ブッダの樹ブログ

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坊主のひとりごと

2020年02月18日 | ブログ


法然様が43歳の時、比叡山を離れ京の町場に降り、今までお山の上で、僧侶達が、ある種独占していた、仏教を広く民衆に開かれました。源平のいくさ真っ只中、主人を亡くし、流行病や、飢饉などに苦しむ民衆にお念仏は、あっと言う間に広がっていきました。しかし、心良く思わないのは、旧仏教側でした。南都や比叡山、朝廷に念仏停止などを訴えます。法然様が74歳の頃、事件が起こります。弟子の住蓮、安楽が、御所宮中に仕える女官二人をやもえず、黒髪を剃り、尼にしてしまいます。たまたま、後鳥羽上皇は熊野詣でお留守のときでしたが、お帰りになった上皇が激怒され、住蓮と安楽は、打ち首。師匠の法然様も、その責任ありと言う事から、流罪が言い渡されます。なんと言う事か!お嘆きになったのが、関白兼実公でした。何とか流罪だけは、避けたいと働きかけてくださいますが力およばず、ただ関白が、力の及ぶ讃岐に流罪が決まります。法然様は、還俗した形で、藤井元彦とゆう名を下されます。おん年75歳。
弟子達は、暫くお念仏を止めてください!と申し出ますが、私は処刑にされても、民衆にお念仏を勧めます。辺鄙の地にお念仏を弘める良い機会です。これは朝廷の恩だとおもいます。と讃岐に渡られます。しかし、恩赦があり、九ヶ月程で、流罪のお許しが出ますが、ただ都入りは許されず箕面の勝尾寺に約4年留まられ事になります。

擁護して下さった関白兼実公は、法然様より先に亡くなりますが、最後中納言藤原光親に遺言をのこされました。「法然様を都にお戻し出来なかった事、残念で仕方がない。どうか、私に代わって貴方が働きかけて欲しい」と。

建暦元年7月ある夜後鳥羽上皇は、夢をご覧になります。三十三間堂をお参りした夢で、粗末な衣の僧侶が近づたかと思うと「貴方は大変な事をされましたな!あの法然様は後白河法王や先の高倉天皇に戒を授けられた誠に尊きお方。俗なを付けて流罪になさるなどもっての他、五逆罪に値しますぞ。」
そこで目覚めた上皇は、中納言藤原光親に相談。中納言は、今しか無いと言う思いで、上皇を説得。建暦元年11月ようやく都入りを許され京都にお戻りになり、年の明けた建暦二年正月二日当たりからお食事も、とられなくなり、11日、一点を見据えて瞬きを暫くされないので弟子達が、仏様がお迎えなんですか?と尋ねると、はい。まさに眼前に阿弥陀様と観音勢至さまが、おられます!お前達にも拝めますか?いいえ!見えません。そうか、しかし、御来迎は、間違いありません!お前達もしっかり念仏精進するように!とさとされ。
23日源智の願いに応えて一枚起請文を残して25日昼前、自ら光明遍照の文をお称えになり、お念仏を申しながらご往生を迎えられます。息が止まってからも、まだ唇だけは十遍ばかり動いていたそうです。