Gimliのオルサンク語解読事始

世に蔓延するまやかしオルサンク語文献を解読します。あやしいコトバの魔力にまどわされないために。

格差堂々再生産:東京学芸大学の教育学(『希望格差社会』その2)

2005-03-07 | 批判的ブックレビュー
 「気合ダァー!教育は、選別ダァー!」と東京学芸大学教育学部・山田昌弘教授は『希望格差社会』のなかで息巻いています。しかし、学芸大といったら教員養成の老舗です。そこで、こんな、まったく合理性を欠いたうえに、むき出しの選良意識でひずんだ、ほとんど倒錯した教育学が堂々と教え込まれているのです。

 山田教授によれば、教育とは“階層上昇の手段”(p.159)であり、“職業配分の道具” (p.159)であるそうだ。高度成長時代はこの二つの機能がうまく働いて、教育システムの“パイプライン”(p.86~,p.162~)は、“優れた制度”(p.87)である“受験競争による選別” (p.87)をとおして、“受験競争に勝ち抜いて”“人気の高い職に就く”(p.87)ものを生み出す一方、残りは“過大な希望を「あきらめ」させられ…能力に見合った職業に就くように振り分けられる”(p.87)ことになった。ところが、ニューエコノミーの時代には、このパイプライン・システム(p.164)(この用語は、ピンクフロイドの映画「ウォール」で、ベルトコンベアに乗せられた子どもたちが教育工場で本物のミンチ肉にされていたのを想起させる)が“機能不全に陥り”(p.165)、パイプラインからの“「漏れ」が生じて”(p.165)おり、それが“「フリーター」というカテゴリー”(p.166)を形成しているのだそうだ。
 この山田版・教育社会学は、現実のまっとうな認識を阻みながら、格差の拡大を「しかたのないこと」として受け入れさせ、世代を超えて固定化することを前提としている。まず、山田教授が思い描く、「教育による選別」とはどういうものか見てみよう。
 まず最初に大切なこと。山田教授によれば、教育システムの役割は何よりも選別と職業への振り分けであり、“教える内容”(p.165)など二の次なのだ。“知識などは、公的学校以外の場でいくらでも学べる”(p.161)からだ。学校は、教えないことについて受験による選別を課すことができる。いや、それでいいのだ。なぜなら、“学校の中で知識を教えなくても、学校教育システムは機能する”(p.161)からだ。
 教えてすらもらえないことに基づいて、私たちはどういうカテゴリーに選別されるのだろう。言わずと知れたこと。二極化した社会では、「少数の中核的専門労働者」と大量の「低賃金使い捨て労働者」に選別されるのだ。「勝ち残りたければどうすればいいんですか」って、山田教授にたずねてもムダ。だって、もし君がお金持ちの家の子でなかったら、何か飛びぬけた才能とかなかったら、実はどうしようもない、と教授は言うのだから。

“裕福な親は子どもを中核的な専門労働者にさせるべく、早期から教育投資などを行うことができる”(p.66)
“インテリジェンスのある親は、自分の子どもに漏れの多いパイプラインをすすめないし、経済力があれば子どもをより安全なパイプラインに送り込むことができる。また、経済的、知的に恵まれた親なら、あるパイプラインに入っても亀裂から漏れないように、アドバイスしたり、コネクションを使うことによって子どもを助けることができる。”(p.174-5)
“一度ついてしまった専門能力格差は、努力ではなかなか埋まらない。”(p.110)
“クリエイティブな才能は、訓練ではなかなか身につかない。”(p.111)
“幼少期から天才的な才能を発揮する人がいる中で、努力で追いつくことは無理である。” (p.111)
“仕事能力が高くニューエコノミーの現実に気づいている親は、子どもを「勝ち組」にすべく、幼いときから、塾や私立中学校などに通わせ、早期から仕事能力をつけさせて、自分の子どもも中核的専門労働者にしようとする。中には、中学や高校から国際化させるべく、海外に留学させる親も出てきている。”(p.150)
“教育においては、親や能力に恵まれたものは、努力が報われリスクが少ないパイプに入り込むことができる。”(p.200)
“これらの努力は、そもそも能力や魅力のある人が行って初めて実るものである。… もともと仕事能力や魅力のある人が有利である。… 能力や魅力をつけるためには、お金がいる。” (p.237)

 学校などに行く前にすでに勝負はついている。蛙の子は蛙。使い捨ての子は使い捨て。お父さん、お母さんがかしこくて、お金があって(お母さんが“性的魅力が十分にある女性”(p.146)だったらもっといいね)、その上、コネもあるのじゃなければ、君には未来はない(この種の社会的決定論がいつも切り札で持ち出す「遺伝子レベルの宿命」、すなわち「才能」のお話も、山田先生、きっちりぬかりなくちらつかせていらっしゃいます)。
 だから、“「できちゃった婚」など仕事能力がないもの同士で子育て生活を送らざるを得ない夫婦”(p.149)の子どもには“階層上昇”(p.159)のチャンスなどない。“弱者(収入や魅力の低い人たち)”(p.148)には選択の余地はない。“フリーターという弱者同士で結婚しても”(p.148)、“弱者は弱者しかつりだせない”(p.66)し、“弱者の親は弱者の子を育てる”(p.150)から、“裕福でない親を持った子は、結果的に、収入の増加の期待が持てない単純労働者になる”(p.67)ことになるのだ。(こんなにも差別的な攻撃性にみちた侮蔑のことばを、はっきりと糾弾するものが一人もおらず、言った当人がジャーナリズムでかえってちやほやされるのはいったいどうしてなのだ。最低限の「学問的良心」も「批判精神」も私たちの社会には残っていない。ニューエコノミーと言い、グローバリゼーションと口火を切れば、大マスコミは平身低頭、番犬御用学者は拍手喝采するのだ。)
 山田先生が描く、格差再生産社会のビジョンはかくして新たな貧民・賎民階層、ニューエコノミーのパリアを生み出す。弱者は弱者の運命を再生産し、世代を超えて経済格差は固定され、固定されることで格差は本質的な「身分の差」、血の宿命に変質する。ニューエコノミーの世界は、ポストモダンどころか、人権宣言以前の旧体制、恣意的な強権と不正・腐敗が支配するアンシャン・レジームへと逆戻りする。
 また一方で、山田先生の格差再生教育学は、先生がしきりに肩入れするグローバル化社会のギマンを見事に暴露している。先生いわく、そもそも近代社会では“職業選択の自由が認められ”(p.31)、またグローバル化したニューエコノミーの世界では、“社会が豊かになり、人々の自由度が増した”(p.20)ので、より選択の自由が大きくなったが、その反動として、人々は選別のリスクにもさらされているのだそうだ。そして、現代社会は“現状に「不満」を感じる人々にとって、努力すれば抜けだせる「希望」を持てる社会である。”(p.33)というお話だ。
 しかし、「努力」ではどうにもならない、と先生は、上で引用したように、ほとんど口元に不敵な冷笑を浮かべて何度も何度も繰り返しているではないか。“平凡な能力とさしたる資産も持たない多くの人々”(p.21)には選択の自由などなく、ただ、“一生低賃金の単純労働に従事せざるを得ない人”(p.62)となる運命しか残されていないことを、お腹がいっぱいになった肉食獣があくびをするような調子で、あくことなく繰り返しているではないか。ニューエコノミーが弱者にもたらしたものは、だれにでも“確率的に「ふりかかる」”(p.44)リスク、“どちらになるか事前にわからないからない”(p.173)リスクではない。“「ハイリスクを取らさせる」という事態”(p.81)ですらない。それは教育システムを通して社会制度的に漏れなくあてがわれる、あらかじめ決定された排除であり、その排除の世代を越えた固定なのだ。
 また、「能力」に関しても、山田先生はバキャクを現している。先生いわく、職業選択の自由がなかった前近代社会では“社会秩序は身分秩序、家産の多寡による秩序であり、それを変更することは許されなかった”(p.54)。それが、近代社会では、職業選択、結婚も自由になり、“能力さえ発揮すれば”(p.55)地位や収入を上げたり、格差をつけたり、“いままで存在した格差を解消することが可能”(p.56)になったのだそうだ。しかし、山田先生ご推奨のニューエコノミーの世界では、こんなぜいたくな近代的システムは残存しておりません。結婚も、“弱者は弱者を選ぶ”(p.66)ほかなく(“その最たるものが、…「できちゃった婚」である”(p.153))、弱者には自分の子どもに能力をつける経済力も、インテリジェンスもないから“弱者の親は弱者の子を育てる”(p.150)ことになり、子どもはせいぜい“平均以下の才能をもつ”(p.230)“平凡な能力の持ち主”(p.232)にしかなれず、親から引き継いだ格差を埋めることなどできるわけがない。職業格差は能力に依存し、能力は、「生まれ」(p.146)すなわち家庭の経済力に依存し、家庭の経済力は親の職業に依存し、親の職業は親の能力に依存する。こうして“家産の多寡による前近代的な身分秩序”が復活するのだ。
 しかし、「能力」については、より本質的な問題が存在する。そもそも、「ごく少数の専門的中核労働者」と「多数の使い捨て労働者」というニューエコノミーの好き勝手な労働需要の構造を正当化するような「能力の差異」がほんとうに存在するのだろうか。
(以下、続編につつく。当館にて近日上映。乞御期待)