拙い句ですが、冬の6句です。
枯葉散る マイルスの 音が聞こえる
冬うらら ちょっと歩いて 買い物へ
冬の夜 やることもなく 白湯を飲む
雪や雪 懺悔のごとく 降り積もる
散歩して 誰にも会わず 寒の木瓜
くしゃみして 一輪落ちる 寒椿
痛みがあるのは生きてる証拠といわれても、体の調子が悪いのはいやだ。
左足には痺れがあり、右足の親指の爪は死んでしまった。独立歩行はできるものの、走ったりは難しい。ああ昔のように走れたら、どんなにいいか。
人生、お金がすべてではないといわれても、お金が無いのはいやだ。
これから税金の季節。固定資産税、自動車税等、毎月の年金では足らないので、貯金を切り崩す。貯金の残高が次第に少なくなっていくのは不安だ。宝くじでも当たらないものか。
老いていくのも、考え方ひとつで豊かになるといわれても、淋しいのはいやだ。
現役時代の知人とも交友はなくなった。近所付き合いもほとんどない。家族もいない。毎日黙ってテレビを見る。言葉を忘れ、たまに人と話そうとすると言葉がうまく出てこない。般若心経でも声を出して唱えてみるか。
ああ、背中が痒い!! 誰か背中を掻いてくれ!!
大江健三郎が死んだ。
「日本近代文学の、一つの終焉かもしれない」と文芸評論家の尾崎真理子氏は述べている。確かにそうかもしれない。
それとともに、仏文学者の松浦寿輝氏が追悼文の中で書いていた一文が気になった。「文学作品が若者の思想や感受性を力強く牽引していた『時代』がかってはたしかに在ったのだ」という一文だ。
自分の若き頃、文学はたしかに強さをもっていた。文学がある意味で人を変え、世界を変えうるのではないかと思える時期があった。
しかし、残念ながら今の文学にその力はない。時代が変わったせいもあろうが、芥川賞に代表される「いわゆる文学」には失望している。こんなことを書くと、時代錯誤、女性蔑視と言われるだろうが、昨今の「いわゆる文学」は「女子供の文学」になってしまった。読んでみても「なるほど」と思うだけで終わってしまう。「あなたの理解力がない、時代遅れ」と言われればそれまでだが、なんとも寂しい時代である。
もちろん、すべての小説がそうだとは思わない。「いわゆる文学」ではない小説には、いいものもある。米軍統治下の沖縄を描いた新藤順丈の「宝島」(2018年刊行)などはまさにその一冊であると思う。
最近、何十年も会っていない知人の夢を見るようになった。
虫の知らせかと思い、新聞の死亡欄を見るが、知った名前は出ていない。
ほっとすると同時に、何か気の抜けたような感じになる。
この歳になると、いつ死んでもいいと思っているが、生きている以上は生きねばならない。ものを食い、排せつをし、ものを考える。70歳過ぎても、学ぶべきことは多いが、自分の得られる知識など博覧強記の偉人に比べれば、所詮高が知れている。それでも、本を読み、YouTubeを見、ブログを読んで老化しつつある脳に刺激を与えている。
人間は、なぜ善も悪も為すことができるのか。神は悪を為した人間を罰するというが、おかしな話だ。全能の神であれば、人間に悪を為すことが出来ないように造ることも可能なはずだ。しかし神はそうせず、人間を善も悪も為すことができるようにした。すべてを人間にまかせ、神は見ているだけに徹したのだ。そうでなければ、この世にこれほどの不幸が溢れるはずがない。神は無慈悲なのだ。では神は人間に何を望むのか。それはただ経験すること、人間が死ぬまでに様々な経験をし、自分の一生を体験させること、それが神の望むことだ。だから神は、悪を為した人間を罰したりはしない。神は人間にすべての可能性を与え、善を為すことも悪を為すことも己の責任とし、見ているだけなのだ。