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大佛次郎・著「終戦日記」

2023年08月09日 | 読書ノート

大佛次郎・著「終戦日記」

 大佛次郎(おさらぎじろう)氏は1897(明治30)年、横浜市生まれ。本名は野尻清彦(のじりきよひこ)。鎌倉の大仏の裏手に住んでいたことが大佛次郎の筆名の由来。「鞍馬天狗」「赤穂浪士」「霧笛」「冬の紳士」「天皇の世紀」など、時代小説、現代小説、エッセイ、ノンフィクションなど多くの作品を発表し続け、1973(昭和48)年逝去。作品の多くには健康で人間味溢れる大らかな人格を持った主人公が描かれており、戦中戦後を通じ苦しい時代にあっても作品を読む人に元気をご褒美として与えてくれた。

 この書籍を今回取り上げ一部抜粋も含めて記載した理由は、大佛次郎氏の鞍馬天狗のような正直なものの見方で戦争について感じたことを、あらためて記録し共有したかったからだ。

 大佛次郎氏については、文豪に相応しい数多くの作品を残しており、また折に触れてあらためてノートをまとめ説明していくことにする。


 「終戦日記」は1944年9月から記されている。この終戦がさす戦争は、先の大戦(満州事変以降の対中国戦争と太平洋戦争・1931~1945年)のこと。戦争中の作家の生活が記録されておりリアルな日常を垣間見ることができる。知る由もない作家の暮らしだが、空襲警報を気にしながら原稿を書き、定期的に新聞社や出版社へ出来上がった原稿を渡す日々だ。鎌倉で酉子(とりこ)婦人と女中、十五匹の野良猫たちと暮らし、日に日に敗戦色が強くなる中で、ラジオの大本営発表(国の統帥部が発表する戦況情報)に耳を傾けている。


 日記の冒頭には「物価、といっても闇値を出来るだけくわしく書き留めておくこと。」としており、小説家というより政治経済や人々の営みを常に気にしている大佛氏の心情がうかがえる。しかし本人は友人や仕事仲間とこの時期でも配給や闇で手に入れたビールや日本酒を酌み交わしタバコも吸っている。「欲しがりません勝つまでは」や「贅沢は敵だ」というスローガンを強制され我慢の日々を強いられていた戦争中に、一本のビールが飲めるだけでも普通の庶民に比べるとだいぶ優雅に見えてしまう。

 戦争に必要な鉄や物資は軍のために徴収され食糧も不足する中で、例えば次のような記録がある。(ただし1944年9月時点な為、その後ものはどんどん値上がりしたり手に入らなくなる。)

・タバコは二箱で一週間持たせる配給

・ビールを闇でさがし飲む

・三円の鉄兜が七円五十銭

・豆腐を買う際、豆一升を持ち込むと豆腐十丁になるがあと70銭支払う

・食用油一升百円(現在の価値で20,000円)

・砂糖三百円

・ビール一本五円(現在の価値で1,000円)、銀座のバーなら十円

 ところで戦時下だが、大佛氏はトルストイ(帝政ロシアの小説家)の「戦争と平和」を読み続けている。反政府的で非暴力主義のレフ・トルストイだが、大佛氏は戦争やその描写にも興味をそそられていたのだ。1944年11月9日、「スターリンが日本を侵略国として扱った」ことに注目し驚いているが、まだ日本が勝つと信じている。このあと冬になるといよいよ空襲警報や警戒警報が発令される頻度も増す。しかしこの時点ではラジオから流される敵艦へ与えた損害を聴いて一喜一憂しており、また米国爆撃機・B29を迎え撃ち40撃破したとする放送を聞き胸がスッとしたとしている。

 ただし近所の下士官が戦場で死んだと聞いて暗い気持ちになっている。また生活に困窮している訳ではないが次第に物が手に入りにくくなっている状況について先行き不安になり始めている。


(1944年11月10日の日記より引用)

「――皆の話から。

○人員不足の為に東京では巡査派出所を閉鎖せしもの目立つ。○暗いのと工場帰りの娘たちの帰りを案じ駅は迎いの母親や娘で混雑している。〔時節がら男装のもの多しと。〕○京都では不良少年少女と密淫売がふえている。河原町どおりの京極寄りの舗道を歩いているのは堅気、逆側の舗道を歩く者は不良の徒が大部分だと云う。裏の方にいかがわしい家が多いからである。○京都でこの秋の松茸の配給は二回なりしと。○宮川町の茶屋は営業しているが三百軒戸数があると娼妓は百五十名で二軒の家に一人と云うことになる。これに置きやの娘分として残っている芸者が闇で物資を持っていて電話をかけると客の前に現れ、ぜんざい白米酒などを高い金を取る仕組み也と。三味線でなくて物を持った芸者と云うのができたわけである。牛肉も松茸もこの連中だと持っている。○国民酒場に与太者の縄ばりが出来上り喧嘩や袋叩きが多いので素人の客が近寄りにくく成っている。この現象は東京も同様とかにて読売に投書が出ていた。○上海では家の下宿の居住に権利がつき借り手が一万円ぐらいを取って家主と関係なく譲る。二千円の収入あるものが家族を日本に帰し、これに300くらい送り、あとの金で僅かに生活している。――」

(1944年11月18日の日記より引用)

「『主婦の友』の最新号を見ると表紙のみか各項毎に『アメリカ人を生かしておくな』と『米兵をぶち殺せ』と大きな活字で入れてある。情報局出版課の指令があったのを編輯者がこう云う形で御用をつとめたのである。粗雑で無神経な反対の効果を与える危険に注意が行き届いていない。つまり事に当たった人間が粗末なのである。我が国第一の売れ行きのいい女の雑誌がこれで羞しくないのだろうか。日本のためにこちらが 羞しいことである。珍重して後代に保存すべき一冊であろう。日露戦争の時代に於いてさえ我々はこうまで低劣ではなかったのである。」


 やがて、レイテ島での敗退が伝わる頃になると、夜は灯火管制で仕事ができなくなる。しかし知り合いと台所でビールや日本酒を酌み交わす日常がわずかだが残っている。

 年が変わり昭和20年になると戦況が厳しさを増し、2月には小型敵機の編隊が鎌倉の上空を横切るようになる。警戒警報、空襲警報が度々発令されその都度仕事の中断を余儀なくされる。3月には東京大空襲があり以下の件が記されている。


(1945年3月9日の日記より引用)

「……前回よりもひどい火事である。浜松町附近、桜田門、司法省燃えているという。白木屋も炎上中、浅草観音も燃え、本所は江戸川附近まで焼け野原である。焦死体(ママ)もまだ片付けずにあり電車の中へひどい火傷をしたのが乗って来るという。陸軍記念日なのだが惨憺としたものである。」

(1945年3月14日の日記より引用)

「……身もと不明の焼死体がまだ七八千残っているのを鳶口で片附けている由。惨憺たるものなり。浅草観音堂は震災にも焼けざりしを以ってここは大丈夫と三千人の群衆詰めかけ焼死すと。(略)……罹災地に捨子を見るようになりしと。悲惨目を蔽わしむることなり。救済の方法など政府は全然持たず、乾パン少量と握飯を時を遅れて給せしのみ。罹災証明書なければ配給もされず、その交付を受くる為行方不明の区役所を探す。」

(1945年3月15日の日記より引用)

「……○東京の惨状の話いろいろと耳にす。亀田氏の話では日本石炭社長の一家五人はバケツを持ちしまま焼死しいたりと。路上にも同じ焼死体あり女子供の死者多きことにて手をひきたるままのものなど見るに忍びずと。(略)……○顔面火傷の多きは油脂焼夷弾に水をかけるため火飛びて粘着する為なり。焼夷弾は巨大のものにて殆どバケツの水などの及ぶところにあらず、急遽指導を改めるべきなるもその話なし。」


 7月になると艦砲射撃(※筆者註:この場合、陸上に向けて艦に搭載した大砲により攻撃すること)も激化し、敵艦載機が間断なく分散来襲し千葉や藤沢といった近辺にも迫って来ることが日常化している。人々もすでに仕事に手がつかない状態だと嘆いている。都会では戦争の雲行きが怪しくなり敗戦色が濃厚になってきた状態に気づきはじめているが、田舎ではまだそこまでの情報理解がされておらず、「敗けるというと怒られそうな空気だ」としている。さらに8月になると軍の好き放題が農村にも影響を与え始め、一日二十貫の野菜を部隊に供出するよう命じたり、海軍の部隊が普通の住宅に休ませるよう迫り、大声で勝手なことを話したり女性は間も無くどうにでもなるといった暴言を吐き散らし迷惑をかけている。また高射砲陣地を築くのに、他所に空き地があるにも関わらずナス畑に引き入れめちゃくちゃにするなどの行為も目立っておりこの他にも細かく情けない話の記載が目立ってきている。

 8月6日。広島に原爆が投下されたが情報がなかなか伝わってきておらず、むしろ荒んできている世相についての言及が多い。しかし8月7日には次の記述がある。


(1945年8月7日の日記より引用)

「……広島に敵僅か二機が入って来て投下した爆弾が原子爆弾らしく二発で二十万の死傷を出した。死者は十二万というが呉からの電話のことで詳細は不明である。(略)……トルウマンがそれについてラジオで成功を発表した。(よし子の話だと七時のニュウスで新型爆弾を使用しこれが対策については研究中と妙なことを云ったというが)十日か十三日に東京に用いるというのである。他の外電は独逸の発明に依ると云っているが、米国側では一九四一年からの研究が結実したと発表している。」

(1945年8月8日の日記より引用)

「……正午のラジオも広島に触れず、小型機の持って来るロケット爆弾がそう大した威力のあるものでないと云う説明。警戒は必要だが安心しろというわけである。」

(1945年8月9日の日記より引用)

「……七時のニュウスで五時の大本営発表を伝える。(略)……新型爆弾に対する機能と同じ注意、毛布などかぶれを繰返す。国民を愚かにした話である。真偽は知らず、今日は長崎に同じものを投下したというが一切発表はない。隠すつもりらしいのである。広島の死傷十三万五千と云うが一発ごとにこれに近い犠牲があるとしたら十日で百万に及ぼう。」


 すでに敵爆撃機が編隊を組まず一機姿を表すだけでも原子爆弾を投下するのではないかと心配するようになってきている。しかし家の中にいる間は安泰な状況だと感じようと努めているようで、蚊帳の中で眠れることを喜ぶ大佛氏自身のことも記している。そんな中で、8月11日には東京の知人を通じポツダムの提議に応じ無条件降伏することを知る。そして、8月15日をむかえる。


(1945年8月15日の日記より引用)

「晴。朝、正午に陛下自ら放送せられると予告。(略)……予告せられたる十二時のニュウス、君が代の吹奏あり主上親ら(みずから)の大詔放送、次いでポツダムの提議、カイロ会談の諸条件を公表す。台湾も満州も朝鮮も奪われ、暫くなりとも敵軍の本土の支配を許すなり。覚悟しおりしことなるもそこまでの感切なるものあり。世間は全くの不意打のことなりしが如し。人に依ては全く反対のよき放送を期待しありしと夕方豆腐屋篠崎来たりて語る。」


 大佛次郎氏は、終戦(敗戦)直後の9月3日に内閣参与に任命される。(鞍馬天狗の如く)日本の復興と平和を目指すに必要な人と認められたからである。

 最後に大佛氏が敗戦に伴い日本政府と軍部に対する怒りを書いた8月22日の日記を記載して締めくくることにします。

 ここまでお読みいただきありがとうございました。


(1945年8月22日の日記より引用)

「……長崎の惨状が毎日新聞に写真が出た。大本営の発表は損害は軽微なりとありしが、実は一物も存せざるような姿である。敵側は地形のせいか完全に効果があったと発表していたのだ。どうしてこういう大嘘を平気でついたものだろうか。これが皇軍なのだから国民はくやしいのである。部下が盲動しているのも取り締れぬ筈だ。彼らも上層部から無智にせられ欺瞞されてきたのである。あるいは純朴に自分たちがまだ勝てると盲信している若輩もおるのであろう。将軍たちは全く意気消沈している。現在皇国の為に真実に働いている軍人は幾たりいるのだろうか。」

 

(おわり)

表紙画像:大佛次郎Wikipediaより

その他画像:手元資料の再撮影による



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