知らないので、寝てしまうんではないかと危惧していた。
案の上、予備知識が全くないと最初は難しい。しかし息子も小2ともなると、こちらの質問にかなり適切な答えを簡潔に与えてくれる。したがって、登場人物や設定についてその都度すばやく解説してもらいながら、だんだんストーリーが理解できてきた。
すると、不覚ながらも、私までだんだんこのアニメ映画に引き込まれてしまったのである。
最後は主人公が必ず勝つはずだという安心感はあるものの、強敵に打ち負かされても打ち負かされても「根性」で立ち上がって行き、最後にはみんなの力を結集して敵を打ち負かしたところなんか、宇宙戦艦ヤマトを思い出してしまった。
帰りの車の中、まだ感動の余韻にひたる親父が息子に「最後でみんなの力がひとつになるところなんかウルウルしたよ」なんて言ったら、息子はむしろ不満そうで、「人の力なんか借りないで1対1でフェアに戦ってやっつけてほしかった」と怒っているではないか。なるほどそういう見方もあるのかと目から鱗が落ちた。価値観の押し付けになびかなかったのは素晴らしいのだが、日本の社会で生きて行くのには向いていない考え方かもしれない。

xenophobia/patriotism

2004年08月15日 | scribbling
オリンピックが始まった。イギリスにいたときにシドニーオリンピックが開かれたのだが、そもそも日本のようにオリンピックの放送をたくさんやってくれない上に、当然ながらイギリス人選手中心の番組編成であるから、柔道は放送してくれないし、高橋尚子のマラソンも『さあ、ラストスパートか』と気合いが入ったところで画像が切り替わり、イギリス人選手のボート競技の『表彰式』の映像になってしまった。表彰式なんて後でビデオでやればいいんだから、何でマラソンやってくれないんだよととても腹立たしかったのを覚えている。人はどうしてオリンピックになるとこうも愛国主義者になるのだろう。普段はそうでもない人まで、日本が勝つと嬉しがってる。
イギリスの本屋には xenophobiaと名のつく観光ガイド(!?)がいろいろ売られているが、さすがに日本でこういう本をうったら問題なるだろうなあというくらい外国人を馬鹿にした本である。それと比べると日本人のpatriotismはそんなにひどくはない。ましてやchauvinismというようなものではない。そもそもユーロ2004でポルトガルまで出かけて行ってオレンジ色のstripを着てオランダ代表を必死になって応援しているような人たちである。なかなかいいことじゃないか。
というわけで、オリンピックのテレビ放送も、せっかく日本ではこれほどたくさんの時間を放送に当てるのだから、日本人が出て来なくても面白い競技はぜひどしどし放送してほしい。
そういう今日は終戦記念日。

nomenclature

2004年08月13日 | scribbling
いつも感じのいいエッセイが掲載されるので更新を楽しみにしているmediatinkerにnaming conventionsというのがあった。またまた面白い。英語圏のことだけなのか知らないが、アメリカ人もイギリス人もやたらと無生物に名前をつけたがるのだ。日本でも真似をしたがる人たちはいるようだが、あまり普通のことではない。おそらくgeekだと思われてしまうだろう。あるいは日本人がそういうものに名前をつける時はnamingというよりもむしろnomenclatureという感じのする場合が多いと思う。この習慣の違いはどこからくるのだろう。日本人の思想の根底にある「アニミズム」と関係あるのだろうか。最近の日本人は子供の名前とかにあれほど知恵を振り絞ったりするが、自分のパソコンに名前をつけている人は、少なくとも私の回りには誰もいない。
いや、もしかしたらそう思ってるのは私だけで、実はみんなひそかに名前を付けてたりするのだろうか。