偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏511箆岳山(宮城)

2014年04月28日 | 登山

箆岳山(ののだけやま) 天台大師・智顗(てんだいだいし・ちぎ)

 5110 【データ】箆岳山 236メートル▼国土地理院25000地図・涌谷▼最寄駅 JR気仙沼線・のの岳駅▼登山口 宮城県涌谷町のJRのの岳駅▼石仏 箆岳山山頂の箟峯寺境内。地図の赤丸印

 5111 【案内】箆嶽山は仙台平野の北の丘陵にある小さな山。しかし、山頂の箟峯寺(こんぽうじ)は、東北の古代史に登場する大きな歴史をもつ寺である。寺の案内によると、坂上田村麻呂の蝦夷討伐後に、京都清水寺の十一面観音を勧請して観音堂を建立、法相宗の寺として奥州鎮護の祈祷道場となったという。後に慈覚大師が再興、無夷山箟峯寺と改めて天台宗の寺となった。
51125113 観音堂の裏に僧形の石像が坐す。台座には「天台大師」とある。天台大師は、慧文・慧心につづく中国天台宗の第三祖智顗(
538597)で、実質的には天台宗の開祖とされている僧である。日本天台宗の開祖最澄(767822)は渡唐して中国天台宗第六祖湛然の弟子である道邃・行満に学んでいる。日本各地に残る智顗の絵図や像を見ると、頭部に仏像の如来にみられる肉髻(にっけい=こぶのような盛り上がり)のようなコブが描かれている。箆岳山の智顗の頭も同じように盛り上がっている。箟峯寺のご住職の話では、「智顗が五体投地の修業をしているとき、頭を地面にこすりすぎたために出来たもの」だそうである。

 5114 5115 【独り言】山は箆、寺は箟と使い分けるのが正しいのかなと、このブログでは箆岳山、箟峯寺と使い分けました。国土地理院では菎に統一、地元の涌谷町も菎を使っています。箟峯寺は奥州三十三観音札所の9番。箆嶽山の山頂まで車道が通じていて参拝者が絶えません。観音堂の裏には、先代の住職が育てたというカタクリが咲き誇っていました。東北でもカタクリの群生は珍しいのでしょう、大勢の人が車で登ってきます。
5116 5117 境内にある白山堂の横には「無夷山ト號ス/箟ノ宮/田村将軍建之」銘がある石塔が立っていました。ご住職は〝ののみや〟と読んでいました。東北の名刹を感じさせる銘の石塔です。田村麻呂がこの地を重要視したのは、箆岳山の西山麓にある金(砂金)だったようです。そこに建つ黄金山神社の案内には、我が国で最初に金を産出した地とありました。黄金の国ジパングといわれた日本も、奈良時代以前は国内で調達することができなかったようです。案内によると、東大寺大仏建立の折、大仏を鍍金する金が不足していたときに、この箆岳山の山麓から金が出て献上されたそうです。天平
21年(748)のことでした。大仏開眼は天平勝宝4年(752)田村麻呂が蝦夷地を平定したのは延暦20年(801)です。

 

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石仏510男抱山(栃木)

2014年04月25日 | 登山

男抱山(おとこだきやま) 連結石祠(れんけつせきし)

5100 【データ】男抱山 338メートル▼国土地理院25000地図・大谷(地図に山名無し。半蔵山の南、田口集落東の338標高点)▼最寄駅 東北本線・宇都宮駅▼登山口 栃木県宇都宮市新里町。地図の青丸印▼石仏 男抱山の中腹。地図の赤丸印

5101_2 5102_2 【案内】男抱山の中腹に祀られた石祠は、三柱の神を一緒に祀るように造られていて、この形式の正式な名称はわからないので、とりあえず連結石祠とした。神社の境内に勧請した神々を横長の一棟の木祠にして祀る例はよくみるが、石祠は珍しい。平地でも見ることが稀な連結石祠を山中に祀ったのは、合理的という安易な発想ではなく、三柱の神を一緒に祀ることがふさわしいと判断してのことだろう。関東の山に勧請した神々で石祠を三基ならべるのは、大山の石尊・大天狗・小天狗がある。このブログの彦谷・湯殿山(栃木)で案内した出羽の月山・湯殿山・羽黒山もあり、木曽の御嶽・八海山・三笠山なども考えられる。これらの神のいずれかを祀ったものと思われる。地元の人に尋ねればすむことだが、知る人には会えなかった。連結石祠の脇にもう一つの石祠がある。これは金比羅山であろう。登山口に立っていた鳥居には「金比羅山」とあったらしいが、いまその鳥居は石段とともに崩れ落ちてしまった。

5104 5105 【独り言】男抱山登山口の鳥居と石段は、この2月の大雪で倒れた木と一緒に崩れたようです。2月に降った関東の大雪は、里山の木々にとって大きな痛手となってしまいました。これまでも春の水分を含んだ雪は、杉などを折り倒したことはよくありました。しかし今回は千葉の房総の山まで大量の雪が積もり、普段折れることがないカシやスダジイまで被害が出てしまいました。その結果、普段でもあまり人が入らない荒れた里山の道は、ますます荒れてしまったようです。それでも驚くのは、地元の人による復旧作業で、林道などをふさいだ倒木は切られ、崩れた登山道も迂回路が造られたりしていることです。男抱山の道も、かつての石段の手前に新しい道ができていました。

 

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石仏509半蔵山(栃木)

2014年04月22日 | 登山

半蔵山(はんぞうやま) 福禄寿(ふくろくじゅ)

 5090【データ】半蔵山 502メートル▼国土地理院25000地図・大谷▼最寄駅 東北本線・宇都宮駅▼登山口 栃木県宇都宮市新里町の田口集落▼石仏 半蔵山の山頂。地図の赤丸印。青丸は男抱山

 5091【案内】田口の集落から半蔵山の東の峠まで林道が通じていて、山頂へは一投足である。この日は、田口集落の東にある男抱山を経由して尾根通しに半蔵山へ登った。この尾根には最小限の道標が立っている。
50925093 ここに案内する福禄寿は、半蔵山山頂の北の岩に祀られた石祠の前に置かれている小さな石像。長い頭に長い髭。右手はその髭をおさえ、左手で曲がった杖をつく。頭部と髭で、高さで
22センチのほとんどを占めているこの姿は、福禄寿しか思い浮かばない。福禄寿は道教の神で、幸福・財産(禄)・長寿を叶えてくれる福神で、その根源は南極星の精。南極老人、寿星ともいわれたという。日本では七福神の一員として信仰されたが、単独での信仰はない。江戸時代の『仏像図彙』の七福神には、長い頭部と髭で杖をつく老人を〝寿老〟とし、毘沙門天・弁財天・恵比寿・大黒天・布袋、それに吉祥天を入れて七神としている。福禄寿と寿老人は同じ南極星の精とする考えから、寿老としたのである。半蔵山の石祠が何の神を祀っているかはわからないが、この石祠と福禄寿は関係がなく、だれかが持ち込んで置いたものであろう。それにしても小さな可愛い姿である。

5094_2 【独り言】山の中で大きな岩を見ると、何か神仏が祀られているかもしれない。こんなことを考えながら山を登るものですから、時間がかかってしまいます。それに神仏が祀られていたことはほとんどありません。半蔵山の福禄寿がある岩も神を祀るには格好な場所で、下に降りてみると上部が欠けた「□嶽三社大神」の石塔が倒れていました。御嶽三座神のことかな、と欠けた上部が転がっていないかと探しましたが、ありませんでした。石塔があっただけ、ラッキーでした。

 

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石仏番外 頭高山(神奈川)

2014年04月18日 | 登山

頭高山(づっこうやま) 徳本(とくごう)

5080 【データ】頭高山 303メートル▼国土地理院25000地図・秦野▼最寄駅 小田急線・渋沢駅▼登山口 神奈川県秦野市曲松の渋沢駅▼石仏 頭高山登山口の泉蔵寺。地図の赤丸印

 5081 5082 【独り言1】徳本 頭高山は丹沢山麓の渋沢駅の南に広がる渋沢丘陵の西にあります。その登山口にある泉蔵寺の境内に〝徳本〟の石像が祀られていました。寺の案内には「漢方医学に詳しく病の人々の治療に努め 江戸時代には甲斐駿河相模へと行脚され 当山にも滞在された5083 50831 と伝えられている。近郷の人々からは徳本さんと親しまれ 安産を祈って念仏が唱えられていた」とありました。ここでは、医者であり念仏も唱えるという徳本像が描かれています。江戸時代までは医者=僧侶でしたから、この案内はもっともな内容です。ところが江戸時代には初期に医者として活躍した徳本と、江戸時代中期に念仏を布教した徳本行者がいます。
 念仏布教の徳本は、彼独特な筆跡の名号を刻んだ名号塔が各地に立てられ、よく知られています。ところが泉蔵寺のように像容のある徳本も若干立てられていて、これを医者の徳本とするか、念仏の徳本とするかで迷ってしまいます。泉蔵寺の案内は、医薬の徳本に重きをおきながらも、どちらとも取れる案内になっています。『日本仏教史辞典』(平成
11年、吉川弘文館)の徳本(とくほん)には、泉蔵寺とおなじ頭巾を被った像容で、阿弥陀の定印の念仏行者・徳本図が掲載されています。また、『日本石仏図典』には泉蔵寺の像を、念仏行者・徳本(とくごう)として紹介しています。したがって、泉蔵寺の頭巾を被った阿弥陀定印の徳本像は念仏行者の徳本としました。
 ところで徳本の読みですが、トクホンとトクゴウの二通りあり、ここでは『日本石仏図典』の表記をとって〝とくごう〟としました。登山歴
50年の偏平足としては、北アルプスの上高地の手前にある徳本(とくごう)峠を越えたこともあるので、この読み方に違和感はありません。その徳本峠にしても、かつて徳本が越えたことが、峠名の一つになったという伝えもあります。これがどちらの徳本なのかは、わかりません。

 5084 5085 【独り言2】十王 泉蔵寺を訪ねた4月13日は、寺のチューリップ祭の最中でした。本堂の扉も大きく開かれ、内部に祀られている石像十王も拝観することができました。寺の案内には「今から約五百年前、当寺開山行室良順大和尚が半谷(現伊丹)氏その他の人々の協力により下庭に十王堂を建てその中に安置されてありましたが紛失の恐れがあるので本堂に移せり 昭和五十八年四月」とありました。その十王、完全な形をしているのが8体と奪衣婆。残る2体は頭部はない状態での保存。真新しい本堂にはなじまないように並んでいました。
【頭高山の道祖神】

 

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石仏508頭高山(神奈川)

2014年04月14日 | 登山

頭高山(ずっこうやま) 道祖神(どうそじん)

 5080 【データ】頭高山 303メートル▼国土地理院25000地図・秦野▼最寄駅 小田急線・渋沢駅▼登山口 神奈川県秦野市曲松の渋沢駅▼石仏 頭高山の登山口にある白山神社境内のカシの木。地図の赤丸印 

5081 【案内】頭高山へは、渋沢駅の南口からかつての矢倉往還(古代からあった畿内と東国を結ぶ道。江戸時代は東海道の脇街道)を西に進んで、泉蔵寺から登りだす。渋沢丘陵の西外れになるこの一帯は、今ものどかな里山風景が残る。登りだしてすぐ、右手の森のなかにある白山神社に、ここに案内する道祖神がある。
5082 5083 丹沢山麓は、江戸時代初期に登場する僧形の双体道祖神がある、道祖神研究者には魅力ある土地。道祖神の石造物はこのブログの高松山(神奈川)でも案内したように、さまざまな形があり、なかでも僧形の双体道祖神がはじめに登場することが知られている。白山神社の道祖神もそのような像容にみえるが、この像は大きなカシの木の樹洞に入っているもので、大きさは
40センチ。全容は見ることはできない。道祖神は成長したカシの木に完全にのみこまれて、一部破壊されている。地元の人の話では、だいぶ昔からこの状態になっているという。「むかし、若者がいたずらでいれたものだろう」と、これも地元の人の推測である。したがって、この双体道祖神の全容はじめ銘の有無などはわからないが、双体道祖神であることだけは間違いない。近くの十王堂には3体の双体道祖神が並んでいるて、頭高山山麓も双体道祖神が多い。
50831 白山神社の先から頭高山の道にはいると山道になり、山頂には秋葉山の石祠と馬頭観音の文字塔が立つ。

 【独り言】丹沢山系と相模湾のあいだに広がる一帯を渋沢丘陵と呼んでいることは、丹沢の山に通いだした50年前から知っていました。ただ、沢登りに興じていたそのころは、出かける気にはならない場所で5084 5085 した。その後も足の向くことはなく、初めて訪れたこの4月13日の渋沢丘陵は春の祭りで、のどかな里山を満喫することができました。その初めは泉蔵寺のチューリップ祭。境内には露店も出て、新築なった本堂と釈迦三尊像を拝見。奥に並ぶ石造十王像も拝ませていただきまし5086 5087 た。次の白山神社では、4月29日の行われる例大祭のお囃子太鼓の練習中。氏子の皆さんが太鼓を打つ子供たちを見守っていました。そのなかの一人に教えていただいたのが、境内のカシの木の穴(樹洞)に入った双体道祖神でした。それから頭高山の山頂に咲くヒメリンドウも教えていただきました。最後は渋沢神社神輿の渡御。渋沢丘陵の下を歩いていると太鼓の音が聞こえ、母子観音を祀るお堂で本尊を拝観していると、その音とともに渋沢神社の神輿がやってきました。お堂の脇が御旅所になっていて、急に人が集まってきてビックリ。お堂で私の話の相手をしてくれていたおばあちゃんたちは、この渡御をまっていたのでした。そんなこんなで、子供のころ体験した里山の原風景を見た思いでした。
【頭高山の道祖神】

 

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屋上菜園・キヌサヤ

2014年04月11日 | 屋上菜園

14041 14042 4月は春野菜の土壌作りで大切な季節です。ところが、不覚にも我が家の外壁リフレッシュ工事とやらで、4月いっぱい屋上には上がれません、と工事行者に言い渡されました。窓や戸はすべてビニールで覆われて開け閉めできないというのです。土壌作りどころか、水やりもできないのでは、育ちはじめたキヌサヤはじめ、鉢植えにとっても非常事態です。そこで工事の人に水やりをしてもうらことで一件落着しました。今日は、しばらく見られなくなるキヌサヤを見てきました。屋上は夜間の温度が低いため、地植えより成長が遅いキヌサヤですが、順調に大きくなっています。工事が終わるころ収穫期になることを期待しています。

 

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八千代新川千本桜14-04

2014年04月08日 | 

  14041 14042 4月6日は〝千本桜の会〟の花見の予定でしたが、天候不順と低温予報のため、早々に中止の連絡が入りました。それでも昼前に新川に出かけてみると、青空がひろがり、散り始めた桜の下で花見をするグループが沢山繰り出していました。ところがこの好天も午後には怪しくなり、にわかに黒雲がひろがって雨が降り出し、気温がドンドン下がるという、とんでもない悪天になってしまいました。高齢者が多い〝千本桜の会〟ですから、早々の中止は正解だったようです。 

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石仏番外 大高山(埼玉)

2014年04月07日 | 登山

 大高山(おおたかやま) 不動磨崖仏(ふどうまがいぶつ)

 5070 【データ】大高山 493メートル▼国土地理院25000地図・原市場(地図に山名無し。吾野駅の南南東の493標高点▼最寄駅 西武池袋線・吾野駅▼登山口 埼玉県飯能市坂石町分の吾野駅▼石仏 大高山の登山口。地図の赤丸印 

 【独り言】吾野駅から大高山に行くには、駅前の法光寺前にある地下道で西武秩父線をくぐることから始まります。地下道の先は墓地で、左へ墓地に沿って登るのが大高山への道です。右は〝爪書の不動〟で知られた「岩殿観音窟石龕」への道です。その案内に誘われて岩殿観音窟石龕へ登ってみました。
5071 5072 5073 沢沿いの整備された道ですが、この冬の大雪で倒れた木が道を塞いでいました。目的の爪書の不動は〝宝生の滝〟の左手前の岩場に彫られた1メートル近い不動明王。簡単な線で構成された素朴な不動明王でした。飯能市の案内では、
19世紀前半に編纂された「新編武蔵風土記稿」にも記されていることから、それ以前の作、としています。ただこの不動磨崖仏は久しく5074 5075 土砂で埋没していたそうで、これを法光寺のご住職が西武健材吾野鉱業所の協力で発掘したのが昭和52年と、これも飯能市の案内にありました。爪書の不動から少し登ると岩殿観音窟で、すぐ脇が石灰石を採掘している西武健材吾野鉱業所の敷地です。
 法光寺は昭和
15に始まった武蔵野観音霊場の第31番。岩殿観音窟は法光寺の奥の院になっているようです。西武池袋線沿いにある武蔵野観音霊場はここから山に入り、32番天龍寺(子ノ権現)、33番竹寺(八王寺)と続きます。西武秩父線が開通したのは昭和44年。それまでは吾野駅が西武池袋線の終点でした。かつては岩殿観音窟から子ノ権現への道がありましたが、いまは石灰採掘の範囲が広がって、道はありません。戦前の登山ガイドには「時々ハッパの音に驚かされつつ」、「黄柏坂(キワダ坂)に出る」と案内されています。いまは初めに案内した墓地の左側を回り込むように登り出し、尾根に出て東に折れ、途中林道を横切ってその先が大高山です。

 

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石仏507天覚山(埼玉)

2014年04月04日 | 登山

 天覚山(てんかくさん) 手水鉢(ちょうずばち)

5070 【データ】天覚山 445メートル▼国土地理院25000地図・飯能、原市場▼最寄駅 西武池袋線・東吾野駅▼登山口 埼玉県飯能市平戸の東吾野駅▼石仏 天覚山の山頂下、地図の赤丸印。青丸は道標がある種木

5071 50725073 【案内】天覚山へは、東吾野から良く手入れされた登山道が続き、〝天覚山を守る会〟が立てた道標が山頂まで導いてくれる。かつて山頂には両峯神社があって、5月の祭礼には御札も出すほどの盛況ぶりだったといい、天覚山のもう一つの登山口である入間川支流の集落・種木(くさぎ)には「両峯山奥入口」の道標がある(これについては【独り言】で案内)。しかし、その両峯神社はすでになく、今は社殿跡に「両峯神社跡」の小さな石碑=写真右=が立つのみ。石段と境内と思われる平たん地から、かつての神社の規模を偲ぶのみである。石造物としては、種木からの道の藪のなかに手水鉢がある。長さ180センチもある自然石を利用したもので、埋もれていた泥と木の葉をかきだすと、立派な水穴が出てきた。山中にある神社で欠かせないのが手水鉢で、鳥居や狛犬がなくとも手水鉢だけは必ずあるのには驚くが、天覚山両峯神社のそれは、特別大きな手水鉢であった。

 5074 5075 【独り言】天覚山の帰り、飯能に住む日本石仏協会会長の坂口氏を訪ねました。そこに、同会の副会長であり、竹寺の住職である大野氏も来ていただいて天覚山の話になった折、近くの種木に「両峯山奥入口」の道標があるというので、大野氏に案内していただきました。道標の場所は種木集落の橋のたもとで、通りかかった地元の人も加わって天覚山の信仰の話を聞くことができました。この道標は橋の反対側、両峯神社の道の入り口にあったもので、橋の架け替えのときに現在地に移動したそうです。高麗川沿いに西武鉄道が入る以前は、こちらが天覚山の表参道だったようです。5月の祭礼に出した御札の具体的な話にはなりませんでしたが、祭礼の御札の版木は集落のどなたかの家にあるはず、というところで、この日の話はおわりました。寺社が出すさまざまな御札をぬきにして、日本の庶民信仰は語れないようです。

 

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日本の石仏149

2014年04月02日 | 

149 ■発行・日本石仏協会
 〒
357-0067埼玉県飯能市小瀬戸29
 ℡0429716512

 ■発売・青娥書房
 〒
1010051東京都千代田区神田神保町2-1027
 ℡0332642023

2000円+税

 【表紙】玉泉寺の花見道祖神と馬頭・群馬県みなかみ町(中森勝之)

 【写真】▼平穏の願い(山梨県南アルプス市)楳村修治【’14日本石仏写真展より】▼牡丹の花を彫りこんだ狛犬(佐賀県嬉野市塩田町谷所鳥坂の味島神社)中野高通▼桜花に囲まれた聖観音(群馬県みなかみ町下牧の古墳)三代川千恵子▼眼力(熊本県人吉市土手町の永国寺墓地)岡田徳弘

 【巻頭随想】三八回目の総会を終えて(坂口和子)

 【特集】信仰の対象と芸術の源泉としての富士山(日本石仏協会第35回石仏公開講座より)竹谷鞘負

 【論考】▼石碑「禁芸術売買」碑と「芝居興行」の取締‐文書からみた仮名手本忠臣蔵を中心に(加藤和徳)▼法蔵菩薩石仏とその由来文書(尾田武雄)

 【あらかると・私の石仏案内】▼龍の狛犬・東京都あきる野市養沢の養澤神社(町田茂)▼子狐を抱く不動明王他・鳥取県米子市愛宕町の総泉寺(中森勝之)

 【誌上講座】▼石仏入門4 千手・十一面・如意輪・馬頭観音菩薩(門間勇)▼名号塔の知識16 梵字名号塔(岡村庄造)▼石を知る38 神奈川の石(小松光衛)▼石仏写真と私38 石仏からのお土産物が……桑原和位さん(杉本康希)

 【会員の広場】▼印旛・手賀沼周辺の「生首持ち庚申」の詳細・千葉県(石田年子)▼富士山麓の富士塚・静岡県富士市鈴川(井戸寛)▼白塔の観音様・佐賀県太良町の観音崎(中野高通)▼「盃状穴とは何か」謎解きに挑戦(たなかよしゆき)

 【石仏談話室】▼関東甲信地方の石造仁王像(高野幸司)▼日光街道・千住宿周辺の石仏(初田瑞宏)▼水天について(中上敬一)▼石仏・石塔と古文書(門間勇)

 【はがき通信】▼石凝神社は石仏大好き?・千葉県市原市(町田茂)▼これぞ賽の神の原点・静岡県清水町(井戸寛)

 【その他】▼石仏交流▼第100回石仏見学会報告・練馬の庚申板碑と庚申塔(滝沢昌久)▼一泊見学会報告・新潟県長岡市の石仏めぐり(中野高通)▼第38回総会報告(大野邦弘)▼石仏写真展2014報告(中森勝之)▼コラム「牛・大日如来像」・長崎県富江町松尾の妙泉寺(水野英世)

 

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