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三月の猫 -1-

2008-10-19 15:21:36 | 三月の猫
三月の猫

昔、それほど遠くない昔
黒い海に面した大きな街の外れに、
善良な夫婦と一匹の猫が住んでいました。

海の外側では、当たり前のように戦争が繰り返され、
夜が爆撃と炎で真昼のようであったり、
真昼が煙幕と死体で夜のようであったりしました。

海の内側では、当たり前のように競争が繰り返され、
夜が電飾と騒音で真昼のようであったり、
真昼が罵声や数字で夜のようであったりしました。

夫はハル、
妻はノラ、
猫はサンガツといいました。

ハルとノラは同じ大きなビルの,違う階の会社で働いていました。
エレベーターで何度も目が会い意識し合う二人でしたが、
街のスケートリンクでノラを見かけた時、ハルは思い切って声をかけました。
「あの、良かったら、一緒にすべりませんか?」
「ええ、喜んで。私、下手だからエスコートしてくださる?」
ハルも下手だったので,二人は氷の上でなんども転んでは笑い合いました。

3ヶ月後,ハルとノラは結婚をしました。
二人とも幼い頃に母親を亡くしていたので、
家族四人だけのささやかな結婚式を小さな教会で挙げ、
会社近くのドイツレストランで同僚達に祝福を受けました。

ハルはノラより年が二つ上で誕生日が同じでした。
「私ね・誕生日が同じ人と結婚するのが夢だったの。だって相性も良いだろうし・・・」
賑わっていたレストランもほとんど客がひけて、のんびりとローレライが流れていました。
「じゃあ、三月十日だったら誰でも良かったの?」
ハルはびっくりして言いました。
「違うわよお・・・」
サイズが大き過ぎた左手の指輪をくるくるさせながら、ノラはくすくすと笑いました。
あまり飲めないお酒を仲間に勧められて飲んだせいか、頬を真っ赤に染め、
「でもね。それにね。そうするとね。うちの猫とも一緒なの」
「猫?」
「そう、サンガツっていうの」

「私が十歳になった日の学校の帰り道に、産まれたばかりでケーキの空き箱に入れて捨てられていたの。だから最初はケーキって呼んでたんだっけな・・・」
みんなでお祝いするの。楽しそう・・・とノラは長いまつ毛を伏せて、夢見るように呟きました。

次の日、ハルは社宅へ引っ越しをしました。
それは郊外の私鉄の駅からほど遠く、古く小さな木造の平屋ではありましたが、
風呂場には窓があり、縄跳びが出来るほどの庭があり、
庭には花が咲きそうな、背丈ほどの木が数本ありました。

日曜日の朝、ノラの父が運転するライトバンが家の前に止まりました。
ノラの家は貧しく、嫁入り道具も僅かでした。
小さな洋服達の箱と絵本の箱、使い込んだ料理道具と古いミシン。
助手席のドアを開けると、目を細めたノラがサンガツを抱いていました。

それはそれは白く綺麗な細い猫で、真綿に光る絹が混じったような鮮やかな細い毛と、火山湖のような青い瞳を持っていました。
サンガツの話は事あるごとにノラから聞かされていたのですが、
ハルが生まれ育ってきた町には野良猫がほとんどいなくて、
猫を見ること自体が久しぶりだったハルはどぎまぎとしていました。

「や、やあ、サンガツ。はじめまして。よろしくね。」
そう言って耳の後ろをおそるおそる撫でてみると、
サンガツはピクっと片耳を動かしただけで、ハルを見ようともせず、
ノラの腕の中でごろごろごろと喉を3回鳴らしました。

「ほ~ら、サンガツ。ここがおまえの新しいおうちだよ。
お日様がい~っぱい。お庭もあるのよ 」
サンガツを抱きながらサンダルを跳ばして玄関を上がってゆくノラの顔は喜びに溢れ、車の中からノラの父は微笑んでそれを見ていました。

サンガツはあまり鳴かない猫でした。
「昔はす~ごく可愛い声でね。一日中鳴いていたのよ。」
家猫だったから外には出せなかったんだけど、通りがかって窓を除く人達にいっつも飛びっきりの鳴き声でねえ~。
みんなからちやほやされてたのよ。
なんだかカナリアみたいだったなあ。
     
でもハルが会社へ出かける時は必ず玄関まで見送りに来て、
帰ってドアを開けたら、いつも玄関マットの上で三つ指を付いたように待っていました。足音で誰かって分かるのよ、とノラは言いました。

ハルの会社は食品の貿易会社でした。
ヨーロッパやアフリカからワインやコーヒーを輸入してデパートやスーパーに卸していました。
しかしハルはまだ一度も海を渡った事はありませんでした。
人柄の良いハルでしたが、仕事はまるでダメで、語学ところか営業の会話さえも苦手でした。
同僚達は次々と海外勤務や出張をして、色とりどりの絵葉書をよこして来ました。
港の倉庫へ検品に行く度に、外国の名前が入ったコンテナを見ながら、
ハルは遠い国の風景を思い描くのでした。
    
「もう少し成績が上がってくれればなあ」
煙草を吐き出しながら部長は言いました。
ハルの学校の先輩でもあり、父の友人でもあり、父の口利きで会社に入っただけに、部長には全く頭が上がらなかったのです。

「地方に飛ばされないだけ幸せだぞ。俺が本社に引き止めるんだからなあ」
それでも部接待の席にはいつも呼んでくれて、
フランス料理やら高いお寿司やらを御馳走してくれました。
帰りには寿司折やら社販でも変えないようなワインを持たせてくれました。
そしてハルは足元をふら付かせながら、駅からの長い坂道を下って帰るのでした。


「ドイツのね。古代都市のブルツブルグからアルプスの麓のフュッセンまで、
ロマンティック街道っていう道があってさ。もともとはローマへの道って意味だったんだけど、本当にすれ違ったり馬車に乗り合わせた男女達がすぐさま恋に落ちちゃうくらい、ロマンチックで 美しい道なんだよ。白鳥の城で有名なノイシュヴァンシュタイン城とか、歴史的な石造りの教会とかが沢山あるんだけど。
風さ、特に初夏の風が素晴らしいんだよ!」
酔っ払って帰ると、いつもハルは同じ話をしました。
もちろん、そこに行った事はなく、それは子供の頃に父から聞いた話の受け売りでした。
父も貿易の仕事をしていました。
それは父親夫婦が新婚旅行でドイツへ行った時の風景でした。
「六月になるとバラやリンゴやこけ桃やらジャスミンやら、ありとあらゆる白い花が咲いてさ、風がまるで品のいい香水みたいなんだ。ワインももちろん美味しいしね。いつか君を絶対に連れて行くよ。新婚旅行もまだだしね。
それに・・・会社が多分さ、行かせてくれるかもしれないんだ」
酔った勢いで、つい出まかせを言いました。
「本当?いつ!。サンガツも行ける?」
毛糸の先で遊ぶサンガツを膝に乗せて編み物をしていたノラは目を輝かせました。「う~ん・・・来年か、再来年。でもサンガツはどうかなあ~
そもそも、猫って飛行機に乗れるのかな?それに…」
たまには二人っきりになりたいなあ、とハルは言いかけてやめました。

しばらくするとノラは会社を辞め、家でミシンを踏み始めました。
それは母親の形見で黒い鋼鉄製の足踏み式ものでした。
洋裁の仕事はほんの少しのお金にしかなりませんでしたが、
サンガツを一人にさせるのは可哀想だとノラは言いました。
ノラがミシンを踏みだすとサンガツも揺れるペダルに合わせて首を振ったり、
たまにジャンプをしたりしました。
このミシンの音がなぜかすごく好きなのよ。
二人はちょっとした楽隊のようでした。

ハルの帰りが早い時は、みんなで一緒に夕ごはんを食べました。
季節の焼き魚、油揚げと菜っ葉のお浸し、炊き込みご飯、具沢山のけんちん汁、
ノラの料理はどれも素朴でおいしく、温かさに満ちていました。
お腹が一杯になると夜が更けるまでラジオの音楽を聴いて、
ハル、サンガツ、ノラと川の字になって眠りました。
     
ハルの帰りが遅いとテーブルの横の床でノラは先に寝ていました。
サンガツもノラの体のどこかしらに身をくっ付け、小さく丸まっていました。
ハルは小さな明かりの下、おかずをつつきながら、
ノラとサンガツの寝顔を見て酒を飲むのが好きでした。
幸せっていうのはこういうものなのかなあとハルは思いました。

季節は秋で、穏やかな午後でした。
開いた履き出し窓からはキンモクセイの匂いを含んだ風が、
ゆるゆると入り込んでは台所の暖簾をゆらしました。
ハルは休みで、ノラは坂下の商店街へ買い物に出ていました。

ノラが家にいない時、ほとんどサンガツはテレビの上で身を丸めて庭を眺めていましたそれは小さく古く赤いテレビで、壊れていて何も映らないものでしたが、
「きっとこの温かさがいいのよ。小さい頃からここが好きなの。」
とノラの家から持って来たものでした。

斜めに陽のあたる土の上では、すずめ達が気持ち良さそうに遊んでいましたが、
サンガツは決して外に出ることはありませんでした。
「団地でこっそり飼っていたからね。見つかると追い出されちゃうから、窓の外はこの世の終わりで、本当に怖いところなんだよっていつもいつも教えていたの。」

そういえば、サンガツは来年で二十歳になるのでした。
猫のことを良く知らないハルでもずいぶん長生きだってのはわかりました。
人間で言えばいったい何歳になるんだろう?きっとおばあさんなんだろうなあ。

夜中にふと目が覚めた時、サンガツはノラの枕のすぐ後ろにいて、
穏やかなまなざしでノラを見おろしていた事が何度がありました。
その度に自分には入り込めない強い絆のようなものを感じました。

きっと、こんなに体は小さくても、ノラの母親みたいなものなんだろうな。
「サンガツ、ノラは幸せなのかい?僕で良かったのかい?」
ハルは独り言をつぶやいていました。
サンガツはいつのまにか体の向きを代えハルをじっとみつめていました。

冬が来ても会社での成績は伸びず、
部長には怒鳴られ、同僚には陰で笑われる毎日でした。
夜遅くまでサンタの格好で大型スーパーや、街の酒屋を廻ったり、朝まで慣れない唄を唄ったりしましたが、ハルの赤い棒グラフは登っていきませんでした。

そんな寒い夕方、港の倉庫に検品に行くと、ちょうどドイツ船からの積荷が来ていました。コンテナをリフトで下ろすと、その中はライン地方の高級ワインの箱ばかりでした。花の絵と流れる様な筆記体が書かれた木箱をバールでこじ開けたハルは驚きました、
空けた瞬間に白い花の香りが一瞬舞い上がり冷たい潮風に消えていったのです。
ハルはしばらく目を閉じ、獲りつかれたように隣の木箱達も開けました。
それも同じでした。ジャスミンや苔桃やホワイトベリーや小さな百合の香りが、
舞い立ってはハルの鼻の奥をくすぐり軽やかに踊りました。
「これが、ロマンティック街道の香り?」
木箱から埃を被った青いボトルのワインをハルは夢中で取り出し、
軍手で丁寧に撫でながらその瑠璃色のボトルと花柄の日光に当てて、、
まじまじと見つめました。

「トロッケン・ベーレン・アウスレーゼ」
それは憧れのワインでした。
夕陽にかざすと濃厚で蜜のようなとろんたした液体が気高さを誇っていました。
その時、五時を知らせる長いサイレンが一斉に港中に鳴り響きました。
ハルはびっくりして、でも同時にそのワインを自分の鞄に押し込みました。
「一本ぐらい・・・」
ハルは生まれて初めて盗みをしました。

年が明け、二月の終わりに遅い雪が舞い、凍った坂道でノラが転び、その道がやっと溶け、ハルとノラとサンガツの誕生日がやって来ました。
ミートローフ、ポテトグラタン、焼きたらこの入った大きなおにぎり、豚汁に蟹の爪のフライ。
白いケーキを真ん中にハルの大好物達が小さなテーブルいっぱいに並びました。
サンガツの煮干も今日はきれいなガラスの器に盛られていました。
ノラはローソクを灯し、ハルは倉庫から盗んできた来たワインを抜いて、音をたてて乾杯しました。
「甘くてすごく美味しい。」ノラは目を丸くして言いました。
「そうなんだ、これを甘露っていうんだよ。これが最高の味なんだ。
 これを一度飲んじゃったらもう安いのなんか飲めないよ。」
    

酔ったハルは、いつものロマンチック街道やらドイツワインの話で上機嫌でした。
「それこそすれ違った男女がすぐさま恋に落ちちゃうくらい美しい道なんだよ。
 今年こそ連れてってあげるからね。サンガツ、お前もこれ飲んでごらん。本当に 美味しいんだぞ。」
ノラの膝の上のサンガツを片手で持ち上げ、グラスを口に押しあてました。
サンガツはぐーと苦しげな声を出して顔をそむけました。
「やめて!嫌がってるじゃない。サンガツに乱暴しないで!」
ハルの手からサンガツを奪いとると、ノラは背中を撫で軟らかく抱きしめて頬を寄せました。
「サンガツ、私のサンガツ。いつまでも長生きしてね。」
赤くなったノラは、目をつむっったまま、
ずっとサンガツ、サンガツと抱きしめながら言い続けました。


夏になっても会社でのハルの成績は振るわず、お酒の量も多くなるばかりでした。
接待で飲み、営業を途中で切り上げては一人居酒屋で飲み、同僚と飲んでは全てを驕り、少ない給料から前借りばかりをして家計は火の車でした。
それでも足りないからと、ノラに内緒で高利貸しからもお金を借りていました。
そして倉庫に検品に行く度に、あの高いワインをくすねて帰りました。

「ハル、あんまり、外で飲むと大変でしょ。」
と、たまにノラがスーパーできれいな絵柄のドイツワインを買って来ても、
「これじゃあないんだ。こんな安物は花の香りなんかしないんだよ。
と散々悪態を付いて、まずいまずいと言いながらもさんざん飲んだあげくに、
「ほら、おまえも飲めよ。!」と、サンガツの鼻先にグラスを突き出し、
嫌がって顔を背けたサンガツの耳や尻尾を引っ張ったりしました。
サンガツは「ギャッ」っと声を上げてノラの後ろに身を隠しました。
「ヤメテ!」
ノラは泣いておこり、そこらじゅうの物を投げ付けました。
「イヤ!こんなの違う!こんなの望んでなかった!どうしてサンガツにまであたる の?」
毛糸玉やら、ミシン糸を投げ付け、散々泣き叫んだあげく、
ノラは泣き疲れてこっくり眠ってしまいました。
     
サンガツはノラの涙の跡をしばらく舐めるとハルを静かに見上げました。
それはハルを責めているように見えました。
「そんな目で見るなよ。僕だってノラを喜ばせたいんだ。
 お前はいいなあ・・・ただそばにいるだけでいいんだからなあ。」
サンガツは目を閉じノラの肩の上にじっと乗っていました。

「ハル。人は誰かを幸せにする為に生まれて来たんだ。それは明日枯れてしまう花や、すぐに飛んで行ってしまう鳥のようにたった一瞬じゃあなくて、
せめて愛する人が死ぬまではな。それが人生。人が生きるってことなんだよ。」
     
それは、若くして病いで妻を無くしたハルの父の口癖でした。
もっと幸せな時間や、形のある贅沢を母にさせてあげたかったと父はいつも悔やんでいました。
思い出という思い出はあの新婚旅行だけだったなあと、
擦り切れたアルバムを何度も開いては夜更けに一人酒を飲んでいました。

父さん、それでも父さんは凄いじゃないか。そんなに素敵な思い出を母さんにあげられたんたんだから。 僕はそんな事すら一生出来ないかも知れないや。


秋になり、冬が来て、遅い雪が振り、凍った坂道でノラが転び、その道が溶け、
二度目のハルとノラとサンガツの誕生日がやって来ました。
「今日は、ね? 早く帰って来てね。」出掛けにノラが楽しげにいいました。
「ああ、そうか、そうだったね。美味しいワイン、もらってくるから」
ハルはすっかり忘れていました。
暗い気持ちで背中を丸め、とぼとぼと駅へ向かう長い坂道を登って行きました。
そして帰りには夕暮れの磯臭い倉庫に寄っては、いつものように高いワインを鞄に押し込みました。

生活は変わらず苦しく、ノラは日曜日もミシンを踏み続けました。
ハルの成績は一向に上がらず、半ば海外勤務や出張は諦めていました。
給料の前借りや借金をしては同僚と毎晩のように飲んでいましたが、
もう酔っぱらってもロマンティック街道の話をしなくなりました。
サンガツは日増しにおとなしくなり、
ミシンを踏んでも踊ったり、ハギレと遊ばなくなりました。
ノラの膝の上か赤いテレビの上で日がな一日を過ごしていました。

夏は蚊取り線香を焚き、床の上に茣蓙を敷いてみんなで川の字になって寝ました。
秋は月明かりの中、サンガツの目がきれいに光っていました。
冬はコタツに足を入れてサンガツはいつもノラの背中に乗ったまま寝てました。
春は楽しくみんなでご馳走を食べて誕生日を祝いました。
そうして平凡で穏やかな日々は過ぎていきました。

三月の猫 -2-

2008-10-19 15:17:48 | 三月の猫
それはもうすぐ十数回目かの誕生日がやってくる、3月の寒い月曜日の朝でした。
ハルは突然部長から会社近くの喫茶店へ呼ばれました。
「大沼君、とんでもないことが起きてしまった。」
うす暗く古い石作りの店の隅の奥のテーブルに、部長は頭を抱えて隠れるように座っていました。
    
「丸丹デパートへのラインワインのリベートがバレたんだ。ここんとこ高いのが売 れてないのは、君も知ってるだろう。
それで伝票より安く納品する代わりに、差額をあそこのバイヤーと折半していたんだ。それも知っているよね。」
「え、ええ・・・」
実際の内情をハルは良く知りませんでしたが丸丹デパートのバイヤーと、
いつも寿司屋やフランス料理屋でこっそりと商談しているのにはきっと何かあるんだろうと、必ず同席させらていたハルは思っていました。
「このままだと警察に捕まるし、背任行為で会社にいられない。」

「ラインガウ・・」「二千万・・」
頭を抱えた部長の口から次々出て来る言葉や数字にまだぴんと来なくて、
部長がたまにも持たせてくれたり、倉庫からくすねたあのワクワクする、
ラインの高級ワインの香りと味を思い出していました。
     
トロッケン・ベーレン・アウスレーゼ・・・アイスヴァイン・・・
玉露。人間が知らない蜜の味・・・ハルは半ば上の空で部長の話を聞いていたのですが、
なんだかいつものしかめっ面と様子が違うのにやっと気付きました。
そして部長はジローに顔を近づけると震える小さな声でこう言いました。

「大沼君、頼む。死んでくれ。頼む・・・」

「僕が捕まると、まず君だって会社にはいられない。君の年じゃあどこだって雇っ てくれまい。
もし仮に雇われたとしても、君みたいに仕事が出来ない奴はすぐ にお払い箱だ。僕がいたからこそ君はここまでやってこれたんだ。さんざん会社 に迷惑ばかりかけやがって・・・」
「奥さんの事は任せてくれ。一生金に困らないように責任を持って会社でなんとかしよう。自殺でも労災がおりるよう手を回すよ。君は本当に働き過ぎだた・・・」

「自殺?」
     
その言葉を聞いて、ハルはびっくりしました。
初めて、人が自分で死ななければならないような情況が、目の前にある事を知ったのでした。天井からぶら下がっている埃だらけの骨董調のランプや、真鍮の灰皿や部長の銀縁の眼鏡やガラスのコーヒーグラスやステンレスのマドラーなど、全てが静かに押し迫ってくるような恐怖感が徐々に襲ってきました。

「それにだ・・・」
煙草を吐き出しながらもったいぶったような口調で部長は言いました。
「君が、有明からしゅっちゅうワインを持ち出している事を僕は前から知っているんだ。それだけでも犯罪だし、ましてや他に横流してたのなら事は重大だぞ。
僕はね、全てを君に押し付ける事だって出来るんだ。ノラさんだっけ。君が刑務所に入ると奥さんもさぞ嘆くだろうなあ。それに会社への前借りだってどのくらい溜まってるのか知っているのか?高利貸しからも随分と借りてるようだし。
君、会社を首になったら到底返せはしないぞ」

ハルはふらふらと薄暗い喫茶店を抜け出しては路上に立ち、
オフィス街の空を見上げました。
長方形の狭い空は真っ暗で、十二時の太陽がぽっかり白く浮んでいました。
小学校の時、黒い下敷きで真夏の太陽を見上げた事を思い出しました。
すれ違うサラリーマン達は楽しげに、今日の昼は何にしようかとか、明日は何処に飲みに行こうかなとか、のんきな話を口々にしながら風を切っていきました。
ハルは何処をどう歩いたのかわからないまま、いつの間に家に帰っていました。

「あら?お帰り。今日は早いのね。」
ノラは洗濯物を抱えてベランダから明るく声をかけました。
「あ、ああ・・・営業先の課長が風邪引いちゃってさ・・・」
「ふうん、でも今日は飲んでないんだね。いつもは何所かしらで一杯引っかけてく るのに」
「あ、ああ・・・僕もちょっと風邪気味なんだよ」
顔が冷たい割には指先が熱く、寒気がして本当に風邪をひいたみたいでした。
「そうなの?そういえば顔色悪い。じゃあ早く薬飲んで寝たほうがいいわ。
 布団取り込んばかりだからあったかいわよ。すぐ寝なさいな。」
    
生姜の入った玉子雑炊をノラは作り、
早めの食事を取って風邪薬を飲んで布団に入りましたが、
ハルはいつまでも眠れずにいました。
僕はいったいどうしたらいいんだ?と体を丸めたままハルは苦しんでいました。
結局今、幸せだとか楽をしてたのは自分だけなんだ。仕事も出来ずに、酒ばっかり飲んで、会社や高利貸しから借金を作って、ノラに旅行や洋服や指輪さえも贈って上げられない。
あんなに綺麗だったノラが、今は僕のせいでお洒落さえも出来やしないや。
でもどうしたらいいんだろう?僕はこれから何が出来るんだ?
いっそみんなでどこかに逃げてしまおうか・・・
でもきっとすぐに捕まるんだ。
警察に行ってあらいざらいを話したらどうなるんだろう?
でもきっと全てが僕に被されるんだろうな。
今から思えば、だから部長は接待の席にいつも僕を呼んでいたんだ。
        
「ハル。眠れないの?」
針仕事を終えたノラが隣に布団を敷きました。
ハルは目を閉じたまま眠った振りをしました。

一生金持ちにはなれないかもしれないけど、
せめて、ノラを旅行には行かせてあげたいなあ。
そうしたらノラは許してくれるだろうか。
        
        
次の日、出勤早々にハルは部長室のドアを叩きました。
思い切って大声でこう言いました。
「部長、あの、僕と妻ををドイツに行かせて下さいそうしたらもう思い残す事はありませんから。何でも部長の言うようにしますから!」
「しっ、もう少し小さな声で話さないか」
「ほんの一週間でいいんです。絶対に逃げたりしないで帰ってきますから」
ハルは部長の机にしっかりと両手を付いて頭を下げました。
    
「すまん。そればっかりは出来ないだ。月曜日に監査が入る。本当にすまん。
 他にはどんな事でも聞くから。もう行ってくれ。時間がないんだ」
部長は忙しそうに背を向けると「俺を、裏切るなよ」と静かに言いました。


もうやる事が無くなったハルは、午後から港に行きました。
早春の海は黒く冷たい波をはじかせ、濃い潮の香りの風を強く吹かせていましたが、この国第二の港は、活気に満ち溢れていました。
大きな貿易船の汽笛、はしけのポンポンというエンジンの音、象のようなクレーンの響き、荷運びを男達の引き締まった体には汗が光り、威勢の良い声が飛び交っていました。
    
ハルは防波堤に座ってその光景をずっと微笑ましく眺めていました。
やがて5時のサイレンが港じゅうに響き渡ると男達は作業をやめ、
大声で仲間達と話しながらちりじり帰って行きました。
いつの間にか辺りは真っ暗になり、波の音と冷たい風だけがハルの顔を叩きました。ハルは何か決心したように重い腰を上げて海に背を向けました。
港近くの閉店間際の作業着屋で青くて太いロープと黄色の軍手を買い、
今日は会社の倉庫に寄らずに、駅近くのスーパーで値頃なドイツワインと大きなケーキを買いました。
                                         
「ただいま!」
「お帰り。どうしたの?まだ具合悪いの?」
ノラは縁側の暗がりの中、小さな明かりを頼りにミシンを踏んでいました。
サンガツは赤いテレビの上の指定席で眠っていました。
「うん・・・ちょっとね。忙しくて疲れちゃって。出張の準備もあったし。」
「出張。珍しいのね。え?もしかして・・・外国?」
 ノラは大きな声をあげました。
「いや、関西なんだ。神戸と大阪・・・ゴメンね。」
「ううん・・・私こそごめん・・・・」
ノラはもう一度ゴメンねと小さな声で言いました。
「それで、十日にはこっちにいれないんだよ」
「そう・・残念ねえ。」
 だからさ、今日、誕生日を祝おうよ。」
「今日?だって急に言われたって~何にも準備してないわよ。」
「うん、そう思ってさ、ケーキとワインだけは買ってきてるんだ。」
ハルは後ろ手に隠していた包みをノラの目の前に差し出しました。
「な~んだ。そのつもりなら電話してくれれば良かったのに・・・
 じゃあ、たいしたもん出来ないけど、私、ちょっと買い物に行って来る。」
ノラはミシンの椅子からストンと、おりるとコートを羽織りました。
「ほんと、いいんだよ家にある簡単なもんで」
「でも折角、折角ケーキとワイン買って来てくれたんだから、何か作るわよ。」
すぐ帰るからと言いながらノラはサンダルをつっかけると、
まだ寒い坂道を音を立てて走って行きました。

挽肉と春キャベツのグラタン、さといものコロッケ、シーフードパエリヤ、ミネストローネ。 あっという間に材料費をかけずに工夫をこらした料理が、小さなテーブルいっぱいに並びました。
ハルはケーキに火をともし、買ってきた安いワインを開け、ノラにも薦めて乾杯をしました。   
「おめでとう。」
「おめでとう。ハル、サンガツ。おいしい~でもハルが駅前のスーパーでワイン買 ってくるなんて初めてだね。前はあんなに嫌がっていたのに。」
「ここ最近は安くてもなかなかいいものが入って来てるんだ。これだってうちの会社が輸入してるんだよ。ホラ?」
と後ろのラベルを見せるとハルの会社の名前が小さく刻まれていました。
「本当だ、凄いね。とてもおいしいわ。凄いねハル。」
二人は楽しく笑い会いながら食事をしてケーキを食べ、酔ったノラはこたつでそのまま寝てしまいました。
出合った頃と変わらないきれいな顔で微笑んでいました。
「ハル、人は誰かを幸せにする為に生まれて来たんだ。それは明日枯れてしまう花 や、すぐに飛んで行ってしまう鳥のように一瞬じゃなくて、
 もっと長く・・・せめて愛する人が死ぬまで・・・」
父の言葉を思い出しました。
そうだ、明日警察に行こう。
牢屋に入ったってきっと数年で出られるさ。
そしてどこか遠くの街に行ってもう一度やり直そう。


ハルは夢を見ました。
それはロマンティック街道の夢でした。
ハルとノラとサンガツは馬車にひかれて石造りの古道をとことこ進んでいました。
遠く真っ青な空をバックに、白く切り立ったアルプスの山々、
その中腹には絵本でしか見たことのないような銀色のお城、
気が付くとノラは白いウエディング・ドレス、ハルも中世の貴族のような格好をしていました
沿道の人たちが口々におめでとうと言いながら、花びらを投げかけてくれました。白い花の香水のような風が頬をくすぐりました。
途中古めかしい造りの宝石屋に寄ると、ハルは大きな指輪とティアラを買いました。
ポケットには溢れんばかりの銀貨がつまっていました。
ノラは嬉しそうに目を細めました。

ハルが目を覚ましましたのは明け方前でした。
「ノラ、僕達はロマンティック街道に行ったよ。」
こたつで幸せそうな笑顔で眠るノラにそう言ってはしばらく天井を見ていました。
サンガツは小さな寝息を立てノラの首元に体を寄せて寝ていました。
「でもね。それは夢なんだ。現実の僕はやっぱり君を幸せに出来ないや。
たくさんのお金や指輪やショウウィンドウの洋服やそんな物を君にあげたいよ。」

ハルはこたつを抜け出すと、鞄から青いロープを取り出し風呂場へ向かいました。
一度だけノラが寝言で何かを言いましたが、ハルは振り向けませんでした。

風呂場は寒く、早春のか細い光が曇りガラス越しに、小さなその部屋を青白い色で包んでいました。少しだけ開いた窓からは沈丁花の香りがしました。
ハルは木の小椅子に裸足で登り、つま先立ちで天井の電灯にその青いロープをくくりつけようとしましたが、手は震え、かじかみ、相当な時間がかかりました。
吐く息を白くしながら冬の漁師みたいだなあと何故だか思いました。

いつの間に足元にサンガツがいるのに気が付きました。
「サンガツ、起こして悪かったな。」
サンガツはぶら下がったロープに盛んに飛びついていました。
「おい、これはお前が遊ぶためのもんじゃないんだぞ。」
それでもサンガツは小椅子から浴槽に登っては、ゆらゆらしてる青いロープに何度もジャンプしました。


「サンガツ、しつこいぞ!」
ハルはしっぽを軽く手ではたき、風呂場の外に追い出しました。
それでもサンガツは唸り声を上げ、今度はハルの背中ににしがみついて来ました。
爪を立てたサンガツを乗せたまま、ハルはしゃがみ込んで言いました。
「わかったよ。ありがとうな。お前にはわかるんだな・・・
でもこれでいいんだ・・・・・
これが一番いいんだ・・・サンガツ。ノラを頼んだよ。」
そうしてサンガツを優しくしばらく抱きしめると風呂場の外にそっと置いてから、
ガラスの格子戸をしっかりと閉めました。
サンガツは低い唸り声を上げ、鳴きながらガラスを引っかいていました。
ハルは何も考えず椅子に登り、事務的にロープを首にかけました。
手にも首にも感覚はありませんし、ちっとも怖くありませんでした。
何故だか不思議な達成感に満ち溢れていて、ハルの顔は赤く高揚していました。
    
沈丁花の香りも悪くないな。ロマンティック街道みたいだ。
ハルは静かに深く息を吸うと両足で椅子を蹴たぐりました。
サンガツは大きな唸り声を上げ、跳び上がり鳴きながらガラスを引っかいていました。

三月の猫 -3-

2008-10-19 15:13:42 | 三月の猫
四十九日が終わった彼岸の中日、部長が線香を上げにノラの家を訪ねました。
葬儀の陣頭指揮を取り、廃人同様で口も聞けないノラの代わりを務めました。
社宅はノラの名義となり、びっくりするほどのお金が振り込まれました。
仏壇に向かい線香を上げた部長は遺影を見ずに、ホッとひと安心というような顔で深々とノラに頭を垂れました。
「大変だったね。ハル君は本当にいい奴だった。私も実に残念だ」
「いいえ、私こそ全然何も出来なくて。何から何までありがとうございます。」
ノラも深く頭を下げました。
「でも思ったよりも元気そうだね。」
「なんだか何もする気がなくなってしまって、買ってきたり頂いたのばかり食べて たら逆に太っちゃったようです。
人が来ない日は一日じゅう猫と寝てばっかりなんですよ。」
サンガツはテレビに上からずっと二人をを眺めていました。
「それは良くないな。まだノラさんも若いんだから、もう少し元気になったら是非 働いたほうがいい。
どうかね。うちの会社だったらいつでも大歓迎だよ。」
銀縁眼鏡の奥の目がいやらしそうに光りました。
「お気遣いありがとうございます。でもこの子がいるから、なかなか外に出る気が しなくって」
部長はテレビの上のサンガツを見ると、
「これがサンガツ君ですか。いつもハル君から聞いていたよ。随分な長寿猫なんだ ってね。」
「ええ、もう三十五歳くらいにはなるかしら。日本猫にしても特別長生きなんですって・・・」
「ほお~三十五。それは凄いね。」
部長は興味本位でサンガツの顔ををまじまじと眺め、背中を撫でようとしましたが、サンガツはいきなり部長に手の甲をを引っかきました。
「あっ、痛たたっ!」
テレビの上から跳びおりたサンガツは、ぐうぐうと興奮して呻きながら、
部長に向かって爪を立て跳びかかってっていきました。
「サンガツ!どうしたの!」
ノラはびっくりして両手をとり押さえ、唸っているサンガツを叱りました。
「ダメでしょ!サンガツ!ハルがとってもお世話になった方なのよ。」
それでもサンガツはずっと唸りながら部長を睨んでいました。
「すみません。本当にすみません。手は大丈夫ですか?
 普段、こんな事決してないんですけど。」
ノラはサンガツの耳をを軽く噛みながら、
「悪い子ね。今日はご飯抜きだからね。」
「ノラさん。いや全然大丈夫だよ。うちは犬を飼っているから、きっとその匂いで もしたんだろう。」
じゃあ、又来るから元気で、何かあったら僕に電話して来なさい、いつでも相談に乗るからと、
ハルの好きだったというワインを土産において、部長はそそくさと帰って行きました。

たまに互いの父親や会社の同僚が焼香や見舞いに来ましたが、
同僚達はサンガツを見るたびに、
「なんて綺麗な猫なんだろう。本当にそんな年だなんて信じられない。」
と口々に言いました。
サンガツはいつも半分目を閉じノラの膝の上にうずくまっていました。

その冬ハルの父親がなくなりました。
2.3回程しか会った事はなかったのですが、ハルが死んだ時、
「あいつには重荷を負わせ過ぎた。私が妻を早く亡くしたんで、
ハルさんを一生幸せにするんだとか、早く新婚旅行に連れてけとか、
元々出来の悪い奴なのに、そんな事しか言ってやれなかったからなあ」
肩を落としていたのを思い出しました。
    
遺品の中にハルが良く話していたドイツ旅行のアルバムがありました。
ハルに似ている若い頃のお父さんと幸せ一杯で笑っているハルのお母さん、
誰もが言うように、自分でも私に似ていると思いました。
写真は古く白黒でしたが、様々な花の色や木々の緑の濃淡と古い街並みは、
色褪せずにその鮮やかさと、心地よい風と二人の幸せは伝わって来ました。
     
この風景がいつもハルの中にあったのね。
ノラはアルバムを抱きしめて泣きました。
「私は、幸せだったよ。ただ一緒にいればそれで良かった。だのにどうして・・。 
お金とか旅行とか指輪とかそんなのどうでも良かった。それなのにどうして 」

サンガツも古いアルバムの匂いをかいではノラを交互に見上げていました。

それからの数年かは毎日が同じように過ぎてゆきました。
昼過ぎに目覚めてはサンガツにご飯を上げ、自分だけの粗末な食事を作り、
午後は陽のあたる庭を見ながらゆり椅子でサンガツを抱いてうつらうつらし、
部屋が暗くなったのに気が付くと、又一緒にご飯を食べて抱き合って寝ました。
          
時折、ハルの同級生やノラの友達が尋ねて来ましたが、
口々にノラの変わらない若さとサンガツの年齢にびっくりしました。 
「ええ!猫なのにもうすぐ四十歳以上にになるの!
 それってギネスブックに載るんじゃあない!」
          
しばらくすると、今度はテレビ局やら雑誌社が訪れるようになりました。
「大沼さ~ん、40歳にもなる猫ちゃんを飼っているそうですね。
 是非取材させて下さい。」とか、
「サンガツちゃんの写真だけでも撮らせて下さい。」とか、
「それって本当に同じ猫なんですか?昔の写真と照合させて下さい。」とか。
「ご主人が自殺されたからデマカセを言ってるんじゃあないでしょうねえ」とか。
     
それは早朝から夜遅くまで連日続きました。
きっと、興味半分で友達が話したんだろう。
すぐに収まるだろうと、最初は相手にしていなかったノラですが、
一ヶ月もの毎日、取材のベルと家の前に集まったカメラマンにはさすがに閉口してしまいました。
中には塀に登ったり、勝手に庭の木にカメラを設置してる者までいました。
ノラが近所へ買い物に行くたびに、記者のインタビューに追っかけられ、
隠し撮りを避ける為、楽しみだった午後の日向ぼっこも出来ませんでした。

ある日、ノラは名案を思いつきました。
近所のペットショップや保健所に行っては、手当たり次第に白い猫をもらって来たのです。
電柱に「白い猫もらいます」との張り紙も張りました。
すると、あっという間に三十匹以上もの白猫がノラの家に集まりました。
中にはどさくさに紛れて黒猫や三毛猫や病気の猫や、
生ゴミまでをも庭に放り込んでいくもの達もいました。
でもノラはそれらの全ての猫を「サンガツ」と呼び、
手術や病気の猫の世話をして可愛がりました。

家の中と小さな庭はまるで猫の動物園でした。
一日中どうどうと窓を大きく開けて、
猫達は遊びまわり、ノラは楽しく日がな過ごしました。

さて、マスコミはどれがサンガツなのか分かる術もありません。
おもいおもいに写真を撮っては勝手な事を言ったり記事を書いては信用を失い、
いつしか長寿猫の話題も飽きられていきました。
   
ノラにとっては三十匹以上もの猫の世話だけでも大変な労働だったので、
それからの数年間はあっという間に過ぎました。
でもさすがにそれだけの猫がいると、いくら手入れをしても家からは猫の匂いが漂い、近所から苦情の電話や「デテイケ」という張り紙がありました。
いつの間にか「猫屋敷」やら「ゴミ屋敷」というレッテルを貼られましたが、
もともと生命力の弱い捨て猫たちは一匹・一匹と死んでゆき、
結局はサンガツだけが残りました
そしてテレビ局も雑誌の取材も来なくなりました。
サンガツはもう四十五歳以上にはなっていました。

秋にノラの父が死にました。
たまに訪ねてくれたり、父の家の世話をしに行ったりはしてましたが、
一緒に暮らそうとお互いに誘い合っていたのに結局実現しませんでした。
          
「とうとう二人だけになっちゃった。」
一日中ノラとサンガツは暗がりの中で抱き合っていました。
サンガツはもう午後の陽にも当たろうとせず、
たまに柔らかい缶詰を食べ、水道水を少し含むくらいでした。
ノラは配達で取り寄せた材料で、質素な食事を作って食べました。
     
「ねえ、サンガツ。どうしてそんなにも頑張って長く生きているの?私のため?
 私は大丈夫よ一人でも。もう無理しなくてもいいのよ。」
 と鼓動が聞こえる程に胸に顔を押し付けて囁きましたが、
サンガツは何も言わず、小さく喉を鳴らすだけでした。


そうして又何年かたったある春の日の朝、突然呼び鈴が鳴りました。
一体誰がこんな朝早くから?とノラがゆっくり魚眼レンズをのぞくと、
こざっぱりとした紺色のスーツ姿の若い男女が立っていました。
「おはようございます。市役所の福祉課の者です。」
ドア越しに、事務的だけれど元気な若い男性の声がしました。

「はい、少しお待ち下さい」
 ゴミのことかしら?それはもう何年も前に片付いたはずなんだけど・・・
恐る恐るドアを開けると、
「大沼ノラさんですね。誕生日おめでとうございます。
 六十歳のお祝いを市からお持ちしました」
とあきらかにケーキに見える白い箱と、ピンクの花束を持ってそう言いました。
「えっ。そうでしたか。ありがとうございます。…どうもありがとう。」
ノラはもうすっかり自分の誕生日など忘れていました。
「あら、新しい猫ちゃんですか?これまた綺麗な白い猫で。」
女子職員はかがみ込んで可愛いと背中を撫でました。
いつのまにかサンガツは足元に来ていて、今日は元気が良さそうでした。

小さな箱から、かたちばかりの小さなケーキをとり出しては嬉しそうに眺め、
「そうか、私、六十歳になっちゃったんだ。年なんてもう忘れていたわ。」
ノラはサンガツを抱きながら揺り椅子に座り、しばらく庭を眺めていました。
    
「そうだね。サンガツだって五十歳だね。ちゃんとお祝いをしなくちゃ。」
自分に言い聞かせるようにノラは声を出してそう言いました。
あれほど毎年誕生日を楽しみにしていたのに、
ハルが死んでから一度もお祝いをした事がありませんでしたから。
「サンガツ、お前も。ううん、お前が、いるんだから。」

ノラは何十年ぶりかに長い髪を束ねてお化粧をして、
結婚前にハルに一枚だけ買ってもらったワンピースを着ました。
ベージュの地に黄色の花柄の春の服は今のノラには大きいくらいでした。
小さな赤い靴を磨き、近所の商店街へと足を運ぶと誰もがびっくりしました。
(・・・あれ、猫屋敷の婆さんじゃないか・・・どうしたんだい気でも触れたのか、あんな若い格好をしてさ)と、誰もが陰口を言っているようでした。

年月が経って街並みも随分と変わり、代替わりをした店も多かったのですが、
昔 通っていた肉屋や魚屋のおかみさんや親父さんたちは口々に、
「まあ、あ~んた・・・ノラさんかい?あら~元気で良かったよ。
あ~んた全然変わらんねえ。心配してたんだよ。」とか、
「旦那さんがあんな事になってさぞ辛かったろう。大変だったねえ。
ちゃんと食べ取るんか?これ、持ってきなよ」とか、
「あの猫ちゃんはどうしてるんだい?まあ行きとるの?
 これ、あの子が好きだったよなあ」とか、
まるで昨日買い物に来たかのような事を口々に言いながら、
持ちきれないぐらいのおまけをしてくれました。

山のような食料品を積んだショッピングカートに引きづられ、
息を切らしてやっとこさ長い坂道を降りて帰ったノラは、
台所の床に骨付きの肉やら、大きなロブスターやら、たまねぎやらお芋やら、
お頭付きの魚を放り出しふうっとため息を付き寝っころがりました。
久しぶりの運動の疲れが鈍った体に心地よく感じられました。
「さあて・・・サンガツ、何を作ろうか、」
サンガツは買ってきた食べ物に興味しんしんです。 
くんくんと鼻をあてたり、ガサガサと紙袋にはいったりして遊んでいました。
「かじったり、食べたりしないでよ~。」
ひとまずハルにお線香を上げると、ハルは変わらず恥ずかしそうに笑っていました。
「ハル。今日が私達の誕生日なんですって。ハルの好きなもの沢山作るね。
 でも久しぶりだから、味は保障しませんからね。」
今日のサンガツはとても元気で、まるで昔のアメリカの版画の猫が、
自分が料理をするかのようにノラのかたわらで流しにジャンプをしていました。

          
「は~い、お待たせ~。結構時間かかっちゃったね。」
上等なお肉のミートローフ、新じゃがのジャーマンポテト、骨付きのアイスバイン、ロブスターのチーズ焼き、熱々のオニオングラタン、焼きたらこのおにぎり、
ハルの写真とケーキを真ん中に小さな食卓に並びきれないくらいのご馳走が揃いました。

「そうだ、忘れてた!」
いつか部長からもらったワインを棚から出して来て氷水で冷やしました。

「おめでとう、ハル!おめでとうサンガツ!」
ノラは不器用な手付きで白ワインを抜くと、
写真の前にグラスを置き自分とハルのグラスにワインを注ぎました。
そして音を立てて「乾杯!」と言い、口に含みました。
   
「美味しい!・・・ほんと、素敵な白い花の香りがする」
「ハルはいいなあ、年取らなくて・・。私だけ、おばあちゃんになっちゃった。」
「サンガツも五十歳よ。これってギネス記録とかなんかじゃあいのかなあ。
 今からテレビ局に電話しようかしら。」
ノラはすぐにワインに酔ってはハルの写真に向かっておしゃべりをしていました。

畳の上にはサンガツ用のお盆があり、塩を使わないで焼いたお頭付きの桜鯛と、
鰯の焼いたのがのっていました。
「サンガツ、いいお魚を頂いたのよ。しょっぱく無いからお食べ。小骨もとってあるからね 。」
「でも、きっとあなたサンガツに何か言ったんでしょう。
 ノラを頼むよとかなんとか、解かってるんだから・・・」
サンガツは待ち構えてたかのように桜鯛と鰯を器用に食べ終えると、
今度はテーブルの上のミートローフや、ジャーマンポテトに鼻をくんくんとつけました。
「あ、ダメだってばあ。これは人間用のだからしょっぱくて体に良くないの!
 ダ~メ!」
それでもサンガツはテーブルに飛び乗ると挙句の果てにはロブスターのチーズ焼きにいきなりかじり付き、
「ダメ~海老、あ、ザリガニ?は体に良くないよ~」と、
ノラとサンガツとのご馳走の取り合いが始まりました。

「ああ、もうダメよダメ!こんなの猫が食べたら死んじゃう!」
やっとこさロブスターをサンガツの手から奪い取ったノラですが、自分が食べる暇などありません。サンガツはテーブルにしっかり馬乗りになって、
ミートローフやおにぎりを次々と齧っていきました。

「わ~!ちょっと、ちょっと、どうしたのよ~!」
そしてなんと今度はハルのグラスのワインに口を付けたのです。
「あ~っ! ダ~メ!ダメダメダメ。  ダメ~~!!」
背の高いグラスからはうまく飲めなくて、案の定サンガツはグラスを倒しました。
そしてテーブルにこぼれて広がったワインを、あれほど嫌がっていたワインを、
サンガツはぺろぺろと、美味しそうに舐めたのです。

「えっ・・」
ノラは驚き、その時初めて気が付いたのです。
「ハル?・・」
ワインを音を立ててすすると、サンガツはノラを見上げ「ミャア」と小さく鳴きました。
「ああ、なんて事なの、なんて私って馬鹿だったんでしょう 。      
 どうして?どうして今まで気が付かなかったなんて・・
 ハル・・ハルだったんだね。ずっと一緒にいてくれたんだね。」
サンガツはもう一度ノラを見上げ今度は大きく「ノ~ア」と鳴きました。
ノラはサンガツとハルを思いっきり抱きしめました。

「ハル!サンガツ!お誕生日おめでとう。みんなで年を取っていったんだね。」
ノラはワインを小皿に注ぎました。
「さあ、沢山食べましょう。ケーキにも火を付けなくっちゃ。」
それから、ノラとサンガツは仲良く料理を食べワインを飲み、
たくさんたくさん話をしました。
「ほんと美味しいねえ。『自分で作っといて~』ってハルは言いそうだけどね。」 
おなか一杯で酔っ払ったノラは、サンガツを抱きながらいつの間にか眠りに落ちていました。

ノラは夢を見ました。
それはロマンティック街道の夢でした。
ハルとノラとサンガツは馬車にひかれて石造りの古道をとことこ進んでいました。
遠く真っ青な空を背にした、銀色に切り立ったアルプスの山々、
その中腹には絵本でしか見たことのない真っ白なお城、
気が付くとノラは白いウエディング・ドレス、ハルも中世の貴族のような格好をしていました。サンガツもお揃いの帽子を被っていました。
沿道の人たちは、口々におめでとうと言いながら花びらを投げかけてくれました。
白い香水のような甘い風が頬をくすぐりました。
ハルは「どうだい。いいとこだろう?」と自慢げに笑いました。
         
目を覚ましたノラは涙を流していました。
「ハル、サンガツ、ありがとう。ずうっとみんな一緒だったんだね。
 ロマンチック街道にも一緒に行ったね。幸せだったよ。」
そう呟いたノラはゆっくりともう一度瞳を閉じ、深く永い眠りにつきました。
涙の跡をしばらく舐めていたサンガツも、
いつしかノラの腕の中で目を閉じ、次第に体から温もりが消えていきました。

おわり