寺田寅彦「震災日記より」について
参考書籍:『寺田寅彦・著「ピタゴラスと豆」』
(1949年角川書店から刊行された「ピタゴラスと豆」を底本とし、令和2年8月25日角川ソフィア文庫から発行された)
<本書について(本書より)>
「自分に入用なものは、品物でも知識でも、自分で骨折って掘出すより他に道はない」(「錯覚数題」)。芸術感覚にあふれ、文学と科学を鮮やかに融合させた寺田寅彦。随筆の名手が、晩年の昭和8年から10年までに発表した、科学の新知識を提供する作品を収録。豆のために命を落としたピタゴラスの悲劇について書いた表題作をはじめ、関東大震災の記録「震災日記より」「猫の穴掘り」「糸車」等全23篇。解説・角川源義、鎌田浩毅
<著者・寺田寅彦氏について(本書より)>
寺田寅彦(てらだとらひこ)。1878~1935年。東京生まれ、高知県で育つ。東京帝国大学物理学科卒業。理学博士。東京帝国大学教授、帝国学士院会員などを歴任。東京帝国大学地震研究所、理化学研究所の研究員としても活躍。物理学者、随筆家、俳人。著書に「蒸発皿」「万華鏡」「柿の種」「蛍光板」などがある。
○天災と寺田寅彦氏
寺田寅彦氏といえば著名な物理学者でユニークな随筆家というイメージしか持ち合わせていなかった。そんな自分がこの書籍を取り上げて何か書こうとすること自体おこがましいが、著者の関東大震災での被災を生々しく綴った「震災日記より」は記憶しておきたい書籍だと思いここに載せることにした。
そもそも「天災は忘れられたる頃来る(天災は忘れた頃にやって来る)」という名言は寺田寅彦氏のものだ。しかし関東大震災から100年が経つ今忘れてはならないことであり、震災に関連し知らなかったことを知ることは大切なことだ。一部を抜粋し共有する。なお取り上げた「震災日記より」はエッセイ集「ピタゴラスと豆」のエッセイの一つとして収められている。
○「震災日記より」
(1923.8.26-9.1発災時)
数日前から前兆現象にあたると思われることを記録しており、例えば震災発生の6日前の大正12年8月26日(震災発生日・9月1日)の夕刻に珍しい電光が西から天頂へかけて空に見えたとしている。また震災当日の朝には暴雨が断続的に繰り返される珍しい降り方があったと書いている。
地震の揺れを感じた時に寺田氏は上野の喫茶店で打ち合わせをしていたのだが、初めは細かい揺れを感じ「(引用)椅子に腰かけている両足の蹠(うら)を下から木槌(きづち)で急速に乱打するように感じた。」としている。そのうち大きく揺れ始めると「(引用)その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありありと想出され、船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。」と物理学者らしく表現し、初めの揺れがおさまった直後に再度急激な激しい波が来たと振り返ってびっくりしている。
(1923.9.1発災その後)
地震がおさまり喫茶店の外に出てみると人々は茫然と空を見上げている。誰もが状況を把握できずなす術を失っている様子を観察し、その後「(引用)…東照宮前の方へ歩いてくると異様な黴臭(かびくさ)い匂いが鼻を突いた。」として、多数の家屋が倒壊したことに気づき、さらに東京じゅうが火事になると事の連鎖を直感した。異変を呑み込むことができたのは、上野東照宮の境内の石灯籠(いしどうろう)が北側に向け全て倒れていたり、不忍弁天の社務所が倒れかかっているのを目の当たりにしてからだ。ここでようやく自宅のことに思いが及び帰ろうとするが、道路には畳の上に病人を寝かせていたり、頻繁に襲ってくる余震に煉瓦壁があらたに倒れるのを見て、地盤の弱い低湿地の街路は危険と判断して団子坂に向かう。学者としての冷静な考えがここにも生きている。「(引用)団子坂を上って千駄木に来るともう倒れかかった家などは一軒もなくて、ところどころ瓦の一部剥(は)がれた家があるだけであった。」
しばらくすると東京帝国大学の医化学教室が火事だと連絡が入り、続いて予想通り市中のいたるところで出火していることを知る。立ち昇る煙を噴煙のように感じ独特の表現で次のように書いている。「(引用)縁側から見ると南の空に珍しい積雲(せきうん)が盛り上がっている。それは普通の積雲とは全くちがって、先年桜島(さくらじま)大噴火の際の噴雲を写真で見るのと同じように典型的のいわゆるコーリフラワー状のものであった。」(「コーリフラワー」とは当時の呼び方で、現在では「カリフラワー」のこと。)
(1923.9.2)
町中は電車の音もせずしんと静まりかえっている。が、火災は夜通し続き九月二日になっても燃え続け浅草下谷は黒煙と炎の海だと書いている。この日の日記には変わってしまった街の様子が描かれており臨場感がある。いくつか引用する。「(引用)…煙の奥の方から本郷の方へと陸続と避難してくる人々の中には顔も両手も火膨(ひぶく)れのしたのを左右二人で肩に凭(もた)らせ引きずるようにして連れてくるのがある。」、「(引用)明治大学前に黒焦の死体がころがっていて一枚の焼けたトタン板が被(かぶ)せてあった。」、巡査が来て「(引用)…放火者が徘徊するから注意しろ」と言ったそうで「(引用)井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえてくる。」これについては学者らしく次のように書いている。「(引用)こんな場末の町へまでも荒らして歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその説は信ぜられなっかった。」
震災に纏わる記述はここに書いたものだけではない。ぜひ「ピタゴラスと豆」を手にとって「震災日記より」をお読みいただき災害に備える心をあらたにしてもらえればと思う。
余談。わたしは群馬県高崎市の出身だが、子供の頃に関東大震災の話になると年寄りが100キロ離れた東京の方角が夜でも夕焼けのように赤く明るかったと話してくれた。寺田氏も知り合いから地震と噴火を紐付けた次のような話を聞いている。「(引用)地震当時前橋に行っていた人の話によると、一日の夜の東京の火事はちょうど火柱のように見えたので大島(おおしま)の噴火ではないかという噂があったそうである。」
この書籍に掲載された随筆は「震災日記より」のみならず、夏目漱石の弟子でもある寺田寅彦氏の物事を観察する視点の面白さを存分に味わうことができる。いくつか挙げてみると、夜間の防空演習時に灯火を消さずに営業し続けた風呂屋(銭湯)が客から英雄として讃えられた話、海外のSF小説で宇宙から来た住民が地球の黴菌に対する抗毒素を持ち合わせず全滅するストーリーを元にマスク着用の是非を現在のコロナ禍と同じように考える話、人気のショーを見るために切符を購入し並列させられると開演の入場までにどれくらいの無駄な待ち時間が必要になるか考える話、日本人の生活がだんだん西洋人のようになってきているので髪の毛も黒から金色に変化するのではないかという話、等々。90年も前の話をしているにも関わらず現在の感性で今のことを語っているような新鮮さを覚える。少しでも興味が湧いた方がいらっしゃればぜひお読みください。
(おわり)