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「アイヌ童話集」

2023年09月08日 | 読書ノート

「アイヌ童話集」


書籍『金田一京助/荒木田家寿・著「アイヌ童話集」』について

(1962年に東都書房から刊行。その後1981年に刊行された講談社版文庫を底本にし、2019(令和元)年5月25日に角川ソフィア文庫から発行された。またそれ以前に1943年第一文藝社から同名で刊行されており、1949年にも同じ著者で晃文社から刊行されている。)

<著者について(本書より)>

金田一京助

(きんだいちきょうすけ)

1882年、岩手県生まれ。言語学者。東京帝国大学文科大学在学中に、北海道に渡り、アイヌ語の調査を始める。國學院大學教授、東京帝国大学教授などを歴任したのち、1971年に死去。著書に『アイヌ文学』(河出書房)、『ユーカラの研究 アイヌ叙事詩』(東洋文庫)、『アイヌ芸術』(北海道出版企画センター)など多数。

荒木田家寿

(あらきだ いえひさ)

1902年、岩手県生まれ。京助の実弟。

雑誌記者を経て、軍需省官吏として勤める一方で、『映画集団』『映画評論』などの各種映画雑誌に寄稿。その後、岩手放送などを経て、岩手映画通信社の役員となる。1981年に死去。

<本書について(本書より)>

口のきけない子が大熊と力比べをする話、若とのと人食い馬が固い友情を結ぶ話、英䧺オキクルミがききんの魔神を退治する話……。滑稽話から英雄譚に至るまで、幅広く語られる童話数々からは、自然や神と自由関達に語り合うアイヌの鋭敏な感性を随所に感じることができる。

アイヌ研究の第一人者が現地で筆録し、実弟が手を加え読みやすく再構成した、アイヌ文学に初めて触れる読者にとってもうってつけの名著。解説・中川裕


◯金田一京助と荒木田家寿(まえがきから)

(引用)荒木田家寿(あらきだいえひさ)は私の末弟、縁あって、親戚の荒木田家を嗣いで成長した。金田一氏は荒木田氏と他人のように過ごしてきたが、荒木田氏が北海道夕張に暮らし自力で本書「アイヌ童話集」をまとめたことを賞賛し、金田一氏がアイヌ語の原文を忠実に和訳した説話集を、荒木田氏が少年少女向けに巧妙にわかりやすく書き下ろしたことを評価しています。


◯本書における荒木田氏のアイヌの捉え方

 荒木田氏はアイヌの説明を次のようにしています。(引用)…昔のアイヌは自然にまだ原始生活をしていたものでした。そこへ内地からきて君臨した松前家は、小藩(しょうはん)であったために、アイヌたちの開けて強くなるのを恐れて、いつまでも開けないように文字を禁止したり、げた、はきものを禁止して、はだしで歩かせたり、かさもささせなかったりしたのです。けっして根っから質素の劣った人種ではなく、ただ小藩の自己保存の政策の犠牲となっていたものです。アイヌには祖先の武勇談、英雄談、建国の神話、歌物語の叙事詩、昔話(ウエペケル)などが、口伝いに存在しており、本書にもおさめられていますが優れた民族性を理解することができます。内地は日本国家のことであり国家の幻想にアイヌ民族を勝手に含め、北方の大地で暮らしてきた人々を未開な人々と決めつけ、さらに未開になるよう仕込んできました。アイヌの人々はこれを受け入れた訳ではありませんが、不当な生活を強いられたわけです。


◯童話集について

 この本の面白いところはアイヌ独自の昔話(ウエペケル:「噂ばなし」)。寒い北海道に定住して炉ばたで生活していますから、噂ばなしや四方山話に花が咲くわけです。そこで語られるよろこび、かなしみ、おどろきが事件として即興詩になります。中でも何と言ってもアイヌの人祖・アイヌラックル(英雄オキクルミ)が活躍する神(カムイ)のお話です。悪を成敗し世の不幸を防ぐ“大活劇”の数々です。またもう一つは自然の中にいる様々なカムイ(神々)のお話です。ここでは「童話」の名を使いながら“子供たちが感受する異空間の世界”を題材にアイヌ民族について語られています。北方の大地で繰り広げられる物語は、内地とは別の異国の話であり、“習慣や民俗や土俗的信仰がからんでつくりあげた精神の感性”を共同の幻想とした吉本隆明の考え方を思い出させてくれます。私はアイヌについて調べているわけではありませんが、日本的なものとは別のアイヌの独自性を考えることができました。


◯カムイについて

 カムイとは神(カミ)のことを指しています。この神は日本の先史でも自然現象を人格化したように太陽や月や、風や雨や海や、大きな木や岩や、動植物を指しており、狩猟採取段階の縄文人が抱いた自然崇拝の習俗が底流となっています。本書では、荒木田氏が次のように「神」について定義しています。(解説―アイヌの昔話と神話について―から引用)アイヌの神という思想は、私たちの場合とてんで違うのです。というのは、アイヌの信仰では、この世の、天地の生きとし生けるもの(といってもまず鳥獣魚介)はもとより、無生物でも日月星辰(せいしん)から、霊ありと考える宝物類に至るまで、神と考えられるのです。そして、神というものは、神々の本国では私たちと同じように家を建てて村を造ったり、アツシを着て酒を飲み、妻子を愛して、アイヌと変わらぬ生活をしているのですが、人間界へ遊びにくる時に、神々が銘々特有のマスクを着け、それが熊はあの姿、狼はあの姿、その他、鳥の姿、魚の姿等々、それぞれそうした特異のかっこうをしてくるのであって、いわばそれらは、人間界へ遊びにくる仮装の姿なのです。」ユーモラスな神たちです。神様なのに戸口におしっこをかけたりしてお行儀が悪いこともしますが、どうやら人間というより犬などの動物がカムイとして話に出てきているようです。


◯こぼれ話

 本書の童話に、パナンペ(川上の人)とペナンぺ(川下の人)という二人が出てくるお話があります。これは日本の花咲か爺さんのお話に似ており、正直爺さんと意地悪爺さんの教訓的な内容がいくつか出てきます。内容は新鮮で面白いので本書を手にしてお読みいただきたいのですが、爺さんの方言に気になるところがあります。それは北海道のアイヌがたとえば「いったい、ここはどこだんべえ」「おまえさんは、いったいなんだんべえ」と「だんべえ」言葉を使います。田舎言葉として「だんべえ」を使用したのかもしれないですが、「だんべえ」自体は群馬県地方の方言です。アイヌも使っていたのでしょうか?現在、北海道で「だんべえ」と言えば女性器をさすため、人前でおおっぴらに使われるのは憚られる言葉です。この件についてご意見があればぜひご指導いただきたいと思います。

 

(おわり)


寺田寅彦「震災日記より」について

2023年08月25日 | 読書ノート

寺田寅彦「震災日記より」について

参考書籍:『寺田寅彦・著「ピタゴラスと豆」』

(1949年角川書店から刊行された「ピタゴラスと豆」を底本とし、令和2年8月25日角川ソフィア文庫から発行された)


<本書について(本書より)>

 「自分に入用なものは、品物でも知識でも、自分で骨折って掘出すより他に道はない」(「錯覚数題」)。芸術感覚にあふれ、文学と科学を鮮やかに融合させた寺田寅彦。随筆の名手が、晩年の昭和8年から10年までに発表した、科学の新知識を提供する作品を収録。豆のために命を落としたピタゴラスの悲劇について書いた表題作をはじめ、関東大震災の記録「震災日記より」「猫の穴掘り」「糸車」等全23篇。解説・角川源義、鎌田浩毅

<著者・寺田寅彦氏について(本書より)>

 寺田寅彦(てらだとらひこ)。1878~1935年。東京生まれ、高知県で育つ。東京帝国大学物理学科卒業。理学博士。東京帝国大学教授、帝国学士院会員などを歴任。東京帝国大学地震研究所、理化学研究所の研究員としても活躍。物理学者、随筆家、俳人。著書に「蒸発皿」「万華鏡」「柿の種」「蛍光板」などがある。


○天災と寺田寅彦氏

 寺田寅彦氏といえば著名な物理学者でユニークな随筆家というイメージしか持ち合わせていなかった。そんな自分がこの書籍を取り上げて何か書こうとすること自体おこがましいが、著者の関東大震災での被災を生々しく綴った「震災日記より」は記憶しておきたい書籍だと思いここに載せることにした。

 そもそも「天災は忘れられたる頃来る(天災は忘れた頃にやって来る)」という名言は寺田寅彦氏のものだ。しかし関東大震災から100年が経つ今忘れてはならないことであり、震災に関連し知らなかったことを知ることは大切なことだ。一部を抜粋し共有する。なお取り上げた「震災日記より」はエッセイ集「ピタゴラスと豆」のエッセイの一つとして収められている。


○「震災日記より」

(1923.8.26-9.1発災時)

 数日前から前兆現象にあたると思われることを記録しており、例えば震災発生の6日前の大正12年8月26日(震災発生日・9月1日)の夕刻に珍しい電光が西から天頂へかけて空に見えたとしている。また震災当日の朝には暴雨が断続的に繰り返される珍しい降り方があったと書いている。

 地震の揺れを感じた時に寺田氏は上野の喫茶店で打ち合わせをしていたのだが、初めは細かい揺れを感じ「(引用)椅子に腰かけている両足の蹠(うら)を下から木槌(きづち)で急速に乱打するように感じた。」としている。そのうち大きく揺れ始めると「(引用)その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありありと想出され、船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。」と物理学者らしく表現し、初めの揺れがおさまった直後に再度急激な激しい波が来たと振り返ってびっくりしている。


(1923.9.1発災その後)

 地震がおさまり喫茶店の外に出てみると人々は茫然と空を見上げている。誰もが状況を把握できずなす術を失っている様子を観察し、その後「(引用)…東照宮前の方へ歩いてくると異様な黴臭(かびくさ)い匂いが鼻を突いた。」として、多数の家屋が倒壊したことに気づき、さらに東京じゅうが火事になると事の連鎖を直感した。異変を呑み込むことができたのは、上野東照宮の境内の石灯籠(いしどうろう)が北側に向け全て倒れていたり、不忍弁天の社務所が倒れかかっているのを目の当たりにしてからだ。ここでようやく自宅のことに思いが及び帰ろうとするが、道路には畳の上に病人を寝かせていたり、頻繁に襲ってくる余震に煉瓦壁があらたに倒れるのを見て、地盤の弱い低湿地の街路は危険と判断して団子坂に向かう。学者としての冷静な考えがここにも生きている。「(引用)団子坂を上って千駄木に来るともう倒れかかった家などは一軒もなくて、ところどころ瓦の一部剥(は)がれた家があるだけであった。

 しばらくすると東京帝国大学の医化学教室が火事だと連絡が入り、続いて予想通り市中のいたるところで出火していることを知る。立ち昇る煙を噴煙のように感じ独特の表現で次のように書いている。「(引用)縁側から見ると南の空に珍しい積雲(せきうん)が盛り上がっている。それは普通の積雲とは全くちがって、先年桜島(さくらじま)大噴火の際の噴雲を写真で見るのと同じように典型的のいわゆるコーリフラワー状のものであった。」(「コーリフラワー」とは当時の呼び方で、現在では「カリフラワー」のこと。)


(1923.9.2)

 町中は電車の音もせずしんと静まりかえっている。が、火災は夜通し続き九月二日になっても燃え続け浅草下谷は黒煙と炎の海だと書いている。この日の日記には変わってしまった街の様子が描かれており臨場感がある。いくつか引用する。「(引用)…煙の奥の方から本郷の方へと陸続と避難してくる人々の中には顔も両手も火膨(ひぶく)れのしたのを左右二人で肩に凭もた)らせ引きずるようにして連れてくるのがある。」、「(引用)明治大学前に黒焦の死体がころがっていて一枚の焼けたトタン板が被(かぶ)せてあった。」、巡査が来て「(引用)…放火者が徘徊するから注意しろ」と言ったそうで「(引用)井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえてくる。」これについては学者らしく次のように書いている。「(引用)こんな場末の町へまでも荒らして歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその説は信ぜられなっかった。

 震災に纏わる記述はここに書いたものだけではない。ぜひ「ピタゴラスと豆」を手にとって「震災日記より」をお読みいただき災害に備える心をあらたにしてもらえればと思う。

 余談。わたしは群馬県高崎市の出身だが、子供の頃に関東大震災の話になると年寄りが100キロ離れた東京の方角が夜でも夕焼けのように赤く明るかったと話してくれた。寺田氏も知り合いから地震と噴火を紐付けた次のような話を聞いている。「(引用)地震当時前橋に行っていた人の話によると、一日の夜の東京の火事はちょうど火柱のように見えたので大島(おおしま)の噴火ではないかという噂があったそうである。



 この書籍に掲載された随筆は「震災日記より」のみならず、夏目漱石の弟子でもある寺田寅彦氏の物事を観察する視点の面白さを存分に味わうことができる。いくつか挙げてみると、夜間の防空演習時に灯火を消さずに営業し続けた風呂屋(銭湯)が客から英雄として讃えられた話、海外のSF小説で宇宙から来た住民が地球の黴菌に対する抗毒素を持ち合わせず全滅するストーリーを元にマスク着用の是非を現在のコロナ禍と同じように考える話、人気のショーを見るために切符を購入し並列させられると開演の入場までにどれくらいの無駄な待ち時間が必要になるか考える話、日本人の生活がだんだん西洋人のようになってきているので髪の毛も黒から金色に変化するのではないかという話、等々。90年も前の話をしているにも関わらず現在の感性で今のことを語っているような新鮮さを覚える。少しでも興味が湧いた方がいらっしゃればぜひお読みください。

 

(おわり)


関東大震災後に活躍した「バラック装飾社」について

2023年08月18日 | 読書ノート

関東大震災後に活躍した「バラック装飾社」について


参考書籍:『藤森照信・著「日本の近代建築(下)」―大正・昭和篇―』

(岩波新書 1993年11月22日発行)

<本書について(本書より)>

明治の時代とともに展開した近代建築も、大正に入ると大きな転機を迎える。第二次世代が登場し、彼らは建築とは何かを内省し、社会性、技術の表現、実用性などのテーマを発見する。新しい感性に目覚めアールヌーヴォーを手がける。昭和に入ると、モダニズムの影響のもとに第三世代が花開き、ファシズムの洗礼を経て、その流れはいまに続く。

<著者・藤森照信氏について>

1946年長野県に生まれる. 1971年東北大学工学部建築学科卒業. 1978年東京大学大学院修了. 建築探偵、路上観察という独自の活動を展開した. 東京大学名誉教授、専門・日本近現代建築史、現在・江戸東京博物館館長.


○ここで「バラック装飾社」を語る背景

 自分の出身地・高崎市(群馬県)にゆかりのある建築家ブルーノ・タウトについて建築史の位置づけを再確認しようと手元にあった本書「日本の近代建築(下)」をあらためて読んでいたら、以前はほとんど興味なく素通りした「バラック装飾社」のことが目に止まり惹きつけられてしまった。ここに面白いと思ったところをメモしておく。(ゆえにブルーノ・タウトについてはまたいつかまとめる。)

 もともと二〇世紀初頭のモダニズムに興味があった。特にバウハウス(1919年・ドイツ、ワイマールで始まるデザイン運動)は1990年代に異業種協業を目指した東京クリエイティブで故・柏木博さん(武蔵野美術大学名誉教授)から直に学び、モダンデザインについてある程度の知識を持っていた。しかし、「バラック装飾社」とその主体である今和次郎(こん・わじろう、1888-1973)のことは知らなかった。それが伝統的建築の流れを重視する歴史主義派に抗いどこまでも分離しようとするうねりの中にあって、1923年9月1日に発生した関東大震災の被災を背景に復興と生活に寄り添うモダン建築の一つのスタイルを生み出した点に心揺さぶられた。バラック装飾社と今和次郎は「(引用)美は世相風俗の表皮に宿るという思想」(カッコイイ!)を持ち形式にこだわる歴史主義派や機能主義を追求するバウハウス派などの表現派と一線を画した。


○「日本の近代建築(下)」をもとにモダンデザインの系統を整理する

 まず、19世紀末にアール・ヌーヴォーという「植物」にインスピレーションを得たデザインが口火を切り、続いて1910年代には初期表現派やキュビズムよる建物の壁面を「鉱物」の結晶のように表現する手法が採用され、1920年代に入ると科学技術の時代を表現したデ・スティル(オランダ)、ピューリズム(フランス、純粋主義)、バウハウス(ドイツ)などの白と直角の「幾何学」を用いたデザイン潮流が生まれ、さらにミース・ファン・デル・ローエ(20世紀のモダニズム建築を代表するドイツの建築家)の「数式」のような抽象性に至る。ちなみにブルーノ・タウトはこの時点ではクリスタルイメージを持ったドイツ表現派の流れに位置した「ガラスの家(1914年)」を設計している。

 ここでは深く触れないが著者(藤森照信氏)によれば、モダンデザインの成立プロセスは「植物→鉱物→幾何学→数式」と展開され、自然界の四層という基本的構造に則っているとする面白い理解の仕方を定義づけている。

 さて、本書では余計な装飾を省き白や直角を主にした機能的表現こそ美しいとするデザインを、「モダニズム」とか「インターナショナルスタイル」と称して風土性や国籍がないと説明しており、これはそもそもデザインの持つ性格にデザイン自体が差別性を排するユニバーサルなものだとする考えに等しい。また著者は「引用)モダニズムの訳し方で、『近代建築』と直訳すると、明治以降の歴史主義を主体とする日本の近代建築と混同してしまう。モダニズムを訳すなら『国際近代建築』がふさわしい。」としている。


○建築の歴史から離脱を目指す分離派

 過去の建築圏からの離脱をめぐり、新たな建築的表現を目指したのが分離派(大正時代、若手インテリゲンチャ6名による集団「分離派建築会」は日本初の建築運動となった)であり、さらにその運動に抗す形で誕生したのがバラック装飾社である。バラックとは、「ありあわせの材料を用いて作った粗末な小家屋。仮小屋。(コトバンク)」「空地や災害後の焼け跡などに建設される仮設の建築物のこと。(Wikipedia)」である。今和次郎は同志たる吉田謙吉(よしだ けんきち、1897-1982、日本の舞台装置家、映画の美術監督、衣裳デザイナー、タイポグラフィ作家)と共に、大正12年に起こった関東大震災の焼野原を歩き焼け跡に立ち上がるバラックの中に人々の仮小屋作りの工夫と健気な暮らしぶりを見出し(引用)人間が家を作り暮らすことの始源の状態を見た。

 運動体として行動する分離派は創宇社を結成するが、「(引用)中心メンバーは分離派メンバーの下で働くドラフトマン―製図工―の階層であったことから社会意識が強く、かつ権威に対して反抗的」であった。彼らは創宇社と別の行動に至る中で関東大震災で被災した人々が朽ち果てた自分たちの家に雑草のごとくバラックを建て復興への道を歩む風景を見て、バラック装飾社を立ち上げるのである。そしてバラック装飾社のような小会派はこの後次々に結成され、大正から昭和初期のモダンデザインの進展に一役買うことになる。


○バラック装飾社について

 バラック装飾社は焼け跡に向けて運動を開始し次のようなビラを配り始める。「(引用)今度の災害に際して、在来から特別な主張をもつてゐる私達は因習からはなれた美しい建物の為に、街頭に働く事を申し合わせました。バラツク時代の東京それが私たちの芸術の試験を受けるいゝ機会だと信じます。
 バラツクを美しくする仕事一切―商店、工場、レストラン、カフェ、住宅、諸会社その他の建物内外の装飾。
一九二三年九月(大正12年)
バラック装飾社(参加者名、住所等略)

 バラック装飾社はバラックを美しくする仕事の一切を引き受けるべく結成した運動体となり、日本人の率直な気持ちに反応しつつダダ的に突っ走る建築を推し進めていく。(※ダダ:特有の意味性の解体、破壊や否定の精神を持った反美学的姿勢、既成の価値観の否定などを特色とする20世紀前半の芸術運動。)「(引用)焼け跡のデザイナーとなった今和次郎に対し、建築界の反応は冷やかで、おおかたは一場の座興として無視したが、分離派の面々はことの本質を見逃さず、たちまち反応する。(略)…野蛮人の装飾をダダイズムでやった」ことを感知する。分離派内部では求めることの違いによって罵ってみたり、世界を導く建築デザインの主流にならんとする自負を揺るぎないものにすべく、新しい時代に向かう誇りを胸に抱きつつあらたな創造をわがものにしようと挑戦した。


(バラック装飾社の代表作:カフェ・キリン 本書より)

○その後のバラック装飾社

 昭和三年末には帝都復興がほぼ完了したゆえなのか、その「前衛」たるバラック装飾社の仕事はすべて消えてしまい、当初10余件を数えた案件もおそらくひとつも残っていない時期を迎える。焼け跡のバラック商店を飾る仕事と都会の繁華街という消費の場では美のあり方が違うのである。

 バラック装飾社は、分離派の本質を「(引用)人間の美の魂の讃美」と規定した上で、自らは「(引用)世相を、生活を、そこで醸さるる人々の気分を」把むことに使命を見出している。当時のモダンデザインは、技術の進化による大量生産に着目し、機能的で合理的な生産の場・工場の空間を念頭に理論形成をして来た。しかし、さらに着目すべき点には、生産に対する「消費の空間のデザイン」のあり方を考慮する問題があったのだが、この時点でそれに気づいていた今和次郎とバラック装飾社は時代的には早すぎたのである。

 こうして昭和初期の表現派、歴史主義派のにぎやかな展開後、これらと一線を画した分離派・「バラック装飾社」の運動は短期間で終了する。その後に勢いづく初期モダニズムを支えた三派(後期表現派、バウハウス派、コルビュジエ派)の活動に対して、その直前に人々の暮らしに根差そうとするモダンデザインの小会派の潮流があったことはあまり表に出てこない。が、生活を豊かにするというデザインの持つ力(チカラ)を踏まえ、その価値について考える上では「バラック装飾社」のことは見逃せず、記憶しておく必要があるだろう。

 

(おわり)


大佛次郎・著「終戦日記」

2023年08月09日 | 読書ノート

大佛次郎・著「終戦日記」

 大佛次郎(おさらぎじろう)氏は1897(明治30)年、横浜市生まれ。本名は野尻清彦(のじりきよひこ)。鎌倉の大仏の裏手に住んでいたことが大佛次郎の筆名の由来。「鞍馬天狗」「赤穂浪士」「霧笛」「冬の紳士」「天皇の世紀」など、時代小説、現代小説、エッセイ、ノンフィクションなど多くの作品を発表し続け、1973(昭和48)年逝去。作品の多くには健康で人間味溢れる大らかな人格を持った主人公が描かれており、戦中戦後を通じ苦しい時代にあっても作品を読む人に元気をご褒美として与えてくれた。

 この書籍を今回取り上げ一部抜粋も含めて記載した理由は、大佛次郎氏の鞍馬天狗のような正直なものの見方で戦争について感じたことを、あらためて記録し共有したかったからだ。

 大佛次郎氏については、文豪に相応しい数多くの作品を残しており、また折に触れてあらためてノートをまとめ説明していくことにする。


 「終戦日記」は1944年9月から記されている。この終戦がさす戦争は、先の大戦(満州事変以降の対中国戦争と太平洋戦争・1931~1945年)のこと。戦争中の作家の生活が記録されておりリアルな日常を垣間見ることができる。知る由もない作家の暮らしだが、空襲警報を気にしながら原稿を書き、定期的に新聞社や出版社へ出来上がった原稿を渡す日々だ。鎌倉で酉子(とりこ)婦人と女中、十五匹の野良猫たちと暮らし、日に日に敗戦色が強くなる中で、ラジオの大本営発表(国の統帥部が発表する戦況情報)に耳を傾けている。


 日記の冒頭には「物価、といっても闇値を出来るだけくわしく書き留めておくこと。」としており、小説家というより政治経済や人々の営みを常に気にしている大佛氏の心情がうかがえる。しかし本人は友人や仕事仲間とこの時期でも配給や闇で手に入れたビールや日本酒を酌み交わしタバコも吸っている。「欲しがりません勝つまでは」や「贅沢は敵だ」というスローガンを強制され我慢の日々を強いられていた戦争中に、一本のビールが飲めるだけでも普通の庶民に比べるとだいぶ優雅に見えてしまう。

 戦争に必要な鉄や物資は軍のために徴収され食糧も不足する中で、例えば次のような記録がある。(ただし1944年9月時点な為、その後ものはどんどん値上がりしたり手に入らなくなる。)

・タバコは二箱で一週間持たせる配給

・ビールを闇でさがし飲む

・三円の鉄兜が七円五十銭

・豆腐を買う際、豆一升を持ち込むと豆腐十丁になるがあと70銭支払う

・食用油一升百円(現在の価値で20,000円)

・砂糖三百円

・ビール一本五円(現在の価値で1,000円)、銀座のバーなら十円

 ところで戦時下だが、大佛氏はトルストイ(帝政ロシアの小説家)の「戦争と平和」を読み続けている。反政府的で非暴力主義のレフ・トルストイだが、大佛氏は戦争やその描写にも興味をそそられていたのだ。1944年11月9日、「スターリンが日本を侵略国として扱った」ことに注目し驚いているが、まだ日本が勝つと信じている。このあと冬になるといよいよ空襲警報や警戒警報が発令される頻度も増す。しかしこの時点ではラジオから流される敵艦へ与えた損害を聴いて一喜一憂しており、また米国爆撃機・B29を迎え撃ち40撃破したとする放送を聞き胸がスッとしたとしている。

 ただし近所の下士官が戦場で死んだと聞いて暗い気持ちになっている。また生活に困窮している訳ではないが次第に物が手に入りにくくなっている状況について先行き不安になり始めている。


(1944年11月10日の日記より引用)

「――皆の話から。

○人員不足の為に東京では巡査派出所を閉鎖せしもの目立つ。○暗いのと工場帰りの娘たちの帰りを案じ駅は迎いの母親や娘で混雑している。〔時節がら男装のもの多しと。〕○京都では不良少年少女と密淫売がふえている。河原町どおりの京極寄りの舗道を歩いているのは堅気、逆側の舗道を歩く者は不良の徒が大部分だと云う。裏の方にいかがわしい家が多いからである。○京都でこの秋の松茸の配給は二回なりしと。○宮川町の茶屋は営業しているが三百軒戸数があると娼妓は百五十名で二軒の家に一人と云うことになる。これに置きやの娘分として残っている芸者が闇で物資を持っていて電話をかけると客の前に現れ、ぜんざい白米酒などを高い金を取る仕組み也と。三味線でなくて物を持った芸者と云うのができたわけである。牛肉も松茸もこの連中だと持っている。○国民酒場に与太者の縄ばりが出来上り喧嘩や袋叩きが多いので素人の客が近寄りにくく成っている。この現象は東京も同様とかにて読売に投書が出ていた。○上海では家の下宿の居住に権利がつき借り手が一万円ぐらいを取って家主と関係なく譲る。二千円の収入あるものが家族を日本に帰し、これに300くらい送り、あとの金で僅かに生活している。――」

(1944年11月18日の日記より引用)

「『主婦の友』の最新号を見ると表紙のみか各項毎に『アメリカ人を生かしておくな』と『米兵をぶち殺せ』と大きな活字で入れてある。情報局出版課の指令があったのを編輯者がこう云う形で御用をつとめたのである。粗雑で無神経な反対の効果を与える危険に注意が行き届いていない。つまり事に当たった人間が粗末なのである。我が国第一の売れ行きのいい女の雑誌がこれで羞しくないのだろうか。日本のためにこちらが 羞しいことである。珍重して後代に保存すべき一冊であろう。日露戦争の時代に於いてさえ我々はこうまで低劣ではなかったのである。」


 やがて、レイテ島での敗退が伝わる頃になると、夜は灯火管制で仕事ができなくなる。しかし知り合いと台所でビールや日本酒を酌み交わす日常がわずかだが残っている。

 年が変わり昭和20年になると戦況が厳しさを増し、2月には小型敵機の編隊が鎌倉の上空を横切るようになる。警戒警報、空襲警報が度々発令されその都度仕事の中断を余儀なくされる。3月には東京大空襲があり以下の件が記されている。


(1945年3月9日の日記より引用)

「……前回よりもひどい火事である。浜松町附近、桜田門、司法省燃えているという。白木屋も炎上中、浅草観音も燃え、本所は江戸川附近まで焼け野原である。焦死体(ママ)もまだ片付けずにあり電車の中へひどい火傷をしたのが乗って来るという。陸軍記念日なのだが惨憺としたものである。」

(1945年3月14日の日記より引用)

「……身もと不明の焼死体がまだ七八千残っているのを鳶口で片附けている由。惨憺たるものなり。浅草観音堂は震災にも焼けざりしを以ってここは大丈夫と三千人の群衆詰めかけ焼死すと。(略)……罹災地に捨子を見るようになりしと。悲惨目を蔽わしむることなり。救済の方法など政府は全然持たず、乾パン少量と握飯を時を遅れて給せしのみ。罹災証明書なければ配給もされず、その交付を受くる為行方不明の区役所を探す。」

(1945年3月15日の日記より引用)

「……○東京の惨状の話いろいろと耳にす。亀田氏の話では日本石炭社長の一家五人はバケツを持ちしまま焼死しいたりと。路上にも同じ焼死体あり女子供の死者多きことにて手をひきたるままのものなど見るに忍びずと。(略)……○顔面火傷の多きは油脂焼夷弾に水をかけるため火飛びて粘着する為なり。焼夷弾は巨大のものにて殆どバケツの水などの及ぶところにあらず、急遽指導を改めるべきなるもその話なし。」


 7月になると艦砲射撃(※筆者註:この場合、陸上に向けて艦に搭載した大砲により攻撃すること)も激化し、敵艦載機が間断なく分散来襲し千葉や藤沢といった近辺にも迫って来ることが日常化している。人々もすでに仕事に手がつかない状態だと嘆いている。都会では戦争の雲行きが怪しくなり敗戦色が濃厚になってきた状態に気づきはじめているが、田舎ではまだそこまでの情報理解がされておらず、「敗けるというと怒られそうな空気だ」としている。さらに8月になると軍の好き放題が農村にも影響を与え始め、一日二十貫の野菜を部隊に供出するよう命じたり、海軍の部隊が普通の住宅に休ませるよう迫り、大声で勝手なことを話したり女性は間も無くどうにでもなるといった暴言を吐き散らし迷惑をかけている。また高射砲陣地を築くのに、他所に空き地があるにも関わらずナス畑に引き入れめちゃくちゃにするなどの行為も目立っておりこの他にも細かく情けない話の記載が目立ってきている。

 8月6日。広島に原爆が投下されたが情報がなかなか伝わってきておらず、むしろ荒んできている世相についての言及が多い。しかし8月7日には次の記述がある。


(1945年8月7日の日記より引用)

「……広島に敵僅か二機が入って来て投下した爆弾が原子爆弾らしく二発で二十万の死傷を出した。死者は十二万というが呉からの電話のことで詳細は不明である。(略)……トルウマンがそれについてラジオで成功を発表した。(よし子の話だと七時のニュウスで新型爆弾を使用しこれが対策については研究中と妙なことを云ったというが)十日か十三日に東京に用いるというのである。他の外電は独逸の発明に依ると云っているが、米国側では一九四一年からの研究が結実したと発表している。」

(1945年8月8日の日記より引用)

「……正午のラジオも広島に触れず、小型機の持って来るロケット爆弾がそう大した威力のあるものでないと云う説明。警戒は必要だが安心しろというわけである。」

(1945年8月9日の日記より引用)

「……七時のニュウスで五時の大本営発表を伝える。(略)……新型爆弾に対する機能と同じ注意、毛布などかぶれを繰返す。国民を愚かにした話である。真偽は知らず、今日は長崎に同じものを投下したというが一切発表はない。隠すつもりらしいのである。広島の死傷十三万五千と云うが一発ごとにこれに近い犠牲があるとしたら十日で百万に及ぼう。」


 すでに敵爆撃機が編隊を組まず一機姿を表すだけでも原子爆弾を投下するのではないかと心配するようになってきている。しかし家の中にいる間は安泰な状況だと感じようと努めているようで、蚊帳の中で眠れることを喜ぶ大佛氏自身のことも記している。そんな中で、8月11日には東京の知人を通じポツダムの提議に応じ無条件降伏することを知る。そして、8月15日をむかえる。


(1945年8月15日の日記より引用)

「晴。朝、正午に陛下自ら放送せられると予告。(略)……予告せられたる十二時のニュウス、君が代の吹奏あり主上親ら(みずから)の大詔放送、次いでポツダムの提議、カイロ会談の諸条件を公表す。台湾も満州も朝鮮も奪われ、暫くなりとも敵軍の本土の支配を許すなり。覚悟しおりしことなるもそこまでの感切なるものあり。世間は全くの不意打のことなりしが如し。人に依ては全く反対のよき放送を期待しありしと夕方豆腐屋篠崎来たりて語る。」


 大佛次郎氏は、終戦(敗戦)直後の9月3日に内閣参与に任命される。(鞍馬天狗の如く)日本の復興と平和を目指すに必要な人と認められたからである。

 最後に大佛氏が敗戦に伴い日本政府と軍部に対する怒りを書いた8月22日の日記を記載して締めくくることにします。

 ここまでお読みいただきありがとうございました。


(1945年8月22日の日記より引用)

「……長崎の惨状が毎日新聞に写真が出た。大本営の発表は損害は軽微なりとありしが、実は一物も存せざるような姿である。敵側は地形のせいか完全に効果があったと発表していたのだ。どうしてこういう大嘘を平気でついたものだろうか。これが皇軍なのだから国民はくやしいのである。部下が盲動しているのも取り締れぬ筈だ。彼らも上層部から無智にせられ欺瞞されてきたのである。あるいは純朴に自分たちがまだ勝てると盲信している若輩もおるのであろう。将軍たちは全く意気消沈している。現在皇国の為に真実に働いている軍人は幾たりいるのだろうか。」

 

(おわり)

表紙画像:大佛次郎Wikipediaより

その他画像:手元資料の再撮影による


北杜夫・著「どくとるマンボウ青春記」

2023年07月23日 | 読書ノート

 北杜夫・著「どくとるマンボウ青春記」

 この作品は昭和43年3月中央公論社より刊行され、平成12年10月1日新潮社の新潮文庫として発行されました。著者の北杜夫(きたもりお)は1927(昭和2)年の東京生まれで本名は斎藤宗吉。すでに2011(平成23)年に84歳で亡くなっています。北杜夫の父はアララギ派の歌人で精神科医でもあった斎藤茂吉です。北杜夫は父に抗いながらもその影響をうけ精神科医で小説家としての道を歩み、たくさんの小説やエッセイを著しました。代表的な作品には精神病院を舞台に自分の家族をモデルにした長編小説『楡家の人々』があります。著書のタイトルにある「どくとるマンボウ」とは海の呑気者・マンボウと医師で怠け者の自分を重ねたもので、その名前を冠したエッセイがシリーズ化されています。

 この本の時代背景は先の大戦の敗戦(1945年)を挟んだ戦中、戦後です。日本人の誰もがひもじい時代、腹を空かしながら若さ故に騒がしくそれでいてナイーブな毎日を送る信州の旧制松本高校生時代と、医学部に入学後作家をひたむきに目指し躁鬱気味な東北大学生として悩む日々が、著者特有の感性で生き生きと描かれています。


 「どくとるマンボウ青春記」とは何か?その答えは人それぞれで違うだろう。ただこれだけは言える。この本を読むと自分の「青春」が呼び覚まされその時の意識や精神が蘇る。老人にとっては若返りのカンフル剤になり、若者にはバカなことでも真剣に取り組むことの面白さを教えてくれるはずだ。本書の解説で歌人・俵万智がうまいことを言っている。(引用)「…本書を読みすすめていくうちに、これこそが青春時代の、一つの正しいありかたなのだ、と思われてきた。大げさに聞こえるかもしれないが、いまの日本に一番欠けているものが、ここにはあるのではないか、と。」(引用終わり)俵万智さんが言う一番欠けているものについて知りたい方、知っているがあらためて確認しようと思った方はこの本を読んだ方がいい。北杜夫氏の躁鬱的な行動がそのままエッセイになったようなところがあり、それこそが青春期なのだと理解できるはずだ。

 自分がこの本を読んだのはちょうど青春の入口と言える高校一年生の頃だ。北杜夫のエッセイは「どくとるマンボウ航海記」をはじめユーモアにあふれた内容で同年代にもファンが多く自分のクラス内でも話題になることが多かった。同級生のT君などはいまでも会話する機会があると話の中にエッセイの一節を入れてくるほどで、それがお互いを確認し合う方法にまで昇華されているほどなのである。

 ところでジャズという音楽は現在すでにムードミュージックのようなBGMとして受け入れられるものになってしまった。かつて脳や心を揺さぶった刺激的なジャズが、いつのまにか心地よいララバイに変わってしまったのだ。同様に人々を虜にした昭和の価値ある小説はさらに危機的で、いまや忘れ去られリユースの価値を奪われ誰も目にすることなく処分され読む機会すら与えられずに葬られようとしているものがある。良書や北杜夫さんのような人の書物がこの先も人々の目にとまり、新鮮な感動を与える機会が失われることがないように祈る。