三月の猫
昔、それほど遠くない昔
黒い海に面した大きな街の外れに、
善良な夫婦と一匹の猫が住んでいました。
海の外側では、当たり前のように戦争が繰り返され、
夜が爆撃と炎で真昼のようであったり、
真昼が煙幕と死体で夜のようであったりしました。
海の内側では、当たり前のように競争が繰り返され、
夜が電飾と騒音で真昼のようであったり、
真昼が罵声や数字で夜のようであったりしました。
夫はハル、
妻はノラ、
猫はサンガツといいました。
ハルとノラは同じ大きなビルの,違う階の会社で働いていました。
エレベーターで何度も目が会い意識し合う二人でしたが、
街のスケートリンクでノラを見かけた時、ハルは思い切って声をかけました。
「あの、良かったら、一緒にすべりませんか?」
「ええ、喜んで。私、下手だからエスコートしてくださる?」
ハルも下手だったので,二人は氷の上でなんども転んでは笑い合いました。
3ヶ月後,ハルとノラは結婚をしました。
二人とも幼い頃に母親を亡くしていたので、
家族四人だけのささやかな結婚式を小さな教会で挙げ、
会社近くのドイツレストランで同僚達に祝福を受けました。
ハルはノラより年が二つ上で誕生日が同じでした。
「私ね・誕生日が同じ人と結婚するのが夢だったの。だって相性も良いだろうし・・・」
賑わっていたレストランもほとんど客がひけて、のんびりとローレライが流れていました。
「じゃあ、三月十日だったら誰でも良かったの?」
ハルはびっくりして言いました。
「違うわよお・・・」
サイズが大き過ぎた左手の指輪をくるくるさせながら、ノラはくすくすと笑いました。
あまり飲めないお酒を仲間に勧められて飲んだせいか、頬を真っ赤に染め、
「でもね。それにね。そうするとね。うちの猫とも一緒なの」
「猫?」
「そう、サンガツっていうの」
「私が十歳になった日の学校の帰り道に、産まれたばかりでケーキの空き箱に入れて捨てられていたの。だから最初はケーキって呼んでたんだっけな・・・」
みんなでお祝いするの。楽しそう・・・とノラは長いまつ毛を伏せて、夢見るように呟きました。
次の日、ハルは社宅へ引っ越しをしました。
それは郊外の私鉄の駅からほど遠く、古く小さな木造の平屋ではありましたが、
風呂場には窓があり、縄跳びが出来るほどの庭があり、
庭には花が咲きそうな、背丈ほどの木が数本ありました。
日曜日の朝、ノラの父が運転するライトバンが家の前に止まりました。
ノラの家は貧しく、嫁入り道具も僅かでした。
小さな洋服達の箱と絵本の箱、使い込んだ料理道具と古いミシン。
助手席のドアを開けると、目を細めたノラがサンガツを抱いていました。
それはそれは白く綺麗な細い猫で、真綿に光る絹が混じったような鮮やかな細い毛と、火山湖のような青い瞳を持っていました。
サンガツの話は事あるごとにノラから聞かされていたのですが、
ハルが生まれ育ってきた町には野良猫がほとんどいなくて、
猫を見ること自体が久しぶりだったハルはどぎまぎとしていました。
「や、やあ、サンガツ。はじめまして。よろしくね。」
そう言って耳の後ろをおそるおそる撫でてみると、
サンガツはピクっと片耳を動かしただけで、ハルを見ようともせず、
ノラの腕の中でごろごろごろと喉を3回鳴らしました。
「ほ~ら、サンガツ。ここがおまえの新しいおうちだよ。
お日様がい~っぱい。お庭もあるのよ 」
サンガツを抱きながらサンダルを跳ばして玄関を上がってゆくノラの顔は喜びに溢れ、車の中からノラの父は微笑んでそれを見ていました。
サンガツはあまり鳴かない猫でした。
「昔はす~ごく可愛い声でね。一日中鳴いていたのよ。」
家猫だったから外には出せなかったんだけど、通りがかって窓を除く人達にいっつも飛びっきりの鳴き声でねえ~。
みんなからちやほやされてたのよ。
なんだかカナリアみたいだったなあ。
でもハルが会社へ出かける時は必ず玄関まで見送りに来て、
帰ってドアを開けたら、いつも玄関マットの上で三つ指を付いたように待っていました。足音で誰かって分かるのよ、とノラは言いました。
ハルの会社は食品の貿易会社でした。
ヨーロッパやアフリカからワインやコーヒーを輸入してデパートやスーパーに卸していました。
しかしハルはまだ一度も海を渡った事はありませんでした。
人柄の良いハルでしたが、仕事はまるでダメで、語学ところか営業の会話さえも苦手でした。
同僚達は次々と海外勤務や出張をして、色とりどりの絵葉書をよこして来ました。
港の倉庫へ検品に行く度に、外国の名前が入ったコンテナを見ながら、
ハルは遠い国の風景を思い描くのでした。
「もう少し成績が上がってくれればなあ」
煙草を吐き出しながら部長は言いました。
ハルの学校の先輩でもあり、父の友人でもあり、父の口利きで会社に入っただけに、部長には全く頭が上がらなかったのです。
「地方に飛ばされないだけ幸せだぞ。俺が本社に引き止めるんだからなあ」
それでも部接待の席にはいつも呼んでくれて、
フランス料理やら高いお寿司やらを御馳走してくれました。
帰りには寿司折やら社販でも変えないようなワインを持たせてくれました。
そしてハルは足元をふら付かせながら、駅からの長い坂道を下って帰るのでした。
「ドイツのね。古代都市のブルツブルグからアルプスの麓のフュッセンまで、
ロマンティック街道っていう道があってさ。もともとはローマへの道って意味だったんだけど、本当にすれ違ったり馬車に乗り合わせた男女達がすぐさま恋に落ちちゃうくらい、ロマンチックで 美しい道なんだよ。白鳥の城で有名なノイシュヴァンシュタイン城とか、歴史的な石造りの教会とかが沢山あるんだけど。
風さ、特に初夏の風が素晴らしいんだよ!」
酔っ払って帰ると、いつもハルは同じ話をしました。
もちろん、そこに行った事はなく、それは子供の頃に父から聞いた話の受け売りでした。
父も貿易の仕事をしていました。
それは父親夫婦が新婚旅行でドイツへ行った時の風景でした。
「六月になるとバラやリンゴやこけ桃やらジャスミンやら、ありとあらゆる白い花が咲いてさ、風がまるで品のいい香水みたいなんだ。ワインももちろん美味しいしね。いつか君を絶対に連れて行くよ。新婚旅行もまだだしね。
それに・・・会社が多分さ、行かせてくれるかもしれないんだ」
酔った勢いで、つい出まかせを言いました。
「本当?いつ!。サンガツも行ける?」
毛糸の先で遊ぶサンガツを膝に乗せて編み物をしていたノラは目を輝かせました。「う~ん・・・来年か、再来年。でもサンガツはどうかなあ~
そもそも、猫って飛行機に乗れるのかな?それに…」
たまには二人っきりになりたいなあ、とハルは言いかけてやめました。
しばらくするとノラは会社を辞め、家でミシンを踏み始めました。
それは母親の形見で黒い鋼鉄製の足踏み式ものでした。
洋裁の仕事はほんの少しのお金にしかなりませんでしたが、
サンガツを一人にさせるのは可哀想だとノラは言いました。
ノラがミシンを踏みだすとサンガツも揺れるペダルに合わせて首を振ったり、
たまにジャンプをしたりしました。
このミシンの音がなぜかすごく好きなのよ。
二人はちょっとした楽隊のようでした。
ハルの帰りが早い時は、みんなで一緒に夕ごはんを食べました。
季節の焼き魚、油揚げと菜っ葉のお浸し、炊き込みご飯、具沢山のけんちん汁、
ノラの料理はどれも素朴でおいしく、温かさに満ちていました。
お腹が一杯になると夜が更けるまでラジオの音楽を聴いて、
ハル、サンガツ、ノラと川の字になって眠りました。
ハルの帰りが遅いとテーブルの横の床でノラは先に寝ていました。
サンガツもノラの体のどこかしらに身をくっ付け、小さく丸まっていました。
ハルは小さな明かりの下、おかずをつつきながら、
ノラとサンガツの寝顔を見て酒を飲むのが好きでした。
幸せっていうのはこういうものなのかなあとハルは思いました。
季節は秋で、穏やかな午後でした。
開いた履き出し窓からはキンモクセイの匂いを含んだ風が、
ゆるゆると入り込んでは台所の暖簾をゆらしました。
ハルは休みで、ノラは坂下の商店街へ買い物に出ていました。
ノラが家にいない時、ほとんどサンガツはテレビの上で身を丸めて庭を眺めていましたそれは小さく古く赤いテレビで、壊れていて何も映らないものでしたが、
「きっとこの温かさがいいのよ。小さい頃からここが好きなの。」
とノラの家から持って来たものでした。
斜めに陽のあたる土の上では、すずめ達が気持ち良さそうに遊んでいましたが、
サンガツは決して外に出ることはありませんでした。
「団地でこっそり飼っていたからね。見つかると追い出されちゃうから、窓の外はこの世の終わりで、本当に怖いところなんだよっていつもいつも教えていたの。」
そういえば、サンガツは来年で二十歳になるのでした。
猫のことを良く知らないハルでもずいぶん長生きだってのはわかりました。
人間で言えばいったい何歳になるんだろう?きっとおばあさんなんだろうなあ。
夜中にふと目が覚めた時、サンガツはノラの枕のすぐ後ろにいて、
穏やかなまなざしでノラを見おろしていた事が何度がありました。
その度に自分には入り込めない強い絆のようなものを感じました。
きっと、こんなに体は小さくても、ノラの母親みたいなものなんだろうな。
「サンガツ、ノラは幸せなのかい?僕で良かったのかい?」
ハルは独り言をつぶやいていました。
サンガツはいつのまにか体の向きを代えハルをじっとみつめていました。
冬が来ても会社での成績は伸びず、
部長には怒鳴られ、同僚には陰で笑われる毎日でした。
夜遅くまでサンタの格好で大型スーパーや、街の酒屋を廻ったり、朝まで慣れない唄を唄ったりしましたが、ハルの赤い棒グラフは登っていきませんでした。
そんな寒い夕方、港の倉庫に検品に行くと、ちょうどドイツ船からの積荷が来ていました。コンテナをリフトで下ろすと、その中はライン地方の高級ワインの箱ばかりでした。花の絵と流れる様な筆記体が書かれた木箱をバールでこじ開けたハルは驚きました、
空けた瞬間に白い花の香りが一瞬舞い上がり冷たい潮風に消えていったのです。
ハルはしばらく目を閉じ、獲りつかれたように隣の木箱達も開けました。
それも同じでした。ジャスミンや苔桃やホワイトベリーや小さな百合の香りが、
舞い立ってはハルの鼻の奥をくすぐり軽やかに踊りました。
「これが、ロマンティック街道の香り?」
木箱から埃を被った青いボトルのワインをハルは夢中で取り出し、
軍手で丁寧に撫でながらその瑠璃色のボトルと花柄の日光に当てて、、
まじまじと見つめました。
「トロッケン・ベーレン・アウスレーゼ」
それは憧れのワインでした。
夕陽にかざすと濃厚で蜜のようなとろんたした液体が気高さを誇っていました。
その時、五時を知らせる長いサイレンが一斉に港中に鳴り響きました。
ハルはびっくりして、でも同時にそのワインを自分の鞄に押し込みました。
「一本ぐらい・・・」
ハルは生まれて初めて盗みをしました。
年が明け、二月の終わりに遅い雪が舞い、凍った坂道でノラが転び、その道がやっと溶け、ハルとノラとサンガツの誕生日がやって来ました。
ミートローフ、ポテトグラタン、焼きたらこの入った大きなおにぎり、豚汁に蟹の爪のフライ。
白いケーキを真ん中にハルの大好物達が小さなテーブルいっぱいに並びました。
サンガツの煮干も今日はきれいなガラスの器に盛られていました。
ノラはローソクを灯し、ハルは倉庫から盗んできた来たワインを抜いて、音をたてて乾杯しました。
「甘くてすごく美味しい。」ノラは目を丸くして言いました。
「そうなんだ、これを甘露っていうんだよ。これが最高の味なんだ。
これを一度飲んじゃったらもう安いのなんか飲めないよ。」
酔ったハルは、いつものロマンチック街道やらドイツワインの話で上機嫌でした。
「それこそすれ違った男女がすぐさま恋に落ちちゃうくらい美しい道なんだよ。
今年こそ連れてってあげるからね。サンガツ、お前もこれ飲んでごらん。本当に 美味しいんだぞ。」
ノラの膝の上のサンガツを片手で持ち上げ、グラスを口に押しあてました。
サンガツはぐーと苦しげな声を出して顔をそむけました。
「やめて!嫌がってるじゃない。サンガツに乱暴しないで!」
ハルの手からサンガツを奪いとると、ノラは背中を撫で軟らかく抱きしめて頬を寄せました。
「サンガツ、私のサンガツ。いつまでも長生きしてね。」
赤くなったノラは、目をつむっったまま、
ずっとサンガツ、サンガツと抱きしめながら言い続けました。
夏になっても会社でのハルの成績は振るわず、お酒の量も多くなるばかりでした。
接待で飲み、営業を途中で切り上げては一人居酒屋で飲み、同僚と飲んでは全てを驕り、少ない給料から前借りばかりをして家計は火の車でした。
それでも足りないからと、ノラに内緒で高利貸しからもお金を借りていました。
そして倉庫に検品に行く度に、あの高いワインをくすねて帰りました。
「ハル、あんまり、外で飲むと大変でしょ。」
と、たまにノラがスーパーできれいな絵柄のドイツワインを買って来ても、
「これじゃあないんだ。こんな安物は花の香りなんかしないんだよ。
と散々悪態を付いて、まずいまずいと言いながらもさんざん飲んだあげくに、
「ほら、おまえも飲めよ。!」と、サンガツの鼻先にグラスを突き出し、
嫌がって顔を背けたサンガツの耳や尻尾を引っ張ったりしました。
サンガツは「ギャッ」っと声を上げてノラの後ろに身を隠しました。
「ヤメテ!」
ノラは泣いておこり、そこらじゅうの物を投げ付けました。
「イヤ!こんなの違う!こんなの望んでなかった!どうしてサンガツにまであたる の?」
毛糸玉やら、ミシン糸を投げ付け、散々泣き叫んだあげく、
ノラは泣き疲れてこっくり眠ってしまいました。
サンガツはノラの涙の跡をしばらく舐めるとハルを静かに見上げました。
それはハルを責めているように見えました。
「そんな目で見るなよ。僕だってノラを喜ばせたいんだ。
お前はいいなあ・・・ただそばにいるだけでいいんだからなあ。」
サンガツは目を閉じノラの肩の上にじっと乗っていました。
「ハル。人は誰かを幸せにする為に生まれて来たんだ。それは明日枯れてしまう花や、すぐに飛んで行ってしまう鳥のようにたった一瞬じゃあなくて、
せめて愛する人が死ぬまではな。それが人生。人が生きるってことなんだよ。」
それは、若くして病いで妻を無くしたハルの父の口癖でした。
もっと幸せな時間や、形のある贅沢を母にさせてあげたかったと父はいつも悔やんでいました。
思い出という思い出はあの新婚旅行だけだったなあと、
擦り切れたアルバムを何度も開いては夜更けに一人酒を飲んでいました。
父さん、それでも父さんは凄いじゃないか。そんなに素敵な思い出を母さんにあげられたんたんだから。 僕はそんな事すら一生出来ないかも知れないや。
秋になり、冬が来て、遅い雪が振り、凍った坂道でノラが転び、その道が溶け、
二度目のハルとノラとサンガツの誕生日がやって来ました。
「今日は、ね? 早く帰って来てね。」出掛けにノラが楽しげにいいました。
「ああ、そうか、そうだったね。美味しいワイン、もらってくるから」
ハルはすっかり忘れていました。
暗い気持ちで背中を丸め、とぼとぼと駅へ向かう長い坂道を登って行きました。
そして帰りには夕暮れの磯臭い倉庫に寄っては、いつものように高いワインを鞄に押し込みました。
生活は変わらず苦しく、ノラは日曜日もミシンを踏み続けました。
ハルの成績は一向に上がらず、半ば海外勤務や出張は諦めていました。
給料の前借りや借金をしては同僚と毎晩のように飲んでいましたが、
もう酔っぱらってもロマンティック街道の話をしなくなりました。
サンガツは日増しにおとなしくなり、
ミシンを踏んでも踊ったり、ハギレと遊ばなくなりました。
ノラの膝の上か赤いテレビの上で日がな一日を過ごしていました。
夏は蚊取り線香を焚き、床の上に茣蓙を敷いてみんなで川の字になって寝ました。
秋は月明かりの中、サンガツの目がきれいに光っていました。
冬はコタツに足を入れてサンガツはいつもノラの背中に乗ったまま寝てました。
春は楽しくみんなでご馳走を食べて誕生日を祝いました。
そうして平凡で穏やかな日々は過ぎていきました。
昔、それほど遠くない昔
黒い海に面した大きな街の外れに、
善良な夫婦と一匹の猫が住んでいました。
海の外側では、当たり前のように戦争が繰り返され、
夜が爆撃と炎で真昼のようであったり、
真昼が煙幕と死体で夜のようであったりしました。
海の内側では、当たり前のように競争が繰り返され、
夜が電飾と騒音で真昼のようであったり、
真昼が罵声や数字で夜のようであったりしました。
夫はハル、
妻はノラ、
猫はサンガツといいました。
ハルとノラは同じ大きなビルの,違う階の会社で働いていました。
エレベーターで何度も目が会い意識し合う二人でしたが、
街のスケートリンクでノラを見かけた時、ハルは思い切って声をかけました。
「あの、良かったら、一緒にすべりませんか?」
「ええ、喜んで。私、下手だからエスコートしてくださる?」
ハルも下手だったので,二人は氷の上でなんども転んでは笑い合いました。
3ヶ月後,ハルとノラは結婚をしました。
二人とも幼い頃に母親を亡くしていたので、
家族四人だけのささやかな結婚式を小さな教会で挙げ、
会社近くのドイツレストランで同僚達に祝福を受けました。
ハルはノラより年が二つ上で誕生日が同じでした。
「私ね・誕生日が同じ人と結婚するのが夢だったの。だって相性も良いだろうし・・・」
賑わっていたレストランもほとんど客がひけて、のんびりとローレライが流れていました。
「じゃあ、三月十日だったら誰でも良かったの?」
ハルはびっくりして言いました。
「違うわよお・・・」
サイズが大き過ぎた左手の指輪をくるくるさせながら、ノラはくすくすと笑いました。
あまり飲めないお酒を仲間に勧められて飲んだせいか、頬を真っ赤に染め、
「でもね。それにね。そうするとね。うちの猫とも一緒なの」
「猫?」
「そう、サンガツっていうの」
「私が十歳になった日の学校の帰り道に、産まれたばかりでケーキの空き箱に入れて捨てられていたの。だから最初はケーキって呼んでたんだっけな・・・」
みんなでお祝いするの。楽しそう・・・とノラは長いまつ毛を伏せて、夢見るように呟きました。
次の日、ハルは社宅へ引っ越しをしました。
それは郊外の私鉄の駅からほど遠く、古く小さな木造の平屋ではありましたが、
風呂場には窓があり、縄跳びが出来るほどの庭があり、
庭には花が咲きそうな、背丈ほどの木が数本ありました。
日曜日の朝、ノラの父が運転するライトバンが家の前に止まりました。
ノラの家は貧しく、嫁入り道具も僅かでした。
小さな洋服達の箱と絵本の箱、使い込んだ料理道具と古いミシン。
助手席のドアを開けると、目を細めたノラがサンガツを抱いていました。
それはそれは白く綺麗な細い猫で、真綿に光る絹が混じったような鮮やかな細い毛と、火山湖のような青い瞳を持っていました。
サンガツの話は事あるごとにノラから聞かされていたのですが、
ハルが生まれ育ってきた町には野良猫がほとんどいなくて、
猫を見ること自体が久しぶりだったハルはどぎまぎとしていました。
「や、やあ、サンガツ。はじめまして。よろしくね。」
そう言って耳の後ろをおそるおそる撫でてみると、
サンガツはピクっと片耳を動かしただけで、ハルを見ようともせず、
ノラの腕の中でごろごろごろと喉を3回鳴らしました。
「ほ~ら、サンガツ。ここがおまえの新しいおうちだよ。
お日様がい~っぱい。お庭もあるのよ 」
サンガツを抱きながらサンダルを跳ばして玄関を上がってゆくノラの顔は喜びに溢れ、車の中からノラの父は微笑んでそれを見ていました。
サンガツはあまり鳴かない猫でした。
「昔はす~ごく可愛い声でね。一日中鳴いていたのよ。」
家猫だったから外には出せなかったんだけど、通りがかって窓を除く人達にいっつも飛びっきりの鳴き声でねえ~。
みんなからちやほやされてたのよ。
なんだかカナリアみたいだったなあ。
でもハルが会社へ出かける時は必ず玄関まで見送りに来て、
帰ってドアを開けたら、いつも玄関マットの上で三つ指を付いたように待っていました。足音で誰かって分かるのよ、とノラは言いました。
ハルの会社は食品の貿易会社でした。
ヨーロッパやアフリカからワインやコーヒーを輸入してデパートやスーパーに卸していました。
しかしハルはまだ一度も海を渡った事はありませんでした。
人柄の良いハルでしたが、仕事はまるでダメで、語学ところか営業の会話さえも苦手でした。
同僚達は次々と海外勤務や出張をして、色とりどりの絵葉書をよこして来ました。
港の倉庫へ検品に行く度に、外国の名前が入ったコンテナを見ながら、
ハルは遠い国の風景を思い描くのでした。
「もう少し成績が上がってくれればなあ」
煙草を吐き出しながら部長は言いました。
ハルの学校の先輩でもあり、父の友人でもあり、父の口利きで会社に入っただけに、部長には全く頭が上がらなかったのです。
「地方に飛ばされないだけ幸せだぞ。俺が本社に引き止めるんだからなあ」
それでも部接待の席にはいつも呼んでくれて、
フランス料理やら高いお寿司やらを御馳走してくれました。
帰りには寿司折やら社販でも変えないようなワインを持たせてくれました。
そしてハルは足元をふら付かせながら、駅からの長い坂道を下って帰るのでした。
「ドイツのね。古代都市のブルツブルグからアルプスの麓のフュッセンまで、
ロマンティック街道っていう道があってさ。もともとはローマへの道って意味だったんだけど、本当にすれ違ったり馬車に乗り合わせた男女達がすぐさま恋に落ちちゃうくらい、ロマンチックで 美しい道なんだよ。白鳥の城で有名なノイシュヴァンシュタイン城とか、歴史的な石造りの教会とかが沢山あるんだけど。
風さ、特に初夏の風が素晴らしいんだよ!」
酔っ払って帰ると、いつもハルは同じ話をしました。
もちろん、そこに行った事はなく、それは子供の頃に父から聞いた話の受け売りでした。
父も貿易の仕事をしていました。
それは父親夫婦が新婚旅行でドイツへ行った時の風景でした。
「六月になるとバラやリンゴやこけ桃やらジャスミンやら、ありとあらゆる白い花が咲いてさ、風がまるで品のいい香水みたいなんだ。ワインももちろん美味しいしね。いつか君を絶対に連れて行くよ。新婚旅行もまだだしね。
それに・・・会社が多分さ、行かせてくれるかもしれないんだ」
酔った勢いで、つい出まかせを言いました。
「本当?いつ!。サンガツも行ける?」
毛糸の先で遊ぶサンガツを膝に乗せて編み物をしていたノラは目を輝かせました。「う~ん・・・来年か、再来年。でもサンガツはどうかなあ~
そもそも、猫って飛行機に乗れるのかな?それに…」
たまには二人っきりになりたいなあ、とハルは言いかけてやめました。
しばらくするとノラは会社を辞め、家でミシンを踏み始めました。
それは母親の形見で黒い鋼鉄製の足踏み式ものでした。
洋裁の仕事はほんの少しのお金にしかなりませんでしたが、
サンガツを一人にさせるのは可哀想だとノラは言いました。
ノラがミシンを踏みだすとサンガツも揺れるペダルに合わせて首を振ったり、
たまにジャンプをしたりしました。
このミシンの音がなぜかすごく好きなのよ。
二人はちょっとした楽隊のようでした。
ハルの帰りが早い時は、みんなで一緒に夕ごはんを食べました。
季節の焼き魚、油揚げと菜っ葉のお浸し、炊き込みご飯、具沢山のけんちん汁、
ノラの料理はどれも素朴でおいしく、温かさに満ちていました。
お腹が一杯になると夜が更けるまでラジオの音楽を聴いて、
ハル、サンガツ、ノラと川の字になって眠りました。
ハルの帰りが遅いとテーブルの横の床でノラは先に寝ていました。
サンガツもノラの体のどこかしらに身をくっ付け、小さく丸まっていました。
ハルは小さな明かりの下、おかずをつつきながら、
ノラとサンガツの寝顔を見て酒を飲むのが好きでした。
幸せっていうのはこういうものなのかなあとハルは思いました。
季節は秋で、穏やかな午後でした。
開いた履き出し窓からはキンモクセイの匂いを含んだ風が、
ゆるゆると入り込んでは台所の暖簾をゆらしました。
ハルは休みで、ノラは坂下の商店街へ買い物に出ていました。
ノラが家にいない時、ほとんどサンガツはテレビの上で身を丸めて庭を眺めていましたそれは小さく古く赤いテレビで、壊れていて何も映らないものでしたが、
「きっとこの温かさがいいのよ。小さい頃からここが好きなの。」
とノラの家から持って来たものでした。
斜めに陽のあたる土の上では、すずめ達が気持ち良さそうに遊んでいましたが、
サンガツは決して外に出ることはありませんでした。
「団地でこっそり飼っていたからね。見つかると追い出されちゃうから、窓の外はこの世の終わりで、本当に怖いところなんだよっていつもいつも教えていたの。」
そういえば、サンガツは来年で二十歳になるのでした。
猫のことを良く知らないハルでもずいぶん長生きだってのはわかりました。
人間で言えばいったい何歳になるんだろう?きっとおばあさんなんだろうなあ。
夜中にふと目が覚めた時、サンガツはノラの枕のすぐ後ろにいて、
穏やかなまなざしでノラを見おろしていた事が何度がありました。
その度に自分には入り込めない強い絆のようなものを感じました。
きっと、こんなに体は小さくても、ノラの母親みたいなものなんだろうな。
「サンガツ、ノラは幸せなのかい?僕で良かったのかい?」
ハルは独り言をつぶやいていました。
サンガツはいつのまにか体の向きを代えハルをじっとみつめていました。
冬が来ても会社での成績は伸びず、
部長には怒鳴られ、同僚には陰で笑われる毎日でした。
夜遅くまでサンタの格好で大型スーパーや、街の酒屋を廻ったり、朝まで慣れない唄を唄ったりしましたが、ハルの赤い棒グラフは登っていきませんでした。
そんな寒い夕方、港の倉庫に検品に行くと、ちょうどドイツ船からの積荷が来ていました。コンテナをリフトで下ろすと、その中はライン地方の高級ワインの箱ばかりでした。花の絵と流れる様な筆記体が書かれた木箱をバールでこじ開けたハルは驚きました、
空けた瞬間に白い花の香りが一瞬舞い上がり冷たい潮風に消えていったのです。
ハルはしばらく目を閉じ、獲りつかれたように隣の木箱達も開けました。
それも同じでした。ジャスミンや苔桃やホワイトベリーや小さな百合の香りが、
舞い立ってはハルの鼻の奥をくすぐり軽やかに踊りました。
「これが、ロマンティック街道の香り?」
木箱から埃を被った青いボトルのワインをハルは夢中で取り出し、
軍手で丁寧に撫でながらその瑠璃色のボトルと花柄の日光に当てて、、
まじまじと見つめました。
「トロッケン・ベーレン・アウスレーゼ」
それは憧れのワインでした。
夕陽にかざすと濃厚で蜜のようなとろんたした液体が気高さを誇っていました。
その時、五時を知らせる長いサイレンが一斉に港中に鳴り響きました。
ハルはびっくりして、でも同時にそのワインを自分の鞄に押し込みました。
「一本ぐらい・・・」
ハルは生まれて初めて盗みをしました。
年が明け、二月の終わりに遅い雪が舞い、凍った坂道でノラが転び、その道がやっと溶け、ハルとノラとサンガツの誕生日がやって来ました。
ミートローフ、ポテトグラタン、焼きたらこの入った大きなおにぎり、豚汁に蟹の爪のフライ。
白いケーキを真ん中にハルの大好物達が小さなテーブルいっぱいに並びました。
サンガツの煮干も今日はきれいなガラスの器に盛られていました。
ノラはローソクを灯し、ハルは倉庫から盗んできた来たワインを抜いて、音をたてて乾杯しました。
「甘くてすごく美味しい。」ノラは目を丸くして言いました。
「そうなんだ、これを甘露っていうんだよ。これが最高の味なんだ。
これを一度飲んじゃったらもう安いのなんか飲めないよ。」
酔ったハルは、いつものロマンチック街道やらドイツワインの話で上機嫌でした。
「それこそすれ違った男女がすぐさま恋に落ちちゃうくらい美しい道なんだよ。
今年こそ連れてってあげるからね。サンガツ、お前もこれ飲んでごらん。本当に 美味しいんだぞ。」
ノラの膝の上のサンガツを片手で持ち上げ、グラスを口に押しあてました。
サンガツはぐーと苦しげな声を出して顔をそむけました。
「やめて!嫌がってるじゃない。サンガツに乱暴しないで!」
ハルの手からサンガツを奪いとると、ノラは背中を撫で軟らかく抱きしめて頬を寄せました。
「サンガツ、私のサンガツ。いつまでも長生きしてね。」
赤くなったノラは、目をつむっったまま、
ずっとサンガツ、サンガツと抱きしめながら言い続けました。
夏になっても会社でのハルの成績は振るわず、お酒の量も多くなるばかりでした。
接待で飲み、営業を途中で切り上げては一人居酒屋で飲み、同僚と飲んでは全てを驕り、少ない給料から前借りばかりをして家計は火の車でした。
それでも足りないからと、ノラに内緒で高利貸しからもお金を借りていました。
そして倉庫に検品に行く度に、あの高いワインをくすねて帰りました。
「ハル、あんまり、外で飲むと大変でしょ。」
と、たまにノラがスーパーできれいな絵柄のドイツワインを買って来ても、
「これじゃあないんだ。こんな安物は花の香りなんかしないんだよ。
と散々悪態を付いて、まずいまずいと言いながらもさんざん飲んだあげくに、
「ほら、おまえも飲めよ。!」と、サンガツの鼻先にグラスを突き出し、
嫌がって顔を背けたサンガツの耳や尻尾を引っ張ったりしました。
サンガツは「ギャッ」っと声を上げてノラの後ろに身を隠しました。
「ヤメテ!」
ノラは泣いておこり、そこらじゅうの物を投げ付けました。
「イヤ!こんなの違う!こんなの望んでなかった!どうしてサンガツにまであたる の?」
毛糸玉やら、ミシン糸を投げ付け、散々泣き叫んだあげく、
ノラは泣き疲れてこっくり眠ってしまいました。
サンガツはノラの涙の跡をしばらく舐めるとハルを静かに見上げました。
それはハルを責めているように見えました。
「そんな目で見るなよ。僕だってノラを喜ばせたいんだ。
お前はいいなあ・・・ただそばにいるだけでいいんだからなあ。」
サンガツは目を閉じノラの肩の上にじっと乗っていました。
「ハル。人は誰かを幸せにする為に生まれて来たんだ。それは明日枯れてしまう花や、すぐに飛んで行ってしまう鳥のようにたった一瞬じゃあなくて、
せめて愛する人が死ぬまではな。それが人生。人が生きるってことなんだよ。」
それは、若くして病いで妻を無くしたハルの父の口癖でした。
もっと幸せな時間や、形のある贅沢を母にさせてあげたかったと父はいつも悔やんでいました。
思い出という思い出はあの新婚旅行だけだったなあと、
擦り切れたアルバムを何度も開いては夜更けに一人酒を飲んでいました。
父さん、それでも父さんは凄いじゃないか。そんなに素敵な思い出を母さんにあげられたんたんだから。 僕はそんな事すら一生出来ないかも知れないや。
秋になり、冬が来て、遅い雪が振り、凍った坂道でノラが転び、その道が溶け、
二度目のハルとノラとサンガツの誕生日がやって来ました。
「今日は、ね? 早く帰って来てね。」出掛けにノラが楽しげにいいました。
「ああ、そうか、そうだったね。美味しいワイン、もらってくるから」
ハルはすっかり忘れていました。
暗い気持ちで背中を丸め、とぼとぼと駅へ向かう長い坂道を登って行きました。
そして帰りには夕暮れの磯臭い倉庫に寄っては、いつものように高いワインを鞄に押し込みました。
生活は変わらず苦しく、ノラは日曜日もミシンを踏み続けました。
ハルの成績は一向に上がらず、半ば海外勤務や出張は諦めていました。
給料の前借りや借金をしては同僚と毎晩のように飲んでいましたが、
もう酔っぱらってもロマンティック街道の話をしなくなりました。
サンガツは日増しにおとなしくなり、
ミシンを踏んでも踊ったり、ハギレと遊ばなくなりました。
ノラの膝の上か赤いテレビの上で日がな一日を過ごしていました。
夏は蚊取り線香を焚き、床の上に茣蓙を敷いてみんなで川の字になって寝ました。
秋は月明かりの中、サンガツの目がきれいに光っていました。
冬はコタツに足を入れてサンガツはいつもノラの背中に乗ったまま寝てました。
春は楽しくみんなでご馳走を食べて誕生日を祝いました。
そうして平凡で穏やかな日々は過ぎていきました。