Whatever you want, whatever you need
Anything you want done, baby
I'll do it naturally
'Cause I'm every woman
It's all in me, it's all in me
欲しいこと 必要なこと
何だって自然体でやってあげる
私はあらゆる女性だから
全て私の中に備わっている
ホイットニー・ヒューストン「I’m Every Woman」
数か月後には母になる。その事実に私は困惑した。
望んだ妊娠だった。支えてくれるパートナーもいる、家族も喜んでいる、職場も温かく見守ってくれている、産後戻る場所がある。それなのにあと少しで授かる「母」という称号は、気が滅入りそうなほど重圧に感じられた。身体が心と反比例するかのように刻々と変化する中、幼い頃に繰り返し車の中で聴いた曲を思い出した。映画「ボディガード」のサントラに収められていたホイットニー・ヒューストンの「I’m Every Woman」。女性性が高らかに謳い上げられている。
妊娠して初めて気づいたことがあった。それは自分が哺乳類であり、そして何よりメス、「女性」であるということ。勿論それは疾うの昔から知っていることではあったが、本当に実感したのはこの時が初めてだった。「男女平等」が少なくとも理想であると教えられてきた世代に属し、職業柄かこれといった性差別の経験に見舞われたことが幸いない身であった私にとって、女性であることを大きく意識する機会が今までなかったのだろう。しかし妊娠と出産は、これも当たり前のことながら、女性である私の役割だった。夫に一日たりとも代わってもらうことができなかった。ぱあっと出かけていきたい日があっても、キャリアにとってまあまあ大事な出張があっても、何かと体調に配慮せざるを得なかった。時には痛みを伴う検診を受けるのも私、体重管理をするのも私、カフェインや生ものを気持ち控えるのも私、育児休業のことであれこれ頭を抱えるのも私、そして出産するのは今回のみならず次回も次々回も私。そうか、私は女性であったのか。夫がかなり献身的に私を支えてくれているのはわかっていた。それでも同じ第一子が生まれるにも関わらず、私と夫は産前から全く異なる経験をしていたのだ。
そんなモヤモヤを抱えながら、何か出口を求めるようにこの曲を何度も何度も聴いた。「'Cause I'm every woman/It's all in me, it's all in me…I ain't braggin' 'cause I am the one/You just ask me, ooh, it shall be done/And don't bother to compare, I've got it 私はあらゆる女性だから/全て私の中に備わっている…自慢しているわけじゃない 私こそが選ばれし者/願いは全て叶えてあげる/比べものなんかにならない 私はもっている」この自信に満ちた歌詞をホイットニーのあの伝説的なパワーボーカルに乗せて聴けば聴くほど、妊娠と出産が女性に課せられた苦しみなのではなく、むしろ強さと柔らかさを兼ね備えた女性だからこそ任された大仕事、そしてそれは女性のみに許された比類ない喜びなのではないか、と感じるようになった。大変なこともたくさんある、でもお腹の中で赤ちゃんが動いているのを感じることができるのは私だけ、日に日に身体が変化していく経験をできるのは私だけ、そして赤ちゃんを産めるのは私だけ。男性は見ていることしかできないのだ。
産後も夫は積極的に育児に参加してくれており、オムツ替えやあやしなど、私でも夫でもできる作業がほとんどである。それでも授乳は母乳の出る私だけができる。その分行動範囲などはどうしても限られてしまうが、赤ちゃんに栄養を直接与えられるとはすごい能力である。
今回初めて知ったが、「I’m Every Woman」のPVはどうもホイットニーが妊娠中に撮影されたようで、彼女が膨らんだお腹を撫でる様子で動画は終わる。ホイットニーはどんな思いでこのビデオの撮影に臨んだのだろうか。天国にいる歌姫に聞いてみたい。