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拾い読みノート

本の検索の記録、つぶやきの再利用など。

比企の讃岐局(若狭局?)の祟り(吾妻鏡)

2023-07-15 20:00:00 | 歴史
祟りの定型文か、実際に症状があって回復することもあったのか?
文応元年(1260)、北条政村(1205-1273)は執権になる前の連署、若宮別当は隆弁(1208-1283)?

新刊吾妻鏡 巻第49(寛永3 1626)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2599740/1/35
文応元年 十月小
十五日 己酉 相州《 ノ》政村《マサムラ》息女邪気《 キヲ》煩《ワヅラヒ》。今夕殊《コトニ》悩乱《ナウランス》。比企《ヒキノ》判官女《 ガ ムスメ》讃岐局霊《サヌキノツボネガレウ》祟《タヽリヲ》為《ナスノ》之由《 シ》。自詫《シタクニ》及《 フト》云云。
件《 ノ》局大虵《 ジヤト》為《ナリ》頂《イタヽキニ》大《ナル》角《ツノ》有《 テ》。
火炎《 エンノ》如《ク》。常《 ニ》苦《クヲ》受《ウケ》當時比企谷《 カヤツノ》土中《ニ》在《ルノ》之由《シ》。言《コトバヲ》発《ハツス》。之《 ヲ》聞《キケハ》人身毛《ミノケヲ》竪《タツト》云云

https://dl.ndl.go.jp/pid/2599740/1/40
(十一月大 廿七日)
今日相州政村 一日経《 キヤウヲ》頓寫《トンシヤセ》被《 ル》。是《 レ》息女邪気《 ニ》悩《ナヤマサル》。比企《ヒキノ》判官能員《 ヨシカズガ》女子《 ノ》霊託《レウタクニ》依《 テ》。彼《 ノ》苦患《ククワンヲ》資《タスケン》為《 メ》也《ナリ》。
夜《 ニ》入《 テ》供養《 ノ》之儀《ギ》有《 リ》。 若《ワカ》宮《 ノ》別當僧正《 ヲ》請《シヤウシテ》昌導《シヤウダウト》為《 ス》。
説法《 ノ》最《サイ》中《 ニ》。件《 ノ》姫君《ヒメギミ》。悩乱《 シ》舌《 ヲ》出《 シ》。唇《クチビルヲ》舐《ネブリ》。身《 ヲ》動《 シ》。足《アシヲ》延《ノブ》。
偏《ヒトヘニ》蛇《ジヤ》身《 ノ》之出現《 セ》令《 ルニ》似《ニテ》。聴聞《 ノ》為《 メニ》霊気来臨《 スルノ》之由《 シト》云云。
僧正加持《 セ》令《 ルノ》之後《 チ》。惘《バウ》然《 トシテ》而言《 ヲ》止《ヤメ》。眠《ネムルガ》如《 ニシテ》而複《フク》本《 スト》云云。

鬼殿の由来話(古事談 続古事談)

2023-07-13 23:11:14 | 歴史
藤原朝成が怨恨で生霊(続古事談では怨霊?)になったという、鬼殿の由来話。
古事談と続古事談は鎌倉時代初期の説話集。続古事談は対抗的な異なる解釈?

古事談 第二 臣節
https://dl.ndl.go.jp/pid/3441719/1/30
其後摂政受病遂薨逝 是朝成生霊云々 依之今一條摂政子孫不入朝成旧宅 三條西洞院也 所謂鬼殿歟

続古事談 第二 臣節
https://dl.ndl.go.jp/pid/3441719/1/119
一條摂政(伊尹)は、みめいみじくよくおはしけり。 ~ 此の御子義孝の少将も、みめよかりけり。往生しける人なり。其事ことふりたれば書かず。此大臣と朝成中納言とは、うらみを結びて、怨霊になるとぞ、さて其子孫は、三條西洞院の朝成が家に不入とぞ申す。


『続古事談』と『古事談』 : 似て非なるもの
https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.46.5_35

一休宗純 賛法然上人

2023-07-12 23:56:31 | 歴史
狂雲集(『国訳禅学大成』第十九巻 昭和5)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920759/1/178
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920759/1/217

賛法然上人
法然伝聞活如来、安坐蓮花上品臺、教智者如尼入道、一枚起請最奇哉


誓願寺の一休和尚の書?は漢詩が異なる? 都名所図会の文も実物とは少し違う?

『都名所図会』天明6 誓願寺
https://dl.ndl.go.jp/pid/2555343/1/41
https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_059.html
一休本 版本新褶 京都 誓願寺蔵
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_KK000800005430

傳聞法然活如来
安坐蓮華上品䑓
尼入道同愚痴輩
一枚起請文最奇哉
南無阿弥陀佛虚堂

此外達磨虚堂いらぬもの
唯法然思おしへを
一大事与奉存我等
今日より浄土宗に
成申候穴賢/\
應仁二年三月五日
薪酬恩菴主 一休 (印)
佛御所様

木曽義高と海野重氏の歌(平家物語)

2023-07-11 23:35:55 | 歴史
平家物語 長門本の木曽義隆(義高)と海野重氏の歌。
「はやきつる」は「我が(ワカ)来つる」の誤写かも。

平家物語 長門本 巻十三
https://www.digital.archives.go.jp/img/3669934/36

清水冠者には おなしとしなる さふらひ二人うふこやの太郎行氏海野小太郎重氏といひける物をそ つけたりける
清水冠者は みちすから なきけれは いかにかくは わたらせ給そ おさなけれとも 弓矢の家にむまれぬるは さは候はぬ物を まさなしと申けれは 義隆かくそいひける
はやきつるみちの草はやかれぬらん あまりこかれて物をおもへは といらひたりけれは 重氏
思には道の草はもよもかれし 涙の雨のつねにそゝけは

武者鑑 一名 人相合(丹後局、畠山重忠、木曽義高、大姫)

2023-07-08 00:30:52 | 歴史
一猛斎芳虎『武者鑑 一名人相合 南伝二』(安政6)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1312408/1/1

「人相合」は、にんそうあわせ でしょうか。古人の人相をからめた話。

「丹後局」の「西国に連綿たる源氏」は島津氏で、初代の惟宗忠久が源頼朝と丹後局の子という伝説によった話。

丹後局《たんごのつぼね》
局《つほね》は優《ゆう》にやさしき女性《によしやう》なれば頼朝《よりとも》深《ふか》く寵愛《ちやうあい》をなし給ふによつていつしか懐妊《くわいにん》ありける由《よし》を御䑓所《みだいどころ》の聞《きゝ》玉ひて嫉妬《ねたまし》きことに思《おも》ひ何卒《なにとぞ》してなきものにせんと腹心《ふくしん》の者《もの》に言付《いひつけ》て局《つぼね》を由井《ゆゐ》が濱《はま》に人《ひと》しらず殺《ころ》させんとし給ふを重忠《しげたゞ》は四相《しさう》をさとる人なれば局《つぼね》の死相《しさう》あるを視《み》て大いに驚《おどろ》き是《これ》御䑓所《みだいどころ》の嫉妬《しつと》に殺され給ふらんとて計事《はかりごと》を廻《めぐ》らして西国《さいこく》の方《かた》へ落《おと》しまいらす
途中《とちう》摂州《せつしう》住吉《すみよし》の境内《けいだい》にて目出度《めでたく》若君誕生《わかぎみたんじやう》あり 則《すなはち》此君《このきみ》を始祖《しそ》として今猶《いまなほ》西国《さいこく》に連綿《れんめん》たる源氏《げんじ》あり
夫《それ》死相《しさう》は色《いろ》を以《も》て多《おほ》く知《し》るといへば今《いま》こゝには詳《つまひらか》にせず 書《しよ》によつてもとむべし


畠山重忠の人相の出典はわかりません。よく知られた話ではない?

秩父庄司重忠《ちゝぶのせうじしげたゞ》
重忠《しげたゞ》は畠山重能《はたけやましげよし》の男《なん》なり強力無双《がうりきぶさう》にして坂東《ばんどう》に並《なら》ぶ
ものなし 然《しか》も清直《せいちよく》にして忠義《ちうぎ》金鉄《きんてつ》のごとく
戦功《せんこう》数多《あまた》ありて鎌倉《かまくら》第一《だいゝち》の忠臣《ちうしん》
なれば北條父子《ほうでうふし》豫《かね》て大望《たいもう》の企《くはだて》あれば
邪魔《じやま》なりとて重忠《しげたゞ》謀叛《むほん》のよしを
實朝将軍《さねともしやうぐん》に申《もふし》て是《これ》を不意《ふい》に
討《うち》重忠《しげたゞ》勇《ゆう》なりといへど大軍《たいぐん》に
敵《てき》しがたく愛甲《あいかう》三郎の矢《や》に當《あた》つて
死《し》す 時《とき》に年《とし》四十二才なり 人《ひと》皆《みな》
忠勇《ちうゆう》を称《しよう》して惜《をし》まぬものなし 重忠《しげたゞ》は
面体《めんてい》威《ゐ》あつて猛《たけ》からず 堂々《たう/\》たる容儀《やうぎ》あれど鼻《はな》の
根元《こんげん》に横《よこ》すじありて眼《め》の中《うち》へ入込《いりこん》でありしが
是《これ》不時《ふじ》の難《なん》にあふ危《あやう》き相《さう》なりしといふ


清水冠者義高《しみづのくわんじやよしたか》
義高《よしたか》は義仲《よしなか》の一子《いつし》なるが鎌倉《かまくら》へ人質《ひとじち》として来《きた》りけるを頼朝《よりとも》悦《よろこ》びて養子《やうし》として
大姫君《おほひめぎみ》と娶《めあは》さんとて止《とゞ》めおかれしが
義仲《よしなか》の亡《ほろ》びて後《のち》密《ひそか》に義高《よしたか》も失《うしな》はんとの沙汰《さた》あれば
附人《つきびと》として来《きた》りし海野《うんの》幸氏《ゆきうぢ》勧《すゝ》めて
鎌倉《かまくら》を忍《しの》び出《いで》て落行《おちゆく》に武州《ぶしう》
入間川原《いるまがはら》にて追手《おつて》の為《ため》に殺《ころ》さるゝ
義高《よしたか》は古今《こゝん》の美男《びなん》なれど勇《ゆう》もなく
智《ち》もなく敢《あへ》て賞《しよう》する所《ところ》なかりししが
世人《せじん》多《おほ》くは男女《なんによ》に限《かぎ》らず美貌《びぼう》を好《この》むといへど別《べつ》して男子《なんし》たるものは智勇《ちゆう》さへあれば
美顔《びがん》ならぬを社《こそ》好《よし》といふべし


大姫君《おほひめぎみ》
姫《ひめ》は頼朝《よりとも》の女《むすめ》なり させる
美色《びしよく》はなけれど飽《あく》まで貞心《ていしん》深《ふか》く頼朝《よりとも》より
義高《よしたか》に娶《めあは》さんとのことゆへ今日《けふ》や明日《あす》やと待《まつ》うちに義仲《よしなか》亡《ほろ》びて後《のち》義高《よしたか》は藤内光澄《とうないみつずみ》の
為《ため》に討《うた》れしと聞《きく》より深《ふか》く歎《なげ》き悲《かなし》みて飲食《いんしよく》更《さら》に
咽《のんど》へ下《くだ》さずありければ御䑓所《みだいどころ》は大いに驚《おどろ》き光澄《みづずみ》を義高《よしたか》
の仇《あだ》として斫《きら》しむといへど大姫《おほひめ》弥《いよ/\》眷恋《けんれん》の情《じやう》篤《あつ》く竟《つひ》に
漿水《しやうすい》を断《たち》て死《し》し給ふ 是《これ》や寔《まこと》の貞女《ていぢよ》ともいふべき 然《さ》れば
容貌《やうぼう》の清《きよ》からずとも其名《そのな》は清《きよ》く末世《まつせ》の今《いま》に高《たか》し

鶴亭秀賀筆記
一猛齋芳虎画


容貌の話で中身重視の論調にするのは当時の風潮?
容姿をほめられてむしろ侮辱に感じるという感覚も大昔からあったのでしょうか。

絵には特に人相の特徴はなく、美男美女?