夢うつつ 夢うつつ
天空の橋を渡れば そこに光
春なのか 秋なのか
季節は知れず
ただ光あり
そこは昔 垣間見た世界
あるいは 遥かなる未来
きのうまでの我は既になく
ただ虚空に溶け込むのみ
夢うつつ 夢うつつ
天空の橋を渡れば そこに光
この世なのか あの世なのか
時は知れず
ただ光あり
そこは幸福の地
あるいは絶望の地
あしたの君は姿も見えず
呼びかけても応えはない
夢うつつ 夢うつつ
夢うつつ 夢うつつ
天空の橋を渡れば そこに光
春なのか 秋なのか
季節は知れず
ただ光あり
そこは昔 垣間見た世界
あるいは 遥かなる未来
きのうまでの我は既になく
ただ虚空に溶け込むのみ
夢うつつ 夢うつつ
天空の橋を渡れば そこに光
この世なのか あの世なのか
時は知れず
ただ光あり
そこは幸福の地
あるいは絶望の地
あしたの君は姿も見えず
呼びかけても応えはない
夢うつつ 夢うつつ
人は、なに者かになると、なにものかを失うことになる。
空間のある地点に物を置こうとすると、そこには一つの物しか置けない。そこに前もって何かがあれば、その物をどかさないかぎり、他の物を置けないのと同様である。
広い空間を所有できれば、多くの物を置けるが、人間の自分自身という空間は非常に狭い。その空間には一人の自己しか存在できない。稀に二人以上の人格を所有する人がいるようだが、それは多重人格で異常なことだ。
そのため、ある者になると、それ以前の自分あるいは何者かになる可能性を失うことになる。裕福な者であっても、有名な者であっても、偉いといわれる者であってもそれは同じ。なにかしかの喪失感が付きまとう。普段は気が付かず、何の問題も無いと思っていた自分が、ある日その喪失感に気づく。自分はこれで満足なのか、自分の欲したものは本当にこれだったのか。
人間は、すべてを所有すること、すべてを体験することはできない。だから人間は輪廻転生する。自分が体験できなかった人生を体験するため、何度も何度も生まれ変わる。貧者は富者になるために、悪人は善人に、凡人は偉人に、短命だった者は長命になるため、あるいはその反対に富者が貧者に、善人が悪人に、偉人が凡人に、長命だった者が短命になるため生まれ変わる。
しかし、どんなに生まれ変わっても、やはりすべてを体験することはできない。すべてを体験しようとすると、弥勒菩薩が現れる56億7千年までかかるかもしれない。どこかで、もう満足だとあきらめるほかはない。そこでやっと輪廻転生から解放されて仏になる。
そんなことを夢の中で考えた。
笹島喜平の拓版画です
子供の頃、百年前と言えば、はるか昔と感じたものだ。
ところが、齢70を過ぎてみると、百年前がそんな遠くではなく、むしろ近い過去に思えてきた。
昭和元年も既に百年近く前になり、その頃自分の両親が生まれている。私の父や母が生まれたのが百年前と思うと、百年前がそんな遠くではなく、身近なものに思えてくるのは当然だ。
写真にあげた本は、小学館から出たものだが、発行は1883年なので、今からすれば140年前の日本が、写真として多数掲載されている。明治10年前後の日本の風景や庶民の暮らしを写したもので、洋館など新しい時代の姿とともに江戸の風情を残したひなびた風景も多い。さすがにこの時代は私にとっても遠い昔に思えるが、わずか40年で感じるものは相当違う。
こうして、百年前は身近なものになってきたが、百年後となると話は違ってくる。私が子供の頃、パソコンや携帯電話がこんなに普及しているとは夢にも想像できず、AIやIPS細胞など科学技術の発達も目覚ましい。こうした移り変わりの激しい時代では、百年後はあまりに遠い。百年後はどうなっているのか。科学技術の進歩を享受しているのか、あるいはその進歩が人間を不幸にしているのか、あるいは人類は地球を食い尽くし他の星に移住しているのか。
私にとって百年後は、はるか先の未来である。私は当然それまで生きていないが、人類にとって百年後が明るいものであることを願っている。
「百年前の日本」に掲載されている上記写真を元に、守家勤が描いた油絵です。
今日、パソコンを開いたところ、楽天銀行から楽天カードの利用お知らせのメールが来ていました。
2月8日に16万余と19万余を利用したとの確認メールですが、私には利用した覚えはありません。
カードを悪用されたのかと思い、一瞬あせりました。
その下に「利用明細の確認」があったので、クリックしてしまいましたが、ウイルスバスターが効いたのか
次の画面にはつながりませんでした。
そこで冷静さを取り戻し、楽天銀行に電話したところ、「詐欺メールではないか」とのこと。考えてみれば
楽天銀行に口座はつくっておらず、楽天カードの引き落としは他の銀行です。応対してくれた方が、カード会
社の連絡先を教えてくれたので、念のためカード会社に連絡したところ、最近の利用はないので安心してくだ
さいとのこと。
アマゾン関係の詐欺メールは度々来ますが、楽天関係は初めてだったので、少々あせりました。
皆さんもお気をつけください。
絵の値段は、あってないようなものだ。
超有名な画家の絵は、業者間でもある程度決まった価格があるようだが、それ以外は値段を付ける側の価値判断に過ぎない。
デパートや画廊で数十万円で売られている絵もインターネットオークションでは概ねその10分の1程度で取引されている。その位の絵は、ほとんどが本物で偽物は少ない。ただし、有名画家の絵が安い値段で出ているものは、ほとんど偽物である。
数十万の絵をインターネットで数万円で手に入れ喜んでも、それを古美術商などに持っていくと二束三文でしか引き取ってもらえない。美術品とは言え、有名画家以外は単なる古物、額縁代程度にしかならないのだ。普通の絵画は儲けを期待したり、資産価値を考えてはいけない。あくまで、その絵が好きか、その絵を飾って楽しみたいかで購入すべきと考える。
ただし、ポップアートのように世界的に人気が出て大化けするものもある。数十万で買ったものが何百万になることもある。アンディ・ウォーホルの絵がその代表的なものだが、数百枚も刷ることができるシルクスクリーンにそのような値が付くことは、おかしなものだと私は思う。既存芸術に反して作られたポップアート(大衆芸術)が、大衆の手に届かないものになってしまっている。皮肉なものだ。
一方、描いた絵がほとんど売れず、赤貧のまま生涯を終える画家も多い。ゴッホのように、生前は絵が売れなかった有名画家もいるが、亡くなった後も評価されず、埋もれてしまう作家がほとんどなのだ。食うや食わず、自分でキャンバスを作り、同じキャンバスを何度も塗りなおし絵を描き続ける。
そんな画家の一人が平澤熊一(1908-1989)だ。
新潟県長岡市に生まれ、建築を志して上京したが、絵画に関心を抱き、川端画学校で洋画を学んだ。池袋周辺のアトリエ村で活動したが、1950年に妻の出身地である宇都宮に移り後半生を送った。
死後、練馬区立美術館や栃木県立美術館で「平澤熊一展」が開催されたが、新潟県や栃木県以外ではほとんど知られていない。
以下は、平澤熊一の油絵やリトグラフである。