「ゆき」の情報館

”クリント・イーストウッドの一ファン”

朝鮮半島 難しい日米韓協力

2011-01-27 | Weblog
久しぶりにソウルを往復した。羽田-金浦間のフライトは約2時間、成田とは大違いだ。これなら日帰り出張も十分可能だろう。「近くて遠い」国が「本当に近い」国になったことを実感するとともに、朝鮮半島を取り巻く国際情勢の複雑さを再認識する機会となった。

 今回は日米韓有力シンクタンク共催の三極対話に参加させてもらった。ほぼ同時期に中国の胡錦濤国家主席が国賓として訪米している。偶然同じホテルで中国の旧友とも再会できたので、ソウルでは北東アジアの戦略環境につきじっくり考えることができた。

 朝鮮半島の専門家には「当たり前だ」と言われそうだが、今回の出張で改めて学んだことが三点ある。

 1、韓国から戦争は起こせない

 まず驚くのは、金浦空港上空から見たソウルの人口密集度だ。人口約5千万人の2割、約1千万人が住む大都会だが、北朝鮮からの長距離砲攻撃は現在も防ぎようがない。1950年代ならともかく、今や「持てる国」となった韓国が失うものはあまりにも大きいと感じた。

 昨年11月の延坪(ヨンピョン)島砲撃事件の際も、市内繁華街の喧噪(けんそう)がやむことはなかったと聞く。李明博大統領は北朝鮮の挑発に対し「強力な報復」を行うと明言したが、現実にソウルを壊滅させかねない「戦争」を覚悟で対北報復することは容易ではなかろう。
 2、第三の道を探る中国

 最近中国企業が北朝鮮の経済特区に対し20億ドルを投資する話が進んでいると報じられた。今後数年間に発電所や自動車道などさまざまなインフラが整備されるという。まだまだ額は小さいが、将来北朝鮮と中国東北3省との経済的連携が拡大する可能性もある。

 安全保障上の意味合いは小さくない。これまで中国には「金王朝」支持を続けるか、北朝鮮崩壊による半島統一かの選択肢しかないと思っていたが、こうした中国の経済進出が続けば、「金王朝崩壊後の北朝鮮存続」という第三の道が見えてくるかもしれない。

 3、日米韓安保協力に対する温度差

 今回最も痛感したことは朝鮮半島の地政学的現実だ。北朝鮮はもちろん、韓国にとっても、半島の将来を決める最も重要なプレーヤーは米国と中国であって、日本ではない。北朝鮮崩壊後の統一朝鮮が中国と直接国境を接することの意味はあまりにも大きい。

 現在日米韓安保協力を最も望んでいるのは恐らく米国であり、日本もその可能性を模索しているだろう。しかし、軍事面での対日協力に関する韓国のアレルギーの原因は、日韓歴史問題だけでなく、こうした韓国の安全保障意識なのだと今更ながら悟った。
それにしても、今回韓国側関係者の話を聞いて感心したのは議論のレベルの高さだ。韓国官民は、繁栄を享受しながらも、国防・安全保障に関する研究に今も膨大な予算と人員を投入している。仮想敵と直接国境を接する「危機感」がそうさせるのだろうか。

 日本にとって日米韓安保協力が重要な外交課題であることは間違いない。しかし、日本が韓国に対し「北朝鮮後」の朝鮮半島との関わり方について戦略的ビジョンを示し得ない限り、安全保障面での日米韓協力が真の意味で進展することはないと痛感した。

 こう考えながら、金浦から2時間ほどで平和な東京に戻ったら、そんな問題意識も一瞬で消えてしまった。安全保障に関する日韓のギャップはかくも大きい。このままでは日本は朝鮮半島問題の主要プレーヤーになれそうもないが、本当にそれで良いのだろうか。

【プロフィル】宮家邦彦
 みやけ・くにひこ 昭和28(1953)年、神奈川県出身。栄光学園高、東京大学法学部卒。53年外務省入省。中東1課長、在中国大使館公使、中東アフリカ局参事官などを歴任し、平成17年退官。安倍内閣では、首相公邸連絡調整官を務めた。現在、立命館大学客員教授、キヤノングローバル戦略研究所研究主幹。

平成23年1月27日 産経新聞「1月27日」から転載しました。

【幕末から学ぶ現在】

2011-01-20 | Weblog
【幕末から学ぶ現在】
 大学新卒者の就職難には関係者の一人としても胸が痛む。民主党政権もいろいろ尽力しているが、日本企業の海外シフトと関連する必要な人材と新卒者の大企業志向とのミスマッチも大きい。また、学生気質も変化しており、外国に出かける積極性が希薄な者も当世多いようだ。欧米やアジアはまだまだ多くの刺激に充(み)ち溢(あふ)れているというのに、狭い国内だけで充足してしまうのは日本の若者くらいではないか。
 鎖国を引きずった幕末でも若者は何とかして欧米に渡って未知の文物を見たいと熱望した。勝海舟は咸臨(かんりん)丸を操船して米国に渡り、福沢諭吉も欧米を広く見聞して帰国後に有為の人材を育てたのだ。
幕末の変動で悲劇の最期
 なかには、吉田松陰が渡航の夢を果たせず獄死したように、せっかく米国に出かけながら幕末の変動で悲劇の最期を迎えた人物もいた。仙台藩の内部抗争で死んだ玉蟲左太夫もその一人である。
 左太夫は、万延元(1860)年に修好通商条約批准書交換のために米国に出かけた正使新見豊前守(しんみぶぜんのかみ)の従者であり、その見聞記を『航米日録』に残した。『日本思想大系66・西洋見聞集』(岩波書店)に収められた日録は、因習にとらわれない好奇心旺盛な若者がひたむきに異国の世界に接して感動し、時に失望もする心の内面を率直に吐露している点でも現在の大学生に是非読んでもらいたい書物である。幸いに昨年、左太夫の子孫の山本三郎氏によって現代語訳されたので誰にも分かりやすく読みこなせるようになった(『仙台藩士幕末世界一周』荒蝦夷(あらえみし)発行・2205円)。
 玉蟲左太夫の素晴らしいのは、言葉も通ぜず慣習の違う世界でも米国人の善意や美徳を理解できる素直さがあったことだ。水兵が死ぬと艦長まで葬送に参加して涙を流すあたりにも、初めは封建の世に育った武士らしく違和感をもったのに、まもなく人を分け隔てしない米国人の善意や人情に感心するようになる。
 また、米国発展の原動力として学校や病院などを見たいと希望するのに、万事に保守的な使節たちは土産などの購入に熱心で、市民との交遊に関心を示さない有り様に不満を漏らしもする。大統領や国務長官はじめ政府首脳が気取りもなく市民と面談するのを見て、日本の上下関係との違いにも驚いた。米国の礼儀のなさと日本の「礼法」のみの厳しさを比較して、礼法のみ厳しいよりも礼法薄くとも情の交わりが厚いほうがよいのではと米国流を評価するのも面白い(巻2、3月17日)。

米国の長所見逃さず
 かまびすしい議会を日本橋の魚市場みたいなものだと形容する比較の妙も興味深いが、玉蟲左太夫は民主国家の米国が封建国家の日本より勝っている点もしっかりと見逃さない。まずサンフランシスコからパナマに向かう折、左太夫は改めて米艦の士官も水兵も怠けずに「治乱一般」に平常心を維持することに感動した。この鍛錬があればこそ「大風波」や「風難」があっても互いに力を尽くして事態を平然と処理できるというのだ。
 これに比べて日本は200年以上も平和が続いたので何事も古い慣習にこだわり、積極的な業に励む者はいないと左太夫は手厳しい(巻8、3月28日)。まさに、何か起きれば「人皆狼狽(ろうばい)して其処置を失ふに至る」とは、まるで現代の日本政治にもあてはまりそうだ。
折角菅直人首相が、消費税や武器輸出三原則の見直しを打ち出しても、理解を示さず連立政権の足を引っ張る一部の政党人などは平時慣れするあまり、左太夫のいう「閑ができても昼寝するか酒を飲んで怠ける」と言われても仕方ないかもしれない。志のある者が後世のことを考えていろいろな策を建白しても、「愚人」と誹謗(ひぼう)されて志を実現できないのは、いまも同じであろう。
 内閣を改造した菅首相には、是非に左太夫のいう「治にも乱を忘れざる者」として危機感を広く国民に訴えてほしい。また未来を担う若者にも、かつて左太夫が相互に助け励ましあう米国人の美徳や「精勤」を見て、日本人として恥ずかしいと述べた素志を謙虚に学んでほしいのである。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】玉蟲左太夫
 たまむし・さだゆう 文政6(1823)年、仙台藩士の家に生まれる。藩校「養賢堂」に学び、江戸に上る。箱館奉行の堀利煕(としひろ)に仕え、ともに蝦夷地を視察し、克明な記録を残す。万延元(1860)年、幕府遣米使節に加わり渡米。帰国後は仙台藩に戻り、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の成立に奔走したが、藩の降伏により投獄。明治2(1869)年、切腹させられた。

平成23年1月20日「産経新聞」から転載しました。

韓流!そこまでやるか

2011-01-15 | Weblog
 古都ソウルの旧市街は、北に位置する北岳を背景に故宮があり、その前面の南の方角には南山がある。いわゆる“風水地理”による“明堂”(いい場所)である。

 大統領官邸は故宮の裏、つまり北岳のふもとにあり、その東側一帯の閑静な通りが三清洞。近年、こじゃれたお店が軒を連ね観光客にも人気がある。

 この通りをさらに進み、坂を上ってトンネルを抜けると城北洞で、緑の多い高級住宅街になっている。日本大使公邸など外国公館も多い。その日本大使公邸の斜め向かいに、何と、韓流スターの元祖ペ・ヨンジュンさんの家が完成し、近く入居という。スターの住まいらしく豪華な“白い館”でひときわ目立つ。

 ところがどこで聞きつけたのか、日本の女性ファンたちが早くも押しかけ(?)しきりに写真を撮っている。本来は日本大使公邸の警備に余念のなかった警官たちが、今や彼女たちの交通整理に忙しい。

 それにしても日本のファンたちの情報力には脱帽だ。しかも“海外追っかけ”の彼女らのほとんどが中年ないし初老というから韓国人は驚く。

 大使公邸の主、武藤正敏・駐韓日本大使は韓国勤務が通算10年の韓国通で“文化派”で知られる。休日のご近所散歩では“韓流ガイド”をさせられそう。
 投稿者;黒田勝弘

平成23年1月15日「産経新聞」から転載しました。

対中戦略はないのか? 櫻井よしこ

2011-01-13 | Weblog
太平洋およびインド洋で国家の盛衰をかけた闘いが展開されている。米中印露および日本を中心にASEAN諸国、パキスタン、イラン、アフガニスタン、テロ勢力などが重要なプレーヤーだ。異なる民族、異なる宗教勢力が、核という大量破壊兵器とその運搬手段のミサイルを手にして、激しくせめぎ合うなか、戦略と気概なき国は他国にのみ込まれていくだろう。

 生き残るには、経済力だけでは不十分だ。アジアの大国であるわが国といえども、軍事力整備に踏みきる覚悟と、ユーラシア大陸、インド洋までを見詰めた大戦略なしには乗り切れない。

 日本の戦略はいかにあるべきか。その問題意識を持って私たち国家基本問題研究所の代表団は昨年12月、インドを訪れた。

 安全保障担当の首相補佐官、シヴ・シャンカール・メノン氏は、会うなり述べた。

 「国際政治の枠組みが急激に変化しています。経済も軍事も同様です。日印双方にとってのこの大好機をどう生かしていくか、戦略を話し合いましょう」

 同補佐官は、インドは官民こぞって、歴史的経緯と国柄から、日本こそ最も望ましいパートナーだと考えていると強調した。

 日印にとどまらず、国際社会の共通の課題は中国の位置づけである。メノン補佐官はこう述べる。

 「われわれは同じジレンマを抱えています。隣人(中国)は国境を侵すのをはばからず、われわれに直接的脅威を及ぼします。国力増大に伴い、彼らの外交や振る舞いは、強い自己主張で貫かれ始めました。日本は海洋と島嶼(とうしょ)問題に、われわれは陸上の国境問題に直面しています。それでもこの地政学的大国とは折り合わなければならず、日印は、中国に対して競争と協力という同じような解決策に落ち着きました」

 菅直人首相や仙谷由人官房長官らの民主党政権が、中国に心理的追従を続けるように、インドの対中外交にも半歩引く姿勢がないとはいえない。1962年の国境紛争での大敗が尾を引いているとの解説もある。加えて、インドは経済、軍事の双方で、現時点では中国にかなわないと考えがちだ。

 しかし、昨年12月、中国の温家宝首相の訪印時には気概も見せた。中国をはるかに凌(しの)ぐ技術大国で、中国に匹敵する経済大国で、中国に負けない軍事力も持ちながら、中国にまともに物を言えない日本に比べると、インドは真っ当な外交を展開したといってよい。

 国境問題でインドは譲らずに一矢報いたのだ。インド北東部のアルナチャル・プラデシュ(AP)州と北部のジャム・カシミール(JK)州は長年中印両国が領有権を争ってきたが、この1~2年、中国が特に強硬に出始めた。

                   ◇

 一部地域には軍まで送り込んで、強引に中国領としての既成事実を積み上げようとする中国に、インドは強く抗議した。中国は一向に応えない。そこでインドは、従来中印会談の度に、チベットと台湾は中国の一部として、「中国はひとつ」と表明してきたのを、12月の首脳会談では表明しなかった。台湾の独立を認めたわけではないが、明らかにインドは闘うべきところで闘っているのである。

 中国のインド攻略は入念である。中国は十数年かけてインドを取り囲む軍事拠点を完成させつつある。インドの対中対処能力を殺(そ)ぐために、インドと対立するパキスタンに核を与えた。北朝鮮に核を与えたのは日本を同様の状況に置くためだと、インドの専門家は指摘する。

 中国は1982年、トウ小平のときに、第三世界に核およびミサイルを拡散する方針を決定、その拠点が北朝鮮とパキスタンであることは専門家らが指摘してきた。第三世界への核拡散の元凶は中国なのであり、北朝鮮とパキスタンも同様だといってよいだろう。

 インド政府高官はこうした世界の核の事情を日本政府と日本人に知ってほしいと語る。インドとの原子力協定をめぐって、インドが核拡散防止条約(NPT)に参加していないこと、将来核実験する可能性があることをもって、日本が原子力技術の移転に二の足を踏んでいることを指しているのだ。

 「だが」と高官は語る。「インドは一度たりとも核技術を他国に広めたことはありません。インドの核保有はパキスタンの核の前では自衛の核が必要だという点に尽きます」

 NPT加盟国の中国と北朝鮮が核拡散の元凶であるという皮肉、NPT非加盟のインドが核拡散をしてこなかったという事実。日本の未来のための大戦略は、NPT加盟国か否かという外形にとらわれるのでなく、実態に基づいて構築されなければならない。日本は米国のみならず、インドとの協調を必要とするのである。中国に正しく向き合うためにも日米印の同盟、協調が欠かせない。そのためにも日印原子力協定に早期に踏み切るべきだ。

 戦略的視点から、私は前原誠司外相が提唱した日韓同盟も、北沢俊美防衛相が唱えた武器輸出三原則の見直しも支持するものだ。

 だがそうした発想を受け止める力は首相にはない。必ずや国民の支持を得たであろうに、武器輸出三原則の見直しは見送られた。時代を読みとれない首相には、日韓同盟はなおさら、荷が重すぎるだろう。

 メノン氏は戦略を語ろうと言ったが、わが国首相の貧しい発想には戦略などないのである。


※産経新聞「1月13日」から転載しました。

「お手上げ予算」と呼ぶほかない 竹中平蔵

2011-01-10 | Weblog
昨年末、2010年度予算案が決定されたとき、筆者は「お手盛り予算」と評した。政権交代を踏まえて、また民主党マニフェストを踏まえ、子ども手当や農家戸別補償など民主党支持母体への手厚い予算を計上したからだ。しかし1年を経て編成された11年度予算案は、全ての面での行き詰まりが際立った、「お手上げ予算」と言わざるをえない内容となった。

 24日に閣議決定された来年度予算案は、民主党政権としては初の本格的予算である。しかし、歳出の抑制は進まず、一般会計総額は過去最高の92・4兆円に達した。歳入面では、41兆円の税収(見込み)をいわゆる埋蔵金などの税外収入7兆円で補う厳しいものだ。結果的に、新規国債発行額は昨年並みの44兆円という極端な赤字予算である。その場凌(しの)ぎのやり方は限界に達している。「こんな予算編成は今年を最後にしなければならない」と感じさせるような、問題点満載の予算案となった。

 ◆来年もデフレ、低成長続く
 根本的問題はどこにあるのか。(1)マクロ経済(景気へのインパクト)(2)政策的メリハリ(成長や安全・安心の確保)(3)政策決定プロセス(政治主導か官僚主導か)-の3つの基準から見る必要がある。残念ながらこれでは、景気低迷・デフレは収まらず、成長促進もなく社会保障改革も進まない。そして徹底した官僚主導の予算編成であったことが明白である。

 第一のマクロ的視点で言えば、01年度以降は経済財政諮問会議を活用した手続きが定着していた。夏頃に来年度経済の展望を行い、これを踏まえて予算の大枠を決定していたのだ。しかし、民主党政権では、諮問会議を実質廃止したため、こうしたプロセスが全くないままに予算が編成されている。その結果、単に当面の赤字が多額であるという理由だけで、巨額の需給ギャップがあるにもかかわらず、景気中立の予算(赤字額は昨年と同額44兆円)が組まれた。

 ◆財政健全化への展望全くなし
 結果的に、来年度もデフレが続き(政府見通しでGDPデフレーターはマイナス0・5%)、成長率は今年度より低下する(3・1%から1・5%に)ことが示されている。一方、歳出抑制が不十分な状況下で、中期的な財政健全化の展望は全く見えないままだ。
 第二は政策の中身に関するものだ。予算は政策を実行に移すための手段である。しかし、その政策が経済をよくし、国民の安全・安心を確保する内容とは程遠いものとなっている。今回最大の注目点だったのは法人税の引き下げである。しかし引き下げ幅はわずか5%で、しかもその財源の約6割を法人への増税で賄うという、極めて効果の乏しいものとなった。
 目下、一般会計歳出の約3割は社会保障が、そして2割近くを地方交付税が占めている。しかし、これらについて政治の指導力は全く発揮されず、実質的にほとんど何の改革もないまま、基金取り崩しなど臨時財源に頼って予算がつけられた。こんないい加減な先送りは、もう来年以降はとてもできないという意味で、まさに、「お手上げ」状態の予算である。
 第三の決定過程に関しては、政治主導の掛け声や一般の認識とは異なり極端な官僚依存になった。この点は第二の政策内容とも絡むが、従来は夏に「骨太方針」を決定する際に政策の中身を固め、12月までの期間はこれに予算をつけるという流れが定着していた。

 ◆結局は官主導の予算編成
 だが、民主党政権の下では、そもそも「骨太方針」のようなものは存在しない。指針がないまま、なし崩し的に予算編成を行うという、自民党下の1990年代型に逆戻りした。必然的に、予算当局(財務省)が全てを取り仕切ることになる。今回、12月24日という日程的には極めて順調な形で予算案が決定されたが、これも、財務省主導で粛々と決定されたということを裏付けるものといえる。
 予算案は、ねじれ国会の中で関連法案まで含めて成立するかどうか、前途多難だ。岡田幹事長は閣議決定のその当日に早くも、「野党との議論の結果修正もありうる」と発言し、話題になった。
 こうした「お手上げ」状態を受け、年明け以降さらに問題のある動きが広がる可能性がある。このような予算編成を続けるのは無理であり、従って消費税引き上げが不可避である、という一見勇ましい議論である。現に、新たな連立や大連立を目指し、慌ただしい動きが生じている。実のところ今予算は、こうした動きを引き出すために官があえて見苦しいほどの予算を組んだ形跡すらある。
 しかし、重要なことは、デフレを脱却し、名目GDPの成長を実現しない限り(したがって順調な税収増を実現しない限り)、そして、社会保障や交付税など歳出を抑制する制度的改革がない限り、いくら消費税を増税しても焼け石に水であるという点だ。むしろ、安易な増税が日本経済と国民生活に決定的な打撃を与える危険性すらある。「お手上げ予算」を教訓に、地道な改革を進める以外に、日本経済の未来は開けない。(たけなか へいぞう)

           ※産経新聞「12月30日」から転載しました。